Diary


2009-05-01 長篇詩『ごろごろ』を読む。

_ 吉増剛造の長篇詩『ごろごろ』(毎日新聞社刊)を,何日間かにわたって読み繋ぎ,ようやく今日,読み終える。

もともと吉増さんの詩は不思議な詩が多いのだが,この詩集はことのほか不思議な本だ。たまたま渋谷で大きな本屋に飛び込んだら,目の前に平積みになっていたので,自然に手がでてしまった。そのまま,喫茶店に行って人を待ちながら夢中になって読む。なにがなんだかわけがわからないのだけれども,どんどん読ませてしまうのは,いったいどういうわけなのだろう? それが不思議だ。連続性があるようでない,ないようである,そういう文字が並んでいる。

大きな文字の詩のことばと,その行間を埋めるようにして,小さな文字の文章らしきものが連なっている。大きな文字だけを拾って読むこともできるし,小さな文字ばかりを拾って読むこともできる。どちらも連動しているようでいて連動していない。ときおり連動するかと思えば,まったく別の話が進行する。それでいて,全体的にはなんとなく,同じような雰囲気が流れていく。考えても,ほとんどなにも理性的には理解不能なので,できるだけぼんやりとした頭のまま,ぼーっとしながら文字を眺めていると,突然,なにかがひらめきはじめるときがある。そのときは,なんだか電光に撃たれたような衝撃が走る。

なにもわけがわからなかったところ(つまりは,暗黒の空)に稲妻のような光が走り,一瞬,あたりが明るくなる。が,あっという間に,また,暗くなりはじめ,もとの真っ暗闇の中に放り出される。そうして,その真っ暗闇のなかで働くのは耳だけ。詩を読みながら耳を働かせはじめている。そうすると,不思議や不思議,遠くの方から「ごろごろ」という音らしきものが聞こえてくる。それは雷さんの「ゴロゴロ」とはまるで別種だ。地獄の底の方から,はるか遠くの地獄の底の方から,音らしきものが響いてくるような「気」がする。錯覚かもしれない。しかし,なんとなく聞こえているような気がする。

そんな状態で,ぼんやりと文字を追っていたら,突然,「萌(もえ)の襲(かさね)」という文字が,ポツンと書いてあって,それが目に飛び込んでくる。なにかがわたしの頭のなかで蠢きはじめる。ことばの意味がはっきりとは理解できないのに,蠢きはじめる。「萌(もえ)」ということばが,まず,わたしの頭のなかで弾ける。「萌え出ずる」ということが連想され,そこから「萌(もえ)」に連なるイメージがつぎつぎに広がっていく。そうして一段落ついたころになって「襲(かさね)」ということばが,ふりがなの「かさね」とは無縁のところで「襲いかかってくる」。なるほど,「かさね」とは,つぎつぎに「襲いかかってくる」,何回にもわたって「襲いかかってくる」,このことのイメージと同じだ。

ということは,「萌の襲」とは,なにもないところから植物が芽ぶくように,なにかが「萌え出ずる」,つまりは,自分でもわけのわからないなにかのイメージが湧き出ずることが,つぎつぎに「襲いかかってくる」ことを意味しているのだろうか。それすら定かではない。でも,なんとなくそんな気がしてくる。とすると,「ごろごろ」とは,その「萌の襲」の音のことか。なにかが蠢きはじめるときの騒めきか。その音があまりに遠くから聞こえてくるので,ことばにするとすれば「ごろごろ」にしかならない,そんな音。なにかのアイディアが閃くとき,なにかの不安に襲われるとき,なにか自分ではない自分と出会うとき,なにか異次元から聞こえてくる音を聞いたとき,なにも見えない真っ暗闇に立ったとき,深い思考の中に沈んでいるとき,なにも考えないでぼんやりしているとき,見えないなにかが見えたような気がしたとき,突然,わけのわからない夢をみたとき,夢と現実がぼやけてきたとき,自分の存在をまったく忘れているとき,・・・・・,なにかが聞こえてくる。それが「ごろごろ」か。

こんなことを,ぼーっとしながら考えるともなく考えている・・・,いつのまにやら居眠りをしていることに,突然,気づき,われに還る・・・そんなことの繰り返しをしているときに,岡井隆のつぎの詩文が目に飛び込んできて,目が覚める。

裏庭の湿れる道は木戸すぎて

遠い畑へ行かむ

帰国後       (岡井隆)

この詩もまた,なにがなんだかわけがわからないのに,いきなりハンマーで後頭部を叩きのめされたような衝撃が走る。「帰国後」には参った。なんでもない前の2行のあとに,いきなり「帰国後」とくる。地獄の底,真っ暗闇に,うしろから「突き落とされ」たような恐ろしさが襲う。無限の宇宙に投げ出された,というべきか。宙づりである。このとき,はっとなにかが脳裏をよぎる。それがなにであるかはことばにならぬ。それが波状攻撃のように何回にもわたって押し寄せてくる。「ぐるぐる,ぐるぐる」,「グルグル,グルグル」,と。

「萌の襲」

「ごろごろ」

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2009-05-03 「小説は手で書くものだ」(吉村昭)

_ 親しくしているアルシーヴ社の編集者,佐藤真さんが『TASHINAMI』という雑誌をもってきてくれる。

初めてみた雑誌だったので,急いであちこちめくってみる。文藝春秋企画出版部/制作,文藝春秋/発売,とある。そして,編集スタッフの最後のところに佐藤真さんの名前があり,かれのところだけカッコ書きで(株式会社アルシーヴ社)と入っている。変だなぁと思っていたら,その少し上のところに「企画協力 JT」とあった。これで納得である。なるほど,日本たばこ総合研究所の発行している『談』という雑誌の編集長をしているのが佐藤真さんだから,その関係だな,と得心する。それにしても,編集者としての佐藤さんの能力の高さが推し量れるというものである。

しかも,この雑誌(第2号)のなかでは,三浦雅士に「特別インタビュー」し,その文章をまとめている。これがまたなかなか面白い。で,この話を手がかりにして,ずいぶん前にわたしが三浦雅士氏と対談したときのことを書こうと思ったのだが,とんでもないところに話は飛んでしまうことになってしまった。

同じ,この号のトップにあった記事「父・吉村昭を語る」(息子さんの司さんの談話)のなかのたった一つのフレーズがわたしの関心を引きつけてしまったからだ。それはつぎのようなフレーズである。

「司,小説は頭で書くのではない。手で書くのだ」といっていた。アイディアが浮かぶまで待つなんて,そんなの嘘だと。

自分の手首を原稿用紙の上に持っていくのだ,体を机にしばりつけるのだと。そうして書きはじめるのだといっていました。

ここを読んで絶句してしまった。いっとき,吉村作品が好きで,ずいぶんのめり込んで読んだ時代がある。とりわけ,情景描写のすさまじさは,まるで自分がその場に立っているかのような錯覚を起こしたものだ。藤沢周平の情景描写もすごかったが,吉村昭のそれも「鳥肌」ものだった。しかも,この人は多産だった。だから,文章は湯水のように湧いてきて,それをひたすら文章にするだけだったのではないか,と勝手に想像していた。それが,そうではない,というのだ。

「小説は頭で書くのではない。手で書くのだ」と,これだけをとりだしてきて読むと,単なるギャグになってしまいそうだ。いくら頑張ったって「頭では書けない」,と。しかし,ギャグではなくて,本気で吉村昭が言ったというのだから,これはただごとではない。「手で書くのだ」。「自分の手首を原稿用紙の上に持っていくのだ」,「体を机にしばりつけるのだ」となると,ことは尋常ではなくなってくる。すさまじいとしか言いようがない。やはり,身を削るようにして書いていたのだ。

それとも,頭で考えるよりもさきに,手が勝手に動き出す,というのであろうか。特注の,大きい原稿用紙に,細書きの万年筆で,細かな文字をびっしりと埋めていくように書いたという。400字詰めの原稿用紙に換算すれば4〜5枚分はあったのでは・・・という。書いた原稿の全体が見渡せることを好んだからだ,という。ひょっとしたら,自分の書いた文章を眺めていると,自然に手が動きはじめるのではないか。となると,これはまたまったく別の次元の話である。

わたしの知人の面打ち師は,「目が考えて,手が動く」という。つまり,ものの制作にともなう「ポイエーシス」のことだ。自分のつくったものにつくらされる,という逆転現象が起こる。このとき,ものを制作している人の意識はほとんど飛んでしまっている。目と手の共同作業だけが一人歩きして,どんどん仕事を進めて行ってしまう。気がついたときには,大方,できあがっているという。

だから,吉村昭の原稿も,これと同じような次元で書かれていたのではないか,とわたしは想像する。いやはや,名人と言われる人たちのやることは,やはり,どこか違っている。そのレベルに早く近づきたいものではある。いつの日になることやら・・・・。

この雑誌,広告が一つもない。カラー写真がふんだんに使われていて,上質紙でできている。しかも,なかなか読ませる。まことに贅沢なつくりである。それでいて,定価762円。破格の値段だ。やはり,「JT」の強力なバックアップがあるのだろうか。単なる邪推。いやいや,羨ましいような話。

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2009-05-05 男性が学ぶべき女性の更年期問題。

_ ちょっと時間つぶしにと思って入った書店の棚から,工藤美代子の『快楽』(中公文庫)が「買ってくれ」という声を発している。

滅多にはないことなのだが,ときおり,こういうことが起こる。そういうときには,抵抗することなく,素直に手が伸びてカウンターに向かって歩いている。電車に乗って,ペラペラとページをめくりながら,どうしてこの本を買ったのかなぁとぼんやり考えていたら,古い記憶が蘇ってきた。もう,だいぶ前に,どこかの書評を読んでいたこと,それも相当にしっかりした書評子が高く評価していたこと,などなど。

裏扉を確認したら,2004年に『婦人公論』に1年半にわたって連載され,当時から話題となっていたこと,そして,2006年に中央公論新社から単行本として刊行され,2009年2月に文庫化された,とある。

この本のサブ・タイトルは「更年期からの性を生きる」である。ちなみに書名の『快楽』は「けらく」と読ませている。工藤美代子といえば,『ひとり寂しき双葉山』を書いたノン・フィクション・ライターである。わたしとの出会いはこの本が最初であった。双葉山が名横綱であったというまぼろしの伝説をことごとく突き崩す,迫力満点の作品であった。それもそのはずで,だれも語らなかった双葉山の実像を,実際に生の双葉山と直接,接触のあった生存者を訪ねあるいた豊富な取材をもとに,もののみごとに浮き彫りにしているからである。

その情報源のポイントとなったのは,著者工藤美代子の祖母である。このおばあちゃんなしには,この本は生まれなかっただろう。このおばあちゃんの旦那さんは,むかしの蔵前国技館のまんまえで写真館を営んでいて,もっぱらお相撲さんの写真を撮って生計を立てていた人である。だから,おばあちゃんはむかしの相撲のことに関しては「生き字引」のように記憶している。しかも,だれにも語れないような秘話を。このおばあちゃんが長生きしていたので,工藤美代子は双葉山全盛時代の話を何回も聞かされていた。そして,取材網も,このおばあちゃんの知り合いの生き証人を訪ねあるくというめぐまれたバックグラウンドを持っていた。だからこそ,なしえた仕事であった,とわたしは受け止めている。

ついでに,余談であるが,工藤美代子の父親はペースポール・マガジン社を起業した初代社長で,彼女の姉は猪谷千春の奥さんである。

さてさて,本題にもどらないと,このブログが終わったしまう(時間切れ)。

結論から言っておこう。この本は,女性よりも男性が読むべき本だ,ということだ。なぜなら,この本を読んだわたし自身が,女性の更年期問題について,いかに間違った認識をしていたかということを思い知らされたことと,男性が女性の更年期という問題系について,しっかりとした認識と理解をもっていないかぎり,抜本的な問題解決にはならない,と感じたからである。つまり,問題の根源にあるのは「男と女」の関係性だ,とわたしは受け止めたからだ。すなわち,「セックス」という男女の共同作業を単なる反復に終わらせるのではなく,差異のある反復,「ときめき」のある反復を創造することにある,と。

これまでの更年期問題に関する情報が,あまりに「医学的」なものに偏りすぎていて,女性のだれもが通過しなければならない「自然現象」であるかのように,巷に流布されてきた経緯がある。だから,50歳前後の女性の,たとえば,自律神経失調症のような症状は必然のものであって,医者の手にゆだねるしか方法はないかのように考えられてきた。少なくとも,わたしの認識はその程度のものでしかなかった。しかし,この本を読むと,そうではないことが次第に明らかになってくる。

わたしが理解していた更年期問題は,「医学」という光に照らしだされた病的な「症状」のみであって,その裏側にある「影」の部分については,まったくの無知であった。しかし,重要なことはこの「影」の部分に横たわる大問題をいかにクリアするかにある,とこの本は告発する。そのための「証言」を,工藤美代子の得意の取材をとおしてかき集め,更年期を迎えた女性たちのほんとうの「悩み」を浮かび上がらせていく。

それは「性」との折り合いのつけ方にある,と工藤美代子は断言する。ただし,この「折り合い」のつけ方には個人差があって,決め手がない,ということが根源的な問題だ,という。工藤美代子の問題提起はここで終わっている。しかも,「わたしは小心者で,古い人間だから」とみずからを合理化して,それ以上には踏み込もうとはしない。それでいて,ちらりと「不倫をしている女性には更年期問題はほとんどみられない」と「証言」の結果をまとめている。

ここで時間がきてしまったが,あと,ひとことだけ述べておく。それは,古い日本の伝統社会から引きずっている,女性に対する「抑圧」との闘いであり,その「抑圧」からいかにして「離脱」し「移動」するか,つまりは,新しい男女の関係性についての「21世紀」的な「倫理」を創造していくか,という問題にゆきつく,とわたしは考えている,と。

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2009-05-07 泣けた泣けた,堪えきれずに泣けたっけ。

_ タイトルは三橋美智也のヒット曲のひとふしである。とはいえ,このひとふしがわかる人の方が少なくなってしまったかもしれないが・・・。

重松清は罪な男である。以前から読もうと思って買っておいた『その日のまえに』(文春文庫)を,なにげなく読みはじめた。これがとんでもない小説だったのである。もう涙が止まらないのである。瞬間泣き,ということを初めて経験した。なにげない日常生活が描かれていて,だんだんと深刻な話になり,あれあれと思っているうちに,ある決めゼリフにであった瞬間,嗚咽してしまう。声をあげて泣いている自分にびっくり仰天である。もう,こうなったら文字を追うこともできないまま,嗚咽する自分に身をまかせるしかない。こんな経験は久しぶりのことだ。しかも,小説を読んでいての経験は,おそらく初めてではなかろうか。

この本には,短編が4編,そして,少し長いものが1編が収めてある。だから,最低,5回は号泣することになる。しかし,実際にはもっともっと回数は多くなる。一度,ゆるんだ涙腺はとどまるところを知らぬ状態に持ち込まれてしまう。どうやら,重松清はそれを計算しつくして,この短編小説集を編み直したようだ。なぜなら,前半の短編小説が,最後のやや長篇と連動していて,みごとに完結しているからだ。

もともと,重松清の小説は,小中学生の子どもと父親の関係を描いた,いわゆる教育小説という筋立てが多い。あるいは,中年になった主人公が,久しぶりにお里帰りをして,母校を訪ねて懐旧の情にひたる(そこから,むかしの青春時代を回想しながら,小説世界が展開する)というようなものを得意としている。だから,きわめて健全な,文部科学省のご推薦がいただけるような,あるいは,夏休みの推薦図書に真っ先にあげられるような,とても明るい小説が多い。

そして,なにより文体がいい。きわめて明解で,テンポがよく,するすると人のこころのなかに滑り込んでくる。情景描写も心理描写も,そして,ちょっとしたわさびを効かす描写もうまい。じつにうまい。こういう明解な文章は読んでいて心地よい。だから,失われた青春時代がますます美化されて,記憶のかなたから呼び戻されてくる。だから,読みはじめたら最後まで読まないと収まらない。困った人である。

それが,今回の『その日のまえに』では,一転して,「泣かし作戦」にでた。だから,手に負えない。泣いて泣いて,泣き尽くすまで付き合わされてしまう。重松清がこの手の名手であるとは知らなかった。

小説の内容については触れない方がいいだろう。直接,読んでもらった方がいい。だって,涙腺を刺激する場所もストーリーも,一人ひとり違うはずだから・・・。

で,このブログで言いたいことはなにか。

人が死と直面したとき(この小説では,大半が癌の告知),その当人と家族は,はじめて直に向き合うことになる。それまでの平和なのどかな生活とはまったく違った「触れ合い」がはじまる。急転直下のはじまりである。日常性から一気に非日常性への突入である。そして,その直の「触れ合い」がはじまるやいなや,重松清の文章がわたしの涙腺を一気にゆるめてしまう。だらしがないほど「ユルユル」になってしまう。ときには,大きな声で嗚咽している。声を出すまいとしているのに・・・・。

いまになって,冷静に考えてみると,いろいろのことが思い浮かんでくる。

たとえば,戸井田道三のいう「日常生活は演技」だという主張。竹内敏晴さんのいう「じかに触れる」ことの意味。西田幾多郎の「行為的直観」「純粋経験」。バタイユの「エクスターズ」(恍惚)。ベンヤミンの「陶酔」。今福龍太氏の「ミニマ・グラシア」。柏木裕美の「目が考え,手が勝手に動く」世界。トップ・アスリートが経験する「からだが動く」。李自力のいう「自分が自分ではなくなる」太極拳の世界,などなど。とどまるところを知らない。これらはすべて「同根」ではないか。

戸井田さんは,日常生活といえどもなんらかの「抑圧」を受けているので,その結果としての日常の行為・動作はすべて「演技」だと断言する。つまり,意識が無意識化された「演技」だという。だから,この「抑圧」からいかにしたら人びとを解き放つことができるのか,と問いかける。これが「日本人の遅れた性格」からの脱出方法だ,と。あるいは,真の人間を取り戻す方法だ,と。それができないので,人びとはみんな「仮面」を被って「演技」をしているのだ,と。「能面」とはその象徴的な存在である,と。だから,戸井田さんは,人びとがつけている「能面」をひっぱがして,コッパミジンに粉砕したい,と『能藝論』の最後を締めくくる。

竹内敏晴さんのいう「じかに触れる」体験も同じところから発している,とわたしは考える。現代を生きるわたしたちは,なんらかの「能面」をかぶらなくては生きてはいけない,きびしい情況に囲まれている。そして,いつのまにか,その「能面」にからめ捕られてしまって,やがて,自己を見失ってしまう,あるいは,声を見失ってしまう,滑らかな動作・行為ができなくなってしまう。そこからの脱出が竹内レッスンの中核をなしているのだううとわたしは受け止めている。そのための一つの方法が「じかに触れる」というレッスンなのであろう。

荒川修作はもっと過激に,「転ぶ」経験を重視する。「転ぶ」ことによって自己が自己の「外に」とびだしてしまう,そういう経験を意図的にさせようとして「建築する身体」を考える。

あとの人たちのことは,ひとまず措くことにしよう。これまでにも何回も書いてきているので・・・。

そこで,この「転ぶ」や「じかに触れる」体験を,重松清は小説をとおして「実験」してみようと考えている,としかわたしには思えない。まさに,小説の登場人物たちは,お互いに「じかに触れ合う」ことによって,お互いの理解を深め合っていく。つまりは,他者を発見し自己を発見していく,他者を発見していく。その瞬間に立ち合ったとき,わたしは号泣している。「泣く」という体験もまた「じかに触れる」体験の一つなのだ。「転ぶ」という体験と通底しているのだ。

ここで時間切れ。あとはメモ風に。

今福さんのいう「ミニマ・グラシア」も,ここに繋がっているようにわたしは考える。『ブラジルのホモ・ルーデンス』の根底にある発想も,ここに繋がっているように思う。このようにして,サッカー批評のための「陶酔論」がもつ根拠が,次第に浮き彫りになってくる。このあたりのことを,5月16日(土)にどこまで論ずることができるか,楽しみではある。

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2009-05-08 「戦争とイーリアス」再読。ドキドキを求めて。

_ 今福さんの本『ブラジルのホモ・ルーデンス』の合評会が近づいてきて,少しずつ心拍数が多くなってきた。いい感じ。

明日の夜は,青山ブックセンターで,今福さんと吉増剛造さんの対談が予定されているので,今日の午前中にチケットを確保(インターネットで)。内容をチェックしたら,今福さんの『身体としての書物』の刊行を記念しての企画だそうで,いまのわたしには絶妙なタイミング。どんな話の展開になるのか,ドキドキ。もっとも,今福さんと吉増さんとが話をはじめたら,お二人とも,ある意味では「宇宙語」を語る人たちなので,不思議な会話になるのでは・・・・と,それも楽しみの一つ。

終わったあと,お二人のサイン会があるというので,わたしも何冊か本を持っていって,並ぶつもり。ミーハー気分を堪能してみたい。これもまた,不思議なドキドキ。

これからの人生は好んで「ときめき」のチャンスを求めていくことにしよう。男の更年期にも,それが特効薬であるはず。

『身体としての書物』も,よく読んでみると,やはり『ブラジルのホモ・ルーデンス』とリンクしていて,書物をとおして「世界」を考える仕組みになっている。今福理論に基づけば,人間が「世界内存在」であるかぎり,あらゆる「生の営み」そのものが「世界」とは不分離である,ということになるのだろう。だから,書物も,ただ,モノとして存在するだけではない。あるいは,特定の情報を提供するだけのものとして存在するのでもない。それが,実際に生きている人間にとっていかなる意味をもっているのか,が問われる。つまりは,「生の充実」にとっていかなる意味をもっているのか,が重要なのだ。サッカーも同じ。

で,このところずっと気になっていた『ミニマ・グラシア』の中の一編である「戦争とイーリアス」を再読してみた。一回目よりも二回目の方がはるかに多くのメッセージがとどいてきて,またまた,別のことを考えなくてはならなくなってきた。知るということは,つねに,自己変革をともなうものだ,とどこかで読んだ記憶(たしか,西谷さんの本)が蘇ってくる。だから,読むたびに「知る」ことが違う。いいことだ。しかも,そういうときには必ず「ドキドキ」感がある。

今回のドキドキは,まずは,冒頭のショート・センテンス,「軍神(アレス)は公平だ。彼は殺すものを殺す。──ホメーロス『イーリアス』

しばらく,この文章を反復して読み直してみた。あまりに単純にすぎて,「公平」の前で目眩を起こしてしまう。「殺すものを殺す」ことが,どうして「公平」なのか。こういうセンテンスは理性で読んでしまったら駄目だ。理性を捨てて,何回もお経のように繰り返す。あるいは,呪文のように繰り返す。すると,突然,なにかが弾けたように飛躍して,世界が一変する。ホメーロスは,ひょっとしたら,このことを戦争好きの古代ギリシア人に向かって伝えたくて,『イーリアス』なる英雄叙事詩を編んだのではなかろうか,と閃く。ドキドキ。

古代ギリシア人の戦争好きはつとに知られているとおりである。だから,それを皮肉って,アリストパネスは『女の平和』を書いた。男たちが戦争ばかりするので,戦争を止めなければ夜のお相手はしないと,つまりは「セックス・ストライキ」を打って砦のなかに閉じ籠もってしまう,というお話である。男たちは戦争からもどってきても女たちが閉じ籠もってしまっているので,どうにもならず,仕方なしに「もう二度と戦争はしません」と誓約させられる。

つまり,古代ギリシアにあっては戦争が日常化していたのである。だから,そんな馬鹿げたことを繰り返していてはならない,ということを教訓として教えるためにホメーロスはこの短いセンテンスを『イーリアス』のなかに書き込んだに違いない。「軍神(アレス)は公平だ。殺すものを殺す」と。

そして,重要なのはここからだ。

「殺すものを殺す」・・・これが「神の恩寵」なのだ。古代社会には,こうした「神の恩寵」が機能していた。実際に意味をもっていた。だから,人びとは,ことあるごとに神に祈りを捧げた。ところが,不遜な人間は,近代にいたると,神の恩寵をいただくための「神への祈り」を忘れてしまった。つまり,「祈り」には科学的な根拠はない,という理由で。この現実に直面したニーチェは,たまらず「神は死んだ」と警告を発した。にもかかわらず,不遜な人間は「科学的知」に命を捧げることになってしまった。その到達点がこんにちの「世界」の姿である。

勝つことしか知らない帝国が現れて,みずからを「正義」と名乗り,一方的に「殺す」ことを繰り返す。そこに良心の痛みのひとかけらも感じない「野蛮人」が世界を闊歩しはじめた。そこには「神の恩寵」が機能する余地はまったくない。それに引き換え,「神の恩寵」をいまも信じて生きている人たちは,みずからの命と引き換えに他者の命を頂戴する。ジハード。聖なる戦い。聖戦。そこにしか神の恩寵を見届けることができない,こんにちの「世界」のあり方にこそ大きな問題がある。いま,「正義」を名乗る人びとに,少しでも目覚めてもらうための,最後の手段。しかも,最終兵器としての「人間の身体」。最小限の「恩寵」。「ミニマ・グラシア」。

シモーヌ・ヴェイユが,やせ細ったインテリの女性が,からだ一つを武器にしてスペイン戦争に参加する,その決意。実際にも,銃を手に,空飛ぶ戦闘機に向かって空砲を撃つ。死を覚悟しての,世界中から集まってきた素人集団,義勇軍に身をまかせていく,その決意。最高のレベルの「ドキドキ」。もはや,神にみずからの身をゆだねる以外になんの支えもない,最終の決意。まさに「神の恩寵」だけを頼りに。ひとりの人間がなしえる「ミニマ・グラシア」。

21世紀を生きるわたしたちは,科学万能主義に毒されたまま,この「神の恩寵」をせせら笑い,無視する。ましてや,「ミニマ・グラシア」おや。みんな「わが身」だけが可愛くて,他者のことなど視野にもない。勝ち誇ったものたちは,負け犬の存在を自己責任の名において当然のごとく見捨てて平然としている。それが「世界」の現実なのだ。

ここまで,思考が進んだところで,ようやく,冒頭にあるもう一つのショート・センテンスがわたしの頭のなかで爆発する。

「なぜわれわれは,つねにもっとも愚鈍な知覚の段階までレヴェルを下げ,それを分別と呼んで褒め称えるのだろうか? ──H.D.ソロー『ウォールデン』。

『ウォールデン』は湖の名前,日本語訳では『森の生活』(岩波文庫)。この本をわたしは「文学にみるスポーツ」で取り上げようと何回も試みたが,どうしても掌握できなかった。断片的にはいくつも面白い描写があって,なんとか原稿が書けそうになるのだが,ソローという人物の考えていることの根底にあるものがどうしても見えてこなかった。だから,どのように解説を加えたらいいのか手がでないのである。

この本を読んだので,ようやくソローという人物像がはっきりしてきた。こんど読めば,もう少しは『森の生活』を理解し,そこに描かれている「スポーツ文化」の現像を解説することができるだろうか。ドキドキする。

時間オーバー。ここまで。

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2009-05-10 Gozo cine の映像を初めてみる。

_ 吉増剛造氏の制作する「Gozo cine」なるものを初めて「みる」。この「みる」に,どの漢字を当てはめたらいいのだろう,と考える。

今福龍太さんの『身体としての書物』(東京外国語大学出版会)の刊行を記念して,青山ブックセンターで,今福龍太×吉増剛造のトークショウが昨夜行われた(18:00〜20:00)。わたしにとってはまことにタイミングのいい企画で,『身体としての書物』の醸しだす摩訶不思議な今福ワールドに対して,詩人の吉増剛造さんがどのように応答するのか,そこのところが知りたかった。その夢がみごとに叶った。嬉しかった。また,一つ,わたしのなかの思考のレベルが深まったように思う。「知る」ということが,自己変革をともなう知的体験だとすれば,まさに,自分にとっての未知の新しい「世界」を「知る」自己変革というべきものであった。

その内容をすべて語ることはとても不可能なので,その,ほんの一端を書き留めておきたいと思う。

その一つは,吉増剛造さんが作成したばかりの映像「Gozo cine」を上映(16分39秒)して,それについて語ったことがらだった。それに応答する今福さんのことばが,これまた大変なものであったのだが,それはひとまず措くことにしよう。

この映像なるものが,一見したところ「わけのわからない」作品になっている。まずは,スクリーンに写し出される映像そのものが,みていてなんのことかさっぱりわからない。それもそのはずで,二重,三重露光を繰り返して撮影された映像は,綺麗な新緑のやなぎの若葉がゆらゆらと揺れている映像と,走っている車の中から前方を撮影した町並みの景色と道路と,あとはなにやら判明しない影というか光というか,そういうものが交錯している。その映像のバックには音楽ではなくて,前夜行われたという唐十郎と吉増剛造さんとの対談がぼそぼそと聞こえる。しかも,なにを言っているのかは精確には聞き取れない。その上に,車を運転している吉増剛造さんの独り言(その瞬間,瞬間に閃いたことば)がかぶさる。さらに,なんだかわけのわからない声がときどき聞こえる。

この映像をみながら,吉増剛造さんが,そのときに思いついたことがらを解説風に語る。この語りがまた,吉増剛造さんの,その瞬間に湧きいでた詩人の直観にもとづくことばである。だから,みていてますます「わけがわからなくなる」のである。しかし,それこそが「Gozo cine」のねらいどころであって,人間が日常的にものを「見る」という行為の欺瞞性を徹底的に洗い出そうとしている,ということはこのお二人の対談が終わるころになって,ようやくわかってくる。

帰宅してから,もう一度,この映像のことを思い出しながら,一つずついろいろのことを確認をしてみる。その一つに,この映像のなかで唯一現れる「文章を朗読する」場面がある。それは,今福さんの『身体としての書物』の122ページの文章である。その文章を引いてみよう。

・・・・旅のはざまである場所にとどまることによってそこが住み処となる,という過渡的で一時的な「居所」を意味しています。デリダはこの住み処を砂漠の言葉でつくられた「軽いテント」である,と論じていました。

というものである。この場所をアップで,しかもフリー・ハンドで撮影しているので画面はゆらゆら揺れ動く。のみならず,撮影している吉増剛造さんのからだの影まで写っていて,ところどころ影になっている。しかも,行の下まで到達したカメラがゆらゆらとさまよいながらつぎの行の頭を探しながら上に上がっていく。この文字を追いながら,撮影している吉増剛造さんが「朗読」しているのである。その「朗読」がまた面白い。

ゆっくりと,つっかえながら読んでいく。たとえば,以下のようである。

「・・・た,び,旅,のは,ざ,ま,である場,所,に,と,ど,まる,ことによって,そ,こ,が,住み,ど,こ,ろ,す,み,か,となる・・・」

といった具合である。このシーンが,また,別の意味で感動的だった。本を読むということがどういうことなのか,ということをしみじみと考えさせられたからである。このことは,また,いつか,このブログで書いてみたいと思う。さきを急ごう。

このデリダのことば「軽いテント」に触発されて,この映像の撮影を試みていることが,対談の流れのなかでわかってくる。しかも,撮影の前の夜に対談した唐十郎の「赤いテント」のイメージが「電光のように一気に繋がり」,「これだっ!」と直観したと吉増剛造さんは言う。だから,この映像のタイトルは「赤いテント,軽いテント,今福龍太に捧げる」となる,と。

さて,ここからが問題である。なぜ,このような映像を吉増剛造さんが撮影し,今福さんに捧げる,ということになるのか。

わたしの到達した結論から言ってしまえば,この映像こそが,吉増剛造と唐十郎とデリダと今福龍太をつなぐ「光」だ,と吉増剛造さんの頭のなかで浮かび上がってきたイメージなのだろう,ということだ。わたしたち凡人は,実際に目の前にあって,そこに「みえている」ものだけが現実であって,それらとの関係性のなかで生きていると信じて疑わない。しかし,デリダが提唱した「差延」という概念は,まさに,いつものように目に触れる事物を少しずつずらしながら別のものと認識することが「生きる」ということの本質であって,それがなくなってしまうと,単なる「反復」になってしまう。それこそがマンネリ化の根源であって,マンネリ化した日常はもはや真に「生きている」ということにはならない。だから,「差異」のある「反復」を,という発想から「差延」という概念をデリダは構築する。

おそらく,吉増剛造さんは,その発想をさらに先鋭化して映像化を試みているのだと思う。つまり,わたしたちが日常的にみている景色はこの映像のように「わけのわからない」ものにすぎないのだ,と。その証拠に,日常的に眺めている景色のほとんどは記憶に残っていない。残っているのは,点と点を結ぶような程度のものであって,きわめて断片的なものでしかない。なにかをみているようでいてじつはなにもみてはいない。その間,目の前の景色とはなんの関係もないまったく別の世界のことを思い浮かべたりしている。それらは,まったくなんの脈絡もなく,あっちへ飛び,こっちへ飛びして,自由自在に頭のなかを駆けめぐっている。だから,そのときの視覚に写っているものはこの「Gozo cine」のような「わけのわからないもの」に違いないのだ。つまり,ほとんど意味のない情報として流れ去っていくだけのものだから。それだからこそ,人はどこかに「住み処」をもとめることになる。それが,唐十郎であれば「赤いテント」であり,デリダであれば「軽いテント」であり,今福龍太であれば・・・?という投げかけが,この「Gozo cine」の仕掛けではないか,とわたしは受け止めている。もちろん,もっともっと,詳しく検証する必要があろうかとは思う。だが,昨夜みた映像と,お二人のトークからは,そのようにわたしにはみえてくる。

蛇足ながら,このお二人のトークや映像には,全員が共有すべき合理的な「結論」などというものはない。なぜなら,お二人の目指すところは,あくまでも,ヨーロッパ近代の目指した「合理主義」とは正反対のベクトルをもつものだからだ。もっと言っておけば,近代の生み出した制度や組織や文化をいかにして突き破っていき,まったく新しい「文化」の生産にたずさわるか,というところにあるからだ。この点で,わたしの近代スポーツ批判とつながっていく。だから,お二人のお話は興味津々であった。

またまた時間切れ。このところ書きたいことが山ほどあって,いつも,時間切れになってしまう。でも,ありがたいことではある。こういう日々を重ねたいものである。「萌の襲」(もえのかさね)(『ごろごろ』吉増剛造著より)。

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2009-05-11 『アーキペラゴ』を読む。

_ 今福龍太×吉増剛造の共著になる『アーキペラゴ』(岩波書店)を読み終えました。なんともはや,不思議な浮遊感にただよってしまい,このわたしはどこに行こうとしているのやら,という感じです。

この本は,9日の対談の折に,購入し,お二人にサインをしてもらった本です。以前,書店でみて読解できなかった本が,こんどはスルスルとからだに染み込むように入ってくる,という不思議な体験をすることになりました。しかも,いま,読み終えて感じているのは,不思議な「浮遊感」です。世俗の現実の感覚からは遠いところに連れ去られてしまい,この世ならぬ非現実の世界をさまよい歩いているような,しかも,足が地についていない,空中遊泳のなような感覚です。よく,夢のなかで空中を飛ぶことがありますが,それもいとも軽やかに飛べるときの夢のような感覚です。お二人のお話が,どんどんわたしをそういう世界に引きずりこんでいくようです。これでいいのかなぁ,といささか不安にもなってきます。

これは,ひょっとしたら,9日の打ち上げの懇親会で,吉増さんと写真を撮るときに,どういうわけか吉増さんに両手をしっかりと握られてしまい,顔写真だけではなく,両手だけを別に撮れ,と吉増さんの注文もあって,そういう特別の撮影が行われました。ひょっとしたら,この両手をとおして吉増さんの「なにか」(etwas)がわたしのからだの中に入り込んだのではないかな,と思ったりしています。そういうものを感じさせる人なんです。吉増さんという人は。詩人の直感力の鋭さというものが,隣に坐って話をしているだけで,ビンビンと伝わってきます。わたしが,ごく普通に話をしていても,時折,「それは光だ」「いま,あなたのなかに光が入りました」というような相槌を打たれ,つぎに言うべきことばを忘れてしまったりするほどの衝撃を与えられます。

こんどは,今福さんとの対談を読んで,ますます吉増さんという人の摩訶不思議さが,スルスルとからだの中に入り込んできています。だから,読み終わったときには,吉増さんと一緒に空中散歩をしているような気分になっていました。この感覚はなんなのだろう,とずっと考えてしまいそうです。たぶん,もっともっと密接な関係を保ちつつ考えることになるのだろうなぁ,という予感すらします。喜ぶべきか,悲しむべきか・・・・。でも,こういうレベルの人たちの考えていることに共感,共鳴できる,いまのわたしは幸せだと思います。そして,どこまで追っかけをすることができるのかなぁ,と夢見ています。とりあえずは,吉増さんの詩はともかくとして,エッセイはとても鮮明な文章ですので,ぜひ,追っかけて読んでみたいと思っています。このことが,なんと,今福さん理解につながるのですから,ありがたいことです。このお二人は,ほんとうに希有ではないかと思われるほど,身体の深いところで共振,共鳴し合っている,ということがこの本をとおして伝わってきます。

たとえば,この本の帯には,つぎのようにあります。

世界を,群島として解き放つ,新しい思想の誕生!

未生の言語,身体,文化と応答する,詩人と人類学者の16年にわたる対話

という具合です。この本がでたのが2006年ですので,さらに3年を加えると,もうかれこれ20年という歳月がお二人の交流の間に流れています。そして,その延長線上に,9日の対談があるわけです。ですから,お二人の呼吸のいいこと,聞いていても快感でした。詩人のひらめきを今福さんが上手に拾いながら問題の整理をし,しかも,詩人を挑発していく・・・。ですから,つぎからつぎへと弾けるように話は展開していきます。しかも,詩人はしばしば,「いま,瞬間的に閃いたのだけれども・・・」という具合に,まさに「いま,この瞬間に」わき上がったイメージを,そのまま今福さんにぶっつけていきます。それをしっかりと受け止めながら,もっとラディカルに問題を投げ返す,この今福さんの応答力が素晴らしい。

この応答力は,この本のなかでも存分に発揮されていて,このお二人の感応し合っているレベルの近さを感じさせてくれます。

この本の裏がわの帯にはつぎのようにあります。

・・・そうした人間の情力,多島海性みたいなもの,矛盾の力が呼びかけるものによって,世界が変わるということがあるんですね。──吉増。

・・・群島は,時間に縛りつけられた歴史を空間に拓いてゆくときの精緻な思考の手ざわりのヴィジョンなのでしょうね。──今福。

これだけで,もう,このお二人がなにを考えているかは一目瞭然です。ヨーロッパ近代が到達した「世界」がもはや臨界点に達した以上,そこからの脱出の糸口を見いだすこと,それこそが喫緊の課題であることを強く意識して,話を展開していきます。そして,ヨーロッパという「大陸」に対して,非ヨーロッパという「群島」を補助線にして,もう一度,人間が生きるとはどういうことなのか,という根源的な問い直しをしていこうという意図がはっきりしています。ですから,言ってみれば,グローバリゼーションに対する徹底したアンチ・テーゼを提起していることになります。

ですから,いまのわたしにとっては,お話のすべてが21世紀のスポーツ史研究やスポーツ文化論を展開する上での,きわめて重要なヒントを与えてくれるという次第です。それにしても,このお二人の視野の広さと,その思考の深さには気が遠くなる思いがします。でも,なんとしてもそこに接近することなしには,「世界」を語ることはできません。

ここに至って,今福さんのいう「サッカーを批評することは,世界を批評することだ」というテーゼが重くのしかかってくることになります。わたしたちは,いかに,「世界」ということを視野の外に置いたまま,自己満足的なスポーツ史研究やスポーツ文化論の領域でマスターベーションをしてきたか,ということに気づき,ただ,ただ,恥じ入るばかりです。

こうなってくると,16日の合評会が空恐ろしくなってきました。困ったものですが,仕方ありません。まだ,若干の時間がありますので,なんとか稔り多い合評会になるよう,努力する以外にありません。

ちょうど時間となりました。お休みなさい。

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2009-05-12 『群島−世界論』を購入。

_ 『アーキペラゴ』を読み終えたら,なにがなんでも『群島−世界論』(岩波書店,2008年刊)が読みたくなり,書店に走る。

わたしの住んでいる溝ノ口にもかなり大きな書店があるのだが,そこには置いてなかったので,渋谷まで走る。こんなことなら,9日の対談があった日に一緒に買っておけばよかった・・・とボヤく。そうすれば,サインを貰えたのに・・・と。でも,こんなに必死になって本を買いに走るのもいいものだ。久しぶりの快感が蘇ってくる。

もちろん,この本を読むのは,こんどの16日に備えてのことだ。今福さんが,「サッカーを批評することは,世界を批評することだ」と高らかに宣言していることの意味を,もっと掘り下げて考えておく必要がある,と閃いたからである。つまり,サッカーを批評することと同列に並ぶ批評の対象となる「世界」とは,どういうものなのかを知りたい,と。もっと言ってしまえば,「世界」認識のレベルが違えば,それに応じて「サッカー批評」のレベルも違ってくるからだ。だとすれば,今福さんの「世界」認識とはいかなるものなのか,ということが問題になってくる。

そこで,いつものように本の帯のコピーを丹念に熟読玩味してみる。表紙の表には,「<世界>を<群島>として再創造する新たな思想の誕生!」と大書してある。このコピーは,昨日,読んだ『アーキペラゴ』のコピーと同じなので,すんなりと理解できる。そのあとに,ウィリアム・フォークナー,エドゥアール・グリッサン,ラフカディオ・ハーン,島尾敏雄,ジャン・グルニエ・・・などという人たちの名前がずらりと並んでいる。これだけで,もう,圧倒されてしまう。でも,なかには,わたしも興味をもって追っかけているベンヤミンやル・クレジオの名前もあって,どんな風に登場するのかドキドキする。

表紙裏側のコピーはつぎのようである。

海洋交通によって開けた「近代」という前進する歴史の逆説。海を統括することで大陸原理による世界支配を数世紀にわたって続けた国家の逆説。それらを痛苦とともに負って,歴史を海の姿に反転させること。陸上に具現された秩序や体系ではなく,海面下に沈められていた統一と共鳴関係を歓喜の記憶の波打ち際に浮上させるために。

これを繰り返し読んでいると,荒川修作がいう「天命反転」の考え方と通底していることがわかってくる。海洋交通によって開けた「近代」とは,たとえば,コロンブスによるアメリカ大陸発見(?)以後のヨーロッパ「近代」と読み替えることができる。この「近代」は前進する「歴史」を構築したけれども,その「逆説」をめざすのだ,という。つまり,進歩発展史観から解放された,別個の論理にもとづく「歴史」あるいは「物語」の構築をめざす

,という。すなわち,海を支配して世界に君臨することになったヨーロッパ先進国の,いうならば「大陸原理」による「世界支配」からの脱出をはかること。ということは,「歴史」を大陸の姿から「海の姿」に「反転」させる,ということ。荒川のいう「天命反転」と同じ。大陸原理が登場する以前の海の原理,あるいは,「群島」の論理にもとづく「統一と共鳴関係」を,歓喜の記憶の「汀」に浮上させるために,と。

ここに登場してくる論理仮説は,今福さんの考える「群島−世界論」のほんの一部にすぎない。それでも,うっすらと,今福さんのめざす「群島」の論理から「世界」を再構築しなおすという構想が浮かび上がってくる。こういう,今福さんの夢見る「世界」と「サッカー」の原風景とがリンクしているはずだ。ここのところを確認するためには,どうしてもこのテクスト『群島−世界論』をきちんと読み切っておくことが不可欠になってくる。ここが明らかになれば,あとは,こんにちの「サッカー」がいかにこんにちの「世界」と類似した論理と形態をもつにいたったかも自明のこととなろう。

残りわずかな時間だが,とりあえずは,挑戦するのみ。

では,今夜はこの辺で。

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2009-05-15 日馬富士,絶好調。

_ 大関3場所目にして,ようやく日馬富士の相撲が安定してきた。動きがいい。本来の相撲が土俵にもどってきたという感じ。

なによりいいのは,立ち合い。迷いがない。以前のように,どんな相手にも真っ正面から当たり,真っ向から攻めたてる。そうしておいて機をみて,いなしながら得意の組み手に持ち込む。こうなれば,あとは自由自在である。今場所の日馬富士は楽しみである。

この日馬富士の好調ぶりを横目でみながら,一抹の不安をいだいているのが白鵬だ。以前から,苦手意識があって,星も五分のはず。ひょっとしたら日馬富士の方が勝っているかもしれない。日馬富士のスピードに幻惑されるのだ。今場所,どんな展開をみせるか大いに楽しみである。

うまくいけば,千秋楽まで,朝青龍,白鵬,日馬富士が競り合っていくだろう。また,そうなってもらわないと困る。なぜなら,簡単に白鵬が2連覇をはたし,連勝記録を更新する,などということになると,朝青龍の進退問題が浮上してきてしまう。そうはならじと日馬富士が割って入ってきて,日馬富士が優勝をさらう,というような展開になると素晴らしい。わたしにとっては絵に描いたような大相撲の展開となる。

そうなれば,しばらくの間は,モンゴル出身3力士による「新時代」が構築されることになる。その意味では朝青龍にも,根性を出してほしい。相撲は気力がどれほど大事かということを見せつける意味でも。そしてなによりも,朝青龍にはもう少し横綱でいてほしい。そして,こういう横綱もあるのだ,ということを横綱審議会の委員たちにみせつけてやってほしい。これが,現代の若者のひとつのスタイルでもあるということを知ってほしいからだ。そして,大相撲も横綱も時代とともに変化・進化するものだ,ということを周知させるためにも。

同じモンゴル出身力士でも,それぞれにスタイルが違う。タイプが違う。その違う個性にますます磨きをかけて,それぞれのタイプの相撲を完成させてほしい。朝青龍は,あの個性として,このような相撲を完成させたのだ。だから,横綱になれたのだ。しかも,長い間,大相撲をひとりで引っ張ってきた,という実績をもっと考えるべきではないのか。マスコミが叩くわりには,本場所に行ってみると,子どもから老人まで,朝青龍の人気は衰えてはいない。そのことを,朝青龍自身が肌で知っている。マスコミも十分知っているはずだ。にもかかわらず,寄ってたかって叩く。そうすると,どこかイジケタ日本人たち,とりわけ,創られた伝統の型のなかに横綱をはめ込むことに生きがいを感じている古い日本人たちが喜ぶからなのだろう。これは単なるゼノフォビアの裏返しにすぎないということも気づかないままに。情けないかぎりだ。

だから,わたしは日馬富士に頑張ってもらって,モンゴル出身の3横綱時代の到来を夢見ている。そうなれば,「国技」も「横綱の品格」も「伝統」も宙に浮くことになる。ついでに,琴欧州にも頑張ってほしい。かれもまた横綱になれる条件は整っている。あとは,気持ちの問題だろう。無心になれるかどうか。ここにきて欲がですぎているように思う。以前のように,無欲で相撲を取りはじめたら,もっともっと力を発揮するだろうと思う。

いつの日か,4横綱が全部,外国人であるという時代がくることをわたしは密かに夢見ている。

なぜなら,日本の国家がすでに外国人の力を借りないことには存続できない状態になっていることを,大相撲がもっとも典型的に教えてくれるからである。ここから切り崩されていくと,わかりやすくていい。そうでないと,日本で働いている外国人労働者が,目にみえないゼノフォビアに,どれだけ苦しんでいるか,その人たちの苦しみを解き放つためにも,まずは,日馬富士に頑張ってもらいたい。そこから,新しい大相撲の時代を切り開いて欲しいのだ。そして,なにより,古くさい,意味のない「伝統」にしがみつく横審の委員たちの頭を切り換えてやって欲しいのだ。

それいけ,日馬富士。イナッチがついている。

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2009-05-17 5月の東京例会,ぶじに終了。

_ 昨日(5月16日),「ISC・21」5月東京例会が無事に終わりほっと一息です。メイン・テーマは『ブラジルのホモ・ルーデンス』の合評会でした。

著者の今福龍太さんを囲んで,みんなでディスカッションを楽しみました。まずは,井上邦子,瀧元誠樹,三井悦子の3人から,それぞれの立場からのコメントをしてもらい,それを受けて今福さんがお話をされるという展開ではじまりました。

トップ・バッターの井上邦子さんの気合いの入ってコメントで一気に会場の雰囲気が高揚し,素晴らしいスタートを切ってくれました。モンゴルの伝統スポーツの研究をフィールドにする井上さんらしい発想から,『ブラジルのホモ・ルーデンス』をどのように受け止めたのかを論じてくれました。広くスポーツの場に「生身の生命体」を取り戻すことの重要さをひしひしと感じたと,井上節が全開でした。

瀧元君からは,やはり,武術をする身体の観点から,いくつかの問題提起がなされ,これまた興味ぶかい視点の提示でした。加えて,今福さんがサッカー選手ではだれが好きなのかというマニアックな話をあまりされたことがないので,そのあたりのお話が聞きたい,と。これには,早速,今福さんが「えっ,そうでしたっけ?」と反応。「自分としてはずいぶんと語ってきたつもりですが・・・」と苦笑い。

最後の三井さんからは,ドイツ医療体操史研究からみえてくる近代の「姿勢矯正」のはじまり,批評精神の欠落したスポーツ史研究,資料実証主義にこだわる歴史学,などのわれわれにとっての本質的な問題が提起されました。もちろん,三井さんの最近のテーマである竹内敏晴さんのいう「じか」の問題との関連性も最後に加えてくれました。とりわけ,今福さんの常用される「消息」という用語に注目し,そのもともとの意味は「陰を消し,気を入れること」にあることを知り,このことばの意味内容の深さに驚いた,という指摘が印象に残りました。今福さんも,あとで,「ぼくも,そんな意味があるとは知りませんでした。いいことを教えてもらいました」とコメント。

この3人の発言で,ほぼ,30分だったのですが,「とても30分とは思えないほど内容のある,密度の濃いコメントをしてくださり,ありがとうございました」と今福さんをして言わしめたほどのものでした。これで,とても気をよくしてくださったのか,一人ひとりのコメントに丁寧に応答されるかたちで話を展開されました。この具体的な内容については,いつか,活字にして読めるようにしたいと考えていますので,楽しみにしてください。

こうして,今福さんが約1時間,お話をしてくださり,約10分ほど休憩。その間に,月曜社の神林さんが『ブラジルのホモ・ルーデンス』の販売をし,今福さんがサインをしてくださることに。わたしも2冊目を購入して,サインをしてもらいました。一冊目がラインや書き込みで真っ黒になってしまったので2冊目を購入しました,と今福さんにお話をしたら「重要な本はぼくも2冊買うことにしています」と仰ってくださり,ああ,やっぱりそうなんだ,と妙に安心しました。

休憩のあと,全体ディスカッション。ここからフロアからの質問や問題提起などがはじまり,一段といい雰囲気で時間が流れるようになりました。今福さんと三井さんとの短いことばのやりとりもとても刺激的でした。フロアの質問に井上さんが反応したりして,和気あいあいにして緊張感のあるやりとりが展開。これまでにはみられなかった新展開でした。

こういう雰囲気のなかで,わたしも若干ながら,これまで考えてきたことがらを問題提起としてお話をさせてもらいました。今福さんも,丁寧にことばを選びながら,しかし,深い思考の裏づけのあるお話をしてくださいました。わたしにとっては至福の時が流れていました。

こうして,あっという間に3時間以上が経過。打ち切るのはもったいない感じでしたが,時間がきていますので,ここで終わり。時計をみたら18時30分をすぎていました。

このあと,近くのお店で懇親会。こちらは河本先生が準備してくださいました。その名も「野菜畑」。飲み物は自由。とてもヘルシーな料理が並び,わたしにとってはありがたいお店でした。ここでの2時間もあっという間。みなさん,それぞれに懇親を深めてくださったようで,みんな笑顔。名残惜しくも,解散。

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2009-05-18 合評会の余韻。

_ 16日(土)の合評会の余韻がいまもふつふつとつづいていて,ふと気づくと今福さんとのやりとりを思い浮かべている。

その中の一つ。サッカー批評とは世界を批評すること,という「0.序論」の見出しタイトルに因むものだ。このテーゼに従えば,サッカーを批評するということが世界を批評することとリンクしていなくてはならない,というのである。だとしたら,サッカーを批評する以前に,「世界」というものをどのように「認識」しているかが問題となる。すなわち,「世界認識」のレベルが問われることになる。つまり,「世界認識」のレベルが低ければ,その程度のサッカー批評しかできない,ということだ。

こうなると,ことは穏やかではなくなってくる。逆の見方をすれば,サッカー批評をとおしてその人間の「世界認識」のレベルが透けて見えてきてしまうからである。このことをしっかりと意識したサッカー批評なり,スポーツ批評がこれまでに存在したことがあるだろうか。はたと考え込んでしまう。そして,これまでのわたしがいかにこのことに無自覚のまま生きてきたかと恥ずかしくなる。

こうして考えだすと,「世界認識」の内容や方法や対象や領域とうとうにいたるまでが気がかりとなってくる。まあ,あまりむつかしいところに踏み込んでしまうとこのブログが空中分解してしまいそうなので,単純化して考えることにしよう。「世界認識」とは,生身の生きた人間がみずからのライフ・ヒストリーをとおして,おのずから形成されるものだ。だとしたら,いかなる生き方をしてきたかが問われることになる。つまり,生身の人間とそれをとりまく「世界」との関係性の問題となってくる。となると,生身の人間と広義の環境世界との交信・交流の内実が問われることになる。そして,ついには,生身の人間の存在の仕方が問われ,その結果として,いかなる認識に到達するかが問われることになる。つまりは,人間の「存在論」の問題であり,「認識論」の問題に至りつく。

もう,こうなってくると,一人の人間としての思想・哲学が丸裸になって投げ出されているも同然である。言ってしまえば,「批評」という行為は,すなわち,その人の思想・哲学が剥き出しになるということに他ならない。だとしたら,まずは,なによりも,みずからの因って立つべき思想・哲学を鍛え上げなくてはならない,ということだ。この覚悟なしには「批評」という行為は不可能だ。

ここに至りついたときに,今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』が放つ光が尋常一様のものではない,ということに気づく。そうしたときに,初めて,今福さんが歩んできた道程の意味が異彩を放ちはじめる。つまり,今福さんの処女作ともいうべき『クレオール主義』にはじまり,近年の『ミニマ・グラシア』『群島−世界論』『身体としての書物』に至る数々の作品が,すべて一つの鎖となってつながっていることの重みがひしひしと伝わりはじめるのだ。ことここにいたって愕然としてしまう。わたしは今福さんの本をあれこれ試行錯誤しながら読み込みつづけ,最後に『群島−世界論』に到達した。そのとき,忽然と今福さんの仰る「世界」というもののイメージが見えてきた。ここで初めてわたしは自分のなかに「世界」がどのように「認識」されているのか,これまでどのようにして「世界」を「認識」してきたのか,とわが胸を叩く。

『ミニマ・グラシア』には「歴史と希求」というサブ・タイトルが付せられている。そして,「9・11」以後の思考を超えて・・・と帯でうたっている。まぎれもなく「世界認識」を研ぎ澄ますための論考なのだ。『群島−世界論』のいたるところでしばしば登場する実証史学に対する痛烈な批判,その犯罪性,帝国主義の貫徹,大陸的管理統制史観,とうとう。それに対抗するための「群島」的思考。群島的論理。そこには,ヴァナキュラーなるがゆえの豊かな情緒,信頼,愛,情熱,祈り,呪術,風俗,習慣・・・・が満ちあふれている。大塚久雄的思考を借りれば(大塚史学),ものの豊さと引き換えに,こころの豊さが保証されている。ベクトルをこの方向にシフトすること,このことをひしひしと感じさせる今福さんの著作である。

こういうバック・グラウンドに支えられて,初めて「批評」という行為が成立する,と気づく。だからこそ,サッカー批評とは,世界を批評すること,というテーゼが堂々と宣言できるのだ。このことを過剰なほどに意識して,もう一度,『ブラジルのホモ・ルーデンス』と格闘すべきだ,とみずからに言い聞かせているところである。

1時間が経過。今夜はここまで。

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2009-05-19 サッカー的恩寵

_ 「グラシア」=「恩寵」ということについて,なかなか具体的なイメージとして捉えにくいのだが・・・・というわたしの問いに対して,今福さんがとても面白い話をしてくださった。

それは,いうなれば「サッカー的恩寵」ということ。アマゾン川の河口付近の中州を舟で通過するときに出会った光景ですが・・・と言って今福さんが面白い話をしてくださった。途中で,あっ,この話はどこかで読んだことがある(たしか,『群島−世界論』の中だったと思うが確約はできない),と思いながら耳を傾けていた。

話の中味はこうだ。

河口付近の中州なので,満潮時には水没し,干潮時だけ陸地として現れる。そのことを川の両岸に住んでいる子どもたちは熟知していて,干潮になると少しずつ陸地が現れる。そうすると,子どもたちが両岸から舟でやってきて,おもむろにボールを蹴ってサッカーをはじめる。ピッチは空気に触れはじめた陸地,ラインは水際。だから,潮の干満とともにピッチの大きさは刻々と変化する。サイドアウトしたボールはその水際の水の中からスローインする。ピッチの形ももちろん長方形ではない。なだらかな楕円形。干潮のピークに達したとき,ピッチは最大となり,ふたたび小さくなっていく。そして,ついには水没してしまう。そうなると試合終了である。

子どもたちは勝敗を度外視して,この変幻自在なピッチの上で,思い思いのテクニックや戦略を展開する。それが思い通りに実現したとき欣喜雀躍する。相手のプレイヤーたちも,ならば,われらもと気合いが入り,これみよがしの素晴らしいプレーをみせる。その交互の攻め上がるときの,直観的な閃きにも似たプレーをひたすら追い求める。瞬間,瞬間に立ち現れる,自分でも考えられないような超絶技法に挑戦していく。まさに,ホモ・ルーデンスの極みである。相手プレイヤーの存在が必要なのは,こうした超絶技法をお互いに見せ合い,その完成度を競い合い,お互いが高まり合うためなのだ。すなわち,技の「互酬性」。

こうした,自然のままの,なんの人工的な手の加わらない,潮の干満とともに立ち現れる中州で,ひたすら展開される技の「互酬性」そのものを楽しむ。そのとき,子どもたちはなにものにもとらわれることなく,ひたすらゲームに忘我没入していく。そして満潮になったらおしまいという,もっとも素朴なサッカー。これこそが,名づけて「サッカー的恩寵」。

この話を聞きながら,敗戦直後のわたしの子ども時代を思い出していた。「6・3制,野球ばかりがうまくなり」という川柳が生まれるほどに,わたしたちの子ども時代は野球に没頭した。野球といっても,きわめて素朴な野球もどきである。ボールもバットもグラブも,みんな手作りだ。それも,子どもたちの手になるものばかり。野球をやりたい一心で,必死になってつくった。どこかで,よりよい作り方を教えてもらっては,次第に腕をあげていく。グラウンドも,学校の校庭は上級生に占領されているので,どこかの空き地を探す。そこにも序列があって,下級生たちは人通りの少ない道路に追い込まれる。いわゆる三角野球である。一塁と三塁があって,あとは本塁だけである。一塁と三塁の幅は道路の幅である。だから,おのずからセンター返しが上手になる。学校から帰ると,日が落ちてボールがみえなくなるまで没頭した。もちろん,勝ち負けは度外視である。重要なのは,だれが素晴らしいバッティングをしたか,どこまで飛ばしたか,だけである。ピッチャーはバッターの好きな,もっとも打ちやすいボールを投げるために味方が務める。キャッチーはもちろんいない。相手チームの選手たちは,いかにしてむつかしいフライをキャッチするか,すなわち,ファイン・プレーだけを楽しむ。アウト・カウントの数え方も臨機応変(集まってきた人数によって変化する)。まったくの自由自在。その場その場で相談して決める。やってみて面白くなかったら,ルールを変える。

なるほど,あれが「野球的恩寵」だったのだ。

ときとして奇跡的なプレーが生まれると敵味方なく,みんな狂喜したものだ。そして,みんな元気になってくる。われもわれもとその奇跡に挑戦である。その挑戦はとどまるところを知らない。この挑戦を止めてくれるのは,ただ,太陽の運行のみ。暗くなったらあきらめるしかない。自然には逆らえない。

ものが不足し,着るものも不足し,食べるものとて不十分だった,あの敗戦直後の貧しかった時代の子どもたちを救ったのが,あの三角ベースだったのだ。みんなこころの底から笑い,本気で怒り,悲しんだり,哀れんだりしたものだ。深い友情に結ばれているという,なにものにも代えがたい安心がいっぱいあった。いま,考えると,なんと豊かなこころをみんなが共有していたことか。

70年も生きてきて,この現代社会の孤独感に直面し,なんという時代になってしまったのか,と茫然自失である。やはり,「ミニマ・グラシア」から再出発するしかないのか。すなわち,群島の論理から。

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2009-05-20 日馬富士,これからだ。

_ 日馬富士が11連勝し,横綱白鵬と並走。あと4日間の星のつぶし合いを残すのみ。いよいよ,これからだ。

日馬富士と白鵬とのこれまでの対戦は3勝3敗の五分。しかも,3勝はいずれも大関になる前にあげたものだ。大関になってつまずいたときに負けて,五分となってしまった。つまり,無欲で闘ったときの日馬富士は横綱を圧倒しているのである。今場所,ようやく日馬富士が迷いから抜け出して,平常心で相撲がとれるようになった。こうなると日馬富士は強い。しかも,白鵬には苦手意識がある。

そこに一敗で朝青龍が割って入ってくる。ここ一番に強さを発揮する朝青龍のことだ。なにが起こるかわからない。金・土・日の三日間にわたって星のつぶし合いがつづく。千秋楽は横綱対決になるので,日馬富士にとっては,金・土が横綱との対戦になる。この二日間をどのように切り抜けるか,その結果いかんによっては,日馬富士の全勝優勝も夢ではなくなる。

これでいよいよ大相撲はモンゴル大会になってきた。あと4,5年経つと大相撲の上位にはモンゴル出身の力士が勢ぞろいすることになろう。その頃,横綱を張っているのは日馬富士のはずだ。これは,わたしのまったく個人的な欲望と山勘とがないまぜになった予想である。

日馬富士よ,あと4日間だ。頑張れ。イナッチがついている。

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2009-05-21 『ここではない場所』再読。

_ ここ数カ月の間,今福さんの本がつぎつぎにわたしの脳髄を直撃してきて,そのたびにわたしの貧弱な脳髄に電気ショックを与えつづけている。

しかし,慣れるということは不思議なもので,この電気ショックがいつのまにやら「快感」に代わり,ついには「陶酔」しはじめている。今日のわたしの脳髄は以前とは明らかに別物になっていると思う。

たとえば,こうだ。もう,ずいぶんむかしに今福さんの『ここではない場所』イマージュの回廊へ(岩波書店,2001)を読んだ。なんとも不思議な本だ,という印象だけが残っていた。で,この間の合評会が終わって,机の上の本を片づけていたら,今福さんが「ずいぶん読み込んでくださって,嬉しいです」と声をかけてくださったそのとき,ちょうど『ここではない場所』を手にしてザックの中に入れようとしていたので,「この本は不思議な本でした」と応答。「ああ,そうですか」とニッコリ。たったそれだけの会話だったが,なんとなく気がかりだったので,今日,ふたたび,何年ぶりかで読みはじめてみた。そうしたら,まったく違っていた。こんどお会いしたら,今福さんに「あのときの発言は間違いでした」と修正した上で,「この本を読んでいると涙が流れてきます」と宣言しなくてはならない。

電気ショック療法をつづけたお蔭で,この本が言おうとしていることの意味が,文章のはるか向こう側で,わたしの脳髄が勝手に想像力をはたらかせて理解させてくれる。それが正しいかどうかはわからない。しかし,今福さんの初期の作品である『荒野のロマネスク』や『クレオール主義』から,最近の著作まで,一貫してみんな手を結んでいて,たった一点から同心円的にひろがる波紋のように展開している,というイメージがわたしの脳髄のなかにできあがりつつある。このイメージがもこもこと湧き上がること,それ自体が快感であり,陶酔につながっていく。

とりわけ,冒頭の論考「映像による占領」戦後日本における写真と暴力,は読んでいるうちに歓喜のあまり涙があふれ出てくる。この固いタイトルからは想像もつかないほどの,ソフトで,やさしい気配りのきいた,じつにバランスのいい,それでいて美しい文章がつづく。しかし,いつのまにかその美しい文章をとおして伝わってくる強烈なメッセージに撃ち倒されてしまう。それがまたなんとも心地よい。

この論考についてここで解説をするほどの蛮勇はわたしにはない。仕方ないので,わたしを「撃つ」文章の断片を以下に紹介しておくにとどめる。

以下はすべて引用である。

少しだけ断り書きをしておくと,東松照明(写真家)が長崎と向き合って写真を撮り続けた行為について,今福さんはつぎのように語る。

・・・彼(東松照明)がこの写真を撮ったとき,悲劇からすでに15年の歳月が経過していました。したがって東松の,焼けただれた遺物に注がれるまなざしには,過去のあの瞬間を甦らせるという以上に,原爆の遺物の映像がそれまで表象してきた固定的な意味の場をすりぬけて,新たな認識の領域へと到達しようとする意志が感じ取れます。この挑戦は,あえていえば,人間のそれぞれの固有の記憶と,公的な歴史意識との関係を再考する,哲学的・形而上学的な探求であったといえるでしょう。

そのように考えたとき,これらの被爆者の無残にただれた肉体の写真も,たんに悲劇的な犠牲を被った個人の,聖痕を帯びた感情だけを示しているとはいえません。これらの傷跡は,直接的な核爆発の熱戦や放射能によるという以上に,ある意味で歴史が人間に刻印した殺傷であり,まさにその「歴史」の傍若無人にたいして東松は映像の力をもって応え,戦後日本の政治社会の空気のなかに蔓延する健忘症を暴き出そうとしているからです。

もう一カ所だけ引用して終わりにする。

時を抹消することはできません。けれども一方で,永遠につづくかに見える時の経過をただ所与のものとして,夜明けの薄明がいつかかならず日没の暗闇へと引き込まれてゆく過程を人生と歴史の避け得ない命運と決め込むことも,またシニシズムにすぎるでしょう。個人のなかを流れる時間の多層的な潮流のぶつかりあいをその小さなうねりや渦にいたるまで把握し,そのうえにたって世界を刺し貫く「歴史」という縦糸に交錯する無数の非制度的な時の横糸を繰り出してゆくこと・・・・。こうした行為によって,人は,自己という名の大海に浮かぶ時の群島の姿を織りあげることができるようになるはずです。

以上。

明日は,日馬富士が白鵬に勝って,単独トップに立つ日になりますように。日馬富士の目の覚めるような出し投げが繰り出されるシーンが,鮮明に見えてくる。わたしの不思議な妄想か。妄想で結構。実現すれば・・・・。

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2009-05-22 上手だし投げ,不発。

_ 日馬富士にとっては今日がすべてだった。今日,勝てばかれの人生が変わったかもしれない。そういう大一番だった。

立ち合いは五分。右四つ,左上手を引き,相手に上手を与えなかったのだから,立ち合いは成功。さて,ここからだ。左からの上手出し投げを打ついいかたちができた。ところが,日馬富士は手順を間違えた。さきを急ぎすぎた。なにも仕掛けないまま得意の上手出し投げにでた。これでは土俵を半周しただけで難なく残されてしまった。からだが反応するいつもの相撲ではなく,考えすぎの技の繰り出しになってしまった。ほんとうに無心になれて,からだが反応するときであれば,あそこで,まずは寄ってでる。寄りをみせて,相手が踏ん張った瞬間に出し投げを打つ。そうすると面白いようにこの技が決まる。しかし,今日の日馬富士にはその余裕はなかった。その後もいろいろと仕掛けるが横綱は動じない。じっと勝機を待つ。こうなると横綱のペースになってしまう。

どうやら,今日の相撲は横綱の作戦勝ちだったようだ。右下手一本で,とにかく相手の動きを封じ込めておいて,じらし,焦らせることによってスタミナ切れを待つ。案の定,日馬富士は疲労困憊して動けなくなってしまった。その疲れきったところを見透かしたかのように,裾払いにでた。これでもう力尽きたかのように日馬富士は横転してしまった。ここで,スタミナが残っていたら,柔道でいう「燕返し」で切り返すという手もあるのだが・・・・。いかんせん,もはや抵抗する力も残っていなかった。落ち着いていた横綱の勝ちである。

立ち合い一気に寄ってでて,さっと出し投げを打つ,その冴えた技をみたかった。が,残念。全勝というプレッシャーが日馬富士の動きを鈍らせてしまったか。一つくらい星を落していたら面白かったかもしれない。勝てば,単独首位に立つ,ということが念頭をよぎったかもしれない。そうなると,動きは固くなってしまう。ここを克服することが日馬富士のこんごの課題だ。まだまだ若いのだから我慢,我慢。

負けておぼえる相撲かな,という。今日の負けはいい勉強になったはずだ。来場所は横綱を倒そう。

それにしても日馬富士のからだはよくなってきた。かつての栃の海の上半身によく似てきた。

さて,こうなってくると不気味な存在として大きく立ち現れてくるのが朝青龍だ。途中,発熱もあって心配されたが,よく持ちこたえてここまできた。明日,日馬富士に勝って,一敗で千秋楽,横綱対決となると面白くなりそうだ。ここ一番というときに力を発揮できるという強みがある。あわや,優勝決定戦まで持ち込むと大いに盛り上がる。

いよいよ,大相撲モンゴル大会の有終の美を飾るときがきた。どう転がっていっても,この3人の優勝争いに変わりはない。久しぶりに肩に力が入る。大相撲はこうでなくてはいけない。

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2009-05-23 琴欧州の上手だし投げ。

_ 琴欧州がお手本のような上手出し投げをみせてくれた。この上手出し投げを昨日の日馬富士に期待したのだが・・・・。

琴欧州が立ち合い左に変わって上手をとりにでた。この作戦は大成功。しかも上手を取るやすぐにしゃにむに寄ってでた。これが第二の勝因。琴欧州に押されて白鵬があわてた。腰をいったん引いた上で反撃の寄りをみせた。その瞬間である。琴欧州の上手出し投げ。目の覚めるような上手出し投げである。かつての,初優勝したころの琴欧州がもどってきたかのようだ。今日のこの相撲を忘れないことだ。そうすれば,琴欧州の横綱も遠くない。来場所の琴欧州は注目である。

この相撲をみていた日馬富士は,投げの前の寄り身が大事だ,ということに気づいたのだろうか。今日は,朝青龍を相手に素晴らしい相撲をとった。一敗して気持ちが軽くなったのか,昨日のようなコチコチのからだではなかった。立ち合い一気に右四つ,がっぷりとなった。すぐに朝青龍が攻撃にでて,日馬富士の左の上手が切れてしまった。こうなったら朝青龍の相撲である,とだれもが思ったに違いない。ところが日馬富士は右下手一つで,左で相手の差手をおっつけ気味に抱え込むようにして寄ってでた。ここで,朝青龍があせった。日馬富士のまわしを十分に引きつけて,つり上げようとして腰が入った瞬間に外掛けがとんだ。これがまたタイミングといい,掛かった右足の位置といい申し分なし。朝青龍の左足は宙に舞い,右足一本で必死にこらえようとしたが,それもならず,もんどり打って仰向けに倒されてしまった。このとき,アナウンサーは腰を打ったか,朝青龍が立ち上がれません,と説明。しかし,そうではない。こんな負け方をしたのが悔しかったのである。朝青龍は,白鵬が負けた相撲を見終わった瞬間から目をつむって瞑目していた。これで優勝のチャンスが転がり込んできた,あとは一つひとつ勝つだけだ,と自分自身に言い聞かせたはずである。だから,立ち合いから終始,元気に攻め続けた。そして,もっとも安全なつり出しという手を選んだのだ。ところが,その吊りにきた瞬間に外掛けがきた。これは予想外だったはずである。ここが,日馬富士の相撲勘のいいところなのだ。からだが自在に動くときの日馬富士の相撲である。

さて,明日は,いよいよ優勝決定戦がみられそうだ。そうなると,日馬富士の優勝のチャンスがみえてくる。今日の琴欧州がお手本をみせてくれたように,もし,明日,優勝決定戦ということになったら,左上手を取ったら,すぐに寄ってでることだ。そうして,白鵬が寄り返してくるところを得意の上手出し投げに仕留めることだ。まずは,なにがなんでも,しゃにむに寄り身をみせることができるか。そこが鍵だ。

頑張れ,日馬富士! イナッチがついている。

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2009-05-26 日馬富士,初優勝。

_ 応援の甲斐があって,日馬富士がとうとう初優勝を飾った。まさかとは思っていたが,なんとかなるという期待も大きかった。それが叶った。「嬉しいです」というコメントが印象に残った。

年に1回の旅行会(わたしの兄弟夫婦ともう一軒の姉妹,計10名)で,24日(日)は愛知県の湯谷温泉に宿泊。ことしで21回目。しかも,わたしが幹事。この旅行会の最初は,両家の両親を喜ばせるための旅行会だった。しかし,いつのまにか両方の両親もこの世を去り,残った子どもたちもいつしか老境に達していた。そのまま,いつまで続けられるだろうかと毎年不安をかかえながらも,みんな元気で集まってくる。童心にもどって,みんな「ちゃん」づけで呼び合う。こんなことが可能なのは,この旅行会しかない。だから,長続きがするのだろう。

というようなわけで,旅行先のここ湯谷温泉でテレビ観戦をした。もう,わたしにとっては理想的な展開となり,久しぶりに胸のときめきが極限に達した。まずは,琴欧州戦。絶体絶命。これではどうにもならないと目を瞑った瞬間の「首投げ」である。首が決まってしまったときのこの技の決まり方はすさまじい。その典型を見てしまった。もう,これで十分堪能できた。それにオマケがついたのだから,堪らない。

優勝決定戦。これはほんとうにいい相撲だった。立ち合い鋭く踏み込んだのは日馬富士だった。そして,相手十分の右四つを封じて,左四つに組み止めた。しかも,左腕が肩まで入る深い左四つだ。こうなったら日馬富士の相撲だ。「寄りをみせてから下手投げを打て!」とテレビに向かって思わず吠えていた。しかし,そのままの姿勢で下手投げにでた。1回目は決まらない。このままでは,また,スタミナ切れになってしまう。にもかかわらず,続けて左下手投げにでた。こんどは,右手で横綱の右ひざを押さえながらの下手投げ。これがみごとに決まった。横綱はたまらず左手を土俵についてしまった。いやはや,堂々たる相撲だ。真っ正面から勝負を挑んだ,いかにも日馬富士の相撲である。

この一番は自信になったと思う。これで,来場所からも横綱相手に真っ向勝負にでることができる。さて,白鵬は,来場所の日馬富士戦に備えて,どんな稽古を積んでくるたろうか。無策ででてくるはずはない。必ず,なにか秘策を練ってくるはずだ。それに対して,日馬富士はさらに上回る秘策を練ってくるはずだ。こうして切磋琢磨しながら,ますます強くなっていくのを見届けるのが大相撲のなにものにも替えがたい醍醐味だ。

さて,このまま来場所を日馬富士が優勝をさらうなどということになると,一気に横綱になってしまう。その線は大いにありうる,とわたしはみている。つきを呼び込むのも実力のうち。かつての栃の海がそうだった。一気に横綱に駆け上った。その代わり短命だった。しかし,日馬富士はそんな心配はいらない。一気に横綱になると,琴欧州が黙ってはいないだろう。来場所のみどころは,朝青龍がどこまで意地を張ることができるか,白鵬が立ち合いからの攻め込みをどこまで取り戻すことができるか,そうはさせまいと琴欧州が左上手を取って寄ってでながらの出し投げにどこまで磨きをかけるか,そして,日馬富士がどこまでのびのびとかれ本来の相撲をとりきるか,この四つ巴がなんとも楽しみである。

「嬉しいです」「嬉しいです」を連発した優勝インタビューの笑顔がとてもよかった。

それゆけ日馬富士! イナッチがついている。

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2009-05-27 自然功力会の稽古に参加。

_ 李自力老師が主宰する自然功力会の,指導者クラスの人ばかりの自主練習に誘われ参加してきました。

参加者は李自力の他に,中国からきている太極拳の指導者が二人,それに,42式でこのところ連続で全国大会2位の静岡から参加している若者と,60歳以上の部でことしの埼玉大会で1位になったベテラン,それにわたし。いやはや最初からいい意味での緊張感がいっぱい。ピンと張りつめたものがただよっていて,いい感じ。

各人各様の準備運動をたっぷり40分。そこから全員揃っての合同練習。つまりは,基本動作の稽古。この稽古中に李老師が,それぞれの参加者に細かな注意を与えていく。きわめて簡単な基本なのに,どうして?と思われるほどの細かな注意を与えていく。股関節をゆるめる,腰を回す,肩の力を抜く,目線を正しく,強弱のアクセントを・・・と注意は止まらない。みんな超ベテランばかりなのに。そう思って不思議に思いながら,ちらりと眼をやると,なるほど,李老師のそれとはまるで違う動きをしているのである。どうやら,簡単な動きほど難しいらしい。あとで,それぞれの得意の表演をみせてもらったが,そこに入ると見違えるほどの動きをする。しかし,基本の動作に関しては,李老師のそれとはまったく違い,どこかぎこちないのである。それほどに基本の動作がむつかしいのだということがわかる。ここでなんだか自信がついてきた。もっともっと徹底して基本の動作の稽古をすることが先決である,と。

それから,ようやく24式の稽古に入る。ここでも李老師からのことばが一人ひとりに向けて連続して飛ぶ。ときどき盗み見をしてみると,なるほど,言われたとおりのことがなされているのである。こんなベテランたちばかりなのに。いささか意外であった。言ってみれば,妙なクセがついているらしい。よく言えば個性。李老師の動きしか知らないわたしからみると,やはり,変な動き方をしているのである。となると,李老師のあの動きはだれにもできそうでいて,だれにもできない動きなのだ,ということがわかってくる。しっかりと力を溜めた,ゆったりとした動きは,真似のできない動きなのだ。どこか次元が違うのだ。そこを,どのように見極めて,わがものとしていくか,眼力が必要。

ひととおり,いつもの稽古が終わったところで,李老師が一人で稽古をはじめる。剣をもった表演である。同じ表演を,ぶっとおしで3回つづけての稽古である。そのつど,他の参加者から拍手が起こる。でも,顔色一つ変えることなく,黙々と3回,繰り返す。なぜか,と聞いてみると,近々,喜多方市に招かれて,そこで表演をすることになっているので,そのリハーサルだ,という。では,なぜ,3回繰り返すのか,と聞いてみる。3回,同じ精神状態できちんと表演ができて,はじめて観客の前に立つことができるのだ,と。そこは徹底している。さすがに幼少のころからプロとして中国全土を表演して回っていた人だけはある。

このあと,指導員試験を受ける人,全国大会をめざす人の表演をチェック。二人とも緊張のあまり,いつもの動きとは違うらしい。だからなおさら厳しく,李老師からの檄が飛ぶ。

今夜は,久しぶりの李老師の表演をみせてもらい,また,超ベテランの人たちの表演をみせてもらい,得るところが多かった。いつも,一人稽古をしているので,これでいいのかどうか,わからないままであった。でも,いくつかの点で,自分なりの発見もあったし,李老師からの注意ももらった。これで,一人稽古にもいっそうの気合いが入る。なにを,どのようにすればいいのか,つまり,もっとも基本的な動きの細かな点が,以前よりもよく理解できたこと,これがなによりもの収穫。

明日につながる稽古ができて大満足。

さて,明日から,また頑張るぞ。

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2009-05-28 面をつけるということ。

_ 今福さんの『ここではない場所』イマージュの回廊へ(岩波書店,2001年)を読んでいたら,仮面の話がでてきた。

それもただの仮面ではない。あの『荒野のロマネスク』に登場する,○○族の祭りに参加して,少年たちと一緒に走り回ったときにつけた面である。今福さんの文章をそのまま引用すれば,以下のようである。

その仮面はいまだに物置の片隅に埃をかぶったまま転がっている。張りぼての,歯をむいたオオカミの仮面である。これをつけて裸で灼熱の大地を駆け回ったのは,もう20年も前のことなのに,仮面に穿たれた小さな目の穴から覗いた外界の光の透明感や,オオカミのように叫んだ声が自分の耳に異様に野太い音としてはね返ってきたことなど,昨日の出来事のように鮮烈に憶えている。

今福さんが年端のいかぬ少年たちに混じって走り回ったのは,オオカミの面をつけて,オオカミになりきってのことであったことを,わたしはこの文章をとおしてはじめて知った。これが一つの驚きだったのだが,このあとにつづく文章には,もっと驚いた。引いてみよう。

「動物になる」ことの意味を,そこで私ははじめて身体的な知恵として学んだ。体に色彩を塗り,仮面をつけて動物に変身することをインディオたちが「消す」という動詞で呼んでいることを知ったとき,付加と消去にかんするそれまでの先入見が瓦解した。仮面がなにか私に付け加えたのではなく,オオカミの顔をつけることによって,私は自らの人間としての顔からなにか決定的なものを抜きとり,消し去ったのだ。

この文章を読んで,なるほど・・・とわたしなりに納得のいくことがあった。それは,もう,3年ほど前になろうか,柏木さんが安曇野のホテルで能面の「個展」を開催されたときのことである。むかしの学生時代の友人たちと一緒に「個展」を見せてもらい,はじめて能面を手にとって,顔につけて,遊ばせてもらった。すると,不思議なことに,友人たちがそれぞれに違う面をつけた瞬間から,その面になりきっているではないか。気がつけば,わたしもまた,自分でつけた面になりきっている。とっかえひっかえしながら,ずいぶんと自由に遊ばせてもらった。自分がつけた面は自分ではみえないのに,手にとって,これをつけてみようと思った,ただ,それだけの印象なのに,その面になりきってしまう。単なる面にすぎないと思っていたのに,その威力たるや恐るべし,とそのとき強く思った。

しかし,今福さんのこの文章に接して,はじめて納得がいった。なるほど,面をつけるということは自分を消し去ることなのだ,と。張りぼてのオオカミの仮面をつけただけで,すでに,自分が消えてしまう。だとしたら,あとは,オオカミになりきっているしかないではないか。自分が存在しないのだから。今福さんが,完全なるオオカミになって,奇声を発し,走り回っている姿が彷彿としてくる。今福さんの文章をさらに引いてみよう。

まわりには,同じようにして,コヨーテの,イーグルの,カメの現実へと脱皮した若者たちがいた。うなり声をあげ,這いつくばり,疾走し,深い渓谷に流れる水へ飛び込んだ凶悪な私たちは,あのとき人間と動物とのあいだの深淵をのぞきこむ,おそらくぎりぎりの地点まで踏み込んでいたにちがいなかった。そこで動物は,人間文化の過剰を照らしだしたのだ。

こういう文章を読んでいると,今福さんの「体験」がそのまま伝わってくるような錯覚をおぼえる。そして,能楽の世界とも通底していることが透けてみえてくる。能楽では,能面をつけることによって,はじめてあの世とこの世を自由に往来することが可能となる。つまり,生と死の世界の垣根が取り払われてしまう。そこから「幽玄」の世界が立ち現れることになる。そこには,もはや,能楽師の身体は存在しない。

なりきるのではなくて,消え去るのだ。仮面というものはそういう威力をもっているのだ。だから,小さな子どもたちは能面をみると怖がる。純粋無垢な子どもたちは,いとも簡単に自分を「消し去られて」しまうから。自分を見失ってしまうから。だから,すぐに能面から目をそらし,ひたすら親の首にしがみつく。わたしの経験では,威力のある能面と対峙していると,どんどん自分というものが吸い込まれていくような感覚をおぼえる。

イタリアのヴェネチアの仮面舞踏会が人気なのも,こんなところに秘密が隠されているからかもしれない。

たかが仮面,されど仮面である。

ましてや,すぐれた能面ともなれば,その威力たるやおして知るべし,である。能面との出会いのお蔭で,わたしの身体論はまたまた幅と深みを増すことになった。ありがたいことである。これから,ますます,柏木さんの能面から眼が離せなくなってきた。こんどの安曇野展にはどんな能面が並ぶのだろうか。楽しみだ。

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2009-05-29 前時津風親方は,なぜ,わたしの責任だ,と言えなかったのか。

_ 前時津風部屋の親方の判決が言い渡された。懲役6年。これを不服として控訴するという。しかも,無罪を主張して。

「わたしはやっていない。弟子たちが勝手にやったことだ。だから,わたしは無実だ」と最後まで主張したという。しかも,死に至る過激な稽古も,通常の稽古だ,と主張。なにか,うら悲しい気分になってしまう。こういう親方ばかりではないと信じたいが,このような人が一人でてくると,相撲界に子どもを預ける親は激減するだろう。ますます,日本人力士の影が薄くなってしまう。

相撲部屋の親方は,部屋のなかで起きたことに関しては,すべての責任を負うのが本来の姿ではないのか。古い,家父長制度の長たるもののとるべき態度は,すべて監督不行き届きとして責任を負うのが筋だ。その責任を逃げた。もはや,親方制度そのものの崩壊である。

前親方の四股名は双津龍。小結止まりだったが,才能のある力士だった。努力次第では横綱にもなれる器だった。長身で,やや腰高の相撲をとるのが難点だったが,腰がしっかりと下りたときの相撲はみごとだった。小結まではまことに順調に出世してきた。しかし,ここで関脇以上の力士の壁にぶちあたった。ここから上位に上がるためには,単なる才能だけでは駄目だ。心・技・体で言えば,とりわけ「心」が求められる。この「心」に欠けるところが現役力士のうちから見え隠れしていたように記憶する。どちらかといえば,優柔不断。なにがなんでも勝つ,という強い意志のようなものが見られなかった。才能にめぐまれた力士によくみられる特徴だ。

いま,考えてみれば,親方になれる器ではなかった,ということだろう。それが,たまたま親方を引き継ぐことになってしまった。そこに大きな落とし穴が待っていた,というべきだろう。

親方になった以上は,すべての責任を一身に負うくらいの気構えがほしかった。今回の事件にしても,すべてわたしが悪かった,弟子たちはわたしの命令にしたがっただけで,かれらには罪はない,すべて,わたしの責任だ,という態度を貫くべきだった。そうすれば,相撲界の親方というのは立派なものだ,という世間の評価も上がる。弟子たちも,多少,やりすぎがあったとしても,親方が全部の責任を引き受けてくれたら,生涯にわたって感謝の気持ちを忘れることはないだろう。その方がはるかに心地よいし,外部からみていて清々しい。親方に息子を預けている親たちも安心だ。

それを,すべて,逃げた。しかも,弟子たちにその責任をなすりつけて。なんともはや救われない気分だ。

しかし,これはなにも相撲界に限ったことではなかろう。世の中の「責任逃れ」の風潮が,ここでもみごとに露呈しただけの話なのだろう。それは政治家にしてもそうだ。説明責任を果たさないで,院政をひこうとしている豪腕の政治家も,現に,いま,存在している。しかも,この人だけではない。あちこちにいる。

眼を世界に転ずれば,もっともっとすごい人たちがいる。テロリスト対策と称して,無差別攻撃を仕掛け,一般市民をも巻き込む大量殺人を犯していながら,わたしは「正義だ」と名乗ってはばからない人がいた。ときには,テロリストの治療をしているという理由で病院を攻撃したことさえある(ジェノサイド)。それでも「正義だ」と主張した。こういう人の「正義」論をそのまま引き受けるかのようにして,歴代のイスラエルのリーダーたちはパレスチナに対して一方的な攻撃をつづけている。いまも,その手をゆるめてはいない。それどころか,もっと激しくなっている。つい最近も,瓦礫を集めて住居まがいのものをつくって暮らしているパレスチナ人の家を,不法建築の名のもとにブルドーザーで取り壊してしまった,という記事があった。それでも,国際社会は手も足も出せないでいる。なぜなら,その親分はもっとひどいことを「正義」の名のもとにやってきているからだ。親分は見て見ぬふりをしてきた。さて,新しい親分はどうするのだろうか。

こういう世界の動向をメディアをとおして刻々と受け止めながら育ついまの若者たちが,どのような価値観をもつかは自明のことだ。そういうことからすれば,前親方のとる言動もそれほどおかしなことではないのだろう。あるいは,これがいまの世の中の平均的な大人の考え方なのかもしれない。どんなことがあっても,まずは,いいわけをつくって責任逃れをする。それも徹底的に。そして,逃げ切った方が勝ちなのだ。そういう人を身近にもみることができる。しかも,次第に増えてきているように思う。困ったことだが,それが現実だ。

だから,このような現実を直視できなくて,眼を背けてしまう人も増えてきている。そして,不干渉,無視,存在否定。こうして二極化が,有無をいわせず進展していく。

時津風部屋の事件は,現代社会がかかえる負の遺産の氷山の一角にすぎない,というべきか。情けないかぎりである。

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2009-05-30 平凡社本の仕上がりがすごい。

_ いよいよ平凡社本の最終ゲラのチェックにとりかかっている。今福,西谷の両氏が手直しした最終稿は,さすがにすごい。

最終段階でいろいろあって,ちょっと手間取っているが,ようやく最終段階にさしかかってきた。校正の手の加えられたゲラを読み直しながら,しみじみと感動している。やはり,この本はすごい本だ。

西谷さんの思考の深さや守備範囲の広さについては,すでに,長いお付き合いがあるので,それなりに理解ができていたはずなのだが,それにつけてもすごい内容になっていることに驚く。それだけ,こちらのレシーバーの感度がよくなったということなのだろうか。

このところ,今福さんの本をかなり集中的に読み込んできているので,そういうベースが新たに加わったことによって,なお一層,西谷さんの論考のすごさがよりよく理解できるようになったのかもしれない。

そのことは,今福さんの論考についてもまったく同じことがいえる。初校ゲラを読んだころといまとでは,わたしの理解はまるで違う。今福さんが,この4回のシンポジウムで語っていることのバックグラウンドが,以前とはまるで違う理解に達したことで,この最終ゲラから受ける印象がまるで違ってしまっている。

具体的に言ってみよう。

たとえば,こうである。

今福さんが『ブラジルのホモ・ルーデンス』の序論の見出しで,「サッカー批評」は世界批評である,と宣言されたことの意味についてしっかり考えてきたので,そのことと,この平凡社本の論考とがもののみごとに共振・共鳴しているところが,からだの底から理解できてきた,ということだ。つまり,最初から最後まで,今福,西谷の両氏は,徹底して「世界」を語りつづけていたのだ,ということ。すなわち,スポーツ批評をとおして世界批評を展開していた,ということ。それに引き換え,このわたしはなんと「ノー天気」なことしか発言できていないのだろうか,と恥ずかしくなってくる。問題意識のレベルが違うのである。あえて言っておけば,わたしはわたしなりの小さな,小さな「世界」を語っていたにすぎない,ということが明々白々になっている。情けないが,いまとなっては仕方のないこと。

あえて,弁解しておけば,2003年から2007年にかけて,このお二人とご一緒にシンポジウムに参加させていただけたことによって,わたし自身が大きく変化したことだけは間違いない。つまり,引っ張り上げてもらったのである。そして,ここにきての今福本の読み込みによって,一気に理解の度合いが深まった,ということ。これはありがたいことである。

正直に告白しておけば,ようやく,いまごろになって,スポーツを批評するとはどういうことなのか,ということがわかってきた。そろそろ,わたしなりのスタンスも定まってきたので,そこからのスポーツ批評は可能であろう,という展望がみえてきた。いま,ようやくスポーツ批評のスタート地点に立てた,というのが正直なところ。でも,そのことがわかってくると,いよいよ本格的なスポーツ批評を展開してみたい,という衝動に突き動かされる。さて,どこから手をつけていくべきか。ここのところは慎重にスケッチを描いておくべきであろう。

21世紀を生きるわれわれにとって,スポーツとはなになのか。21世紀という時代が到達した「暴力」(メディア,経済,テクノロジー,システム,ルール,など)に対してスポーツはなにが可能なのか。「スポーツする身体」の問題系とはなにか。

こうして,「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の使命も明確になってくる。いよいよ大々的に「ISC・21」の旗揚げをすべきときがやってきた。なにか,大きなイベントでも仕組むとするか。この平凡社本の刊行を記念して・・・。

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2009-05-31 藤間紫のこと。

_ 昨日(30日)の朝日・夕刊の「惜別」に,遠藤幸雄さん,藤間紫さん,平木収さんの3人が写真入りで取り上げられていた。

当然のことながら,遠藤幸雄さんの記事に眼が行くべきなのに,わたしの眼は藤間紫さんの方に釘付けになっていた。遠藤さんは,わたしの大学時代の一年先輩で,体操部でお世話になった。平行棒のツイストという技のコツを教えてくれた。たったひとこと,手が離れるまで待っていろ,と。これで眼が覚めた。なるほど,自然に手が離れるのである。なにもする必要がない。待てばいいのである。こんなことがわからないから,一生懸命に突き放すことに専念していた。その他にも,いろいろの技のコツを教えてもらった。恩人である。

なのに,なのに,わたしの眼は藤間紫さんの記事の方に流れていってしまう。なぜか・・・。

75歳の藤間紫さんが,たしか10歳ほど年下の猿之助さんと再婚した,というニュースが流れたときに,「すごいなぁ」と感動したことを記憶している。藤間紫さんをわたしが初めて意識したのは映画女優としてであった。わたしが学生時代のことだから,いまから50年ほど前になる。ということは,藤間紫さんが35歳くらいのときだ。女性としても,女優としても,一つの画期を迎えていたころだ。なんとまあ,すさまじい演技をする女優なのだろうか,と打ちのめされたのが最初の記憶だ。鬼気迫る演技だった。以後,藤間紫さんの出演する映画は欠かさず見てあるいたと思う。啖呵を切ってよし,へなへなとした気弱な女を演じてもよし,ごくふつうの女性を演じてもよし,それぞれに一味違うものを感じさせてくれた。なにかが,からだをとおして伝わってくるような,通じ合えるようななにかがあった。この人の素顔というものはどういうものなのだろう,と映画をみたあと,いつも考えていたように思う。

その謎がこの新聞の記事を読んで解けた。

紫さんの側からみると「1秒でも長く猿之助さんといたかった。猿之助さんとの語らいが生きることだった」という。一方,猿之助さんの側からみると「いつまでも少女のような紫さんは,私にとりまして一番大切な人でした・・・紫さんと私の志は,いつも同じものを見つめて生きてきました」という。

こんな夫婦が存在するということ,そのこと自体がすでにして奇跡だと思う。75歳と65歳との出会い・・・。それは,おそらく電撃的な出会いだったのだろう。もう,結婚などという形式を超越して,ただ,ひたすら一緒にいたい,そして,同じ志をいだき,同じものを見つめて生きていたい・・・。なにものにも替えがたい至福のときの到来だ。こういう出会いに年齢は関係ない。出会ったことが先途だ。もう,なにものも止めようがない。とてつもなく大きな力がはたらいていて,まるで流体のように,お互いが一つになっていく・・・。自他の区分すら希薄になっていく。他なしには自の存在が不可能な関係性の萌芽をそこにみる。これもまた「萌えの襲ね」というのだろうか。

すごい記事と出会ってしまった。

「一秒でも長く猿之助さんと一緒にいたい」・・・こんな情の深い女性もまた希有なことなのであろう。この情の深さが映画女優として,その演技をとおして,一人の観客にすぎないわたしのこころにもするりと入り込んできていたのだろう。あのスクリーンをとおして伝わってきた藤間紫の「情」が,いままたなまなましく甦る。

人が生きるということの意味を,しみじみと考えてしまう。

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