ココロとカラダは切り分けられるのか?

 

エンジニア keiichioonishi

 

 私は大学・大学院時代に制御工学、認知心理学、脳科学を横断する研究に携わっていました。そのなかで、人が物を動かしているときに感じている“重さ”や“動かしやすさ”の感覚を、その人の運動から推定するという実験をしました。自動車を模したドライビングシミュレーターを運転中の人の運動制御モデルを構築すると同時に、その時に人が感じている感覚を主観的評価によって同時計測しました。それらの相関性を比較したところ、運動制御モデルの特性と、主観評価結果には有意な関係性が見出されました。これにより、人間の運動を外部から観察することで、客観的にその人の感覚を推定できる可能性があるという結果が得られました。

 

 制御工学の観点から見て、脳にとっては身体やボールと言った脳の外にある環境は、制御すべき対象であるとみなせます。当然脳と身体は直接結合しているものですが、機能という切り口を導入することで、コントローラと制御対象という分類が可能になるのです。この切り口をもってして、運動に関する限りは脳以外の身体や環境を外部環境と総称しています。

 何かモノを操作している人の感覚を計算で推定できるなんて、そんなことできるのか?と言われそうですが、ここでキーポイントになってくるのが、ココロとカラダは二つで一つだという考え方です。

 

 例えばあなたがボールを投げようとするとき、あなたが考えることを挙げてみましょう。投げるボールの大きさ、重さ、自分の体の姿勢、どこに向かって投げるのか、投げる途中に障害物は無いか、誰かに当てやしないか、などなど、身の回りの環境を認知すると思います。この時点で外部環境は主に小脳内で、認知された世界、つまりモデルになっています。カラダは、実は制御されるべき実体のある身体と、小脳内にある認知された身体のモデルの二つとして存在することになるのです。人間は、この小脳で構築されたモデルを用いて、感覚の認知や自身の行動計画を立てることが明らかにされています。
 私の実験で言えば、ココロの世界に取り込まれた車の動特性や自身の身体状態、周辺環境といった外部環境モデルが構築されると同時にそのモデルに対する感覚、次に自分が取るべき行動が想起されます。それが、一つは言葉として感覚が口から発され、一つは車を運転するという目的達成の為に身体運動が発現するのです。そう考えると、発現した身体運動からその時の感覚を推定する、ということはなんとなく可能なんじゃないかという気になってきます。外部環境のモデルとそれに対する感覚、次の行動計画が小脳と言う一つの器官を経ており、その一つの泉から、二つの支流が身体運動として出てきているようなものだからです。

 ココロとカラダは二つ、と書きましたが、上述したようにカラダには二種類あり、モデル化された身体は、脳内でココロと融合した存在として存在しているのです。この手法を使えば、人の感情を理解するロボットやゲーム、車などを開発できる可能性が生じてきます。
 そもそも人間は何故、外部環境の認知をする必要があるのでしょうか?それは、自分の体の外にある対象と、相互作用を与え合う環境の中で私たちが生きているからです。そして、何故自身の体のモデルを脳内に作る必要があるのでしょうか?それは、相互作用に順応、適応し、生きるためです。なんらかの刺激を外部から受け続ける私達は、俊敏に対応するためには器用でなきゃ危険がおよぶ。モデルがあれば、外部環境の変化を予測することができ、スムーズな行動がとれるのです。スポーツをする時も、チームメイトや相手チームの特徴、コート上で起こっていることを知ったうえで、また、チームメイトのくせや動きを予測しながら次のプレーに移ります。相手を知ったうえで、自分の行動を決める。相手を予測して、自分の行動を決める。これが重要なプロセスなのです。そのために、外部環境は脳内でモデルとして存在し、ココロと同居しているのです。人のココロとカラダは、部分的に溶け合い、繋がった一つの存在だと考えています。

 

 kappacoolazy
 この研究の評価というのは非常に高かったと聞いているんだけど、ココロとカラダは取りあえず分かれていて、しかしそれが相互関係として溶け合っていると読めるんだにぉ、、、それでいいんだにか?

 

 keiichioonishi

 ココロとカラダは、分かれているものと、一体になっているものの二つがあります。分かれているのは、ココロと物理的な実体のあるカラダ。一体となっているのは、ココロと脳内に構築されたカラダです。感覚器官から得た物理的身体情報は電気信号として脳に送られてきますが、同時に脳内に既に構築されている身体モデルが、自身の運動を発現されるよりも早く、“感覚器官から受け取るであろう物理的身体情報”をシミュレーション(予測)し、電気信号を発生、感覚を発現させています。実際には触られていないのに、脇をくすぐられそうになるとなんだかこそばゆい気持ちになることはあると思います。まさにあれが、脳内で予測が行われている瞬間です。物理的身体から切り離されたところで、もう一つの身体が脳内に存在しているのです。そちらについて言えば、ココロとカラダが一体になっていると考えています。拡張して言うと、ココロと外部環境は、脳内では一体とも言えます。  

 

 kappacoolazy
 高い評価というのは、それまでの研究との比較の上でどういったところが評価されたんだにか?

 

 keiichioonishi

 これまでは、人間の運動制御理論、認知心理学とそれぞれが独自の分野で発展を遂げてきました。人間の運動制御理論は、感覚には取り組んでこなかった。認知心理学は、入出力関係の相関性を見てきたが、動的システムを対象とはしてこなかった。そこで今回私が取り組んだ新しい点としては、既存研究を土台に、人間の運動制御システムと感覚に結びつきを見出し、実際に感覚推定を試みたことが新しい点でした。しかも、人間の運動制御システムモデルにおける入力に対する出力倍率に当たる指標が、“重い”という感覚と強い相関を持っていることが示され、人間の制御システムと一般的な機械の制御システムに、一種のアナロジーがあることが示唆された点も新しいものでした。

 

 

 kappacoolazy

 経験によって熟練度が上がっている運動に限られるようにも思うんだに・・・実際の研究の過程ではその辺りをどのように扱ったんだにか?

 

 keiichioonishi
研究過程では習熟した状態で実験を行いました。やはり学習曲線を描く習熟は見られましたので、被験者毎のばらつきを最小化するためのコントロールは必要でした。また、感覚を評価するためには必ず比較対象が必要です。刺激が一種類しかなければ、重いとも軽いとも判断できないからです。操作系を徐々に変化させ、いくつもの習熟状態を作り出すことで人の運動制御モデルを幾種類も蓄積し、マッピングをしています。

ただ、熟練度が上がっていかなくても、感覚の推定は可能だと考えられます。上述したとおり、人間は既に構築された外部環境モデルを脳内に持っており、未知の操作系が来た際は、これまで操作したことがある何らかのモデルとの類似性を見出しながら、予測⇒実際の感覚⇒修正⇒予測⇒・・のサイクルを繰り返していきます。学習初期の運動エラーは逆にいえば、実際の重さよりも“軽くみていた”“重く見ていた”ということを示していますので、それを使って算出することは可能だと考えます。

 

 kappacoolazy

 オートポイエーシスについてはどのように考えるんだにか?

 

 

 keiichioonishi
 オートポイエーシスについては、運動制御という観点では、入力と出力を持たないという点で不適合だと考えます。

 学習を例に取ってみましょう。人間がなんらかの動作に習熟するためには、自身の意図に対して実際の運動の結果をフィードバックとして受けて、その誤差を修正するよう小脳内の運動モデルを改良していきます。ここでは明確に入力としての運動指令信号、出力としての身体運動、フィードバック信号としての感覚情報が存在し、この3情報を使って習熟を行っていることが脳科学の分野では既知の事実として知られています。また、これは制御工学的にも合理的なシステムとして考えられており、そのアナロジーは必然か偶然か、神秘的なものを感じます。システムが変容し続けていく人間にとっては、円環的と言うよりも、多方面に伸びたシナプスからあまたの入出力を受けとっている、といったほうが理解しやすいと考えています。

 

 kappacoolazy

 この研究・実験を通して、不思議に思ったこととか、不可解に感じたこととかなかっただにか? 例えば・・・実験ということだから、ある一定の枠組み、設定(前提)の中で行われていることだと思うんだによ、その設定(例えば測定していること)以外に、何か別の力が存在すると思われる事例とかだに・・・。

 

 keiichioonishi

 不可解なことがあったかと言われると、超常現象をイメージしてしまいますね(笑)別の力とは特に感じませんでしたが、人の随意行動はどうやって起こるのか、に興味を持っていました。今回の実験条件の設定で言えば、「ドライビングシミュレーターを使って、画面のマーカーを追従するように運転して下さい」と外部から達成目標が与えられています。しかし、「今日はでかけよう」であったり、「スポーツをしたい」だったり、日々の生活は内発的なモチベーションに溢れています。既存の制御工学では、あくまで達成目標に対する達成率が問題となってくるので、内発的なモチベーションは別の研究分野での研究が必要になります。モチベーションは何に想起されるのか?には今も強く興味を持っています。

 

 kappacoolazy
 この研究の続きができるなら、どういうことに取り組みたいんだに?

例えば、「火事場のクソ力」「武者ぶるい」とか・・・笑、泥酔状態の運動とか・・・笑、スポーツの世界でよく言われる「ゾーン」の領域とか・・・。

 

 keiichioonishi
 この続きが出来るならば、心を読むロボットを作りたいです。
ロボット「あ、おかえりなさい」
私「ただいまー(ちょっと暗い顔をしている。背中も曲がって視線も少し落ちている。)」
ロボット「(なんか元気ないな)」
私「はぁ。」
ロボット「(あ、やっぱり。。。)何か温かいものでも飲みますか?」
私「あぁ、ありがとう。ホットミルクがいいな。」
ロボット「分かりました。はちみつも入れておきますね。今日はゆっくり休んでください。」
みたいな。
私の究極の機械のイメージは、「人馬一体」です。互いの呼吸を合わせながら、お互いの意図を暗に汲みながら、声を交わさなくても伝わる。そんな乗り物や道具が出来たら、人間と機械の付き合い方は一つ次元が変わると思います。そうゆうことをやってみたいですね。〆

Email : keiichioonishi@gmail.com
Facebook : Keiichi Oonishi

Twitter : @Keiichioonishi

 

 

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