Diary


2010-06-01 『ファミリー・シークレット』を読む。

_ 仕事に追われていて好きな小説を読む時間がもてず,このところ欲求不満。忙中に閑あり,とばかりに間隙を縫うようにして柳美里の『ファミリー・シークレット』を読む。

本を読む時間のない忙しいときに限って本を買う。これはむかしから変わらないわたしの習性のようなもの。買うことによって欲求不満の一部を解消しているのかもしれない。だから,読んでない本がつぎつぎにたまっていく。その未読本の山のなかから,なんの根拠もなく手が伸びたのが柳美里の『ファミリー・シークレット』だった。が,まぎれもなくいい本だった。読み終えて大満足。

テーマは「幼児虐待」。柳美里自身が10歳になる息子にいらだち,いつのまにかけたたましい母子の葛藤がつづく。母親である作家は息子が「嘘をつく」といって叱る。叱れば叱るほど「嘘」はエスカレートしていく。ついには「子どもなんていなければいい」と本気で考えはじめてしまう。

とうとう思い余って作家は心理療法士を尋ね,診断を受けることになる。その診断の経過を軸にして,作家と息子の関係,作家と父親との関係が浮き彫りになっていく。作家もまた幼児のころに父親から「虐待」を受けたことがトラウマとなっていて,その反動が息子に向かっていく。自分が受けた「虐待」を,こんどは「無意識」のうちに息子をターゲットにして「反復」してしまう,その恐ろしさを作家は小説という形式のなかで展開する。自分でもまったく気づかない「二重人格」を演じていることになる。最近のことばでいえば,「解離性自己同一性障害」(Dissociative Identity Disorder = DID)によく似た現象ということになろうか(書きながら,少し違うなぁ,と思いつつ)。

診断を受ける前にまず二つの約束を守るよう指示される。ひとつは,自分の命を無駄にしないこと,もうひとつは,他人の命を犠牲にしないこと。その前提で,心理療法士は全部で5回の面談を行う。最後には,作家の父親をまじえた三者面談も行う。

そのなかのひとつ,わたしにとって強烈なインパクトとなって印象に残った話を紹介しておこう。それは「虐待」に対する「記憶」の問題である。

作家は6歳のころに,自分の犯した過失を謝らないという理由で,父親に丸裸にされて車で山中に運ばれ,置き去りにされたという。しかも,真冬に。そのあと,どのようにして家にもどったかは記憶がない,と。このことについて作家は,別居して長い間,会ったことのない父親に直接,問いかける。父親の答えは意外である。たしかにそのようなことはあった。しかし,丸裸ではない。パジャマを着ていた。置き去りにしてきたが,すぐに引き返して車に乗せて帰ってきた,という。それでもお前は謝らなかった,と。

人間の「記憶」というものは,かくも違うのである。心理療法士は,その間に入って,調整を行う。記憶というものは,自分の記憶の引き出しから何回も出し入れしているうちに,自分のつごうのいいように編集されていくものだ。別の言い方をすれば,自分を正当化するために少しずつ歪曲されていく。そして,自分なりに納得のいくかたちで定着する。それが自分の生活体験の「記憶」というものの性格なのだ,と。だから,作家の記憶も父親の記憶も,事実からはおのずから遠ざかってしまうのだ,と。だから,どちらが「正しい」ということはありえない,と。

しかしながら,人間は,自分の「記憶」が「正しい」と信じて生きるしか方法がないのだ。このようにして幼児からの生活体験の「記憶」を蓄積し,合理化することによって,次第に自己の「アイデンティティ」を形成していく。そこでできあがる「アイデンティティ」とはなにか。これが,この小説の山場のひとつだ。わたしには,ここが一番,強烈だった。

作家がここに提起したのは,アイデンティティに対する根源的な問いである。いかにも現前/厳然として存在しているかのようにおもわれている「アイデンティティ」の根拠はあいまいなのである。柳美里には,作家としての知的な作業に集中する顔と,その緊張をどこかで解放する顔と,そして息子の「嘘」にいらだち「虐待」にまで向かってしまう顔の,少なくとも三つの顔がある。それはわれわれとて同じだ。場合によっては,もっと多くの顔を使い分けて,現実の生活をかろうじてクリアしているにすぎない。わたしにはいったいいくつの顔があるのだろう,と読後にしばらく考えてしまった。

だからこそ・・・と橋本さんの「指紋」の研究の意味が,ふたたび蘇ってくる。つまり,個人を特定しなくてはならない社会(近代社会のきわだった特徴のひとつ)とはいったいなんなのか。しかも,その個人を特定するための「科学的な方法」がつぎつぎに開発されていく。しかし,同時に,個人を特定することの「困難さ」もまた科学の力によって明らかになってくる。

自己同一性とはなにか。こうして「わたくし探し」はますます迷宮に入っていく。これはヨーロッパ近代が生み出した「個人」を中心にした考え方の到達点のひとつだ。それを「キリスト教的」と呼ぶことも可能だろう。なぜなら,仏教的な考え方では,個を「無化」するヴェクトルが修行のひとつの眼目となるからだ。言ってしまえば,「わたし」という呪縛から解き放たれること,あるいは,「わたし」というものはあるようであってない,ないようであってある,そういう存在なのだ,と。すなわち,「色即是空」「空即是色」というわけである。

そういえば,作家の柳美里さんは,キリスト教の教会に行って「祈る人」であったと記憶する。キリスト教信仰への「信」の置きかたがどの程度のものであるかは,確認できてはいないが・・・・。

いずれにしても,考えることの多い作品で,わたしとしては大満足。

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2010-06-03 鳩山首相の辞任劇。

_ いつも立ち寄る鷺沼のコンビニのおばちゃんが「鳩山さん,辞めちゃいましたねぇ」と声をかけてきた。昨日の夕刻のことである。

水曜日は夕食を自分で用意するので,卵と納豆とヨーグルトを買ってレジに行く。と,ときどき会話をすることのあるおばちゃんが(ほかのパートの人はなにも言わない),あきれ顔でそう教えてくれた。わたしもびっくりして「えっ,ほんとうですか」と思わず念をおしてしまった。「だれがやっても同じですよねぇ」とおばちゃん。「だれがやっても同じでは困るンですよねぇ」とわたし。辞任をトップで報じている夕刊を買って事務所へ。

夕食をとりながら,新聞を読む。そして,ついでに携帯のテレビでニュースをみる。ほぼ1時間の特番を組んでいたが(NHK),解説者の話に腹がたってきて,お前さんたちの目玉はどこについているんだ,と怒鳴りつけてテレビを切る。夕食が終わってから,どうにも腹が立ってきて,ふだんは飲まない日本酒を飲む。これも腹立ちまぎれに,納豆の玉子とじなるものをつくって,つまみにする。

鳩山君はなんでこんな辞め方をしてしまったのかなぁ,と考える。どうせ辞めるのであれば,もっといい辞め方があったろうに・・・,と。結果論なら,だれでもなんとでもいえる。わたしもそこに便乗して,つぎのようなことを考えてみた。

「最低でも県外」とあそこまではっきりと断言したのに,突然,「抑止力」なるものをもちだして腰砕けになってしまった。せめて,アメリカと一回ぐらいは「体当たり交渉」をして,アメリカの(おそらく独善的な)応対ぶりをさらけ出して,国民に知らしめることと,もう一つは,全国知事会にもっとしつこく協力依頼をして,どれほど全国の知事たちが無責任に基地を沖縄に押しつけて平然としているかを国民に知らしめること,のこの二つくらいはやって,それでもどうにもならないからという理由で「自爆的抵抗」を示すべきだったのではないか。そうすれば,はじめて日本国民全体が目覚めるチャンスが到来したかもしれないのに・・・・。これでは,外務官僚やメディアや通俗的評論家と同じアメリカへの「自発的隷従」で終わってしまう。

政権交代のミッションの一つは,普天間基地問題を,これまでの自民党路線とは違う新たな方法での解決の道を探ることにあったのではないか。そして,その方法の模索をとおして,日本国民全体に普天間基地問題解決の方途を考えさせる絶好のチャンスを開くことにあったのではないか。

それもなしえないまま,「宇宙人」的でありながらも「自閉的」な辞任劇を演じておしまいでは,なんともはや情けない。つぎの代表は,このことをしっかりと肝に銘じて,取り組んで欲しいものだ。

こうなったら,せめて,小沢君を「政界引退」まで道連れにしていってもらいたい。そして,完全に生まれ変わることが,いまの民主党が生き残るための唯一の選択肢なのだから。そうは問屋が卸すまいが・・・・。

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2010-06-05 鶴見俊輔の『想い出袋』を読む。

_ しばらく前の新聞の書評で絶賛されていたので,読もうとおもっていたのだが,地元の本屋さんに配本になっていない。

とうとうしびれを切らして,渋谷まででかけて買ってきた。3月19日に第一刷だったものが,5月25日には第四刷になっている。ということは相当に売れているということ。売れる本は,都内の大手書店が買い占めをしてしまう。だから,川崎くんだりまでは配本にならない。本の流通がおかしくなったのは,もう,ずいぶん前からではあるが,最近,とみにひどい。これではアマゾンのようなシステムがますます広まっていくのは当然でもある。ましてや,iPODの登場である。これでは「本屋文化」はまもなく廃れてしまうことは間違いない。

それでも,わたしのような世代にとっては,やはり本は自分で手にとってめくってみて,それなりの「あたり」をつけてから購入するのが習慣となっている。だから,暇があれば本屋に立ち寄って,あれこれ手にとってめくってみる。それがまたなんとも楽しい。ところが,その楽しみもどんどん減ってしまっている。

なぜなら,思想・哲学のコーナーが,みるみるうちに縮小してしまって,本格的な哲学書はほとんど置いてない。渋谷まででかけても,まともな哲学書は置いてない。仕方がないので,やはり,神田まででかけ本屋のはしごをする。そうするとなんとか欲求不満を解消することができる。それにしてもお粗末である。

わたしが,この溝の口に引っ越してきたころ,つまり,いまから12年前には家の近くの本屋にぶらりと散歩にでて,哲学書を立ち読みする楽しみがあった。そのコーナーも相当の面積を占めていて,ほとんどここで要が足りた。しかし,いまではみるかげもない。たったこれだけかい?と情けなくなるほどだ。

いきなり愚痴からはじまってしまった。

待ちに待った本を手に入れて,勇んで読みはじめた。新聞の書評には,エッセーの手本のような名人の文章を堪能すべし,とあった。コンパクトに味のある内容を書き込むことはなかなかできない芸である。その芸の一端を垣間見たいと熱望していた。だから,期待値が最初から異常に高かった。だからなのだろう,なるほどという満足感が半分,がっかりという失望感が半分。

鶴見俊輔氏は1922年生まれというから,もう88歳になる。ならば仕方がないのかともおもうが,いささか不満。長い間,『図書』に連載されていたので,ときおりお目にかかってはいた。が,こうしてまとめて読んでみると,また,あたらしい発見もあって楽しいは楽しい。その分,あらも見えてきてしまう。これは編集担当者の責任でもあろう。なにが不満かといえば,同じ話の「くりかえし」が多すぎる。これはいただけない。

わたしが鶴見俊輔という人を意識したのは「べ平連」以後であり,そのころから『思想の科学』を読みはじめた。わたしのような呑気な人間からすると,いささか意表をつく言説があって,不思議な存在であった。その事情もこの『想い出袋』(岩波新書)を読むとかなりわかってきて,その点は満足。

かなり若いときにアメリカに留学したことは知っていたが,中学2年生で退学になるほどの「不良」(ご本人がそう書いていらっしゃる)で,仕方がないので親がアメリカに追い出したのだ,という。英語がさっぱりわからず,相当に苦労なさったようだが,それでもハーバード大学哲学科に進学するのだから,やはり素材が違う。しかも,いつのまにか英語でものごとを考えるようになり,日本語を忘れかけていた,という。戦争がはじまって,これまた大変な苦労をして帰国するのだが,その当初は日本語で文章を書くのに苦労したという。

この人にも不思議体験があって,そこから世の中が一変したという。それは,アメリカにわたってしばらくしたころ,風邪を引いて高熱を発したときのことである。当時のアメリカの風邪の直し方は,薬は一切使わず,ただひたすら水かジュースを飲みながら寝ているだけだったそうだ。その間に,自分のからだが大きくなったり小さくなったりする夢をみた,という。しかも,あるときは眼の奥から金の粉がサラサラとこぼれ落ちる夢をみた,と。一週間ほどわけのわからない夢をみつづけて,熱が下がったので学校に行ってみたら,英語がわかるようになっていたという。こんどは日本語がひとことも口からでなくなってしまったという。15,6歳の少年にはこんなことも起こるものだ,とご本人は淡々と書いていらっしゃる。以後,別人になられたのであろうか。

もうひとつ,意外だったのは,ながく「うつ病」と付き合って生きてきたとのこと。だから,できるだけ家に引き籠もっているようにしていた,という。お酒も一滴も飲めない体質だとか。ひたすら本を友として生きてきたという。「べ平連」の活動がとても印象深く残っているので,元気な活動家だと思い込んでいた。ところが人前にでるのはあまり得意ではない,と。講演やシンポジウムは,いつも「うつ病」があるので突然,お休みすることになるかもしれないという前提で引き受けたという。そういえば,いつだったか京都の国際会議場で開催されたシンポジウムのリーフレットに「鶴見俊輔氏はつごうによりお休みされるかもしれません」という但し書きがついていて不思議におもったことがある。でも,そのときは元気にでてこられて,しかも元気のいい発言をされていた。まさか「うつ病」を抱えていらしたとは知らなかった。驚きである。

とまあ,こんな話がつぎつぎに登場する。

それなりに面白い本ではあるが,どこか意味不明な寂寥感が漂う。それもまた鶴見俊輔という個性が発する謎めいた部分の表出なのだろうか。

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2010-06-06 晴れの日曜日,人がいっぱい。

_ 昼少し前に鷺沼の事務所に向かう。溝の口の駅までの道も,鷺沼の駅から事務所までの道も人でいっぱい。こんな情景ははじめてだ。なにかいいことがあったのだろうか。

時間が時間だったからか,高齢者と赤ん坊連れの若夫婦が多い。若者たちはもっと早くでて,目的地に向かったのだろう。中高生はスポーツの対外試合に忙しい時期を迎えているはず。

高齢者はなぜか群れをなして歩いている。きれいにおしゃれをしたグループと,ウォーキング・スタイルのグループの二つのグループ。それに老夫婦のウォーキング。高齢者が元気なのは最近になって際立っている。これからますますそういう人が増えてきそうな感じ。それはそれで結構な話。

今日,気になったのは,老夫婦の二人連れの散策の姿。笑顔がこぼれて幸せそうな雰囲気のカップルはごく少数。ほとんどはお互いにブスッとした顔をして,会話もなく,ただ,なんとなく歩いているという風情。家にいても気が重くなるだけなので,天気もいいことだし,外にでて散策でもすればいくらかこころも晴れるかと,お互いに期待してでてきたものの,やはり,家のなかにいるときと同じ・・・という空気まで読めてしまう。自分がそうだから,他人さままでそのようにみえるだけだと叱られそうだが・・・。

幸か不幸か,わたしは日曜日も足どりも軽く事務所に通う。そして好き放題に時間を費やす。最高の贅沢というものだ。事務所に着いたらすぐにコーヒーを入れて,のんびりと味わう。もちろん,コーヒー豆を挽いて,じかに湯をそそぎ,そのまま飲む。これがまたたまらない。それからおもむろに本をとりだす。それが好きな本であっても眠くなれば昼寝。腹がへったらそうめんを茹でて食べる。口直しに,また,コーヒー。気が向けば,ストレッチをやって,太極拳の稽古。これをやると汗びっしょりになるので,そのあとはシャワー。最初はお湯で流し,後半は水で流す。そんなことをしているだけで,あっという間に午後7時になる。それから洗い物をして家路につく。

とまあ,こんな具合である。時間が,全部,自分の自由になる。こんなありがたいことはない。すまじきものは宮仕えとはよく言ったもので,リタイアしてみてしみじみそうおもう。時間に追われることもなく,のんびりと,ありあまる時間を堪能している・・・と書くと,ほんとうのことを知っている人から叱られそう・・・。このあたりで自分のことはやめにしておこう。嘘ばっかり,と言われないうちに。

鷺沼から事務所までの道沿いには,いつも書くように,季節の順にさまざまな草花が咲いている。いまは,つつじが真っ盛り。公園の植え込みも,どこぞの屋敷の囲いのつつじも,そして,わたしの事務所のあるマンションの一角にも,いたるところつつじが満開。ところどころに,ねずみもちの木が白い小さな花をいっぱいにつけて,いまがピーク。意外にあちこちにこの木が植わっていることに気づき,いささか驚き。公園の隅っこには,ところどころに鬼アザミがにょきにょきと勢いよく生育している。この一週間あまりの間に一気に存在感を増している。が,この花はよほど運がよくないと公園管理者に刈り取られてしまう。わたしの好きな花なので,そのままにしておいてほしいのだが・・・。元気のいいものはわたしの背丈くらいになることがある。こうなると,いささか圧倒されてしまうが,頼もしいなぁ,ともおもう。

それと,今日,偶然みつけたのだが,ドクダミの群生があった。こちらも白い花をいっぱいつけて,いまが見ごろ。子どものころ,寺で育ったので,家の裏側などにこのドクダミがいっぱい生えていた。下痢をすると,早速,このドクダミを煎じて飲まされた。それがどういうわけか,とてもよく効いた。お盆近くなると境内の大掃除をする。このドクダミもそのときには目だつところのものは全部引き抜く。そのあと手についた匂いがなかなかとれず困ったものだ。

もう数年前に,太極拳の李老師が,わたしと一緒にどこかの道を歩いていたら,突然ドクダミをみつけて,一本引き抜いた。そして,黙って根の白い部分を噛んでいる。おいしいからわたしにもそうしろという。ドクダミの根が白くて長いことはむかしからよく知っている。しかし,これを噛むとほのかに甘い汁がでてくるとは知らなかった。李老師によれば,中国では,子どもたちは遊んでいて口が乾くとこのドクダミの根を噛んだものだという。しかも,健康にとてもいいのだ,という。なるほど,日本でもドクダミは薬草の一種として大事にされていたのは,中国の漢方薬とつながっているんだ,と妙なことに感心した覚えがある。

今日は残念なことに人が大勢歩いていて,ドクダミを引っこ抜いて噛むことはなんとなく気が引けた。いつか,人目につかないときに,中国の子どもにあやかって噛んでみようとおもう。なんとなくドキドキしながら・・・。

ハトヤマ君が去って,カン君が現れて・・・政界の方もしまりがない。街ゆく人びとの顔もどことなくしまりがない。元気はつらつという顔が少ない。よちよち歩きの小さな子どもが親の手を逃れて走り出すときの顔だけが,天真爛漫で,罪のない明るい笑顔。こういう笑顔をたくさんみたい。

親の手につながれているときは,この子はたぶん「事物」そのもの。親の手を逃れて駆けだしたときには,おそらく「内在性」そのもの。自然回帰をはたし,永遠回帰のまっただなかで,差異のある「反復」を存分に満喫しているに違いない。そう顔に書いてある。少なくとも,わたしにはそう読める。だから,こちらまで嬉しくなってくる。できることなら,わたしが「永遠回帰」してみたい。よし,こんどどこか広い公園に行って,「永遠回帰ごっこ」をしてみようっと。

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2010-06-07 『阿修羅』を読む。

_ 山積みになっている本のなかから,ゲンユウソウキュウさんの『阿修羅』を引っ張りだして読む。ちょっとだけあたりをつけるつもりだったのに,一気に最後まで読む。

久しぶりに人間とはなにか,と考え込んでしまう。解離性同一性障害(DID)をもつ女性の物語。一人で三人の人格をもつ。つまり,三人の名前と顔をもつから「阿修羅」というわけだ。この三人が入れ代わり立ち代わり現れる。入れ替わると顔の表情もからだつきや物腰も変化してしまう。もちろん,声も話し方も変わる。戸籍上の名前をもつ本人だけが,なにも知らない。あとの二人の人格は,本人のことも,もう一人の隠れた人格のことも知っている。結婚して3年になる夫が,初めてその現場に立ち会い,あわてる。わたしの知っていることばでいえば「多重人格者」。自分の妻だとおもっていた女性(実佐子)が,ある日,突然,「わたしは友美よ」と語りだしたら,だれだってあわてる。いったい,なにが起こったのか,と。そういう人の実話については,これまでにも何冊もの本になっていて,読んだこともある。

しかし,ソウキュウさんはこれを小説のテーマとしてとりあげた。そして,心理療法士の手によって,この解離性同一性障害をもつ「実佐子」さんを治療していく経緯を,くわしくたどっていく。ソウキュウさんは勉強家である。実際に治療にあたっているお医者さん(複数)から取材し,自分で書き上げた小説の「校閲」までしてもらいながら,さらに推敲を重ねたという。禅僧としての本格的な修行をすませて現職の禅寺の住職をつとめる。そのかたわら,小説を書く。その小説は,仏教的な知識だけではなく,仏教の経典で説いている教え(仏教哲学)を,最先端の物理学や生物学(分子生物学)の研究成果とブリッジを架けて,人間とはなにか,という大きなテーマを追求していく。

この『阿修羅』という小説では,「実佐子」さんという実在の人物にふたりの人格が宿っていて,いうなれば「三重人格者」がどのようにして構成され(いずれも幼児体験にその理由があることが小説のなかでは明らかにされる)たのか,そして,それをどのように治療していくのか,という重いテーマが展開する。実生活にいろいろと支障をきたすという意味で,「障害」(disorder)ということになるのだろうけれども,その病的な「障害」の境界線はどこにあるのだろうか,とふと考えてしまった。

わたしの長い人生を振り返ってみても,いま考えると,ああ,あの人は「解離性同一性障害」だったんじゃぁなかったのか,とおもわれる人が少なからずいる。いも,わたしの知っている人のなかにもいる。わたしからすれば明らかに「病的」だとおもうのだが,断言する根拠がない。しかし,その人に振り回される周囲の人はいい迷惑である。組織にあっては,とんでもない「暴力」となる。

といいつつ,わが身をふり返る。わたしのなかには何人の人格が同居しているのだろうか,と。もっとも驚くことは,自分がおもっている自分の像と,他者がおもっているわたしの像とはまるで違うということだ。いまだかつて,自分がおもっているわたしの像を信じてくれる人に会ったことがない。いくら,これがわたしのほんとうの姿だ,と言ってもだれも信じてはくれない。情けなくなるが,ほんとうの話である。しかも,他者のわたしをみる眼はみんな違う。どれが,ほんとうのわたしなのか,聞いてみたいほどだ。

自分でも不思議なのは,学会のシンポジウムなどで話しているわたしは「別人」である。大学の授業などで話しているわたしも「別人」である。親しい友人と話しているわたしもまた「別人」である。そのどこにも「自分」はいない。いるのは,ひとりで部屋に籠もっているときの「自分」。これはそのまま「わたし」だとおもう。しかし,この姿はだれも知らない。言ってしまえば,会う人ごとにもうひとりの「わたし」を演じているということになる。しかも,無意識にだ。だから,わたしも軽い解離性同一性障害がある,とこの本を読んでそうおもった。

多くの人は,わたしのことを明るい人だという。とんでもない。それは「よそ行き」の顔だ。わたしの本質は「根暗」である。家にいたら口もきかない。ひとこともしゃべらない。自分の部屋に閉じ籠もりである。そして,そのときが一番,落ち着く。しかも,もっとも自分らしいとおもう。そういうわたしを知っている人はひとりもいない。だから孤独である。でも,その孤独が好きだ。だれにも妨害されない「静かな時」が流れていく。その流れに身をゆだねる快感がある。

ほかの人がどんな風であるのかは知らない。たぶん,わたしなどには計り知ることのできない世界をそれぞれの人が,内緒に抱え込んでいるのだろうなぁ,と想像するだけである。

解離性同一性障害などという「病名」をつけられると,そんなもんかいなぁ,とおもうだけである。わたしの子どものころ過ごした村には「変わった人」が何人かいた。が,その人たちは,ひょっとしたら,この解離性同一性障害だったかもしれない。それでも病人としては扱われることなく,「奇人・変人」を貫きながらお百姓さんをしながら生きていた。そういう受け皿の大きさがあったようにおもう。わずか,この50年ほどの間に,社会の許容量は驚くほど矮小化してしまい,住みにくい時代になってしまったなぁ,としみじみおもう。

近代社会とはなにか。近代論理とはなにか。そういうものと密接な関係を保ちながら肥大化してきた「近代スポーツ」とはなにか。現代社会を生きる人間にとって「スポーツ」とはなにか。考えなくてはならないことは多い。

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2010-06-08 「ポスト印象派」展をみる。

_ しばらく前,必要があって「ポスト印象派」展をみに行く。あまりの人の多さに驚く。しかも高齢者が多い。人垣の間隙をぬいながら「覗き見」をしてくる。

正式には,オルセー美術館展2010「ポスト印象派」,という。場所は,六本木の国立新美術館。すでに,新聞・テレビなどでも紹介されていて,情報はたっぷりと流れているのだから,人が集まってくるのも当然か。スーラ,セザンヌ,ロートレック,ゴッホ,ゴーギャン,アンリ・ルソーらの作品115点を一堂に介して・・・ということを聞けばだれでも足を運びたくなる。この看板にいつわりはないのだが,わたしたちにもおなじみの迫力のある絵はそれほど多くはない。初めてみる絵も多く,そのなかに新しい発見があればいいのだが,それも比較的少ない。正直に告白しておけば,わたし自身としてはやや不満。期待が大きすぎたということもいえるが・・・。

悪口を言い出すときりがなくなりそうなので,それはやめにして,わたし自身がおやっ?とおもったこと,つまり,わたしにとっての新しい発見について書いておこうとおもう。

ひとつは,画家たちの関心が顔からからだの方に比重が移っているのでは・・・と感じたこと。印象派が登場する前の絵画には,人物の顔はしっかりと描かれていたようにおもうのだが,1880年代の印象派からポスト印象派にかけての登場人物の顔はじつにぞんざいにしか描かれていない作品が多くなる。それらは,ここに顔があります,という程度の描写だけで眼も鼻も口も描かれてはいない。それにくらべると,からだの描き方はそれ以前のものとはあきらかに違いが感じられる。ただ静かに立っているものから動きのあるものへという変化である。静止する身体から「動く身体」への関心の変化といえばよいだろうか。

ふたつには,室内から積極的に屋外にでていく女性たちの姿が多く描かれるようになってきたのでは・・・,という印象である。日傘をさして散策する女性たちであったり(クロード・モネ「日傘の女性」1886),はだかで水浴びをしている女性たちであったり(ベルナール「水浴の女たちと赤い牛」1887),ボートに乗って池で遊ぶ女性たちであったり(クロード・モネ「ノルウェー型の舟で」1887),公園の木陰でくつろいでいる女性たちであったり(スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後の習作」1886),という具合である。もちろん,ここに登場する女性たちの顔も,そのほとんどがぼやけたままである。わたしの印象では,顔の表情からはなにも読み取る手立てはなく,むしろ,からだに溢れている喜びの感情の方がよく伝わってくる。

19世紀末,女性たちがしだいに元気になってくる,その前兆のようなものを印象派からポスト印象派へのうつりゆきのなかに読み取ることができる。これは,わたしにとってはこれまでには感じなかった新しい発見であった。しかし,スポーツ史的に考えてみれば,このようなうつりゆきは当然といえば当然のことでもある。新しいダンス促進運動(Neue Tanzbewegung )や新体操促進運動(Neue Gymnastikbewebung )などはみんな19世紀末に端を発していて,後世に大きな影響を及ぼしたという事実がある。しかも,これらは当時の新芸術運動(Neue Kunstbewegung)の影響を受けてはじまったと考えられているのだから。芸術はいつの時代にもさきがけ的なはたらきをする。このお蔭で,女性たちの身体は一気に活力をとりもどす。リズミカルな体操や表現を重視するダンスなどが大流行するのも20世紀に入ってからである。

シュテファン・ツヴァイクによれば,第一次世界大戦前までは女性が自転車に乗って郊外を走っていると,農作業をしていた農夫たちが「女だてらに・・・」と怒って石を投げつけたという。それも大戦後には,もはや,なんの問題もない当たり前のことになった,と。スザンヌ・ランランがスカートの丈を少しずつ短くしながら,テニス・コートの上を飛び跳ねるようにして大活躍したのも,同じ時代である。女性にとっては,じつに明るい未来が約束された,いい時代のはじまりだった

。男性は,むしろ,時代の脇役に回っていたと言ってもいいかもしれない。

こんなことまで思い起こさせてくれた美術展であった。絵画は,その点,確実に女性の姿・形をとどめていてくれるのでありがたい。スポーツ史のサイドからみても,きわめて重要な資料というべきであろう。

だから,美術展はわたしにとっては見逃すことのできない重要な勉強の場なのだ。といいつつ,じつは,絵が好きなだけの話かもしれない。いずれにしても,至福のときを与えてくれる。ありがたいことである。

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2010-06-10 「卓球勢力図,異変あり」の報道に触れて。

_ 表記のような見出しの新聞報道が昨日の朝日の朝刊「スポーツ面」にあった。卓球の世界選手権で中国女子チームがシンガポール女子チームに負けた,というのである。

驚いて読んでみると,なんのことはない,シンガポール女子チームも中国出身選手で固められている。言ってしまえば,中国女子選手たちだけによる決勝戦だった,というわけだ。もっと言ってしまえば,シンガポールが中国の「卓球」植民地となってしまった,というだけの話。

これをわざわざおおげさに「長く中国が世界を圧倒してきた卓球の勢力図に異変が起きた。ロンドン五輪に向け,日本はいかに戦うか」という,ゴシップ好みのスポーツ新聞のようなつかみ記事になっている。とうとう大手新聞もスポーツ新聞なみのレベルになってしまったなぁ,といよいよあきれ返ってしまっている次第。ここに書いてあるような「卓球の勢力図に異変が起きた」わけでもなんでもない。相変わらず中国の女子選手は圧倒的に強い,というだけの話。強い選手が中国からあふれでて,シンガポールまで進出して,とうとう本家を倒してしまった,というだけの話。

いまどき,外国の強い選手を輸入して,国籍をもたせ,ナショナル・チームに参入させるなどという話は珍しくもなんともない。サッカーなどではずいぶん前から行われていた。アメリカでワールドカップが行われたときには,アメリカは急遽,外国から強い選手を「移民」させてナショナル・チームを編成し,みごとに優勝まではたしている。日本だってよそごとではない。かつて,ソフトボールの主力選手として活躍した○○○さんなどは,当時の監督と養女縁組までしていた。

こうした流れと大相撲のモンゴル出身力士の増大とは,なんの矛盾もない。ごく当たり前のことが起きているだけのことだ。にもかかわらず,朝青龍問題のような形で「ねじれたナショナリズム」が無意識と化して噴出する。いわゆる「ゼノフォビア」。この問題はなにも日本だけのことではない。フランスでは,サッカーのジダン選手に対する「ゼノフォビア」的いやがらせがあって,大問題になったことがある。ちなみに,ジダン選手は両親が移民としてフランスに移住したのちに,フランスで生まれ,育っている。それでも,このようないやがらせが起きる。しかも,移民先進国の一つであるフランスにおいて・・・。この手の感情的な違和感はなかなか根が深いので単純ではない。

国際卓球連盟では,08年にこうした実情を「憂慮」(?)し,同年9月以降に国籍を変えた選手に対し,世界選手権などへの出場を制限するルールをつくった,という。「ほぼ,中国出身の選手に的を絞った対策と言っていい」と新聞は書いている。これもまたたんなる応急手当ていどのルールであって,根本的な解決策とはなっていない。

いったい全体,21世紀に入ってすでに10年を経過する世界の「グローバル化」現象の進展する情勢からみて,「国家」を単位にしてオリンピックや世界選手権を開催して「競い合う」ことの意味がどこにあるのか,とわたしなどは考える。もはや,そんなことで一喜一憂している時代ではないのではないか,と。しかも,このご時世に,国籍を変える選手の出場制限をしよう,などというのは時代錯誤もはなはだしい。すぐれた人材が,必要に応じて国境を越えて活躍し,ときには国籍を変えるということがあってもなんの不思議はない。現にそのように行われている。ここでも問題になるのは「スポーツ」の現場だけである。ドーピング問題にしてもそうだ。スポーツ以外の「現場」でドーピングをしようと,なにをしようと問題にもならない。ドーピングをして,作曲をしようと,絵を描こうと,小説を書こうと,そこでできあがる作品の評価にはなんら問題にはならない。が,「スポーツ」だけは別である。

なぜ,「スポーツ」だけをそこまで「聖域」化しなければならないのか,そこに,じつは大きな問題が隠されている。それほどに「スポーツ」は,現代の世界や社会の秩序を維持していく上で,重要な役割をはたしているということだ。この点については,これからも具体的に一つひとつ,解読をしていきたいと考えている。すでに,これまでにも何回も,別個のかたちで指摘はしてきているのだが・・・。

ひとつだけ,ここで言っておきたいことは,以下のとおり。

外国人選手を「輸入」してまで強い「ナショナル・チーム」を編成しようとする,その国家意識とはなにか。国家が国家であることを放棄してまでしても,偽りの(あるいは,見せかけの)「強い」国家を,国家自身が演出しなければならない,その根拠はなにか。つまり,「勝つ」ことのためには手段を選ばすという方法を,国家が率先して演出することのメリットはなにか。なんのために,そこまでしなければならないのか。その結果,だれが「得」をしているのか。

このあたりでわたしの「問い」はとどめておくことにしよう。そして,その「答え」もそれぞれに考えてもらうことにしよう。考えなくてはならないことは,こういうことなのだ。そのことに完全に「ふた」をして,重要なことを国民に考えさせなくしている,ある意図がどこかではたらいている。すなわち,「思考停止」を率先して垂範しているメディアとはなにか。そのメディアを操作しているなにかがあるとしたら,それはなにか。わたしたちが「いま」考えなくてはならないことは,こういうことだ,とわたしは考えるのだが・・・・。

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2010-06-11 『十牛図』を読む。

_ ようやく締め切りの切れた原稿から解放され,ながーいトンネルを抜けて,向こう側にでることができた。やれやれである。

そうなると,とたんに,これまで読みたくても読めなかった本に手がでる。早速,手が伸びたのが『十牛図』(上田閑照・柳田聖山著,ちくま学芸文庫)。これまでにもごく簡単な解説書は読んだことがあるけれども,本格的な「解読」はこれが初めて。まだ,途中までであるが,あまりの素晴らしさに感動である。とりわけ,いま,読んでいる上田閑照さんの担当部分が素晴らしい。もちろん,柳田聖山さんのところも拾い読みしてみて,これはこれで本気で読まないと歯が立たないなぁ,と覚悟を決めているところ。

「十牛図」は,すでに,いろいろの人の描いた原本があるので,みたものによってかなり印象が違うかもしれない。このテキストでは,京都相国寺蔵の伝周文筆「十牛図」と住鼎州梁山郭庵和尚十牛図の2種がとりあげられている。この2種でも,厳密にいえば,相当に違う。だから,読解も別種のものが生まれてくる。それほどに奥が深いということでもある。

わたしはたまたま京都を旅行した際(もう,ずいぶんむかしの話)に,とある民家の軒先に「版画・十牛図」あります,という短冊がぶら下がっているのをみつけ,おそるおそる戸を開けてなかに入る。だれもいない。薄暗い三和土があって,その右端から奥につながる通路がある。そこに向かって,少し大きな声で「ごめんください」と呼びかける。しばらくあって,ごそごそと音がする。老婆が現れて「版画どすか?」という。そうだと答えると,また,奥に消えて,かなりの時間を要してふたたび現れる。茶色の包み紙(しゃれた和紙)に入った「版画・十牛図」禅と書かれた版画を黙って差し出す。わたしも値段はわかっていたので,ぴったりのお金を払う。なにか余分なことを言ってはいけないような雰囲気があって,黙って辞す。外にでて,中を開いて確認する。解説のはんぴらをみると,京都の著名な日本画かであり版画家の〔徳力冨吉郎画伯〕の版刻されたものだ,とある。そのでき具合がとてもよくて気に入っている。ときおり,引っ張りだしては,ぼんやりと眺めている。で,簡単な解説を読んだりして,なんとなくわかったつもりでいた。

ところがである。この上田閑照さんの解説を読みはじめて驚いた。自己の現象学──禅の十牛図を手引きとして,というタイトルで6つのパートに分けて書いているのだが,最初の(一)は,そうそう,そうなんだよなぁ,と既知のことがらがわかりやすいことばで書かれていて余裕。(二)に入ったころから,えっ,そんな読み方があるの? となり,(三)に入ると,底無し沼に引っ張り込まれるような錯覚を起こす。(四)にいたっては,ちょっと待ってください。ふんどしを締め直して,出直してきます,となり・・・という具合である。

わたしの脳天に雷が直撃して,とんでもない衝撃を受けたのは,マルチン・ブーバーの『我と汝』が引き合いに出され,その類似点と決定的な違いとを指摘している上田閑照さんの明快な論理に触れたときである。このとき,いまは亡き竹内敏晴さんとの何回目かの対話のなかで,マルチン・ブーバーの『我と汝』の話がでてきたことを思い出していた。そして,竹内さんの固有の表現であった「じか」に触れるというワークショップのことを思い出していた。そういえば,あのとき,禅の話もずいぶんなさっていて,これは半端な話はできない,とわたしは身構えた記憶がある。そして,また,この話のつづきをやりましょう,と約束してくださったので,わたしはマルチン・ブーバーと禅との接点を考えつづけていた。そして,その手の本を探していた。それが,期せずして,この本の中で出会い,しかも,すんなりとふに落ちたのである。が,ときすでに遅し。話を聞いてくださる竹内さんが,もう,いない。残念の極みである。

この内容については,いつか,きちんとした文章にして,竹内さんの追悼本のなかに収めたいと考えているので,ここでは触れない。

「十牛図」はいわずとしれた禅の修行の段階を絵解きしたものである。「尋牛」(牛を探す)からはじまって「見跡」(牛の足跡を見つける)「見牛」(牛を発見する)「得牛」(牛を捕まえる)「牧牛」(牛を飼い馴らす)と修行の段階を登っていき,ついに悟りをえて「騎牛帰家」(牛に乗って家に帰る),安心する。いつのまにか「牛」のことを忘れてしまって「忘牛存人」(牛を忘れてぼんやりと月を眺めている)の境地に立つ。ついには,「人牛倶忘」(人も牛もともに忘れてしまって「無」になる),なにも存在しない世界に入る。「無」の世界を通過して,さらに「返本還源」(自然の内在性のなかに溶け込んでしまう)。そうして,ふたたび「入○垂手」(にってんすいしゅ)(街中にでて人と出会う)という自他合一の実践の「場」に到達する。以上はわたしの理解の範囲で短いコメントを付したものである。

ここに上田閑照さんは,初心者から上級者にいたるまで,読解のレベルを上げていく。その手並みがあまりのみごとさで,唖然としてしまう。禅の奥行きを,なんと,ヨーロッパの哲学とも対比させながら,粛々と説いていく。

わたしはいま,この「十牛図」の上田閑照さんの解説を,太極拳の稽古の段階に重ねて考えようとしている。太極拳の究極の理論は道教(道家思想)にある。禅は,この道教と仏教が接触したことによって弾けた仏教のひとつの考え方であり,修行の体系である。道元禅師が立つのはこの地平である。禅から道教へ,そして,太極拳へ,とわたしの仮説はかぎりなくふくらんでいく。

上田閑照さんの解説のことばを借りて,かんたんに,仮説を述べておけば以下のとおりである。「自己にあらざる自己」を探し,それをきわめていくことが「十牛図」の提起しているもっとも基本的な構造であるとすれば,太極拳もまた「自己にあらざる自己」の探求そのものである。自己のなかに「自己にあらざる自己」を見出したときの感動が,一度ならずつづく。そして,つぎつぎに「自己にあらざる自己」が立ち現れてくる。それが太極拳を稽古するということの意味だとすれば,これはそのまま「十牛図」の説くこととぴったりと重なってしまう。

このことはトップ・アスリートの「自己」のなかにも起こっているに違いない。わたしの若いころの経験からしても,そのことは言える。これをいかにわかりやすく説明するか,これもまた「21世紀スポーツ文化研究所」の重要なテーマとなる。またまたやるべきことが増えてきた。楽しみではある。

長くなってしまったので,ひとまず,ここまで。

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2010-06-13 6月大阪例会からもどる。

_ 昨日(12日)は「ISC・21」の6月大阪例会があったので出張。わたしの総説論文を合評してくれるというので,とても楽しみだった。

総説論文のタイトルは,「スポーツ」とはなにか──スポーツ史研究のための新たな理論仮説の提示(『スポーツ史研究』,スポーツ史学会,第23号,P.1〜12.)。こんにちの勝利至上主義の隘路にはまり込んだ「スポーツ」の見方・考え方から脱出するための方途を,スポーツ史研究という視点からさぐってみようというのが大きなねらい。そのために,スポーツの始原までさかのぼって,スポーツとはなにかを問い直しながら,「スポーツ的なるもの」が立ち上がる契機をさぐってみた。その結果,ヒトが人間になることと「スポーツ的なるもの」の誕生とは軌を一にしていたのではなかったか,つまり,ヒトとしてではなく人間として生きるための不可欠の文化装置だったのではなかったか,などと問いかける内容となっている。もちろん,多くの異論があることは承知の上で,まずは,議論のためのたたき台としての理論仮説を提示してみたわけである。

この理論仮説の根拠として用いた主たるテクストは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』『呪われた部分 有用性の限界』とマルセル・モースの『贈与論』である。わたしとしては,まったく新しい知の地平に立つ,きわめて冒険的な問題提起をしたつもりである。言ってしまえば,これまでのわたしの殻を脱ぎ捨てて,その<外>に飛び出す経験でもあった。その意味では,きわめて「スポーツ」的な経験でもあった。あるいは,「自己ならざる自己」への転身というように考えれば,『十牛図』で説くところの禅的体験でもあった。

それだけに,どのような合評がなされるのか,不安と期待が相半ばしていた。しかし,この月例研究会をとおして予備的な議論を積み重ねてきたせいか,おおむね好意的に受け止めてくれたようだ。ただ,わたしの文章が悪かったせいか,充分な理解が得られなかった点が少なからずあったことは,大いに反省しなくてはならないところ。

たとえば,祝祭をとおして「共同性」が誕生するというプロセスがよくわからない,という指摘があった。この部分は,この論文にとってもかなり重要なところなので,若干の補足をしておくことにしよう。

祝祭は供犠とセットになっていて,もともと秩序の崩壊現象を導きだすための文化装置だった。ニーチェのことばをかりれば「ディオニュソス的」なカオスの状態を導き出すための文化装置だったのである。つまり,事物としての家畜を屠殺して,事物から解放し聖なる存在にもどし,動物性の世界に送り返す,この「強度」をともなう供犠をきっかけにして,事物と化してしまった人間をも,一時的に動物性の世界に誘い,擬似的な内在性のなかに遊ぶ,これが祝祭の構造である。したがって,日常性の秩序は一時的に崩壊する。この秩序崩壊が無際限に拡大してしまうと,祝祭そのものが成立しなくなってしまう。つまり,祝祭は一時的な時空間のなかに囲い込まれることによって成立する。ここにひとつの論理矛盾が生ずる。つまり,秩序崩壊をめざしつつ,一定の秩序の維持がはかられるからだ。こうして,祝祭もまた制度となり,事物と化してしまう。この段階で,祝祭はみんなの同意のもとに執り行われる儀礼となる。ここに「共同性」が誕生する契機が潜んでいる。そして,この段階で,供犠の意味も変容する。つまり,事物から聖なるものへの送り返しではなく,「有用性」を前提とした五穀豊穣と子孫繁栄への祈りの儀礼となる。以後は,祝祭は「共同性」を前提にして執り行われるようになる。

天皇の執り行う「大嘗祭」や「新嘗祭」などは,農耕民族の「共同性」を確認するための典型的な事例といっていいだろう。ここには,もはや,栽培された事物としての米を,自然のままの「聖なる世界」に送り返すという本来の意味は消え去ってしまっている。そして,天皇制を維持するための重要な儀礼として,粛々と執り行われることになる。まことにみごとな「すり替え」が行われたことを,わたしたちは見過ごしてはならないだろう。

なぜなら,これと同じ「すり替え」が,「スポーツ的なるもの」から「スポーツ」へと転ずるときに起こっているのではないか,とわたしは考えるからだ。その事実関係を歴史的に明らかにすること,ここにスポーツ史研究の新たな可能性が開かれている・・・・,と。

とまあ,昨日の議論を思い返しながら,問題の所在を整理しておくと以上のようになろうか。それにしても,参加してくださったみなさんがじつに熱心に議論をしてくださり,ありがたいかぎりである。この場を借りてお礼を申します。ありがとうございました。

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2010-06-14 ちひろの描くこどもたちは「内在性」に生きる?

_ 今日は朝から小雨。霧がかかったように500mさきは霞んでいる。いよいよ梅雨入りか。雨は嫌いだ。恨みながら空を仰ぐ。いまにも上がりそうで上がらない。

それを口実に,鷺沼の事務所への出勤はお休み。先週の土曜日から連続3日間も事務所に行ってないことになる。なんとなく不安になる。でも,雨のなかを歩いていくのは嫌だ。で,家に籠もっている。

6月大阪例会が終わり,なにか大きな区切りがついたような気分。大きなこころの負担になっていたことがらが,だいたい,片づいたからだ。もちろん,まだまだあるにはあるのだが・・・。それにしても少し気が楽になった。でも,こういうときは危ない。風邪を引くのはこんなときだ。

昨日の帰りの新幹線のなかが,珍しく冷え冷えに冷えていた。はっと気づいたときには,からだが冷えきっていた。あわてて持っていたアノラック(雨兼用)を羽織る。それでもしばらくはからだが暖かくなってこない。やがてホカホカとしてきたら,とたんに眠りに落ちた。でも,新横浜を降りるとき,どこかいつものからだの状態とは違う。脚の筋肉が固い,股関節がぎくしゃくする。肩こりもひどい。頭痛もする。これは,ひょっとしたらやられたかな?と要心しながら家路につく。頭痛はまもなくとれた。が,鼻水がでる。これはしばらく前からときどきでるので,そのつづきだろうと判断。夜,寝る前に特効薬をみずから調合して,一気に飲む。これでOKのはず。

朝起きてみたら,なんとなくからだがだるい。そのせいもあって,雨はますます嫌いになる。気持ちもウツになる。なにもやる気がおきないので,仕方なしに,買い置きのしてある本の山をくずしながら,あれこれ拾い読みをはじめる。いつのまにか『ひちろBox』没後30年メモリアル・ブック「小さな<いわさきちひろ>大全集」(ひちろ美術館・編,講談社)に眼がくぎづけになっている。ちひろの絵のすばらしさは,もはや語る必要もなかろう。ただ,ひたすら黙って,一つひとつの作品との出会いを繰り返すのみ。眺めていたら,突然のひらめきがやってきた。あっ,そうか,と。

ちひろのこどもたちは,みんな「内在性」に生きているではないか,と。ジョルジュ・バタイユが「水のなかに水があるように存在する」と言い切った表現そのままに,ちひろのこどもたちは存在している。不要なものはすべて省略し,こどもの表情を活かすための最小限必要な道具立てとしての「花」や「チョウ」や「イヌ」や「ネコ」や「貝殻」や「海」や「夕焼け」が描かれているだけだ。つまり,こどもにとってオブジェとなっているものだけを描き,その両者が共振・共鳴している。そして,そういう関係性のなかにどっぷりと浸り込んでいるこどもが浮かび上がる。まさに「内在性」のなかに溶け込んでいるかのように。

よくよく考えてみれば,こどもは,母親の母胎にあっては「内在性」そのものであったはずだし,誕生と同時に,外気にふれて「ひとり旅」をはじめる。しかし,この段階でもなお「内在性」のつづきを生きる。母親のおっぱいに吸いつき,おなかがいっぱいになれば,あとはひたすら眠る。触覚をとおして,まずは,母親とそうでない人との違いを学ぶ。この段階でも,まだ,動物性の真っ只中にある。視覚がはっきりとしはじめたころから,少しずつ,人間性への入り口を覗き込むようになる。やがて「ことば」を覚えはじめるころから,人間性への比重が重くなってくる。それでもまだまだ動物性の真っ只中を生きている。

ちひろが描くこどもは,そのほとんどがよちよちあるきを始めたこどもから学校に入学するまでの時期に限られている。童心まっさかりのこどもばかりだ。これはなにを意味しているのか。今日,突然,思いついたひらめきで言えば,動物性と人間性のはざまでゆれ動く原初の人間の姿ではないか,と。いざとなれば,いつだって動物性の「内在性」のなかに逃げ込んでしまう,また,それが可能なこどもの実態にひちろの眼はそそがれているのではないか。人間性が依拠する理性の力がまだほとんどない,か弱い人間の,原初の姿,それをこどもの姿に見出していたのではなかったか。

無心に遊ぶこどもの姿は,内在性を生きる動物と,ほとんど変わらない。その純粋無垢の世界にちひろは,戦争のない平和な世界を夢見ていたのではなかったか。動物とは異なる「理性」をわがものとしたばかりに,人間は「戦争」という馬鹿げたことに執着するようになった。人の命を奪って平気でいられる「理性」とはなにか。これを止揚するにはどうしたらいいのか。

55歳で肝ガンを患い,はやばやと他界してしまったちひろが最後の病床にあって「病気が直ったら,こんどこそ無欲の絵を描きたい」と言ったという。ちひろの言う「無欲の絵」とはどのようなものであったのだろうか。戦争とか,平和とか,といったことも超越した,まさに「内在性」の世界を描くことだったのではないか,とわたしは想像してみる。いかなる欲望にもとらわれることのない「無欲の絵」。これもまた,わたしの最近の考えでいえば,動物性への回帰願望の表出,ということになろうか。そここそが人間の帰るべき「ふるさと」(Heimat)だとでもいうのだろうか。「聖なるもの」への回帰願望を,わたしたち人間は捨て去ることはできないのだろうか。ニーチェのいう「永遠回帰」。それをそのまま「生きる」ことをめざしたバタイユ。すなわち「エクスターズ」の世界。西田幾多郎の「純粋経験」の世界,竹内敏晴の「じか」の世界,等々,みんな同じところに「回帰」していこうとしているかのようにみえる。

西谷修は「生きものの要請にこたえる理性」の「探求」を提示する。ヴェイユは・・・,と際限がない。が,いずれにしても,偉大なる思想家たちが,こぞって同じヴェクトルをめざしていることには注目しておくべきだろう。

いわさきちひろもまた,こどもの絵をとおして追求していた世界は,同じヴェクトルであったのでは・・・とわたしは嬉しくて仕方がない。また,こうしてちひろ絵画を楽しむ根拠をひとつ獲得した思いだ。ひちろ美術館に行ってみたいとしみじみおもう。雨の降る日は,ちひろ美術館がいいかも・・・。

いま,背景のぼやーっとした色のなかに溶け込んでしまって,姿・形もさだかではないこどもの絵がわたしの脳裏に写っている。「内在性」ということばと一緒に。

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2010-06-16 力士の野球賭博問題について。

_ 琴光喜の野球賭博問題が大きなニュースになり,ちょっと手がつけられない情況になってきた。朝青龍とは比較にならない,大変なことになってきた。

暴力団と日本相撲協会は,地方巡業などのことを考えると,むかしから微妙な関係にあったことは知る人ぞ知る事実であったらしい。このことは警察も充分,承知しているはずだ,とも。だから,こんどの問題は一筋縄ではいかなくなる可能性が大である。むかしから茶屋制度や谷町などの前近代的な人間関係や組織がしっかりと根を張っているわけで,魑魅魍魎の世界が背景に隠されているらしい。こういうことはすべて闇の世界の話なので,どこまで本当でどこまでが嘘なのかは,まったくわからない。ただ,推測するにすぎない。すべては「藪の中」である。語る人の立場によって,同じことがまったく別のことにみえてくる。

日本相撲協会の協会員(力士,親方,床山,行司,などの関係者の総称)の間では,賭け事が日常的に行われている,とわたしのような人間の耳にも入ってきていた。たとえば,花札や麻雀で,金額の大小はともかくとして,現金を賭けてやるというような話である。これは別に相撲界だけの話ではなくて,一般のサラリーマンの世界でも同じだ。小さな額であるかぎり,黙認されている。学生も同じだ。つまり,健全娯楽の範囲内であれば・・・という条件つきで。だから,日本人であれば,ほとんどの人間が,いつか一度くらいは,このような遊びに手を染めたことがあるはずだ。かく申すわたしにもあった。学生時代に,10円,20円という額で。当時のラーメンが15円だった時代である。しかし,そのころも公衆電話代は10円だった。もちろん,そのころでも大きな額でやっていた学生さんもいた。そういう危ない世界にはおのずから歯止めがかかっていたようにおもう。

要するに,どのような「お付き合い」をし,どのように「歯止め」をかけ,どのようにそこを「通過する」か,ということなのだろう。それは,いつの時代にもあることだし,いまも,そういうことは行われているのだろう。それと暴力団の組織する賭博とは,まったくの別問題である。そういう悪のお誘いは,われわれの学生時代にもあった。が,それがどれほど危険なことかは,みんなわかっていた。だから,そこには手を出さなかった。が,ときには妙な人間がいて,そういう世界にはまり込んでいく人間もいた。やはり,そういう人間はみんな痛いめにあって,さんざんな思いをしている,と聞いていた。

大相撲の世界は,そのハードルが低すぎたようにおもう。新聞報道によれば,一部,親方衆も含まれているという。となると,話は別である。もはや「歯止め」はかからない組織になりはてているとしかいいようがない。野放しどころか,当たり前の話になってしまっている。さて,どこまで真相が明らかにされるのだろうか。一網打尽ということにでもなれば,興行が成り立たなくなるのではないかという心配もでてくる。しかも,これはたんなる杞憂に終わりそうもない。

文部科学省も,こんどばかりは追求の手をゆるめようとはしないようだ。監督官庁としては当然のことではある。全員が外部の人間で構成する調査委員会を設けるべし,という姿勢である。こうなってくると,事態はますます大変な局面を迎えることになるだろう。一つには,警察はなぜ暴力団を根治できないのか,という問題。別の言い方をすれば,警察と暴力団との「馴れ合い」の関係がその根底にある,ということ。暴力団が存在するかぎり,相撲界といわず,どの世界にも「賭博」という誘惑の手は伸びていく。困ったものではある。だからこそ,警察当局にはもっと本気で暴力団対策に取り組んでもらいたいものだ。

しかし,文部科学省も,よくよく考えてみれば,そんなに大きな顔もしてはいられないはずではなかろうか。暴力団の「野球賭博」は許されないが,文部科学省が「胴元」となっている「サッカーくじ」(これだって,まぎれもなく「賭博」の一種である)は許される,という根拠はなにか。法律で正当化するための論議が国会で展開されたときの珍妙なやりとりが思い出される。少なくとも,わたしの記憶では確たる根拠はどこにも見出せないまま,「多数決」で決められただけの話である。それと同じことは,いわゆる「公営ギャンブル」(競馬,競輪,競艇)でも言える。こちらは都道府県の考え方によって,認められているところと廃止されているところとに分かれる。

さてはて,今回の琴光喜問題の行方やいかに・・・・。

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2010-06-17 日本相撲協会は断末魔か。

_ 今日になって,大嶽親方,豊の島という二人の実名が新聞に躍り出てきた。ひょっとしたらとおもっていたが,そのひょっとしたらが本当になってしまった。

これはどうみても氷山の一角でしかない。内部調査の自己申告で名のりでてきた数(野球賭博だけで29人)の多さに驚いたが,どうやらそんな数ではなさそうだ。しかも,協会の執行部はその実態をほとんど承知しているはずである,ということもみえてきた。

もはや,日本相撲協会に自浄能力は期待できない。かといって外部委員による調査委員会にも限界がある。17日に,緊急の親方らへの聴取を予定したものの,委員に連絡がつかないという理由で延期になったという。要するに雇われ委員である以上,本務優先ということになれば,全員の委員の都合のいい日はごく限られた日数でしかなくなることは必定だ。ましてや緊急の会議には間に合わない。そういう人たちの集団に公益法人の運営がゆだねられているというのが実態だ。もはや,ほとんど機能不能に陥っている・・・,それが長年の蓄積(慣行)になっていて,ごく少数の委員の意見で実質的には運営されているという実態が浮かび上がってくる。それをこれまで「まあまあ」「なあなあ」の馴れ合い体質で誤魔化してきた経緯がある。そこから脱出するには大手術が必要だ。しかし,すでに,手遅れである。手術をすればするほど患者の病状はますます悪化していく,言ってしまえば,断末魔の悪あがきにしかみえない。

しかし,これほどの重症になっているとは,外部にいる者にはまったく予測もつかなかったことではある。まるで,突然,ガンが発見されて,しかも,すでに末期症状であることが明らかになってきて,茫然自失しているというのが実態ではなかろうか。

すでに,チケットの払い戻しの問い合わせ電話が殺到しているという。一度,落ちるところまで落ちないことには,だれも本気にはならない,とおもう。それはなにも大相撲に限らず,われわれの身近な組織のなかにも巣くっている「なあなあ」体質だからだ。みんながほんとうに痛い眼に会うまでは,本気にはならない,日本人の甘い体質でもある。火の粉が頭の上からふりかかるまでは他山の火事だと高見の見物を決め込む,悪い体質だ。

まことに唐突に聞こえるかもしれないが,沖縄の軍事基地問題も同じだ。沖縄が本土復帰をはたしたのちですら,本土にあった軍事基地を沖縄に移転させて「ほほかむり」をしてきた経緯がある。今回でも,全国知事会をみればわかるように,その圧倒的多数が沖縄県民の意志を無視した。沖縄県民の意志は,みんな承知しているはずなのに,そして,みんな一様に理解を示すのに,にもかかわらず具体的にはなんの行動も起こそうとはしない。黙認である。そして,喉元をすぎれば「忘却」である。こんなことをくりかえしてきたのではなかったか。

日本相撲協会も「その場」を適当にとりつくろってはこんにちまで歩んできた。日本の国技だという美名のもとに公益法人としての特別扱いまで受けて。すべては「ことなかれ」主義で,くさいものには蓋をしてきた。それで許されてきた。が,こんどこそはそうはいかないだろう。

横綱の「品格」も,国技の名も,日本の伝統も,すべて地に堕ちた偶像でしかなかったということがここまで明らかになった以上,早急に公益法人の特権をはずすべきだろう。そして,一般の財団法人としての厳しい監査を受け,社会常識という厳しい世間の眼による「みそぎ」を受け,警察による徹底した捜査を通過するしか方法はあるまい。

何回も繰り返すが,われわれ自身のなかにも同じような甘い体質があることを忘れてはなるまい。そして,つねに「自浄能力」を高めていくことが先決である。それなしに,日本相撲協会を批判する資格はない。力士を批判する資格はない。みんな,ひとりの人間として,最小必要限度の良識に立つこと,それが民主主義の根本原則だ。その原則がいま崩壊の憂き目にあっている。しかも,その崩壊現象が,日本の社会全体を覆っているように,わたしの眼にはみえる。政界も財界もジャーナリズムも,そしてアカデミズムも・・・・。それがついには学校現場や家庭内にまでおよんでいるということだ。

日本相撲協会の今回の問題は,その氷山の一角にすぎない。自浄能力なき組織も社会も没落する。しかも,あっという間に没落する。過去の歴史がそのことを教えてくれる。

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2010-06-18 ブログを移動しました。

_ いささか事情があって,急遽,ブログを移動しました。こんごは,以下のアドレスで登録して,ご覧くださるようお願いいたします。

_ http://inamasa-inamasa.blogspot.com/

_ ブログのタイトルは「スポーツ・遊び・ヒト・人間」としました。

この方が,一般の読者の検索にはうまくヒットするのではないか,と考えました。その代わり,こころなき書き込みも増えるかもしれません。が,まあ,気にしないでみんなで楽しんでもらえればとおもいます。

早速,18日からスタート(ブログ開設のご挨拶)していますので,チェックしてみてください。簡単な自己紹介とブログの心構えのようなことを書いておきました。

ここでのブログはちょうど2年が経過したところでした。どうせ三日坊主で終わるだろうと,自分でも不安なままスタートしましたが,意外や意外,こんにちまで楽しむことができました。場所を変えたからといって,書く内容が変わるわけではありません。いつも,ギリギリで考えていることを追いかけてみたいとおもいます。もちろん,ときには時事ネタも扱いますし,まったくの趣味的な話題も飛び出すことでしょう。その辺は変幻自在に・・・とおもっています。

長い間,「ISC・21」のブログにお付き合いくださり,ありがとうございました。これまでにも増して,自由奔放な思索を楽しみたいとおもっていますので,こんごともよろしくお願いいたします。

それでは,これで,ここでのブログを終わりにさせていただきます。

最後にもう一度,ありがとう,そして,よろしく。

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2010-06-19 新しいブログ・アドレスの修正を。

_ 新しい移動先のブログ・アドレスが,わたしの手違いで二つできてしまうという妙なことが起きてしまいました。

二つももつ必要がありませんので,一つにしました。

昨日のブログに書いたアドレスを以下のように訂正しますので,よろしくお願いいたします。なお,「ISC・21」のホームページの表紙に書いてあるアドレスがもともとの正しいアドレスです。こちらから入ると簡単です。

正しいアドレスは,

http://inamasa. blogspot.com/

です。

なお,ホームページの掲示板,その他はこれまでどおり更新をつづけますので,よろしくご支援のほどをお願いいたします。

とんだお騒がせのお侘びまで。

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