Diary


2010-04-01 丸2年,足掛け4年,「ISC・21」。

_ 「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)を開設して丸2年。「ISC・21」研究会をはじめて丸4年。早いものである。

定年退職後をどのように過ごすか,わたしなりに悩み,考えた。その結論がどんなに小さくてもいい,「研究所」をもつこと,それも自宅ではなく,だった。できることなら,二駅か三駅ほど電車に乗って「通勤」すること。ドアからドアまで30分,などといろいろ原則を決めていった。そして,定年の最後の年の後半は,研究所の事務所となる部屋さがしにとりかかる。なかなか,帯に短したすきに長し,でこれはというような部屋はみつからない。なにしろ,軍資金がないのだから。でも,親切に背中を押してくれ,部屋さがしに協力してくれる友人もいて,2008年の3月末に,ようやく部屋が見つかった。

おっかなびっくりで,部屋に机・椅子,書棚を入れて,なんとかスタート。活動は,週1回のサロンの開催,月1回の研究会の開催,あとは,毎月の連載原稿を書いたり,ときおり依頼される講演やシンポに。そして,なにより嬉しかったのは,この研究所の事務所が,夕刻以後,居酒屋となりうるということを知ったことだ。知人・友人,編集者の人たちから「○○日,勤めが終わってから遊びに行っていいか」という電話が入り,飛び上がるほど嬉しかった。もう,何十年と料理なるものに手を出したこともなかったが,まずは,できることから,と簡単なつまみをつくって待つ。そうすると,これが意外に喜ばれ,居酒屋慣れしている人たちなのに,わたしがつくった,という事実を高く評価してくれた。ああ,料理は味ではない,気持ちだ,と悟った。

人が出入りしてくれれば,仕事は自ずからやってくる。少しずつではあるが,年々,いい仕事がやってくるようになる。いろいろな人に助けられて,もう丸2年が経過した。昨年からは,某大学から客員教授として迎えてくれる,というハプニングも起こった。この仕事はことしも契約更改が成立。年に2回の集中講義がノルマ。学生さんの質がいいので,じつに楽しい。わたしの方が教えてもらうほど。

この研究所は,じつは,あと二つほど大きな事業を行っている。

一つは,研究所紀要を発行すること。こちらは,大学に勤務していたころから始めていた「研究室紀要」を引き継いで,ISC版『IPHIGENEIA』として創刊した。いま,第2号の編集にとりかかっている。大学時代には,公費で刊行する関係で,いろいろの縛りがあった。が,いまは,まったくなんの拘束もないので,まことに自由。そして,ふつうではありえない人に原稿の依頼をすることもできる。しかも,忙しいという理由で断られるかと思いきや,とても協力的。ありがたいことである。いま,準備を進めている第2号は,たいへんな顔ぶれになる予定である。

もう一つは,東京・名古屋・大阪と三都市を巡回して研究会を開催していること。「ISC・21」月例研究会と称して,原則として月1回。この会は,じつは,まだ現職のうちに準備をはじめ,定年2年前にスタート。だから,ことしで丸4年が経過。いよいよ5年目に入る。ありがたいことである。数えて第40回目。そこで,思い切って記念の回とすべく,4月17日(土)に西谷修さんにお願いをして,近著である『理性の探求』(岩波書店)の合評会を計画した(詳しくは,ホームページの「掲示板」を)。もう,すでに20名を超える参加申し込みが全国からきている。

東京・名古屋・大阪には,それぞれ世話人をお願いして,その人たちに開催に関する一切をお任せしている。だから,とてもユニークな会が企画される。この時期に,一つの研究会を私的に継続することはきわめて困難である。なぜなら,多くの大学勤務者が,ピンチを迎えた大学運営のために信じられないほどのエネルギーを奪われているからだ。とても研究どころの騒ぎではない。その実情もよくわかる。だからこそ研究会が必要なのだ,というのがわたしの持論。

わたし自身は,この研究会を思考実験の場と位置づけ,つねにエッジに立つ思考の結果を投げ,みなさんの反応を待つことにしている。このことに強く反応してくれる人たちだけが,積極的にこの会に参加してくれるようになってきた。超多忙の日々を送っている人たちが,睡眠時間を削って勉強してきてくださる。そして,熱心に議論に参加してくださる。まことありがたいことである。そのつど,わたしは多くの宿題をいただいて,また,考えつづけ,本を読み,次回に投げ返す。無謀かと当初考えないではなかったが,いまはこれでよかったと大満足している。

というようなわけで,いよいよ,「ISC・21」は3年目に突入。そして,その研究会は5年目に突入。ことしも順調にいろいろのことが進展している。「好事魔多し」という。こころして第3年目に取り組むこととしよう。それにしても,まずは,「元気が一番」。からだが喜びそうなことをたくさんして,鋭気を養うこととしよう。いまのところは,太極拳。わたしの性格,体質には合っていると思う。心地よさをもとめて。

さくらが気がかり。そして,阪神タイガースが気がかり。でも,なんとか順調にスタートを切っている。よしよし。 

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2010-04-02 『グローバル・クライシスと”経済”の審問』がとどく。

_ 西谷修さんから『グローバル・クライシスと”経済”の審問』(西谷修/中山智香子編)という「記録集」がとどく。

いつも国際的な視野に立って,精力的にシンポジウムや講演会,ラウンドテーブルなどを主催されている西谷さんから,そのつど,ご案内をいただき,可能なかぎり参加させてもらってきた。最初のうちは,わたしのような門外漢が・・・と多少腰が引けていたのだが,回を重ねるうちに,これはスポーツ史やスポーツ文化論を考えることと無縁ではないどころか,必要不可欠の問題だということに目覚めてくる。そうなると,西谷さんは,つぎはなにを仕掛けているのかな,と待ち遠しくなってくる。お蔭で,わたしはずいぶんと視野がひろがり,その分,スポーツ史やスポーツ文化論を展開する上で,得難い示唆をいただいた。感謝あるのみである。

こんどいただいた「記録集」は,ついこの間,2月12日・13日に開催されたアラン・カイエの講演趣旨,ラウンド・テーブル記録,アラン・カイエ関連論文まで収録されていて,その早業に驚く。西谷さんと中山さんとの名コンビと,このお二人をとりまく教務補佐員の人たち,そして,院生,学生さんたちのチーム・ワークのよさが垣間見えてくる。こういうある意味では地味な仕事をなし遂げるには,お二人をとりまく渦のような動力が必要で,それに反応する感度のいい支援者がどうしても必要である。個人的な力量が必要なことは当然であるが,それだけではことは成らない。ひそかに,わたしは大いなる刺激を受けている。

この「記録集」は,奥付などをみると,科学研究費基盤研究「戦争・経済・メディアからみるグローバル世界秩序の複合的研究」による研究成果報告書であることがわかる。しかも,発行者は,東京外国語大学綜合国際学研究院・グローバル・スタディーズ・ラボラトリー(GSL)となっている。この奥付をみて,あれっ?と思い,これまでに送っていただいたものの奥付をみて,その名が変わっていることに気づく。

そう思って,もう一冊,とどいていた『9.11後の世界を撃つ』国際協力講座の歩み2000〜2008,の方をみてみると,東京外国語大学大学院地域文化研究科国際協力講座の発行となっている。あわてて,「序」と「あとがき」を読む。ようやくことの真相がみえてきた。なるほど,そういうことだったのか,と。西谷さんはほとんど愚痴らしいことは言わない人だ。だから,身近にいるわたしですら気づかないでいた。そういえば,ときおり,妙なことを言っているなぁ,と思ったことはある。しかし,あまりに抽象的なので,現実の問題とは結びつかなかった。

そういう背景があって,今回のこの「記録集」なるものが作成された,しかも,相当のエネルギーを注いで。なぜなら,科学研究費の「報告書」であれば,3月末までに完成させなければならない,という絶対的な使命がある。これでようやく「アラン・カイエの報告書を急がなくては・・・」とひとりごとのようにつぶやいていたことが脳裏に浮かぶ。それでいて,3月には一週間ほど,フランスにでかけている。さては,つぎの仕込みにでかけたのかな,とこれはわたしの勝手な想像である。

さて,本題に入ることを忘れてしまっていた。

この「記録集」には,3回の公開討論が収録されている。

1)ウォール・クラッシュのさなかに──金子勝を迎えて(2008.02.14)

2)ドイツ新自由主義思想の源流と国家の位置(2008.09.29)

3)”経済”を審問する──MAUSSとともに(2009.02.12・13)

わたしの興味・関心は,3)にある。アラン・カイエ氏の組織している「MAUSS」には,そのまま「マルセル・モース」の『贈与論』を引き受ける問題意識が表出している,という。西洋近代の「経済観念」とはまったく異なる,普遍的な経済概念ともいうべき「贈与」の問題をとりあげ,もう一度,原点から「経済」とはなにかを問うものだ,という。こうなってくると,いま,わたしが考えている「スポーツとはなにか」という根源的な問い直しにとっては,見過ごすことのできない重要なテーマとなってくる。わたしの「スポーツ」概念のディコンストラクシオンが,もう一つの新しい視点からもはじまるのでは・・・という期待でいっぱいである。

いつに変わらぬ西谷さんのご好意に感謝。

そして,4月17日の合評会には万全の態勢で備えなくては。

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2010-04-03 「ホリスティック医学」と帯津良一さん。

_ このところ,気持ちが落ち着かず,あれこれ手あたり次第に本を乱読していた。ようやく,帯津さんの本で気持ちが落ち着いた。なぜだろう。

シモーヌ・ヴェイユ,外山滋比古,松岡正剛,ルジャンドル,マルセル・モース,バタイユ,湯浅博雄,石川九楊,中川一政,福岡伸一,今福龍太,西谷修,などなど。こちらの気持ちが乱れているので,どの本をとってみても完読はできない。おもしろいと感じたところは集中的に読むのだが,ちょっとはずれると,もう別のことを考えている。こころここにあらずの読書になってしまう。だから,また,別の本に手をだす。こんなことの繰り返し。ときどき,こういうことが起きる。でも,これはいつもなにかの予兆として起きることなので,こんどはなにが始まろうとしているのかな,という楽しみもないではない。

そんな乱雑な読みをしているときなのに,『健康問答』と『養生問答』(いずれも,五木寛之と帯津良一の対談,平凡社ライブラリー)だけは,さっと最後まで読めてしまった。なぜか。帯津さんの発することばがいいのだ。五木寛之は,みずから健康法の本を書いたりしているくらいなので,その知識の豊富さという点では驚くべきものがある。しかし,それらは全部,だれかからの孫引きの知識でしかない。けれども,帯津さんのことばは,みずからの臨床と知識がクロスしたところから発せられるものだけに,とても重みがある。しかも,とてもわかりやすい。

帯津さんのことは,これまでにもいろいろの雑誌などに登場しているものは読んできているので,ある程度は知っていた。しかし,まとめて単行本2冊を読むということはなかったので,今回はとても理解が深まった。

まず,帯津さんは太っ腹である。そして,子どものように好奇心が旺盛である。しかも,その生き方は自然体そのもの。なによりも強く感じられるのは患者さんに対する深い愛。患者さんとどういうコミュニケーションをもつか,これが医者としての最大の課題だ,という。病院は居心地のよさを患者さんたちに感じてもらえる「場のエネルギー」をもっていなくてはならない,という。そのためには,医者と看護士,管理栄養士,介護士,リハビリの指導者,事務職員,などなど全員のチームワークのよさが必要だ,と。みんなが病院を愛している,病院が大好き,という愛情をいだくこと,ここからすべてがはじまる。このとき「場のエネルギー」が高まり,それが患者さんたちのこころを安らげ,治療に最大の効果を発するのだ,と。治療はそれを前提としてはじめて成立する,と。などなど,書いていくと際限がなくなってしまうほどだ。

ついでに,わたしが感動した,帯津語録をいくつか拾っておこう。

「酒はからだにいいと思っているので,欠かさず飲んでいい。ただし,飲みすぎないこと。」

「一日,三十品目食べなければいけないという,栄養学的な根拠はあいまい。基本は好きなものを食べること。こだわる必要はない。」

「空腹を感じていたら,朝食はとるべきだろう。無理して食べることも,無理して飢餓状態をつくることもない。」

「肉はやたちと食べるのではなく,からだが欲しがるとき満を持して,ときめいて食べよう」

「緑茶がガン予防になるかは,なんともいえない。緑茶にかぎらず,食品の効き目に関する医学的根拠はあいまい。効果をあまり期待しないで楽しんで飲むほうが良い。」

「アルカリイオン水の効きめは,軽々しくは断定できない。水は大事だけれども,水だけで病気が治るわけではないから,あまり神経質になつないほうが良い。」

とまあ,こんな調子で「ホワーッ」とした応答をされる。これらの応答には,すべて,五木寛之の問いかけがある。「健康のため,一日三十品目食べなくてはいけないか」という具合に。

帯津さんの目指す医学は「ホリスティック医学」。もともと東大医学部の助教授まで勤めた俊秀である。しかし,西洋医学一本槍の医学の考え方に限界を感じ,辞表を提出して,みずから,病院を設立。自分の理想とする「医療」の実現を目指す。それが「ホリスティック医学」であり,「ホリスティック医療」である。ここは大事なところなので,帯津さんが書いた文章を引いておこう。

「ホリスティック医学を求めて25年,いまだこれを手にしてはいない。

ホリスティック医学とは,身体,心,命が一体となった人間まるごと(ホリスティック)をそっくりそのままとらえる医学である。理想の医学といってよいだろう。

スコットランド・グラスゴーの,ホメオパシック病院のデヴィッド・レイリー院長は,ホリスティック医学がもたもたしているから,代替療法が伸してきたという。

そうかもしれない。そうだとすると,私もその責任の一端を負わなければならない。

代替療法とは,西洋医学以外の治療法のことである。アメリカでいうところのオルタナティブ・メディスン(Alternative Medicine)の邦訳である。大はインドのアーユルヴェーダ医学,中国医学,ホメオパシーといった,伝統と独特の体系を備えたものから,小はサプリメントにいたるまで,百花斉放,さまざまな治療法がここにふくまれる。」

という具合に,じつに明快に帯津さんの世界が語られていく。

最後に,帯津さんは医者はもっと直感・直観力を養わなくてはいけない,という。この根拠については,ぜひ,この本をとおして確認してみてほしい。ここにも,わたしは全面的に賛成である。

長くなってきたので,このあたりでおしまい。あとは,テクストで。

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2010-04-04 小金井公園で花見を楽しむ。

_ 2年ぶりに古い友人が集まって,小金井公園で花見を楽しんだ。花冷えということばがあるとおりの天気だった。

小金井公園といえば,江戸時代からさくらの名所で,大勢の花見客で賑わったという。いまも,その伝統を引き継いでいて,みごとなさくらの園を維持している。あの広大な小金井公園にあふれんばかりの花見客が集まって,ござをしいて宴会をやっている。こんな風景をみると,日本人はほんとうにさくらが好きなんだなぁ,と思う。いまでは,ちょっとした観光名所にいけば,どこにでもみかける外国人(ヨーロッパ系)の姿も,ここではほとんどみかけることがない。もちろん,何人かは歩いている姿をみかけたが,ござをしいて宴会をやっている集団はみかけなかった。ひょっとしたら,外国人向けのガイド・ブックに小金井公園の紹介が少ないのかもしれない。これだけの広さをもった公園は,ヨーロッパのそれにも匹敵する,雄大なものである。春夏秋冬,いつ訪れても,この公園は楽しそうだ。

この小金井公園には,わたしの,いまはなき親友の遺族が寄贈したベンチがある。そのベンチに集まって,かれを回想しながら花見をしよう,と2年ぶりに古い友人たちに招集をかけた。なぜか,この会はわたしが招集をかけることになってしまっている。が,昨年は,わたしの個人的な都合で,サボってしまった。そのせいか,年賀状で,この集まりをやろうよ,という要望が何人かからあり,では,ということでことしはちょっとだけ頑張った。頑張ったというのは,この一日の時間を確保するために,仕事を前倒しして片づけるという意味である。

ここでいう古い友人たちとは,そのむかし,一緒に登山を楽しんだ山仲間のことである。「東京ルンペン・クラブ」と称して,最初に5人が集まり,その後,少しずつメンバーが増えていった。このクラブのリーダーが,ベンチの寄贈者である。わたしはこの男に山のいろはを教えてもらった。不思議な感覚の持ち主で,山ではとても頼りになる男であった。とくに,山の天候の変化に敏感であった。ある種の動物的な直観力を備えていた。あるとき,快晴・無風という絶好の天気にめぐまれ,2500mほどの尾根を歩いているとき,しかも午前11時ころ,突然,リーダーは「今日はここまで」「すぐにキャンプ・サイトを見つけてテントを張る」と高らかに宣言。こんなにいい天気なのに,なんということをリーダーは言うのか,と不満たらたら。でも,山ではリーダーの言うことは絶対である。だから,仕方なしに,テントを張る作業にとりかかる。30分後,なんということか,あっという間に青空が黒い雲に覆われ,土砂降りの雨が降ってきたではないか。以後,天気に関してはこの男に逆らうものはひとりもいなくなってしまった。かれの天気予知能力の高さはその後も発揮され,わたしたちは大いに助けられたものである。なぜ,わかるのか,と聞いてみたら「おれにもわからない」「ただ,なんとなくいやな予感がくる」とのこと。もちろん,理詰めにいろいろのことを考えるのだそうだ。でも,最後のところは,そういうものを超越してしまって,なにかを感ずるのだ,という。

いまのわたしには,このことばの意味を理解することができる。しかし,あの当時は,なんということを言うのだろう,と不思議でならなかった。で,仕方がないので,当時は,「動物的直観」の持ち主という合理化をして,みずからを納得させるしかなかった。いまなら,ある種の天才はみんなそういう感覚(これこそが才能)に恵まれているのだから,当然,と。こういう感覚(直観)は,どんなジャンルで仕事をしている人であろうと関係なく,恵まれた人とそうでない人とが,はっきり分かれている。ただ,そのことにどれだけ自覚的であるかどうかが問題なのだが・・・。

こういう異能のリーダーに恵まれたお蔭で,ずいぶん,ふつうの人とは違う山の経験をさせてもらった。のちに,わたしが単独行を楽しむようになってから,東京ルンペン・クラブでの経験が役立った。いまでも,そのころの記録が残っているが,天気に関しては少しずつリーダーの域に近づきつつあったこと,そして,驚くべき健脚であったこと,などを確認することができる。と同時に,そのときの記憶がまざまざと蘇ってくる。これはこれでわたしの至福の時である。

のちに,この東京ルンペン・クラブはスキー同好会としてさらに組織が大きくなり,活動も活性化した。このことは,また,いずれ書くこともあろう。今回は割愛。

で,小金井公園の観桜会は,曇り空ではあったが,時折,太陽が顔をみせた。ちょうど,わたしの背中に日光があたり,じわーっと温かさが皮膚に染みこんでくる。かなりの厚着をしていたにもかかわらず,太陽の温もりが「じか」に伝わってくる。最近,太陽熱にとても敏感になったのか,ほかほかと温められるととても気持ちが落ち着く。ぼーっとなにも考えないで,その温もりを楽しむ。心地よい。なんともいわくいいがたい幸せを感ずる。どうやら,わたしのからだも大自然と交信・交感できるところに近づいているようだ。この感覚は大事にしたいと思う。なによりも安心感がえられ,しかも心地よいのだから。

太陽エネルギーこそ,なんの計算も打算もない,ただひたすら「浪費」「消尽」するものの代表である,とバタイユは言う。自然界はすべからく,存在するエネルギーはひたすら「浪費」するのが大原則だ,という。だから,人間もまた,みずから産み出したエネルギーを,みずからの手で「浪費」しなければならないのだ,とバタイユは主張する。そして,原初の人間たちは,みごとに余剰エネルギーを蓄えることなく「浪費」し,「消尽」することに没頭していた。祝祭で展開される「供犠」はその典型例だ,と。その「供犠」の延長線上に「スポーツ文化」の姿が浮上してくる。

ところが,人間は,獲得したエネルギーを「浪費」し,「消尽」することを忘れてしまって,「蓄積」し,「貯蓄」する方向に走り出す。その原動力となったものが「有用性」という考え方であり,それを支持したものが「理性」である。このとき,「理性」の逸脱がはじまった。「生きものの要請に答えるべき理性」が,ある特定の「有用性」というコンセプトのなかに取り込まれてしまった。これが近代的理性のはじまりである。

スポーツ史やスポーツ文化論を,バタイユのいう「消尽」の概念を視野のなかに取り入れて展開すること,これができるといいなぁ,と時折,わたしの背中を温めてくれる日光を感じながら考えていた。もっとも,寒かったので飲んだ「熱燗」が,からだを内側から温めてくれた効果も手伝っての話ではあるが・・・・。つまり,「熱燗」とは「消尽」の一つの代表のようなもの。酔っぱらう・・・は「祝祭」の準備局面(Vorbereitungsphase),そして「祝祭」の主要局面(Hauptphase)は・・・?,などと少しずつ・・・・?!

久し振りの小金井公園の花見を楽しみながら,あらぬ妄想に浸ってもいた次第。というよりは,単なる酔っぱらいになっていただけなのかもしれない。異能のリーダーに導かれながら・・・。

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2010-04-05 アステカ帝国のボールゲームと供犠の関係。

_ 供犠とスポーツとの関係をなんとか上手に説明できないものか,とあれこれ思案しながら本を読んでいる。

前にもこのブログで紹介したバタイユの『呪われた部分/有用性の限界』(中山元訳,ちくま学芸文庫)の冒頭に,メキシコのアステカ帝国で行われていた凄惨な供犠の話が,詳細に紹介・分析されている。

そのなかから,わたしの思考を激しく刺激した文章を紹介しながら,そこから考えたことを書いてみたいと思う。たとえば,以下のような文章がでてくる。

「わたしたちの生のうちで,重しのようにわたしたちを宇宙から隔てるものがあるとしても,生をこの重しから解き放つ軽やかな運動を,経験することができないものだろうか。わたしにはこの運動は,栄光を渇望するときに,わたしたちを衝き動かしているものだと思える。」

短い文章ではあるが,なかなか含蓄のある内容である。たとえば,「重しのようにわたしたちを宇宙から隔てるもの」とは,ちょっと読んだだけではなんのことか意味不明である。しかし,バタイユの思想を,たとえば,『宗教の理論』を通過した者であれば,ああ,あのことだ,とピンとくる。わたしたち人間と宇宙とを隔てるものとは,宇宙の内在性のなかに生きていた人間が,そこから離脱し,人間の世界に移動してしまったために生じた埋め合わせ不可能とも思える「深い溝」のことである。これを,ここでは「重し」と表現している。そして,人間の「生をこの重しから解き放つ軽やかな運動」を「経験することができないものだろうか」とバタイユは自問している。なぜなら,「生をこの重しから解き放つ運動」として,古代の人びとは「供犠」という文化装置を考え出してきているからだ。この「供犠」は,どう考えても「軽やかな運動」ではない。「重い運動」そのものである。だから,「供犠」に代わる「軽やかな運動」を「経験する」ことはできないものか,と問う。そして,その答えが「栄光を渇望するときに,わたしたちを衝き動かしているものだと思える」というものだ。

さて,このバタイユの提示した答えからなにを想定すればいいのだろうか。つまり,「供犠」に代わる「軽やかな運動」とはなにか。わたしの脳裏に浮かんできた答えらしきものは以下のとおり。

一つは,舞い踊り。だれよりも人のこころを惹きつけることのできる舞い踊り。大勢のライバルを圧倒し,「栄光」を独り占めしたいと渇望するときに,わたしたちを衝き動かしているもの。よし,おれ(わたし)が踊ってみせてやろうじゃないか,という衝動。そこから生まれる「軽やかな運動」,というわけである。

あとは,人を感動させる運動をとおして「栄光」をえたいという「渇望」がともなえば,おのずから運動衝動が立ち上がってくる。それは,もはや,どのような身体技法であろうとかまわない。走・跳・投の運動でもよし。ボールゲームでもよし。わたしの経験からすれば,生まれて初めて鉄棒運動の「宙返り降り」に挑戦したときがこれに相当する。ふつうにスウィングしていて,前にあおったあと手を離して,後方回転の宙返りをして足で立つ,というワザである。いまと違って,高校のグラウンドに立っている鉄棒(戦前の兵隊さんたちが使っていたコンクリートで固めた支柱に太い鉄棒がわたしてあるもの)で,下は砂場。頭から落ちれば,首の骨が折れるかもしれない,という恐怖との戦いである。でも,同級生のだれよりも早くこのワザを身につけたいという「栄光」への「渇望」がわたしを支えてくれ,大怪我をするかもしれないという恐怖を超える。でも,初めて手を離したときは「天地がひっくり返るか」と思うほどの,あとはどうなってもいい,という全身全霊を神さまに「贈与」したと言っていいような経験であった。幸いなことに頭から落ちることはなく,四つんばいに落ちた。だから,もっと回転をつければ足から降りることができるとわかり,一気にやる気が湧いてきた。そして,その日のうちに,なんとか一人で(幇助なしで)宙返りをして足から降り立つことができるようになった。これはもう,宇宙とわれとが一体化したか,と思うほどの初めての大きな身体経験であった。

バタイユは,この文章の少しあとのところで,つぎのように書いている。

「わたしたちのうちには栄光への意志がある。この意志は,わたしたちが太陽のように生きること,わたしたちの財と生を浪費しながら生きることを求めているのである。」

この文章の意味するところも強烈である。わたしたちの栄光への意志は太陽のように生きることを求めている,と断言する。太陽のように・・・ということの意味は,太陽はなんの見返りも求めることなく,ひたすらエネルギーを放射して,惜しむところがない,ということ。つまり,ひたすら消費,浪費,消尽あるのみだ,と。だから,「栄光への意志」とは「消尽」することにほかならない。財は蓄えて,仕舞い込んでしまってはいけない。財は消尽するために蓄えるもの。そして,年に一回は,すべて消尽すること,それが「栄光への意志」の表出である,と。人間の「生」もまた「浪費しながら生きる」ことを求められている,と。

ここには「有用性」の考え方は微塵も存在しない。つまり,宇宙の内在性のなかに生きるということは,財も生も浪費しながら生きるということなのだ。ところが,人間が,宇宙の内在性から離脱し,人間の世界に移動してしまったとき,それ以後の「生」は「理性」(人間の創意工夫)にゆだねられることになってしまった。ここから,「重し」が,つまり,「重圧」が人間の両肩にのしかかることになる。それに耐えかねて,その「重圧」からの解放の一つの手段として「供犠」が誕生することになる。

スポーツは,「供犠」という「重い運動」に代わる,「軽い運動」として登場してくる。このことが確認できれば,スポーツの起源が,人間を「宇宙と一体化」させるための文化装置であった,ということが明白となってくる。「宇宙」とは,「自然」と置き換えてもいいし,「神」と置き換えることも可能である。つまり,スポーツの原点には,こうした「宇宙」や「自然」や「神」と「一体化」するという「栄光への渇望」がある,ということだ。しかも,このことは,こんにちのスポーツにとっても本質的には少しも変わってはいない,ということだ。

ここで想起されることは,「潜在的なるものが顕在化する瞬間」,これを「擁護すること」,これが「スポーツ批評」の成立根拠であると喝破した蓮実重彦さんの主張である。伝統スポーツといい,民族スポーツと言おうとも,すべて,スポーツの本質はここに帰着すると言っていいだろう。

これで一つ,新しい展望が開けてきた,と思う。これをもっともっと簡単明瞭に言い切るためにはどうしたらいいのか,こんごの課題である。

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2010-04-06 「呪われた部分」と「有用性の限界」

_ このタイトルは,バタイユの著書『呪われた部分 有用性の限界』(中山元訳,ちくま学芸文庫)を二つに分けただけの話である。

二項対立ではないが,二つに分けて書いてみると,バタイユの意図したことがより鮮明にみえてくるから不思議だ。断わるまでもなく「呪われた部分」とは「動物性」の世界のことであり,「有用性の限界」とは「人間性」が切り開いてきた「理性」による文化の「限界」を指し示している。こんな自明なことを,なぜ,ここでわたしが繰り返そうとしているのか。じつは,そこが重要なところである。

昨日のブログを書いたあと,じっと,このテクストの表紙を眺めていて,ふと気づいたことがあった。これも当たり前ではないかと言われそうだが,わたしにとっては新発見だったのだから仕方がない。それは,このまま,スポーツ史研究のフレームそのものではないか,と気づいたことである。

つまり,スポーツの歴史のもっとも大きな流れをひとことで言うとすれば,人間になってからも引きずってきた「呪われた部分」を,どのように抑圧・排除・隠蔽し,「有用性」を前面に押し立てて理性的に合理化をはかってきたが,もはや,そのような「理性」一つに頼ることは「限界」ではないか,と。しかも,その「理性」は,いまや,「狂気」に達している(西谷修),と。つまり,人間にとって「有用」であるかどうかを判定するための「理性」が,どこかでボタンをひとつかけ違えたばかりに,部分的には合理的でありながらも,全体的にみるととんでもない間違いを冒している,そういう時代に突入している,と。だから,もう一度,「理性」の本来のあり方に立ち戻って,「生きものの要請に応えるべき理性」を取り戻そう,と。このことが,そっくりそのまま,スポーツの問題に当てはまってしまう,ということだ。

その隘路の一つが「1000分の1秒」の問題であり,必死になってフタをしてきた「呪われた部分」を視野に入れて,もう一度,宇宙との内在性との折り合いのつけ方を考え直すこと。すなわち,スポーツは,人間と宇宙の一体化(栄光への意志)を取り戻すところに原点がある,ということを再確認すること。別の言い方をすれば,人間とヒトとの折り合いのつけ方を,スポーツという文化装置のなかで,どのようにして見いだしていけばよいのか,ということ。

いうまでもなく「呪われた部分」の中心には,太陽に象徴されるエネルギーの浪費(消費,消尽)がある。太陽にとって「有用性」はまったく無縁である。その延長線上に,動物たちもまた「有用性」とは無縁である。ひたすら,太陽と同じように,「消尽」あるのみである。ヒトもまた「消尽」あるのみであった。ところが,ヒトが人間になったとき,「消尽」に代わって「有用性」(=「理性」)が登場した。しばらくの間は,この「消尽」と「有用性」との折り合いのつけ方が,さまざまに「文化」というレベルで揺れ動いた。それが「供犠」(「ポトラッチ」「贈与」)である。あるとき,「供犠」の論理を「有用性」の論理が凌駕する時代があって,以後,「有用性」の論理が絶対化され,ついには「科学万能主義」の時代へと突入する。そうなると,当然のことながら,「供犠」の精神は抑圧・隠蔽・排除され,あるとき「亡霊」となって噴出することになる。

この大きな「見取り」を肝に銘ずるべきであろう。

ついでに,もう少しだけ書き加えておけば,以下のとおり。

人間は,同時に,ヒトでもあるということ。だから,「呪われた部分」を完全に排除することは不可能であること。つねに,「呪われた部分」を内包している「生きもの」であること。このことを前提にした「理性」の応答が求められていること。このとき,スポーツ文化はどのように見えてくるか。いかなる存在なのか。どのような役割を演ずることが可能か。とまあ,さまざまな「問い」を立てることが可能となってくる。

しかし,それらの「問い」の根底にあるものは,人間が内包している動物(生きもの)としての本能の問題であろう。人間の三大本能といえば,睡眠欲,食欲,性欲である。ヒトが人間になって,もっとも抑圧を受けたのは性欲であろう。つまり「呪われた部分」の代表と言ってもよい。しかし,この性欲こそが,バタイユのいう「エクスターズ」(「恍惚」)の源泉であり,「非−知」そのものである。バタイユが「エロチシズム」をテーマにした著作を多く残したのも,故無しとはしない。なぜなら,この「エロチシズム」(「性欲」)こそ,「栄光への意志」であり,「消尽」そのものであるからだ。すなわち,太陽の論理と一致する。ここにこそ「宇宙とわれとの一体化」の典型をみとどけることができる。

この性欲は,もう一つ,死と再生の問題と通底する。すなわち,宗教の問題である。このことは,ここでは,これ以上は触れないことにする。

以上,「呪われた部分」と「有用性の限界」からうけたわたしの啓示の紹介まで。

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2010-04-08 花吹雪が舞う。

_ 久しぶりの快晴。新聞をみると全国的に晴れ。このところ花冷えの,どんよりとした天気がつづいていたので,気分は爽快である。

こどものころからの「晴れ男」。大事な行事のある日は,かなりの確率で「晴れ」が多かった。だから,照る照る坊主はつくったことがない。いつも,晴れるとこころから信じていた。もちろん,雨の日もあるのだが,こころのうちでは「必ず晴れる」と確信することにしていた。精確に計算すれば,みんな同じ確率のはずなのだが,気持ちの持ちようというのは恐ろしいものだ。わたしはいつのまにやら「晴れ男」と信じて疑わない。

そんなこともあって,今日の快晴がことのほか嬉しかった。気分よく家をでて,鷺沼の事務所に出勤(?)。鷺沼の駅を降りてから,途中の住宅地のなかに小さな公園がある。傾斜地にあるので,半分ほど土地を削って下の方に円形の広場がつくられている。その周囲を囲むようにしてさくらがいま満開である。一昨日あたりから散りはじめていて,もうすぐ終わりだなぁと思っていた。今日,通りがかったら,なんと新雪が積もっているかと見紛うほどの,さくらのはなびらが一面を覆っている。わたしが通る抜け道は公園の一番高みのところにあるので,全体を上から見下ろすことができる。しばし,呆然としながら立ち止まって眺めていた。カメラを持っていないことを悔やんだ。明日はもう遅いのだろうなぁ,と思いながら・・・。

しばらく立って眺めていたら,近所に住んでいるらしいご婦人(わたしよりも少しばかり年配の方)が可愛らしい小型犬(わたしは犬の種類をほとんど知らないのでわからない)の散歩で通りがかった。犬の散歩だな,とは思ったがご婦人の顔まではみなかった。が,わたしの後ろをとおりながら「きれいでしょう」と声をかけてきた。あわてて,振り返り「みごとですねぇ」と応答。それがきっかけになって,しばらく立ち話。毎年,このさくらを楽しんでいらっしゃるようで,去年はどうで,一昨年はどうで・・・といろいろと説明してくださる。で,今夜,公園の中央にある灯がともるころ,ここにいらっしゃい,もっと感動すると思いますよ,とのこと。そこで,わたしは午後7時少しすぎにここをとおりますので,楽しみにしています,と答える。こんな会話をしている間も,時折吹く風にあおられたかのようにさくらの花びらがはらはらと舞い降りてくる。

にっこり笑ってくださったご婦人の笑顔がとてもよかったし,それとなく教養のありそうなご婦人にみえたので,ちょっとだけお尋ねしてもいいですか,と声をかけてつぎのような会話を楽しんだ。

わたしが立っている左側の傾斜地につつじの植え込みがある。このつつじがもう開きはじめていて,つぼみもいっぱいついている。こちらもまもなく満開になるだろう。このつつじが,以前,このブログでも書いた「冬に狂い咲きしたつつじ」である。で,そのとき「虎mama」さんがツッコミで,「冬に咲くつつじの種類がある,と聞いたことがある・・・」と書いてくださったことを思い出したので,このご婦人に尋ねてみた。そうしたら,「冬に咲くつつじはあります。が,このつつじではありません。たしかに,去年の暮れころに,ここのつつじがちらほら咲いたことがありますね。あんなことは滅多にありません。わたしも長年ここに住んでいて,ここのつつじは毎年眺めて楽しんでいますが,あんなことは初めてでした。冬に咲くつつじは,この先の植木屋さんの屋敷のなかに5,6本ありますので,ことしの暮れにでもご覧になってください。」

これで,「虎mama」さんのツッコミ以来の疑問が解消。なんとなくのどのつかえのようなものが,ぼろりとはずれてとてもいい気分。すっきり。さくらが終われば,こんどはつつじの番だ。こちらは長く咲いてくれるので,のんびりと楽しむことができる。

「では,ごゆっくり」と言って,立ち去るご婦人に礼を述べ,しばらく,あちこちを鑑賞。よくよく眺めてみると,菜の花や連翹や色とりどりのパンジーをはじめ,名も知らない野草も花を咲かせている。そして,野草の葉っぱが太陽の光りをうけてきらきらと反射している。このことに気づいて,ああ,いいなぁ,野草の葉っぱも喜んでいる,とひとりごと。

さて,今夜の帰路,ここを通るときには,さくらの花びらの絨毯ができているのだろうか,と想像しながら事務所に向かう。春の気分を満喫しながら・・・・。やはり,晴れるということは嬉しいことだ。それも昨日までのどんよりとした曇り空があってのことだ。自然のアクセントというものはありがたいものだ。なんだか,今日はとてもいい気分。

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2010-04-09 人間の「理性」について考える。

_ ヒトが人間になることを決定づけたものが「理性」だとしたら,この「理性」とはいったいなにか。このところずっと考えつづけているテーマである。

「理性」というテーマ性について,しっかりと考えなくてはいけないというきっかけを与えたのは,言うまでもなく西谷修著『理性の探求』(岩波書店)である。そして,考えれば考えるほど「スポーツ」あるいは「スポーツ的なるもの」の出現と「理性」との関係性の深さが少しずつ見えてくる。そして,とうとう「スポーツ」とはなにか,という小論まで書くことになってしまった。こちらは近々,印刷物になって刊行される予定。でも,枚数に制約があったので,とことん論ずることができなかったために,なんとなく消化不良を起こしている。だから,当分の間は,徹底して「理性」の問題を考えてみたいと思っている。近々には,『理性の探求』の合評会も予定されているので,なおさらのことではあるが・・・・。それとは別に,もっとさきざきにまで考えつづけるべきテーマとして,いま,わたしの頭のなかを占拠している。なぜなら,まったく新しいなにかが,わたしの思考のなかで起きそうな予感があるから。

さて,前置きが長くなってしまったが,今日は,そんな思考の「いま」の一部を紹介してみたいと思う。テクストとして読みつづけているのは,バタイユの『呪われた部分 有用性の限界』(中山元訳,ちくま学芸文庫)。その冒頭に近いところ(P.52)に,「人間の位置の惨めさ」という見出しの「書き割り」が挿入されている。全部は引用できないので,部分を引きながら,私見を紹介してみたい。

「人間はすでに,大地と堅固な事物の<球体>のうちに,孤立している。これは虚弱で悲しい<球体>であり,いとも失墜した圏域で『天の戯れ』のもとに遺棄されている。人間が有用性の原則の前に屈するようになると,人間は結局は貧しくなる。獲得する必要性,この貪婪さが,人間の目的になる──人間の巨大な活動の終局であり,目的になってしまう。もはや悲惨のことしか考えられなくなり,なんとしてでもこの悲惨な状態を緩和しなければならないのだ。憂鬱さと,灰色の日々が目の前に広がる。人間には絶滅の力が与えられたのである。」

この含蓄のある文章は,わたしが勝手に読解を試みるよりは,このまま鑑賞してもらった方が無難だ。読み手の想像力のおよぶ範囲で,まずは,押さえておいてもらえばいいだろう。しかし,それにしても,なんと意味深長な文章であることか,としかと考えてしまう。この本の解説によれば,1939年から42年ころに書かれた文章だというから,バタイユはまだ「原爆」の存在は認知していなかったはずである。にもかかわらず,人間が「有用性」の原則に服従してしまうと,そのさきに待っているものは「絶滅」しかない,と断言している。ここで「有用性の原則」とバタイユが呼んでいるものの内実こそが「理性」そのもののことだ。だから,わたしたち人間は,「理性」に屈してしまうと「絶滅」しかない,と読めてしまう。

「人間の生が冷たさによって生まれたものであり,わたしという生きているこの粒子が,渇きにすぎないならば,わたしは自分を呪うべきだろう。わたしの無限の悲しみの条件が,定められたかのようである。しかし自省しない人間というものは,それほど悲しくはならないものだ。こうした人は,なにか呪われたものを信じ込んでいるのだが,この呪いはそれほど致命的なものではなく,これを迂回することで,生の喜びはこの呪いをまぬがれるものだ。有用性の原則が生まれるのは,内省に苦しめられた老人からである。」

ここにもキー・ワードのようにして登場する「自省」「内省」ということばがわたしの眼を釘付けにする。これこそ,まぎれもない「理性」の表出である。だから,「理性」に呪縛されない人間,「理性」から解き放たれた人間が,バタイユの一つの理想像として浮かび上がってくる。そして,つぎのようにバタイユの文章は展開していく。

「内省する理性というものは,人間の生きるこの世で,もっとも風変わりなものだろう。この理性は,世界を否定し,大地の<嘘>を論理的に発展させるために,あらゆる可能性を汲みつくす。この理性は,内省し,自分に不満を抱く可能性に賭けるのである。しかし内省が論理もなしに極限にまで発展すると,素朴な人間が気づいていた真理を再びみつける手段を手にすることができるかもしれない。素朴な人間は,呪ったり,滅入ったりはしないものだ。わたしが企んでいるのは,この方法による贖いなのだ。」

こうして,バタイユは「理性的な人間」よりも「素朴な人間」に肩入れをしていく。そして,最後に「この方法による贖いなのだ」と断言する。つまり,人間はどこまでいっても「ヒト」であることを放棄したことに対する「贖罪」を,どこかでしなくてはならない,そうすることによって,かろうじて「生きもの」としてのバランスをとるしかないのだ,とバタイユは考えているように思われる。その根本にある原理が「太陽の浪費」(=「消尽」)である。人間の生もまた,太陽と同じように,「消尽」によって支えられるべきものなのだ,と。

そして,バタイユは,別の文章の末尾に,つぎのように書き記している。

「・・・・この人間の理性をまぬがれることができるのは,無だけである。」

ここで,バタイユがいう「無」とはなにか。

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2010-04-10 バタイユのいう「栄誉」ということについて。

_ このところずっと,「スポーツ」あるいは「スポーツ的なるもの」の起源について考えている。そこに,バタイユの「栄誉」という考え方が入り込んでくる。

いつもの『呪われた部分 有用性の限界』のP.38に「栄誉の原則」という見出しの「書き割り」(本文を補足するための長い注・あるいは,ひとまとまりの主張)がある。アステカ族の太陽信仰にまつわる儀礼(供犠)について,バタイユは詳細な分析を試みるなかで,「気前のよさ」「自己の贈与」「栄誉」などの独特の概念装置を用いて,古代のアステカ族のコスモロジーを明らかにしている。この分析をとおして,バタイユは,近代的「理性」によって排除・隠蔽されてしまった「呪われた部分」を浮き彫りにし,かつ近代的「理性」の中心に位置づく「有用性」という考え方の「限界」を明らかにしようとしている。こうした論を展開するバタイユの最終的な意図は「普遍経済学」(あるいは,「一般経済学」)の根本原理の提示にある,とわたしは読む。つまり,人間が「生きる」基本ともいうべき根本原理を明確にすることにある,と。このことが,ルジャンドルのいう「生きものの要請に応える理性」と通底している,とわたしには読める。しかも,わたしの最大の関心事である「スポーツ」や「スポーツ的なるもの」の起源も,この問題と深くクロスしている,いな,こことの関連なしには考えられない,というところにわたしは立つ。

というわけで,バタイユのいう「栄誉」という概念装置をどのようにクリアしたらいいか,がわたしにとっては大きなテーマとなってくる。そこで,こまかな前提はテクストにゆずるとして,いきなり,わたしの関心事の根幹にふれる部分に入っていくことにする。

「しかし生産されたエネルギーの量は,生産に必要なエネルギーの総量よりも,つねに大きいと考えられる。このために,エネルギーの過剰な部分は,まったく役に立たない用途に放出され,純粋な損失として浪費され,失われる必要がある。」

こんにちの資本主義の社会では,この「エネルギーの過剰な部分」をせっせと回収し,さらに資本を強化して,さらなる「過剰」を生もうとしている。これが,マルクスのいう「人間疎外」(Entfremdung)の原点に相当することは素人にもわかる。バタイユは,まずは,ここに一本,重要な杭を打ち込む。そして,つぎのようにいう。

「新しいエネルギーを獲得するという条件のもとで行われたエネルギーの消費は,生産的な消費と呼べる。恒星や太陽のエネルギーの放出のように,自由な放出は非生産的な消費,あるいは栄誉ある消費である。未開の民族では,この栄誉は太陽のもつ特性として意識されている。かい(日編に毎)冥なままにとどまっているこの観念を定義するために,太陽と栄誉の連想をそのまま使うことができるだろう。」

ここに「栄誉」というバタイユの概念装置が登場する。「非生産的な消費」すなわち「栄誉ある消費」として。しかも,この「栄誉」は「太陽」の連想として位置づけられている。太陽のような惜しみなきエネルギーの放出・消費(消尽)こそが「栄誉」そのものだ,と。しばらく前に流行した「歓待」ということばの概念がちらっと脳裏をかすめる。

「栄誉とは,有用性への配慮とは独立してエネルギーをそのものとして浪費すること,あるいはある側面では過剰に浪費することによって発生する効果である。その意味では太陽の光はまさしく栄誉ある消費とみなすべきだ。そして民衆の意識においては,太陽の光が潤沢さ,比類のない勇気,供犠,詩的な天才など,いくつかの人間の生活の形式と似たものと考えられているのも,まさにそのためである・・・。」

ここにいたってようやく「栄誉」の定義がなされる。で,わたしが注目するのは,「民衆の意識においては,太陽の光が潤沢さ,比類のない勇気,供犠,詩的な天才など,いくつかの人間の生活の形式と似たものと考えられている」とバタイユが述べている点である。ここに,わたしは「スポーツ」あるいは「スポーツ的なるもの」を加えたい。「比類のない勇気」「供犠」「詩的な天才」などにつづけて,「舞踊」(舞い踊り)「祝祭」(乱痴気騒ぎ)「スポーツ」(力の優劣くらべ)「アート」(天才的なひらめき)などをならべて考えてみたい。このあたりのことは,バタイユの他のテクストを読み合わせてみても,ほとんど齟齬はないであろうと思われる。むしろ,歓迎されるだろう。

しかし,問題はこれだけでは終わらない。バタイユは,さきの引用文につづけて,つぎのように言う。

「一般に栄誉は,栄誉ある放出が行われた後の状態とみなされることが多い。栄誉とは,こうした栄誉ある放出がもたらす好ましい結果とされるが,栄誉を否定する有用性の視点からみると,栄誉は獲得する価値のあるものに還元されてしまう。これは犯罪人,実業家,弁護士,英雄などに共通する名声や悪名と,ほとんど区別がつかないものである。しかし栄誉の観念によってこうした名声に,ある種の品位の低さ,無益な金ぴか物のイメージが加えられ,これが最初の意味を際立たせるのである。」

さて,この文章をどのように読み取るか。「有用性の視点」からみると「価値あるものに還元されてしまう」という。このあたりのことは宿題としておこう。すでに,このブログは長くなりすぎている。みなさんの読解にゆだねることにしよう。

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2010-04-11 アステカ族のボールゲームと供犠の関係について。

_ 4月5日のブログで,同じようなタイトルのものを書いている。今日のブログはそのつづき。少しだけ具体的に。

テクストはいつもの『呪われた部分 有用性の限界』。P.70.に「1.至高の王の気前のよさ」という見出しの文章がある。ここに,わたしの眼を釘付けにする,以下のような文章が登場する。引用しながら私見を述べてみたい。

「祝祭と戦(いくさ)において,アステカ族はいわば,宇宙とまぐわっていた。群れた人々の騒がしさを,天と地に一致させたのである。」

これが,この小見出しの節の書き出しの文章である。いきなり,なにごとか,とわが眼を疑う。しかし,よくよく冷静に読み返してみると,アステカ族の習俗をみごとに表現した内容であることがわかる。アステカ族が祝祭の時空間で繰り広げた供犠を筆頭に,歌い踊り,飲み食いしたり,さまざまな芸能やゲーム,そして,戦争もふくめた「騒がしさ」をとおして,アステカ族の人びとは「宇宙と一体化」していた,というのである。

「騒がしい動きが生のリズムを作り出し,農業と商業はこのリズムから力を引き出していた。経済的な活動の目的は,辛い生活を維持することではなかった。この活動は原則として,栄誉への奉仕に利用されたのである。至高の地位に立つ者が,共同体の栄光を体現していた。至高の王は人民全体のイメージである。至高の王は大衆を統一する存在であり,大衆は至高の王のもとに,共同の意志が忠実に表現されることを期待していた。すべての人民の望むところは,至高の王が気前のよさというイメージを体現することだった。」

祝祭や戦(いくさ)の騒がしい動きこそが,「生のリズム」を産み出し,この力を借りて農業や商業が活性化する,そのためには「至高の王の気前のよさ」が必要不可欠である,と考えられていたというのである。こうして大衆の「共同の意志」が表現される,と。

では,その具体的な内実はどのようなものであったのか。

「サアグンは,語っている。『王たちは,自分の寛大さをみせつけて,評判を高める機会を探していた。王たちが戦争や,供犠の前や後で行われるアレイトスという舞踊に多額の金を投じたのはそのためである。王たちは,極めて高価な品々を賭けた。そして男であれ女であれ,下層の民が臆せずに挨拶し,王の気にいる言葉を申し立てたならば,料理や飲み物をふるまい,衣服や寝具にするための布を与えるのだった。王が気にいる歌を作った者があれば,その出来栄えや,歌で得られた喜びにふさわしい贈物をしたものである。』」

これで,アステカ族の「騒がしい動き」の内実が明らかになってくる。そして,これがアステカ族の「生のリズム」を産み出す。その原動力になっているものが「至高の王の気前のよさ」である。こうして,アステカ族は「宇宙とまぐわっていた」のである。「共同の意志」や「共同体」というものが,このようにして共有され,確認されていた,というわけである。

バタイユは,しかし,つぎのようにも述べている。

「至高の王は巨富を所有しており,これを自らの民の偉大な栄誉のために,芸術と祝祭と戦争のために,支出しなければならなかった。気前よく冨を浪費する必要があり,ときにはゲームに負けることも必要だった。」

巨富を栄誉のために浪費するということは,太陽の浪費と「まぐわう」ことを意味する。そのために,芸術と祝祭と戦争がある,と。ここでいう「芸術」は,たぶん,「アルス」の意味でのものだとすれば,わたしのイメージとしては,むしろ「芸能」と呼んだ方がわかりやすい。そして,この引用のなかで,わたしが注目したいのは,末尾の「ときにはゲームに負けることも必要だった」という記述である。この「ゲーム」には注が付されている。それによると以下のようである。

「ガリマール編集部注2──原稿(草稿箱13G165)では,次のように注記している。

サアグンによると,テニスのような,石蹴りのようなゲームが行われた。このゲームでは手も足も使わず,お尻だけを使って競技したという。

この注記を読んで「おやっ?」と思う。「お尻だけを使って競技した」といえば,これは古代アステカ族の代表的なボール・ゲームとして知られる「トラチトリ」ではないか。だとすれば,「お尻」というよりは「腰」を使ったボール・ゲームということになろう。

もし,これがほんとうに「トラチトリ」を意味しているとしたら,ことは重大である。なぜなら,「ゲームに負ける」ということがなにを意味しているのか,その判定には慎重を要するからだ。一説によれば,「トラチトリ」というボール・ゲームそのものが祝祭の「儀礼」の一環として行われており,敗者は「供犠」の「生贄」にされた,という。この説とはまったく逆に,勝者が「生贄」に捧げられた,ともいう。いずれにしても,このゲームの敗者・勝者のいずれかが「生贄」に捧げられたとすれば,「ときにはゲームに負けることも必要だった」という「気前のよさ」はただごとではない。まさに,「民の偉大な栄誉」のために「気前よく浪費」することを意味し,これこそが「宇宙とまぐわう」ことの意味だ,ということになる。

もう少しだけ,わたしのおぼろげな知識を頼りに,書き記しておこう。たしか,「トラチトリ」というボール・ゲームは,太陽信仰の一つのシンボルとして行われていた,という。重い枕のような「ボール」を手も足も使わないで,「足腰」のバネを利用して「腰」ではね上げ,地面に落さないようにするゲームだという。ゲームの仕方はさまざまにあって,対人ゲーム(個人対個人)から,対陣ゲーム(チーム対チーム)で行われるものまで,折々に変化があったようだ。しかも,興味深い伝承の一つに,競技場の中央の側壁にとりつけてある丸い「リング」(輪)のなかをボールを通過させた競技者は,「神」として崇められ,もっとも重要な「供犠」の「生贄」として選ばれた,というものがある。しかも,このようにして「選ばれる」ことは,古代アステカ族にとってはもっとも名誉なことであった,という。まさに,太陽の運行に貢献する「神」そのものであり,太陽という「宇宙」と「まぐわう」こと以外のなにものでもない。「自己の贈与」の最高レベルのもの,それは,この事例を除いては他にはないであろう,と思われる。

唐突だが,とりあえず,このブログはここで終わりとする。いいところまで書いてきたし,まだ書いておきたいことがあったのだが,突然のハプニングがあって,頭のなかの想は雲散霧消してしまった。もし,明日にでも,いくらか思い出すことができれば,このつづきを書いてみたいと思う。残念ながら,今日はここまで。

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2010-04-12 「判断の逆転の必要性」について。

_ バタイユのつづき。いつものテクストのP.75.に「判断の逆転の必要性」という見出しの「書き割り」がある。

古代のアステカ族が「自然」との折り合いのつけ方をどのように考えていたのかを知る上で,とても示唆的である。

「コルテスが征服する以前のメキシコのさまざまな栄誉ある行動をみてみよう。これは共同の存在を秩序づける力を示すものである。この実例で,ある民が栄誉を望みながらも,その意志が民の生そのものを窒息させていくことを明らかにしておけば,その他の孤立した実例を,自由に使えるだろう。」

いまのわたしたちからは,なんとも馴染みにくい文章であるが,少し頑張って考えてみたい。まず,「栄誉ある行動」を確認すれば,その民の「共同の存在を秩序づける力」がわかる,とバタイユは述べる。しかし,その栄誉を望む意志が,逆にみずからの生そのものを窒息させるのだ,ということを明らかにすることが大事だ,と。こうした前提に立ちながら,つぎのような話題を展開する。

「戦争,祝祭,供犠などの総体が,ひとつの民を作り出す。民が集まると力が生まれ,民の活気が頂点に達し,活動を支配するようになる。古代のメキシコの民は,畑を豊穣にするために,供犠と舞踊によって無駄に力を費やしたわけではない。これらの営みは,民の共同の行動のサイクルの秩序を定めていたのである。人々は,自然の生と自分たちの生をうまく区別できなかった。人間の行動と宇宙の戯れは,たがいに異質なものではないと考えていたのである。そしてこれは,今のわたしたちよりも優れた洞察なのだ。」

バタイユのいう「栄誉ある行動」とは,ひとつには,「畑を豊穣にするための行動」,すなわち,供犠と舞踊である。しかも,計算も打算も度外視した力の浪費(消尽)である。つまり,過剰となったエネルギーのすべてを供犠に捧げ,狂喜乱舞してみずからのエネルギーをも徹底して消尽すること,これが「栄誉ある行動」なのだ。こうして,「民の共同の行動のサイクルの秩序」を定めていたのだ,という。ここには,日本の農耕儀礼の「年中行事」と通底するものが認められよう。こうして,自然の生に自分たちの生を重ね合わせること,そして,宇宙の戯れと人間の行動は同じものと考える(バタイユのことばでいえば「まぐわう」となる)。こうしたアステカ族の洞察の方が,いまのわたしたちよりも優れているのだ,とバタイユは主張する。(わたしの乏しい知識によれば,ヨーロッパもまたキリスト教に支配される以前は,こうした自然と一体化する生き方が中心をなしていた。その痕跡を,わたしたちはキリスト教暦以前の農耕暦に認めることができる。悪名高き「魔女狩り」なども,農耕暦時代の自然信仰に対するキリスト教暦からの「弾圧」だった,とわたしは理解する。)

「正確には,なにも結びついてはいないとしても,人間の生は,宇宙の生に結びつかなければ,実現されないのである。わたしたちの経済活動も,天の壮麗さと一致したものである。農業儀礼の効果は,天の壮麗さとの一致によって生まれたものだ。こうした儀礼について理解するためには,意味を逆転させる必要がある。自然を人間に従わせることはなきないが,人間は自然に従うことができるのだ。」

このパラグラフでのバタイユの言い分は,むかしながらの日本的なコスモロジーに立つ者からすれば,ほとんどなんの違和感もない。「人間の生」が「宇宙の生」に結びつくのは当たり前だし,農耕儀礼が自然現象と一致するのも当然だし,人間が自然に従うという考え方もそのまま受け入れ可能である。唯一,上の引用文のなかで抵抗を感ずるのは「わたしたちの経済活動も,天の壮麗さと一致したものである」という一文であろうか。それほどに,こんにちの「経済活動」だけが突出して「異変」を起こしている。そし,わたしたちの感覚も著しく疎外されてしまっている。「地獄の沙汰も金次第」という俚諺(忠告)の方に大きく振れてしまい,まともな感覚をどこかに置き忘れてきてしまったかのようである。

こうして考えてくると,古代アステカ族の「栄誉ある行動」は,なにもアステカ族に特異な慣習行動というわけではなく,むしろ,古代社会にあっては,ある意味で,普遍的な原理原則だったのではないか,つまり,古代的なコスモロジーとして普遍性をもっていたと考えるべきではないか,と思われる。それを過去の遺物として遠い存在にしてしまったのは,たかだか,ヨーロッパ近代の科学的合理主義によって世界が支配されはじめた,それ以後のことでしかないのではないか,ということだ。長い人類史のスパンで考えたとき,「栄誉ある行動」の方が圧倒的に長く,こんにちのわたしたちの近代合理主義的思考は(とりわけ,日本にあっては),ほんの1世紀そこそこのことでしかない。

近代的「理性」による思考パターンが,科学偏重主義の隘路にはまり込んでしまったために,人間の求める「生きものとしての要請」がなおざりにされて,まだほんのわずかな期間でしかない。しかし,科学のあまりの進展の速さが,人間の存在(「生きもの」としての存在)をどこかに置き去りにしてしまったのだ。そのため,そのギャップを埋め合わすことすら忘れてしまった,というべきか。ここにも「理性」が「狂気」と化してしまった,ひとつの大きな局面を見届けることができる。「科学」とはだれのためのものなのか,という根源的な「問い」が,いま求められている。

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2010-04-13 「喫煙」に関するバタイユの見解。

_ 「喫煙」は祝祭である,とバタイユは言う。いつものテクストのP.130〜132.にかけて小論を展開している。今日は「喫煙」について考えてみよう。

短い文章なので全文を段落ごとに分けて引用しながら,考えてみたい。

まず,バタイユはつぎのように書き出している。

「現代の社会で浪費がほとんどなくなっているというのは,それほど確実なことではない。その反論として,煙草という無駄な消費をあげることができるだろう。考えてみると,喫煙というのは奇妙なものだ。煙草はとても普及していて,わたしたちの生活のバランスをとるためには,煙草は重要な役割を果たしている。不況のときにも,煙草の供給は真面目に配慮されるくらいだ(すくなくともそうみえる)。煙草は「有用な」浪費に近い特別な地位を占めているのである。」

「有用性」という考え方が人びとの生き方の中核を占めるようになった「近代」以後,「数量的効率主義」が幅をきかせるようになり,いわゆる無駄な浪費を抑圧・排除され,浪費はほとんどなくなってしまったと考えがちであるが,そうでもないだろう,とバタイユは主張する。そのひとつが煙草だという。しかも,煙草は単なる浪費ではなくて「わたしたちの生活のバランスをとるためには,煙草は重要な役割を果たしている」と指摘する。だから,煙草は「有用な」浪費に近い特別な地位を与えられている,と。つまり,浪費はたんなる浪費ではない,と。

ということになれば,では,「飲酒」はどうか。わたしのようなドランカーは,短絡的に,「飲酒」もまた「有用な浪費に近い特別な地位」を与えられてもいいのでは・・・と考えてしまう。しかし,バタイユは「飲酒」については,残念ながら,どこにも触れてはいない。もっとも,ひとくちに「飲酒」と言っても,その局面はあまりに複雑多岐にわたるので,軽々には語れない性質のものではあるのだが・・・。この問題は,またいつか,別項を立てて考えてみることにしよう。

ここは,バタイユの「喫煙」についての見解に集中しよう。

「しかしこれほど俗っぽい浪費はないし,これほど時間つぶしと結びついている浪費もない。ごく貧しい人も煙草をふかす。ただしいまこの瞬間にも,煙草の値段はかなり高い。どれだけの人々が配給される煙草を,不足がちな食料品と交換しているだろう。そして食料がないために,貧しい人々はますますみすぼらしくなるのだ。あらゆる贅沢な浪費のうちで,煙草の浪費だけは,ほとんどすべての人の財布にかかわる事柄だ。ある意味では公共の喫煙室は,祝祭に劣らず共同的なものなのだ。」

この文章が書かれたのは1940年前後と言われているので,フランスの当時の煙草事情を知る上では重要な示唆を含んでいる。こんにちの日本の煙草もけして安くはないし,そのうち一箱「1000円」になるという話もちらほら耳にする。こんにちの日本の煙草事情とはかなり異なることを前提に,考える必要はある。とりわけ,「祝祭に劣らず共同的なもの」だとバタイユは考える。日本の愛煙家たちが聞いたら,涙することだろう。

「ただ,ある違いがある。祝祭はすべての人が同じように参加する。ところが煙草は富む者と貧しい者の間でうまく配分されていない。多くの喫煙者は貧窮していて,特権のある人々だけが際限なく喫煙できるのだ。他方で,祝祭は特定の時間だけに制限されるが,煙草は朝から晩まで,いつでもふかすことができる。こうした散漫さのために,喫煙はだれにでもできるものとなり,そこに意味が生まれないのだ。喫煙する多くの人が,そのことをいかに認識していないかは,驚くほどだ。これほど把握しにくい営みはない。」

喫煙者の貧富の差,喫煙時間の無制約性,の2点をあげ,喫煙に「意味が生まれない」ために,きわめて把握しにくい営みである,とバタイユは断言した上で,つぎのように,核心に触れる。

「喫煙という祝祭は,人々に祝祭が行われているという意識を持続させる。しかしこの用途には,隠された魔術が存在する。喫煙する者は,周囲の事物と一体になる。空,雲,光などの事物と一体になるのだ。喫煙者がそのことを知っているかどうかは重要ではない。煙草をふかすことで,人は一瞬だけ,行動する必要性から解放される。喫煙することで,人は仕事をしながらでも<生きる>ことを味わうのである。口からゆるやかに漏れる煙は,人々の生活に,雲と同じような自由と怠惰をあたえるのだ。」

喫煙には「魔術」が仕掛けられている,とバタイユは言う。それは,周囲の事物と「一体化」することだ,と。しかも,そこに「<生きる>ことを味わう」という,きわめて重要な意味がある,と。ゆったりとした喫煙には「雲と同じような自由と怠惰」をもたらす効能があるのだ,と。

この指摘はきわめて重要である。かつて愛煙家であったわたしには,痛いほどよくわかる。いまでも忘れられないのは,甲斐駒ヶ岳の山頂で,知らない登山者から煙草を1本分けてもらい,寝っころがって吸った一服のあの「宇宙と一体化」したかと思われるほどの「めくるめく体験」だ。まさに,バタイユのいう「エクスターズ」(恍惚)の一瞬だ。そのとき,<生きる>ということの実態に触れたように思う。

これこそが,バタイユのいう「消尽」(浪費・消費)であり,そこに「宇宙とまぐわう」ほどの<生きる>実感があり,自己が限りなく「無」に接近していく。これもまた「自己の贈与」の一瞬と言うべきか。

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2010-04-15 浪費の様式としての戦争とスポーツ。

_ スポーツは戦争の代替物である,という考え方がある。しかし,この考え方には賛否両論がある。わたしは積極的な賛成論者のひとりである。

スポーツとはなにか,という根源的な問いを発しながら,その答えを追い求めていけばいくほどに,「スポーツは戦争の代替物である」という思いを強くする。ひとつには,スポーツも戦争も「余剰エネルギー」がないかぎり成立しない,ということがいえる。ヴァイツゼッカーを引き合いに出すまでもなく,戦争は「余剰エネルギー」が蓄積されていないかぎり不可能である。スポーツもまた同じように「余剰エネルギー」が蓄積されないかぎり,つまり,生活に余裕ができないかぎり成立しない。しかし,この点については,さらに精緻な論考を展開し,細部の詰めをしていかないと,そんなに単純には賛同はえられない。すでに,何回も痛いめにあっているので,よく承知しているつもりである。

こんなことを話題にするには,それなりの理由がある。これまで読みつないできたバタイユのテクスト『呪われた部分 有用性の限界』のなかに,どうしても見過ごすことのできない記述がある。それは,バタイユの死後,このテクストの刊行に携わったガリマール社の編集部が付した「まえがき」のなかに,つぎのような記述があるからである。

未完成に終わった『呪われた部分』のための目次の草稿が残されていて,そのなかの「構想C」の第11章に「競争の栄誉」(浪費の様式としての戦争,スポーツ)という見出しがつけられている。もちろん,目次だけなので文章はない。バタイユは『呪われた部分』を書き上げるために何回も構想を建て直しながら,少しずつ草稿を断片的に書き残していたことが,この「まえがき」からわかる。そして,「構想A」「構想B」「構想C」と三つの目次を書き残しているのである。

これらの「構想」を見比べてみると,その大部分は共通しているのだが,その力点が少しずつ変化していることがわかる。「まえがき」によれば,「構想C」の草稿は1943年に書かれたという。これが最後の構想に関する草稿であったわけだ。その最後の「構想C」の第11章に,はじめて「スポーツ」ということばが登場する。バタイユは「戦争」に関しては,この構想のなかでも,かならずどこかで目次を立てている。しかし,「スポーツ」に関してはこの「構想C」だけに登場する。ただ,残念なことに,このテクストの本文にも「スポーツ」に関するバタイユの見解はどこにもみられない。

この「構想C」の見出しにもっとも近いと思われるものが,本文の第3章の四の「軍事的な栄誉と競争の栄誉」である。つまり,「軍事的な栄誉」=「戦争」,「競争の栄誉」=「スポーツ」と読み替えることができるからだ。しかし,本文を精読してみても,残念ながら,ここには一般論としての「競争の栄誉」が述べられているにすぎない。したがって,バタイユが「スポーツ」に関していかなる見解をもっていたのかは,永遠の謎である。

しかし,その謎をとくための唯一の手がかりが,この「構想C」の第11章・競争の栄誉(浪費の様式としての戦争,スポーツ)という見出しである。考え方によっては,この「見出し」だけで十分だということもいえる。つまり,「競争」も「栄誉」も「浪費」も,このテクストのなかではいたるところでバタイユの論考が展開しているからである。それらを統合していけば,おのずから,ここでいう「浪費の様式としての戦争,スポーツ」の意味・内容は明らかになる。

そして,そこから導き出される結論もまた「スポーツは戦争の代替物である」という考え方に一致する。ここで注意しておかなくてはならないことは,「戦争」と「スポーツ」はイコールにはならない,ということだ。あくまでも,「代替物」だ,ということ。しかも,「戦争」は全体的体験(西谷修)であるのに対して,「スポーツ」はそうではない,ということだ。つまり,これは近代スポーツを想定した場合のことである。しかし,「スポーツ」をその起源にまで遡っていくと,たとえば,ほとんど「決闘」にも等しいレスリング,つまり,敗者は命を奪われることを前提とする「スポーツ」の原初形態にあっては,「全体的体験」と呼ぶにふさわしい。すなわち,「戦争」(戦闘)と「スポーツの原初形態」(決闘)とは,ほとんどイコールとなる。

ここで結論を。つまり,バタイユの考え方によれば,スポーツもまた「浪費の様式」のひとつにすぎない,ということだ。そして,もともとは戦闘のための身体技法であったものが,時代の経過とともに,少しずつ「スポーツ的なるもの」となり,やがて「スポーツ」(近代スポーツ)となる。このとき,「浪費」(「消尽」)の考え方(価値観)が,どこかで逆転する。このときに働いた「理性」とはいかなるものであったのか,そして,ついには「理性」が「狂気」と化すにいたる,その道筋を,スポーツ史はどのように説明すればいいのか。

わたしたちは,これまで,このような視点にあまりに無知であり,無関心のままでやってきた。そういうこれまでのスポーツ史研究のあり方について,わたしは深く反省するものである。そして,ひとたび,このような視点の存在を知ってしまった以上,しかも,それが今日的な思想・哲学上の喫緊の課題と密接に連動している,ということを知ってしまった以上,このまま看過するわけにはいかない。

わたしが『スポーツ史研究』に総説論文として拙稿を投じた背景には,このような事情がある。みなさんで大いに議論していただければ,幸いである。17日(土)の研究会には,このあたりにまで踏み込むことができれば,わたしとしては大満足。みなさんのご協力を。

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2010-04-16 人間が人間を超えてゆくとしたら・・・。

_ いよいよ明日(17日)は,『理性の探求』(西谷修著,岩波書店)の合評会。待ちに待った会である。いまからドキドキしはじめている。

一種の緊張感なのだが,あの体操競技の演技順を待っているときのものとは異質だ。どことなく楽しいのである。はたしてどんな展開になるのだろうか,という未知なる期待のようなものだ。西谷さんは,例によって,あまり細かな打ち合わせはしない。ごく大まかな手順(合評会の流れ)だけを確認すれば,あとは,そのときの勢いにまかせましょう,というタイプの人だ。そして,その「場」の力を大いに生かしながら,次第にテンションを高めていって,ふだんとはまったく違う次元の思考が弾けて飛び出すことを,ひたすら楽しみとされる人だ。だからこそ,われわれのようなスポーツ史・スポーツ文化論の集まりにも快くでかけてきてくれる。そして,本気で,そのときそのときの思考を全力でぶっつけてくれる。ありがたいことである。だから,わたしも緊張してしまう。

この合評会が予定されていたので,わたしはこのところこのブログをとおして,バタイユの『呪われた部分 有用性の限界』をテクストにして,いわゆるルジャンドルのいう「生きものの要請としての理性」のさまざまなヴァージョンについて考えてきた。しかし,この作業はエンドレスで,バタイユのこのテクストはどこを掘っても金の鉱脈だらけ。しかも,そのどれもがびっくり仰天の発見につながるからやめられない。だから,この作業は,合評会が終わってもしばらくはつづきそうである。

が,いよいよ,明日に迫った合評会を直前にした今日は,テクストである『理性の探求』をあちこち拾い読みしている。そうしたら「後記」のなかに,つぎのような文章があって,しばし腕組みをして考えてしまった。文章の途中からの引用になるが,

「・・・いわゆる『文明圏』では,個人の欲望が『自由』や『人権』のタームで粉飾され・・・『人間』そのものが『全能性』の幻想のなかでしだいにその輪郭を見失いつつある。」

と述べたあとで,

「ただ,奇妙な『全能性』ではある。市場が公正に決定するから価値判断は無用とされ,経済的繁栄と結びついたテクノサイエンスが,実は人間の意図とは関係なく,所与としての人間の基礎条件を無造作に変えてゆこうとしている。そしてその変化は『ホストヒューマン』などという標語とともに進化論的ヴィジョンで正当化されてゆくのだが,人間が人間を超えてゆくとしたら,それは『自由』の結果なのか? そしてそのとき,『自由』や『人権(人間的権利)』はどうなってしまうのか? そんな疑問の前に立たざるをえない。」

という。「人間が人間を超えてゆくとしたら・・・」という仮定法が,すでに,着々と現実になりつつある,ということをわたしたちは知っている。そし,そのための決め手となる打開策もなく,右往左往しているのが現実である。ひょっとしたら,スポーツの現場はその最先端の実験場になっているのではないかとすら思わずにはいられない。

たとえば,ドーピングをめぐる問題系。人間がもって生まれた身体だけでは満足できず,薬物の力を借りて人間以上のパワーを発揮させようとする人間の登場である。この問題が,スポーツマンにだけ批判が集中している,という不思議な現象が起きている。たとえば,芸術家がドーピングをして作品を制作しようが,音楽家がドーピングをして作曲をしようが,演奏をしようが,はたまた,小説家がドーピングをしながら小説を書こうが,できあがった作品がよければ,なんのお咎めもない。つまり,人間が人間を超えてゆくとしたら・・・という仮定法は,このようにしてすでにわたしたちの身辺に浸透しているのである。受験勉強にしてもそうだ。

この問題を「生きものの要請としての理性」という立場から考えるとどうなるのか。「生きものの要請」といったときの「生きもの」とは,どのレベルまでのことを意味するのか。現代社会を生きるわたしたちは「ビオス」であると同時に「ゾーエー」でもある「生きもの」である。ドーピング問題は,「ビオス」的に考えればなんの問題もない,とわたしは考える。そして,「ゾーエー」的には考えられない事態の出現である,と。しかし,この問題は考えれば考えるほど奥の深い問題なので軽々に結論をだすことは控えておくことにしよう。

こんな話題も明日の合評会で上がってくるようであれば,とてもエキサイティングな会になることだろう。西谷さんは,どのように応答するのだろうか,と考えるだけで楽しくなる。

あとは,明日のお楽しみということにしよう。

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2010-04-18 『理性の探求』の合評会,盛り上がる。

_ 昨日の17日(土)は,午後1時から6時まで「ISC・21」4月東京例会を開催。27名が参集。大いに盛り上がる。

第一部では,近況報告や情報交換。新しいメンバーの方がお二人,参加されたので,いつもとちょっと違った,いい意味での緊張感が生まれ,わたしは大満足。マンネリを防ぐには,つねに新しいメンバーが加わることが第一。早速,このお二人に自己紹介を兼ねてショート・スピーチをしていただく。お一人は,殺陣師。もうお一人は税理士。それぞれに面白い世界を切り開こうとされていて,とても魅力的。みんな思わず引き込まれてしまう。こんごも参加したいということなので,とても楽しみ。

第二部は,待望の合評会。西谷修著『理性の探求』(岩波書店)。2月の名古屋例会と3月の大阪例会で「輪読会」という形式で議論を積み上げてきているので,準備は万端怠りなしというところ。

最初に,著者である西谷さんから,このテクストで取り上げた「理性」の考え方について,懇切丁寧な説明がある。その上で,いま,考えることができる「理性」のもつ問題系の限界まで話をすすめ,ここからさきはうまく説明できない,現段階での限界です,というところまで話をしてくださる。これはとてもありがたいこと。思わず感動してしまう。いかにも西谷さんらしい,思考の「エッジ」に立つことの重要さをも率先垂範してくださる。こういう思考の仕方を一つひとつ積み上げていくことが重要なのだ,と。

こうして,今日,議論すべき理性についての共通の土俵を明確にしてから,コメンテーターのコメントに入る。

トップ・バッターは松浪稔さん。つづいて三井悦子さん。最後は松本芳明さん。それぞれ自分の専門領域をもつ研究者としての立場から,このテクストをどように読み,そこからなにを考えたか,という問題提起がなされた。そして,それぞれのコメントに対して,一人ずつ,これまた丁寧に西谷さんが応答してくださる。ときには情感を込めて,話に熱が入る。みんなじっと耳を傾ける。この間合いのとり方がよかったのか,西谷さんの話はますます佳境に入る。なかでも,エンブレム的論考とみずから「後記」に書き残したほどの力作「記憶の満天」については,その後の思考の深まりを加えて,さらに深いところにまで立ち入った話をしてくださる。聞いているわたしたちも思わず身を乗り出してしまう。最後の松本さんのコメントについては時間切れで,西谷さんからの応答も残念ながら途中でカット。体操競技の採点基準をめぐる「理性」の「狂気化」現象を取り上げた,じつに魅力的な内容だっただけにまことに残念。ここはテープ起こしの段階で補足した方がよさそうである。

そして,午後6時30分からは懇親会。立食パーティだったので,自由に移動ができ,あちこちにできる人の輪がつぎつぎに変化していく。つまり,お互いにいろいろの人と接触ができているということ。座席で固定されてしまうよりは,こういう研究会のあとの懇親会には立食がいい。でも,みなさん,お腹がすいていたのか,料理はあっという間になくなってしまった。後半はアルコールのみで談笑がつづく。2時間でお開き。

三々五々,散会。

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2010-04-19 ショックで立ち直れず。お休み。

_ 気合の入ったブログをほぼ書き上げて,最後の落としどころにきたところで,間違って「取消」キーを叩いてしまった。

一瞬にして,すべての文章が消えてしまった。全身が凍りつくような,なんとも情けない思いに沈んでしまった。内容もとても気に入って書いていたので,その反動が大きすぎる。もう一度,書き直したいところだが,いまは,その気力も萎えてしまった。ので,今日のブログはこれでおしまい。残念の極み。

また,元気がもどってきたら再度,挑戦することに。ツァイチェン(再見)。

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2010-04-20 「自然」に立脚しない「理性」は「狂気」でしかない。

_ 昨日,ヴァーチャルな「死」を体験して,ショックを受けた。でも,tonton58さんに背中を押されたので,再度,挑戦。思考は「幽霊」だ!といわれ,なるほどと納得。

思考が幽霊であれば,「再来」はありうる,と。幽霊であれば,出るな!と言っても出るときは出る。こどものころ,何回も幽霊をみた経験から,それは間違いない。それを信じて,昨日の思考に挑戦。

18日は,前日の合評会のメモをもとに,頭のなかを整理しながらノートをとることに費やした。そして,合評会のお礼を兼ねて西谷さんにお礼のメールを書いた。そうしたら,丁寧に返信をくださり,合評会の結論の結論に相当するような内容のことが書かれてあった。しかも,それを読んだ瞬間にわたしの全身に電気が走った。震撼する,というのはこういうことを言うのだろう。そして,一気に,いろいろの思考がひとつにつながり,またひとつ見晴らしのいい地平にとび出してきた,と喜びに打ち震えてしまった。

個人的なメールの内容を無分別に公開することは憚られるが,いわゆるプライバシーに抵触するようなことではなく,17日の合評会の結論につながるきわめて重要なことなので,半分は公的な情報として,みなさんとも共有したいとおもう。たぶん,西谷さんも許してくださる,と信じて。

ブログの表題に出したフレーズも,じつは,西谷さんのメールのなかの文章をアレンジしたものである。わたしが震撼したのも,このフレーズなのだ。そうか,「自然」に立脚しない「理性」は「狂気」でしかない,かと。で,この点については,できれば,つぎの月例研究会(犬山を予定)で引き続き議論をしたいとおもうので,西谷さんのメールの要点だけを紹介しておきたいとおもう。

「理性」というのは,西洋では「狂気」の反対語ですので,「狂っている」と見えるものに対抗するのが「理性」ということになるのですが,それは「なぜ」という問いに向き合うところから開けてくるとはいいながら,なかなかそれを実質化することはできません。

たぶん,「理性」というのは,じつはいちばん「自然」に立脚したあり方に行き着くのだろうと思います。「理性」は「自然」ではないし,「自然」には到達できないけれど,その「自然」に立脚することなしには人間の思考には「狂気」しかない,ということになるのでしょう。

その「狂気」はギリシア人が”hybris”として戒めたものだと思います。

到達不可能だということが,人間の「限界」であって,その意味で「限界」を思考するということが人間の課題なのだと,とりわけ『理性の探求』をまとめていて考えていました。

以上が西谷さんからのメールの主要部分である。

これを読んで,わたしの脳裏を駆けめぐった思考は以下のとおり。

合評会の折に,西谷さんが,ピエール・ルジャンドルとジョルジュ・バタイユとの接点についてお話をされたことが,まず第一点。そして,すぐにニーチェもまた同じことを言うよなぁ,と。さらには,ハイデガーだって,ここにつながる思考の糸口をたくさん提示しているようなぁ,というものだった。この全部をここで書くわけにもいかないので,ルジャンドルとバタイユのつながりについて,わたしが考えたことに限定しておこう。

ルジャンドルは,西谷さんも仰ったように,「アフリカがわたしの師匠である」と断言するほどに,アフリカでの青年時代の経験がかれの思想家としての重要な契機となっていることは間違いない。それだけに,西洋の論理(形而上学)がいかに偏見に満ちたものであるか,という問題意識がその根底に流れている。だから,『西洋が西洋について見ないでいること』(以文社)というような本まで書くことになる。その一方で,ルジャンドルには精神分析家としての顔ももつ。となれば,ルジャンドルのいう「生きものの要請としての理性」ということの意味が,わたしのなかではまことにもっともなこと,として流れ込んでくる。まず,人間は,なによりも「生きもの」なのだ,という。「生きもの」だということは文字通り「生物」だということ。そして,「ことばを操る生きもの」だ,という。つまり,ことばは「生きもの」の要請として誕生したものだ。ここでいう「ことば」は「理性」そのものだ。すなわち,人間は「ことば」という「理性」をもつものの,それは「生きもの」としての「内なる自然」の要請に立脚するものでしかない,ということになろう。

他方,バタイユは,『宗教の理論』や『呪われた部分 有用性の限界』のなかで,繰り返し繰り返し,人間の「動物性」について語り,かつては,「世界のうちに水のなかに水があるように存在する」そういう「内在性」のうちに生きていたことを強調する。そして,バタイユは「道具」を制作する人間の出現によって,内在性からの離脱と移動がはじまる,という。しかし,その内在性のうちにあることの重要性を,人間は長い間,忘れることができず,そこに「聖なるもの」を強く意識しながら,他方で「有用性」の探求(理性の拡大)への道を歩みつづける。そのはざまで「供犠」や「祝祭」がはたした意味を問いつづけ,そこから「消尽」という自然界のエネルギーの「浪費」という大原則を導き出す。そして,人間もまた,「消尽」することこそが「自然」の法則に従う生き方なのだ,と定位し,「有用性」の限界(とりわけ,資本主義社会の利潤追求の限界)に対して,痛烈な批判を浴びせる。バタイユの思考のなかには,つねに,人間は「自然」のうちに「内在」する存在なのだ,という大前提があるようにわたしにはおもわれる。だからこそ,「非−知」を語り,「エクスターズ」の重要性を主張し,「エロス」を消尽して「タナトス」にいたること,これが「生きる」ということの実態だと述べる。つまり,バタイユこそ,人間を丸裸にして,たんなる「生きもの」から思考を出発させるべきだ,と主張したのだ。

このように考えてくれば,バタイユもまた「生きものの要請としての理性」を探求していたことは,もはや,なんの疑いようもない。この点で,ルジャンドルの思考とは,なんの違和感もなく結びついている。これが,わたしの理解である。

そこに,西谷さんは,「自然」に立脚しない「理性」は「狂気」でしかない,というテーゼを提示する。だから,わたしは「震撼」してしまったのだ。つまり,バタイユの思考をとことん知り抜いている西谷さんが,現代のフランス社会を生きているルジャンドルの思考と共振・共鳴しながら,さらに,もう一歩前に思考を進め,もはや「狂気」と化した「理性」をきびしく弾劾する決意表明を,日々,新たにしている,という生の姿に<じか>に触れたからだ。

そして,メールの最後に書いてくださった一文が,いまも,わたしの脳裏を渦巻いている。すなわち,

到達不可能だということが,人間の「限界」であって,その意味で「限界」を思考するということが人間の課題なのだと,とりわけ『理性の探求』をまとめていて考えていました。

「自然」から離脱してしまった人間は,もはや,「自然」に到達することは不可能なのだ,そこが人間の「限界」であり,その「限界」を思考することが,われわれの課題なのだ,と。だとすれば,スポーツ史・スポーツ文化論に向き合っているわれわれの「課題」はなにか。これこそが問題である。こきことを,こんどの「5月犬山例会」で議論することができれば・・・といまから楽しみにしている次第。以上。

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2010-04-21 1000分の1秒の差,理性的?いや狂気の沙汰。

_ 「理性」が「狂気」と化しつつある,という議論をこのところ繰り返しやってきている。そこで,今日は,その具体例をあげて考えてみたい。

1000分の1秒の差を計測して,競技の順位を決めるという方法が正式に採用されたのは,ご存じのように,ことしのバンクーバー・オリンピック(2月13日〜27日開催)が最初だった。その結果,とても面白いことが起こった。メディアはほとんどなんの反応も示すことなく,ごく当たり前というか,きわめて厳正な順位決定としてそのまま受け入れたようにみえる。スケート・ファンからも,これといった苦言はでてこなかった。おそらく,最新のハイテクノロジーによって計測された時間,すなわち,現代の「理性」の粋ともいうべき科学的合理主義のはじきだした時間に,絶対的な「信」をおいているからだろう。

しかし,わたしの眼からすれば,これはとんでもない珍事としか映らなかった。たとえば,スピード・スケートの男子500メートル決勝レース。優勝は韓国の牟選手で,記録は1分09秒82(34秒923+34秒906),第二位に長島選手,1分09秒98(35秒108+34秒876),第三位に加藤選手,1分10秒01(34秒937+35秒076)。

確認するまでもなく,優勝と第二位の差は100分の16秒,第二位と第三位の差は100分の3秒にすぎない。このことはいったいなにを意味しているのだろうか。まずは,1000分の1秒まで計測するということの意味はどこにあるのか,ということ。もうひとつには,2回滑ってその合計タイムで競うということの意味,である。

500メートルを2回滑るわけなので,合計1000メートルを滑って,その差が100分の16秒と100分の3秒でしかないということ。この差は人間の肉眼ではまったく判断ができないということだ。もし,かりに3人が一緒に滑ったとする。ゴールには,3人がひとかたまりとなって滑り込んできて,その差を肉眼で確認することは不可能だということだ。だから,人間の肉眼よりもはるかに性能のいいハイテクノロジーの「眼」に委ねるしかないのである。このことは「科学」的にはまったく正しい。しかし,人間の競技能力を比較し,優劣を決定する方法として,これが正しいかどうかとなると,これはまた別問題である。つまり,1000メートルを滑って100分の3秒という「差」に,有意差があるのか,ということだ。おそらく,滑っている選手たちも,そして,計測員にも,また,観客にも,つまり,人間のだれもその「差」を確認することができないのだろう。計器のはじきだしたタイムをみて,順位を確認するだけだとしたら,もはや,そこには人間の存在はないに等しい。つまり,人間不在の世界で順位が決定されているのである。もっと言ってしまえば,そこは「神の領域」だ。もちろん,スポーツにとっての「神の領域」ということだ。そこに割り込んでいって,ハイテクノロジーを用いて優劣の「判定」を行うことの,人間の不遜さに,わたしは大きな違和感を覚える。では,どうすればいいのか。全員「同着」でいいのではないか。

古い記録をみると,たとえば,シャモニー・オリンピック(1924年第一回冬季オリンピック)の500メートルの記録は,第一位44秒0,第二位44秒2,第三位44秒8に二人が入り「同着」として表彰されている。つまり,10分の1秒のレベルで同タイムであれば「同着」と判定されたのである。これでいい,とわたしは考える。10分の1秒の「差」は,1メートル強の差に相当する。1メートル以上の「差」がつかなかったら「同着」という,いかにも「人間」らしい判定だとおもう。実際には必ずしも一緒に滑るわけではないので,その「差」を肉眼で確認することもできない,という特殊な事情がスピード・スケートにはある。だから,なおのこと「同着」という判定がいい,とわたしは考える。

もうひとつの問題は,2回のタイムを合計して優劣を決めるという方法である。なにゆえに,「合計タイム」でなければならないのか。決勝レースを2回のトライアルにすることそのことには反対ではない。2回のトライアルのうち良かった記録をその選手のベスト・レコードとして優劣を判定するのであれば,わたしは賛成である。そうすると,この間のバンクーバーの500メートルの優勝者は長島選手ということになる。この問題はまた別の論理が入り込んできて,話が長くなるので,ここで打ち切り。

ここでは1000分の1秒まで計測して,優劣の判定をしなければならない必然性に焦点を当てるだけで十分であろう。そして,その必然性がどこにあるのかということを一度,冷静に考えなくてはいけない,とわたしは強くおもう。これこそ「理性」が「狂気」の領域に踏み込んでしまった好例だろうとわたしは考えるのだが・・・・。

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2010-04-22 100分の1秒の「差」について。

_ 昨日は1000分の1秒の「差」について考えてみた。今日は100分の1秒の「差」について考えてみたい。それも陸上競技の男子100mを題材にして。

昨日の1000分の1秒の「差」の話は,スピード・スケート男子500mを題材にしたものであった。今日は陸上競技の男子100mの話。最初に断わっておかなくてはならないことがある。スピード・スケートと陸上競技では,同じ短距離でも,その競技の仕方が違うということだ。スピード・スケートは2人ずつレースを行う。そして,予選がない。だから2回(500mだけ)のトライアルの合計タイムで選手の記録を決定することができる。それで一気に優劣を判定することになる。しかし,陸上競技の100mでは,8人ずつの予選を何回か勝ち抜き,最後の決勝レースでも8人が同時に走る。だから,ゴールの瞬間を肉眼で比較することができる。それができない場合には(混戦になった場合には)写真判定という方法もある。いまでは,スロー・ビデオで何回も確認し直すということもできる。つまり,2人ずつレースを行う競技と,同時に8人が走る競技との違いである。このことが,1000分の1秒まで測定するスケート競技と100分の1秒で事足りる陸上競技との決定的な違いである。

そこで,陸上競技の男子100mのオリンピック記録を調べてみた。第一回の1896年の優勝タイムはなんと12秒0である。一瞬,わが眼を疑うような記録である。しかし,第二回の1900年には11秒0である。わずか4年の間に1秒もタイムが縮んでいることになる。そして,あとは1904年11秒0,1908年10秒8,1912年10秒8・・・という具合に徐々に記録はよくなっていく。ちなみに,1952年のヘルシンキ大会では,10秒4という記録で,第一位から第四位まで並んでいる。公式記録としては10分の1秒の記録で残し,あとの判定は肉眼,あるいは写真判定で行っていたようである。これは少し詳しく調べる必要があるが,わたしのおぼろげな記憶によれば,着順の判定についてさしたる問題は起きなかったように思う。同タイムの4人をどのように判定したのか,疑問に思われる方もおありかと思うが,それほど困難なことではない。

たとえば,100mを10秒ちょうどで走るとする(計算をしやすくするために)。単純に計算して,1秒で10mを走る(実際には,ゴールのところでのスピードはもっと速いので,10m強走ることになる)。ということは,10分の1秒で1mの「差」がでることになる。つまり,同タイムであっても,1mの「差」の範囲内にいるということだ。だから,4人が同タイムでなだれ込んできても,肉眼でもベテランであれば,ほとんど問題なく着順を判定することはできたのだ。そして,初期のころには,肉眼で「差」を判定できない場合には「同着」と判定している。これが人間の「自然」に立脚した「理性」のあり方ではないか,とわたしは考える。

面白いことに,陸上競技100mの記録を100分の1秒まで計測して,公式記録として残すようになるのは1968年のメキシコ・オリンピックからである。ちなみに,100mはジム・ハインズ(米)の9.95秒である。その前年の1964年東京オリンピックでは,まだ,10分の1秒の計測しかしていないのである。なんとのどかな時代であったことよ,と意外の感を禁じ得ない。

そして,もっと意外なことは,スケートの男子500mで100分の1秒まで計測し,記録を残すようになったのは1972年の札幌オリンピックからである。陸上競技の100mよりも遅れたのである。これは不思議な話である。それでも「よし」とする情況があったということだ。つまり,このころまでは,まだ,「理性」が人間の「自然」に立脚していた証拠である。

ところが,1998年の,これも日本で開催された長野オリンピックからは,2回のトライアルの合計タイムで順位を競うことになった。記憶に残っている人も多いと思うが,清水選手が2回ともダントツの記録で金メダルを獲得した。しかし,第二位と第三位の合計タイムの「差」は,わずかに100分の2秒の差でしかなかった。第二位のウォーザースプーン選手(カナダ)が1分11秒84,第三位のオーバーランド選手(カナダ)が1分11秒86である。このあたりから,どうやら,科学的合理主義という「理性」が人間の「自然」を超えでていくことが,スポーツの現場で起こりはじめたと考えてよさそうである。つまりは,ここ10年余のことである。

問題は,このことがらの含みもつ重大性について,ほとんどの人たちが気づいていないということだ。スポーツの現場で(断わっておくが,医療の現場ではない)人間の肉眼で確認できないものを「科学」という名の「理性」に委ねてしまうことになんの違和感も感じない,現代人の「感性」の欠損こそが問題なのだ。それをまた「思考停止」してしまったメディアが,なんの疑問を抱くこともなく,そのまま情報として垂れ流す。それをそのまま受け止めて,なんの不思議にも思わなくなってしまった現代人の「思考停止」状態。つまり,人間の「自然」から逸脱してしまった「理性」は,「思考停止」という「場」にあってはじめて大活躍が可能となったのである。これを「狂気」といわずしてなんと呼べばいいのか。

ここでふと「感性こそがエンジンだ」と説いた竹内敏晴さんのことばが脳裏をよぎる。

スポーツにも「クォ・ヴァディス?」(神よ,いずこへ?)という根源的な問いを発しなくてはならなくなってきた。いやいや喫緊の課題というべきか。なぜなら,スポーツにおける「理性」の「狂気」化現象と,こんにちの世界を支配している「理性」の「狂気」化現象とは,もののみごとにリンクしているからだ。

今福龍太氏が,「サッカーを批評することは,世界を批評することだ」という名言を吐いた(『ブラジルのホモ・ルーデンス』)のも,同じ「感性」からのものだ,とわたしは受け止めている。

とりあえず,今日はここまで。

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2010-04-23 『三四郎』について,追加の話。

_ 1902年に100mで10秒24という当時にあっては驚異的な世界新記録を出した日本人がいた。しかも,帝国大学(現・東大)の学生で。

夏目漱石の『三四郎』という小説のなかに,帝大運動会の様子が描かれている。かなり詳細に描かれていて,われわれスポーツ史に関心をもつ者にとっては必須の資料的価値をもつ。「紫の猿股をはいた背の高い大学生」が帝大の運動会で大活躍する姿が描かれている。

なかでも,とびきり面白い事実は,200m競走で25秒74という記録を出した,という記述がでてくることだ。なんと100分の1秒まで計測しているのだ。小説のなかでは,帝大の物理学の野々宮先生が器械を新しく開発して,それによって計測した,となっている。場所は現在の本郷のキャンパスのなかで,見物に飽きた三四郎が「池のほとりを散策した」ことが描かれているので,あの辺りにグラウンドがあったのかな,と想像することはできる。しかし,いまではその場所を精確に特定するには,古い図面でも探してきて確認するしかない。それにしても,むかしの「クレイ」のランニング・バーンを,どれほど整備されていたとしても,公認の陸上競技場ではない。そんなところで,200m競走で25秒74というとてつもない記録を出した,とはとても信じられない話である。それより,もっと驚くべきことは,最初に書いたように100分の1を計測することのできる時計を開発して,それを実際に「実験」していたという事実である。

これを史実に照らし合わせみると,以下のようである。

「紫の猿股をはいた背の高い大学生」とは藤井実選手。のちに,日本の陸上競技の短距離界で大活躍する選手である。で,ここでは,この100分の1秒を計測する話に限定して,事実関係を調べてみると,こんな面白いことがわかってきた。

1902年,大学の運動会の100m競走で,藤井実選手が10秒24で走った。この記録は,帝大理科の田中館教授と寺田助手が考案した電気時計を用いて,この二人によって計測された。のちに,帝大総長の証明書つきの書類をアメリカの陸上競技連盟に送り,1907年版の年鑑に写真入りで紹介された,という。この年鑑をとおして,藤井実選手の存在は世界中に知れ渡ることになり,とんでもない選手が日本に現れたと大きな話題となった。ちなみに,1902年当時のオリンピック優勝記録と比較してみると,1900年のパリ大会が11秒0,1904年のセントルイス大会が11秒0である。オリンピックで10秒2が記録されるのは1960年のローマ大会で,ドイツのハリー選手を待たねばならなかった。藤井選手の記録がいかに「驚異的」であったかは,これでおわかりのとおりである。

ここで注目したいことは,オリンピックの公認記録は10分の1秒までしか計測していない,という事実。1952年のヘルシンキ大会では第一着から第四着まで10秒4という記録が記されている。それでも「判定」に問題はなかったのである。なぜなら,決勝レースには全員一緒に走るので,ゴールの瞬間の紙一重の「差」でも,ベテランの審判員であれば「判定」できたのである。もちろん,このときには参考として「写真判定」が導入されている。陸上競技の100mを10秒で走るとすれば,1秒で10mを走ることになる。ということは,10分の1秒で約1m強(ゴール前はもっと速く走っているはずだから)になる。かりに1mの「差」のなかに4人がなだれ込んできても,人間の肉眼でそれを「判定」することは可能であろう。だから,1952年当時でも,ほとんどこれで問題はなかったのである。

陸上競技の100m競走が100分の1秒まで計測されるようになるのは,1968年のメキシコ大会からである。そのときの優勝タイムはアメリカのジム・ハインズ選手で9秒95である。以後,こんにちまで100分の1秒まで計測することが陸上競技ではふつうに行われるようになり,公認記録もすべて100分の1秒で表示されている。

このようにみてくると,陸上競技の計測ですら,100分の1秒まで計測するようになるのは1968年以後である。のどかにスポーツを楽しむ雰囲気がたっぷりとあったのだなぁ,としみじみ思う。同時に,100分の1秒の「差」,すなわち約10㎝の「差」を峻別することの意味は,はたしてどういうことなのだろうか,と考えてしまう。いまでは,マラソン競技ですら,100分の1秒まで計測される。42.195キロを走ってきて,ゴール前のデッドヒートを制して,胸一つの「差」で「金」と「銀」を分けることの意味はなんなのだろうと思う。いま,単純計算してみたところ,マラソン競技での100分の1秒の「差」はおよそ5ミリでしかない。この「差」は人間の肉眼では確認不能の領域である。それをしも,ハイテクノロジーに支えられた器械は「精確に」峻別する。その器械の計測に「信」を譲り渡した人間とは,いったい,なんなのか。

「自然」に立脚しない「理性」は「狂気」でしかありえない(西谷修)という指摘の意味するところを,深く潜行して考えることにしよう。わたしたちは,知らずしらずのうちに「狂気」に飼い馴らされているのではないか,と。それを考えると恐ろしくなってくる。

ちなみに,日本が生んだ短距離界の名選手・藤井実さんは,のちに外交官として活躍し,その世界でも名を残した人である。にもかかわらず,「駆けっこの速いミノル(実)」の名前だけが世界中を駆けめぐり,イギリスの競馬馬に「ミノル」という名前をつけたところ,この馬がみごとに走りまくり,巨額の賞金をかせいだという。しかも,この馬は引退後,ロシア皇帝に買い取られ,種馬として余生を暮らしたという話が残っている。

はてさて,わたしたちは,いま,いかなる時代,いかなる世界に向き合って生きているのか,スポーツの世界からも「透けてみえてくる」(今福)ように思う。そして,スポーツを批評することは,世界を批評することだ(「サッカーを批評することは,世界を批評することだ」今福龍太のもじり),としみじみ思う。

_ 『三四郎』について,もう少し書くつもりでいて忘れてしまったことがある。それを追加する。

小説のなかに登場する野々宮先生。物理学の先生で電気時計を開発して,「紫の猿股をはいた背の高い選手」の200mの記録を計測し,黒板に書き込んで公表した先生。黒のフロック・コートを着て,黒の丸い帽子をかぶり,いつもよりもはるかに品格が現れていて,かっこいいと描かれている。当時の帝大の先生は偉かったから,運動会でも,審判員(計測係)を勤めるからにはオフィシャルな正装である。この野々宮先生のこともかなり詳しく登場する。

それもそのはずである。野々宮先生のモデルは寺田寅彦だと言われている。寺田寅彦といえば,物理学者というよりは随筆家として名文を残しているので,そちらのファンが多いと思う。しかも,夏目漱石と寺田寅彦といえば,文学の上での師弟関係があり,寺田寅彦はことあるごとに夏目漱石の家に出入りし,文学の手ほどきを受けていたことはつとに有名な話。

帝大の運動会も,当時はなかなかの評判で,一般の人は近づくことはできなかった。だから,なおさら近隣住民の間では羨望の眼が向けられていたという。事実,『三四郎』のなかでも超満員で,知り合いを見つけるのに一苦労している。主人公の三四郎のいうには(一部,漱石の眼),運動会なんてつまらない,第一,ご婦人席と男性席とが区別されていて,きれいな女性たちの傍に近づくこともできない,もちろん,話をすることもできない,と。若き三四郎の眼は動物そのもので,それをあえて隠そうともしない。運動会はときおり歓声があがるので,そのときだけ注目するが,あとはもっぱら美しい女性の姿を遠くから眺めることに専念している。しかし,それにもあきて,運動会の会場から離れて,池のほとりを散策する。これが,いわゆる「三四郎池」。

とまあ,『三四郎』をスポーツ史的に読解していくと,これはこれでまた面白いことかたくさん見つかる。夏目漱石には『自転車』という短編があって,ロンドン留学中に,当時,流行の最先端だった自転車を乗りこなすために必死に練習する姿が面白おかしく描かれている。そして,これに乗って「遠乗り」にでかける話(もちろん,意中の女性に近づくために)がでてくる。一説によれば,ロンドン留学中にノイローゼ気味になっていた漱石をみるにみかねた下宿屋のおばさんに薦められて,気分転換の一つとして自転車乗りに取り組んだ,と言われている。だからだろうか,いやいや自転車の稽古をしたような書きぶりだが,それでいて結構楽しんでいるようにも見受けられる。でも,積極的にスポーツを楽しんだ様子はないので,あまりスポーツそのものは好きではなかったようだ。そんな雰囲気も『三四郎』をとおしてうかがい知ることができる。

それでもなお,門下生の寺田寅彦が,たぶん,藤井実のランニング記録を正式に計測して,世界に認めさせよう,そのための電気時計を開発した裏話などを直接,漱石に話したので,興味を示し,早速,小説の題材に折り込んだということなのだろう。寺田寅彦としては,100分の1秒を計測する電気時計を開発したことが,よほど嬉しかったに違いない。それを藤井実の記録とセットにして世界に知らしめようという意図もあったのではないか,とこれはわたしの推測。でなければ,帝大総長の証明書つきの書類にしたためて,アメリカ陸上競技連盟に送りつけるなどということは,ふつうでは考えられない。

いずれにしても,1902年には,日本で,しかも寺田寅彦の手によって100分の1秒を計測する電気時計が開発されていた,という事実についてはもう少し注目されてもいいのではないか,と思う。それは,物理学プロパーな世界での必要な実験器具として開発されたというのであれば,いかにもありうる話であって,物理学の研究に大きな貢献をしたという話であれば,なんの違和感もない。しかし,藤井実という偉大なランナーが現れたので,その記録を計測するために,そして,その計測結果を権威づけるために,世界のどこにも存在しなかった100分の1秒を計測する電気時計を寺田寅彦が考案したのだとしたら・・・。これはこれで,本末転倒という意味も含めて面白い。スポーツが物理学の研究を促進させた,という点でも。

しかし,これが魁となって,100年後には,スピード・スケートの世界に1000分の1秒まで計測するハイテクが導入されることになる。当初は,人間の可能性を計測する器械であったものが,やがて,人間を機械として計測する道具に変じていく。このさきに待ち受けるものはなにか。すでに,新人間機械論が,ある特定の人びとの大きな関心事となっていることも,最近になって眼につくようになってきた。この人たちは本気で人間を機械論で説明できると信じている。なにやら,空恐ろしい気もするのだが・・・。

「自然」に立脚しない「理性」は・・・・,という次第である。

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2010-04-24 朝青龍の暴力事件は「藪の中」。

_ 今日の朝日の朝刊に,わずか11行の記事「朝青龍暴行疑惑『確認できない』相撲協会が報告書」が掲載されていた。なんだって?

小さな,小さな記事だった。うっかりすれば見落としてしまいそうなほどの小さな記事だった。そして,内容を読んであきれ返ってしまった。短い記事なので全文を引用したい。

日本相撲協会は23日,元横綱朝青龍が泥酔暴行疑惑で2月に引退した問題で,監督官庁の文部科学省に報告書を提出した。1月に都内で起きたトラブルを時系列で記しているが,実際に暴行があったかについては,「被害者から事情聴取が出来なかったため,事実として確認できなかった」とした。

たった,これだけの記事である。わたしはこれを読んで茫然自失してしまった。なんなんだ,これは,と。ひとりの大横綱が,一世を風靡した大横綱が,ことの真実も明らかにならないうちに引退させられた,というのに。この無責任さ。日本相撲協会とはいったいなんなのか。もともと,力士の身分を守るためにつくった組織ではなかったのか。もし,力士に不利な事件が起きれば,率先して守るのが日本相撲協会ではなかったのか。その日本相撲協会が,朝青龍に対しては,まったく援助の手もさしのべないまま,むしろ,バッシングの方に肩入れまでして・・・。だから,マスコミは「朝青龍は引退しろ」の大合唱まではじめてしまったではないか。本来なら,日本相撲協会が「事実が明らかになるまでは・・・」といってマスコミ対策に打ってでるべきはずの日本相撲協会が,この体たらくである。

かつて柏戸,大鵬,北の富士らが,アメリカ巡業からの帰りに拳銃を持ち帰って(密輸入),大問題になったことがある。しかし,日本相撲協会は必死になってマスコミ対策を講じて,騒ぎを鎮めることに全力を傾け,しかも,検察当局にも必死の懇願をし,政界・財界まで総動員をかけて,無罪釈放を勝ち取ったことがある。

この事件にくらべたら,朝青龍の暴力事件疑惑(真実は「藪の中」)なんて屁のようなものだ。しかも,被害者は訴えを取り消してしまっている。その上,日本相撲協会の事情聴取にも応じていない。朝青龍と被害者の間には,もはや,なんの嫌疑もないのである。メディアはしきりに「被害者」と報じたけれども,実際には知己の関係で,それまでにも一緒に酒を飲みかわす友人だったという。これは単なる一般の社会人ではない。見も知らぬ一般人に手を出したわけではない。だから,一部で報じられたことが事実だとすれば,「だれにものを言ってるのだ」と言って,ちょっと手を出しただけの話だ。本気で怒って暴力を振るったとしたら,とんでもない事件になっていただろう。このことは,最近のテレビ・インタビューでも,朝青龍みずから語っている。あれは暴力事件でもなんでもない。単なるじゃれ合いだ,と。だから,かれもなにも言わなくなったではないか,と。もし,ほんとうに暴力だったのなら,訴えればいい,と。しかし,まあ,これもまた朝青龍の一方的な主張ではある。だから,ほんとうは双方の主張を法廷で展開してもらうしかないのだ。それも叶わないというのであれば,あれは,もう事件でもなんでもなかった,ということになる。

だとしたら,朝青龍を引退に追い込んだ日本相撲協会とマス・メディアはいったいなんだったのか。ひとりの将来ある若者の生涯に取り返しのつかない大きな禍根を残すことになったのだ。もし,ほんとうに,暴力などなかったとしたら,朝青龍の心中はいかばかりか。引退会見の折にも,いまは,なにも言いたくない,と言って暴力に関しては口を閉ざした。そして,モンゴルで朝青龍が語ったとされる「日本相撲協会批判」も誤報であったことが証明されている。かれはなにも批判めいたことは語ってはいないのである。最近,来日してからのインターネットを流れている情報によれば,「暴力はふるってはいない」と一貫して主張している。これを覆す証拠もでてこない。いったい真相はどうなのか。

もし,ほんとうに「暴力」などなかったとしたら,あれはなんだったのか。冤罪そのものではないか。そして,犯人は日本相撲協会であり,マス・メディアだ。それでも朝青龍は,余分なことは一切語ることなく,じっと我慢をしている。少なくとも,引退相撲が終わるまでは。晴れて,日本の相撲界から正式に引退して,身もこころも自由になった暁には,かれはなにを言いはじめるか,わたしは身を固くして見守りたい。

もし,疑惑だけで引退に追い込まれ,なにがなんだかわけがわからない状態のまま(モンゴルでのサッカー事件のときと同じ),開いた口もふさがらない,もういい,相撲なんかいい,しかし,必ずいつかは真相を暴露してやる,くらいの気持ちで「引退表明」をしたとしたら,これは朝青龍の方が一枚,上手ではないか,と思う。朝青龍はマスコミが報じているほど甘い人間ではない,とわたしは感じている。でなければ,あれだけの相撲はとれない。こころを鬼にして形相まで変わってしまう最後の塩を取りにいく姿,あの所作,あの気迫は,この世のものではない,とわたしは感じていた。だから,朝青龍の相撲に魅了されていたのだ。そういう人間をふつうのものさしで測るのは間違いのもと。

それにしても,今日の新聞記事のようなことがまかり通っていいのだろうか。これは,なにも,朝青龍の問題だけではない。ほかにも類似のことがいっぱい起きている。そういう,なにかが一つ狂ってしまったのではないか,と思われることが最近は多すぎる。朝青龍の問題も同じだ。狂っているのは,一般の良識派と呼ばれる「思考停止」をしてしまった,「自発的従順」に徹している人びとの方ではないか。

いつになく激してしまった。反省。

でも,朝青龍が好きだから。いまどき,こんな生き方を貫くことができる人も珍しい。希有なる人なのだ。

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2010-04-25 「判定」の記号論,について。

_ 5月8,9日の両日にわたって,「判定」の記号論と題した日本記号学会第30回大会が神戸大学で開催される。

すでに,HPの掲示板でもお知らせしたように,なぜか,わたしがこの学会に呼ばれて話をすることになっている。〔セッション3〕という部門が設定されて,近代スポーツの終焉?─判定の変容,裁かれる身体の現在─というタイトルが付せられている。そこでは,わたしが30分ほど話題を提供し,そのあと吉岡洋さん(京都大学・美学)とトークをすることになっている。そのためのウォーミング・アップも兼ねて(直接的には,学会が用意する要旨集作成のための原稿を書かねばならない,という理由があった),このところスポーツ現場での「判定」の問題をあれこれとりあげて考えている。じつは,「判定」の問題系はふところが深く,複雑怪奇なのだ。

たとえば,昨日のブログで書いた朝青龍の「引退」問題も,一つの「判定」であったのだ。このことは昨日のブログでは書かなかったけれども,だれが,どのように「判定」をくだして,朝青龍を「引退」にまで追い込んでしまったのか。今福龍太さんのことばを借りれば,「スポーツ・メディア複合体」がその主犯だ,ということになろうか。今福さんも,ほかに表現の仕方がないので,あえて「スポーツ・メディア複合体」と名づけているけれども,じつは,この実態はなかなか複雑なのだ,とおっしゃる。つまり,わけのわからない,捉えどころのない,お化けのような「スポーツ・メディア複合体」が闊歩していて,ここから発せられる不思議な「情報」(これが,あたかも事実であるかのように仕立てあげられた捏造であることが多い)に,一般国民はなすすべもなく「さもありなん」と納得してしまう。メディアが「思考停止」状態になると,受け手の方も同じように「思考停止」して,ひたすら「自発的隷従」(西谷修)の姿勢をとる。それが,さも,ヒューマニズムの実践であるかのようにして。このヒューマニズムが恐ろしい。思考停止したヒューマニズムは,単なる機械的な反応でしかないからだ。つまりは,ロボットと同じだ。一定のプログラムを刷り込んでおけば,間違いなくそのとおりに動く。わたしたち人間の多くは,いま,まさに,こういう状態に投げだされていることに気づいていない。あの「朝青龍,ヤメロ」の大合唱はこういう人たちによって増幅していった。

「科学」の名のもとに,精確で,客観的な「判定」が,スポーツ(相撲)のなんたるかという本質的な議論を抜きにして,一人歩きをはじめている。そのむかし,パッペンハイムが『近代人の疎外』(岩波新書)のなかで,「われわれは技術が勝ち人間が負けるようになった事態の犠牲者」だ,と指摘したのは1959年のことである。いまや,犠牲者どころか,ひたすら技術に縋りつき寄り掛かっていて,良識も「理性」(ルジャンドル)も投げ出して,一直線に「狂気」の道を突進している。しかも,それが「狂気」であるということすら気づかずに。

こういう問題意識に強く突き動かされるようにして,わたしは,ついに,「スポーツ」とはなにか──スポーツ史研究のための新たな理論仮説の提示,と題する総説論文を『スポーツ史研究』(スポーツ史学会学会誌)に投じたばかりである。その理論的背景にあるものは,このブログでも何回も取り上げて私的読解を試みたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』であり,『呪われた部分 有用性の限界』であり,さらには,マルセル・モースの『贈与論』である。もちろん,ピエール・ルジャンドルの『ドグマ人類学総説』西洋のドグマ的諸問題を筆頭とする何冊もの本もそこに加わる。といいつつ,書き出すとまた止まらなくなってしまう。詳しくは,学会誌でご確認ください。最新の『スポーツ史研究』(第23号)(2010年3月31日発行)のP.1〜12.

もちろん,ここに書いたことも舌足らずで,わたしとしては不満である。これは単行本にして,徹底的に論じておく必要がある,といまは考えている。そこに到達するための一つの大きなハードルが,こんどの日本記号学会での〔セッション3〕である,と自分なりに位置づけている。だから,気合が入らざるをえない。記号論学会という学会は「判定」をめぐって,いかなる議論をする場なのか,初日から参加して,しっかりと勉強してみたいと思っている。恐さ半分,楽しみ半分,これがいまの正直な気持ち。

よろしかったら,みなさんも参加してみてください。

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2010-04-26 沖縄県民大会に9万人。

_ 25日の日曜日,沖縄では読谷村運動広場に県民9万人が集まり,「米軍普天間飛行場の県内移設を断念し,国外・県外へ移設するよう強く求める」という決議を採択。

この新聞記事を読んで,思わず背筋が寒くなった。昨日の日曜日,わたしはなにをしていたのか,と。のほほんと事務所の机に向かって居眠りをしながら,原稿を書いていたのである。それも,沖縄県民のこの熱い思いにくらべれば,まことにもってどうでもいいような原稿である。書かないよりは書いた方がいい,という程度の問題意識で,まさに自己満足程度の内容でしかない原稿を。ことほど左様に,ふだん,沖縄の基地問題などこれっぽちも考えることなく,ノーテンキに暮らしている。いやなことは全部,だれかに押しつけておいて,自分だけの平和と幸せを求めて平然としていて平気である。そして,時折,これでは沖縄県民に対して申し訳ないなぁ,と思う程度でお茶をにごしている。

だから,今日の新聞のように,珍しく一面トップに大きく報じられると,思わずギョッとしてしまう。ふだんの体たらくを恥じて。

沖縄県民が9万人集まったという。この事実を少し慎重に考えてみよう。沖縄県民は約110万人といわれる。そのうちの9万人である。1割には満たないまでもそれに近い。沖縄には本土のような鉄道はない。読谷村に集まるにはパスか自家用車しかない。自家用車でくるにしても駐車場もままならない。みんなで乗り合わせてくるとしても大変なことだ。たぶん,別のところに大きな駐車場を用意して,そこから会場へはシャトル・バスを走らせているのだろう。それにしても大変なことである。

東京都のことしの3月1日現在の人口が12,984,660人だという(インターネット調べ)。その1割弱としても,100万人である。東京都民が100万人集会を開いたと想像してみよう。1万人ずつ100箇所,あるいは,2万人ずつ50箇所,いや,そんなことはどうでもいい。とにかく,100万人の人が意志統一して「決議」するということがどういうことか想像してみただけで気が遠くなる。

それと同じことを沖縄県民はやったのである。しかも,交通の不便なところで。

同じ今日の朝刊の三面記事の片隅に,小さく,明治公園で1,200人の集会のことが書いてあった。これをみてふたたび鳥肌が立った。たったこれだけなのか,と。1,200万人のうちの1,200人。1万分の1だ。沖縄では10人に1人は参加しているというのに,東京では1万人に1人だ。これが「現実」なのだ。それほどに,ほとんどの人は沖縄の基地問題に無関心を決め込んでいる。自分とは関係ない,と思っているのだろうか。

こうなったら,ハトヤマ君よ,徳之島などというケチなことを言わないで,いっそのこと東京都に基地移転という提案をしてはどうだ。東京都には立派な空き地がある。そう,かつての立川基地が,広大な公園となってポッカリと空いている。基地にもどすのに金もかからない。過去の実績があるから要領もわかっている。さて,イシハラ君,どうする?

いやいや,こんな個人間の問題ではなく,こういう提案があったとき,はじめて東京都民の眼が覚めるはずだ。そうして,沖縄の基地問題が日本人全員で考えなくてはならない問題なのだ,ということを現実の問題にするにはこの位のことでもしないかぎり,知らぬ勘兵衛を決めこんでおしまいになってしまう。いまは,そういう状態だ。

富士山の麓にも広大な土地がある。あちこち探せば,場所はいくらでもある。しかし,どこに持っていっても反対運動でつぶれていくだろう。だれも,みずから泥をかぶろうという奇特な人はいない。隣に小学校があるのを承知で引っ越してきて,住んでみたら,砂ぼこりが舞い上がって困る,と平気で学校に文句を言っていくのが当たり前の世の中だ。とにかく,自分だけは安全と平和と幸せを確保する。他人のことは知らない,と。こういう人が圧倒的多数を占める国,それが日本になってしまったのだ。

ならば,国外にもっていくしかないだろう。その代わり,日米安全保障条約も破棄することを覚悟で。ならば,話は簡単だ。さっさと米軍基地を追い出せばいい。日本国中のすべての米軍基地がなくなって,せいせいすることだろう。そして,敵が攻めてきたら,さっさと白旗をあげて「隷従」する覚悟さえあれば,なんでもできる。コワイものはない。

おそらく,それもイヤだと言うのだろう。自己中心主義者たちは。じゃあ,どうすればいいのか。代案を出してもらおうか。やはり,最後はまたまた沖縄に押しつけて,知らぬ勘兵衛を決め込むのだろう。この根性がいやらしい。しかし,これが,これまでの本土の人間の根性だし,これからも変わることはないのだろう。だとしたら,沖縄の人たちはいつになったら救われるというのか。

民主主義という数の論理の矛盾を,いつまで沖縄の人たちは被っていかなくてはいけないのか。今日は神妙に25日の自分を反省している。

冷戦構造時代の遺物をいつまで温存しなければならないのか,もう,時代ははるか先の方まで急転回しているというのに。

人間の愚かさというべきか,あるいは,狂ってしまった「理性」というべきか。どこからでもいい,できるところから「歯止め」をかける努力をしていかなくてはいけない。

「自然」に立脚しない「理性」は「狂気」でしかありえない,ということに気づいた人間のひとりとして,いま,なにをなすべきか。胸に手を当てて,しっかりと考えてみたい。

ISC21・5月犬山例会では,このつづきの議論をしたいと,こころから願っている。

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2010-04-27 死んだ子背負うチンパンジー。

_ 今日の夕刊に,こんな見出しの記事が写真つきで掲載されている。ミイラ化した子どもを背負って歩いている写真である。

一般に動物は,死んだ子どもや仲間については関心をもたない,と言われている。しかし,チンパンジーの母親は,自分の死んだ子どもをミイラ化しても抱きつづける,という事例を以前にもなにかの本で読んだ記憶がある。テレビでも放映されたことがある。でも,それは母親と子どもの関係にだけみられる現象らしい。今回の記事はつぎのように報じている。

「京都大学霊長類研究所の林美里助教,松沢哲郎教授らが同じ群れで複数観察した。ヒトが死者をとむらう行動の起源ではないかとみている。27日付米生物学誌に発表する。」

「ヒトが死者をとむらう起源ではないか」という。つまり,死者を「他者」として意識しはじめた起源ではないか,と。ということは,チンパンジーの母親のすべてではないにしても,その一部は,間違いなく「動物の世界」から一歩<外>に踏み出している,ということになろう。自分の子どもが死んだとき,大半はその瞬間からなんの関心も示さなくなるのが動物の本能のレベルでの生き方だとすれば,この記事に紹介されているチンパンジーの母親は,明らかに動物の本能レベルから一歩<外>にでて生きていることを意味する。

このときのことをチンパンジーの母親がどのように意識しているかは不明だが,いずれにしてもミイラ化した子どもを見捨てることができない状態にあることは間違いない。ということは,明らかに「他者」としての存在を意識しており,他の環境を形成している動物世界の存在とは切り離された,一つの「事物」(ショーズ)として,自分のコントロールのもとに置いている,と理解してよいのだろう。だとすれば,これもまたヒトから人間に移行するときに立ち現れた「理性」のはたらきの一種だということになろう。「死」というものをとおして,自分と子どもとの関係が,内在性の関係から「事物」との関係へと変化した,とも解釈することが可能となる。

記事を引用しよう。

「チームは,西アフリカ・ギニアで野生のチンパンジーの群れの調査を30年以上続けてきた。ジレという名前のチンパンジーが1992年に病死した2歳半の子どもを27日間以上,2003年にも病死した1歳の子どもを68日間背負い続けた。ジレだけではなく,同じ群れの別の母親も死んだ2歳半の子どもを19日間背負った。」

死んだ子どもを背負う期間はケースバイケースのようだが,死んだ子どもとの新たな関係性を保ちながら生きることを「選択」する母親が存在する,という事実が強く印象に残る。

「3例とも死体はミイラ化したが,母親は生きている時と同じように毛繕いをしたり,体にたかるハエを追い払ったりして,子どもに愛情を示しているようだった。生きているときと背負い方が違い,『死んだことは理解している』とチームはみる。」

この記事のなかで「死んだことは理解している」とあるが,これはどういう意味なのだろうか。一般的には動物の世界では「死ぬ」ということは「モノ」になることであり,だから「無関心」になる,という。これが動物にとっての「死」の理解だとすれば,ミイラ化した子ども,つまりは「モノ」を背負い続けるということは,それまでの「死」の理解を「否定」して,新たな「死」のあり方と「向き合う」ことを意味しよう。「文化の否定性」ということが言われるが,これもその一例というべきか。つまり,自然を否定することによって「文化」が成立とすれば,動物という自然の「死」から,「文化」としての「死」への移行,と考えるべきなのだろうか。

このところ,「ヒトが人間になる」ということの意味を考えていたので,この記事はいささか衝撃的であった。もう一歩,踏み込んでおけば,以下のようになろうか。

死ねば「モノ」になる自然界(動物界)の法則から抜け出して,死んでもなお「モノ」ではなく,自分(母親)のコントロール下にある「事物」として,特別の意味をもつ「存在」でありつづける,そういう地平に「人間」は飛び出したということなのだろうか。だとすれば,こんにちの「脳死」をもって「死」と判定する考え方の登場は,逆に,もう一度,動物界にもどって行こうとしているかにみえる考え方である。つまり,ここに見られる考え方は,自然を支配しようとする徹底した科学的合理主義の考え方と自然との折り合いをどこに求めるかという東洋的な自然観との,みごとな対比とみてとることができる。

「『ヒトが死者をとむらう気持ちも進化の過程で生まれた。死んだ子供によりそうチンパンジーの行動に,その起源があるのではないか』と松沢教授は話している。」

「死者をとむらう気持ち」となると,また,別の議論が必要になってくるので,今日のところはこの辺で。この記事はわたしにとっては,いささか衝撃的な内容でした。お蔭で,もう一歩,思考を深めることができた。ありがたいことである。

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2010-04-29 政権交代と普天間問題。

_ 普天間問題声明についての情報が西谷さんからとどいて,その記者会見の映像をみながら,いろいろと考えることが多かった。

結論から言ってしまえば,視野が狭かった,ということ。わたしもまたマス・メディアの流す情報に揺さぶられていた,ということ。情けないがほんとうのことだ。つまり,アメリカが「ノー」と言っているような案を提案してもなんの意味もない,場合によっては安保体制はもとより,日米の信頼関係にヒビが入る,といった報道の枠のなか側に閉じ込められていたということ。しかし,この記者会見(YOU TUBEに流れている)の識者たちの発言を聞いていて,眼からウロコが落ちた。

たとえば,西谷修さんの発言。政権交代はなにを意味しているのか。長い間,自民党政権がつづいてアメリカとの信頼関係をきづくことに全力をあげてきたために,アメリカに対して日本の本音を語ることができないままできた。しかし,政権交代をしたということは,ようやく自民党という枠組みの外にでて,日本という国の独自の主張をすることが可能となったのだ,ということに多くの選挙民が気づいていない。もっとも気づいていないのがメディアであり,このことを取り上げるジャーナリストがいない。もっと,メディアが眼を覚まして,これからの日米関係をどうしていくべきか,という根源的な議論を展開すべきときだ,という。そして,もっと残念なことに,やっと政権交代を果たした民主党の政治家自身がこのことを忘れてしまっている,と。そうではなくて,いまこそ,日本国民の声を精確に把握して,議論を積み重ねて,日本の意志をアメリカに伝える絶好のチャンスなのに,そのような動きがみられないのは情けない,と。

その他の人たちの意見も聞きながら,なるほどと思ったことは以下のとおり。

5月末決着などという政局にしないで,日本国民の総意をとりまとめるための議論を立ち上げるべきだ,と。そのためには時間がかかってもいいではないか。そうして,みんなが納得のいく日本国民の総意というものを,ありのままアメリカに提示することが先決だ,と。それを受けて,どうするかは,アメリカ自身の問題である。それを先取りしてしまって,そんな案ではアメリカが「イエス」というわけがない,とメディアが叩きつぶしている現状はいったいなんなのか。それは,もはや「思考停止」のままの「自発的隷従」そのものではないか,と。

県外移設とハトヤマ君は言う。しかし,沖縄県外のどこの県が引き受けてくれるというのか。徳之島にみたように,候補をあげればどこの地域や県だって住民は反対して立ち上がるだろう。要するに,日本国民のだれも基地を引き受けるという意志などないのだ。そうして,なおかつ,だれかが引き受けるしかない,と考えている。そこで妙な民主主義が登場する。つまり,議会制民主主義という多数決原理の押しつけだ。一見,民意を反映した正当な方法のようにみえる。しかし,これまでの基地問題をめぐる政治解決の方法をみてみれば明らかなように,沖縄という少数派がいつも犠牲にされてしまう。こんども,どうやらその方向で決着をつけようとしているかにみえる。徐々にその魂胆が露呈してきている。

だから,先日のこのブログでわたしは,いっそのこと東京都にもってきてはどうか。そういう提案をしてはどうか。そうすれば,蜂の巣をつついたような議論が沸き起こるだろう。それが駄目なら富士山の山麓はどうだ,と。これもまた同じことの繰り返しになるだろう。じゃあ,どうすればいいのか,というところまでわれわれ一人ひとりが追い込まれないかぎり,結論はでてこないだろう。

そこで,わたしは,最後は覚悟が必要だ,と書いた。そんなに基地を受け入れたくないのであれば,お断りするしかないではないか。現代の日本にアメリカの基地を置くことの必要性や意味が見いだせない(ここまで,たどりつくには相当の議論が必要なのは明白)と。だから,日本国としては,一旦,アメリカ軍の基地を全廃したい,と。

そこから,もう一度,仕切り直しをして,アメリカにも徹底して考えてもらうこと。そして,アメリカはアメリカなりの議論をふまえて結論を日本に提示すること。その上で,では,どうすればいいのか,という協議に入るべきではないのか。

このくらいのことを,もう,言ってもいいのではないか。それが言えるようになるための条件の一つが,政権交代ではなかったのか。前政権の約束ごとを,もう一度,見なおすこと,これが政権交代後の政権のやるべき最大の仕事ではないのか。そのための絶好のチャンスが「いま」なのだ,と西谷さんが記者会見で強調していたのが,とても印象的だった。

県外などという段階はとおりすぎた。もう,国外しかないのだとすれば,どうすればいいのか,こんなことはだれにもわかる。沖縄という弱者を,もう,これ以上,苦しめてはいけない。それくらいの感性は,まだ,みんな持ち合わせているだろう。その感性に「信」を置きたい,とわたしは思う。それすらも不可能だというのであれば,いったい,われわれはなにに「信」を置けばいいのか。

人として,人間として,みんなで分かち合うべきことはなにか。「理性」はこのためにこそ働かせるべきではないのか。人間という「自然」に立脚しない「理性」は「狂気」でしかありえない・・・・とこのところお題目のように言い続けている。スポーツ文化の問題も,普天間問題も,みんな根っこは同じだ。だれかが得をして,だれかが損をする。つまり,力の強い者が得をして,力の弱い者が損をする。勝ち組,負け組の構造も基本的には同じだ。それらを超克する「理性」こそがいま求められている,とこれまた西谷さんは強調される(『理性の探求』)。

みなさんも,ぜひ,普天間問題の記者会見をみながら,それぞれの立場で考えてみていただきたい。そのように,こころから切望する。

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2010-04-30 触れてわかる「メディア」の実体。

_ 4月29日の朝日・朝刊の「論壇時評」に,福岡伸一さんの「触れてわかる『媒体』の実体」というエッセイが掲載された。

この短い文章のなかに,よくぞ,これだけの情報を盛り込み,しかも,すんなりとわからせてしまう福岡さんの筆力にまずは脱帽である。いつも感ずることだが,福岡さんの文章はするするとからだのなかに染み込んでくる。それでいて,生物学の最先端の研究成果が盛り込まれている。代表作ともいうべき『動的平衡』などはその典型だ。その他の作品も,読み終わってからいつも驚いてしまう。今回のこのエッセイも同じだ。

いま,話題の「iPAD」をわざわざアメリカから取り寄せて,使ってみた感想から書きはじめる。そのなかの電子書籍iBOOKSを「さわってみて驚いた」という。まるでほんとうの紙のページをめくるような感覚で自由自在に操れるのだそうだ。しかも,無線でネットとつながっているので,いつでも好きな本を購入することができる。おまけに,それらの本はこのiPADのなかの自分の本棚に整理しておけばいいし,いつでも検索することができるという。そして,これからのメディアというものがどういう方向に道を開いていくのか,しばし考えた,というのである。

これが枕で,話の本題はこれからである。福岡さんはつぎのように書いている。

「ところで生物学の世界では,メディア(単数形はメディウム)といえば,それはシャーレの中で培養細胞を浸す栄養液のことを指す。細胞は,37度に保温されたあたたかいメディウムの中で育つ。細胞たちはおそらく自分たちを取り囲む,この媒体(メディア)の存在を,ちょうど水の中に棲む魚が水という媒体の存在を知らないように,あるいは,私たちが空気や重力や温度といった媒体の存在を気にしないように,自覚してはいない。しかし,彼らはその媒体と確実に接している。その接点で媒体に支えられている。」

このように述べた上で,細胞を浸すメディアと,一般的にメディアと呼ばれているものがまったく同一のものだ,と強調する。細部の説明は割愛して,きわめて重要と思われる部分を抜き出しておくと,以下のようである。

「細胞にとってメディアとは,単に栄養素や酸素や成長因子を溶かしこんだ溶液(ストック)ではない。接する時,接した点で物質とエネルギーと情報の交換が行われる。それが生化学反応を引き起し,生命という動的な平衡を支える。そのとき初めて細胞にとってメディアはメディアとしての意味をもつ。」

わたしは長い間,新聞,雑誌,ラジオ,テレビといった情報を取り扱っているものすべてが「メディア」である,と漠然と受けとめていた。しかし,それは大きな間違いだった。それらは単なる道具であって,それ自体はメディアでもなんでもない,ということ。つまり,それらと「接する時,接した点」で初めてメディアとしての意味をもつ,というのだ。考えてみれば,そのとおりで,ただわけもなくわたしたちの周囲に存在しているだけならば,単なる「モノ」と変わりはない。その単なる「モノ」に対して,「おやっ?」となにかを感じたとき,それはわたしにとって「オブジェ」となる。そして,その「オブジェ」をさらに自分の方に引きつけて,自分のコントロールのもとに置いたとき,それは「事物」(ショーズ)となる。この「事物」となったとき,初めて「接する時,接した点」が成立する。これが「メディア」だというわけだ。納得である。

この話はまだまだつづくのだが,わたしがこの納得の仕方をしたときに脳裏をかすめたのは,ジャン=リュック・ナンシーの「接触」によって生起する「分割/分有」(パルタージュ)という哲学の概念のことだった。ナンシーは,「接触」こそが「存在」を「存在者」たらしめる最初のきっかけであり,それはつねにインターアクションをもたらし「分割/分有」という事態が生ずる,と考えた。この話も,わたしが存在論なるものにのめり込んでいく,強烈なインパクトをもたらしたものである。

メディアもまた「接触」しなければ,メディアとしての意味をなさない,ただ,そこらへんに転がっている石となんの変わりもないものとなってしまう。その石も,わたしが「おやっ」となにか閃いたとき,それはオブジェとなり,それを道具として用いて「役に立った」とき(「有用性」が立証されたとき),それはわたしの「事物」(ショーズ)となる。

この福岡さんのエッセイの3倍ものスペースをつかって,東浩紀さんの「ネットが開く新しい空間」という評論が載っている。福岡さんのエッセイとどこかで共振するものがあるのだろうと感じたので,読んでみた。しかし,ほとんどなんの感興もわかないまま,いや,厳密にいえば,部分的には拒絶反応すら起こしながら(たまたま,わたしも読んでつまらない評論だと思った高名な国際政治学者のF氏の文章をとりあげ「好論文だ」と褒めあげていたので),読み終えた。そのせいもあってか,ほとんどなんの印象も残ってはいない。もう一度,読もうという気にはさらさらならない。これは,読んだことにはならない。わたしという個人と「接した時」も「接した点」もなかったに等しい。ただ,通過しただけの話。景色もなにも記憶がない。ということは,読んではみたものの,この評論は,わたしにとっては「メディア」としての意味をなさなかった,ということになろう。

福岡さんのエッセイは切り抜いて,大切にしまっておこう。そして,これから何回も読み返しながら,「メディア」とはなにか,と考えてみたいと思う。福岡さんには感謝あるのみ。これから書かれるものにもアンテナを高く張っておきたいと思う。

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