2009-06-01 五代目尾上菊五郎の話。
_ 日曜日の新聞は,いつも,図書情報から読む。週に一回だけ新聞が本好きを楽しませてくれる。それが楽しみでもある。
昨日(5月31日)の朝日の「著者に会いたい」というコラムに面白い記事があったので紹介してみよう。
『空飛ぶ五代目菊五郎−−明治キワモノ歌舞伎』(白水社,2625円)を書いた矢内賢二さん(39)が写真入りで大きく扱われている。明治の歌舞伎は写真に残っているので,それらを眺めていたら,びっくりするような事実に気がついて,それを本にしたのがこの本だ,と著者の矢内さんはいう。では,一体,びっくりするような事実とはなにか。
明治の歌舞伎の写真を眺めていたら,面白い写真がいっぱいでてくる。当時の「現代風俗」を映した散切り頭を筆頭に,西洋わたりのサーカス団団長のイタリア人,像使いのフランス人,あるいは風船乗り見せ物のアメリカ人・・・といったような流行の最先端をいく事象をいちはやく舞台化し,観客を驚かせ,喜ばせる「キワモノ」がつぎつぎにでてくる。しかも驚いたことに,その主演は全部,五代目菊五郎だった,というのである。当時の五代目菊五郎といえば,歌舞伎界の大御所である。人気も実力もナンバー・ワンだった人だ。その大御所が率先して「キワモノ」に取り組んでいたというのである。
写真には,お馬鹿な「ゴスプレ」も,西洋人の客も感心するほど「西洋人そっくり」の物まね芸が写し出されている。著者は「近代的なからだの動かし方など知らない歌舞伎役者なのに」と言っている。しかも,「飛び抜けた身体能力と身体技術ゆえに芝居として成立したんでしょう」と。この指摘は大正解である。
わたしは学生時代に歌舞伎役者の卵といわれる若い人たちを相手に「マット運動」の指導(アルバイト)をしたことがある。かれらはみんな必死で「マット運動」に取り組む。なぜかと思って,名のある役者さんに聞いてみた。そうしたら,稽古場をみせてあげる,というので指定された日時にでかけてみた。そこで,わたしはびっくり仰天してしまった。なんと,歌舞伎役者は運動神経抜群でなければとても勤まらないということを知ったからである。たとえば,たった一歩で前方宙返りをしてしかも片足で立つ,という稽古を舞台の板の間でやっているのである。夏の暑いときだったので,稽古は薄い着物一枚でやっていたが,本番の舞台では5〜6キロもある舞台衣裳を着て,前方宙返りをやって立つのだ,という。一事が万事で,このような難度の高い身のこなし方が随所にでてくる。これはえらいこっちゃ,とこちらも覚悟を決めた。
その覚悟で役者の卵君たちにその話をした。みんなよく承知していて,だから,必死なんだと異口同音に応える。さあ,こうなれば教える方にも力が入ってくる。前方宙返りについては,まずは,高さよりも回転の速さが大事だということがわかったので,それを教える。卵君たちも納得。あとは放っておいても,何回も繰り返して練習をしている。
こんな経験があるので,この著者の矢内さんの言っていることの正当性がストレートに伝わってくる。「飛び抜けた身体能力と身体技術」は必死に稽古をした賜物なのだ。それほどに歌舞伎役者は日頃からからだを鍛練しているのである。名優になるということは,そういうハードルをいくつも超えていったさきに待っていることなのだ。
キワモノの物まね芸は,並の身体能力や身体技術だけでは不可能なのだ。だから,逆にいえば,五代目尾上菊五郎だったからできた芸なのだ。さいきんの歌舞伎役者が,こうしたキワモノの物まね芸をやらないのは,からだの鍛練が足りないことに一因があるのではないか,と思ってしまう。
その最悪の例が,能楽師たちだ。能楽の名人といわれる人たちはともかくとして,わたしがみた能楽師のほとんどはブヨブヨに太っていて,自分のからだを支えることすらままならぬ体にみえた。だから,芸に迫力がない。切れがない。ダレテしまっている。何回もみにいきたいという気にならない。からだがダレテいるということはこころも似たようなものだ。もっともっと鍛え込まなくては舞台に立つ資格はない,とわたしは思う。
その点,狂言の人たちの方がはるかに身のこなしがいいし,セリフまわしもみごとである。やはり,人を笑わせるには相当の役作りと気組みが必要なのだ。そして,磨き上げられた「芸」に仕立て上げてはじめて「笑って」もらえるのだ。
新作の物まね芸を馬鹿にしてはいけない。たぶん,キワモノの創作の方がはるかに難しいし,一分のすきもみせない創意工夫が必要なのだろう。そういう覚悟のできる歌舞伎役者や能楽師が,いまの時代に何人いるのだろう。古典にのみ寄り掛からないで,もっともっと,新しい時代にふさわしい演目をかかげて舞台に臨むべきではないか。そういう姿勢をみせてほしいものだ。それは,どこの世界も同じことだが・・・・。
これ以上書くのはやめておこう。自分で自分の首を締めることになりそうだから。われわれもまた,キワモノに取り組めるだけの「体力」を養わなくてはなるまい。クワバラ,クワバラ。
2009-06-02 岡本太郎と民族学のこと。
_ 岡本太郎が民族学に強い関心をもっていたことは知っていたが,かれがマルセル・モースの教え子であったということは知らなかった。
もうだいぶ前のことになるが,岡本太郎の『沖縄文化論−−忘れられた日本』(中公文庫)を読んで,ちょっと不思議な読後感をもったことがある。その後もときどき引っ張りだして,拾い読みをしたりしているのだが,ところどころにどうしてこんなことを岡本太郎が言うのだろうと,びっくりする。わたしの頭の中では,岡本太郎はどこまでも彫刻家であり画家である。まあ,アーティストの中で完結しているからだ。
今福さんの『ここではない場所』(岩波書店)の終わりの方に,「すべてと無のあいだの深淵−岡本太郎の民族学」という論考が載っている。それを読んでびっくり。岡本太郎はマルセル・モースの教え子である,というのである。しかも,バタイユやカイヨワ,それにミシェル・レリスも一緒に机をならべてマルセル・モースの講義を聴いていた,と。わたしの知識では,バタイユらが主宰していた「社会学研究会」に岡本太郎も参加していた,という程度で,そこでバタイユやカイヨワらと深い親交があったということ。だから,この関係がどのようなものであったのか,ということは以前から知りたかったことではあった。
今福さんの言うには,岡本太郎の『沖縄文化論』は出色の作品であり,マルセル・モースの教えをきちんと理解した上で,さらに岡本流の思考の積み重ねがあり,独自の境地に達している,という。こうなると,もう一度,『沖縄文化論』を読み直す必要がある。当時の最先端の文化人類学の専門的な知識をきちんと身につけた上での「沖縄文化論」なのだ,という条件付きで。これはこれは,また,楽しみが一つ増えた。
しかも,岡本太郎の芸術の根源にあるものはマルセル・モースの教えが色濃く反映している,と今福さんは説く。
さてはて,ますます興味が湧いてくる。わたしの住んでいる近くに,岡本太郎記念美術館もある。母親の岡本かの子の実家もすぐ近くにある。少し,その気になって,あちこち歩いてみようと思う。
今福さんの本からいいきっかけをもらうことができた。
楽しみは多い方がいい。
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2009-06-04 『IPHIGENEIA』最終稿,チェック。
_ やり直しをしていた『IPHIGENEIA』の最終稿のチェックが,今日,ようやく終わり校了となった。
あとは,印刷・製本を待つのみ。思えばいろいろのことがあった。「ISC・21」の研究紀要・創刊号という強い思い入れ。だからこそ思い切って誌名も変更して『暴力とスポーツ』にして・・・と先走った。ここでは手順を間違えた。原稿依頼をするときに,このことを断るべきだった。が,そのときにはまだそこまでは考えが進んではいなかった。が,編集の作業をはじめるにしたがって徐々に,その思いが募ってきた。そして,その決心をしたときに,それを諫めてくれた仲間がいた。いま思えばありがたかった。お蔭で,大火傷をしなくて済んだ。わたしもすぐに気づいて,初心に戻った。もっと慎重に・・・とみずからに言い聞かせた。
そして,「ISC・21」版『IPHIGENEIA』創刊号として刊行をみた。4月20日の日付で。しかし,ふたをあけてみたら,あまりのミスの多さに唖然とした。激しい批判の声があがった。当然のことである。どこに責任があったかは,いまは問うまい。やや,抽象的にだけ触れておけば,以下のとおりである。出版物を刊行するときの「編集」という作業には,投稿原稿を審査するレフェリーとしての業務と,エディターとしての業務の2種類がある。この役割分担について,編集委員会と出版社との間に,十分な意思疎通を欠いたことに,今回の大きな原因があった。当然と思っていたことが当然ではなかった,というのがわたしの認識である。こういうことが世の中にえてして起こるものだ。だから,今回の教訓は,十分な上にも十分な確認をしておかないと,思いもかけないことが起こりうる,ということだ。自分の尺度だけでものごとがすべて動くとしたら,それは間違いだ,ということ。こんな年齢になって,自分自身にこんなことを言い聞かせなくてはならないとは,夢にも思っていなかった。考えてみれば,わたしはいつだって「遅れてやってきた青年」だった。この習性は死ぬまで変わらないのかもしれない。困ったものだ。
それ以外にも,今回は考えさせられることが多々あった。やはり,出版物を刊行するということの重大さというものを,もっともっと深く認識すべきだった。とにかく原稿を集めて,それを本にすればいい,ということだけでは済まない,もろもろの問題があるということ。こうした教訓を胸に,来年の紀要刊行に向けて準備をすすめなくてはいけない。
一度,活字になったものは取り消すことはできない。書いた原稿は勝手に一人歩きをはじめる。その原稿をどのように読み取るかは,読み手の問題だ。それがどう受け止められようと著者にはなんの権限もない。その意味では,読み手の自由だ。この点については,編集委員会は,もっとナーバスになるべきであった。来年からは,この点を徹底させねばならない,と強く反省。そのためには時間をかけて,じっくりと「編集作業」をすすめるべきであった。ここを急ぎすぎた。
この点さえクリアできれば,やはり,書いた文章が刊行物になるということは嬉しいことだ。ましてや,単なる「評論」(コメント=ディスクリプション)ではなくて,「批評」(クリティック=インスクリプション)であれば,なおさらのことだ。わが身をさらしつつ,エッジに立つ「批評精神」旺盛な論考を展開すること,この積み重ねができるとしたら,そんなに嬉しいことはない。『IPHIGENEIA』はそういう紀要としてスタートしたはずである。このことを,もっと,前面に押し出していくべきだろう。こうした議論も,もっともっと,繰り返すべきだろう。
その上で,『暴力とスポーツ』への第一歩を踏み出すことにしよう。ここには,もっと大きなミッションが待ち構えている。その点についても,議論が必要だ。来年に間に合うように,すぐにも取りかからなくてはなるまい。多くの仲間の賛同を得ながら。
まあ,とにかく,一つのハードルをクリアすることができた。あとは,心静かに新しい紀要が世にでることを楽しみに待つことにしよう。そして,この紀要の合評会が開かれることを・・・。
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2009-06-07 「WBC」雑感。
_ 「WBC」(World Baseball Classic)についての短いエッセイを書くよう頼まれていたが,数日前に督促があるまで,すっかり忘れていた。
もう,とっくに締切りはすぎてしまっているのだが,いまもなお,そこに手をつけるまでにはいたっていない。いつものことではあるが,忙しいときに限って,つぎからつぎへと仕事が束になって襲ってくる。からだがいくつあっても足りない。でも,がまん,がまんとみずからに言い聞かせて,一つずつ片づけていくしか方法はない。
それにしても,この原稿はとりかかればすぐに書けるというものでもない。少しずつ頭をそちらに向けていき,資料を集めたり,断片的にでも考えを深めてみたりする,要するに準備運動が必要なのだ。そのためのトレーニングの一つとして,このブログを活用するというわけ。お許しのほどを。
まず第一点は,恥ずかしい話。自分の無知をさらけ出すことはしたくはないのだが,ほんとうのことだから仕方がない。World Baseball Classicということばの「Classic」ということば使いがわからなかった。ついつい,日本語の「クラシック」だと思い込んでしまっていたので,なんで野球が「クラシック」なのか,変だなぁ,とぼんやり考えていた。久しぶりに英和辞典を引いてみて納得。ここで用いられている「Classic」は名詞で,〔スポーツ〕(伝統的な)大試合,とある。形容詞でも,最初にでてくる語釈は「最高級の,第一級の」とある。「古典的な」とか「伝統的な」という語釈は,そのつぎにでてくる。なるほど,なるほど,と。これで一つの疑問が解消した。こんな小さなことでも気がかりになっていると,原稿というものは不思議に書けないのである。
第二点。WBCはほんとうに「世界で最高の野球大会」であったのだろうか,という疑問。どうして本場のアメリカではなくて,日本の野球が「2連覇」してしまうのか。しかも,日本が「2連覇」したにもかかわらず,アメリカの野球が一番だ,という地位は変わらない。だれも疑わない。この裏にはいろいろの意味があるらしい。新聞にもいろいろと書かれていたことがあったが,もっと深い意味があるはず。それをどこまで調べることができるのか。そこで安心できるだけの情報が得られるかどうか,そこが大問題。どなたか,とびきり上等の情報を分けてください。あるいは,調べる手だてを教えてください。
第三点。なぜ,日本と韓国は5試合もしなければならないのか。日本が戦った試合は全部で9試合。その半分以上が韓国との対戦。参加チームは16。ちらちらと漏れ伝わってくる情報によれば,星のつぶし合いをさせて,日本と韓国の野球熱をさらにヒートアップさせることが目的だった,とか。実際にも,日韓決勝戦のテレビ視聴率は36.4%(関東地区,ビデオリサーチ調べ)にも跳ね上がったという。かく申すわたしも,コーヒーが飲みたくて入った場末の小さな喫茶店で,この決勝戦のテレビ中継にでくわした。地元の高齢者たちが何人か集まって,一喜一憂しながら応援をしていた。韓国は対日本戦となると,ことのほか闘志をあらわにして挑んでくる。それまでの経緯からしても2勝2敗の五分。どっちが勝っても不思議はない。ときの勢いが勝敗の分かれ目になる。それだけのことだ,とわたしは熱くなれない。だから,コーヒーを飲み終わったら,さっさと出てきてしまった。とはいえ,飲んでいる間は,いつのまにか手に力が入っていて,いつしか日本を応援している。それにしても,わたしの眼からみれば,WBCとは,とりもなおさず日韓野球選手権大会であった,ということ。それ以外の情報はほとんど記憶していない。ちなみにアメリカのチームにどんな選手がいて,どんな活躍をしたのか,まったく記憶がない。
第四の疑問がそこだ。アメリカは「ドリーム・チーム」を組むことができなかった,ということは知っている。選手たちが「WBC」よりも高い年俸をもらっている「MLB」のチームを最優先している,と聴いている。松井秀喜君などがそのいい例だ。3月などという中途半端な時期に開催するから,こういうことになる。8月の夏休みくらいのときに,プロ野球を一時,お休みにして,「WBC」を開催すれば,もう少し内実のある試合が展開されるであろうに。なぜか,そうはしない。
第五の疑問。日本の平均的ノンポリ人間をますます「ノンポリ化」させる装置としてこの「WBC」が機能しているとしたら,どうだろう。結果的には間違いなく「WBC」にうつつをぬかし,国際社会でなにが起きているのかということに無関心になってしまうことは事実だ。情報も国際社会の「負」の部分に関するものは排除され,減ってしまう。その事実は,この間の「北京オリンピック」のときに実証済みである。チベット問題やパレスチナ問題などの情報は極端に少なくなってしまったし,人びとは,その少ない情報に対しても見向きもしなかった。もし,このことを,どこかのだれかが十分に承知していて,意図的・計画的に仕組んでいるとしたら,どうだろう。恐ろしいことではないか。
もう一つだけで終わりにしよう。勝利至上主義が支配するこんにちのスポーツの世界では,いかなる理由があろうと「勝つ」ことが「正義」にすり替えられてしまう。「負ける」のは「弱い」からであり,それはいとも簡単に「悪」の烙印を押されてしまう。「勝つ」ことは「いいこと」であり,「負ける」ことは「悪いこと」である,という二項対立的思考が無意識のうちに埋め込まれていく。世にいう「勝ち組」と「負け組」という図式を,スポーツが「正当化」することになっている。たとえ,結果論だとはいえ,そのような機能がスポーツにはある。しかも,「WBC」ともなれば,国民の圧倒的多数を巻き込んでいく。きわめて恐ろしい文化装置となっていることに,意を用いる人が何人いるのだろうか,とわたしは考える。この問題系は,じつを言うと,きわめて複雑な仕組みになっているので,あまり短絡的に結論づけることは危険である。しかし,そのような要素が埋没していることだけは忘れないように。
時間切れ。以上で,本日のトレーニングは終わり。
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2009-06-11 WBCの原稿がまだ書けない。
_ とっくに締切りが過ぎているのに,まだ,WBCの原稿が書けないでいる。情けないかぎりである。
正直に告白しておけば,すでに,何回も書いているのである。しかし,制限枚数に収まらなかったり,途中で脱線していって,まったく別の原稿になってしまったり,という具合で,指定された枠組みのなかに収まらないのである。こんなことも珍しいことだ。そんなに力む必要のない原稿なのだから,ほどほどに考えていることを整理して,さらりと書いておけばノルマは果たせるのに・・・。
でも,書けないときは書けないものだ。
その理由をいろいろ考えてみる。
あるある。その最大のネックになっているものが今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』の冒頭にでてくる名言「サッカー批評とは世界批評である」という,大きなハードルである。このハードルをなんとかクリアしたものを書こうと無意識のうちに気張ってしまっているのである。このところ今福さんの本を集中的に読んでいるので,今福節がわたしの頭のなかを渦巻いている。今福さんの意図する「批評精神」とはどういうことなのか,ということがどうしても避けて通れないのだ。だから,「WBC」を論評するということになれば,これこそ「世界批評」以外のなにものでもなくなる。で,勢い,その「世界批評」なるものに挑戦したくなる。しかし,付け焼き刃だから,すぐに馬脚を現してしまう。
前にも書いたような気がするのだが,世界を批評するということになれば,当然のことながら,では,そこでいう「世界」とはどういうものなのか,つまり,わたしの「世界認識」が問われることになる。今福さんの場合でいえば,最近の『ミニマ・グラシア』や『群島−世界論』(いずれも岩波書店,2008年11月刊)に展開されている「世界認識」である。それに匹敵するような「世界認識」がわたしのなかにあるのか,という匕首が喉元に迫ってくる。こうして,とたんに,わたしの頭脳はフリーズしてしまう。やはり,実力不相応に力んでしまうのである。
いくら,にわかに頑張っても,実力以上のことはできないのだ。それは,若い頃のスポーツの試合という修羅場をとおして,いやというほどからだにたたき込まれている。原稿も同じだ。無理して爪先立ちすれば,そのとおりの原稿が仕上がってくるか,支離滅裂なものになって空中分解してしまう。
道元のことばではないが「修証一等」(しゅしょういっとう)である。「修証」とは,道元の説いた「修証義」の「修証」と同じである。すなわち,「修」とは「修行」のこと,「証」とは「悟り」のこと。だから,「修証義」とは修行と悟りについての教えを説いたものだ。で,「修証一等」にもどれば,修行と悟りとは「一等」である,というのである。つまり,修行と悟りとは「一つのことであって,等しいもの,分けて考えることのできないもの」と道元は説いているのである。もっと言ってしまえば,修行というものは悟りのレベルに応じて展開されるべきものであって,無理してレベルの高い修行をしようとしてもなんの意味もないですよ,と道元は教えているのである。
原稿も同じ。もう一度,原点にもどって,坐禅でもしながら,ふっと湧いてくるものをそのまま書くしかないのである。そんなことは当のむかしからわかっている。にもかかわらず,できない,のである。ここに大きな溝,あるいは亀裂がある。これを埋めるべく,これまでどれほど努力してきたことか。それでもできないものはできないのだ。こんなことを考えながら,しかも,みずからに言い聞かせながら,もう,何年生きてきたというのか。もっとも,道元さんに言わせれば,死ぬまでつづく,と。だから,日々,坐禅をするしかないのだ,と。
ここまで吐き出してしまえば(精神分析と同じ),少しは楽になって,明日には書けようか,と期待する。それしかない。あとは自己暗示をかけてでも書くしかない。渡世とは辛いものよ。
明日の朝には「般若心経」でも唱えて,坐禅もどきを少しばかりやって,それから原稿にとりかかるとしようか。
アラマッチャンデベソー!? キャアテイギャアテイハラソウギャアテイ。
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2009-06-12 柳澤田実先生の本を読みはじめる。
_ 南山大学の柳澤田実先生から送られてきた本を,恐る恐る読みはじめました。原稿があるのを気にしながら・・・。
柳澤先生は,アルシーヴ社の佐藤真さんが7月12日に三鷹天命反転住宅で仕掛けたトークショウの,わたしの対談相手をしてくださる先生です。その柳澤先生からはやばやとご本2冊と紀要抜き刷り2編とが送られてきたのですが,原稿があったので,棚上げにしてしまってありました。しかし,気になって気になって仕方ありませんでした。それもまた原稿が書けない理由の一つだったかもしれません。で,とうとう,今日,送っていただいた本の一冊に手をつけてしまいました。それがまた,とてつもなく刺激的で面白いのですから困ったものです。
本に入る前に,紀要抜き刷りの一つに「キリスト教から読む大野一雄──『魚釣り』としての人間」というタイトルのものがあることを知り,こちらから読みはじめました。大野一雄という「窓口」であれば,いくらか理解がしやすいだろうと考えた次第です。しかし,情けないことにキリスト教の「聖書」をそんなに深く読み込んではいないので,なるほど,なるほど,と頷きながら読むのが精一杯。それにしても「魚釣り」という補助線を引いて,そこから大野一雄を語るという視点が,わたしにはまったく意表を突かれる思いがしました。しかも,ジェームス・ギプソンのアフォーダンスの理論を援用しながら,大野舞踏を分析するという手法もみごとで,またもや,なるほど,なるほど,と。
柳澤田実先生は,著者紹介をみますと,以下のようになっています。
1973年生まれ。東京大学総合文化研究科博士課程修了。現在南山大学人文学部准教授。哲学・キリスト教思想専攻。宗教的経験や美的体験を,行為と環境との相関関係において捉える方法論を探究している。
以上です。
大野一雄もまたクリスチャンですので,「キリスト教から読む」というのはありえない視点ではありません。しかし,大野一雄の舞踏そのものの出自は,きわめて土着的な(バナキュラーな)どろどろした文化的バックグラウンドにある,と一般的には解されていますので,「キリスト教」という視点から読み解くというのは,管見ながら,初めての試みではないかと思います。その点が,たぶん,柳澤先生のご研究のオリジナリティの根拠になっているのだと思います。それはともかくとして,その読解力がすさまじい。要するに切れ味が鋭い,の一言です。
つづけて,送っていただいたご本『ディスポジション 配置としての世界』の編者として書かれた冒頭論文「馬に乗るように,ボールに触れ,音を奏でるように,人と関わる──dispositionという概念によるアプローチ」を読みました。わたしは不勉強にして,ディスポジションという概念がいかなるものかすら知らないでいました。ですから,このご本をいただいたときに,なんだろう,この本は? と考え込んでしまいました。あフォーダンスについては,しばらく前に大いに話題になったことがありましたので,それとなく,こういう概念だなくらいの認識はもっていました。しかし,ディスポジションという概念は初めて。恥ずかしい。
で,その書き出しが,また,わたしには新鮮でした。
世界は配置(disposition)であり,人間は自らを取りまく配置によってたえず態勢づけられている(disposed)。
ここからはじまって,とても,わかりやすく総論的な概念の説明をし,この本の全体の意図するところを説いてくれます。乗馬の話がでてくる,サッカーの話がでてくる・・・,という具合でどうやら柳澤先生はスポーツがお好きなようなので,どことなく親近感を覚えます。それはともかくとして,とても面白いと思ったのは,このディスポジションという概念を用いて,スポーツの戦術や技術や,さまざまなスポーツ現象を分節し,語ることができる,ということでした。これはぜひお会いした折に話題にしてもらえると嬉しいなぁ,といまから楽しみです。
つづいて,対談「世界・環境・装置──<ディスポジション>の可能性をめぐって」萱野稔人×染谷昌義,というものがあって,これのお蔭で「ディスポジション」という概念がかなり深く理解できるようになっています。とてもありがたい(初心者には)対談になっています。この地ならしが終わったところで,ふたたび,柳澤先生の論考が登場です。
タイトルは「イエスの<接近=ディスポジション> 近づくという行為・行為の伝達」です。内容を要約するだけの力量がありませんので,キーワード的な表現になっている「小見出し」を列挙しておきます。これで,おおよその展開が想定できるのではないかと思います。
「行為」からのアプローチ,「歩く」イエス,接近と乖離,言語行為による「接近」,情動と記憶,結び,そしてパソリーニによせて。
わたしが,ぐっと惹きつけられたのは,情動と記憶,の考察でした。こういう分析視点があったか,と眼からうろこでした。なんともはや,とんでもない人と対談することになってしまったものだと,われながら呆れ返っています。でもまあ,折角,与えられたチャンスですので,これから一生懸命に勉強して(たとえ泥縄と笑われようと),内実のある対談になるべく努力したいと思っています。そうしないと柳澤先生に対して失礼になってしまいます。
これでまた,しばらくは原稿が書けなくなってしまいそう・・・・。あるいは,意外に,あるとき突然,さっと書けてしまうような予感もしないではありません。そうなることをひたすら祈りながら・・・,しばらくは,ディスポジション,アフォーダンス,とつぶやきながら,この本と格闘することになりそうです。でも,面白そうなので楽しみでもあります。ひょっとしたら,スポーツ文化論を展開するための,もう一つの新しい方法論が加わることになるかもしれません。そうなるべく神さまが悪戯をなさっているのかもしれません。もし,そうだとしたら,こんなありがたいことはありません。素直に身を委ねることにします。
では,お休みなさい。
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2009-06-14 WBCの原稿に決着。
_ 昨日(13日)の朝日・夕刊の一面にデカデカと「大入り,韓国野球」「動員,最多更新の勢い」という見出しが躍る。
やはり,こういうことだったのだ,と得心するところがあり,なにかが一気に吹っ切れた。よし,これで書けなかったWBCの原稿が書ける,と。そこで今日,鷺沼の事務所について,すぐにこの原稿に着手。高ぶった気持ちの方が先行してしまって,なんだか落ち着かない原稿になってしまったが,ともかく書くだけは書いた。あとは,うまく推敲すれば終わり。長かったトンネルをようやく抜けてでた。
WBCの今回の大会は不可解なことばかりが眼についた。まず,第一に,アメリカはドリーム・チームを組もうともせず,どうでもいい選手をかき集めて(いい選手の多くは辞退してしまった),しかも,強化試合がはじまる3日前に選手を終結させて,試合に臨んだ。それに引き換え,日本チームは一流選手を集めて,2月からキャンプまでして準備した。つまり,アメリカに優勝をめざす意志が感じられないのだ。参加すればいい,というだけのことだ。どこか気が抜けている。案の定,アメリカは早々に敗退して消えてしまった。
それに引き換え,日本と韓国は5回も試合をするはめになった。日本が戦った試合は全部で9試合である。その半分以上が同じ韓国との対戦であった。このようになるように仕組んだのも,この大会を「単独」で組織し,運営したMLB(米大リーグ)だ。試合の組み合わせも,トーナメントの方式も,すべて「独断」でアメリカが決めた。こんなことは,野球以外の種目では考えられないことだ。少なくとも,参加国の代表を委員に入れて,協議をして,いろいろのことを決めていくはずだ。しかし,アメリカはそうはしなかった。ここにも,アメリカ単独主義が,もののみごとに反映している。ときには,国連の決定をも無視する,いかにもアメリカらしいやり方ではある。
最初から,勝つつもりもなくWBCを組織し,運営するアメリカの意図はなにか。これがわたしの疑問であった。その答えのひとつが,昨日の朝日の記事だ。
日本と韓国が熱戦を繰り広げれば,広げるほど韓国の野球熱に火がつく。その思惑どおり,日本と韓国は勝ったり負けたりを繰り返しながら,2勝2敗でファイナルを迎えた。アメリカにとっては,絵に描いたような,シナリオどおりの展開となった。これで大正解だったのだ。アメリカにとっては。
そもそも,たったの16カ国・地域の参加で,野球の世界大会だ,と名乗ってはばからないアメリカの厚顔無恥にはあきれるばかりだ。しかも,それに乗せられて,国民のじつに多くがテレビに釘付けになった,どこぞの国があって,「世界一」になったとメディアをあげて大喜びをしている,この体たらくの方が悲しい。アメリカの第二の企みはここにもあった,とわたしは受け止めている。人間は大きな熱狂を通過すると,過去の悪夢はさっさと忘れてしまうクセがある。そのために,WBCは大いに貢献したと言っていいだろう。いや,結果論にしろ,貢献しすぎだ。わたしに言わしむれば。
こうして考えていくと,第三,第四のアメリカの企みが透けて見えてくる。これ以上,あげつらうのはやめにしておこう。ただ,ひとことだけ触れておきたいことは以下のことだ。
いまや,スポーツの大きなイベント(オリンピックやワールドカップ)は,政治や経済の情報を凌駕するほどの威力をもった時代を迎えているということ。北京オリンピックでも明らかになったように,ロシアが戦争を仕掛けたことも,中国国内で爆弾テロが起きたことも,少数民族弾圧が継続していたことも,アフガニスタンやイラクや,そして,パレスチナの悲劇に関する報道はみるみる萎縮してしまった。つまり,紙面が,スポーツに独占されてしまうのである。そして,みんな,そんなことはすっかり忘れてしまって,勝った,負けた,メダルがいくつ,の情報が紙面を圧倒してしまう。このことがなにを意味しているのか,じっくりと考えなくてはなるまい。
「たかがスポーツ,されどスポーツ」という,スポーツ史上,初の珍現象がいま着々と進行しているのだ。つまり,スポーツ史上の大転換期に,わたしたちはいま立ち合っている,ということだ。そして,その舵取りも,じつは,われわれに委ねられているのである。そのことに,多くの人びとはあまりに無自覚でありすぎる。
だからこそ,本格的な「スポーツ批評」が必要なのだ。しっかりとした「批評精神」に支えられた「スポーツ批評」が。今福さんが『ブラジルのホモ・ルーデンス』で言いたかったことは,この一点につきる,とわたしは受け止めている。
当然のことながら,スポーツ史研究も,こうした「批評精神」が求められている。時代は明らかに動きはじめている。そこに敏感に反応していく感性が求められている。歴史的感性が。
時間切れ。今夜はこれで,お休みなさい。
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2009-06-15 タイガーマスクが死んだなって・・・。
_ 2代目のタイガーマスクが死んだ・・・・と。あの,タイガーマスクが死んでしまった・・・と。頸髄離断・・・だと。
リングの上でバックドロップをかけられて,要するに頸の骨が折れてしまった,というのだ。確かに危険な技ではある。しかし,プロレスには約束事があって,こういうことにはならないように投げることになっているはず・・・。なのに,こんな結果になってしまって・・・・。投げた相手レスラーはどうするのだろう・・・・。生涯苦しむことになるのだろう。お仕事の上とはいえ・・・。
最近の三沢選手の試合は見ていないので,なんともいいようがないが,新聞によれば,いまも,つねに,全力を出し切るプロレスを見せていたという。ただ,残念なことに,そこに「芸術的」ということばが見られなかったことだ。わたしの記憶のなかにあるタイガーマスクのプロレスは,まさに,芸術的だった。これぞプロレスという典型的なショウであった。動きといい,技の切れといい,試合運びといい,まさにアートであった。勝敗を度外視して,タイガーマスクの一挙手一投足に,呼吸をつめて見入ったものだ。
とりわけ,わたしが好きだったのは,相手の攻撃をまともに受けつづけながら,ある一瞬にして,逆襲に転ずるときの,その間のつかみ方のうまさだ。ほんとうに,あっという間の逆襲である。それから,リング上を所狭しと動き回り,リング上のロープはもとより,支柱をも道具に仕立てて,想像もつかない技を繰り広げる,そのスケールの大きさにあった。わたしは,タイガーマスクのプロレスこそ,まさに,芸術だと確信していた。
からだは小柄ながら,堂々たる体躯の相手を手玉にとる,スピード感あふれる技の連続は,一度見たら忘れられないインパクトをもっていた。プロレスがかくも美しいものだということを教えてくれたのが,タイガーマスクだった。そのタイガーマスクが死んだ・・・・。
運動神経のかたまりのような,身のこなしのセンスのよさ。鍛えに鍛えた,じつにバランスのとれたからだ。そこから繰り出される技のかずかず。いまも,眼をつむれば,かれの華麗なるプロレス・ショウが昨日のことのように蘇ってくる。まさに神業であった。天才レスラーにしか不可能なアートだった。美意識に満ちあふれたリングだった。
わたしのつたないことばではとても表現できないが,あらゆる賛辞を,タイガーマスクに献上したい。そして,こころからの冥福を祈りたい。リングで散っていったかれの闘魂に栄光あれ。
_ スポーツは芸術である。勝敗原理を超越した地平に開かれてくる芸術である。芸術に値する全身全霊をこめたパフォーマンスに接する喜び,これぞ生きる喜びではないか。その喜びを感じさせてくれる一瞬一瞬をこそ擁護していきたい。勝ち負けを度外視して。
_ タイガーマスクこと,三沢光晴氏の冥福をこころから祈る。
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2009-06-16 柳澤田実先生から嬉しいメール。
_ 柳澤先生からご本をいただいたので,その返礼といっては変ですが,手元にあった自著を2冊ほどお届けしました。
そうしたら,早速,メールをくださいました。もちろん,初めてのメールです。わたしが名刺を本と一緒に入れておきましたので・・・。
さて,そのメールがとても楽しいものでしたので,少し気持ちが落ち着きました。といいますのも,柳澤先生のご本を,このところかなり真面目に読ませていただいているのですが,領域が違うといいますか,方法論が違うというべきでしょうか,わたしの頭脳には不慣れなお話が多く,悪戦苦闘しているところだったからです。なにしろ,これまであまり考えたことのない「ディスポジション」とか,「エコロジカル」とか,「オートポイエーシス」とか,「システム論」とか,「アフォーダンス」といった概念が飛び回っていて,そのつど「ウーン」と唸りながら考え込むといった始末です。参考文献の読み込みの深さと論理的な展開に,わたしの頭脳がついていけない・・・と悲鳴をあげているようなものです。ちょうど,長距離ランナーでいえば,トップ・グループを形成するスピードについていかれず,第二集団,あるいは第三集団あたりで必死に頑張っている,といった塩梅です。ですから,あとは,持久力と気力で耐えるしかありません。でも,不思議なもので,かなりの量を読み込んできたら,少しずつ,柳澤ワールドがわたしのからだに馴染んできました。これからはもっと理解が深まってくるのではないかな,と楽しみにしていたところに,柳澤先生からのメールでした。お蔭さまで,肩の荷がすっと軽くなったように思いました。
柳澤先生のメールで,わたしのこころを撃った文章は以下のようです。
一つは,「芸術も宗教も全てスポーツとして批評すべきだと某シンポジウムで話したことがございます」というもの。思わず,立ち上がってしまいました。なんと嬉しいことを仰る方なのだろうか・・・と。こんな風に仰ってくださる方と対談ができるなんて,わたしはなんとラッキーなことよ・・・と。わたしは,これまで折にふれて言ってきたことは,「スポーツは芸術であり,宗教とも通底するものだ」という程度のことでしかありませんでした。しかし,柳澤先生は,もっと徹底していらっしゃいます。「スポーツとして批評すべき」だとお考えなのですから。
二つめは,「『ディスポジション 配置としての世界』(現代企画室)も基本的にそのようなインスピレーションで作った本でした」というところ。「そのようなインスピレーション」とは,「スポーツで批評すべき」という意味です。ちなみに,この本の帯には「哲学,倫理,生態心理学からアート,建築まで,領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて」とあります。これでおおよその,この本の意図するところは想像していただけると思いますが,とにかく,きわめて多岐にわたる論考が収録されています。それを束ねられた(編集者)のが柳澤先生であるわけです。ですから,ますます,「スポーツも捨てたものではない」とわたしを勇気づけてくれたというわけです。
三つめは,「未だにそのように考えておりまして,目下の目標はイエスを「ある種の」アスリートとして語り直すことにございます」というくだり。ことここにいたって,わたしは小躍りしてしまいました。ここまで,すでに,思考を進めていてくださるのであれば,わたしはどんな話をしても大丈夫だ,とこころの底から安心しました。小心者のわたしとしては,これですっかり気持ちが落ち着きました。で,とっさに頭をよぎったのは,アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』のなかの主人公の少年ランナーは,ひょっとしたら「イエス」ではないか?というアイディアでした。太宰治の『走れ,メロス』もいけそうだ・・・とか,つぎつぎにアイディアが浮かんできます。このテーマだけでもいいから,柳澤先生ととことんお話をしてみたいものだ,といまからウキウキしてきました。
さてはて,7月12日の公開対談は,どんな展開になりますことやら・・・。あまり,シナリオは考えないで,ぶっつけ本番の方が面白くなるのではないか,と考えたりしています。
まずは,柳澤先生のご本をしっかりと読み込むことが先決ですので,当分はそのことに専念しましょう。
いずれにしても,わたしの気持ちを浮き立たせてくれる,そして,勇気を与えてくれる,とても,ありがたいメールを柳澤先生が送信してくださり,感謝,感謝,感謝あるのみです。柳澤先生,ありがとうございました。
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2009-06-17 『IPHIGENEIA』,ようやく刊行。
_ やり直しをしていた<ISC・21>版『IPHIGENEIA』創刊号がようやく出来上がってきました。
思い返せば,いろいろのことがありましたが,なにはともあれ刊行にこぎつけることができました。最初の予定の4月20日刊行からは2カ月も遅れてしまいました(6月20日付けで刊行)。執筆いただいたみなさんには大変ご迷惑をおかけしました。こころからお侘びいたします。どうしてこういうことになったのかという原因については,合評会の折に出版社も含めてきちんとご説明させていただく予定でいます。それまで,詳細については,ご勘弁ください。結論からいえば,わたしも出版社も考え方が甘かった,ということです。こんごはこういうことのないよう,きちんとした仕事をしていくべく,お互いに気をつけることを出版社にも申し入れしてありますので,今回のことは許してあげてください。
さて,この2カ月の間に,全体にわたってかなりの手入れをしてみました。誌面のデザインなども大幅に修正を加えました。そして,かなりすっきりしてきました。が,まだまだ,直さなくてはならないところがたくさんあります。この点についても,のちのち,みなさんのご意見を伺って,直していきたいと考えています。ある程度の体裁が整うには相当の試行錯誤が必要だとしみじみ思います。こんごとも,どうぞ,よろしくお願いいたします。
あとは,できるだけ早く,執筆者のみなさんの手元にとどくよう,考えたいと思います。当初,刊行予定日が20日だと聞いていましたが,それが少しだけ早くなったということです。で,これはいまのところのわたしの考えですが,できるだけ経費と手間を節減するために,6月27日(土)の大阪学院大学での月例会に大勢の人が集まりますので,松本先生宛てにまとめて送って,直接,手渡すようにしたいと思います。そこに参加できなかった人たちには後日,発送ということにして。まことに勝手ですが,そうさせていただけるとありがたいと考えています。
つぎは,来年の刊行計画についてです。この点についても編集委員の先生方からいろいろとご意見をいただいていますので,それらを含めて相談をして,新たな刊行の方針を決めていきたいと思っています。もう,以前のように大学の予算で出すわけではありませんので,年度にこだわる必要はないという点を念頭において,もっとゆったりと編集業務に取り組めるタイム・テーブルを作成したいと考えています。たとえば,発行日を4月ではなくて,10月くらいまで遅くする,というようなことです。年々,大学勤務も業務が多くなってきていて,大変だと伺っています。ですので,どのような折り合いをつけて,こんごに臨むかということが重要な課題となってきています。これも編集委員の先生方と相談したいと思います。
などなど,まだまだ,課題はいっぱいです。それらを一つひとつ詰めていって,長続きのする研究紀要にしていきたいと考えていますので,みなさんからもいいアイディアがありましたら,ご提案ください。そうして,少しずつレベルを上げていきたいと思っています。よろしく。
なお,合評会は一回では済まないと思いますので,2回くらいに分けて,きちんとコメンテーターをつけて議論をしたいと考えています。こちらもご相談です。
などなど,いろいろ書きたいことは山ほどありますが,際限がなくなりそうですので,この辺りで終わりにしておきたいと思います。
ではまた,お元気で。
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2009-06-18 事務所のインターネットがつながった。
_ 「21世紀スポーツ文化研究所」を開設して,1年が過ぎて,ようやく事務所のパソコンがインターネットにつながりました。
こんなことを書くと笑われそうですが,事務所を借りたマンションには,これまでNTTの光フレッツがつながっていなかったのです。しまった,と思いましたが後の祭りです。困ったなぁ,と思っていたら,昨年の7月に自治会の役員をやってくれ,という依頼がありました。どうして?,このマンションに入ったばかりなのに,なんだろうと聞いてみたら,役員は輪番制で,いまやっている人が病気になってしまったので,急遽,つぎの順番の人に回ったとのこと。それが,わたしの部屋番号だった,というわけです。
でも,早速,この役員になったことが役立ったのですから,世の中,面白いものです。自治会の役員会が月に1回ずつあって,そこで,なにか問題が起きていないかどうかを話し合います。早速,わたしは「NTTの光フレッツ」をマンションにつないでほしい,と要望しました。が,これまた面白いことに,古いマンションであるために,住民がすでに老化していて,年寄りが圧倒的多数で,これまでにも自治会総会で「光フレッツ」の導入が提案されたことがあるけれども,圧倒的多数で否決されたとのこと。いやいや,それは違うでしょう。経費も無料,マンションの入り口に小さなボックスがひとつ増えるだけの話。あとは,それを利用するかしないかは住民の自由。別に邪魔になるわけでもないのだから・・・,とまずは自治会の役員さんを説得。その上で,総会に諮りました。やはり,案の定,ジジ・ババばかりが集まってきて,「インターネットなどというものは,わたしらの生活には必要ない」とにべもない。そこで仕方がないので,これを導入することによって,このマンションの付加価値が高まり,将来,マンションを売買するときに有利ですよ,という話を一席ぶち上げました。そうしたら,一気に雰囲気が変わり,総雪崩現象が起きて,めでたく可決。それで,つい,この間,工事が終わって,わたしの借りた部屋にも「光フレッツ」がとどいたというわけです。
早速,申込みをして,部屋のなかの工事をしてもらったのですが,電話の位置が玄関入り口にあって,奥の机のあるところから遠すぎます。で,NTTに相談したら,無線LANにすればいい,とのこと。一カ月,500円ほどで機器を貸してくれる,と。では,それを,と申込みしました。その機器が今日の午後にとどきました。
早速,マニュアルを手に震える手をなだめながら,一つひとつ順を追って作業を進めていきました。メカにはまったく自信がなかったので,もし,駄目だったらサポート・システムがあるので,そちらに頼もうと思ってはじめました。ところが,近頃の手順はとても簡略化されていて,むつかしいことはなに一つなく,どんどん先に進んでいきました。気づいたら,これで完了,とでてきました。
不得意なことをクリアした気分は,また,なんとも快感です。これで,研究所の事務所からも自在にインターネットにつながることができると思うと,なにか急に空が明るくなったような気分でした。これまで,インターネットをつないでの仕事は家,それ以外の仕事は事務所,というように分けて考えてきましたが,これからはやりたいと思い立った仕事がどこでもできるようになったというわけです。
人が聞いたら,こんな小さな,ささやかな喜びに過ぎませんが,それがどっこい,本人にとっては意外に大きな喜びなんですよね。もう,インターネットにつながったあとはウキウキしてしまって,とるものも手につかず・・・といった状態です。早速,インターネット環境を整えることに熱中。まずは,「お気に入り」のリンクを張って,メール・アドレスを書き込んで・・・と,やることは山ほどあります。それで,今日は一日,あっという間に終わり。
さあ,これからは,もっともっと効率を高めて,いい仕事をするのみ。なんともはや楽しみではある。そんな気分,久しぶり。童心に帰ったような気分。みんなに「みてみて・・・」と声をかけたくなる気分。たまには,童心に帰るのも悪いものではありません。しばらくは,思いっきり童心に帰ろう,と思ったそんな一日でした。
では,今夜はこれで。お休みなさい。
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2009-06-19 議員の日当制に賛成。
_ 朝日新聞の夕刊に,前福島県矢祭町長根本良一(71)へのインタヴュウ記事が連載されている。
全国的にみても,とてもユニークな地方自治の改革を行い,注目を集めている。でも,われわれ一般市民からすれば,ごくごく当たり前のことを実行しただけにみえる。でも,それがこれまでの地方自治のあり方からすれば,青天の霹靂にみえるらしい。それほどまでに,地方政治のあり方,あるいは,日本の政治のあり方がゆがんでいるということなのだろう。それは,新聞記者の意識のなかにも如実に現れている。その可笑しさを,デスクも見過ごしている,というところにこんにちのジャーナリズムの堕落ぶりをみてとることができる。たとえば,つぎのようなやりとりがある。
──根本さんの引退後の昨年3月から,矢祭町議会は議員報酬の日当制に踏み切りました。
という記者の問いに対して,元町長は,議員さんを説得するために家に呼んで,天丼だけだして,酒なしで説得した。議員さんはしゅんとしておったが,結論は賛成だった,と。
つぎが問題の質問だ。
──日当制だと,職業のある人しか議員になれないという反対論もあります。
この質問には,われながら,わが眼を疑った。本気でこんなことを聞いているのだろうか,と。それに対する元町長さんの応対がみごと。
矢祭町ではそうではないが,非常勤が常勤より高いのはよくない。
08年度の議員一人当たりの報酬額はこれまでの三分の一,120万円余りだ。新聞によれば全国最安だ。カネの問題で議員の魅力がなくなれば,勤め人でも主婦でも,本当にやりたい人が選挙に出るだろう。選挙もカネがかからなくなる。職業を持ちながら,議員をやるのがいい。議員が家業になったら,だめだ。
とても,単純明解で,読んでいて清々しい。こんな町長さんが,もっともっとでてきてほしい。議員が家業になる,というのは田舎にいけばいくほど,その傾向は強い。中央ですら,そうなのだから,なおさらである。しかし,そういう議員には庶民感覚はほとんど欠落している。だから,金持ち優先の政治がまかりとおってしまう。
わたしはかねがね議員さんは定職をもっている人が兼業でやってもいいではないか,と考えていた。たとえば,小学校の先生が村会議員に立候補して,当選し,先生をしながら議員をつとめる,などというのは理想的だ,と考えてきた。そうなれば,会社員で政治家を志している無名の新人が,つぎつぎに登場するはずである。主婦も,もっと立候補しやすくなるだろう。つまり,政治に適性をもった人物が,いまの選挙制度ではなかなか発掘できないのである。政治家も,音楽家やスポーツ選手と同じように,その才能が問われているのだと以前から考えてきた。だから,才能のない政治家は,選挙という制度をとおして淘汰されていけばいいのである。それが機能しないところに,こんにちの選挙制度の大きな障害がある,と思う。
議員を「日当制」にするというアイディアを実行に移した,この元町長さんは偉い。これに対して,「職業のある人しか議員になれない」という発想がわたしにはわからない。職業がなくても,日当制なのだから,空いた時間はアルバイトでもなんでもできるではないのか。もともと,職業がなくても,なんらかの仕事をしながら生きている人なのだから。
まあ,要するに,どちらが議員になるための「窓口」を大きく開いているのか,ということだけの話。もっとも,この記事を書いた「畑川剛毅」さんは,ひょっとしたら,わざとそのような設問をしたのかもしれない。そうすることによって,面白い話を引き出すという方法もあるにはある。だが,それにしても,わたしには違和感が大きすぎた。
みなさんは,どんな感想でしょうか。
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2009-06-20 先天性股関節変形症という「名づけ」について
_ 地唄舞の多仁女こと,中村多仁子さんから手紙がきて,しばらくの間,先天性股関節変形症に悩まされたが,なんとか回復して,舞台に立つことができるようになった,とある。
一時は歩くこともままならず,困ったと思われたそうですが,そこはやはり意志の人,自分でストレッチをしたり,リハビリに励んで回復したという。さすがに,オリンピックに2回も出場する元体操選手だけのことはある,と感心してしまう。しかし,待てよ,と思う。先天性股関節変形症だって・・・?
そういえば,最近,わたしの身辺では,先天性膝関節変形症ということばをよく聞く。だいたい,60歳にさしかかった人たちが多い。膝が痛いといって医者にいくと,かんたんな触診をして,外見やレントゲンに大きな異常もなく,すこぶる歩行に困らないかぎりは先天性膝関節変形症という診断をくだされるという。そして,マッサージや電気の治療に通うことになるらしい。
ひところ,小学校1年生の子どもたちが教室でじっと坐っていられなくて,動き回って授業ができない,という苦情が先生たちから上がった。いろいろ手をつくすのだが,効き目はない,と。そこで,お医者さんたちがつけた病名がなんと多動性症候群。「あの子は多動性症候群だから」と言ってしまえば,学校の先生の責任から逃れられるというわけだ。わたしは,この話を聞いたとき,ひどい話だと思っていた。小学校の1年生が,一時間,じっとおとなしく椅子に坐っていることの方がずっと異常ではないか。ひとときたりともじっとしていないのが,幼児の特性だ。その幼児の興味をどこまで惹きつけられるかが,先生の腕のみせどころ。これまで,1年生担当の先生方は必死で創意工夫を重ねて,こどもたちの興味を惹きつけることに努力してきた。しかし,あるとき,突然,こどもたちが「動きはじめた」のである。そして,たどりついたのが,多動性症候群という病名だ。
先天性膝関節変形症もまた,それに似たような現象ではないか,とわたしは感じている。長年,使ってきた膝だ。多少,綻びがでてきて当然ではないか。自動車でいえば,もはや,相当の中古車だ。オーバーホールしても,なお,あちこちの部品にガタがきていてなんの不思議もない。人間の膝だってそうだ。60年間も使ってきたのだから,膝のどこかがおかしくなっても,なんの不思議もない。ごく自然のなりゆきではないか。言ってしまえば,膝関節酷使症,というところ。それをわざわざ「先天性」とつけて,しかも「変形症」という。じゃあ,そんなに多くの人たちが,生まれつき膝が変形していたのか,ということになる。そうではないだろう。若いころは,みんな元気に走ったり,飛んだりしていたはずだ。だから,酷使性膝変形症,とでもいうのであれば,なるほど,と納得する。
で,最初の多仁女さんの話にもどる。彼女は,元体操競技の日本を代表する選手だったのだ。そんな人が「先天性股関節変形症」だなんて・・・。じゃあ,選手時代も「先天性股関節変形症」を抱え込んだまま,あんなみごとな演技を披露していたのか,ということになる。そうではないだろう。現役時代は,人並みはずれて恵まれた身体をフルに活かして,人一倍,創意工夫し,努力したからこそ,オリンピック代表選手に2度も選ばれることになったのだ。65歳の坂を越えて,股関節に違和感を生じたとしたら,若いころの酷使が原因で,変形症が現れたとみるのが当然ではなかろうか。そこまで丁寧に診断をするお医者さんは,いまどき,どこにもいなくなってしまった。みんなマニュアルどおりに,どこかにぶっつけたわけでもなく痛みがきたら,「先天性膝関節変形症」という病名をつけて,それ相応の治療にとりかかる。それがまかりとおっている。
なにか,名前をつけて,それらしき病気にしてしまえば,それで問題が解決したかのような気になってしまう。それは,お医者さんだけではなく,患者の方もそうだ。病名をつけられると,ああ,そうなんだ,と納得するしかない。この「名づけ」と「納得」の関係が馴れ合いになっているところが怖い。この馴れ合い関係が,よくよく観察してみると,わたしたちの日常生活のすみずみにまで浸透していることがわかる。あいつは嘘つきだよ,と言われると,ああ,そうなんだ,と思う。ひとの噂話はその典型例の一つだ。だから,人のことをとやかく言ってはならない,と仏教ではむかしから戒めている。最近は,そういう「押さえ」や「歯止め」がなにもなくなってしまった。だから,噂話が縦横無尽に駆けめぐる。恐ろしい世の中になってしまった。これからさきどうなっていくのだろうか,とわたしは不安になる。
そのもっとも恐ろしい「名づけ」が,あいつはテロリストだ,というものだ。そして,テロ=悪者,という烙印が押されてしまう。そんな単純な話ではないのだが・・・・。この「名づけ」の「暴力性」こそ問われなくてはならないのだが・・・・。
ジダンのヘディングにレッド・カードを突きつけるレフェリーの行為もまた,恐るべき「暴力」以外のなにものでもない・・・ということ。一度,じっくりと考えてみたい,と思う。
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2009-06-21 「名づけ」という「概念化」について
_ 昨夜書いたブログのことが今朝になってもまだ頭の片隅でなんとなく納まりがわるい。なぜだろう,と考える。
たとえば,昨日書いた「多動性症候群」というような「名づけ」とは,要するに「概念化」することだ。なんだかよくわからない,うまく説明ができない現象が起こると,それらを表現するために新しい「ことば」を与える。それが「名づけ」だ。(ほんとうは,ジャック・デリダのいう「原エクリチュール」の話からしなければならないのだが,省略。)
名前をつけられると人はなんとなく安心する。そういうものなのか,と。内実については,あとから補充される。人の誕生とともに「名づけ」が行われるのも同じ理屈だ。名前のない赤ん坊では,親も不安である。周囲も困ってしまう。名前をつけて,気持ちを込めて呼びかけているうちに,それらしい子になってくる。でも,子どもにしてみれば,なんで,こんな名前にしたの? と疑問をいだくことは一度ならずあるものだ。
わたしも娘によく聞かれたことがある。小学校3年生くらいのころだったように思う。そのつど,気持ちを引き締めて,眼をしっかりと見据えて,一生懸命に説明したことを記憶している。このとき,思っていたことは,名前の善し悪しの問題ではなくて,「名づけ」もある種の「暴力」なのだ,ということだった。つまり,わたしの一存で,「えいやっ」という「力の一撃」(デリダ)で決めたのだ。もちろん,わたしなりの理屈はあった。しかし,そんなものは「科学的に」説明できるようなしろものではない。あったのは,わたしの単なる「思い入れ」にすぎない。しかし,この親としての「思い入れ」が大事なのだと思う。
この調子でいくと,植物の名づけを語り,鉱物の名づけを語り・・・,名づけによって「整理」「分類」が可能になっていく,いわゆる近代科学のはじまりの話をしなければならなくなってしまう。が,ここは思い切って割愛。しかし,ちょっとだけ。ヒトから人になるときに,人は,自分をとりまく環境に応じて,必要度の高いものから「名づけ」をしていった。そのうちに,価値観を身につけ,善悪,美醜,大小,高低,好き・嫌い,などの区分をはじめた。それも,ごく自然に,生活や文化を共有している人びとの間の共通感覚的に生まれてきたはずだ。だから,それらはバナキュラーな風俗・習慣として定着してきた。
問題は,ある地域とある地域との「接触」がはじまったときから,ややこしくなる。いわゆる「生存競争」(Daseinskampf)の問題であり,「文化闘争」(Kulturskampf)の問題である。しかし,これも長い人類史を経て,こんにちの「世界」が形成されるにいたっている。だから,こんにちの「世界」の「ややこしさ」も尋常一様ではない。繰り返し,繰り返し「抗争」や「闘争」や「戦争」を行って,できあがった世界秩序の原理は,「力は正義」ということだった。勝者はつねに「正義」であり,その価値観が強要された。敗者はただ「服従」するのみ。しかし,こんなことをあからさまにいう人は少ない。あるいは,言ってはならないタブーのようになっている。でも,現実は,まさしく「力は正義」である。
その筆頭が,アメリカによる「テロとの戦い」だ。その原点は「パレスチナ問題」にある。このテーマも,もう何回も繰り返しているので,ここではカット。
さて,落しどころに入る。今日のブログで言っておきたかったことは,「名づけ」という「概念化」のもつ意味についてである。つまり,名前を与え,新しい概念が登場することによって,あいまいであった現象がなんとなくわかったような錯覚を起こす。しかし,近代科学は,これをさらに厳密に定義しなおして,ある一定の条件のもとでの「普遍の原理」を提示し,それを積み上げてきた。したがって,「科学的」には「正しい」,ということが広く認知されるようになってきた。しかし,「一定の条件のもとで」という条項が抜け落ちてしまって,いつのまにか「普遍の原理」だけが一人歩きをはじめてしまった。そこに大きな陥穽があった。
たとえ話としてよく言われるように,「手術は成功した。しかし,患者は死んだ」という笑うに笑えない現実がある。いつのまにか,「科学」が優先していて,人間の「生命」の方がないがしろにされる,そんな現実がわたしたちの身のまわりに次第に多くみられるようになってきた。そして,とうとう「笑ってはいられない」現実が圧倒的に多くなってきていて,これではどうしようもないとわたしは真剣に考えはじめている。
「経済原則」も同じだ。「合理的効率主義」が一人歩きをはじめ,「数字」ばかりが優先し,人の「働きがい」はどこか片隅に追いやられている。給料もあがり,物質的にはとても豊かな社会が到来したけれども,精神的にはまことに貧困そのものだ。首都圏を電車で移動している人であれば,だれもが痛感していると思う現実がある。最近の「人身事故」によるダイヤの乱れの多いこと。このことの内実がなにを意味しているのか,じっくりと考える必要がある。
「名づけ」という「概念化」が,「科学」を生み出し,わたしたちの生活に多いに貢献したのもつかのま,こんどは「過剰」な「科学的合理主義」が社会の組織や制度,人びとの生活や風俗習慣のすみずみまで浸透し,人のこころが「砂漠化」してしまった。ここを突破していくには,どうしたらいいのか。ここにいたって『ミニマ・グラシア』(今福龍太)ということばが,にわかに大きな意味をもちはじめる。そして,『群島─世界論』の存在が,ぐっと近づいてくる。
近代の論理を超克していくためには,なにをおいても「近代論理」の「外」にでないことにははじまらない,とわたしは考えている。近代論理の陥った矛盾を新しい「近代論理」で超えていくことは,これまた新たな「矛盾」の再生産にしかならない,と思うのだが・・・・。
たとえば,スポーツの世界でいえば,「ドーピング」問題。これこそ,「近代論理」が生み出した,あるいは到達した「歴史的必然」である。この問題系を「近代論理」で超克しようと「アンチ・ドーピング」運動が展開されている。
「ドーピング」ということばも,原点にはそういう「名づけ」という「暴力」がはたらいて「概念化」がなされ,なんとなく問題の本質がみえてきたような「錯覚」を引き出しただけではなかったか。それどころか,じつは,問題の本質を「隠蔽」「排除」(デリダ)するための「概念装置」にすぎなかったのではないか,とわたしは考えている。その頂点に立っているのが「アンチ・ドーピング」運動だ。この運動の主張と実態をよくよく観察してみると,明らかに,時代から取り残された「現体制」維持のための「騎士団」ではないか,とわたしにはみえる。それは,新しい時代の到来に気づかないまま,まるで時代錯誤を絵に描いたようなセルバンテスの名作の主人公「ドン・キホーテ」であり,「サンチョ・パンサ」にすぎない,と思うのだが,いささか言い過ぎだろうか。
「名づけ」と「概念化」の問題は,まだまだ,尽きることのない話題が満載だ。これからも,折にふれて,考えていくことにしよう。
とりあえずは,ここにて「打ち止め」。
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2009-06-23 21世紀を「スポーツの世紀」に。
_ 20世紀は「戦争の世紀」だった,とは西谷修は喝破した。ならば,21世紀を「スポーツの世紀」にしよう,とわたしは提起したい。
昨夜(22日),アルシーヴ社の佐藤真さんと一献傾けながら,7月12日の「トークセッション」について打ち合わせをした。李さんからいただいた喜多方市の銘酒「吉の川」(しぼりたて生酒「原酒」・限定品)が,これまたびっくりするほど美味しくて,いい気分。お蔭で,小気味のいい会話が展開して,あっという間に終電になっていた。
こんどの「トークセッション」で佐藤さんが仕掛けたテーマは「からだのなかにヒトが在る──動物・暴力・肉体」というものだ。佐藤さんが予定よりも少し遅れてきたので,それまでの間,じっと,このテーマを眺めていた。突然,なにかが襲いかかってきた。「萌えの襲ね」である。
ひらがなの「からだ」,カタカナの「ヒト」,漢字の「在る」,そして,動物・暴力・肉体というサブ・タイトルが,にわかに動きだした。あっ,これは「存在論」だ。漢字の「在る」が目立ちすぎる。「ヒトが在る」とはどういうことか。「ヒト」はまぎれもなく生物学の分類上の用語。その「ヒトが在る」とは? そこに追い打ちをかけるようにして「動物・暴力・肉体」とくる。これらのキー・ワードがわたしの頭のなかを一巡りして,浮かび上がったのは,なんと,ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』(断っておくが,新訳の『目玉の話』ではない)。これで決まりだ,と直観した。
ヘーゲルの『精神現象学』を徹底的に読み込んで,その中核にある「絶対知」を全面否定するための対極の概念としてバタイユは「非−知」を設定する。その内実は『内的体験』その他の著作をとおして展開された。そうした思考の記念碑的作品として,小説『眼球譚』がある。まだ,バタイユという名が知られる前の,若き日に,ペンネームで書いた小説。しかも,地下出版。すぐに,発禁本となる。それから何回も,ペンネームを使ってリライトする。なぜか,徐々にその毒気が抜けていく。最後の改作をテクストにした新訳が『目玉の話』だ。それでも大変な小説であることは間違いない。しかし,処女作に比べたら,その迫力は問題にならない。途中で気持ちが悪くなり,吐き気をもよおすほどの威力がある。しかも,大まじめな「存在論」の展開である。
そこには,むき出しの男と女が描かれ,最初から最後まで「セックス」ばかりしている。いな,オスとメス,と言った方がいいかもしれない。セックスを軸に糞尿譚から暴力に至るまで,惜しむことなき描写がつづく。「ヒトの肉体」が丸投げにされて,そこに転がっている。これぞバタイユの「エクスターズ」(恍惚)であり,「非−知」そのものの世界だ。
よし,これで一つの話の軸はできた,と確信する。
しかし,佐藤真さんの顔をみたとたんに,この話はポケットのなかにしまい込んでしまって,ただ,ひとこと,「このテーマは存在論ですね」とだけ,ポロリと言ってみる。とたんに,佐藤さんの眼が光りはじめる。あっ,なにか言わなくては,ととっさに考え「スポーツする身体は,そっくりそのまま,このテーマに置き換えて語ることができるんですよね」と。そこからあとは淀むことなく,つぎからつぎへと話題が展開していく。
これなら大丈夫と思って,じつは,柳澤先生からメールをいただいて,ちょっとびっくりするような内容のことが書いてありました,と報告。一つは「イエスは十字架に磔になったあとボールになったのではないかと考えています」というもの。もう一つは「イエスを,ある種の,アスリートとして語り直すことが目下のわたしの目標です」というもの。これには,さすがの佐藤さんも眼を丸くする。よしよし,と思っていたら,こんどは佐藤さんが声のトーンをひとつ下げて,「じつは,柳澤先生はサッカーをおやりです」という。これには,わたしもびっくり仰天。そういえば,柳澤先生の書かれた文章のはしばしにサッカーの話がちらりと顔を出す。そして,その使い方がうまい。相当のサッカー・ファンではあるな,と予想はしていた。しかし,プレイヤーである,しかも,現役の,とは考えてもいなかった。
メールの最後のところに,「スポーツがご専門の先生とお話できることをとても楽しみにしています」とあったのは,こんな含みがあったのか・・・と。これはこれは・・・。よほど用心して話をしなくては・・・と反省。しかし,考え方によっては,話はしやすい。かなりことばを省略しても誤解されることがなくて済む。ああ,これは楽しくなってきた。
お酒の味も上々だったので,気分がよくなり,ちらりと遠慮がちに「じつは,このテーマは,セックスそのものでもある,とぼくは考えているんですよね。でも,柳澤先生にそんな話をぶっつけることは,ちょっと気が引けるんですよね」と。ところが佐藤さん。「いえいえ,全然,遠慮することなんかないですよ」と仰る。「どんどん話題にしてください。柳澤先生なら大丈夫です。結婚もなさっていらっしゃるし・・・」と。
このことばに勇気をもらい,とたんにわたしが饒舌になる。
「そうですかぁ,いいんですかぁ」と半信半疑ながら,調子にのって「これまで近代のアカデミズムではセックスを語ることが忌避されてきたんですよね。だから,存在論もどこかもう一つ迫力がなかったし,形而上学批判をするにしても,どこか腰が引けているという印象です。理性中心,自己中心,主体中心の哲学から離れて,もうひとつの拠点を確保すべくさまざまな仮説が展開されてきましたが,いずれも「セックス」を忌避しています。これでは,近代論理を否定するために近代論理を用いる,という自己矛盾に陥ってしまいます。ちょうど,スポーツの世界でいえば,ドーピング問題を批判するのと同じです。」とどこまでもしゃべるわたし。佐藤さんも「そうですよ,そうですよ」と相槌を打ってくれるので,ますます,調子にのってしまう。
これから,どんどん,スポーツものの企画をやりましょうよ,とわたし。ぜひ,ぜひ,やりましょう,と佐藤さん。もう,とどまるところがない。ここで話されたことは,いずれまた,タイミングをみて書くことにしたい。
で,いよいよ,「セックスとスポーツは,身体論で語っていくと共通するものがじつに多いんですよね」という「本丸攻め」に入ろうと頭のなかで画策しているうちに,時間切れ。
「残念ですが,電車がなくなってしまいます」と佐藤さん。
じゃあ,急いで・・・とわたし。わたしはまだ電車はありますので,どうぞ,一足お先に,と提案。
後片付けをしながら,ああ,久しぶりに全開でしゃべってしまったなぁ,と大きなひとりごと。爽快な気分。いいお酒は気分をよくしてくれるだけではなくて,頭の回転までよくしてくれる。李さんにお礼を言わなくては。そして,喜多方のお酒は美味しい。太極拳の大好きな喜多方の市長さん,ありがとう(われわれが飲んだお酒は,市長さんが李さんに手渡したもの)。
「吉の川,しぼりたて,生酒,原酒」,ばんざい。
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2009-06-25 あの時代の魂が宿ってしまった。
_ 朝日新聞の夕刊で連載されている「ニッポン人・脈・記」に,60年代後半の学生運動に参加した人たちの話がでてくる。
66年ころから69年にかけて,なんとも重い空気が日本の首都を覆っていた。連日のように,闘う学生さんたちと機動隊のぶつかりあいが,新聞紙上を賑わせていた。この学生運動のピークを迎える69年の前後数年間を,愛知県学生寮(三河郷友会)の寮監をしていた。しかも,大学院の博士課程に在籍のまま。当時,150人ほどいた学生さんともあまり年齢も変わらない。立場上,わたしは寮の監督者ではあったが,心情(信条)的には学生の側に立っていた。言ってしまえば,学生たちの兄貴分のような関係であった。また,そうでなければやっていかれなかった,というのが現実の姿だった。
いま,考えてみると,このときの優秀な学生さんたちとの出会いが,こんにちのわたしの大きな財産になっている。いまだから,もう時効に属するが,毎晩のように寮生自治会の役員や,学生運動の闘士たちがわたしの家(寮監官舎なる一戸建てがあった)に集まり,侃々諤々の議論を重ねていた。わたしはほとんど口を出すことなく,静かに耳を傾けているだけであった。だから,かれらはほとんどホンネに近い部分での議論を展開していた。それが,とてもよかったと,いまにして思う。とにかく寮の中での「内ゲバ」だけは避けなくてはならない。事実,あらゆるセクトに属する学生さんたちが住んでいたのだから。
日本の行く末を,とにかく,若い情熱を燃え上がらせるようにして「憂えていた」ことだけは間違いない。しかも,その運動に身を投じていく上での,ある種の覚悟が必要だった。だから,必死になって理論武装をする。しかし,その理論武装といったところで,稚拙なものは片っ端から論破され,傷つき,悩み,苦しみながら,なおも論争を挑む。そういう真摯な姿を,わたしはいまも鮮明に記憶している。
事実,わたし自身も寮監という立場に立ちながらも,ひとりの人間として(あるいは,ひとりの大学院生として),この時代を生き抜くための理論武装が不可欠であった。だから,わたしも必死だった。ずいぶん,本も読んだ。毎日のように,大学のキャンパスのなかで手渡される「アジビラ」も丹念に読んだ。そして,日々,揺れ動くみずからの理論武装の頼りなさを身にしみて感じていた。
今日の朝日の夕刊には,当時,早稲田の学生だった前田仁,高橋公,立松和平,寺島実郎,の4氏が登場している。そして,それぞれの個人的な経験がふりかえられている。この人たちも,すでに61歳になっている。感慨無量である。そんななかで,立松和平のことばが,わたしの古い記憶を直撃してきた。かれはつぎのように述懐している。「ぼくは周りでうろうろしていただけだが,あの時代の魂が宿ってしまった」と。自分に正直に生きていこう。集英社の内定を辞退し,作家をめざした・・・,とつづく。このなかの「あの時代の魂が宿ってしまった」という,このワン・フレーズに目眩を感ずるほどの衝撃を受けた。
立松和平氏は,その後,作家としてデビューするまで,地元の役場に勤務したり,あちこち転々とする。でも,「自分に正直に生きていこう」という初志を貫いた。そして,苦労の末に,『遠雷』を皮切りに名作をつぎつぎに生み出した。最近の大作では『道元禅師』(上・下)がある。あの難解をもって知られる道元の『正法眼蔵』を徹底的に読み込んで,その精神・思考・哲学を小説のなかにわかりやすく折り込んでいる。その根底に「あの時代の魂が宿って」いるということを知り,わたしは衝撃を受けたのである。
なぜなら,わたしもまた,「寮生たちの周りをうろうろしていただけだった」が,知らずしらずのうちに,わたしのからだの中にも「あの時代の魂が宿ってしまっている」,とずうーっと感じていたからである。だから,立松和平氏のことばに共振・共鳴してしまった。
長い時間をかけて考えてきたことは,たかがスポーツ史であり,スポーツ文化論にすぎない。しかし,これまでのスポーツ史研究や,スポーツ文化論のよって立つ基盤に,すなわち,思想・哲学的基盤に,大いなる疑問をいだき,不遜にも,それらを超克するための新しい「理論」を求めつづけてきた。そして,遅ればせながら,ようやくにして,その展望がいくらかなりとも開けてきたところだ。この長い長い,そして,カメさんのように遅いわたしの思考を支えてくれたのは,まぎれもなく「あの時代の魂が宿った」からに違いない。この「魂」を大切に生きていきたい,としみじみ思う。これこそがわたしの宝物なのだから。
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2009-06-26 梅若玄祥(六郎)さんのお顔を拝見。
_ 観世流の梅若玄祥(六郎)さんのお顔と上半身が,今日の朝日の夕刊に大きく掲載されていた。追善能をなさるとか。
わたしが,まだ,奈良に移り住んだころに(もう,30年も前になる),梅若六郎の名前が新聞紙上に登場するようになって,なにかと話題になっていたことがある。そのころ,つまり,梅若六郎さんが30歳台のころのお顔は,丸ぽちゃではあったが,かなり締まったお顔をしていたように記憶する。しかし,今日,久しぶりに拝見したお顔はどうしたことか,顎の下にもう一つ大きな顎がある。ほっぺたはパンパンにふくらんで,はち切れんばかりである。からだもまん丸に太っていて,まるで達磨さんのようだ。肩もまるく,お腹もご立派。
わたしはかねがね不思議に思っていたことがある。どうして,能楽師さんには,みごとなまでの肥満体型の人が多いのか,と。もちろん,なかにはきりっと締まった体型の能楽師さんもいらっしゃる。しかし,舞台の主役をつとめられるシテ方に,肥満体型の人が多い,という印象がある。
演じられる役柄にもよるのだと思うが,うら若い女性を演じるシテ方が,超肥満という場面によくでくわす。かわいらしい小面から,ほっぺたがはみ出すわ,顎の下にもう一つの大きな顎(実際には能楽師さんの顎の下の垂れ下がった肉)が丸見え。折角の小面が台無しである。しかも,太ったからだに何枚もの衣裳を重ねているものだから,ますますふくらんでしまって,小面のお面がますます小さくみえてしまう。おまけに,脚力が衰えているのか(年齢によるものなのか,稽古不足によるものなのかは不明),途中でよろけている。こうなると,もう,見てはいられない。高いお金を払って,なにしにきたんだろう,とガッカリする。しかも,名だたる能楽師さんのご出演という呼び込みに惹かれて,でかけているのだ。実際の能楽堂まで足を運ぶことは,そんなにあることではない。その,たまにでかけた能楽鑑賞で,こういう場面に出会うと,なんとも情けなくなってしまう。
まさか,梅若玄祥(六郎)さんはそんなことはないだろうと思うが,でも,お顔と体型だけは,いただけない。
新聞記事をよく読んでみると,おやっ?,と思うことが書いてある。
一つは,以下のようである。転記しておく。
玄祥は世阿弥作の「当麻」(たえま)を演じる。前場で老尼(玄祥)が,当麻寺の曼陀羅と中将姫にかかわる伝説を語って姿を消す。後場で中将姫の霊(同)が登場し,成仏を舞う。後場で早舞を見せる演出が多いが,今回はこれがない。
もう一つは,梅若玄祥の芸の素晴らしさ,特徴,ほめ言葉,といったものがどこにも見られない,ということ。しかも,記者の記名記事である。こういう紹介記事というものは滅多にない。たいていは,ひとこと,ふたこと,その人の芸の味わいのよさということが紹介されているものだ。しかし,それがまったくない。なぜか。
わたしが奈良に住んでいたころには,金春流の能楽を折にふれて見に行ったことがある。もう,そのときから,太った能楽師の舞台はみるに耐えられなかった。むしろ,名前も知らない能楽師さんで,きりっとしまった体型の人のなかに,舞いの力のため方といい,切れ味といい,申し分のない能楽を見せてくれる人がいた。そういうときは,存分に堪能することができた。いいものを見せてもらった・・・と。
やはり,やせ衰えた老婆の面の下に,顎が二つも三つもぶら下がっているのは,鑑賞に耐えない。なんとかしてもらいたい,と思う。
さてはて,梅若玄祥さん。まだ,60歳そこそこだと記憶するが,どのような舞台演出をし,どのように舞って,お客さんを魅了させるのか,わたしには残念ながら想像もつかない。案外,素晴らしい舞いを見せるのかもしれないが・・・・。
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2009-06-30 立松和平さんの『般若心経』
_ 27日(土)大阪で研究会,夜,懇親会,28日(日)豊橋で途中下車,義姉の入院お見舞い,夜,懇親会,29日(月)夕刻に帰宅。
この三日間,ずいぶんと大勢の人に会って,おしゃべりを堪能した。酒の飲み方はほどほどにしているので,まあ,いいのであるが,なんといっても睡眠不足はあとで堪える。もう,夜更かしをやってはいけない,と反省。でも,話し相手がいいと,ついついいつもまも・・・・という悪い癖が直らない。そろそろ,これもきちんとできるようにならないと・・・・。
28日に豊橋で途中下車をしたときに,約束の時間よりも少しばかり早く到着してしまったので,駅前のむかしからある書店で時間つぶしをした。なかなか品揃えもよくて,感心してしまった。むかしは小さな書店であったが・・・・。
何冊か,買いたい本が頭のなかにあったので,それを探していた。まずは,小学館文庫に忌野清四郎の本があることを思い出し,それを探していた。そうしたら,これこそ偶然だったのだが,立松和平さんの『般若心経』(日本最古隅寺版・紺地金泥)が眼に飛び込んできた。本屋さんにいくとよくあることなのだが,本が勝手にわたしの眼に飛び込んできて,「買ってくれ,買ってくれ」という。そういうときは,ほとんど例外なく,わたしは買うことにしている。このときもそうだった。もう,『般若心経』解説本は何十冊と買って読んでいるので,もういいだろうと最近ではそう思っていた。にもかかわらず,手は自然にのびていって棚から引き出している。これぞ「アフォーダンスだな」などと思い浮かべながら・・・。
『般若心経』といえば,どこにでも眼にすることのできる写経のお手本として広く知られている「隅寺版」(日本最古)というのがあって,それが表紙扉の内側に綴じ込みになっている。これを170%に拡大コピーをすると,ほぼ,原寸大になるという。中の解説を読んでみると,ワンフレーズずつ紺地金泥で編集してあり,ごくごく短い立松和平さんの解説がついている。これがまた,まことに単純明快な解説になっていて,すらすらと読めてしまう。これまでに,ずいぶんと変わった解説本も読んできたが,これはまたこれで面白い。いかにも立松和平さんらしい。肩肘はらずに,ごく自然体のまま,ふつうの日本語で語りかけてくる。
本屋で立ち読みのまま,半分ほど読んだら,約束の時間がきていたので,この1冊だけを買って飛び出した。立松さんは『道元禅師』(上・下)を書き上げて,ずいぶん,仏教に関しては腕を上げたなぁ,と感心していたところに,この『般若心経』である。道元さんの書いた『正法眼蔵』と仏説『般若心経』とは,考え方の基本はまったく同じなので,立松さんも楽しみながらこの解説文を書いたと白状している。そして,この解説を書いたことによって,とても気持ちがよくなってきた,という。なぜなら,この『般若心経』そのものが呪文であって,その呪文が素晴らしい呪力をもっているからだ,と立松さんは述べている。空海さんも同じことを言っている・・・と。だから,『般若心経』を写経したり,唱えたりするだけで,気持ちがすっきりしてくるのだ,と。それは,わたしにもいくらか経験があるので,よくわかる。わたしの場合は,歩きながら,突然,死んだ親父や親戚の伯父さん(偉かった坊主),それに祖父母などが脳裏をかすめることがあって,そんなときには『般若心経』を唱えたりする。そうするととても気持ちがすっきりする。やはり,『般若心経』は呪文(真言)なのだなぁ,とおもう。
隅寺というお寺がそのむかし法華寺の一角にあったのでこの名がついた,ということは知っていたのだが,それがいまの「海龍王寺」だということは知らなかった。恥ずかしい。わたしが奈良に住んでいたころには,毎朝,平城京跡を横切って,法華寺の裏をとおり,海龍王寺の山門の前をとおって通勤していた。法華寺は,いまも立派な伽藍があって,それなりの貫祿をしめしているが,海龍王寺は,この寺がどうしてこんなに有名なのだろうと不思議なほど,いまは寂れている。でも,観光案内のパンフレットには大きく紹介されていて,なにか由来があるはず・・・・と思いながら,調べるということもしなかった。が,いまになって,その由来を知り,なるほどと納得。
少しだけ,わたしが新しく知った情報を転記しておくと以下のとおりである。
天平3(731)年,光明皇后の発願によって建立された法華寺境内の角地に建てられたことから隅寺(角寺)の名があります。天平7(735)年に法相宗の僧玄坊(正しくは,日編に方,と書く)が膨大な経典を唐から持ち帰ると,光明皇后はこの隅寺を玄坊に与え,経典の転写を託します。こうして玄坊の主導のもと隅寺はわが国初の本格的な写経所として稼働を開始し,多くの経典を残しました。
というような次第で,なるほど,日本で最初の写経所であった,と。みんな書写をして,経典を日本全国に広めていった,その拠点であった,と。なぜ,このことをもっと門前の看板なり,なんなりに書いて置かなかったのだろう,不思議におもう。あるいは,いまは,しっかり,そのことが書いてあるのかもしれない。
奈良に住んでいると,そんな所があにこちにあるので,そんなにありがたいという感覚もなくなっているのかもしれない。もっとすごいところ,つまり,歴史上の重要人物のお墓が,いつのまにやら新興住宅の土石の下に埋まってしまっていたりする。知らぬが仏とはよく言ったもので,知らないうちは,なんにも考えないで住んでいた人が,新聞で大きなニュースになったとたんに,びっくり仰天して,あわてて引っ越しをしてしまった,などということもよく耳にした。
ああ,こんなことを書いていたら,やはり,奈良はいいところだったなぁ,と思い出す。また,いつか,ゆっくりと歩いてみたいとおもう。が,そんな時間はつくれない。いや,つくらなくてはいけない。そのうちに,肉体的に歩けなくなるのだから。その前に・・・・。
いやいや,その前に『般若心経』を唱えなくては・・・・。
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