20世紀はスポーツの世紀であった。素朴な見せ物にすぎなかったオリンピックは巨大なスポーツ・イベントと化し,サッカーのワールド・カップはオリンピックを凌ぐ熱狂に人びとを巻き込んでいる。スポーツの競争原理はますます過剰に機能しはじめ,もはや臨界点に達してしまった。その典型的な例をわたしたちは「ドーピング問題」に見届けることができる。これはしかし,20世紀という時代をとおしてわたしたち人類が到達した,ひとつの歴史的必然であった。
言うならば,ヨーロッパ近代が生み出した素朴なスポーツ文化が,いまや巨大な怪物にまで進化し,わたしたちを逆襲しはじめている。この巨大な怪物は「競争原理」「経済原則」「欲望の論理」を栄養として摂取し,さらには「メディアの論理」をも取り込んで,いまや前代未聞の恐るべき「暴力装置」となって,わたしたちの生身の身体そのものを襲いつづけている。
しかも,この「暴力装置」が,絶大なる権力と結託して,21世紀のスポーツ文化のグローバリゼーションを押し進めている。すなわち,スポーツ文化の一元化の推進である。そのさきに見え隠れしている風景は,コンピューターに管理されたロボット化した人間たちの王国である。そこにはもはや生身の身体をもった人間の生き延びる余地はない。そんなイメージが,ますます現実味を帯びてくる、そんな不気味さのなかを,わたしたちはいま生きている。
スポーツとは,いったい何なのか。一人ひとりの生きる人間にとってスポーツとはなにか。そして,20世紀のスポーツ文化が陥ってしまった隘路とはなにか。そこからの離脱と移動はいかにして可能なのか。いまこそ,人間の存在論からの問いに耐えうる,新しいスポーツ文化の哲学・思想を打ち立てるべき時だ,と考える。 わたしたちは,21世紀のスポーツ情況をこのような危機意識をもって,認識している。そして,そのためのなんらかの応答を為すべく,微力ながら,全力を投じたいと考えている。
以上が,あえて,いま,「21世紀スポーツ文化研究所」を立ち上げんとする,主たる趣旨である。
上記の趣旨を実現するための研究内容は無限である。しかしながら,当面の間は,以下のように考えている。共有したい問題意識は「スポーツと<暴力>」との関係性である。ここでいう<暴力>とは,ソレル,ベンヤミン,バタイユ,デリダ,道元(仏教),西田幾多郎,などの思想とリンクする意味内容である。すなわち,すでに生きて,存在していることそのものが<暴力>なのだ,と。したがって,<暴力>を最小限に押しとどめること,すなわち「<暴力>のエコノミー」(デリダ)をいかにして実現するか,これが大きなテーマとなる。
具体的な研究内容は以下のとおり。
- 広義のスポーツ文化論に関する研究
- スポーツ文化の歴史的研究
- スポーツ文化にかかわる哲学・思想的研究
- スポーツ文化と宗教(あるいは,土着信仰)との関係性に関する研究
- スポーツ文化の地域的特性に関する研究
- スポーツ文化と宗教(あるいは,土着信仰)との関係性に関する研究
- 新しい研究方法の開拓・・・図像資料,文学作品,など研究方法の拡大
- パラダイム・シフトの模索
- その他