Diary


2010-05-01 「人間の魂の生にかかわる欲求」について

_ シモーヌ・ヴェイユ著『根をもつこと』上(富原真弓訳,岩波文庫)がでて,すぐに購入したが,なかなか読めないでいた。

4月末締め切りの原稿(じつは,3月末締め切りだったものを一カ月延ばしてもらった)が,すぐに書けそうでなかなか書けないまま,とうとう5月に突入してしまった。エーイ,こうなったら連休中になんとかすればいいんだろう,などと粋がって,とうとう禁断の木の実に手を出してしまった。そう,このヴェイユの本に手を出してしまったというわけ。

『根をもつこと』というタイトルにまずは惹かれたのであるが,いったいどこに「根」をもつことをヴェイユは考えていたのだろうか。こんなことを考えながらページをめくってみる。目次をみると以下のようになっている。

第一部 魂の欲求

秩序,自由,服従,責任,平等,序列,名誉,刑罰,言論の自由,安寧,危険,私有財産,共有財産,真理

第二部 根こぎ

労働者の根こぎ

農民の根こぎ

根こぎと国民

訳註

とあり,以下,下巻として

第三部 根づき

訳註

訳者解説

とある。で,早速,第一部から読みはじめる。冒頭の文章から,すでに圧倒されてしまう。この人はいったいなにを考えているのだろうか。

「義務の観念は権利の観念に先立つ。権利の観念は義務の観念に従属し,これに依拠する。ひとつの権利はそれじたいとして有効なのではなく,もっぱらこれに呼応する義務によってのみ有効となる。権利に実効性があるかないかは,権利を有する当人ではなく,その人間になんらかの義務を負うことを認める他の人びとが決める。しかるに義務は承認と同時に有効となる。たとえだれからも承認されずとも,その十全性はいささかも失われない。だが,だれにも承認されない権利などなにほどのものでもない。」

以下,義務と権利に関するヴェイユ独特の思考が展開していく。わたしは冒頭からつまずいてしまった。これまで,ずっと長い間,権利があるから義務が生ずるのだ,と考えてきた。しかし,ヴェイユに言わせれば,まったくの逆だ。いきなり,「義務の観念は権利の観念に先立つ」ときた。これでいきなりカウンター・ブローをくらってしまった。目眩がした。つづいて「権利の観念は義務の観念に従属し,これに依拠する」ときた。「先立つ」というのなら,そうとしよう,という気持ちでつぎを読んだら,こんどは「従属し,これに依拠する」ときた。これはただごとではない。義務の観念なしには権利の観念はないばかりか,それに従属し,依拠するというのである。さあて,困ったと思いながら,つぎを読んでいくと少しずつその疑問が解けてくる。

義務はだれからも承認されなくとも,自分が承認すれば,その時点で有効となる。しかし,権利は,それを有する当人が決めるのではなく,「その人間になんらかの義務を負うことを認める他の人びとが決める」という。なるほど,これでようやく義務と権利の主従関係が明確になってくる。

途中,少しとばして,つぎに行ってみよう。

「権利の観念は事象的次元に属するので,外在性および現実性の観念と切りはなせない。義務が事象の領域におりてきたとき,権利の観念は現れる。よって権利の観念には,つねにある程度まで事象の詳細と個別の状況をめぐる考慮が含まれる。諸権利は,つねに一定の条件とむすびついて現れる。ひとり義務のみが無条件たりうる。義務はあらゆる条件をこえた領域に位置する。この世をこえたところにあるからである。」

義務はこの世をこえたところにある,と断言し,この義務が事象の領域におりてきたとき,はじめて権利の観念が現れる,と説く。このあたりから少しずつヴェイユのいうことが抵抗なく入りはじめる。そして,1789年のフランス革命に従事した人びとは,義務の領域を認めず,権利の領域しか認めなかったといい,だから,かれらは権利の観念から出発したのだとし,そこから昨今の政治的・社会的な混乱が生まれたのだ,と指摘する。

その上で,ヴェイユは「義務の観念は人間の魂のもっともひそやかな部分とむすびつく」と述べ,それは「人間の魂の生にかかわる欲求」であることを明らかにしていく。そして,この領域を「永遠で普遍的で無条件なものの領域」と位置づけ,義務の観念はここにむすびつくのだ,という。

もう少し具体的に述べているところを参照すると,以下のとおりである。

「自分に救う手立てがあるときに,だれかを飢えの苦しみのうちに放置しない。これが人間にたいする永遠なる義務のひとつである。この義務はもっとも自明なものなので,人間にたいする永遠なる義務の一覧表を作成するさいにこれを原型とすべきである。」

ここまできたときに,はっと気づく。そう,例の西谷発言である。「自然」に立脚しない「理性」は「狂気」としてしかありえない,というもの。「飢えの苦しみを放置」したままの,合理的・科学的「理性」のはたらきは,もはや「狂気」としかいいようがない。義務の観念はこの「人間の魂の生にかかわる欲求」とむすびつくところからはじまる。だから,「永遠で普遍的で無条件なるもの」だとヴェイユは主張する。ここまでくると,もはや,権利の観念がいかに世俗の事象の領域に従属しているかということが,すんなりと理解できる。

このようにして,ヴェイユは目次にあげたような項目を一つずつとりあげて,「魂の欲求」について議論を深めていく。そして,フランス革命のときに犯した誤りを質すには,義務の観念から説き起こすしかないのだ,という。なぜか,とても納得してしまって,さあ,これからどうしよう,と頭を抱え込んでしまう。それはともかくとして,もうしばらく(下巻もふくめて)シモーヌ・ヴェイユとお付き合いしながら考えていくことにしよう。

こんなことに気を奪われているから,原稿の締め切りが守れなくなってしまうのだ,とみずからを叱正しつつ・・・・。

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2010-05-02 ハナミズキの花が真っ盛り

_ 鷺沼の事務所に行く道を,ちょっと大回りして住宅街のなかを抜けていくと,きれいな草花や植木に見とれることがある。

鷺沼の高台にあるこのあたりの家はなかなか立派な家が多く,構えだけではなく,家の周辺にきれいな草花が植えてあって,季節ごとにきれいな花を咲かせて,通りがかる人の眼を楽しませてくれる。いまは,松葉ボタンが満開。どの家にも一株くらいは植えてあって,それぞれに楽しませてくれる。なかには,庭の外縁にびっしり植えてある家もあって,なかなかみごとなものである。只で楽しませてくれるので,一言,お礼が言いたくなる。

このあたりは植木屋さんが多く,植木屋さんめぐりコース,などというパンフレットが駅に置いてある。一度,これを手に巡り歩いてみようか,と以前からねらっているが,なかなか気持ちの上で余裕がない。はやく,そういう状態に持ち込んでみたいと,つねづね思っている。

この間,親しい友人と用事があってこの界隈を歩くことがあり,たまたま白いハナミズキの植え込みのある家の前をとおりすぎた。ちょうど,真っ青な空に白いハナミズキが浮き上がっていて,とてもきれいだった。わたしは,ハナミズキには白とピンクがあるが,白い方が好きだ,と言った。そうしたら,間髪を入れず,いや,おれはピンクの方が好きだ,と言われてしまった。その応答の速さに驚いた。が,まあ,これは好き好きだから・・・とやりすごすことにした。なぜなら,これまでわたしがみてきたピンクのハナミズキで,きれいだなぁ,と思ったことがなかったからだ。

ところが,今日,天気がよかったので,いつもとは違う住宅街の道を歩いて事務所に向かった。その途中に,それはそれはみごとなピンクのハナミズキに出会ったのである。木そのものも大きくて立派なら,どうすればこんなにたくさんの花を咲かすことができるのか,と思われるほどびっしりと花がついているのである。思わず立ちどまってしまった。しばらく眺めていたら,近所の高齢のご婦人が犬の散歩をさせながら歩いてきて,「みごとですよねぇ」と声をかけてくれた。わたしも思わず「こんなにきれいなピンクのハナミズキは初めてです」と答えていた。たった,それだけの会話だったが,そこはかとなく嬉しくなった。

考えてみれば,ここしばらくの間(ということは,ここ数年の間)こういう会話をしたことがない。みんな,ひとりひとりになってしまって,他人のことなど眼中にないという人が増えてしまったからだ。と言っているわたし自身も,こちらから声をかけるということを,いつのまにかしなくなっている。もう少し自然に声がかけられるようにならなくては・・・と反省。

ハナミズキは神奈川県の県花だと,くだんの友人が教えてくれた。わたしは初耳だったので,ああ,そうなんだ,と応じ,そのせいか,このあたりではハナミズキをあちこちで見かけるよ,と答える。しかも,そのほとんどは白のハナミズキだ。なにか理由でもあるのだろうか,と余分なことを考えたりしている。

ことしの若葉は例年になくきれいにみえる。久し振りに晴天がつづくからだろうか,木の葉も喜んでいるかのようにキラキラと輝いてみえる。こんな風にみえることも,なんだか嬉しい。わたしの気持ちが落ち着いているからだろうか。それとも年齢のせいか。

いやいや,そんなことはない。一カ月延期してもらった原稿がまだ完成しない。あと少しというところにきて足踏みをしている。なにか言うべきことが言えないで,自分でいらいらしている。日頃の勉強不足がこんなところで顔をだし,原稿の邪魔をする。いっそのことなにも知らなければいいのだが,中途半端な知識をもってしまったがために,書きたいけれども自信がない,ただ,それだけ。こんな贅沢な悩み事を抱え込んでいるくらいが,精神衛生上はかえっていいのかもしれない。わたしのこころのなかのちょっとした迷いが,自然の草花に吸い取られて,なおかつ,そんなことは忘れなさいと言わぬばかりに,キラキラと輝いて跳ね返ってくる。と,ここまで書いてきたら,それはちょっと違うよなぁ,ともうひとりのわたし。なにかうまく表現できないのだが,ちょっとした悩みがあった方が自然を美しくみることができるのかな,と思った次第。

これからは季節もよくなってくるので,鷺沼の植木屋さんコースを,ぜひ,一度歩いてみたいと思う。でも,連休中も原稿と,日本記号学会のプレゼンの準備に追われる。これが終わったら,ご褒美ということで・・・・。

蛇足ながら,阪神タイガースが巨人に3連勝して,ついに首位に立つ。こんなことがあっていいのだろうか,とわが眼を疑う。金本君の勇気ある出場辞退が,チームのカンフル剤として効果を発揮しているということか。それにしても,いまのチーム状態はとてもいい。つねに,相手チームに打ち勝っている。打撃戦に持ち込んで,後半でひっくり返している。これは阪神が優勝するときの勝ちパターンである。ことしこそいけるかも・・・。でも,あまり期待してしまうと,後半,駄目になってしまうこともあるので,半分だけ期待することにしよう。これも余裕がなければできないこと。大いに楽しむことに。

この勢いに乗って,5月の前半を乗り切ろう。

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2010-05-03 『根をもつこと』(ヴェイユ)に救われる。

_ 締め切りの過ぎた原稿をかかえて大変なのに,横道にそれてシモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』(岩波文庫)に手を出したら,意外な救いの神が現れた。

数日前のブログにこの本のことは書いた。そして,こんな本を読んでいる場合ではないとも。しかし,しかし,である。この本を読んだお蔭で,いま書いている原稿の「落しどころ」がみえてきたのである。神さまはまだお見捨てにはなられなかった,と感謝。

いま書いている原稿は,伝統スポーツの存在理由を問う,というもの。このグローバル化の時代に,伝統スポーツが存在する理由はなにかと問い,その答えを探ってみようというわけである。最近,このブログでも,その草稿の一部になることがらは書いてきたので,ずっと読んでくださる方には,ああ,あのことだな,とピンとくるのではないかと思う。そう,「ヒトが人間になる」ことをみぐる一連の論考である。ジョルジュ・バタイユに導かれながら,わたしなりの仮説をいくつか提示もしてみた。そのあたりのことを手短に書くという荒行を終えて,さて,いよいよ最後の落しどころを・・・と考えたときに,いかにも月並みな決まり文句しか思い浮かばず,困りはてていた。

ドン詰まったときには異質の刺激を脳に与えよ,とだれかが言っていたことを思い出し,買い込んであった『根をもつこと』に手を出した。これが予想外に面白くて,こんなに面白くては困るなぁ,と思いながらとうとう最後まで読んでしまった。しかも,下巻がまだ刊行されていないので,早く,その下巻が読みたくて仕方がない。で,ぼんやりと,下巻ではどんな展開になるのだろうなぁ,と考えるともなく考えていた,ちょうどそのときである。天啓が降りたのである。ほんとうに不意をつくかのように,背中からドスンときた。

一度に,なにもかもが一つにつながってしまったのである。ああ,そういうことであったか,と。気がついてみれば,きわめて単純なこと。気がつかないかぎりは,きわめて難解そのもの。

シモーヌ・ヴェイユが言うところの「人間の魂の生にかかわる欲求」とは,そのまま伝統スポーツの核心そのものではないか,と。バタイユが,儀礼や供犠や消尽について語ることも,これもそのまま伝統スポーツの核心そのものではないか,と。おまけに,「自然」の要請に応答する「理性」の探求もまた,伝統スポーツの核心そのものではないか,と。

あとは,このことをどれだけわかりやすく「結論」として書けばいいのか,というだけの話。ここまできたら急に気が楽になり,こんどはまた別の本に手を出す。いつもの悪いクセ。追い詰められて,どうにもならないときに限って,まったく関係のない本に手を出す。しかも,決まって面白い。だから困る。

精神が昂揚していて,ある興奮状態というか,不思議なハイテンションのなかにどっぷりと浸かっていると,どんな本を読んでも面白いらしい。だからいけないのであるが・・・。でも,今回のシモーヌ・ヴェイユのようなこともある。いま,また,手を出している本も,ひょっとしたら『根をもつこと』と同じように,神様のお導きなのかもしれない。

天は助くる者を助く,というではないか。まあ,やるべきことをやってあとは天命を待つくらいの気分でいれば,恐いものはない・・・とこれは自分を慰める口上。でも,明日には決着をつけよう。そうしないとあとがつかえている。つぎは「判定」について考えること。こちらは面白そう。

というあたりで,今夜はおしまい。

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2010-05-06 世界認識は「イリュージョン」である(日高敏隆)。

_ ある必要があって,日高敏隆さんの『動物と人間の世界認識』イリュージョンなしには世界はみえない(ちくま学芸文庫)を読み直してみた。

本というものは不思議である。いい本は,そのときそのときの必要に応じて,何回も読み返すことになる。そして,そのつど,「えっ,こんなことが書いてあったんだ」という新しい発見がある。読む側のレシーバーの感度に応じて,伝わってくる情報の質も量も違う。これもまた,日高さんが主張される「イリュージョン」なのであろう。同じ本を同じ人が読んでも,少し時間がずれると,伝わってくる情報が異なるのだから。そのとき,そのときの「イリュージョン」として受け止めているにすぎない,ということがよくわかる。

イリュージョンというと,なんだか手品,奇術,魔術などの錯覚,幻覚などしか思い浮かばないので,まやかしもののイメージが強い。しかし,人間が生きるという営みは,みんな自分の納得のいく「思い込み」にもとづいているのだから,それは日高さんの仰る「イリュージョン」そのものでしかない。

「イリュージョンということばには幻覚,幻影,幻想,錯覚などいろいろな意味あいがあるが,それらすべてを含みうる可能性を持ち,さらに世界を認知し構築する手だてともなるという意味も含めて,イリュージョンという片仮名語を使うことにしたい」と日高さんは述べている。

その上で,動物行動学者の眼からみた動物たちの世界認識の仕方を,それぞれの種や類に応じて,明らかにしてくれる。冒頭に,あの有名なユクスキュルの『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳)のなかにある「ダニ」の話が引かれていて,この話は何回読んでも感動する。

かんたんに紹介するとこうだ。ダニは卵から孵ると木に登り,その下を通る動物を待つ。動物の発する酪酸の匂いに反応して木から落ちて,その動物にとりつく。そして,血を吸って卵をつくり,子孫を残す。このダニにとって「世界」とはなにか,とユクスキュルは考える。ダニには眼がないので,全身にそなわる光感覚で,動物にとりつきやすい木の枝の位置をきめる。あとは,匂いと温度と触覚だけを頼りにして,動物を待つ。これが,このダニにとっての「世界」(「環世界」=Umwelt)であり,「世界認識」の方法なのだ,という(いささか省略しすぎたので,矛盾を残しているがお許しを。あとはテクストで補ってください)。

人間も基本的には同じだ,と日高さんは仰る。ただ,感覚器官がいくらか多いだけのことだ,と。しかも,その感覚器官も,人間と犬や猫とでは,感知できる光の波長も音の波長も異なるので,同じ景色をみていても,まったく別のものをみているのだ,という。そして,同じ人間同士でも,「こころここにあらざれば見れども見えず」というように,そのときのこころの持ちようや関心のもちようによって,同じ景色がまったく別のものにみえている,という。だから,一人ひとり,みんな,それぞれの「イリュージョン」のなかで暮らしているのだ,と。

ここまで書いたところで,電話が入り,大急ぎででかけなくてはならない用事ができてしまった。当初の予定としては・・・・,これも書いている時間がないので,暴力的に中止。お許しのほどを。

できれば,明日にでも,このつづきを。

ではまた,お元気で。

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2010-05-07 世界認識は「イリュージョン」である・その2.

_ 昨日の未完成ブログ(いつものことではあるが)を,もう一踏ん張りして,なんとか完結できるように努力することにしよう。

ユクスキュルのいうダニの環世界(Umwelt)の話は,きわめて単純な条件で構成されているということまでは書いたつもり。この話につづけて,チョウ(アゲハ),カブトムシ,イヌ,ネコ,などの環世界がどのような構造になっているのかを,わたしなどにもわかりやすく日高さんは解説してくれる。そして,それぞれがまったく別世界を認識しているのだということがわかる。それは,世界を認識するための感覚器官がそれぞれに異なるために起こる,当たり前の話ではある。そこで,問題なのは人間である。

動物行動学者の日高さんからみれば,人間も他の動物たちと,基本的にはまったく同じだという。ただ,異なるのは,人間には「概念」をもちいて世界認識を拡大していくことができる点だという。たとえば,物理学とか天文学といった学問の成果を学ぶことによって,日常の世界とはことなる抽象的な概念として,世界を認識することができるようになる。地球は自転しながら太陽のまわりを回っている,ということもこんにちのわたしたちは常識としてだれでも認識している。しかし,ガリレオが「それでも地球は回っている」と言いはじめるまでは,だれも地球が動いているとは考えていなかった。そういう世界観のもとで生きていた。しかし,いまでは,月ロケットを飛ばして,人間が行ったり来たりしていることを,子どもでも知っている。そして,少しずつ「月世界」の知識も増えていく。こうして,人間は,他の動物とは異なる世界認識の方法をわがものとし,日々に新たな世界を拡大し,認識しているのだ。

それでもなお,人間が認識できる世界は,自然界の発している情報の全体(光,音,匂い,味,など)のある一部を切り取って,納得しているにすぎないのだ,という。だから,人間の世界認識もまたイリュージョンにすぎない,と日高さんはおっしゃる。だから,どこまで行っても人間は,人間をとりまく環世界の範囲から抜け出すことは不可能なのだ,と。同じ地球の上に棲息している生物であっても,それぞれの種によって,まったく違う景色を眺めているいうわけだ。

そこで,もう一歩,踏み込んでみよう。日高さんは,人間だけが「概念」を用いて世界認識を拡大することが可能となった,とおっしゃる。それはそのとおりだろう。問題は,その「概念」をどこまで理解するかとなると,これまた個人差がでてくる。天文学に関する最新の研究成果がどのようなものであるのかということについては,わたしたち一般の人間にはわからない。専門家の間でも見解の相違があったり,理解度の誤差があったりして,世界認識には「差」がでてくることになろう。

たとえば,地動説のように,のちに常識になるような大発見にしても,その結論についてはわかったつもりになれても,地動説がどのようにして証明されたのか,その理論を説明するとなると,これはまた別の問題である。そして,その理解の仕方のレベルに応じて,世界認識も違ってくるだろう。そうなると,ここでも客観的事実としての世界認識というものは存在しえず,やはり,一人ひとりがイリュージョンを抱いているにすぎないということになってくる。

もっと進めて,新聞紙上を賑わすニュースにしても,あるだれかの眼をとおして見えたもの,聞き知ったことがらを「切り取って」きて記事を書いているわけなので,ここにも客観的事実の不在という問題がある。そのニュースを聞いて衝撃を受けるひと,知識として理解するだけのひと,記憶にもとどめないひと,聞こえてもいないひと,さまざまである。こういうことが蓄積されていって,それぞれの人間の個性なり生き方というものが決まってくる。そこには大きな,大きな「個人差」が生まれてくる。

沖縄の普天間問題についても同じだ。この問題にどのように対処するか,いま,日本人のひとりひとりが問われる,きわめて重要な局面を迎えている。にもかかわらず,わたしたちの日常会話のなかで「普天間問題」と投げかけるだけで,不思議な雰囲気が流れる。なにか自分たちとは関係ないとでもいうかのように,ハトヤマ君は可笑しいよ,という一点に集中する。これもまた,普天間認識のレベルの差であり,つまりは,世界認識の違いなのである。だからといって,だれを責めることもできないはずである。ましてや,お前は間違っているとは言えない。だって,みんなイリュージョンなんだから。

ここで終わったら叱られるだろう。ここからさきは覚悟して書くことにしよう。みんなイリュージョンをみているのだからこそ,そのイリュージョンには「タネ」も「シカケ」もある,ということを承知すべきだ。かりに手品にしても,マジックにしても,みている人にイリュージョンを抱かせるための「タネ」も「シカケ」もある。その「タネ」や「シカケ」を知るにはそんなに容易なことではない。手品やマジックであれば,弟子入りするのが手っとり早い。あるいは,その手の本をかき集めてきて,読解しなくてはなるまい。普天間問題も同じだ。やはり,その裏に隠されている「タネ」も「シカケ」も見破るためには,相当の努力が必要だ。この努力を放棄して(わが身に火の粉がかぶってこない,という前提で),他人事で済ませようとする「自己中心主義」こそが,いま問われている。その結果が,ついには「自発的隷従」というところに行き着いてしまったら,もう,取り返しがつかなくなってしまう。

せっかく概念を用いて世界認識を拡大する能力を身につけた唯一の生物なのだから,その特権を活かさないという手はない。いまこそ,「日本人」(あまり使いたくないことばではあるが)として,人間の生存にかかわる「理性」をはたらかせるべきときではないのか。

そのために,まずは,できることから始めよう。

なにか,妙なところに行き着いてしまった。まあ,こういうこともあるか。

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2010-05-10 日本記号学会第30回大会をなんとか通過。

_ 5月8日(土)9日(日),日本記号学会が神戸大学で開催され,初めて参加するという緊張の二日間を過ごしてきた。久しぶりの密度の濃い時間であった。

まず,最初に謝っておかなくてはいけないことがある。わたしはなにを勘違いしたのか,昨日の帰りの新幹線に乗るまで,ずっと「日本記号論学会」だと思い込んでいた。これは間違いで「日本記号学会」が正しい。なぜ,こんな間違いを犯したのだろうか,と反省。

少しだけいいわけをさせていただくと,以下のとおりである。前川さん(今回の大会事務局長)から大会案内のリーフレットがとどいたときに,わたしが勝手な解釈をして間違った認識をしてしまったことに淵源がある。いただいたリーフレットには中央上段に大きく「SEMIOTICS OF JUDGEMENT」とあり,さらに最上段に小さく「THE JAPANEASE ASSOCIATION FOR SEMIOTIC STUDIES ANNUAL MEETING,KOBE,MAY,2010」とあった。それが眼にとびこんできたときに,ああ,なるほど,「SEMIOTIC」の学会なんだ,とわたしの頭のなかにつよく刻印されたのだ。ちょうど,山口昌男さんや言語学の専門家の人たちを中心に,「記号論」とか「記号学」ということばがさかんに話題になりはじめたころに,どなたかの本のなかに,「記号論」とは「SEMIOTIC」のことであり,「記号学」とは「SEMIOLOGY」のことを意味するという記述があって,それがインプットされていた。そのまま,わたしの頭は「思考停止」してのだ。だから,このリーフレットをいただいたときに,「SEMIOTICS OF JUDGEMENT」に惹きつけられ,上段の学会の英文表記をみて,なるほど,といともかんたんに納得をしてしまった。しかし,帰りの新幹線のなかで,もう一度,学会期間中のいろいろのことを思い浮かべながら,このリーフレットを眺めていたとき,「あっ」と思わず声をあげてしまった。下段の冒頭に「日本記号学会第30回大会」とはっきりと書いてあるではないか。「しまった」と冷や汗が流れる。セッション・3のなかで,わたしは明らかに意識して「日本記号論学会」と数回,発言しているのだ。固有名詞を間違えてはいけない,とつねづね心がけていたから,これはわたしにとっては大失態である。吉岡会長さんをはじめ,会員のみなさんに,こんなブログの場で失礼ながら,こころからお侘びしたいとおもう。以後,気をつけますので,お許しのほどを。

さて,初めての体験というものは何歳になっても強烈である。思想,哲学,美学,芸術学,言語学,表象文化論,などの専門家が集まる,言ってみれば,かなり領域横断的な学会だということは聞いていたので,いくらか気は楽だった。でも,セッション・1,セッション・2の議論を聞いていて,ああ,この人たちの思考回路はわたしなどとはまったく次元の違うところで活発にはたらいているのだ,と妙なことに感心してしまった。その意味ではとてもいい勉強になった。やはり,もっと広い世界にとびだして行って,できるだけ異質の刺激を頂戴することが大事だ,と。これから,遅まきながら,努力したいとおもう。

さて,前置きばかりが長くなってしまったが,この学会での印象の一部を紹介しておこう。

セッション・1。揺れる法廷?─裁判員制度における<判定>。

ここでの議論のなかで,わたしの頭につよく残ったことばがある。それは「健全なる常識」。これほど使い勝手がよくて,しかも実態不明なことばもない。しかし,裁判員制度を立ち上げるときのキー・ワードの一つとして,このことばが大きな役割をした,という。一瞬,なるほどとおもう。しかし,つぎの瞬間には,なんのことだろうとおもう。そして,すぐに「健全なる身体に健全なる精神が宿る」ということばがわたしの頭のなかをかけめぐる。そして,そのつぎには「横綱の品格」ということば。いずれも単純明快にして内容不明。大衆操作のためのことばとしては,まことに都合のいいことば。しかし,これほど危険なことばもない。とりわけ,「健全」とはなにか。だれにとっての「健全」なのか。なんのための「健全」なのか。なにをもって「健全」と確定することができるのか。これとまったく同じレベルに「健康」ということばがある。むかしから,「健康ブーム」が起きる時代はきわめて危険な時代である,といわれてきた。その謂いにならえば,いまは,きわめて危険な時代なのである。しかし,そのことにほとんどの人が気づいていない。

もう一つのことば。「思考停止」。このことばは「ちらっ」とでてきただけで,ほとんど深まることはなかったのが残念。つまり,このことばは,さきほどの「健全なる常識」や「健全なる身体」「健全なる精神」と同様,そして,「健康」とおなじで,「思考停止」がすべての根源にあるかぎり,なにも進展はない,ということだ。疑問もなにももたなくなってしまった人間が多くなり,いまや「自発的隷従」(西谷)であることに安穏としている社会・・・これがある戦略によって到達した社会だという分析もある。それが事実だとしたら,まことに恐ろしいことだ。でも,なんとなくありそうに思えるからなおのこと恐ろしい。

セッション・2。判定の思想─<最後の審判>から生命の判定まで。

この魅力的なテーマに,わたしは大いに期待していた。しかし,残念なことに,あの機関銃のような速さでとびだしてくる難解な哲学用語を多用するトークに圧倒されてしまった。この人たちの頭のなかはどうなっているのだろうか,と。アガンベン,フーコー,スピノザ,ベンヤミン,ドゥルーズ,シュミット,といった著名な哲学者の名前がごく当たり前のように飛び交い,とても崇高な議論が展開されているように感じた。まことに残念ながら「感じた」だけなのだ。そのなかで,唯一,わたしの頭が激しく反応したのは,アガンベンの「無為」ということば。わたし自身が,アガンベンの「無為」とはなにか,ということばにあるこだわりをもっていたからだ。かなり以前から,アガンベンの「無為」と,老子のいう「無為自然」と,道元のいう「無為」と,西田幾多郎のいう「無為」,そして木田元・竹内敏晴の「待つ,しかないか」の連鎖が気になっていた。だから,なおのことアガンベンの「無為」が,お二人の議論のなかで頻繁にとびだしてきたので,どのような位置づけになっいるのか知りたいところではあった。しかし,なにせ,高いテンションで猛烈な速さで難解なことばが駆けめぐる議論。わたしは残念ながら早々に脱落してしまった。マラソン・レースでいえば,10キロあたりで棄権。トレーニング不足を大いに反省。

で,ようやくセッション・3。近代スポーツの終焉?─判定の変容,裁かれる身体の現在─。

わたしの対話者をつとめてくださったのは,吉岡洋(京都大学・美学)さん。この学会の会長さんでもある。とても紳士的な方で,ゆったりとした雰囲気がただよっていて,わたしを安心させてくれた。でも,わたしからの話題提供の立ち上がりのところでは,わたし自身は緊張の極に達していた。何回も深呼吸をしては気持ちを鎮めようとするのだが,セッション・2の,ある種の興奮状態が会場にも残っていて,困ったなぁとおもう。でも,体操競技の試合のときと同じで,名前を呼ばれたら,あとはひとり寂しく「演技」をするしかない。これまでやってきた練習以上のことはできるわけがないのだから・・・と自分に言い聞かせながら。まあ,わたしの話がうまく伝わったかどうかは,感想を聞いてみるしかない。

それにしても,吉岡さんは真っ正面からわたしの話に対応してくださり,とても重要な指摘をいくつもしてくださった。あの場では応答できなかったものもふくめて,貴重な宿題をいただいた,と感謝。これからじっくりと考えてみたいとおもう。それほどの大きな問いであった。その内容については,いずれ機会をみて。しばらくは温存しておきたい。

最後に,大会事務局の仕事からセッションのすべての設定と司会をされた前川さんにはほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。この場をお借りしてお礼を申しあげます。いずれまた,ゆっくりと,美味しいお酒でも飲みながら,お話を聞かせていただければと夢見ています。懐の深さと柔軟な思考に敬意を表します。

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2010-05-11 60枚分の原稿がクラッシュで,ショック。

_ 日本記号学会の直前までかかって苦労してやっと書き上げた,しかも,締め切りの過ぎた原稿60枚分がクラッシュして散る。今日一日,ショックで立ち直れず。

5月9日に予定されていた日本記号学会のセッションのことが片方の頭のなかにありながらも,締め切りの過ぎた原稿をなんとかしなくては・・・と必死になって書き上げ,セッションが終わったら,推敲して・・・・急いで提出・・・と目論んでいたのだが・・・。

今朝,珍しく早起きして,さて推敲にとりかかろうとおもったら,ファイルが開かない。外付けのハードディスクに保存しておいたのだが,どうしても開けない。びっくりして,別のファイルを開いてみたら,こちらは,どれも全部開く。仕方がないので,開かないファイルをパソコンの「D」領域に移して,それを開こうとしたら,これもやはり駄目。なにか方法はないものかと考え,自分用のもう一つのメール・アドレスに添付して送信し,それを開いてみた。

これは開くことができた。が,その瞬間,真っ青。文字化けである。しばらく茫然自失。それでも・・・と気を取り直して,ページを追ってみる。すると,途中から,ちゃんとした文章がでてくるではないか。おっ,これはどの部分だ,と眼が吸い込まれるように文字を追う。ああ,第3章の途中からは大丈夫なのだとわかり,傷は深いが後半はなんとか救われた,と安堵の胸をなでおろす。で,さらにページを追ってみる。あれっ,やけに分量が少ないが・・・・。と思って,文章を読んでみて,びっくり仰天。文章がズタズタに分断されていて,半分くらいが抜け落ちてしまっている。だから,意味をなさない。

そこで,なんとか修復できないものか,と思って手を入れようとしたら,まったくワープロ機能が作動しない。困り果てて,では,最後の手段とばかりにプリント・アウトして,それに朱を入れて,全部打ち直そうと覚悟を決める。しかし,恐ろしいことに,ズタズタに寸断された原稿というものは手の入れようがない,ということがわかる。どうしてもつなげられないのである。手も足もでない。少しでも,どこか修復できないものかとやってみたが,やはり,まったくどうにもならないということがわかる。

ここまできて,全身から血の気が失せていく。もう,いかなる方法もない。諦めて,0から書き直すしかない。この絶望感。ふたたび,あの長いトンネルをくぐらなくてはならないのか,とおもうと情けなくなる。でも,書くしかないのだ。もう一度,章立てを思い出しながらやり直し,そこに箇条書きで,書くべき内容のメモを入れる。ショックのあとの後遺症のなかでの作業はなんとも息苦しい。でも,やらねばならない。

大声を上げて泣くとすっきりするという。それもできない。では,ブログに書いて,こころの凝りを吐き出すしかない,という次第。読んでくださった方はえらい迷惑な話。でも,そういう方々に縋ってでも,吐き出すしかない。はたして,すっきりするものなのだろうか。すっきりというよりは諦めるということなのだろう。自分で自分に引導をわたす,そのための儀礼として,今日のブログを位置づけるしかない。まるで,供犠にも似た,自虐行為だ。

それでも,そこを通過させないことには,つぎには進めない。後ろにさがっても解決しないことは,前にでるしかない。前に,前に,そして,なんとしてでも「通過」することだ。どんなに辛くてもそこを「通過」するしかない。そうすれば,諦めもつき,つぎなる展望もみえてこよう。

さて,一晩眠って,明日から出直しだ。そうこころに決めて,このブログはおしまい。アルコールに頼ることもなく,なんと「健全な」ことよ,とみずからを励ます。今夜はこれから少し,坐禅でも組んで・・・・「無為」に接近するか。この「無為」はあきらかにアガンベンの「無為」とは違う。「哲学は悲哀でなくてはならない」と書き付けながら,ひたすら坐禅を組んでいた西田幾多郎の「無為」はまた次元の違うところにある。「無為」を「為すことが無い」「完璧な状態」と説いたのは老子だ。すなわち「無為自然」。

まあ,「般若心経」でも唱えながら,坐禅でもしよう。道元さんの「正法眼蔵」でも思い浮かべながら・・・・。

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2010-05-12 伝統スポーツの存在理由。

_ 消えてしまった原稿の主題は「伝統スポーツの存在理由」。日本でいえば,大相撲が存在する理由はなにか,を問うもの。

グローバリゼーションの波がいやおうなく押し寄せてきて,伝統スポーツもつぎつぎに姿を消していく。いわゆる異文化接触による文化変容ということで考えれば,それは大昔から繰り返されてきたことだ。しかし,20世紀の終わりの四半世紀の間に起きた,そして,いまもますます巨大な波となりつつあるグローバリゼーションはいささか事情がことなる。とりわけ,経済原則というべきか,資本の力を背景にした市場原理によるグローバリゼーションの波は伝統スポーツの存在を容赦なく脅かす。それどころか,ブルドーザーで森林が一気に平地にされてしまうような,恐るべき暴力性を秘めながら。なぜなら,伝統スポーツの多くは,そのルーツを生業形態に求めることができるからだ。その地域や社会にむかしから営々として構築されてきた生業形態が資本の力によって一気に葬り去られ,生活は一変してしまう。ザウパー監督が撮った『ダーウィンの悪夢』を見れば一目瞭然である。このドキュメンタリーには,もっと恐ろしい内容が含まれているが・・・・。

そういう情況を視野におきながら,伝統スポーツが存在する理由はなにか,を根源から問い直そうというわけだ。つまり,伝統スポーツのルーツをとことんたどっていくと,最終的にはどこに行き着くのか,その理論仮説を提示することだ。いま,伝統スポーツの多くは生業形態と結びついていると書いた。たとえば,日本の相撲のルーツは豊穣儀礼にゆきつく。五穀豊穣と子孫繁栄を祈り,感謝する儀礼として,広く分布している。つまりは農耕儀礼の一つといっていい。これまでの伝統スポーツのルーツに関する議論は,そのほとんどはこのあたりで終わりである。そして,それでよしとされてきた。

しかし,わたしはもう一歩踏み込んで,この生業形態なるものは,実際に生きる人間にとってなにを意味しているのか,と考えている。すなわち,生業形態の発生と維持をめぐる安心立命(あるいは希望)と不安(あるいは恐怖)について考えている。具体的にいえば,植物の栽培や動物の飼育の起源にまでさかのぼって,そこで人間はなにを感じ(希望と恐怖),いかなるスタンスをとろうとしたのか(恐怖の除去),そのための手段となった祝祭(さまざまな供犠をともなう儀礼)とはなにを意味していたのか,ということだ。

このあたりからのわたしの思考を導いてくれるのは,ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分 有用性の限界』であり,『宗教の理論』である。当然のことながら,マルセル・モースの『贈与論』がある。そして,・・・・・とつづくが,それらを書きつらねるのはここでの本意ではない。必要なことは「供犠」とはいったいなにを意味していたのか,という問いである。この「供犠」をともなう祝祭空間のなかから原初の「スポーツ的なるもの」が誕生する,というのがわたしの仮説である。しかも,その誕生現場は,きわめて「宗教色」のつよいものであった,と。もちろん,宗派宗教という意味ではなくて,もっとプリミティーブな,アニミズムやシャーマニズム的な意味での「宗教色」ということである。つまり,人間の支配する時空を超えたところの,超越神ともいうべきものとの結びつきである。

たとえば,古代オリンピアで行われていた祭典競技(古代オリンピック競技)でのゼウス神の存在を,そして,ゼウスをとりまく女神をはじめとした神々の存在を考えればわかりやすい。しかし,それをもっとさかのぼっていくと,どこに行き着くのか。バタイユは,自然に対する畏敬の念,つまり,自然界での内在性として生きることを放棄した人間の「不安」との折り合いのつけ方,それが「聖なるもの」への祈りとなり,「供犠」を生む,という仮説を提示する。わたしはこの仮説につよく突き動かされ,ここに原初の「スポーツ的なるもの」の淵源を求めようとする。そのための理論仮説を提示してみたい,とつよく願望する。

言ってしまえば,原初の「スポーツ的なるもの」の原動力は「自然回帰」への願望であり,内在性への「回帰願望」である,といまのところは考えている。これが,伝統スポーツの存在理由である,と。

日本記号学会での対話者をつとめてくださった吉岡さんが提示された「スポーツの裂け目」の問題は,いささか飛躍するが,じつは,ここに行き着く話なのだろうと考えていた。しかし,短い時間でここまでいくのは無理と判断して,別の話で紛らせてしまった。おそらく,吉岡さんも答えは用意されていて(それはぜひお聞きしたい,という衝動があったが),それを短時間で提示するのは困難と判断されたのではないかと推測している。だから,結果的には,お互いに接近しつつ距離を置くというような,微妙なことになった。いつか,別のチャンスがあったら,このあたりのことをじっくりと伺ってみたいとおもっている。

以上,失った原稿を書き直すためのウォーミング・アップは終わり。これからいよいよ本番である。はたして,うまく進展してくれるといいのだが・・・。もう,あとは祈るしかない。禅坊主のなりそこないの祈りは「無為」への接近・・・?。

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2010-05-13 さすがQちゃん,民主の出馬要請を断わる。

_ Qちゃんこと,高橋尚子さんが民主党の出馬要請を断わった,という情報がインターネットを流れている。さすがQちゃん,偉い!

その理由が,もっと偉い。「政治をしっかり勉強した人が立候補すべきだ」とおっしゃる。その上,「国民栄誉賞をいただいた以上,どこか一つの政党に肩入れするわけにはいかない」ともおっしゃる。さすがQちゃん,よくわかっていらっしゃるではないか。

このところ,選挙のたびに,こんな人が政治の世界に入って行って,なんの役に立つのかと疑問をいだかざるをえない人が,ぞろぞろとでてくる。今回もまた,元野球選手や芸能人などの名前が日替わりメニューのようにでてくる。最近では,ヤワラちゃんが出馬表明。これには,さすがにみんな呆れたようで,2チャンネルでは大変な叩かれようをしているという。その批判の多くは「二兎を追うもの一兎をも得ず」というものだ,とのこと。つまり,片手間で政治ができるわけがない,ましてや,素人ではないか。そして,片手間で金メダルがとれるわけがない,と切って返す。きわめてまともなご意見である。

それにくらべて,Qちゃんは偉い,というわけだ。片手間でマラソンが走れないことはQちゃん自身がよく知っている。万全の態勢で臨んでも,失敗することもある。そのことをからだの芯まで理解している。だから,政治の「せ」の字も勉強していない自分が立候補するなんて,とんでもない,というわけだ。それよりは,マラソンの世界で,自分の知り尽くした経験知をぞんぶんに活かして,世のためにつくしたいという。母校大阪学院大学特任教授に就任して,ここでもマラソンの経験を存分に活かして,多くの学生さんの指導や,社会人に向けての講演にも,じつに熱心に取り組んでいると聞く。やはり人間のできが違う。

西谷さんや今福さんと共著で出した『近代スポーツのミッションは終わったか』(平凡社)のなかでも,西谷さんや今福さんが,かなり熱くQちゃんを語っている。そして,お二人とも,かなりのお気に入りであることは,その語りをとおして伝わってくる。おそらく,お二人とも,今回のこのニュースを聞いて,「よしよし」とおもっていらっしゃるに違いない。もちろん,わたしも,大好きなマラソン・ランナーの一人として注目していたので,今回のこのニュースはとても嬉しい。さすがに苦労人のQちゃんは偉い。

自分の道をきちんと究めた人間であれば,それ以外の道もそんなにたやすいわけがないということくらいは,すぐにわかるはずである。しかし,ときおり,それがわからない人がいる。自分の道だけが険しくて,それ以外の道は大したことはないと勘違いしている人が,意外に多い。みんな,それぞれの道でどれほど苦労してその道を究めようとしているか,見えないところで大変な努力をしているのだ。それがわからない人がいる。しかも,多い。困ったものではある。

わたしの接してきた人たちのなかにもいる。しかも,社会的にいえば,超一流の地位についている人たちのなかにも,自分だけが偉くて,あとはみんなアホばっかりだ,と思い込んでいる人がいる。こちらも意外に多い。しかし,なかには,とても謙虚で,どこまでも一人の人間として対等に応対してくれる,超一流もいる。こういう人にはおのずから頭が下がる。そして,じつにさわやかだ。

かつての名選手のなかにも,二種類の人間がいる。過去の栄光にすがって,いつまでも威張りたい人と,それはそれ,とはっきり区切りをつけて,引退後の職業人としての職務にまじめに取り組んでいる人もいる。Qちゃんは後者に属する人だ。

こんどの選挙では,そろそろ,単なる有名人はいらない,という良識がはたらくことを期待したい。その意味でも,Qちゃんの発言があまねく浸透してほしいとおもう。「政治は片手間ではできません」「政治をきちんと勉強した人が立候補すべきです」というQちゃん語録が広まることを期待しよう。

有名人を担ぎだしてきて,一票でも多く浮動票をかき集め,少しでも嵩上げをしようという選挙を優先させるような政党に,はっきりと「ノー」をつきつけることが大事だ。となると,こんどは支持したい政党がなくなってしまうか。これもまた困ったものではある。

もう一度,松下塾のようなことをやる人はでてこないのだろうか。いまこそ,ほんものの政治家を育成すべきときなのだが・・・・。元スポーツ選手も,こういうところを通過して,その適性が認められたら,堂々と選挙に打ってでてくればいい,とわたしは夢見るのだが・・・。

それにしても,Qちゃんの発言が,こんごどのような反響をよぶか,しばらくは息をひそめて静観したい。

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2010-05-14 村野四郎著『体操詩集』を読む。

_ 村野四郎の『体操詩集』を送ってくれた人がいる。懐かしく,むかしのことを思い出しながら,一気に読む。これぞ「恩寵」というべきか。ありがたいことだ。

じつは,わたしも買ってもっていたはずだ。しかし,それは学生時代の話。それから何回もの引っ越しを経て,いまではどこにあるかもわからない。ないのかもしれない。それもわからない。だから,もうとっくのむかしに村野四郎という名前すら忘れてしまい,『体操詩集』なるものの存在すら完全に意識から消えていた。そこへ,ひょっこりと,小包になってとどいた。事前に「送る」というメールがあったので,じつは心待ちにしていた。小包を解くとき,胸が高鳴った。久しぶりのことだ。

出てきたものは,立派な箱に入った復刻版。日本図書センターから2004年に刊行された「愛蔵版」とある。わざわざ購入して,わたしのところに送り届けてくれたのだ,ということがわかる。わたしはてっきりどこかの古本屋さんで見つけたものを送ってくれるのだろう,と勝手に想像していた。そうではなかった。まるで,新本そのものである。表紙カバーの下の方には,ドイツ語で「NEUER KORPER UND NEUER GEIST」と書いてある。これをみて,学生時代に手にしたときの感動を,はっきりと思い出した。ああ,これだ,と。

冒頭の詩は「体操」というタイトル。これも同じだ。

僕には愛がない

僕は権力を持たぬ

という書き出しに,そのむかし,ハッと虚を突かれたような,あるいは,度肝を抜かれたような印象をもった。体操競技がやりたくて上京し,ただひたすら上手になりたい,とそればかり考えていたときに,この詩集に出会ったのだ。そして,最初のページの詩の書き出しが,これである。びっくり仰天した。まさか,体操に「愛」だの「権力」だのが関係しているとは,夢にも思っていなかったからだ。しばらくは,この,たった2行の文字とにらめっこをしていたことを思い出す。そして,左ページには,当時のドイツの名選手シュワルツマンの徒手体操の写真があって,それを眺めていた。愛と権力とシュワルツマンが,わたしの頭のなかで渦を巻いた。

気を取り直して,つぎの行を読む。

僕は解体し,構成する

地平線がきて僕に交叉(まじは)る

僕は周囲を無視する

しかも外界は整列するのだ

僕の咽喉は笛だ

僕の命令は音だ

僕は柔い掌をひるがへし

深呼吸する

このとき

僕の形へ挿される一輪の薔薇

ここまでで,最初の「体操」というタイトルの詩は終わりである。最後まで読んだときに,ようやく,「僕」は人間ではなく「体操」そのもののことだ,と気づく。そうか,体操には「愛」も「権力」もない,と言っているのだ。ならば,よくわかる。なるほど,詩人の感性を通過すると,「体操」なるものが,また,別のものにみえてくるらしい。一見したところ,とても冷やかに観察しているかのようにみえるが,よくよく読んでみると,じつに細部にまで眼がゆきとどいていることがわかる。しかも,そこはかとなく,暖かいものを感ずる。

村野四郎の年譜が最後のところにあって,読んでみると,東京府立二中では,柔道部の主将をつとめ,器械体操も得意だった,とある。なるほど,スポーツマンだったのだ,とわかる。このことは,以前は,知らなかった。器械体操のことも熟知していたのだ。だから,「僕は解体し,構成する」とか「地平線がきて僕に交叉(まじは)る」という詩句がとびだしてくるのだ。これは明らかに,体操をしている人間の目線だから。こういうある種の「共通感覚」のようなものが,学生時代のわたしのからだにも伝わってきたのかもしれない。だから,村野四郎という詩人が大好きになってしまったのだ。村野四郎の『体操詩集』には,どこか不思議な「実存」に迫っていくようなところがあって,当時,大流行していたサルトルの世界に通じるものがあったことを思い出す。サルトルの『嘔吐』とか『存在と無』とかを読まない人間は学生ではない,とすら言われた。「存在は本質に先立つ」などというフレーズが,日常会話のなかでも飛び交っていた。あのころの学生さんは,本気でこういうことを追いかけていたのだ。そんな下地があったからか,なおさらのこと,村野四郎の『体操詩集』は,わたしにとっては「実存主義」の応用編であった。

サルトルの議論はよくわからなかったが,「体操」で言うとこういうことだ,とか,「スポーツ」で言うとこういうことになる,という話をすると,相手がギョッとしてわたしの顔をみたものだ。同郷の出身者が身を寄せる学生寮にいる学生のなかに,わたしのような体育学部に通っている学生は皆無に等しかったから,なおさらである。

しかし,いまごろになって思い出されるのは,スポーツと思想・哲学とをクロスさせて考える,その最初のきっかけをつくってくれたのは村野四郎の詩集だったのか,ということだ。いま,こうして,久しぶりにページをめくりながら,しみじみとそんなことを思い浮かべている。いま,バタイユの思想を下敷きにして,スポーツの起源を探ろうとしている,その原点はどうやら村野四郎だったらしい。

人生なんて,まことに不思議なものだ。まったく意図せざる出会いが人の運命を決めていく。そして,いま,こうして,こんな人生を生きている。不思議以外のなにものでもない。

こういう次第で,村野四郎の『体操詩集』を送ってくれた人,この人も,わたしのこのブログをもし読むことがあったら,びっくりされるに違いない。こういう出会いこそ「恩寵」そのものというべきか。感謝あるのみ。

この人とは,また,いつか美味しいお酒でも飲みながら,ゆっくりとお話がしてみたいと思っている。幸せである。

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2010-05-15 「知的な女は,裸も美しい」・・・だって?!

_ 草刈民代の全裸ヌードの全面広告が,またまた,朝日新聞に掲載された。しかも,「知的な女は,裸も美しい」というキャッチ・コピーつきで。

一回目のときは度胆を抜かれ,唖然として,全裸ヌードを眺めていた。さすがに世界を股にかけて活躍したバレリーナだけあって,じつによく鍛えられた肉体だなぁ,と感心して眺めた。しかし,美しいとはおもわなかった。バレリーナのからだは,踊ってこそ美しいのであって,ただ立っているだけだったら,単なる痩せた女がそこにいるだけだ。筋肉ばかりの女性のヌードなどみたいともおもわない。むしろ,気色悪い。

その,ガリガリのバレリーナのヌードが,二度目の登場である。こんどは,いろいろ考えながらじっくりとみせてもらった。しかも,「知的な女は,裸も美しい」というキャッチ・コピーもふくめて。

しばらく眺めていて,思い浮かんだイメージは「瀕死の白鳥」。写真は動かない。だから,そこにはバレリーナのイメージはない。単なる「痩せた女」の彫像にみえてくる。しかも,とても不健康にみえる。ステージで踊るための,バレリーナの身体としては理想的なのかも知れないが,ふつうの女性のからだとして眺めたら,明らかに「病的」にみえる。だから,「瀕死の白鳥」が衣裳をつけないで裸のままステージに飛び出してきたようにもみえる。

それから,「知的な女」は,裸にはならない。ましてや,新聞に全面広告は載せない。しかも,二度までも。こうなると「知的」どころか「愚者」である。「愚者」「ぐしゃ」「グシャグシャ」である。ハトヤマ君に向かって「オロカモノ」と叱りつけた女性政治家がいたが,この人がヌードになったときには「知的な女は」のキャッチ・コピーがつかえるかもしれない。

ステージの上で,衣裳をつけて,軽やかに舞い踊る草刈民代は,まことに魅力的な女性ではある。しばし,うっとりと魅せられたものである。しかし,どう考えても「知的」だなどとおもったことはない。写真集を売るために,わざわざ,捏造したコピーにすぎない。そして,何回も何回も「知的な女は,裸も美しい」とリピートされると,わたしたちは無意識のうちに,これが「知的な女」であって,これが「美しい裸」だと刷り込まれてしまう。

世の男性も女性も,その多くが,「草刈民代=知的=美しい肉体」という「神話」を刷り込まれてしまう。こうして,出版社のねらいどおりに,「意識操作」が成功して,市場が踊る。

しかし,考えてもみてほしい。ヌードに「知性」は不要だ。むしろ,邪魔だ。ヌードは知性からもっとも遠いところに存在する。そこにこそ「存在理由」がある。知的な女性にヌードになられたら,こちらが困ってしまう。眼のやり場に困る。むしろ,「知的」でない方がいい。徹底的に「知的」でない方がいい。みる方も知性をかなぐり捨てて,エクスターズすることができる。

そのむかし,リサ・ライオンがヌード写真を公開したことがある。インテリの女性ビルダーとして知られ,筋骨隆々たるヌードだった。評価は真っ二つに割れた。このときは,わたしは拍手喝采を送った。なぜなら,ボディ・ビルダーは,その当初から自分の肉体美をみせたくて,必死に研鑽を積むのだから。その意味では初志貫徹である。別にヌードにならなくても,男性も女性も「裸同然」なのだから。

しかし,バレリーナは違う。裸を見せるために踊ってきたわけではない。ステージの上で舞い踊って,なんぼの商売だ。しかも,衣裳をつけて,その役柄になりきることによって,みる者をして感動させるのだ。ましてや,バレリーナはみんな「ガリガリ」の痩せ女ばかりだ。ヌードになって,わざわざ,その醜い裸体をさらけ出すことはない。みっともない。醜悪ですらある。

繰り返しておく。知的な女性は,裸にはならない。

知的なスポーツ選手は,政治には手を出さない,のと同じ。

もし,スポーツ選手で政治に関心のある人は,きちんと,それなりの政治家としての「トレーニング」を積んでから転身する。これが「知的」な人の身振りというものだ。バレリーナが,いきなり,裸体をさらけ出してはいけない。みっともないだけだ。しかも,二度までも。

もっとも,バレリーナを引退して,とうとう「河原乞食」に転身する,というのだから,どうぞ,なんでもおやりくだされ。それは,まったくの自由だ。でも,ゆめゆめ,いまの裸体を美しいとはおもわない人間もいることをお忘れなく。

そして,なによりも,このキャッチ・コピーはいただけない。「インテリに肥満体はいない」というアメリカの「常識」に怯えて,大統領までもがジョギングをして,肥満防止につとめなくてはならなくなる。

最後にひとつだけお断りを。

消えた60枚の原稿の腹いせをしているのでは・・・・とちょっぴり気が引ける。でも,かの村上春樹君だって,いま売れている小説の冒頭に「ぜんぶ,つくりものだから」とわざわざ断わって,ありもしない「デタラメ」を書いているのだから。だから,単なる余興だとおもって,読んでいただければ幸いである。もちろん,余興のなかに本音もないわけではないが・・・・。

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2010-05-16 『ダライ・ラマとの対話』(上田紀行著)を読む。

_ わたしの知っている中国人は,なぜか,みんなダライ・ラマを嫌いである。わたしが大好きだというと困った顔をする。

中国のインターネット情報に詳しい人なら,すぐに納得する。なぜなら,インターネット情報が,国家によって管理されているからだ。「ダライ・ラマ」は単なるアジテーターで,嘘つきだ,ということになっている。そういう情報しか流れないのだから,多くの人がそう信じている。昨日のブログの草刈民代の新聞一面広告と同じだ。何回も流されると,あれが「美しい女の裸」になってしまう。現代の神話はこうして創られる。日本に住んで10年を経過し,永住権まで確保した中国人ですら,ダライ・ラマは悪い人だ,という刷り込みは変わらない。恐ろしいことだ。ダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞していますよ,と言っても,それは世界がだまされているからだ,と譲らない。それほどに,刷り込みは恐ろしい。

さて,前置きが長くなってしまったが,表記の『ダライ・ラマとの対話』(講談社文庫)という本と,昨日,書店で「出会って」,買ってくれ,という声が聞こえたので手にとった。これが運のつき。読みはじめたらやめられない。みごとな佛教入門書になっている。しかも,佛教的な教義の話はほとんどなく,生物学的な生きものとしての人間認識からはじまる。佛教のいう「利他」主義は,仲間と集団で暮らす動物である人間にとっては,当たり前のことであって,むかしからそうして生きてきた,と。いまや「利己」主義全盛の時代を迎えているが,人間が集団で暮らす動物である,という大前提をどこかに置き忘れてきてしまった結果である,という。「利己」主義がはびこればはびこるほど,人間は生きにくくなっていく,と。現に,世界全体が人間の生きる環境としては最悪の選択をして,まっしぐらに走りつづけているではないか,と。

と,まずは,こんなところから説きはじめて,利他と利己の問題を,多面的に展開していく。ダライ・ラマという人の視野の広さと思考の深さに感動する。それを上手に引き出しす力量をもった上田紀行さんがまた偉い。もともとは文化人類学者で東京工大の准教授。いろいろの紆余曲折があって(個人的にも),佛教を復活させることが先決であると考え,「佛教ルネッサンス塾」を主宰。宗派を超えて,全国を飛び回って,若い僧侶たちを励ましている。

この本は,2007年に『目覚めよ仏教!ダライ・ラマとの対話』というタイトルで,NHK出版より刊行されたものの,文庫化だという。うかつにも,わたしは知らなかった。「癒し」ということばを最初に用いた人で,それを流行語にしたのも,この人がNHKの番組をとおして何回も繰り返し語ったからだ,という。最近の仏教ブームの火付け役でもあったようだ。

『般若心経』の「個人訳」とか「超訳」といったものが,立松和平さんをはじめ陸続と出版されるのも,こうした背景があってのことらいし。立松和平さんが『道元』を書けば,五木寛之さんが『親鸞』を書く,という具合である。『般若心経』の「個人訳」にいたっては,ふるくは柳澤桂子さん(生命科学者)があり,最近では伊藤比呂美さん(詩人)がある。こうなったら,わたしも「私家版」の『般若心経』訳を書いてみようかとおもうほどだ。いまなら書ける,そういう時代になってきた,とおもう。

つまり,仏教を観念論で語っていてもなんの役にも立たない,ということを多くの人がわかりはじめてきた,ということなのだろう。もっと,自分のからだをとおして,奇怪しいとおもうことには奇怪しいという疑問を投げつけるべきだ。そして,自問自答しながら,自分のからだにたたき込んでいくべきだ,とダライ・ラマも力説する。

目の前にお腹がすいて動けなくなってしまった乞食がいたら,この人に救いの手をさしのべること,これだ利他の出発点であり,仏教の教えの初歩である,とダライ・ラマは言う。生まれたばかりのお腹のすいた赤ちゃんに母親がおっぱいを飲ませる,この無条件の愛情こそ,慈悲にあふれた「利他」のはじまりだ,と。ここから,すべてははじまるのだ,と。このことを忘れてしまった「現代人」の利己中心主義は,必ず破局に向かうと断言する。それは,生物学的法則に反しているから,と。

ここには,まさに,「自然」の要請に応ずる「理性」が健在である。ヨーロッパ近代を通過するうちに,宗教的な「理性」から科学的な「理性」へと比重が移るにしたがって,徐々に「理性」が「狂気」と化してきた,という認識が流れている。ダライ・ラマの偉大さを,いまさらながら,再認識している。

著者の上田紀行さんは,若いころにスリランカで「悪魔祓い」のフィールドワークを2年にわたって行い,そこで,ものの見方・考え方が根底から覆されたという。ヨーロッパ近代の科学主義は,マージナルでバナキュラーな「悪魔祓い」を,科学的根拠のない,単なる迷信と決めつけ,世界から排除・隠蔽することに全力を傾けた。その結果が,こんにちの「世界」である。

このあたりで,いま一度,振り出しにもどって,人間とはなにか,人間にとってスポーツとはなにか,という根源的な問いを発し,そこからの,つまりは原初の「理性」を立ち上げることが喫緊の課題ではないか,としみじみおもう。この本はじつに読みやすい。上田さんもダライ・ラマも,むつかしいことばはほとんど用いていない。中学生でもらくに理解できることばで,仏教の本質をわからせてくれる。これから,いよいよ後半の佳境にさしかかる。いまから楽しみだ。

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2010-05-17 小学校の同級会に,卒業後,初めて参加。

_ 5月16日・17日の一泊二日で,小学校の同級会があり,卒業後,初めて参加。場所は,愛知県の西浦温泉。いやはや驚きの連続。

毎年のように開催されている小学校の同級会。どういうわけか,いつも,なにかの行事と重なってしまって参加できなかった。あるいは,原稿やシンポジウムや講演などの直前であったりして,気持ちが向かなかった。それにしても,一度も参加しなかったというのは,どう弁明しても取り返しはつかないので,これまでの不義理をひたすら謝ることに徹底した。

豊橋市立大村小学校。これが,わたしの卒業した小学校の名前。第二次世界対戦の戦争末期に豊橋市立東田国民学校に入学。アメリカのB29の空爆を受けて,家が全焼。母の在所のある渥美郡の杉山村に疎開。ちょっとしたいざこざがあって,鶏小屋に住む。そこの杉山国民学校に転校。ここで敗戦。豊橋市内の兵舎に引っ越しをし,豊橋市立福岡小学校に転校。そして,さらに伯父の住んでいる寺,大村町の長松院に引っ越す。そして,大村小学校に転入。このとき,小学校の3年生の夏休み明け。つまり,3年生の二学期から。

一学年一学級しかない小さな小学校。男子24名,女子24名,計48名。クラス全員の家も家族構成もみんなが知っているということもあってか,なぜか,秘密めいたものがほとんどなかった。みんな丸見えという感じ。だから,変に気取ることもなく,みんな自然体。田舎の素朴な雰囲気のなかにどっぷりと浸かっていた。だから,みんな仲良し。もっとも,仲良しでなければやっていかれない,ということもお互いによくわかっていたとおもう。でも,ひとたび衝突が起こると,とことん体当たりするしかなかった。ときには,ナイフを振り回して喧嘩をしたこともある。そのときの傷が,わたしの左肩に残っている。この喧嘩を制したことによって,わたしのクラスの中での力関係は,かなりの上位にランクされるようになった。ちょっとばかり得意になった時代である。

わずか,24名の男子しかいない小学校でも,野球好きがおおく,チームを組んで豊橋市内の大会に参加した。たまたま優秀なピッチャーが二人いたので,あれよあれよという間に勝ち進んだ。気がつけば準決勝に進んでいた。わたしはキャッチャーをやっていた。先発ピッチャーが疲れてきて,球威が落ちると,サードの控えのピッチャーとコンバート。この控えが球威のある直球を投げたので,とても安心して戦うことができた。しかし,準決勝では1−0で負けた。こちらが相手投手を打てなかったのだから仕方がない。その相手チームが,大村小学校の前に通っていた福岡小学校だった。しかも,バッテリーを組んでいたピッチャーの林君とキャッチャーの小森君は,二人ともよく一緒に遊んだ友達だった。だから,負けて悔しいともおもわなかった。しかし,このチームは決勝では大勝したので,実質的にはわれわれとの試合が決勝戦だった。あそこを勝ち抜いていれば,優勝していた。わずか,24名の男子生徒のなかから9名を選んでチームをつくったにしては,なかなかいいチームだった。

それから,もう一つの想い出。学芸会。担任の先生が,学芸会で上演する芝居の選定から配役まで全部決めて,ある日,突然の発表があった。これに対して,何人かの生徒が反発した。そのなかの一人にわたしもいた。で,早速,先生と交渉に入った。しかし,先生は,断固として,決めたとおりにやると強い姿勢を貫いた。困った。でも,なんとしても面白くない。そこで,一計を案じて,この問題を学級会にかけて議論することにした。意外にも,先生の意見を支持する生徒がかなりいて,苦戦を強いられた。これでは負けてしまう。焦った。採決をとる直前にあるアイディアが浮かんだ。そこで発言を求めた。「先生は民主主義ということを教えてくれた。でも,こんどの先生のやり方は民主主義に反する。先生の押しつけではないか。芝居を選定するところから,みんなで相談をし,配役もみんなで相談するのが民主主義ではないのか」と。ここで先生は絶句した。そして,プイ,と怒った顔をして教室からでていってしまった。「あとは知らん,勝手にせい」と言い残して。ここからが圧巻だった。さあ,みんなで学校の図書室へ行って台本を探す。たった2冊しかない。これでは駄目だ,ということになって市立図書館まで行って,みんなで分担して大量の本を借り出してきた。必死で回し読みして,「こがらし」という芝居がいい,ということになった。戦災で焼け出された二人の孤児を中心にした芝居だった。職員室へ行って,他の先生に頼んで,ガリ版と鉄筆を借りて,わたしが筆耕した。印刷して,みんなで読んで,それから配役を決めた。あとは,みごとなチーム・プレイが展開。芝居の稽古は,わたしの住んでいた寺の本堂でやった。演出もみんなで議論しながらやった。だから,大いに盛り上がった。学芸会は大成功だった。以後,わたは担任の先生とは冷えた関係になってしまった。とてもいい先生で,大好きだったが,とたんに仮面の裏側をみてしまった気がして,寂しかった。が,幸いにも,まもなく卒業。

とまあ,こんな想い出がわたしの脳裏をかすめて行った。野球の話はわたしが切り出した。が,学芸会の話は,仲のよかった友人が切り出した。でも,どちらも話題としてはほとんど盛り上がることもなく,まったく次元の違う話が(わたしのまったく関知しないローカルな話題が)終始,飛び交っていて,ひたすらわたしは沈黙を守った。なにせ,初めて参加したのだから。

しかし,人間というものは,こんなにも変わるものか,とわたしは唖然とした。にもかかわらず,その場の意見は,「人間はいくつになっても変わらない」ということで終始した。これは,人間をみるスタンスの違いであり,人間というものの見方・考え方の違いである。もっと言ってしまえば,「人間とはなにか」ということに関する認識の仕方の違いだ。だから,なんとでも言える。ただ,表層をなぜるだけの話があまりにも多く,そこには,「なぜ?」という問いはほとんどみられない。それは同時に,いま,という時代認識もまったく違えは,世界認識もまったく違う。その根っこには,メディアの垂れ流す情報がそのまま,多くの人びとの認識を決定づけているということがある。そのメディアの情報に対して「なぜ?」という問いを向ける人間は,あまりにも少ない。

これが,日本の現実のひとつの典型的な姿なのだろうなぁ,と妙なところに感心してしまった。

もう一点は,わたし自身の歩いてきた人生とはまったく別の人生を歩んできた人たちと接することによって,わたし自身がもののみごとに対象化された,ということ。思えば,遠くへきたものだ。その意味では,こうした異質の人たちとの接触をもっと積極的にもつべきだ,と深く反省。そして,もっとフランクに「分割/分有」できる関係性を構築すべきだ,と。さて,そんな日はくるのだろうか。

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2010-05-18 村上春樹の小説がブームを呼ぶ理由はなにか。

_ いわずとしれた『1Q84』なる村上春樹の新作が大ブームだという。なぜ,こういう現象が起きるのか,わたしにはわからない。

『1Q84』というタイトルをみた瞬間に,わたしの脳裏をかすめたのはジョージ・オーウェルの『1984年』だ。なーんだ,パクリか,と。違うのは,オーウェルは未来小説として書いたのに対して,村上は過去小説として書いた,ということだけ。どちらも,ありもしない,でも,ひょっとしたらありそうな,現実と非現実のあわいをとりだすことによって,より「リアル」に接近するという手法においてはよく似ている。でも,その根源的な「問い」はまったく違う。オーウェルの作品は,読後にずっしりとした重量感を残すが,村上作品にはそれがない。精神や想像の世界を飛翔する楽しみはあるが,読後は,あっという間に忘れてしまう。読んでいる間だけは楽しい。しかし,だからなんなんだ,というのが読後の感想。もう,二度と読むまい,とおもう。にもかかわらず,やはり手を出してしまう。が,やはり,同じことのくりかえし。結局,村上はなにを言いたかったのか,という問いになにも答えがない。村上自身もそれでいいのだ,と開き直っている節がある。冒頭の「断り書き」などに,そんな「逃げ」の姿勢がみられる。

とりわけ,小森陽一の『村上春樹論』(平凡社新書)を読んで,やはり,そうだったのか,となぜか同感してしまったので,わたしの村上春樹に対する評価は低い。たんなるエンターテインメントにすぎない,と。しかも,深読みすると,たくまざる歴史認識に対する操作が埋め込まれている・・・とも読めるときがある。しかも,読者の無意識に働きかけるようなレベルでの操作が・・・・。これが村上春樹の意図的な戦略だとしたら,もし,ほんとうにそうだとしたら,これは恐ろしいことである。その点を小森陽一が完膚なきまでに分析してみせた。『海辺のカフカ』をテクストにして。ノモンハン事件の取り扱いをめぐって。この問題の詳細については,小森陽一のテクストにゆずることにしよう。どうか,そちらでご確認ください。

そういえば,『1Q84』に対する小森陽一の評論がどこにもみられないのは,なにか理由があるのだろうか,と勘繰ってしまう。どこの編集者も依頼しないのか,それとも,小森自身が断わっているのか。小森が断わることはありえないとおもわれるので,たぶん,編集者の方が忌避しているのだろう。井上ひさしの追悼に関しては,小森の露出はすごかった。しかも,その追悼文は,どれをとりあげても小森の全体重をかけた,愛情に満ちた,じつに温かいものばかりである。井上ひさしを絶賛する小森が,その返す刀で村上春樹を断罪する論調を聞いてみたいとおもう。が,それは叶わないようだ。

冒頭に書いたように,『1Q84』が大ブームを起こす理由は,いったい,どこにあるのだろうか,というのがこのところ考えているわたしのテーマだ。そして,わたしが目にしてきた9割以上の論評が「絶賛」である。この「評論家」たちは正気なのだろうか,とわが目を疑ってしまう。なぜだろう?という疑問があるので,かなり,しっかりと読む。そうすると,その大半はまことに無責任なものだ。とりあえず,褒めておけば間違いなかろう,そして,あたりさわりのないところで無難にまとめておこう,そんな姿勢が透けてみえてきてしまうような評論なのだ。もう,いい加減にしてくれ,と言いたくなる。もちろん「絶賛」があっていい。ただ,その根拠を明確に示してほしい。それが足りない。そんな程度のことで「絶賛」なんかするに値するのか,とわたしなどは感じてしまう。違うだろう,もっと,深い理由があるだろう,これだけの大ブームをよぶというのは・・・,と。

そんなことをおもっていたら,『週刊読書人』の5月14日号に,島田裕巳と香山リカの対談が2面にわたって掲載されている。このお二人がどのように読んだのか,とても興味があったので慎重に読んでみた。けなしもしないが褒めてもいない。お二人とも,この村上作品に対しては一定の距離を保ちながら,冷静に,しかもきびしい評価をしていらっしゃる。それは,読後,しばらくしてズシッと蘇ってくる。そして,気づくことは,この本のいい加減さを,きわめて婉曲に弾劾している,ということだ。しかも,時間が経つにしたがって,このお二人が徹底してきびしく断罪している,ということもわかってくる。

この対談で唯一,驚きとともに,なるほど,とおもったことがひとつだけある。香山リカは医学部の学生だったころから,あの松岡正剛のもとで鍛えられた人だった,ということだ。なるほど,医学の勉強しながら「編集」というものにつよく反応した人だったのだ。そうと知ってしまえば,とりわけ,最近の文筆活動を突き動かしている源泉がつかめてくる。そして,松岡正剛の『知の編集工学』(朝日文庫)を,もう一度,読み返してみようか,などと余分なことを考えはじめている。香山リカの,奇怪しいとおもったら奇怪しいと言うべきだ,という姿勢もとてもよくわかる。以前,香山リカが西田幾多郎本の「前節」を書いたときには,さすがにオヤオヤとおもったことがあるが,それ以外の発言はわたしには説得力があって,賛同するところが多い。

脱線してしまった。言いたかったことは,村上の作品が「大ブーム」を呼ぶ,その根拠(理由)を知りたいということ。ただ,それだけ。そこのところが,わたしには手がとどかない。また,これまで触れてきた評論家の発言のなかにも,納得のできる説はひとつもなかった。評論家という人たちの職務はなんなんだろう,と呆れ果ててしまう。

こうなったら,自分で考えて見つけ出すしかないか,と。流行は創られるもの。しかも,ちょっとしたメディア操作で,そういう「大ブーム」もいともかんたんに創られてしまう。その構造と,そのような心象風景の背景に迫ること,これを知りたい。もう少し考えてみることとしよう。

さきほどから居眠りが多くなってきた。このあたりが限界。

お休みなさい。

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2010-05-20 早すぎる荒川修作氏の死。

_ 今朝の新聞で荒川修作の死を知り,驚いた。早すぎる。まだ,73歳。わたしとは同学年になるはずで,これからを楽しみにしていたのに・・・。

同じ愛知県の出身(かれは名古屋市)というよしみもあって,偉大なるアーティストでありながらも,どことなく親近感をいだいていた。だから,もっともっと活躍してほしかった。だから,なんとしても早すぎる死が悼まれる。新聞記事には死因は書いてない。ニューヨークの病院で亡くなった,とあるので病死なのだろうと想像している。

養老天命反転地(テーマ・パーク),龍安寺の石庭(奈義現代美術館),三鷹天命反転住宅(アパート),など建築とアートと思想・哲学を重ね合わせた作品が,わたしの脳裏を駆けめぐる。このいずれの場所にも立って,いろいろのことを考えた。とりわけ,身体とはなにか,主体とはなにか(主体の有限性),生きるとはなにか(死なないために),運動とはなにか,など。それぞれの場所で,すべてが強烈な身体の記憶として刻み込まれることになり,いまもその余韻に浸っている。このあと,いかなる話題作を発表するのだろうか,と楽しみにしていた。たしか,奥さんのマドリン・ギンズと共著で,つい最近,単行本が刊行されたとどこかで眼にした記憶がある。これが,ひょっとしたら病気療養中に取り組んだ,最後の作品だったのだろうか。

もう何年も前のことだが,荒川修作の講演を青山の婦人会館かどこかで聞いたことがある。比較的こじんまりとしたホールで,静かな声で話をはじめた。水を打ったように静になり,みんなの意識が集中した。その呼吸がうまく合いはじめたころから,荒川修作の声は次第に大きくなり,後半は絶叫に近いものになった。この講演のスタイルはどこかで聞いたことがある・・・そう,梅原猛のスタイルと同じだ。梅原さんは,最後は,トランス状態に近いところまで行ったが・・・。

このときの荒川修作は,むしろ,怒りを全面に出していた。それは,結論から言ってしまえば,「石原慎太郎は嘘つきだ」「あんな奴は断じて許せない」と。その経緯はこうだ。東京都が「夢の島」の再開発に取り組みはじめたときに,コンペがあって,荒川提案が「最優秀賞」となり,それが採用されることになった。それから,ほぼ10年をかけてプランを具体化した。石原知事も大いに乗り気で,コンセプトにも賛同してくれ,お互いの呼吸はぴったりだった。だから,なおのこと荒川修作は気合が入り,世界が注目し,しかも歴史に残る作品にしようと,細かな点にいたるまで石原知事と膝詰め談判し,すべてOKをとりつけていた。そして,いよいよ最終提案の図面作成にとりかかったところで,ボツになった,というのである。10年の努力が水泡に帰した,と。自分だって作家ではないか。このことがどれほどのことを意味するかくらいはわかっているはずだ。にもかかわらず,ボツにしよった。だから,許せない,と。ふつうの政治家なら,アートも思想もわからないこともあるだろう。石原は違うだろう。少なくとも芥川賞までとった作家だ。とんでもない野郎だ,ととことん罵倒して,この講演は終わった。

わたしはそのド迫力に度胆を抜かれて,しばし席を立つことを忘れていたほどだ。世界の誰一人として踏み込んだことのない未知の世界に,フランス現代思想をバックボーンにして,人間存在の極限情況を突き抜けていき,それを作品にした人の根源に宿る「激情」に触れたとおもった。名古屋の高校生のときに,すでに,アヴァンギャルドの画家としてデビューし,卒業後には単身でアメリカにわたり,早くからその存在は注目を集めていた。やがて,建築の分野に独学で分け入り,人間が「死なないために」をコンセプトにして,都市設計や建築そのもののなかにアートと思想を持ち込んだ。その作品は世間をあっと言わせた。

養老天命反転地のテーマは「転ぶ」であった。だから,オープンしてすぐに,連日,怪我人が続出したという。驚いた自治体が,あわてて「転ばない」ように改修工事をした。しかも,荒川修作に無断で。このことについても,さきの講演で怒っていた。これは詐欺だ,と。しかも,アーティストに対する最大の侮辱だ,と。「モナリザの微笑」をまじめな顔に修正することにも等しい,と。それは,もはや「モナリザの微笑」ではない。だから,養老天命反転地は,すでに,おれの作品ではない,と。だって,いまでは,ほとんどの人が「転ばない」のだから,と。人間は「転ぶ」瞬間に,はじめて「主体の不在」を知るのだ,それを体験させよう,というのがあのテーマ・パークの最大のねらいなのに・・・と。

わたしたちが尋ねたときには,目の前を4〜5人でおしゃべりをしながら歩いていたご婦人の一人が突然転び,眼鏡が割れて顔から血を流す,という場面にでくわした。さぞや,荒川さんは喜んだことだろう,と一瞬考えて,それから急いで事務所に連絡に走った。事務所の人たちはべつに驚く様子もなく「はい,わかりました。すぐに参ります」と冷静に応じた。

というようなことが,つぎからつぎへと思い出される。

三鷹の天命反転住宅では,トーク・セッションまでやらせてもらい,その内容は『談』という雑誌に掲載させてもらった。あれやこれや合わせて,わたしにとっては,荒川修作という人の存在はきわめて重要なエポック・メーキングな影響力をもっていた,としみじみおもう。おそらく,これからも荒川修作の作品と何回も向き合い,いろいろのことを考えていくことになるのだろう,とおもう。また,わたしにとってはそれほどまでに重要な存在なのだ。

あまりに早すぎる荒川修作の訃報に接し,こころからのご冥福を祈ります。

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2010-05-21 野球のルーツについて問われる。

_ 野球のルーツはクリケットである,○か×か,というクイズをつくったが正解はどちらかという問い合わせが,テレビ番組の下請け会社からきた。

最近,どういうわけか,この種の問い合わせが多くなってきた。「ISC・21」の存在が知られてきたのだと思えば,悪い気はしない。しかし,その問い合わせの中味が,あまりのバカバカしさに呆れ果ててしまう。なので,最近は,まともな問い合わせ以外は,即刻,お断りすることにしている。

今回の問い合わせには,どちらも正解であり,どちらも間違いである,と答えて電話を切ろうとした。そうしたら,どうしてなのか理由を教えてほしい,と食い下がられてしまった。仕方がないので,「きみはクリケットというゲームがどういうゲームか知ってますか」と聞いてみる。やはり,想像どおり「知りません」ときた。「なにか野球関連の本を読んでますか。もし,読んでいたら,その本の題名を教えてください」と聞く。「いろいろ読んだので,題名はいま思い出せません」という。「一冊くらいは・・・」とわたし。「・・・」と相手。こういう人を相手にするのは時間の無駄。「どんな本を読んでも書いてあることなので,そちらを読んでください」と丁寧に言って,電話を切る。これまでの経験では,ほとんどなにも予習もしないで,いきなり電話をかけてくる,まことに失礼な輩が多い。

こういう突然の電話が入ってくると,しばらくは,「野球」に意識が引っ張られてしまって,もとにもどることができない。今回もそうで,野球とクリケットかぁ,などとあれこれ思い浮かべる。そういえば,クリケットのことがわからないまま,本を書いた人がいたなぁ,と思い出す。そう,『ベースボールの夢』──アメリカ人は何をはじめたのか(内田隆三著,岩波新書)である。内田隆三といえば,知る人ぞ知る,社会学領域でなかなかいい仕事をしている人である。しかも,わたしよりはかなり若い人。肩書は「東京大学大学院総合文化研究科教授」。たしか,『消費社会と権力』(岩波書店)という名著を書いた人だ。

だから,この『ベースボールの夢』もなかなかの名著である。少なくとも,後半に展開される論の運びは教えられることが多い。つまり,アメリカのベースボールの「夢」を追った人びとは,ミドル・クラスと新中間階層の人びとである,と。その理由は,自分たちの身分の不安定さと肉体に対する不安,あるいは,「男らしさ」の不足に対する不安を,ベースボールの「観客」になることによって「代償満足」させる機能をもっていたからだ,という。詳しくはテクストで確認してみてほしい。粗筋はこういうことだ。こういう分析ができるのは,さすがに内田隆三だ,ということにしておこう。なぜなら,これまでのスポーツ史研究者やスポーツ社会学の研究者の視線からは,ここまでの分析は不可能だから。でも,ベンヤミンをいくらか視野に入れてものごとが考えられる人間からすれば,この論理の展開の仕方はけして新しくもなんでもない。著者も正直に,171ページでベンヤミンを引いてネタばらしをしている。その意味では,偉い人だなぁ,と感心してしまう。だから,逆に安心して読むことができる。

この本のなかに,じつは,ベースボールとクリケットの関係がかなり詳しく記述されている。しかも,膨大な資料(巻末に一覧になっている)に裏打ちされた,きわめて手堅い論旨を展開している。で,このテクストからも,「野球のルーツはクリケットである,○か×か」は「どちらも正解であり,どちらも間違い」ということははっきりと言える。その理由についても,きわめて的確にまとめがしてある。つまり,結論を言っておけば,野球のルーツについてはいくつもの「神話」が意図的に構築されてきており,その真相はいまだにわからない,ということだ。

内田氏は,大筋においてスポールディングの主張に沿って,このテクストを書いているので,野球のルーツはクリケットではない,という立場に立つだろうとおもう。スポールディングは,なんとしても,イギリス起源のクリケットとは関係なく,まったく独自の発想からベースボールが考案された,と言いたいのだから。つまり,アメリカの愛国主義の路線に乗せてベースボールを商品にしようと企んだ男の編み出した「神話」なのだから。

こういう指摘も,内田氏は的確にしていて,みごとなものである。が,途中から,どうもスポールディングの論調に巻き込まれてしまったのか,野球は「男らしい」スポーツだったから,ミドルクラスの人びとに歓迎されたのだ,というところに帰着してしまう。そこだけが,わたしには不満である。

なぜなら,クリケットはイギリスの上流階級のスポーツで,野球にくらべたら「男らしさ」に欠ける,といともかんたんに断定しているからだ。しかも,このテクストは一貫してこの論旨を展開している。で,おやっ,とおもったのだ。ひょっとしたら,内田氏はクリケットを知らない?,少なくとも,クリケットをやった経験がないな,と。わたしはイングランドのクリケット・ソサイエティの会員で,そのむかし,初心者程度のクリケットではあるが,実際にやってみたことがある。やってみて,びっくり仰天である。こんなスポーツだったのか,と。まさに「男らしさ」の極至・極美に満ちあふれたスポーツ,それがクリケットなのだ。攻守ともに,お互いに,極限に近いところまで「男らしさ」に迫り,競いあうのだ。

第一,イギリスの初期のジェントルマンと呼ばれる人びとがいかに野蛮な人たちだったかはフィールディングの『トム・ジョーンズ』(1749)を読めば明らかだし,それから約1世紀を経て書かれた『トム・ブラウンの学校生活』には,クリケットこそ男のなかの男のスポーツであるということが微に入り細にわたり,美しく描かれている。19世紀後半には,新しい中間階層の子弟を受け入れる新興のパブリック・スクールが乱立し,そこでの理想は「筋骨たくましいキリスト教徒」を育成することであり,その主要な教材がクリケットであったことを考えれば,スポールディングの仕掛けた「神話」がいかにみえみえのものであったかは,明らかである。だから,そのスポールディングの説に説得されてしまったか,とおもわれる内田氏の記述が,わたしには気に入らない。そうおもって,巻末の膨大な参考文献をチェックしてみたら,イギリスのクリケット関連の文献はひとつもない。ディケンズの『アメリカ紀行』はきちんと取り上げているのだから,せめて,ディケンズの他の小説を,どれでもいいから読んでみれば,まず,間違いなくクリケットは描写されているはず。当時の風俗や流行について知るにはディケンズの小説ほどありがたいものはないのだから。

もっとも,クリケットがベースボールよりも「男らしい」スポーツである,という立場に立つとこのテクストそのものが成立しなくなってしまう。ひょっとしたら,承知していて,スポールディング神話に同調したのかもしれない。だとしたら,ベースボールは徹底したスポールディングのでっちあげた「神話」に,アメリカのミドルクラスが踊らされたのだ,という主張をした方がよかったのではないか,とわたしは考える。

とまあ,馬鹿馬鹿しいクイズ番組の問い合わせにはじまって,久しぶりに内田隆三の『ベースボールの夢』を読み返し,意外なところまで考えるはめになってしまった。これもまた僥倖というべきか。歴史記述のむつかしさを,いまさらながら考えることになった。歴史は,その真相は,いつも「藪の中」。その意味ではなんでもありの世界。それだけに慎重を要するところ。どのように自分が納得するか,ということ。そこが最終的に問われる。怖い話ではある。書き手の問題意識のレベルが丸見えになってしまうのだから。だからこそ,思想・哲学の問題。くわばら,くわばら。えっ,雷さま? いいえ,河童さま。

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2010-05-22 『般若心経』のゴールは内在性への回帰?

_ 詩人の伊藤比呂美が『読み解き「般若心経」』(朝日新聞出版社)という本を出した。これがなかなかの絶品である。ぜひ,ご一読を。

正直に告白しておこう。わたしは『般若心経』マニアである。いわゆる『般若心経』の解説本と名のつく本は,おそらく,ほとんど買い集め,熱心に読んできた。それらの本が書棚のここかしこに散在している。そろそろ一カ所に集めてみようとおもっているが,なかなか時間がない。たぶん,それらの本は50冊はくだらないだろうとおもう。

『般若心経』のおもしろいところは,読む人の感性に応じて,いかようにも読解が可能であるという点だ。場合によっては,「意訳」「超訳」というのまであって,こうなると,ほとんど原文から離れてしまっていることもある。それでいて,すばらしく「いい」のである。伊藤比呂美のこのテクストも,詩人の感性にもとづく読解で,なるほど,こんな風にも読めるのか,と感動すら覚えてしまう。どんな風にすばらしいのかは,実際に手にとって確認してみてください。

じつは,かく申すわたしも私家版『般若心経』なるものを,ひそかに試みて私蔵している。それは,これまでの,どなたの読解とも異なる,わたし個人のプライベート・ワールドの展開である。といえば聞こえはいいが,精確にいえば,先人たちの読解の「いいとこどり」である。つまりは,剽窃。ただ,そこにどれだけ特殊個の感性を盛り込むことができたか,が重要なのであろう。

という意味で,今回の伊藤比呂美読解をとおして,わたしはとんでもない世界と『般若心経』とがそのまま通底している,というひらめきを得た。そのことについて,少しだけ書いておこうとおもう。

断わるまでもなく『般若心経』の中核をなす思想は「無」(「空」)である。「なにもない」ということ。わたしたちは五つの感覚器官(場合によっては第六感も)をとおして,いろいろのものが存在していると思い込んでいるが,じつは,その実体はなにも「ない」のだ,という。すなわち「色即是空 空即是色」である。なにもないようでいて「ある」。あるようでいて「ない」。すべての存在は「無常」である,と。無常とは「常ではない」ということ,つまり,すべての存在は時々刻々と変化しつづけているということ。だから,一瞬の存在に気を奪われていてはならない,と説く。一瞬一瞬に変化していくのだから,それらの実体は「無」であり,「空」である,というわけだ。その「無」の境地に到達したとき,人間は「四苦八苦」から解き放たれ,悟りを得る,と。

この世界を,伊藤比呂美は詩人の感性で読み解く。そのしなやかな読解に触発されて,わたしは,突然,とんでもない世界とつながっていることを直観した。それは,バタイユの世界である。

『般若心経』が説く「無」や「空」の世界は,そのまま,バタイユが「水の中に水があるように存在する」と説くときの「内在性」の世界につながっていくではないか,という直観である。煩悩や理性の呪縛を解き放つ時空間が祝祭であり,その原理が,自然回帰への願望であり,内在性への回帰願望であるとすれば,そのヴェクトルは,『般若心経』の説く「無」や「空」への回帰とパラレルである,と。

「色」が「無」であるということは,そこには対象(オブジェ)も事物(ショーズ)も存在しないということ,すなわち,内在性に/を生きる,ということと同義となる。「色即是空」の世界に生きるということは,内在性に/を生きることではないか。そして,「空即是色」の世界を生きるということは,内在性の世界から飛び出して,人間の世界への道筋が,その一方で開かれてあることを提示しているのではないか,と。しかしながら,「空」から立ち現れるオブジェや事物は「色」そのものであるが,それは同時に「空」そのものでもあるのだ,と。

ずいぶんと荒っぽいスケッチを描いているので異論のある人も多いとおもう。とりあえず,ここには直観的にひらめいたアイディアの骨子だけを提示しておくことにする。いずれ,さらに想を練り直し,きちんとした論理を展開してみたいとおもう。それまで少しだけ時間を。

そのむかし,森本和夫さんが『デリダから道元へ』という本を書いたことがある。ずいぶん,むかしのことで,その当時はほとんど理解不能であった。が,フランス現代思想と仏教思想とは,どこかで,なにかが,つながっていると森本さんが説いているんだな,という程度には理解していた。そういう下敷きの上に,「般若心経からバタイユへ」という結びつきを乗せることは可能であろう,とこれまた直観する。たとえば,デリダ的に『般若心経』を読解すれば,『般若心経』とは文字どおり「脱構築」の思想そのものだ,ということになろう。いやいや,もっともラディカルな「脱構築」の思想を『般若心経』のなかに読み解くことが可能である,といまのわたしは考える。

このような傍証もいくつか思い浮かんでくる。これらを一つひとつ検証していけばいい。伊藤比呂美さん,ありがとう。これらの検証が一通り終わったら,もう一度,私家版『般若心経』を書き直してみようとおもう。そのときには,頑張って「公開」してみたいともおもう。その日が遠くないことを祈ることにしよう。今日は忘れられない日になりそうだ。

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2010-05-23 『般若心経』のゴールは内在性への回帰?(2)

_ 昨日のブログのつづき。あまりにも大まかなスケッチで終わっているので,少しばかり補足をしておきたい。誤解を避けるために。

『般若心経』の教えは,わたしたちの身のまわりに存在しているかのようにみえるものは,すべて「無」であり,「空」である,というところにゆきつく。しかし,わたしたちは,生まれてからこの方,さまざまなものを見聞きし,触れ,味わい,匂いを嗅ぎ,記憶し,考えることをとおして,さまざまな経験がからだに刻み込まれていく。そうした経験知がわたしたちの世界を形成し,それが「わたし」にとっての真実だと思い込む。ところが,そのような真実は一人ひとりみんな違う。だから意見の相違が生まれ,争いごとが絶えない。そうして,生きる苦しみ,老いる苦しみ,病気になる苦しみ,死ぬ苦しみに苛まれながら,おろおろと日々を送ることになる。それらはみんな,たんなる幻想にすぎない,と『般若心経』は説く。経験知などというものは,たまたま,その人にとっての知の蓄積であって,ただそれだけのことであって,それ以上のものではない。ましてや,そのきわめて特殊個の経験知にこだわり,しかもそれを他者に押しつけるなどということはあってはならない。それがすべての間違いのはじまりである,と『般若心経』は説く。

それらはみんな幻想であり,「無」なのだ,と。「無眼耳鼻舌身意」「無色声香味触法」であることを,しっかりと気づきなさい,と。つまり,これらの五感や意識から生まれる知は,すべて幻想なのだから,それは「無」に等しい,と。だから,それらを全部捨てて,そのような世俗の世界から抜け出しなさい,と。そうすれば,生老病死や八苦に苦しめられることもなくなるのだ,と。そのさきに広がる世界こそが「浄土」なのだ,と。

さて,ここで,「浄土」とはなにか,という問題が持ち上がる。わたしは,長い間,浄土もまたひとつの幻想だろうと考えてきた。そして,その幻想を信ずるかどうかが「信仰」を得るかどうかの,最初の「飛躍」である,と。そして,その浄土の世界があるかないかと問われれば,パスカルのように,「ある」という方に賭ける,と。最初から「ない」という方に賭けてしまったら,夢も希望もなくる,とパスカルは説いた(かれの場合には,キリスト教の信仰を事例としているが)。

わたしが伊藤比呂美の『般若心経』読解を読んでいてはたと気づいたことは,「浄土」とは「内在性」の世界ではないか,ということだった。そして,それはバタイユのことばでいえば「水の中に水があるように存在すること」になる。つまり,自他の区別のない世界。自他が完全に溶け合っている世界。自己が他者であり,他者が自己である世界。そこは,まさに,「無眼耳鼻舌身意」の世界であり,「無色声香味触法」の世界である。

坐禅の修行では,自然との一体化をとく。つまりは,自他の境界を超えろ,と。そのためには,まず,自己を「無」にしなさい,と。その自己が完全に消え去ったとき,自己は,自己の周囲に存在する他者のなかに溶け込んでしまう,と。それは,すなわち,内在性の世界に回帰することではないか,とこれが昨日のブログの結論であった。となると,ニーチェのいう「永遠回帰」(「永劫回帰」)と同じところに向かうことになろう。バタイユの主張した「エクスターズ」(恍惚)の世界もまた同様であろう(ただ,手続がいささか異なるが)。バタイユが「内的体験」を語り,「非−知」(ここでは「瞑想の方法」が説かれている)を語るのも,そして「エロティシズム」を語るのも,その根源にあるものは同じだ。だから,『宗教の理論』を展開し,『呪われた部分 有用性の限界』を説くにいたるのは,バタイユにとっては,きわめて当たり前のことであり,思考の到達すべき必然でもあったのだ。

晩年の立松和平が『道元』を書き,『般若心経』の解説本を書いたのも,「内在性」への回帰という,抑えがたい欲求がかれのこころを突き動かしたのかもしれない。柳澤桂子が,死線をさまよう難病から抜け出し(何十年という長い闘病生活をへて),そこにみえてきた世界を『般若心経』のなかに見出し,彼女の生命科学者としての独自の視線から『般若心経』読解を試みたのもまた,「内在性」の世界への回帰であった。こういう事例を挙げていくと際限がなくなるので,この話はひとまず,ここまでとしておく。

最後に,内在性に/を生きるとは,ひとことでいえば,動物と同じように生きるということ。つまりは「ふるさと回帰」。人間がヒトであった時代に回帰すること。すなわち,ご先祖帰り。

ついでに触れておけば,祝祭とは先祖帰りのための文化装置。だとすれば,スポーツの原初形態をたずねていくと,この祝祭にゆきつく。すなわち,スポーツの根源的な衝動は先祖帰り。内在性への回帰願望。

いやはや大変なことになってきた。いよいよどこかに引き籠もって,このスケッチの「細密画」を描く必要がでてきた。おもしろい地平に飛び出してきた,と実感する。人生は楽しい。かくあらねば・・・・。

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2010-05-25 「ならぬことはならぬものです」(什の掟)

_ 所要があって会津若松にでかけた。2泊3日の旅である。その旅程のなかに会津藩校日新館見学があった。いわずとしれた白虎隊の学舎である。

むかしは鶴ヶ城の近くにあったが,いまは,会津若松市の郊外の高台に復元移築されている。その規模といい,内容の充実ぶりといい,往時のおもかげを知るには申し分ない復元である。それらを逐一,説明しているわけにもいかないので,もっとも印象に残った教育内容について書いてみたいとおもう。

日新館は全国の藩校のなかでも群を抜くカリキュラムを誇っていたという。現地で買い求めてきた『会津藩校日新館ガイドブック』によれば,以下のとおり。

大きくは四つの柱で構成されている。すなわち,素読所(小学),講釈所(大学),専門科目,武術科,である。それぞれ初級から上級にいたるまでこまかくランキングづけされていて,それぞれの試験に合格するとつぎのランクの授業を受けることができるようになっていて,互いに激しく切磋琢磨するように仕掛けてあった。それはみごとというほかないほどの仕掛けになっている。細部は省略。

会津藩の文武両道はつとに有名で,四つの柱の一つをなす「武術科」の内容はじつにすばらしいものになっている。教科は,弓術,馬術,槍術,刀術,砲術,柔術,居合,水練,武講,土図の10科目。弓術は日置流道雪派,日置流豊秀派,日置流印西派,馬術は大坪流(本流,古流,新流),・・・という具合にことこまかに決まりがあったことがわかる。

わたしが驚いて注目したのは「水練」。日新館の中庭に大きな池をつくり,そこで水練が行われたという事実。これまでのわたしの知識では,水練の場所は,そのほとんどが海や川といった自然の一角にそれらしく施設を整えるか,城郭のお堀を利用するものであった。しかし,ここ日新館では,校庭に相当するところに大きな池を設え,そこで水練が行われたというのである。採用されたのは古式泳法の向井流である。この泳法は,鎧・兜をつけたまま泳ぐことができた,という。あるいはまた,騎乗のまま馬に泳がせる訓練も行ったという。つまり,実践にそのままつかえる泳法を重視していたことがわかる。わが国初の本格的な「プール」がこのようにして誕生したということは注目に値する。

他方,柔術にも注目したい。柔術は,神道精武流,神妙流,稲上心妙流,水野新当流,夢想流の五つの流派の稽古が行われていたという。のちに,西郷四郎という柔術の名手を生み出す背景には,このような藩校時代からの伝統があったことがわかる。ちなみに,西郷四郎は「姿三四郎」のモデルとなった人である。身長は,わずかに150㎝。この小柄な体格ながら,からだ全身を十全にもちいて「山嵐」なる荒技を編み出し,一世を風靡したことはよく知られているとおりである。

特筆すべきは,「武講」なる科目である。内容は,兵学の研究,小教練,大教練の三つ。そして,その等級を,教練,教兵,出師,戦格,許可の五つに分けて,進級させる工夫がなされている。さらには,「土図」という科目では,築城法を教えたという。まさに実戦を徹底して想定した教育内容になっている。

のちの東大総長となった山川健次郎は家老職の次男として生まれ,この日新館で学んだ。成績がきわめて優秀で,飛び級をして15歳で白虎隊(自刃した士中二番隊)に編入されたが,年少のため除隊され,生き残ったといわれる。しかし,本人はそれを生涯にわたって悔やんだという。

会津藩幼年者のために「什の掟」が定められており,その最後のところに「ならぬことはならぬものです」という文言がある。この掟は,6歳から9歳までの幼年者にむけて,その心構えを説いたものである。「年長者のいうことに背いてはなりませぬ」からはじまり,「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」とつづき,最後のところに掟とは別枠で「ならぬことはならぬものです」と教えている。つまり,なぜお辞儀をしなければならないのかと問うてはならない,つまり,絶対服従を幼年のうちに徹底させる,ということを意味している。いうなれば,モーセの十戒のように「汝,殺すことなかれ」と同じように,人を殺すということはしてはいけない,それは理屈ではない,つまり「掟」なのだから,というわけである。

「ならぬことはならぬものです」という「掟」の適用範囲をどこまでとするか,という線引き(境界線の引き方)はむつかしいが,ある種の「けじめ」として,とても重要であるとわたしはいたく感じ入った次第。

会津藩校日新館が提起しているこんにち的な意味については,一度,しっかりと考えてみるに値するものだとおもう。

東大教授の高橋哲哉氏(哲学)は,たしか会津出身と聞いている。会津藩校日新館の伝統がどこかに息づいているのだろうか,などと飯盛山に立って,鶴ヶ城を望見しながらちらりとおもったりした。白虎隊の悲劇については,会津の人びとにとっては忘れがたい記憶となって伝承されている,と聞く。おみやげ物屋さんの一角に,「会津魂」と書かれたTシャツが並んでいて,複雑な思いにふける。なぜなら,この「会津魂」が第二次大戦時には「特攻隊」の精神として鼓舞され,利用されたという事実がある。それが,いまや若者たちのファッションとなっている・・・というのだから。

日新館の武術科については,また,いつか機会をみて,細かな分析をしてみたいとおもう。

とりあえず,旅行の記録(記憶)の一端を。

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2010-05-27 スポーツの世界は「自発的隷従」の花盛り。

_ 「自発的隷従」ということについて,西谷さんがブログのなかで5回にわたって,詳細に論じてくれている。こんなに深い意味があったのか,と感動。

これは,いまのわたしにとっては,まことにタイミングのいい論考で,またひとつスポーツ文化論を展開する上での重要な視座を確保することができた,としみじみおもう。ほんとうにありがたいことである。

「自発的隷従」と「自爆的抵抗」ということばが,ある事象についてのまことにみごとな表現になっていて,ついつい「二項対立」的なレベルで受け止めてしまいがちであるが,それはとんでもない間違いであることが,西谷さんのブログをとおしてわかってくる。この二つのことばは,まったく別次元の事象を,それぞれ個別に言い表すための概念用語なのだ。詳しいことは西谷さんのブログで確認してもらうことにして,ここでは,「自発的隷従」がスポーツの世界では花盛りであることを紹介してみたい。そうすれば,「自爆的抵抗」と二項対立にはならないことがおのずから明らかになろう。

阪神タイガースの新井選手が金本選手を「兄貴」と呼んでこころから慕っていることはよく知られているとおりである。まさに,全身全霊をこめて「自発的隷従」の姿勢を示しているのである。つまり,プロ野球の選手として,あるいは,ひとりの人間として,もちろん,打撃の名手として,ありとあらゆるものを学びとろうとする姿勢,それは「自発的隷従」そのものである。スポーツの世界にあっては,自分の尊敬する先輩選手や,監督・コーチにたいし,みずからの身を投げ出すようにして「自発的隷従」の姿勢を示すことは,まさに美談である。

武術の世界でも,自分の心酔する師匠のもとで真剣に稽古をつけてもらおうとおもえば,滅私奉公の覚悟で「自発的隷従」の姿勢をとるのは当然のことである。それができないのであれば,さっさとその師のもとを去るべきである。

日本の伝統芸能の世界での「習い事」も,みな,同じである。まずは,だれをわが師匠として仰ぐか,ここまでは慎重に取り組まねばならないが,ひとたび,師匠と決めたからには滅私の精神で「自発的隷従」につとめる。その熱意をみとどけながら師匠は稽古の質・量を見極めていく。そこはお互いの阿吽の呼吸が大きな意味をもってくることになる。

しかし,この関係がひとたび軋みはじめると,そのさきは大変である。あっさりと関係を清算することができればいいが,そうでないと悲劇が待っていることになる。いわゆる体育会系の不祥事の根は,当初の思惑とはことなる微妙なズレや軋みにある。それが次第にエスカレートすると,これは恐るべき暴力装置として機能しはじめる。その別れ道は,ほんのささやかな気持ちのズレからはじまる。

しかし,よくよく考えてみるまでもなく,わたしたちの日常生活にあっても「自発的隷従」はあちこちに見届けることができる。それどころか,日本的習俗の多くは「自発的隷従」をその根源に内包している,と言っていいだろう。つまり,わたしたちの日常の慣習行動の多くは「自発的隷従」に支えられているのだ。みんなが仲良く,平和に暮らしていくための長年の経験知として生み出されたもの,それが「自発的隷従」だ。そこには限りなき「善意」が前提とされている。自己主張を極力抑え,すぐれたリーダーのもとで「自発的隷従」につとめること,これがお互いに安住の地を確保するためには必要なのだ。

しかし,ときに,この「善意」を前提とする「自発的隷従」を逆手にとって,大きな暴力装置を構築する輩が現れる。しかも,それを制度化し,合法的に正当化し,ついには「正義」を振りかざす輩が現れる。これが問題なのだ。にもかかわらず,こういう輩を支える,もうひとつの「自発的隷従」が立ち上がり,機能しはじめる。政治や経済の世界だけではなく,スポーツの世界でも同様である。

このように,ひとくちに「自発的隷従」と言っても,その意味内容はきわめて多義的であり,両義的である。そのあたりのことを,具体的な事例を挙げながら,慎重に腑分けしながら,分析・論考を展開していくことが必要なのだ。この地平に立つとき,また新たなスポーツ文化論やスポーツ史研究の可能性が開けてくる。

楽しみがまたひとつ増えた。ありがたいかぎりである。

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2010-05-28 武家と八幡様と牛の関係。

_ 会津若松の旅で武家屋敷を見学した折に,屋敷内に八幡神社が祀ってあって,そこに牛がうずくまった姿勢の像が2体置いてある。同行者から,なぜ,ここに牛がいるのか,と問われたが答えられなかった。

同行者のおっしゃるには,この牛は禅の「十牛」と関係あるのでは・・・?というものであった。わたしの記憶では,牛を探しにいった童が牛の背中に乗って笛を吹きながら帰ってくる,という図はよく覚えているが,牛がうずくまった図というのは定かではなかった。ので,のちほど調べてお知らせします,ということになっていた。

そこで,早速,『十牛図』自己の現象学(上田閑照,柳田聖山著,ちくま学芸文庫)を繙いて調べてみる。少しだけ復習をしてみると,第一:尋牛,第二:見跡,第三:見牛,第四:得牛,第五:牧牛,第六:騎牛帰家,第七:忘牛存人,第八:人牛倶忘,第九:返本還源,第十:入○垂手(にってんすいしゅ)(○は「てん」という漢字で,意味は「街」のこと)の十段階を説明したものである。ここには,うずくまっている牛はない。したがって,禅でいう「牛」とは関係なさそうだ。だとすると,なぜ,八幡神社に「牛」がうずくまっているのか,ということになる。「牛に引かれて善光寺」とふるくから言われているので,仏教と「牛」は密接な関係がある。しかし,八幡神社と「牛」の関係は聞いたことがない。なぜ,ここに「牛」がうずくまっているのだろうか。見ると,お参りにきた人が触るらしく,あちこちがつるつるに光っている。「牛」のからだに触るとなにかご利益があると信じられているのだろう。お寺の本堂の脇にいる「おびんづるさま」と同じような役割をはたしているというのだろうか。

それよりも,わたしが驚いたのは,会津藩の武家屋敷(家老西郷頼母の屋敷)のなかに八幡神社が取り込まれているという立地条件である。しかも,八幡信仰は宇佐八幡にはじまるように北九州に拠点がある。そこから全国に広まっていった神社である。いってしまえば,半島からわたってきた神々のうちのひとつである。しかも,初期のもの。祭神は応神天皇。母は神功皇后で,半島とは密接な関係のある人物である。(一説によれば,応神天皇を身ごもったまま半島に攻め込んだ,という伝説もある)いうなれば,半島との関係が比較的色濃く記憶されている神社が,どうして会津に存在するのか。そういえば,会津の老舗の和菓子屋さんには「朝鮮人参飴」がおいてあり,そこの内儀さんの話では,「会津人参」ともいって,会津ではむかしから朝鮮人参の栽培は盛んだったし,いまも特産物として盛んに生産しているという。会津から日本海に向かっていく街道をたどれば,そのまま新潟にいたる。朝鮮文化が直接,伝わってくる可能性もなきにしもあらず,ということか。このあたりのことは,少しく調べてみるとおもしろそうだ。

さきにも書いたようにこの武家屋敷は家老の西郷頼母の屋敷を復元したものである。西郷頼母の養子が「姿三四郎」のモデルになったといわれる西郷四郎だ。武術を重んずる家系であったことは,会津の土地柄としても当然のことではあった。だから,八幡神社(会津天満宮とも言われる)が祀られていても不思議ではない。なぜなら,八幡神は「武」の神様であり,とりわけ「弓矢」の神様として知られている。武家屋敷にあっても不思議ではない。ましてや,会津天満宮ということになれば,祭神は「菅原道真」だ。つまり,学問の神様。文武両道をめざした会津藩校日新館の精神からすれば,そのままぴったりだ。

ついでに触れておけば,菅原道真の祖先は野見宿禰である。野見宿禰は天皇の崩御にともない人身御供の代わりに埴輪を提案した人物でもある。相撲が強かっただけではなく,葬祭儀礼を司っていた家系でもある。しかし,野見一族は代々,優秀な人材が輩出して,天皇に篤くもてなされることになる。しかし,野見=葬祭屋という人びとの記憶を払拭することができないので,天皇に願いでて,平城京の西にある菅原村に転居し,菅原姓を名乗ることになる。その子孫のなかから菅原道真がでてくる。それでも平安京の貴族たちは,もとは葬祭屋ではないか,として菅原道真を蔑視し,ついに謀をして九州に流してしまい,とうとうその地で死を迎える。その直後に,京都は雷が鳴りつづき,疫病が流行し,天皇の子どもたちもバタバタと死んでしまう,という不思議なことが起こった。これを,人びとは菅原道真の怨霊による祟りだ,と信じこの怨霊を鎮めるために北野天満宮を建立し,ようやく騒ぎが収まったという。いまでは,京都の町衆のお祭りとして知られる祇園祭は,その淵源をたどっていくと,天皇家による北野天満宮の祭礼にゆきつく。

さて,話は脇道にそれてしまったが,では,なぜ,会津八幡宮(会津天満宮)に「牛」が鎮座ましましているのか。この疑問は,いまも,わたしには解けない。あえて類推するとすれば,神仏習合の影響で,仏教の「牛」信仰が八幡信仰と習合したのではないか,という程度のことである。もし,これ以外の関係をご存知の方がいらっしゃったら教えてほしい。天神様と牛の関係は,どういう理由からなのか。そういえば,北野天満宮の境内にはいろいろの神様が祀ってあって,その中に牛がうずくまっていたような記憶がかすかにあるが・・・・。

そうだ,北野天満宮の境内図を調べてみよう。そうすれば,その確認はできよう。ここまで書いてきて,またまた宿題がひとつ増えてしまった。

これを書きながら,じつは,もう一つの発想である「河童」のことを考えているのである。わたしの友人の一人に,河童と天神様(菅原)との関係を調べている人がいて,この世界もまたとてもおもしろい未知の世界が広がっているのである。その中心に位置づくものが「相撲」である。

ひとまず,この話はここまで。

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2010-05-30 天神様と牛の関係について。

_ 早速,お二人の方が書き込みをしてくださり,ありがとうございました。29日(土)に「ISC・21」5月犬山例会があり,その折にもいろいろと教えてくださる方があって,わたしの無知を恥じた次第です。

あわてて,あちこち事典などを調べてみましたら,さまざまな説があることがわかりました。その結論は,「天神様と臥牛とは切っても切れない関係がある」ということでした。お二人の書き込みとも重なりますが,通説・俗説をふくめて,以下に列挙しておきます。

○道真は丑年生まれだったから。

○太宰府に左遷されるときに,牛が道真をみて泣いた。

○道真は牛に乗って太宰府へくだった。

○道真は牛車に引かれて太宰府にくだった。

○道真には牛がよくなつき,道真もまた牛を愛育した。

○牛が刺客から道真を守った。

○道真の墓所である太宰府天満宮の位置を決めたのは牛である。

以上です。

要するに天神様と臥牛とは「セットもの」であるということ,だから,どこの天満宮に行っても「臥牛」はかならず飾ってある,という次第でした。当初の疑問であった仏教との関係も,そして,もちろん禅(十牛図)ともなんの関係もない,というわけです。

これでとてもすっきりしました。あいまいなまま,というのはなんとも気持ちの収まりが悪いものです。ひとまず,安心。

なお,菅原道真に関しては,じつに多くの伝説・伝承が残されています。とりわけ,相撲や河童との関連や七夕信仰との関係などを知りたいとおもっています。どんな情報でも結構ですので,教えていただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

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2010-05-31 アイデンティティーなるものの不可思議さ。

_ 犬山で開催された「ISC・21」5月例会で,橋本一径さんが「現代フランス身体論におけるスポーツ」というタイトルで,とても刺激的なプレゼンテーションをしてくださった。

橋本さんといえば「指紋」の研究者として知られ,この間(5月8日)の日本記号学会でも「指紋」をとりあげた研究発表をされ,久しぶりにお話を聞かせていただいた。久しぶりに,ということの意味は,もうずいぶん前(2003年)にピエール・ルジャンドルが来日した折にワークショップが行われ,そのときに橋本さんが3人の論者のひとりとして発表されたのが,やはり「指紋」の話だったからだ。しかも,そのときに橋本さんの発表にたいしてピエール・ルジャンドルが異常ともいえるほどの強い関心を示し,わがことのようにルジャンドルが喜んでいた姿がいまも鮮明に思い出されるからだ。ルジャンドルは自分の専門であるローマの法制史を背景に「ペルソナ」の話を引き合いに出し,アイデンティティを特定する方法そのものが,いかに「ドグマ学的」であるかということを語りながら,「指紋」もまた近代が生み出したアイデンティティを特定するための方法として,科学という名のもとでの「ドグマ」だと論じていたように記憶する(もう,古い話なので間違っているかもしれない。しかし,記憶というものは,つねに,自分にとって都合のいいように編集されて記憶されるものだそうなので,だれの記憶が正しいかということになるとだれも責任のもちようがなくなる。しかも,記憶は何回も思い出したり,話したりしているうちに,そのつど「編集」の手が加わり,どんどん変化・変容していくものなのだそうだ。というわけで,以上はわたしの現段階での記憶である,といういいわけまで)。

で,そういうこともあって,今回の橋本さんのプレゼンテーションをとても楽しみにしていたのである。当日,配布してくださったレジュメの大きな見出しだけを紹介しておくと以下のようである。

1.はじめに・・・「指紋」と身体

2.ルジャンドルの身体論・・・心身二元論の逆転/「身体」を語るための「魂」

3.ジャン=ピエール・ボー『盗まれた手の事件』・・・法の主体としての「人格」/民事死/新生児の「お披露目」

4.共和国的身体の教育・・・フランシス・アモロス/ガスパール・いタール

5.身体の計測・・・力量計/速度/動きの断片化/映像と身体

6.身体とアイデンティティ──「生まれながらの身体」とは何か

わたしにとっては,いずれのテーマもきわめて刺激的であったが,最後の「生まれながらの身体」についての議論が強く印象に残った。そして,この問題こそ「21世紀スポーツ文化研究所」が取り組むべき重要なテーマのひとつだ,ということを前提にして,この議論をもう少し深めていただきたい,とお願いをした。にもかかわらず,橋本さんが応答するいとまも与えることなく,間髪を入れず,わたしの問題提起とはなんの関係もない話を展開した人がいて,せっかくの議論が台無しになってしまった。途中で何回も「困った人だ」とおもいながら,強引に話をもとにもどそうかな,とも考えたが大人げないと判断してやめにした。研究会ではよくあることとはいえ,橋本さんにはたいへん失礼なことをしてしまった。

わたしが「生まれながらの身体」につよく惹かれたのは,5月8日の日本記号学会での橋本さんのご発表の結論のところで「同じような姿・形をした人間が増大しつつある傾向」について一定の危惧をいだいている,という趣旨の発言がひっかかっていたからである。そういうこととも関連させて,21世紀の身体とアイデンティティの問題をどのように考えていけばいいのか,議論したかったのだ。それがまた,このところこの研究会でみんなで積み上げてきた『理性の探求』(西谷修著,岩波書店)読解と,そこから浮かび上がってきた「理性」が「狂気」と化す事態を明らかにすること,しかも,できるだけ具体的な事例を挙げて・・・とつながっていく重要なテーマでもあったのだ。だから,こういう研究会の流れを無視して,自分の言いたいことだけを言って,せっかくの議論を台無しにしてしまうことのマナーの悪さは許されるべくもない。

話が妙な方向にいってしまったが,6.身体とアイデンティティ の議論は次回の名古屋例会の折にもう一度とりあげていただけるとありがたいとおもう。つまり,「生まれながらの身体」をとおして考えなくてはならない問題は,ドーピング問題,セックス・チェック,性同一性障害者とスポーツ参加の問題,障害者スポーツの問題,など多岐にわたる。

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