Diary


2009-07-01 松岡正剛著『多読術』

_ 昨日の『般若心経』と一緒に,松岡正剛さんの『多読術』(ちくまプリマー新書)が,やはり,わたしの眼に飛び込んできたので買った。

こうして買った本にほとんどはずれはない。その実績どおり,面白かった。ちょっとだけ,拾い読みするつもりだったのが,いつのまにか本気で読んでいて,気がついたら終わっていた。「編集工学」などということばも初めて知って,遅きに失したかとは思うが,とても勉強になった。

最近は,松岡正剛の名前があちこちで眼につくようになり,この人の「異能」ぶりがいかんなく発揮されている。まあ,とんでもない人のひとり。世の中には,いろいろの「とんでも人」がいるが,この人もまた際立っている。しかも,面白い。

最初に知ったのは『千夜千冊』の,これまた「とんでも本」であった。本屋さんでかなりのところまで触手が動いたが,禁欲した。その代わりにインターネット上に展開されている「千夜千冊」を,キーワードで検索して,面白そうなところを拾い読みしている。たとえば,アフォーダンスやオートポイエーシスなどということばは,哲学関係の辞典で読むよりはずっとわかりやすいし,読んで面白い。なるほど,そういうことであったか,という発見(脱線?)もふんだんに盛り込まれていて,とても賢くなる。だから,つられて,つぎからつぎへと,検索をしては読みつないでいる。ちょっとした時間があるときの楽しみとしては申し分ない。その意味ではとてもありがたい人でもある。

まあ,それにしても,この人の「多読」ぶりはどうなっているのか,びっくり仰天である。しかし,セイゴーさん(『多読術』のなかでは「セイゴーさん」と呼ばれている)に言わせれば,どんなに忙しい人でも食事はするでしょ,それと同じ,とのこと。しかも,本の読み方も食事をするのと同じように,その日に食べたいなと思った本を読む,のだという。そうすれば,どんな本でも面白く読める,という。絶対に義理で読むことだけはしない,と。ただ,ひたすら読みたいと思った本だけを読む。それでも,ときおり,本の内容が重すぎて,途中で食傷ぎみになって,スランプに陥ることもあるという。そんなときには,調子を取り直す意味で,軽いものを読むのだそうな。それは,雑誌でもいいし,漫画でもいい。絵がいっぱいあったり,写真集であったりすると,楽しいからスランプから脱出するにはとても助かるとのこと。しかも,本にいい,わるいという評価はない,と。いかなる本であろうとも,なんらかのメッセージをもっている。心の狭い評論家が悪書であると決めつけたところで,立場を変えれば,それはきわめていい本ということになる。かつて,発禁本になった本のじつに多くの本が,その後,時代とともに名著として迎えられている,ともいう。たとえば,と言ってセイゴーさんが挙げる本は以下のとおり。

マキアヴェリ『君主論』,『アラビアン・ナイト』,『デカメロン』,スタンダール『赤と黒』,フロベール『ボヴァリー夫人』,マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』,ディケンズ『オリバー・ツイスト』,ストウ夫人『アンクル・トムの小屋』,スタインベック『怒りの葡萄』,フォークナー『サンクチュアリ』,ヘンリー・ミラー『北回帰線』,パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』,ジョージ・オーウェル『動物農場』,ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』,ナボコフ『ロリータ』,など。

なるほど,なるほど,と納得することばかり。

まあ,とにかくてんこ盛りに,本との付き合い方がこれでもかこれでもかと展開していく。あっという間に読み終えているからびっくりである。もちろん,この人の話のテンポのよさもある。それ以上に,えっ,と驚く回数の多さに,われながらあきれてしまう。だから,気がついたときには,完全に虜になっていて,ぐいぐいと引き込まれていく。

こうなったら,『白川静』(平凡社新書)も読んでみようかという気になってくる。そうだ,スランプのときに読むと元気がでてくるかもしれない。読書の連鎖反応が起きそうだ。折をみて楽しむことにしよう。

セイゴーさんに感謝。

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2009-07-02 タリバーン掃討開始。

_ とうとうアメリカの海兵隊4000人が投入され,タリバーンを掃討する大規模な作戦「剣の一撃」なるものがはじまった。

アフガニスタンが,いま,どのような状況になっているのか精確な情報が少ないなか,漏れ伝わってくるのはよくない話ばかり。アフガン南部はむかしから部族社会が根強く残っていて,キリスト教文化圏で育まれてきた民主主義とはおよそ相容れない,イスラム教の教えを基本にすえた制度や組織を形成してきた。それを「民主化」という名の「正義」(アメリカの立場)のもとに一元化しようという,恐るべき「暴力」(部族社会に生きる人びとの立場)がまたまた繰り返されようとしている。

かつて,アルカイーダを全滅させる作戦に討ってでたにもかかわらず,結果的には失敗に終わったことを忘れてしまったとでもいうのであろうか。失敗どころか,その反撃が「9・11」となって跳ね返ってきたことを,よもや忘れてはいまい。にもかかわらず,またまた同じ挙にでようというのだ。世界に君臨して,しかも,単独行動主義を標榜する大国アメリカが,「正義」という名のもとに大きな「暴力」をふるえばふるうほど,それにこころよく思わない無名の大衆が増大し「マルチチュード」を形成している事実を,どこまで認識できているのだろうか。

少なくとも「ブッシュ君」(日本語名を「藪君」という)とは異なる政策が展開されるものと「イエス・ウィ・キャン君」に期待したのだが・・・・。やはり,アメリカという国の血統は少しも変化してはいないようだ。はたまた,アフガン南部が泥沼化していくのかと思うとぞっとする。タリバーンを掃討するという名のもとに,どれだけの一般国民が犠牲にさらされることになるのか,これまでのアメリカのやり方をみれば歴然としている。

かつて,アフガニスタンという国がどのような歴史を刻んで今日にいたっているのか,ということを初めてわたしに認識させたのは,松浪健四郎氏の書いた名著『アフガン,褐色の日々』(中公文庫)であった。そこには,王族を中心とした部族社会特有の,古くからの文化が根づいていて,人びとはそれなりの生活を維持してきたことが描かれていた。言ってしまえば,ヨーロッパのキリスト教文化圏とはまったく異なる,イスラム文化圏に特有の風俗・習慣から生まれる独特の文化が浸透していたのである。

当時の松浪健四郎氏は,海外青年協力隊員の一員としてアフガニスタンに派遣され,若き青年の眼をとおして,アフガニスタンでの日々の生活,すなわち「褐色の日々」の記録を残したのであった。その当時のアフガニスタンは発展途上国ではあったが,それなりの「平和」な日々が流れていた。松浪氏の眼は,おのずから,スポーツ史やスポーツ人類学の専門家として,アフガニスタンの各地に伝承されている「相撲」や「馬のラグビー」や「アフガン・ファウンド」などに向かい,詳細な報告を残している。

その直後から,アフガニスタンの悲劇がはじまる。それを,だれが仕掛けたのか,などということは,もはや言いたくもない。それから以後のアフガニスタンの歩んだ道程は,日本に暮らしているノーテンキなわたしたちですら,かなり詳細に承知している。そして,アフガニスタンの悲劇からイラクの悲劇までは一直線だ。その主役も同じだ。

そして,いま,また,同じ轍を踏もうとしているかにみえる。松浪氏が描いたアフガニスタンの古くから伝承されてきた「スポーツ文化」は,こうしてまた,木っ端微塵に破壊されていくことになる。

「正義」という名のもとに「暴力」をふりかざす独裁者の首に,だれか鈴をつける勇気ある人は現れないものだろうか。「イエス・ウィ・キャン君」はとっくに気づいていると思っていたのだが・・・・。アメリカ帝国没落のシナリオがこれでまた,ますます,加速されることになるのだろうか。

こんどの「タリバーン掃討作戦」の開始が意味するところを,しかと見届けておきたいと思う。

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2009-07-03 観音導利院興聖宝林寺。

_ 観音導利院興聖宝林寺。道元禅師が中国から戻って,最初に建てたお寺の名前である。宝林寺は,わたしの母の在所のお寺と同じ名前である。

もちろん,曹洞宗の寺である。母の兄にあたる人(わたしから言えば大伯父)がその寺の住職であった。一道(いつどう)というのが僧職としての名前であった。こどものときから可愛がってくれた,わたしの大好きな大伯父である。この大伯父から,この寺の「宝林寺」という名前は,道元さんが京都の深草に最初に建てた寺と同じ名前だよ,と聞いていた。だから,わたしにとっては,特別に新しい発見でもなんでもない。しかし,いま,少しずつ読みつないでいる立松和平の小説『道元禅師』下には,この名前が何回も何回も繰り返し登場するので,わたしにとってはなんともはや心地よい。

いま,この大伯父のことを「母の兄にあたる人」と書いたが,それにはいささかの事情がある。わたしの母の母,つまり,わたしの祖母は尼さんだった人で,縁があってわたしの祖父(この人が宝林寺の住職だった)と結婚した。しかし,長い間,子宝に恵まれなかったので,跡取りとして自分の異母弟を養子にした。一人だけでは可哀相だというので,近隣の禅寺の次男坊であったわたしの父が,弟として養子に入った。それからまもなくして,わたしの母が誕生し,つづいて妹が生まれた。だから,養子を二人もらったところに実子である娘が二人生まれ,4人兄妹というようにして育った。だから,わたしの父と母は,兄妹として育った。

大伯父は,いまの駒澤大学に進学し,父は早稲田大学に進み,二人は東京でも仲良く助け合っていたという。父は卒業後,大阪の富田林高等女学校に職をえて(英語の教師),母と結婚した。そこで,わたしは三男として誕生した。いろいろとあったが,父は大阪から秋田に転勤し,やがて郷里の豊橋に転勤。そこで,戦災にあって焼け出され,母の実家である(父にとっても実家)大伯父の寺・宝林寺に疎開した。そこで,戦争が終わるまで,大伯父の家族と同居して育った。だから,大伯父の子どもたちとも兄弟同然のようにして,一緒に食事をし,風呂を沸かし,海に遊びに行ったりした。わたしたち兄弟に泳ぎを教えてくれたのは,この大伯父であった。

もうひとこと添えておけば,わたしは結婚して8年間,子宝に恵まれなかった。そうしたら,この大伯父が「おれがインドのお釈迦さまのところに行って,子宝に恵まれるよう頼んできてやるから安心しろ」という。ならば,というので,羽田空港まで見送りに行った。その翌年,いまの娘が生まれた。だから,娘もこの大伯父に,ことのほか可愛がられ,娘も大好きになった。つまり,この大伯父はわたしたちにとっては,ちょっと類例のないほどの大きな存在であった。

ひとつだけ,この大伯父の逸話を書いておけば,以下のようである。ある夏の日の夕刻,法事があって本堂でお経をあげていた。突然,雷が鳴りはじめ,土砂降りの雨となった。その雷鳴の激しさがまた尋常ではなかった。一緒にお参りをしていた檀家の人びとも怖くなってきて,庫裏に引き揚げ,わたしたち家族と一緒の蚊帳のなかに避難してきた。しかも,寺の近くに落雷まであった。にもかかわらず,この大伯父はただ一人で読経をつづけていた。あとで,檀家の人たちが「和尚さんは怖くないのか」と尋ねたら,「雷は落ちるときは落ちる,落ちないときは落ちない,心配しても仕方がない」と答えていたことを,わたしはいまも鮮明に記憶している。

わたしたち兄弟にとっては,この大伯父は尊敬の的であった。ときに厳しかったが,ふだんはやさしく可愛がってくれたし,柔道の達人でもあって,筋肉隆々たるからだは憧れでもあった。

そんな大伯父のことを思い出しながら,立松和平の小説『道元禅師』を,少しずつ読んでいる。いまちょうど,比叡山の圧力(いやがらせ)が強くなってきて,とうとう,この観音導利院興聖宝林寺をでて,越前志比庄に新天地を求めて逃げのびていくところを読んでいる。いつの世も,ほんとうに秀でた人物や思想は,権力にとってはまことに都合がわるいので,あの手この手で圧力をかけて意地悪をする。なんともはや情けないことではある。いまも,この構図はまったく変わらない。

いやいや,ほんとうは,道元さんの話をしながら,こういう腐敗する権力の問題について書くつもりだったのに,いつのまにやら大伯父の話になってしまった。わたしが成人してから聞いた話では,わたしはこの大伯父のところの養子になることがほぼ決まりかかったことがある,という。だから,まかり間違えば,いまごろは宝林寺の住職になっていたかもしれない。

そんなこともあってか,いまでも,時折,この大伯父のニッコリ笑った顔が脳裏に浮かぶことがある。しかも,その頻度が高いのである。そのつど,わたしはあわてて『般若心経』を唱えることにしている。わたしの両親とほぼ同じくらいの頻度で,脳裏に現れる。そして,いろいろとわたしを励ましたり,助けてくれたりする。

なんで,こんな話を書いているのか,これも不思議ではある。道元さんのことを書くつもりだったのに。

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2009-07-04 仏道をならふといふは・・・。

_ いま,読んでいる『道元禅師』(立松和平)の下がとても面白い。なぜなら,道元の『正法眼蔵』をわかりやすく説いてくれるからだ。

たとえば,『正法眼蔵』のなかにある「現成公按」(げんじょうこうあん)の巻につぎのような有名な一文がある。

「仏道をならふといふは,自己をならふ也。自己をならふといふは,自己をわするるなり。自己をわするるというふは,即ち法に証せらるるなり」

これを立松和平は,小説のなかで,道元の説話として,つぎのように語らせている。

「仏道を学ぶということは,自己を学ぶことなのですよ。自己を学ぶということは,自己を忘れることです。自己を忘れるということは,自己が万法に実証されるということです。自己が万法に実証されるということは,自己の身心と他の身心との対立が消え,解脱した自己を得ることができるということです。その時には解脱境にあり,さとりの跡形さえ残っていません。完全になくなっているさとりの跡形を,そのままどこまでもどこまでも行い現していくのです。」

という具合に,読みくだいてくれる。道元のいう「即ち法に証せらるるなり」をどのように解釈するかは,いろいろと議論のあるところだ。だから,補足説明をして,読みくだしをしてもらわないとわからない。しかし,小説という技法をつかって,立松和平は,一般の読者にもわかるように,さらりと書いてくれる。ありがたいことである。

わたしの好きな「百尺竿頭一歩を出ずる」ということばの説明も,立松和平の手にかかると,とてもわかりやすくなる。このことばは,『正法眼蔵随聞記』(4・1)にでてくる有名なことばで,その解釈もまたさまざまだ。まずは,原典の読みくだし文を紹介し,そのあとで,立松和平の解釈を紹介してみよう。

「学道のひとは身心(しんじん)を放下(ほうげ)して,ただひたすらに仏法の中にはいるべきです。

古人はいいました。『百尺の竿頭(かんとう)の上にあってなお一歩を進めなさい』

いかにも百尺の竿頭の上に登って,手を放せば死んでしまうと思って,人はいっそう強くとりついてしまうものです。それを思い切って一歩進めなさいといっているのは,教えにしたがうのだからまさか悪いことにはなるまいと思い切り,すべてを捨ててしまえばよいのです。そうではなるのですが,世渡りの仕事からはじめて,自分の生活の手段に至るまで,どうにも捨てられないものですね。それを捨ててしまわないうちは,髪の毛について火を払うようにして余裕もなく学道をしていても,道を得ることはできません。思い切り,身も心もともに捨ててしまいなさい」

立松和平は以下のように解説する。

「・・・道を究めようとする最後のその一歩は困難きわまりなく,その一歩によって世界が開かれると,私は長いこと理解していた。もちろんそれで間違いはないのだろうが,困難な最終的な一歩とはどのようなことであるのか。努力をすれば,なんとか進むことができる一歩なのか,あまりにも困難きわまりない凡夫には不可能に近い一歩であるということである。長いこと私が考えていたのは,努力が足りないからその一歩を進めることができないという凡庸なことであった。そうではないと,やがて考えを改めた。百尺の竿頭の上に立っても,その先にはなにもない。なにもないのだが,なお一歩を進めなさいと説いているのだ。それでは死んでしまうではないかなどと己れを守ることは考えず,思い切って仏の家に身を投げ入れてしまいなさいということだ。用心深く一歩一歩を進めるのではなく,なにもない世界に向かって一気に身を投げ入れることによってしか,到達できない世界がある。そこまでいきなさいと,道元禅師は力強く私たちを励ましているのだ。」

ここでは「仏の家」という補助線を引いて,立松和平は一気にわかりやすく説明する。しかし,では「仏の家」とはどういうところなのか。これは,言ってしまえば,「信仰の世界」「仏教の世界」,すなわち,「涅槃」であり,「菩提」であり,「浄土」であるということだ。つまり,理性的に説明できる限界を超えた世界のことで,ここにはどうしてもひとつの飛躍が必要になってくる。信仰の世界に入るときの,ジャンプできるかどうか,ということだ。そこをひとつ超えていくと,そこには世俗とは違った,まったく自由な世界がひろがっている。

それを「坐禅」で求めなさい,というのが道元の教えだ。只管打坐。ただ,ひたすら坐りなさい,と道元は説く。坐っている姿がさとりの姿だ,と。さとりは坐っている姿をとおして表出される,と。だから,だれでも坐ればいい。そこに,その人のさとりの姿がおのずから現れる,と。修行を積むと,おのずから坐禅の姿が美しくなってくる,と。つまり,「自己を忘れ,法に証せらるる」ようになる,と道元は教える。

久しぶりに坐禅がしたくなってくる。でも,道元は「行住坐臥」,すべてが修行だという。坐禅と同じだ,と。ということは,日常生活のすべてが,坐禅に等しい,ということになる。そこにさとりのレベルが表出しているというのである。もう,こうなったら,あるがまま,と開き直るしかない。それもまたひとつのさとりの姿なのだ。

肩肘張らないで,無為自然をよしとすべし,か。これは老子の世界だ。でも,禅の世界と老子の世界は通底するものが多いから,それでいいのだが・・・。

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2009-07-06 ミカエル・ジャンさんの顔。

_ 久しぶりに素晴らしい笑顔をした人に出会った。しかも,新聞紙上で。こんなにも微笑みの美しい人に「直に」会ってみたいとこころが動く。

その人の名は,ミカエル・ジャンさん(51歳)。カナダの元首。今日の朝日新聞の「ひと」蘭に紹介されている。その記事によれば,「05年9月,首相から推挙され,黒人初の総督に就任した。象徴的な立場だが,英連邦に属するカナダの,事実上の国家元首にあたる」とある。いまから4年前だから,47歳で元首に就任したことになる。

見出しには,「元ハイチ難民のジャーナリスト」とある。長い記事ではないので,以下に転載しておこう。

カリブ海の島国ハイチに生まれた。独裁政権に父親が拷問を受け,11歳のとき,家族とカナダに難民として逃れた。父親の暴力に母親が苦労するのを目の当たりにしたことから,虐待を受けた女性のための支援に学生時代から携わった。その活動家の顔が「私の原点」という。

カナダは建国の礎を築いた英仏系だけではなく,210の民族を抱え,移民も増え続ける。「移民にやさしい」多文化国家として発展する国を象徴する存在に,白羽の矢が立った。「人々が多様だと,国を豊かにしてくれる。世界中の人がいるということは世界とつながりが強くなるということ」。英,仏,伊など5カ国語を自在に操る。

著名なジャーナリストでもあった。ドキュメンタリー番組制作で表彰を受け,ニュース番組のアンカーを務めた。「人の話を聞くのが仕事。相手の思いを酌み取る訓練は今に生かされている」。就任後も行動力は健在で,極北の地でアザラシの心臓を口にしたこともある。

独自にサイトを立ち上げ,若者との対話を心がける。報じられる側に移り,「私だったらこう伝えるのにと思わないこともない」と笑う。

6日には日加修好80年を記念して天皇,皇后両陛下を迎える予定だ。

以上。

なんともいえないこの微笑み。癒される笑顔だ。色が黒いのは当然だが,なんともやさしい眼差しである。厳密にいえば,眼はやや斜視だが,それがチャームポイントになっているのだから不思議だ。じっとみていると,やはり彼女のライフ・ヒストリーをとおして舐めた辛酸や,それらをクリアしてきた人に固有の懐の深さとこころの温かさが伝わってくる。それでいて,どこか遠くを見据えているような,深いまなざし。やさしい仏像のような,そこはかとなく安心感を与えてくれる。こういう顔をした人が,もっともっと増えてくるといいのだが・・・・。いまは,逆にどんどん姿を消している時代というべきか。

こういう人に出会うと,やはり,顔の表情というものは奥が深いなぁ,としみじみ思う。最近の日本人の顔はなんだか,どんどん薄っぺらになっているのではないか,と思う。男の顔で,自信に満ちた顔というものに出会うことが極端に少なくなってしまったように思う。わたしが大学に入って上京してきたころの東京には,「おれが日本を背負っている」というような顔をした人に,電車のなかでも出会うことがあり,圧倒されたものだ。最近は,こういう顔をした人に滅多に出会うことはない。女性はおしなべてむかしよりはきれいな人が増えたし,スタイルも格段に美しくなっている。にもかかわらず,うっとりするようなチャーミングな人に出会うことは少ない。どこに行ってしまったのだろう。

こころの奥底からおのずから滲み出るなにかが,ぱっと花が咲いたように広がる微笑み・・・。女性に限らず,男性にもそういう人がいた。しかも,かなり大勢いたように思う。最近もいないわけではない。ただ,あまりにも少なくなってしまった。寂しいことだ。なにが,そうさせてしまったのだろうか。このあたりのことを本気で考えないと,未来はみえてこない,としみじみ思う。政治も経済も,芸術も芸能も,そして,教育もスポーツも,人びとの顔を美しく輝かせることを第一義に考え直さないといけないのではないか,とミカエル・ジャンさんの微笑みに接して,気づかされた。

人の顔は大事だとしみじみ思う。

いい顔をした人に出会いたい。

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2009-07-07 新疆ウィグル自治区の弾圧。

_ 5日の夜に始まった「騒乱」で,とうとう156人の死者がでたという。しかも,この数字は中国の国営通信の発表によるものだ。ほんとうの数字はわからない。

昨年の北京オリンピックのときから,いろいろととりざたされてきたが,外国の取材がすべて拒否されたために真相はまったくの闇の中のまま終わってしまった。その後も,小さな記事がときおりでてくることはあっても,すべて中国当局の発表するものをそのまま「及び腰」で伝えるのみである。いつまでたっても真相はわからない。

漏れ伝わってくるかぎりでの憶測では,どうも,チベット問題ととてもよく似ているように思う。つまり,漢族が移住してきて,持ち込んだ資本をもとに街の中心部をすべて抑え込んで,大きな利潤をすべて独占してしまう,このシステムが。そして,この成功した人たちを頼ってつぎつぎに漢族が移住してくる。その一方では,ウィグル族の若い男女を中国の都会に送り込んで,低賃金ではたらかせ,しかも,その土地に住みつかせる戦略をとっている。そして,何年かのちには(それがたとえ100年かかろうが)住民投票をして意志決定をする。そのときには,すでに,漢族が過半数を占めることを前提に,遠大なる計画が着々と進んでいる・・・・と,チベット問題をとおして透けてみえてくる。

今回の事件の引き金となったのも,ウィグル自治区から出稼ぎにでていた労働者が漢族に襲われて2人が死亡,118人が負傷するという事件が起きている。これも中国の国営通信の伝えるものだ。

でなければ,ウィグル族が叛乱を起こす理由がない。しかも,圧倒的な「暴力」がそこにははたらいていると類推することができる。その一端が新聞にも報じられている。たとえば,「在日ウィグル族でつくる日本ウィグル協会が,現地の複数の目撃者から集めた情報によると,今回の騒乱で治安部隊の車両の下敷きになり,少なくとも市民17人が死亡。また,治安部隊の発砲で死者が100人を超すとの情報もあるという。ただ,日本時間6日午前2時から現地との電話やインターネットの接続が遮断されており,その後の詳しい状況は把握できていない」という。

さらには,「一昨日から昨日にかけて警官が各家庭を回り,夫や息子たちを連行して行った」という証言もあり,地元警察当局の発表ですら1434人の身柄を拘束した,という。実際はもっと多くの人々が身柄を拘束されていると思われる。まことに恐ろしいことがいま新疆ウィグル自治区のウルムチで進行している。

ことしの10月には建国60周年を迎える中国当局は,これからますます少数民族に対する監視と引き締めを強化する,と予測されている。となると,こんごしばらくは,中国少数民族の動向から眼を離すことはできない。

それにしても,弱者とはむなしいものだ。耐えて耐えて耐え抜いたあげくに,デモをしただけで,警察当局は発砲してくる。発砲しなくてはならないほどに悪事を重ねてきたという弱みを自分たちがもっともよく知っている証拠でもある。

それにしても,中国という国はわからない。一人ひとりの中国人と接しているかぎりでは,ごくごく普通の善良なる日本人と同じである。ただ,少しだけ違うとすれば,一人ひとりが個として確立していることと,とりわけ漢族の人たちの中央政府に対する絶大なる信頼,がある。この人たちに,たとえば,この新疆ウィグル自治区の話をすると,とたんに人格が変わるだろう。それは,以前,チベット問題について話を向けたときに経験したことである。その徹底ぶりには唖然とするほかはなかった。

この落差の大きさはいったいどこからくるものなのだろうか。わたしには,以前からの,深くて大きな謎である。徹底した国家イデオロギーによる教育の成果というべきか,それとも,民族性というべきか,あるいはまた,この100年ほどの間に中国が国際社会からないがしろにされてきたことに対する歴史的な国民感情とでもいうべきものなのだろうか。

いずれにしても,新疆ウィグル自治区の「不祥事」をめぐる問題の根は深く,しかも深刻である。平和ボケしてしまったわれわれ日本人には,非現実ではないかとすら思えてしまうほどの,遠い遠い「隣国」(ヨーロッパよりははるかに近いにもかかわらず)のできごとに思えてしまうから,なおのこと始末が悪い。

国際社会とはいったいなんなのだろうか。ただ,強いものには巻かれ,弱いものには蓋をする(眼を瞑る),それだけのものでしかないではないか。ああ,情けない。

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2009-07-08 情報の客観性とは?

_ 新疆ウィグル自治区の「騒乱」について,いまも考えつづけている。いったい「騒乱」とは,だれが,どの立場に立ったときの見方なのだろうか,と。

ウィグル族の人びとにとっては「騒乱」どころの話ではない。冗談じゃない,命懸けだぞ,と怒るだろう。では,日本のマスコミにとって「騒乱」なのだろうか。それも違うだろう。なぜなら,ほんとうのところが見えていないのだから。では,だれにとって「騒乱」なのか。それは明白だ。この事件を最初に報道した,中国の国営通信新華社が「騒乱」と名づけたからだ。それをそのまま,日本のジャーナリズムが受け売りしているだけのことである。しかし,なにも知らない一般読者は素直に新疆ウィグル自治区で「騒乱」が起きたらしい,と字面どおりに受け止める。少しだけものごとを考えることのできる人は,「ちょっと変だぞ」と受け止め,ことの真相を知ろうとする。しかし,報道規制がしかれていて,外国人記者の取材もままならないことは,北京オリンピックのときの「騒乱」報道をとおして,わたしたちはすでに知っている。今回も同じだ。

今日の新聞によれば,こんどは漢族の人たちがこん棒やシャベルを手にしてデモをはじめたという。こちらは,自衛のためと称して企業からこん棒やシャベルを支給されたといい,地元警察もなんの規制もしない。この漢族の人たちがウィグル族の住区になだれ込んだときに,衝突が起き,双方ともに暴徒化した。しかし,片方の暴徒は地元警察に守られている。他方の暴徒は,圧倒的な武力の差で鎮圧され,死者まででてしまう。

この構図,いつも,どこかでみているような気がする。そう,イスラエルとパレスチナの関係と同じだ。そして,アメリカとテロの関係も。

チベット族の「暴動」のときもそうだったが,ことのはじまりはデモを規制する治安部隊の車が一般市民を何人も轢き殺し,その死者たちをどこかに運び去ったために,それを見ていた一般市民が「暴徒化」したのだ。それを「騒乱」で片づけようとする国営通信の意図はよくわかる。しかし,それを日本の報道機関がそのまま「受け売り」することの意味がわからない。もちろん,詳しい情報がわからないのだから仕方がない,ともいえる。しかし,何日か日が経てば,次第に全体の様子はわかってくるはず。そこからでもいい,「騒乱」ではなく「暴動」だ,と訂正すればいい。しかし,今回のこの問題は,おそらく最後まで「騒乱」で押し通すのだろう。日本の報道機関は中国の報道機関に対して,恐ろしいほど腰が引けているから。

とにかく,情報を取り扱う人たちの「立ち位置」によって,その情報の意味内容はまったく違ってしまう。

かつて,全共闘運動はなやかなりし頃に,中国から「造反有理」ということばが輸入され,もてはやされたことがある。このことばの意味をもっともよく理解しているのは中国のはずだ。こんどのウィグル族の人たちが「命懸け」で立ち上がったのも,「理由があってのこと」だ。それを徹底的に「力」で弾圧し,もみ消しにしようとしている。このむかしから繰り返されてきた恐るべき「暴力」について,われわれはもっともっと関心をもつべきだろう。なぜなら,これと類似の,小型化された「暴力」は,わたしたちの日常生活のなかにもつねに登場していることなのだから。この日常の「暴力」に眼を瞑ってやり過ごす体質が,大きな「暴力」をも他山の火事として見過ごしてしまうことにつながっている。

この体質が,じつは「国際社会」というところにまで浸透している。自分の国の利害にかかわることだけは「キャンキャン」騒ぐけれども,それ以外のことは知らん顔。あとは,力のバランス・シートにゆだねて,様子をうかがっているだけ。要するに日和見主義。だから,大国による「単独行動主義」が悠々とまかりとおることになる。

どう考えたって奇怪しいではないか。奇怪しいことは奇怪しいと声を大にして言わねばなるまい。そして,その感性をもっともっと研ぎ澄ましていかなくてはなるまい。そうしないと,ますます人間は堕落していってしまう。そうならないためにも・・・。ただ,その表現の方法は個々人にゆだねるとしても。

この問題は,じつは,もっともっと根の深い問題であって,こんな単純なことではない。教育に携わる人間も,研究に携わる人間も,あるいは,企業で働いている人間も,公務員も,自営業の人たちも,農家の人たちも,みんな同じだ。

このテーマはこれからも折に触れて登場することになるだろう。そのつど,真剣に考えていってみたいとおもう。みなさんの声をお聞かせください。

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2009-07-09 長嶺ヤス子のフラメンコ。

_ 久々に長嶺ヤス子がフラメンコを踊るという情報が新聞にでている。見にいきたい。でも時間がない。

何年か前に,長嶺ヤス子のフラメンコを歌舞伎座でみるという僥倖に恵まれたことがある。もう,どう表現したらいいのかことばもないほどの興奮を覚え,これぞ長嶺ヤス子,と心酔した。あの,たった一回だけの公演は,いまも鮮明に記憶に残っている。そうだ,あの公演は「一回」しかできないだろう。「二回」目はありえない,というほどの完全燃焼だ。ダンサー・長嶺ヤス子が燃え尽きるほどの熱演だった。もう,残りのエネルギーはどこにもない,というほどのすさまじいまでの激しい踊りだった。

フラメンコは,それこそこれもまた遠いむかしに,スペイン・マドリードで現地のステージをみたことがある。なるほど,これがフラメンコか,と少なからず感動した。それ以後は,テレビでかいま見る程度のことでしかなかった。が,それから何年か経って,長嶺ヤス子の歌舞伎座公演に接して,それはもはやスペインのフラメンコのレベルをやすやすと越え出ていて,日本の女性のからだの根源から吹き上げてくるような怨念と憎悪と愛と喜びとが織りなされて表出する,恐ろしいほどの踊りだった。こんなダンスが世の中に存在するのか,あるいは,こんなダンスを表現できるダンサーがいるのか,とわが目を疑ったほどである。あの鍛えあげられた肉体,そして,激しい感情の表出,恐るべき集中力,いまにも火を吹き上げて燃焼してしまいそうなほどの肉体へのあくなき攻撃・・・。長嶺ヤス子とはいかなる者か・・・としばらくの間は,その亡霊につきまとわれていた。まさに,情熱の女(ひと)というにふさわしい。

その長嶺ヤス子が,「恋のもつれ」からしばらく公演契約も途中破棄して,フラメンコから遠ざかっていたという。その長嶺ヤス子がもどってくる,という。これは「ただごと」ではない。しかも,7月15日〜20日まで「ヤス子・カルメン」を踊り,21日には「YASUKO Returns!」を踊る。どちらも魅力的だが,21日の一回かぎりの公演,しかも,6日間「カルメン」を踊ってきての7日目の最後の踊りに,なぜか,歌舞伎座公演のあの燃焼フラメンコがかぶさっていく。

これは,どう考えても「行くべし」だ。が,時間がない。たまっている原稿が,それを許さない。しかし,その原稿のことなどかなぐり捨てて,長嶺ヤス子のフラメンコに走るようにならなくては「ホンモノ」とはいえない。頭でわかっているのだが,それができない。小心者。いや,わかっていない,というべき。まだまだ,修行が足りない。酒行はずいぶんと積んできたのに。その効果,0(ゼロ)。

もっと自分のこころに素直になれ。知るべし。こころの疼きに素直に反応すべきことを。ほんとうの「快楽」を理性で殺してしまってはいけない,近代の競技スポーツのボタンのかけ違いは,勝利至上主義という「理性中心主義」にからめ捕られ,もっともっと素朴なスポーツの内包する「快楽」を犠牲にしてしまったところにある,と人前では偉そうなことを言いながら・・・・。情けない。

今夜も泡盛でも飲んで酔いつぶれるしかないのか・・・・。酔っぱらうには酔っぱらうなりの理由がある・・・。

酔っぱらって朦朧とした脳裏に,あの長嶺ヤス子の燃える肉体が跳ね回る。あの床を叩きつけるかかとは痛くないのだろうか・・・などと寝言をいいながら。

噂によれば,長嶺ヤス子は公演のあと「氷風呂」に入るとか,しかも,その「氷」もあっという間に溶けてしまって,いつしか「お湯」になってしまうとか・・・。「ヘェー,そうなんだ」と感心するわたし。「そんなことあるわけないじゃないか」と噂を語ってくれた友人。この落差。でも,わたしはこの噂を信ずる人でありたい。人になんと言われようとも。

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2009-07-10 第26回全日本武術太極拳選手権大会を見学。

_ 李老師から招待券をいただいて,今日(10日・初日)(12日まで開催),見学してきました。

西谷さんは学生指導が入っていて駄目(フランスから戻ったばかりなので,留守中の指導の補填),柏木さんは急に体調をくずしお休み。結局,ことしはたった一人で見学。受け付けを済ませて,フロアの本部席に案内してくれるというのを断って,一般席でのんびりと見学。いい気持ちでいたら,李老師から携帯に電話が入ってきて,こちらに降りてきてください,とのこと。李老師の顔も立てなくては・・・とも思い,降りていく。案の定,本部席の特等席に坐らされた。二つ隣は副会長兼専務理事,その隣は二階会長の席。副会長兼専務理事の村岡久平さんとは顔なじみなので(父上は村岡兼造さん),挨拶をしたら,かれの方からわたしの隣の席に移動してきて,なにかと話しかけてくる。まずは,「李さんがいろいろとお世話になっています。博士論文をはじめ,立派な本まで出すことができて,とても感謝しています」と切り出され,おやおやというところ。よほど機嫌がよかったのか,とても親しげにいろいろなお話をしてくれる。こんなにおしゃべりな人だったのだろうか,と思わず顔をじっとみてしまう。でも,とても人柄のいい人なので,話していても楽しい。議員立法をめざしている「新スポーツ振興法」のこととか,太極拳のこれからの普及の課題であるとか,中国の現状だとか(意外だったのは,中国では日本のような選手権大会をやっても,あまり人が集まらないとのこと),健康麻雀の普及の仕方だとか,つぎからつぎへと話がはずむ。でも,この大会の現場の最高責任者でもあるので,ひっきりなしにいろいろの人が挨拶にきたり,連絡が入ったりする。そのつど,中断するのだが,また,すぐにつぎの話がはじまる。あまりに親しげに話をしているものだから,本部席のまわりの人たち(この人たちも偉い人たちばかり)が,わたしの方をみて,この男,なにものだろうというような眼でじっとみる。じっと見られても困るのだが・・・。でも,考えてみれば,村岡さんと李老師に挟まれて坐っているのだから,目立って当たり前。しかも,不可思議なヒゲまで生やしている。帽子をかぶって,ペラペラのコットンのシャツ1枚。まわりの競技役員さんたちは,みなさんスポーツ・ジャケット(太極拳連盟のユニフォームか)をきてシャキッとしている。

この様子を遠くからみていたのか,村岡さんが席をはずすと,李さんのところに大会役員の人がやってきてコソコソ。そして,そのつど,わたしを紹介してくれる。単なるご挨拶だと思って適当に返事をしていたら,なにやら,「・・・・ぜひ,お力添えを・・・」というようなことを言っている。終わってから,李老師にあの人はどういう人なのかと聞いてみたら,「先生,そのうちになにか連絡があると思いますよ」という。なにか新しい研究プロジェクトを立ち上げて,太極拳を総合的に研究するチーフの人だ,という。おやおや,もっと精確に話を聞いておくべきだった,と後悔。でも,いいか,こちとらは「21世紀スポーツ文化研究所」で仕事をしているのだから,そういう立場から参画すればいい・・・と自分に説明。ずいぶん,いろいろの人を紹介され,こんなことをしていていいのだろうか,と思う。

太極拳に集中する暇もない。困ったなぁ,と思っていたら,村岡さんが「これから中国の代表団を羽田まで迎えに行ってきます」といって,お別れのご挨拶。ここから,ようやく李老師と太極拳に集中。細かい手足の動作の仕方について事細かに質問。丁寧に説明してくれる。聞けば聞くほどに奥の深さがわかってくる。そうか,足を一歩前に運んで体重を移すだけのことなのに,そんなことにまで気配りをしながら稽古をし,それが身につくまで繰り返すのだ,ということがわかる。

では,この選手たちは一人もできてはいないではないか,とわたし。そう,指導者が悪いから,と李老師。指導者がわかっていないということ? とわたし。そう,そのとおり,と李老師。じゃぁ,指導者講習会をやらなくちゃぁ,とわたし。いつも繰り返しやっている,と李老師。では,どうして? とわたし。こういうことはセンスの問題だから,わからない人にはわからない,と李老師。このあたりからは厳しい。だから,なにも言わないのだ,と。そして,「先生みたいに,細かなことを質問する人はほとんどいない」という。そして,「なぜ,先生はそんなところに気づくのか」と李老師。仕方がないので,「わたしは体操競技をやっていた人間だ」というと,はじめて李老師が納得してくれる。

お蔭で,これからの独り稽古の目標がはっきりしてきた。大きな動作よりは,小さな動作のなかにこそ,とてつもない秘密が隠されていることが,こころの底から納得。やはり,今日はきてよかった,と大満足。

プログラムの最後の,男子24式太極拳・C,にときどき一緒に稽古することのある野田康太君が出場する。これまで42式で2位がつづいていたので,少し気分転換に24式に挑戦することにした,と李老師。いよいよ,かれの演技がはじまる。李老師は,なにやら独り言をブツブツ言っている。よくよく耳を傾けていると,違うとか,そうじゃないとか,そうそうとか,それだよとか,ときどき中国語がまじる。わたしが見るかぎりでは,他の選手とはまったく次元の違う演技をしているようにみえる。もう,完璧に近い,と思う。欲をいえば,李老師のような「溜め」がほしい。「力強さ」と言えばいいだろうか。でも,わたしは野田君の演技を絶賛した。李老師は,にやりと笑って,「まあまあね」という。でも,全員の演技が終わってみたら,28人中のトップ。しかも,ダントツの点がでている。

初日が終わった時間はなんと午後7時。李老師が「ああ,お腹がすいた」というので,夕食にでる。体育館をでようとしたところで,野田君のご家族が待ち構えていた。「おめでとう」と声をかける。みんなニコニコ顔だ。こういう場面であっても,李老師にはつぎつぎに声をかける人がいる。ここにいたら外に出られなくなるからということで,大急ぎで外にでる。それでも,会う人会う人,みんな挨拶をしていく。李老師はすごいなぁ,としみじみ思う。毎回のことながら。

今日は,ほんとうにいい勉強ができた。これからの太極拳の稽古にも熱が入りそう。ますます面白くなってきた。見学に行って,よかった,と思う。ほんとうのところは,12日のトーク・セッションのことが気になっていて,太極拳どころではなかったのだが・・・。でも,やはり行ってきてよかった。トーク・セッションで太極拳の話が展開するかもしれない。そういうネタ仕込みにもなっている。ありがたき幸せ。

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2009-07-11 バタイユ主義者,だって?

_ 明日のトーク・セッションのことがやはり気になり,なすすべもなく仕掛け人の佐藤真さんのブログを開いてみる。

驚いたことに,6月22日(月)に鷺沼の事務所で一献傾けたときの話がブログに書かれている。しかも,終わりのところに「ぼくよりももっとバタイユ主義者である」ということがわかった,とある。まあ,比較級(ぼくよりも)なのでいいか,とも思うがやはりここはひとこと申し上げておいた方がよかろう。

ひっかかったのは「バタイユ主義者」という言葉遣い。バタイユほど,「イスト」「イズム」を嫌った人間はいない,ということは佐藤さんだって百も承知のはず。にもかかわらず「バタイユ主義者」と書いた。それにはそれなりの意味があるはず。ただの,ありきたりの編集者ではない。松岡正剛の工作舎で鍛えられた名うての編集者のひとりだ。それがこんにちのポジションを獲得し得ている証拠だ。では,なにゆえに「バタイユ主義者」と言ったのか。自分がそうだから,稲垣も,ということにはならないだろう。わたしの感性でいえば,「バタイユ好き」と言われるのならば「はなまる」である。そのとおりだから。しかし,「イスト」と言われるとやはり相当に強い抵抗がある。

なぜならば,その理由は以下のとおり。

たとえば,バタイユがシュールレアリスムのアンドレ・ブルトンと意気投合して,新しい芸術運動を支持し,ともにその主張を展開したことは周知のとおりである。しかし,ブルトンが「シュールレアリスム宣言」を書いたとたんに,バタイユは「それは違う」とたもとを分かつことになった。つまり,「イズム」を鮮明にしたとたんに,その運動体は生命の躍動を失ってしまう。バタイユが求めたものは,あくまでも「差異ある反復」であったはずで,「差異なき反復」はこれまでの芸術運動と同じ,悪の再生産工場と化してしまう。だから,バタイユはさっさと決別してしまう。このとき,岡本太郎も一緒に,このシュールレアリスム運動のなかにいたはずなので,このとき,どのような行動をとったのか,知りたいところ。これはこれでまた別の問題。のちに,一度だけアンドレ・ブルトンとバタイユとの和解のときがあるが,それもすぐに解消。

バタイユという人は,つねに,なんらかの思想共同体を形成し,研究会なる共同体を立ち上げ,たえずみずからを叱咤激励することを止めなかった人だ。だから,つぎつぎに研究会を組織するのだが,すぐに解散する。たとえば,カイヨワなどとともに「社会学研究会」を組織して熱心に活動を展開するが,ほどなく,これも解散してしまう。その理由は,共同体が形骸化してしまうからだ。そうはならない研究会(共同体)を構築することはできないものかと,これほどこだわった人も少ないのではないかと思う。

だから,「バタイユ主義者」という言い方には,わたしは違和感がある。バタイユも同じように反応すると思うのだが・・・・。有名な話に,マルクスが,「マルクス主義者」ということばを聞いて,びっくり仰天した,という話がある。「わたしはマルクス主義者ではない」とマルクスが言った,という笑い話のようなほんとうの話。バタイユなら,「バタイユ主義者? 会ってみたいものだ」と言ったかもしれない。これは単なるわたしの想像。

わたしは「バタイユ主義者」ではない。「バタイユ好き」である。なぜなら,バタイユほどに「バタイユ的」に生きることを放棄しているから。現代の日本の社会にあって,「バタイユ的」に生きることはできないから。かりに強い願望があったとしても,そうは問屋が卸さない。だから,遠巻きにしながら,バタイユの「エクスターズ」や「非−知」という概念に接近しながら,これまでの「知」の地平を切り崩していく可能性を探っているにすぎない。しかも,とても及び腰のまま。

かつて,バタイユは「わたしはニーチェの思想をそのまま生きる」と言い切った。その前に,ハイデガーは「わたしはニーチェの思想を引き継ぐ」と言った。バタイユは,ハイデガーの思想を徹底的にチェックを入れながら,しかも,ハイデガーのことばを意識しながら,みずからの全体重をかけて「ニーチェの思想をそのまま生きる」と言った。この違いを,わたしたちはしっかりと肝に銘じておくことが大事だ,と思う。

ハイデガーがナチスにからめ捕られてしまったその経緯と,その犯罪性をしっかりと見届けた上での,バタイユの思想家としての「生き方」の高らかな宣言である。そして,その「生き方」を死ぬまで模索しつづけ,同時に,著作として書きつづけていったのである。バタイユの思想や哲学に「終わり」(ゴール)はない。つねに,みずからの思想を鍛え上げ,練り上げ,終わりのない闘いをつづけていたのである。

「イスト」になることは,生きる上で,まことに楽でいい。なぜなら,「マニュアル」があるのだから,そのとおりにすればいい。そういう人たちが,少なくとも,あの70年代の学生運動の展開のなかには多く見受けられた。だから,運動そのものが形骸化してしまい,情熱も方法論も枯渇してしまい,やがて,雲散霧消してしまった。そこを通過してなお,「わたしはなにをなすべきか」と問い続けつつ,活動をつづけている人が,ほんのわずかながらいる。その人たちの言うことにわたしは本気で耳を傾けたい。なぜなら,いまもなお,「差異ある反復」をしつづけ,自己変革をつづけながら,みずからの可能性を追い続けているのだから。

あえて,もう一度,言っておく。わたしは「バタイユ主義者ではない」と。「バタイユ好き」だと。言い方を変えておけば,「アルコール好き」ではあるが,「アルコール中毒患者」ではない,と。 

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2009-07-12

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2009-07-13 12日のトーク・セッションが終わって。

_ ずっと気がかりだったトーク・セッションが無事に終わり,ほっと一息,というところ。

昨夜,記憶の鮮明なうちに・・・と思って書いた報告文が,わたしのミスで一瞬のうちに消えてしまいました。どこを探してもみつからず,残念の極み。大いに気落ちしてしまい,もう一度,書こうと思ってもなかなかその気にならず,いまも,みずからを鼓舞しながら取り組んでいるところ。

まず,なによりも感謝しておかなくてはならないことは,トークのお相手をしてくださった柳澤田実先生が,じつに柔軟に対応してくださり,楽しくトークを終えることができたことです。初対面にもかかわらず,楽しく話がはずみ,もっと時間があればなぁ,と思ったほどでした。

ひとつには,柳澤先生が,スポーツに対してとても深い理解をもっていらっしゃり,いまも,みずからサッカーをして楽しんでいらっしゃる,ということがなによりの救いでした。ですから,当然のことながらサッカーの話になりました。そして,お説をうかがっていたら,今福さんと同じような主張をなさる。もう,このあたりですっかり意気投合してしまって,あとは,もう流れに身をまかせながらのトークとなりました。周到に用意していったメモはほとんどなんの役にも立ちませんでした。よくあることではあるのですが・・・。終わってから,懇親会の席で,ご主人さまを紹介していただき,お話をさせてもらいました。このご主人さまがなんとバレーボールの愛好者で,みずからプレイを楽しむと同時に,子どもたちを集めて教えていらっしゃるとのこと。肩幅の広い,がっしりとした体格は,完璧なスポーツマンのそれでした。それでいて,つい最近,博士論文を提出され(東京大学)その面接試験が終わったばかり,とニコニコ顔。とても爽やかな印象の好男子でした。

そこで,このお二人に,早速,わたしのやっている「21世紀スポーツ文化研究会」に遊びにいらっしゃいませんかとお誘いをしたら,「ぜひ,行かせてください」とのこと。まずは,名古屋例会のご案内を差し上げることになっています。タイミングがうまく合えば,出席してくださると思います。いまから楽しみです。

こういう人たちが,名古屋と東京での例会に加わっていただけると,またまた研究会のレベルがあがってきて,とてもありがたいかぎりです。われわれももっともっと頑張って,質のよいディスカッションをしていかなければならなくなってきます。そのための絶好のチャンス,とわたしは受け止めています。

話は前後してしまいましたが,それにしても,このような出会いができましたのも,こういう仕掛けをセットしてくださった編集者の佐藤真さんのお蔭です。こころから感謝したいと思います。さすがに名うての編集者だけあって,考えることが違います。柳澤先生のような才媛と,わたしのような人間とトークさせようなどという発想は普通では考えられません。この人の編集者的嗅覚の鋭さには恐れ入るばかりです。柳澤先生とお話をさせていただいたお蔭で,わたしの方の脳も一段と活性化して,スポーツ文化論の新たな可能性(とりわけ,キリスト教との接点)が開かれ,この先にとてつもない研究の鉱脈がみえてきました。ぜひとも,柳澤先生に教えていただきながら,キリスト教思想史をふまえたスポーツ文化論の可能性を探っていってみたいと思っています。

宗教の問題をこんなに爽やかにお話される柳澤先生とお会いできたことは,偏に佐藤真さんに感謝する以外にないのですが,なんだか,出会うべくして出会わせていただいた,という印象をぬぐい去ることもできません。わたしの善仏教的な立場とキリスト教思想の柳澤先生のお立場とがリンクしたところに,新しいスポーツ文化論の可能性が無限に広がっている・・・そういう期待でいっぱいです。なにかがはじまる・・・そんな予兆を感じます。ありがたいことです。

と,まずは,ご報告まで。

昨日,書いて消えてしまった文章とはまた違う文章がでてきて,同じ人間が書いているのに・・・と不思議です。そのときどきの瞬間瞬間で,人間の思考というものはつぎつぎに変化していくもの・・・。これもまた,仏教的にいえば「無常」ということ。つまり,変化しつづけるものだということ,これが「生きる」ということの意味だ,と。

12日のトークは,サイエンスとはなにか,ということを再度,深く考える機会でもありました。この点については,また,いつか書いてみたいと思います。以上,ご報告まで。

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2009-07-14 エクスターズする身体の三様態

_ 12日の柳澤先生とのトークの余韻がいまも尾を引いていて,十分に議論できないままに終わってしまったテーマが,ひょいと頭をもたげる。

その一つが,「エクスターズする身体」をめぐる問題系。

柳澤先生がうまく合わせてくださったので,ついつい気をよくして,イエズス会の「霊操」の話と,禅仏教の「坐禅」の話をさせてもらった。たまたま,門脇佳吉さんという,これまたとんでもない人がいらっしゃって,この人が『キリスト教神秘主義と禅仏教』(岩波書店)という本を書かれているので,この本を例にしてお話をさせてもらった。しかし,トークという生の思考回路では,どうしても抜け落ちてしまうものが多々あって,いまごろになって臍を噛んでいる。そこで,あのときにはことば足らずに終わってしまった議論を少しだけ補填しておきたいと思う。

坐禅と霊操には,きちんとした修行プログラムがあって,最初から導師のもとで意図的・計画的に瞑想の世界に導かれていく。ただ,異なるのは,坐禅は「自然との合一」を目指すのに対して,霊操は「イエスとの合一」を目指す,という点にある,とあのときには説明した。しかし,もう一点,重要な違いがある。それは,坐禅では,只管打坐を理想とし,ひたすら自己を消去することを心がける。道元のことばに直せば,「仏道を学ぶとは自己を忘るることなり」となる。つまり,自己の存在をひたすら軽くしていき,ついには忘れてしまえ,と説く。自己の放棄,主体の不在を「是」とする。それに対して霊操では,自己は,ある意味で,主役である。自己とイエスとの契約関係は最後まで消えることはない。むしろ,自己を限りなくイエスに接近させるか,そして,いかにしてイエスと一体化するか,が目指される。

この二つの「エクスターズ」をきちんと説明した上で,じつは,バタイユの「エクスターズする身体」を語る必要があったのだ。バタイユもまた,若き日を敬虔なカソリック信者として教会で深い祈りを繰り返し,「イエスと一体化」する宗教的恍惚を一度ならず経験している。しかし,ある日,夜遅くパリの町中を独りで歩いているときに,突然の「エクスターズ」を経験する。この経験はいったいなにを意味しているのか,とバタイユは真剣に考える。その後も,キリスト教信者としての祈りともまったく関係なく,突然の「エクスターズ」が襲いかかってくる。これを,バタイユは「神なき恍惚」=「エクスターズ」と名づけ,まったくの個人的な「神秘体験」であるという意味で「内的体験」と位置づけた。ブログラムもなし。特別の身体技法もなし。祈りもなし。もちろん,瞑想もなし。まったく突然に,場所も時間も問わず訪れる「エクスターズ」。もちろん,そこには主体は不在である。それだけに,その強度は計り知れない,とバタイユはいう。恐ろしい恐怖のどん底に突き落とされ,なおかつ,不思議な恍惚感が襲う。ほんのかすかに「意識」は残るが,自分ではなにもなすすべがない,恐怖と恍惚に打ち震える身体のみがそこに存在する,という。完全なる主体の不在に晒される。この状態を「非−知」と呼び,ヘーゲルの「絶対知」の対極に位置づけた上で,みずからの思想・哲学を立ち上げる。

したがって,坐禅の到達する恍惚と霊操によって到達する恍惚とは,そのベクトルがまったく反対であるにもかかわらず,地球を半周した向こう側で真っ正面から向き合うことになる,と門脇佳吉は両者の「恍惚」を体験した唯一の人間として語っている。それに引き換え,バタイユの「エクスターズ」はやはりまったく異質である。「恍惚」という点では,同じような現象としてとらえることはできても,その内実は,まったく異なる。別次元のものである。

だから,西谷修氏は,わたしの問い「坐禅の恍惚とバタイユの恍惚はほとんど隣り合わせのところにあるのでは?」に対して,ニヤリと笑って,「それは違う」とだけ答えるのだ。なぜ,そのように答えるのか,その意味が,いま,こうして書いているうちに,おのずから見えてきた。たぶん,これで正解なのだろう,とわたしは思う。近いうちに,直接,確認しておきたいと思う。またしても,ニヤリと笑って「それも違う」と言われたらどうしよう。またまた考えるしかない。でも,そういうことの繰り返しによって徐々に思考は深まり,真相に近づいていくのだろう。

このあたりのことは,言説化のレベルを越えでているようにも思う。それは,からだでしか理解できないのかも・・・・。

バタイユの本のなかには,むごい拷問を受けて手足をもぎ取られ,いま,まさに死にゆかんとする中国の青年が,それでもなお,かすかに「恍惚」の笑みを浮かべている写真が掲載されている。この写真は,しばしば引き合いに出され,話題になるものである。バタイユの「エクスターズ」は,すでに,言説化のレベルを越えでてしまっているために,このような写真を提示して,補足説明をすることによって,いくらかでも理解を助けようとしているのだろう。

となれば,『眼球譚』や『マダム・エドワルダ』でも読んで,みずからの思考を練り上げるしかない,というべきか。

ああ,エンドレスになってきた。今夜はここまで。

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2009-07-15 西谷修さんの歓迎会開催。

_ 半年間のフランス・ナントでのプロジェクト研究を終えて帰国された西谷修さんの歓迎会を,太極拳仲間で開催。

真っ黒に日焼けして,無精髭をのばしたままの西谷修さんと久しぶりに再会。なんだか男らしい精悍な顔になっていて,頼もしいかぎり。まずは,お元気そうだったのでなにより。帰国した直後の,超多忙な日々についてはメールで聞いていましたので,大丈夫かな,とちょっぴり心配。でも,元気そのもの。これからのご活躍が楽しみです。

歓迎会に集まったのは,太極拳仲間の李老師,その弟さん,劉志さん(李老師のお弟子さん),それに柏木さん。全部で6名。例によって,李老師が中華料理の腕を奮ってくれ,美味しくいただきました。いつもながらの感謝です。この人たちはみなさん料理が上手で,羨ましいかぎりです。日本の男性たちはもっと見習うべき・・・といつも反省。

午後6時にスタートして,つぎつぎに仕上がってくる料理をご馳走になりながら,おしゃべり。あっという間に11時。大急ぎで後片付けをすませて帰宅。

西谷さんの,ナントでの研究生活を写真をみながら聞かせてもらい,やはりすごい人たちのプロジェクト研究の追い込み方は違うなぁ,と感心。この詳細については,いずれまた,どこかで報告したいと思います。でも,一つだけ書き残しておきたいことは,ピエール・ルジャンドルのこと。かれは,5年前に日本にやってきて,日本の各地で講演をしてまわりました。わたしも,そのうちの半分以上は追っかけて聞かせてもらいました。そのうちの一つが『西洋が西洋について見ないでいること』という名著となって,日本で刊行されました。この本の衝撃はいまも鮮明に思いだします。その間,西谷さんが面倒をみていて,宮古島の案内をはじめ,京都では能舞台や美術館を案内したり・・・と,ルジャンドルに大きな刺激を与えつづけたことは,直接,西谷さんから聞いていました。そして,その間に,ルジャンドル氏がなにか感ずることろがあって,一つの論考をまとめる,と言っていたものがまとまったとのこと。まる5年をかけて,ルジャンドルの思想の集大成ともいうべき本を書いたとのこと。この本が,いつの日にか,日本語で読めるようになることをいまから楽しみにしている次第。

つぎの大きな話題は,太極拳の稽古を復活させる話。李老師は忙しいし,秋以降の予定もまだ未定ということなので,とりあえず,われわれ3人の弟子だけで稽古をはじめよう,ということになりました。そして,月に1回くらいは,李老師が都合をつけて稽古をみにきてくださるとのこと。ありがたきこと。

もう一つの話題は,新疆ウィグル族の動乱のこと。李老師や弟さん,そして劉志さんらの見方と,われわれが新聞などで得ている理解とは,まったく異なるということ。かれらが,どうしてこのように考えるか,という話を3人が代わる代わる熱弁をふるう。その迫力たるや,ふだんの物静かな人たちからは想像もできないほどのもの。われわれとはまったく異なる情報が流れていて(たとえば,香港テレビ,など,中国語で),その結果,まったく異なる見解に立つということが起きている。こういう事件の報道の真相はどこまでいっても藪の中。共通の認識に立つことのむつかしさをしみじみと思う。しかも,その溝の深いこと。

興味深かったことは,日本のような民主主義は中国では不可能だ,ということ。もし,それを実現させるとすれば,とてつもない長い時間が必要とか。それは,なんとなくわかるような気がする。その説明のついでにでてきた話が面白かった。中国人は,北の人と,上海周辺の人と,南部の人とではものの見方,考え方がまったく異なるとのこと。かれらの説によれば,南部の人間以外はだれも信用できない,とのこと。これもまた,不思議なこと。

中国は広いので,地域によって,文化もことばも,風俗習慣もまったく異なるとは聞いている。しかし,現実はそれどころの話ではなさそうだ。もっともっと深い根がある,という。

われわれはお隣の国,中国について,あまりにも知らなすぎると反省。でも,中国のどこを,どのように信用すればいいのか,道程は遠い。

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2009-07-16 「パルタージュ」のこと。

_ 12日のトーク・セッションで,河本英夫さんが「触る」ということの意味はとても難しいのだ,と力説されていたことが頭から離れない。

認知運動療法の権威者である宮本さんを相手にしてのトークのなかででてきた話なので,当然のことながら,「触る」ということをとおして人間が「認知」することの意味も,ごく専門的な,最先端の議論を紹介されている,ということが前提だ。だから,アフォーダンスやオートポイエーシス,そして,システム理論などを念頭におきながら聞かせてもらった。しかし,どうもわたしの予備知識が不足しているせいか,いまひとつピンとこなかった。いささか暴力的ではあるが,わたしの記憶に残ったことがらと,それをとおして考えたことは以下のとおりである。

河本さんは,いまや押しも押されもしない立派な哲学者として知られていて,その影響力たるやはかりしれないものがある。わたしのような人間でも,2000年前後に「オートポイエーシス理論」に関する議論が盛んに展開されたころから,ずっと「オートポイエーシス」的に「スポーツする身体」を考えるとどうなるか,ということを考えつづけてきている。だから,ことのほか,この河本さんがどのようなお話をなさるのか,とても興味をもっていた。今回,とてもよくわかったことは,科学的にものごとの理を明らかにしようとなさっている,ということだ。だから,科学的に実証できないようなものは「全部,幻想にすぎない」と一刀両断のもとに切り捨てる。となると,やはり,近年,少しずつ話題になりつつある「新・人間機械論」の側に立つ人なのだろうか,ということが気がかりになってくる。最近の,ロボット工学のめざましい進展をみていると,ロボットがますます人間に近づいてきて,やがては人間を凌駕する時代がくるかのような「幻想」が現実味を帯びてくる。しかし,わたし自身は,どこまでいっても,生身の人間の身体を「機械論」的に解明することは不可能だと考えている。だから,どうしても,河本さんのお話のところどころで違和感を感じてしまう。まあ,それもわたしの未熟さに由来するものなのかもしれないので,あまり強く主張するつもりはない。

わたしは,河本さんのお話を聞きながら,ずっと考えつづけていたことは,じゃん=リュック・ナンシーの「パルタージュ」(partage)という概念のことだ。同時に,『般若心経』のなかに登場する「無色声香味触法」と「無眼耳鼻舌身意」という文言であった。そして,さらには,日本語の「触れる」ということばのひろがり(たとえば,気が触れる,など)についてもあれこれ考えていた。

ナンシーの「パルタージュ」は,断るまでもなく,「接触」をとおしておこる「分割/分有」という概念で,ある意味では,ナンシーの「存在論」の原点をなしている,とわたしは受け止めている。だから,人間はお互いに「接触」をとおして,それぞれが「触れつつ触れられる」という関係を成立させ,その結果として,それぞれがお互いに「ある情報」を「分割/分有」するということが起こる。そこが「人間存在」を確認するための一つの重要な根拠となりうる,と。したがって,「接触」しないかぎり,なにもはじまらない,ということでもある。

荒川修作が,養老天命反転地のなかに「2箇所」,「真っ暗闇」の空間を仕掛けているのも,視覚を奪われてしまうと,人間はどのように対応するのか,ということを「生身」のからだで体験させようという企みにある。実際に,わたしはこのうちの一つの「真っ暗闇」のなかで立ち往生してしまった体験がある。最初は,壁に手を「触れて」歩きはじめた。しばらく進むと,なにかにつまずいて転んでしまった。立ち上がって,頼みの「壁」を探したが見つからない。こうなると前後左右もわからないし,もときた方向もわからない。立ち往生である。このときの「恐怖」は体験した人以外には説明のしようがない。一緒になかに入って友人に声をかけて,その声を頼りに「壁」を探す。ふたたび「壁」に「触れる」と安心して前に進むことができる。ここでも,立派に「パルタージュ」が起こっていて,それによって初めて「自己」の安寧をうることができる。つまり,「自己」の「主体」を確保できるのである。

12日のトーク・セッションの第一番目のテーマは「近さと距離」というものだった。河本さんと柳澤さんとのトークだ。だから,当然のことながら,「ディスポジション」の話が,いくつかのヴァージョンで聞かせてもらえるものと期待していた。柳澤さんの問題意識からすれば,イエス・キリストが民衆に「接近」していくという「行為」と,その「近さ」(「一定の距離」)での語りかけやしぐさのなかに,かれの宗教的な「カリスマ性」を効果あらしめる鍵があるのではないか,という話が展開される・・・とわたしは期待していたのである。しかし,それは「幻想」に終わってしまった。

ここでの「近さと距離」は,あくまでも「視覚」の世界での問題系である。測定も可能であれば,対象を客観化することも可能である。つまり,科学の研究対象になりうる範囲である。どのようなポジショニングをするかという問題は,サッカーなどではつねに戦略上の議論の対象になっている。しかし,「接触」は「視覚」が成立しないところでの「行為」である。たとえば,握手をする。手の平と手の平の「接触」面は,視覚からは消えてしまう。しかし,そのとき,当事者の間では「触れる・触れられる」という関係が成立しており,その行為をとおして,ある種の情報の「分割/分有」ということが起こる。

「視覚」が機能するためには,ある程度の「距離」が必要である。壁に顔を密接させてしまうと,なにも見えなくなってしまう。鬼ごっこの鬼は目隠しをされてしまうので,視覚を除いた残りの感覚器官を総動員して,見えない相手を探す。このとき,わたしたちは「真っ暗闇」空間の疑似体験をする。そうして,苦労して仲間をつかまえたあとは,もっぱら,手で「触れて」,だれであるかを当てる。つまり,視覚を奪われたあとの感覚は,いってみればすべて「触覚」でくくることができるのではないか,とわたしは考えている。音は鼓膜で聞き取り,匂いは鼻の粘膜,味は舌に直接「触れて」,手は文句なく直接「触れる」ことによって情報をえる。

こうした五感のはたらきは,動物と同じような生活をしていたヒトには,完全に機能していたはずである。しかし,文化・文明の進展とともに,使わない器官は退化しつづけ,こんにちの人間ができあがってきた。とりわけ,視覚に過剰に頼る生活がはじまったのは,科学の進展がめざましくなるヨーロッパ近代以後のことではなかったか,とわたしは仮説を立てている。そして,その科学は人間にとってかけがえのない成果をプレゼントしてくれた。しかし,その反面で「喪失」をも経験することになった。

ちかごろでは,他人の「からだ」に「触れる」ことができない人が増えている,と竹内敏晴さんは,自分のやっているワークショップに参加する人をみていてそう思う,と語っている。それに似たような体験はわたし自身にもある。

この話,エンドレス。とりあえず,今日はここまで。

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2009-07-17 「ラプラスの悪魔」の話。

_ 植島啓司の『偶然のチカラ』(集英社新書)を読んでいたら,「ラプラスの悪魔」の話が二度も登場して,のどのつかえが落ちた。

船井廣則さんの論考「ラプラスの悪魔と理想的年代記作者」(『<ISC・21>版IPHIGENEIA』2009年創刊号,P.235〜239)のことがずっと気になっていて,そのままになっていた。いつか,きちんと交通整理をしておかなくてはいけないと思いつつ,後回しになっていた。それがまた「偶然」なことに,ちょっと息抜きにと思って,買い込んだまま読まずに放ってあった本のなかから,植島啓司の本がわたしの眼を引いた。この本は,なかなかの本で,さすがに植島啓司の健在ぶりを示している。人生とは「不公平」だとお感じの方々にはお薦めである。

で,問題の「ラプラスの悪魔」の話。

植島啓司の本によれば,以下のように登場する。

本のテーマが「偶然」なので,かなり専門的な「確率」の話が展開されていて,その最後のところで登場する。以下に引用しておく。

それから,ようやくラプラスの『確率の解析的理論』(1812)が登場してくる。ラプラスは,正確な観測と計算が可能だとすると,運あるいは偶然というものは存在しないと考えた。たとえば,ルーレットの場合にしても,ディーラーが玉を入れるタイミングや強さがわかり,そして,玉が落下するときの空気抵抗,落ちてからバウンドする角度などがわかれば,どこに落ちるかは必ず明らかになるというのである。

それがわからないのは,人間にまだそうしたデータを解析できるような知性が備わってないからだとラプラスは考えた。そして,そうした全能の知性を後の科学者は「ラプラスの悪魔」と呼ぶようになったのである。これ以上明快な決定論はないだろう。

これを読んだ瞬間に船井さんの論考を思い出し,急いで,該当箇所を読み返してみる。余分なことははぶこう。わたしは,野家さんのアナロジーに賛成である。そして,上村さんの「鋭いご指摘」には反対である。厳密にいえば,上村指摘は「正しい」のだろう,と思う。しかし,ダントーのいう「理想的年代記作者」によせる「全能」性は,「ラプラスの悪魔」にかぶせられた「全能神話」とは,もう少し大きな視野に立てば,ほとんど同じである。しかも,上村さんが「歴史叙述にとっての前構成的な可能性の領域」であって「過去に起こった出来事のいっさいがありのままに記録されているのではないか」と「理想的クロニクル」を断定する論法には,いささか,わたしは異論がある。なぜなら,歴史についての考え方がいま大きく揺れ動いていて,どちらに舵を取り直すのか微妙なところにきているので,「大きな声」を出した人の主張がとおりやすくなっている,と思うからだ。とりわけ,「資料実証から離れろ」というランケ以来の近代歴史学のもつ正当性と限界,そして「暴力性」をも含めて,それに代わるべき方法論の模索がなされているときである。もっと言ってしまえば,いまこそ「歴史哲学」が必要なのに,それが語られないままになっている。それが,わたしには不満である。その点では,上村さんよりは野家さんの思考の方に,わたしは親近感を感ずる。いまの段階では,その程度にしかいいようがないが・・・・。いずれ,船井さんを囲んで,みんなで議論してみたいと思う。

ついでに述べておきたいことは,以下のとおり。

「ラプラスの悪魔」の背景には,キリスト教の説く「神の全能性」の問題がある,ということ。創造主である神は,同時に,この世に起こる「因果」関係をすべてお見通しである,ということ。だから,われわれ人間は,科学的方法論をさらに研ぎ澄ませていけば,かならずや,すべての「因果」関係を解明することができる,という幻想がつねにうごめくことになる。ラプラスは,その意味でも,キリスト教文化圏の申し子である,というべきであろう。

しかし,こんにちの科学技術の進展を遠巻きに眺めているだけのわたしのような人間からみても,人間の身体も,自然現象も,いずれすべて解明されてしまうのではないか,という幻想に襲われる。しかし,わたしは仏教者なので,因果論だけではなく,縁起論をも取り込まないと,こんにちの「超越」的な諸現象を解明することはできない,と考えている。現代科学は,もっぱら,因果論,因果律の範囲内で,仮説・検証がなされている。しかも,それだけで,すべてが解明できるとする「全能論」を信じている科学者は,わたしの知っている範囲でもその数を増しつつある。

さきの植島啓司は,遠慮がちに,その本の終わりのところで,「ラプラスの悪魔,ふたたび」という章を起こして,つぎのように述べている。

われわれは何か超越的なものが気まぐれに人間世界に介入してくるという考え方には否定的であるが,すべてが単にとりとめもなく偶然に起こっているということを支持するわけでもない。自分の身に何かが起こったとしたら,それにはそれなりの理由があるに違いない。そこから,ある種のグリッド上の結びつきが浮上してくる可能性もなくはないだろう。ラプラスの悪魔は,いつか別の姿をとって,長い眠りから覚める準備をしているのかもしれない。

とジェントルマン人類学者の植島啓司はいう。

しかし,わたしのような気弱な人間からしてみても,神の名のもとでの「正義」を語り(騙り,嚕り,かたり),その「正義」に従わない者たちを一方的にテロリストと「名づけ」,それらをすべて「悪」と断定して,皆殺しにして憚らない「暴力」は,立派に「ラプラスの悪魔」が世界を闊歩しているとしかみえないのだが・・・・。

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2009-07-18 「文化的ゼロ度の地帯」について。

_ 今福龍太氏の『クレオール主義』を読み返している。そのつど新しい発見があって,この本はわたしにとっては新しい発想のバイブルである。

P.102に,「文化的ゼロ度の地帯」ということが取り上げられていて,今福さんの詳細な論考が展開されている。チカーノ系人類学者レナード・ロサルドが「ボーダー・クロッシングズ」というエッセイのなかで提示した概念で,その意味は「従来の人類学的あるいは社会科学的な視点からは類型化できないような文化的エア・ポケット」のこと,だそうである。つまり,ヨーロッパ近代の生み出したアカデミズムの方法論では,「すくい上げようのない」「文化的になんの価値もない」「地帯」が存在する,というわけである。

ロサルドがこのようなことに気づく経緯について,今福さんは以下のように説明している。少し長いが,これにまさる説明はできないので,お許し願いたい。

ロサルドは,彼が大学院の学生時代に,フィリピンでフィールドワークを行いたいと申し出たときの彼の指導教授の忠告を一つの例としてあげる。その教授は彼に,フィリピン人は「文化を持たない人々」だから,「豊かな文化」を持ったマダガスカルに調査地を変えるようにと忠告したのだった。事実,彼が調査したルソン島北部のイロンゴット族の社会は,民族誌がその主要項目とするようないかなる文化的要素,すなわちリネージ,集落,洗練された儀礼,母系交差イトコ婚といったものが全く見られない社会だった。しかし,移住者や宣教師によって急激な社会変化を経験し,文化的な核心を失っていくかに見えたこのイロンゴット族の社会と我慢強くつきあい続けるうちに,ロサルドは,社会科学が盲目的に依拠してきた,文化を定量的に見るクセ(豊か/貧弱,厚みがある/薄っぺらな,精巧/素朴)のようなものが,逆にフィリピンを「文化の空白地帯」へと追いやっているのではないか,という推論に達する。

そう考えてみると,世界には,社会科学的な類型化を拒むような文化的不可視のゾーンやエア・ポケットが数多く存在していることがわかる。そしてそれらは,つねに文化の疑似進化論的階梯の両端に現れる「文化以前」と「文化以後」の地帯として想像されている。フィリピンのネグリートが前者の代表であるとすれば,イロンゴットやフィリピンの低地人は後者の代表であるとロサルドはいう。さらにこうした「文化的ゼロ度の地帯」は,今日特に「移民」という状況によってつくりだされた流動的な「移動」の領域にもっとも顕著に見ることができる。

以上である。そのあとに,「移民」「移動」「不法入国」というキー・ワードにして,さらに,詳細に問題を掘り下げていく。その切れ味のよさにうっとりさせられてしまう。

そうして,最後に,つぎのように結論づける。

なによりも,「文化」そのものが,明確な領域と境界をそなえ,自律的で内的な一貫性を持った主体的ユニットであるとする考え方が,もはや破産しかけていることは明白だ。「われわれ」も「彼ら」も,ともにかつて考えられたような独立したホモジニアスな性格を持った主体として見なすことは,もうできない。「われわれ」のなかにはすでにいつのまにか「彼ら」が住み始め,はじめてわれわれと出会ったかに見えた「彼ら」の内部にも,すでに「われわれ」は棲息していた。そきことに盲目を装いたい首都的な,ドミナントな,支配的な科学や権力だけが,いまだに文化のボーダー・ゾーンに生起する動きを抑圧しようとしているにすぎない。

という具合である。だから,こういう文章に出くわすたびに,わたしの背中は冷や汗に襲われる。あるいは,鳥肌が立つ。もちろん,こういう問題点があることは承知していて,そこから脱出するためのみずからの方法論を模索してきてもいる。しかし,その真剣度といい,切実度といい,あまりにも甘いということに気づかされるのだ。その意味で,今福さんの『クレオール主義』には,そのような指摘が随所に散りばめられている。その一つひとつが,具体的な例をあげての説得力のある指摘なので,わたしとしてはぐうの音もでない。わかっているつもりが「甘い」のである。

たとえば,このような今福さんの『クレオール主義』での主張と,近著の『ブラジルのホモ・ルーデンス』のP.15に登場する以下のような文章とは無縁ではない。

スポーツ評論とは,スポーツという楽しげな小世界のなかで永遠に夢が見られるという錯覚によって成立しているのだ,といいかえてもいい。さらに現代では,学問の世界にもこうしたスポーツの聖別化の動きは広がっており,「スポーツ社会学」「スポーツ哲学」「スポーツ人類学」といったサブジャンルが,あたかもスポーツだけを学問的言説の対象として分離できるかのごとき幻想に陥りながら,社会学や人類学の余祿に与って嬉々としている。

ここでも,わたしの背中は冷や汗が滝のように流れ落ちる。「スポーツ史」も同罪だから。そういう「蛸壺」的研究からの脱出をだれよりも早くから指摘して,わたしたちに忠告してくださったのは,恩師岸野雄三先生だった。だから,十分に承知はしているのである。にもかかわらず,遅々としてそこからの脱出はできないままにいる。怠慢のそしりを受けても致し方ない。

25日に予定されている「21世紀スポーツ文化研究会」名古屋例会の「<今福龍太論>私的読解」に向けて,時間のあるかぎり,頭を抱えながら格闘するしかない。そして,ありのままを報告する以外にはない。残念ながら。

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2009-07-19 「アイデンティティ」ということについて。

_ 今福龍太著『クレオール主義』の262ページに,「アイデンティティ」についての論考が展開されている。

「アイデンティティ」に関する議論はいろいろの立場があって,その議論がなかなかうまく噛み合わないことが多い。しかし,思想としての「クレオール」,すなわち「クレオール主義」の立場からの議論はじつに明解である。もっとも,今福さんの頭脳をとおすと,難しい問題も「透明」になってくるのかもしれない。ポストコロニアルな覚醒にもとづくコロニアル批判という,いうなれば,植民地支配による破壊と絶望を経由してようやくみずからの立ち位置を確認し,そこから植民地支配とはなにであったのか,そして,そこでの「アイデンティティ」という支配の論理に隠蔽されていた諸矛盾にきびしい批判の眼が注がれることになる。

その代表者のひとりであるトリン・ミンハに今福さんは注目する。まずは,わたしが激しく撃たれ,しばし腕組みをして考え込んでしまった今福さんの文章をさきに引いておこう。

・・・アイデンティティと差異,自己と他者という認識のヘテロロジーにおけるもっとも基本的な問題群にひたすらこだわり,刺激的な議論を展開してきたのが,ヴェトナム系の批評家=詩人=映像作家=作曲家,トリン・T・ミンハである。彼女の最新評論集『女性,ネイティヴ,他者』(1989)は,政治的・文化的・詩学的<場>のポストコロニアルな転位がひきおこしたあらゆるプロブレマティーク──混血,文化の異種混交,非中心化されたリアリティ,断片化された自己,増殖するアイデンティティ,周縁化された声,分裂した言語・・・──を,フェミニズム思想や人類学や文学批評の成果を批判的に活用しながら緻密に検討してゆくきわめて刺激的な著作である。そこでトリンは,一貫して「有色の女性(ウィメン・オブ・カラー)」のひとりとしての立場にたちつつ,「男性原理を規範とした白人優位の」世界の理論的枠組みにさまざまな亀裂を呼び込もうとする。そしてそうしたこころみにとっては,まず,あらゆる認識の基盤をかたちづくっていると見なされる固定化したアイデンティティという意識との決別こそが,精神のネオコロニアリズム批判のための出発点となるのだ。

このあとに,まだまだ,今福さんの魅力的な文章がつづくのだが,ひとまず,ここで切っておくことにしよう。

まずは,「ポストコロニアルな転位がひきおこしたあらゆるプロブレマティーク」の内実について,わたしはほとんど想像でしか理解できていなかったということ。つまり,ヴェトナム戦争を通過することによって,その戦禍をかろうじて生き延びた人びとが身につけたもの,それらが「プロブレマティーク」として列挙されている。そして,一つひとつ,想像をさらに具体的なイメージに置き換えて考え直してみる。それでもなお,みずからのからだに響くようにはその問題性が迫ってはこない。ぬるま湯的平和に慣れ親しんでしまったわたしのからだは鈍麻してしまって,ほとんど反応しない。理性ではこうだ,ああだ,と騒ぎ立てているけれども,からだはのほほんとしている。情けないがほんとうだ。

そのつぎに登場してくる一文「男性原理を規範とした白人優位の」世界の理論的枠組み・・・で,ようやく身近なプロブレマティークが思い浮かんでくる。これこそコロニアル時代をとおして,ヨーロッパの近代論理が世界に輸出されたイデオロギーだった。その一翼を担ったのが「近代スポーツ」そのものだ。ここまでくれば,言いたいことは山ほどある。しかし,そのあとの「世界の理論的枠組みにさまざまな亀裂を呼び込もうとする」に至って,またもや,わたしは立ち止まってしまう。長い間,生きてきて,しかも「近代スポーツ」の含意する「暴力」や「犯罪性」を指摘することはしてきたが,はたして「さまざまな亀裂を呼び込もう」としてきただろうか。やはり,わたしはディスクリプションしかしてこなかったのだ。トリン・ミンハは,インスクリプションをしているからこそ,今福さんの眼に止まり,共振・共鳴するのだ。

近代オリンピックもワールドカップも,近代スポーツのすべては「男性原理を規範とした白人優位の世界の理論的枠組み」を浸透させるための,じつに傑作ともいうべき文化装置であった。そこに「さまざまな亀裂を呼び込もう」という発想がわたしにはあったか。犬の遠吠えはしてきたけれども,「亀裂」にはとても及ばない。

今福さんは,こうしたトリン・ミンハのインスクリプションと連動・連帯するかのようにして『ブラジルのホモ・ルーデンス──サッカー批評原論』を書いたのだ。そして,徹底して「勝利至上主義」に「亀裂」を入れるべく,「さまざまな」提案をしている。ひとくちで言ってしまえば,マージナルなもの,バナキュラーなもの,「不透明なるもの」への徹底した「擁護」と,その理論的根拠の提示である。そういう眼で「サッカー批評原論」なるものを考え直さないといけない,と反省。それは同時に,「スポーツ批評原論」なるものを構想するためにも。

トリン・ミンハは,まず,そうした「亀裂」を呼び込むための出発点として,支配的イデオロギーの文脈に立つ「アイデンティティ」という意識との決別が必要だという。ここでいう「アイデンティティ」とは,「まずなによりも個人の意識の深部に生きつづけている一定の本質的(エセンシャル)で真正(オーセンティック)な「核心(コア)」の存在にたいする信頼によって支えられている概念」のことをいう。だから,このような「アイデンティティ」は,当然のことながら,自己にとって異質であるもの,つまり,真正ではないもの,そうした他者なるものすべての要素を徹底して排除しようとする。

だから,トリン・ミンハは「アイデンティティ意識の純粋性と一貫した連続性への信仰そのものに根底的な疑問を投げかけることによって,「差異」という概念じたいに新しい生命を吹き込もうとする」と今福さんは言う。最後に,トリン・ミンハのいう「差異」についての言説を引いて終わりにしよう。

差異という概念のなかには,無数の「ちがい」と同時に無数の「類似」も含まれている。さらにいえば,差異は葛藤や紛争をつくりだす当事者ではない。それは葛藤を超えたなにかであり,紛争と横並びに進むなにかなのである。

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2009-07-20 『クレオール主義』読了。

_ たっぷり時間をかけて,メモをとりながら,今福さんの『クレオール主義』を読了。なんだか,とても豊かな気分。

とりわけ,「文庫版あとがき」を読んで,その文章の美しさと同時に,今福ワールドがみごとに凝縮していて,感動。こんな文章がいつの日にか書けるようになってみたいものだとしみじみ思う。そのいくつかを引用しながら愚見を述べてみたいと思う。

「本書の思考が結実するための種子が蒔かれた1980年代半ば,私にとっての世界の軸はメキシコとカリブ海とブラジルを結ぶ,歪んだ三角形のなかにあった。この謎めいた三角形のなかにひそむ未発の思考と文化の胎動に触れ,畏れつつも知らぬ間にその渦中に巻き込まれていった私は,自分がそれまで引きずってきた自己同一性の幻影を振り切って,混淆する世界を直覚する新たな目と耳を与えられることになった。」

これが「あとがき」の書き出しである。なんとも素直に自己の変容を振り返っていることだろうか。たぶん,これが今福さんのこんにちをなすすべての「はじまり」だったのだろうと,たくさんの今福さんの本を読んできた「いま」しみじみと思う。そして,なによりもまずは,今福さんが「それまで引きずってきた自己同一性の幻影を振り切っ」た,と述べていることの重大さに触れ,わたしのからだに「電気」が走る。ヨーロッパ近代が生み出した形而上学的な意味での「自己同一性」への決別,もっと言ってしまえば,文明先進国日本に身を寄せて安穏と暮らすことを保証する,あるいは,権威主義的なアカデミズムに身を寄せて研究に勤しむことを保証する,ある種の「隠れ蓑」としての「自己同一性」の孕みもつ諸矛盾への「気づき」と「決別」,このことの意味が,いまのわたしに重くのしかかってくる。なんと甘い生き方をしてきたものか,と。今福さんは,30歳前後のときに,ここを通過している。そして,その向こう側に悠然とひろがる「混淆する世界を直覚する新たな目と耳を与えられることになった」のだ。近著の『群島─世界論』的な表現を借りれば,「大陸」的な視点から「群島」的な視点への大いなる「飛翔」をはたしたというわけだ。その意味で,この過酷ともいうべき「飛翔」が,今福さんにとっての「すべてのはじまり」だった,とわたしはしみじみ思う。

つづけて,今福さんはつぎのように述べる。

「その更新された目と耳は,なにも特別に革新的で予言的な理論や哲学によって武装されていたわけではなかった。唯一の正しさを主張する権威的な身振りとも無縁だった。ただ,同質性ではなく差異のなかに,固定化ではなく流動のなかに,シャープな実像ではなく蠢く影のなかに,「本質」ということばでは捕捉できない文化の錯綜した綾が深く織り込まれてあるのを,その目と耳は精密にとらえようとしていた。日常世界の陰影にみちた構成のなかから,瑣末な事柄をも何一つ捨象することなく,やっかいな「具体」にひたすら寄り添いながら思考し感受するうちに,私の目と耳は認識の未知の通路を伝って,するりと予定調和的なリアリティの向こう側へと抜け出した。」

この短い文章のなかに,いかに多くのことが凝縮して濃密に,しかも,いとも平易に語られていることか。やはり,その後に待ち構えていた多くの困難を一つひとつクリアしてきたいまだからこそ書けるというのだろうか。ここで今福さんが述べていることは,ある意味で「コペルニクス的転回」に匹敵する,大変身そのものである。つまり,近代のアカデミズムや形而上学が求める「本質」からはこぼれ落ちてしまう文化の錯綜した「綾」の方に意味を見いだそうとしているのだから。そして,今福さんは「やっかいな『具体』にひたすら寄り添いながら思考し感受する」ことをとおして,「するりと予定調和的なリアリティの向こう側に抜け出した」という。これはこれでそのとおりだったのだろうと,素直に受け止めておくべきであろう。しかし,この『クレオール主義』に到達する前に書かれたエスノグラフィである『荒野のロマネスク』を読むかぎりでは,すでに,デリダの「脱構築」の概念をはじめとするフランス現代思想の影響を少なからず受けていたことが確認できる。だからこそ,「本質主義」(エッセンシャリズム)ではなく「非本質主義」(ノン・エッセンシャリズム)をみずからの「方法論」として採用することになんの躊躇もしない。

さらに今福さは書きつける。

「霧の彼方に失われていたルーツへの幻想が消え,ヘテロなもの,異質で外来のものによって鋭く刻印を受けた別の「わたし」が,そこでは他者の群れのなかに雑じって歩行していた。苦渋でも安逸でもない,不思議な悲嘆と期待のないまぜになった表情が,季節の特定できない陰りある陽光のなかの群衆を特徴づけていた。新たな視線と聴覚がもたらしたこのヴィジョンを,私は思いきって『クレオール主義』と名づけながら,唯一のリアリティとして信じられている世界秩序の向こう側に広がる,いまだ科学や理論によって言葉を与えられていない世界の精密な描写が,いかにして可能であるかを考えはじめた。」

という具合で,この「あとがき」はまことに魅力的である。おそらく,これから何回も何回も読み返すことになるだろうと思う。なぜなら,これほどわかりやすく「今福ワールド」を語った文章はほかには見いだせないから。というわけで,この稿もまたエンドレス。

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2009-07-21 「汀」の思想。

_ 今福さんの主要文献をひととおり読み終えたいま,本を閉じて瞑目する。そこから立ち上がってくるものは,「汀」の思想とでもいうべきか。

『スポーツの汀』という本を初めて読んだときからずっと引きずっているキー・ワードが「汀」であった。これを「なぎさ」と読むか,「みぎわ」と読むかはその人のことばに対する感性の問題だ。わたし自身はまぎらわしいので,普通には「なぎさ」と言い表し,「なぎさ」として語ることにしている。しかし,ひとりで思考を深めようとするときには「みぎわ」と読む。この方が,思考が深まるように思うから。それは単なる感覚の問題だ。これといった根拠はない。

いずれも,土と水の間(あわい),陸地と海水のせめぎ合うところ,空中と水中の境界領域。海岸をイメージすれば,波が打ち寄せると海中となり,波が引いていくと陸地となる,そんなことを繰り返している,なんとも断定のしようのない混沌の領域。固定を嫌って変化しつづける,そういうカオスでありつづける領域。仏教でいえば「無常」。「つねでない」「変化しつづける」ことこそが「実相」であり,そこには「実体」はない,と仏教は教える。『般若心経』の世界は,まさに,その理(ことわり)を説いたものだ。だから,「是諸法空相」と説く。

では,ほんとうになにもないのか,というとそうではない。「みぎわ」には,あるときは「水」があり,あるときは「土」がある。そのいずれもが「みぎわ」なのである。それが「実相」なのである。その両者が「接触」しながら,お互いになにかを「分割/分有」していくこと,まさに,流動的に変化しつづけること,それが「実相」であり,「みぎわ」の姿なのだ。だからこそ,この「みぎわ」に絶大なる「信」をおくしかない。すべては,ここから「はじまる」からだ。

小さな小川の「みぎわ」を想定してみようか。草が生い茂っていたり,砂地であったり,あるいは,大きな岩であったりする。それぞれのところで流れる水は,それぞれの他者と遭遇することになる。それでも,それぞれに「接触」し,なにかを「分割/分有」しながら,流れつづける。「三尺流れて水清む」とむかしから俚諺が教えている。汚れた水も「三尺」流れると,浄化されてきれいな水になる,という教えである。この「三尺」の間になにが起こっているのか。自然のままの川は偉大な浄化装置でもあったのだ。しかし,近代になると,川幅を「固定」するために「コンクリート」で護岸した。とたんに,「どぶ川」の誕生となった。川のもつ「浄化装置」を失ってしまったのだ。「みぎわ」がなくなってしまったからだ。

これが「<今福龍太>論・私的読解」のひとつのサンプル。

では,今福さんは,なにゆえに「汀」をキー・タームとして,「批評」の拠点としたのか。ここが問題だ。

文化人類学者として,若くして,ブラジルとメキシコとカリブ海をフィールドにして,しかも「ディスクライブ」ではなくて「インスクライブ」の方法をとろうとした。それは,距離をおいた「観察」や,ちょっとだけ触れる「参与観察」でもなく,みずからの肌をとおして「じかに」異文化と「接触」することだった。ここから今福さんはなにを「透視」したのか。文化人類学が対象とするフィールドのほとんどの異文化が,ヨーロッパ近代の植民地支配をとおして,ずたずたに引き裂かれ,みるも無残な姿に変化・変容を余儀なくされてきたか,という一方的な「暴力」であった。ここでは詳しくは述べないが,いわゆる文化の「クレオール化」現象が起こったのである。その典型がカリブ海で起こった。人間の混血はもとより,言語の混淆と絶滅とまったく新しい拳固の誕生,などなど。そして,やがてこの「クレオール化」現象を通過することによって,新しく誕生した「クレオール文化」を生きるしか方法のない人びとが,みずからのアイデンティティを確認する営みをはじめる。そのとき,このような事態を引き起こした「ヨーロッパ」とはいったいなにであったのか,という自覚をもってクレオール語を駆使した新たな「文学」が誕生する。

クレオールとは,まさに,土着とヨーロッパとの「みぎわ」から生まれた,まったく新しい文化なのである。クレオール文化にあっては,すでに,土着もヨーロッパも存在しない。あるのは,土着的なるものとヨーロッパ的なるものとの「折り合い」のつけ方だけである。そこに立ち現れる景観は,まさに,「汀」そのものでしかない。ヨーロッパ的なる波が打ち寄せてくると土着的なるものは覆い隠されるが,すぐに,その波は引いていき,つぎは土着的なるものがその場を独占する。こうして,絶えず,交互に主張し,譲り合いしながら一定の調和を保ちながら,変化・変容を重ねていく。

クレオール主義とは,ここを原点にして,まったく新しい文化の可能性を探っていこうではないか,また,ここにしか人類の未来は展望しえないのではないかという思想運動なのである。この思想は,今福さんの『クレオール主義』のなかにもちらりと顔をみせる「脱構築」(デリダ)の思想とも通底している。言ってしまえば,徹底したヨーロッパ近代に対する批判であり,批評の根拠をなすものである。

これが時を経て,『群島─世界論』になり(ここでもやはり,群島と大陸との「汀」を軸にした世界論が展開されている),『ミニマ・グラシア』(最小限の恩寵とは,もはや失うものはなにもない,そういう状態でもなおかつ最後の「生きる」喜びのひとかけらだけは保証しようではないか,という主張とわたしは理解している)を生み,そういうことと深く連動し,共振・共鳴する批評として『ブラジルのホモ・ルーデンス』がある,というのが現段階でのわたしの読解である。

「汀」の思想こそ,今福さんの「クレオール主義」の原点にあるものであって,この思想なしには,サッカー批評原論も生まれなかったことを肝に銘すべしであろう。ましてや,「フェイント」などであろうはずがない。わたしの意とするところおわかりいただけたであろうか。

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2009-07-22 皆既日食騒動の不快。

_ 46年ぶりの皆既日食と遭遇できるというので,3年前から,その場に立つことを考え,計画を立ててきた。しかし,あえなく断念。

理由はかんたん。予定していた民宿が,島ごと関西の大手ツーリスト会社に押さえられてしまい,受け入れ不可能となったからだ。このことは,最近のメディアも大きく取り上げているのでご承知のとおり。しかも,法外の値段で。この国の自由経済はなにをやらかすかわけがわからない。

法に触れなければなにをしてもいいと思っているようだ。法というものはいつも後追いだ。だから,このような事態を想定した法はどこにもない。だから,やりたい放題である。そうして,なにか問題が起きたときに,ようやく重い腰を持ち上げて,新しい法を制定する。そのときではすでに遅いのである。その間に,すでに大手ツーリスト会社は大儲けをして,新しい法ができるころには,つぎの「法の穴場」をさがして虎視眈々と準備を整えている。とにかく,先手必勝がまかりとおっている。

このからくりは,丁度,「ドーピング」問題と同じだ。ドーピング禁止薬物一覧には指定されていない新薬を開発して,それで金メダルをほしいままにしておいて,問題が起こると「禁止薬物」に指定する。つまり,新薬を開発できるごく一部の先進国だけが,利益を独り占めにしておいて,途上国にもこの新薬が出回りはじめたころには「禁止薬物」に加えてしまう。だから,文明先進国を有利に導くための「合法的」制度として立派に機能している。その陰にどれほどの犠牲者がでているか,ということには目を瞑って。ドーピング問題の核心部分にあるものは,たんに,トップ・アスリートだけの問題ではなくて,知識不足の中学生や高校生たちの方にある。こちらの実態はほとんど把握されていない。が,漏れ伝わってくる情報では,相当にひどい現実があるようだ。それは,ここにはとても書けないほどのものだ。

話が脱線してしまった。もとに戻そう。

大手ツーリスト会社に乗っ取られたトカラ列島のある島では,民宿だけでは足りないので,空き地という空き地に簡易テントを所狭しと張って,ツーリストに備えるという。こうなるとどういうことが起こるのか。食料,水,などは急遽,どこかから運びこめば済むだろう。しかし,問題はし尿処理だ。こちらも簡易トイレを用意しているという。が,そのあとの処理はどうするのか。そのまま海に捨てるのか。

山や海岸にあるちょっとしたキャンプ・サイトを利用したことのある人なら,これほどの大勢のツーリストが一度に押しかけたら,どういう事態になるかは容易に想像することができるだろう。そんなに大きくもない,多くのキャンプ・サイトは「ハエだらけ」である。もちろん,立派なトイレが用意されている。にもかかわらず,それが実態である。

古代オリンピック競技の観戦者たちも,競技場の近くの河原でみんな野宿をした。もちろん,当時のことだから,トイレなどというものはない。みんな思い思いの場所で用をすます。その結果は,ご想像のとおりである。ほぼ一週間にわたって開催された古代オリンピック競技の間に,何回も「ハエ追いのゼウス」という儀礼が行われたという。つまり,ゼウスさまに生贄をささげて「ハエ」を追い払ってくれるよう祈ったというのである。

さてはて,トカラ列島の小さな島々の「祭りのあと」がどのような状態になるのか,わたしはひとごとではない。「祭り」が過ぎ去ったあとの被害を被るのは島の人びとだ。大手ツーリスト会社だけが莫大な利益をかせいで,引き上げていく。戦場の跡は廃墟が残るのみ。それも,しばらくの間は手がつけられないような状態で・・・・。

ひとりくらい立派な村長さんがいて,大手ツーリスト会社の資本を排除し,島の能力に見合った民宿の力だけで,常連のお客さんをいつものように心からもてなすことをやってもよかったのではないか,と期待したがそういう話はついぞ聞こえてこなかった。残念。あるいは,島ごとにアイディアを出し合って,皆既日食にともなう特別のイベントが企画されてもよかったのではないか。ほんとうに情の通い合う交流をとおして,島民と常連さんとのさらに濃密な新たな関係が構築されてもよかったではないか。

大手ツーリスト会社の企画にのって,法外な金額を払い,すし詰めのようなテント生活をして,おまけに「雲に隠れた皆既日食」を経験した観光客のなかから,どれだけのリピーターが生まれるというのであろうか。もちろん,島民の心温まるもてなしなどは不可能だ。大勢の臨時のアルバイトさんが雇われて,安くこき使われる人びとからなにが期待できるというのであろうか。ほとんど,これといった予備教育もなされないまま,臨時に雇われた人びとのサービスには限度がある。

北海道でおきた山岳遭難事件も同じような,初めてその山に入ったなどという臨時の「ツアー・ガイド」が引き起こした事件だ。指定された登山コースを,なにがなんでも通過して下山すればいい,という安易な考えがどこかにあったのではないか。これはわたしの想像の域をでないが・・・・。

祭りのあとのトカラ列島の島々の,その後の消息にアンテナを張っておきたい。できることなら,尋ねて行って,島の人びとのホンネの話を聞いてみたいと思う。祭りのあとの「収支決算」(たんに金銭だけの問題ではなくて)がどのようなものとなったのか,確認してみたいものだ。

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2009-07-23 元大関出島が引退。

_ 出島が引退した。今場所の成績では仕方ない。ここまでよくやったとエールを送りたい。押し相撲の手本のような相撲だった。

肌の白い,とてもきれいな力士だった。仕切り直しをしているうちに,少しずつ全身がピンクに染まる。最後の仕切りでは顔までピンクになる。男がみていても色気を感じたのだから,女性ファンはたまらなかっただろう。顔だちもとてもおだやかで,気はやさしくて力持ち,を絵に描いたような力士だった。こういう力士はなかなかでてこないだろう。

外見もそうだったが,相撲内容もじつにきれいだった。全盛期の相撲は,立ち会い一気の押しで,一直線に勝負をつける。それ以外のことは考えなかったようだ。はたかれてもいなされても,真っ正面からぶちかまし,もろはずで押した。正直な相撲だった。

出島が幕に入ってきて,わたしが最初に注目したのは彼の立ち会いであった。世にいう「後の先」という立ち会いだった。一瞬,立ち遅れではないか,というタイミングで立つ。スロービデオでみると,そうではない。ほとんど同時に立っている。しかし,出島の立ち会いは仕切りの姿勢が低いために,その低い姿勢から立ち上がるとちょうど相手の胸のあたりに頭が当たる。そこから,一気に相手のからだを起こして,一直線に押してでる。この出足がみごとだった。この立ち会いができたときの出島の相撲は,もう,相撲のお手本そのものだった。いま,こういう立ち会いができる力士はいない。

大関昇進を決めた場所では,曙と貴乃花の両横綱を「押し出し」ている。それはみごとな相撲だった。出島の相撲が完成したかと思わせるほどの勢いがあった。しかし,好事魔多し,という。大関に昇進してから,病気と怪我に泣かされた。もともと両足首に弱点があった。足首の関節が柔らかいのである。ふつうの人よりも深く曲げることができる。だから,立ち会いの姿勢も低く構えることができた。しかし,攻め込まれたときに重心を低くして耐えようとするときに,この足首に大きな負担がかかった。だから,意外に早く大関から陥落し,以後,平幕で相撲をとった。しかし,いつも,この両足が痛々しかった。念入りにテーピングしているものの,いつまた怪我をするかわからない。そういう不安はあった。今場所は相当に悪かったのだろうと思う。双差しになっても前にでられなくて負けた相撲があった。これはもう重症である。

本人が一番よくわかっていたようで,昨夜,親方と相談をして引退を決めた。記者会見がこれまたさわやかだった。やるべきことは全部やった,やり残したことはなにもない,と言い切り,吹っ切れたかのような笑顔をみせた。たぶん,この人の人柄が全身に現れていたのだろう。この笑顔もその分身のひとつ。こんごは親方として後進の指導に当たるという。いい親方になって,出島のような絵になる力士を育ててほしい。勝っても負けても同じ相撲。正直そのものの相撲。ひたすら前へ前へと押しまくる相撲。

花のある力士だった。

いい思い出をありがとう。

ちなみに,わたしのところには出島の手形(色紙)がある。ある専門家に出島の相撲をほめたら,本人からもらってきてくれた。まだ,大関になる前のことだ。あのころが懐かしい。

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2009-07-24 倫理的な態度,とは?

_ わたしには,いまだに,「倫理」とか「倫理学」というものがピンとこない。なんの計算も打算もない純粋無垢な「倫理」とはなにか。

これまでに『スポーツ倫理学』と名のつく本を3冊ほど読んでみたが,どう考えてみても納得いかない。「医の倫理」ということばも,いまひとつ,ピンとこない。とりわけ,臓器移植にかかわる「医の倫理」となると,ますますわからなくなってしまう。だから,「スポーツの倫理」といわれても,どうもよくわからない。靄がかかったままだ。

今福さんの『ミニマ・グラシア』の帯に「私は,自分にとっておそらくもっとも倫理的な態度のもとに書き継がれたテクストを収めた本書で,自らの意思や欲望の饒舌な氾濫が沈黙とぶつかり合う真空のような領域にまで降りていった。私は重力が真空と触れ合うこの認識の狭い領域で,歴史を反歴史の水際から語ろうとしたのである」と書かれているのをみて,ほんのわずかに「あっ」と思った。そして,久しぶりにこの本をあちこち拾い読みしながら,今福さんのいう「倫理的な態度」というものを探ってみた。そこから,なんとなく透けて見えてきたものがある。

それは「生と死」が触れ合う「コンタクト・ゾーン」(これまでのわたしの用語でいえば「境界領域」,そして,今福さんの用語でいえば「汀」)に立って,人が「生きる」ということの根源に横たわる野性の「力」(force,フォルス)をどのように見きわめ,その「力」との「折り合い」をどのようにつけるか,というときに立ち上がるものが「倫理」ではないか,と。そして,このことに忠実に応答しようとする態度こそが「倫理的な態度」というものではないか,と。誤解を恐れずにいってしまえば,「生死との折り合い」のつけ方ではないか,と。ここの問題を抜きにして「倫理」「倫理的態度」と声高に言われても,いま一つ,わたしにはピンとこないのである。

今福さんが,この『ミニマ・グラシア』をとおしていいたかったことは,「9・11」以後の「戦争」による無意味な人の「死」にピリオドを打つ方法はないものか,というやむにやまれない「希求」からである。そのためには,あえて,「歴史を反歴史の水際」から語るしかない,と決断して筆をとったというのが真相であろう。だから,「自らの意思や欲望の饒舌な氾濫が沈黙とぶつかり合う真空のような領域にまで降りて」いく必要があったのだ。これこそが,今福さんのいう「倫理的態度」というものであろう。みずから無神論者であるという今福さんのことばでいえば「真空のような領域」ということになるのであろうが,わたしのような禅仏教に信をおいている者からすれば,これは,まぎれもなき「修証一如」の世界である。坐禅をしてかぎりなく自己を「無」にしていったさきで出会う「沈黙」の世界であり,「真空のような領域」である。つまり,いっさいの私利私欲をなげうって,死をも覚悟したさきに広がる世界のことだ。西田幾多郎のことばに直せば,「純粋経験」や「行為的直観」がはたらく「場所」のことだ。そこには,もはや,主体のはたらく余地はない。そういう領域にまで降りていって,なおかつ「重力と真空の触れ合う」(これもまた「汀」である),「この認識の狭い境域」に立ち(これぞ「倫理的態度」だとわたしは思う),「歴史を反歴史の水際」=「汀」から「語ろうとした」。

ここでいう「歴史」とは,いうまでもなくヨーロッパ近代の論理によって記述された<歴史>のことで,それを「反歴史」,つまり,ヨーロッパ近代の論理から排除されてしまった,たんなる「希求」の側から語ってみよう,と今福さんは「倫理的態度」を貫く。こここそが,また,今福さんの「批評精神」のよって立つ基盤でもある。

もう制限時間がきてしまったので,いささか論旨が飛躍するが,「ミニマ・グラシア」,つまり,「最小限の恩寵」とは,「生死」を超越した領域に立ち現れる絶望的な悲哀とないまぜになった「愛」であり,「友情」であり,「エクスタシー」のことである。それは,同時に,「力」(フォルス)の発露でもあるのだ。このつづきは明日の月例会で。

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2009-07-26 「はじまりの時」をめぐる問題系

_ 昨日(25日)の「ISC・21」名古屋例会での「<今福龍太論>─私的読解」が無事に終わった。みなさんに真剣に聞いていただき感謝のきわみである。

司会の三井さんから絶妙な「お題」を提示され,そこから話をはじめることになった。あれっ,これって,落語の「お題拝借」という大喜利のお遊びにあったなぁ,などと連想する。まずは,当たり前の日常的な話題から入り,話をしながら「流れ」(ストーリー)を考え,落しどころを探すという,スリルを堪能させてもらった。

じつをいうと,A4の紙に5枚ほどのレジュメを用意していたのだが,それを配ることもしないで,しかも,かなり綿密に整理してきたノートも開くことなく,まったくのフリー・ハンドで話をはじめた。途中で何回もノートをとりだそうかと迷ったが,細部を語るよりは大きな構造を明らかにする方がよかろうと判断し,すべてアドリブで押し通した。これが結果的にはよかったようだ。考え,考え,必死でことばを探し,論理を構築していく,その間合いというか,呼吸がたぶん聞いてくれている人たちの思考のリズムとも合っていたのだろうと思う。やはり,ライブの力(force)に身をゆだねることの威力とでもいうべきか。

話の切り出しは,休憩時間の話題として盛り上がった「いまどきの学生さん」気質をどう受け止めるのか,というところからだった。ひとしきり話題が展開していたので,それを前提にして,大人たち(あるいは,大学の先生)の常識と若者たち(あるいは,大学生)の常識とのギャップの大きさを取り上げ,これがなにを意味しているのか,という問題提起から入る。大人たちの常識は,大雑把にいってしまえば,こんにちの社会を構成している法秩序や規律や制度というものに依拠している。しかし,若者たちの常識は,大人たちの常識にしばられることを嫌い,そこからできるだけ距離を置こうとする。つまり,大人たちは,ヨーロッパ近代のものの考え方や行動の仕方というものを無意識のうちにわがものとしていて,そこからものごとを考え価値規範を徹底させようとする。それにたいして若者たちは「造反」しようとする。大人たちの価値観にたいする抵抗である。そうして「うざったい」ということばが生まれ,大人たちから「視線」をずらして,まったく自分たちの思いのままになる新たな「若者文化」を創造しようとする。その一つの現れが携帯電話の「絵文字」を多用するメールであろう。

これが現実の日本社会の一つの側面であるとすれば,そこから「透視」して浮かび上がってくる像はどのようなものになるのか。

大人たちの常識は,いわゆるヨーロッパ近代の論理をとおして到達した文明先進国の価値規範である。今福さんの「流儀」にしたがえば,「固定化」され,「定着」した,「帝国」的で,「大陸」的なものの見方・考え方ということになろうか。それにたいして,若者たちの常識は,「ポストコロニアル」な,「流動的」で,「移動」的(たとえば,ディアスポラ的)で,「マルチチュード」的で,「群島」的なものの見方・考え方ということになろう。もっと別の言い方をすれば,大人たちの常識はますます「透明化」していき,差異なき反復を繰り返し,マンネリ化し,やがては「頽落」(ハイデガー)に至る。いっぽう,若者たちの常識は,「不透明」そのもので,つねに差異のある反復を好み,たえず変化を求め,マンネリ化を回避しながら,新しい「若者文化」を生み出しつづける。

大人たちはますます「硬直化」した思考や行動しかできなくなっていくのに対し,若者たちは,きわめて「クレオール」的で,自由奔放である。

とまあ,これは,あえて分かりやすくするために,可能なかぎり「図式化」「対比」してみたらこんな風になるのでは,というわたしの一つのヴィジョンである。で,このように話をしたのかといえば,けしてそうではない。このようなイメージをキープしながら,あちこち話題を広げていった,というのがいつわらざるところ。こうして,ときにはしどろもどろになったり,ときには鮮明なメッセージの発見があったり,大きならせん運動をしながら,落しどころを探す,という展開となった。

ひととおりの話が終わったあと,みなさんから多くのご意見や質問をもらい,さらに,わたしの頭は活性化し,あらたな話題を提供していく。わたしにとってはとてもありがたい,「萌の襲」すなわち「はじまりの時」や新しいアイディアの「ひらめき」,みずからの「魂との出会い」をはじめ,「魂と魂」が向き合う真の友情や愛ともいうべき「恩寵」に触れることができ,至福のひとときであった。この場を借りて,参加してくださった研究会のみなさんにお礼を申しのべます。ありがとうございました。

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2009-07-27 ダイエットという「透明化」への道

_ 「楚(そ)の荘王,細腰(さいよう)を好み,故に朝(ちょう)に餓人あり」と中国の『荀子』にある,と今日の朝日の「天声人語」が教えてくれた。

この「天声人語」は複数の人で書いていると聞いている。そのせいか,当たりはずれの振幅が大きいので,ときには大声でどなりつけたくなることもある。が,今日の担当者はわたしからみて「当たり」である。

冒頭に引いた「荀子」の話は,「ほっそりした女性を好む王の寵愛(ちょうあい)を得ようと,娘たちは競って痩身(そうしん)術に励んだ。そして餓死者が相次いだという故事である」とつづいている。

そして,さらに,つぎのように述べている。

「現代の娘さんたちは,誰(た)がために身を細らせるのだろう。関連する業界やメディアが作り流す『美』のイメージは,人工的で,生身の人間からは遠いように思われる。『水着が縮んだのよ』と笑い飛ばすおおらかさが,周囲にも,彼女たちにもほしい。」

この落しどころがいい。食べるべきものも食べないでひたすら細身を維持することに命をかけたばかりに,感情表現まで痩せ細ってしまった女性が「わたしって,奇麗?」とでもいいたげな顔をして,街中を頼りない足取りで歩いている姿を見かけると,なんだか寂しくなってくる。それよりは「水着が縮んだのよ」と笑い飛ばせるくらいのおおらかさが顔一面にひろがっていて,キラキラと輝く瞳をもった,やや太めの女性に出会うと,なんとなく豊かな気分になる。この感覚はわたしだけの特殊なものなのだろうか。

この7,8年の間に,女性の身体が大きく変化した,とわたしは観察している。まず,スリムになったこと。とにかく,細くてすらりとしたプロポーションの女性が目立つようになってきた。その反面,おデブさんたちが,これまた堂々たるおデブを誇らしげに闊歩しはじめたという印象も強い。そのせいか,その中間の人たちの存在感が薄いのである。

おデブさんたちが,お洒落に着飾って,楽しげに街中を歩いている姿は,なんだかわたしを安心させる。これでいいのだ,と。しかも,とても可愛い。これは最近のテレビでの明るく楽しい「デブキャラ」の活躍と,その人気のお蔭だとしたら,これまた,とてもいいことだ。

しかし,女性雑誌やコマーシャリズムは,もっぱら細身の女性を「美しい」と錯覚したかのように「ダイエット」情報を垂れ流す。その影響を受けて,多くの若い女性たちは,ひたすら「痩せる」ことに専念する。そして,この「ダイエット」に「サイエンス」が相乗りしていく。現代人は「サイエンス」に弱いのである。とりわけ,数量的になにかを説明されるとコロリといってしまう。この「メディア」と「サイエンス」のコンビネーションが,ある意味では,新しい「宗教」となり,つぎつぎに新興宗教を生み出している。その結果として,「痩せなくてはならない」と信ずる「信者」がつぎつぎに誕生する。

若い女性たちの「お化粧」も同じ。みんな同じようなお化粧をするので,みんな同じような「顔」になってしまう。近頃では,電車のなかで,その裏舞台を丸見えにしてくれるので,わたしのような人間にも「ほう,あんな風にして,人間さまの顔というのは自由自在に変化しうるのだ」と納得してしまう。とてもいい勉強をさせてくれる。

そんなことを考えながら街中を歩いていると(わたしの「考現学」),女性たちの身体の「いま」が,少しずつ「透けて見えてくる」から不思議だ。おやおや,この女性たちもまた「透明化する身体」への道をまっしぐらに歩んでいるんだ,と。「サイエンス」という名の宗教に説得され,メディアの垂れ流す情報に操られて,ひたすら人工的な「からだ」へと変身しようとする女性たちだからこそ,「わたし探し」という哲学ごっこが,しかも低俗なレベルの「ごっこ遊び」が流行したりする。みずから自己否定に専念していながら,「わたし探し」をはじめている,この矛盾に気づいていない。

「透明化する身体」は,なにも,トップ・アスリートだけではなくて,現代の女性たちの間にも,まちがいなく進行している,すぐれて21世紀的現象なのだ。痩せるための「薬」も大流行している現実をここに重ね合わせていけば,これまた立派な「ドーピング」である。ただし,こちらはまだ法的な規制は受けていないから,「野放し」状態である。が,ここでも素人判断で間違った「ドーピング」が恐ろしい勢いで浸透していることも,仄聞する。たとえば,痩せるための「ドーピング」をしすぎた結果,結婚しても「子どもを産むからだ」ではなくなってしまった,という悲劇が広がりつつあると聞く。

電車のなかで,ときおり,化粧もしない素肌のまま,紅だけすっきりと引いて,個性的で素敵なお洒落をし,キラキラと輝く瞳をもった,やや太めの女性に出会うと,わたしはなぜかホッとする。そして,その日一日,とても幸せな気分になる。

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2009-07-28 「遊ぶものは神である」(白川静)

_ 白川静の「遊字論」の冒頭の書き出しに「遊ぶものは神である」とある。平凡社ライブラリーの『文字逍遥』の巻頭に収められている。

久しぶりに思い出して,読んでみる。これで何回目かの再読である。40ページ足らずの短い文章ではあるが,その内容たるやなんと稠密であることか。読むたびに感動する。思考が深まる。ありがたいかぎりである。そして,じつに歯切れがいい。短い文章で,じつにわかりやすく説き聞かせてくれる。これぞ名文というべし。

まずは,冒頭の書き出しの部分を引いてみる。

「遊ぶものは神である。神のみが,遊ぶことができた。遊は絶対の自由と,ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき,人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも,神によりてというべきかも知れない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と,秩序をこえた狂気とは,神に近づき,神とともにあることの証しであり,またその限られた場における祭祀者の特権である。」

一分のすきもない文章といっていいだろう。こんなにもこなれた簡潔な文章で,しかも,深みのある内容を表現できることの「すごさ」にまずは撃たれてしまう。

「遊ぶ」ことが世俗化してしまい,その意味が逆転してしまって,「よくないこと」(悪い習慣の意味)になってしまったのは近代以後のことと考えていいだろう。勤勉に努力することのみに絶対的な価値が付与され,「遊び」は不真面目な人間のすることとして排除されることになってしまった。少なくとも江戸時代の末期までは,「物見遊山」はけっして悪いことではなく,むしろ,積極的に推奨されていた。しかも,「物見」にはある種の「呪力」の実現が期待され,見られることによって邪が払われると考えられていたし,「遊山」は逆に「霊力」を賦与されると考えられていた。そうした考え方が,明治以後の「欧化思想」の導入によって,「科学的な根拠」のないものはことごとく排除されることになってしまった。

白川静は,この日本から「東洋的なるもの」がことごとく消え失せていく時代の趨勢にたいして,ある種の危機意識をいだいていたようだ。かれの書いたものを読んでいくと,漢字を研究するのが目的ではなくて,「東洋的なものの見方・考え方」の根底にあるものを明らかにするための,もっとも重要な方法の一つとして漢字学を採用したのだ,ということがわかってくる。だから,白川静の解き明かす漢字の謎解きは,とても奥が深く,古代人の魂に触れるようなところまで連れていってくれる。つまり,呪力をもった漢字を生み出した古代人の,やむにやまれぬ「情動の世界」にまで導いていってくれる。だから,読んでいてとても楽しい。まるで別世界に連れていかれるような感じがする。

さきの引用につづきは,以下のようである。

「遊とは動くことである。常には動かざるものが動くときに,はじめて遊は意味的な行為となる。動かざるものは神である。神隠るというように,神は常には隠れたるものである。それは尋ねることによって,はじめて所在の知られるものであった。」

このようにして,次第に「遊」の世界の深みへとわたしたちを誘ってくれる。ここからさきの引用は甲骨文字が多用されているため,残念ながら,ここに書き留めることができない。あとは,このテクストを読んでもらうしかない。が,この本は必読である。

『古事記』のなかにも,天皇が「野遊び」にでかける描写が随所にでてくる。この「野遊び」は,まさに「神とともに遊ぶ」ことであり,そのことをとおして「呪力」を授けられると考えられていた。いまでも天皇家で行われている「新嘗祭」などもその名残の儀礼である。つまり,ふだんは隠れている神と「触れ合い」,交感・交信することによって超越的な「霊力」や「呪力」をみずからのからだに帯することが,その目的である。

神が存在するか,存在しないか,を科学的合理主義で裁くことはほとんど意味がない。神が存在すると信ずる者には存在するし,存在しないと信ずる者には存在しない。ただ,それだけのことである。あのパスカルですら,神が存在するか,否か,と問われたら,躊躇することなく「神は存在する」方に賭ける,と言っている。数学者でもあったパスカルは,得意の確率論を展開して,最初から「神は存在しない」という方に賭けてしまったら,夢も希望もなくなってしまうといい,「存在する」方に賭けておけば,確率二分の一になると断言する。その上,さらに,確率二分の一ではあるが,「神が存在しない」ということを実証することはできないのだから,最終的には「神は存在する」ことになる,と。この方が生きる喜びがある,とパスカルは言う。

幼児がなにかに夢中になって遊んでいる姿をみていると,まぎれもなく「神とともに遊んでいるなぁ」と思う。それは,トップ・アスリートのスーパー・プレイに出会ったときにも,やはり,かれらは「神とともに遊んでいるなぁ」と思う。この,なにものも忘れて忘我没入できる「エクスターズ」は,まさに「神の世界に遊ぶ」ことと同義であろう。そして,これこそ,今福さんのいう「恩寵」(グラシア)そのものというべきであろう。

鷺沼の事務所の近くの家の庭に,いま,夾竹桃の花が咲いている。これまでにみたことのない色で,なんと色鮮やかなのだろうと見ほれてしまい,思わず足がとまる。このとき,わたしは自分のなかにこんな「魂」が潜んでいるのだということに気づき微笑む。そして,「神さまがいる」と。わたしの,だれにも邪魔されない,密やかな「ミニマ・グラシア」。

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2009-07-30 「透視する」という方法。

_ 今福さんの本を読んでいると,しばしば「透視する」という言い方に出会う。しかも,かなり重要な場面で。

もう,ずいぶん前になるが,「ヴィジョナリー・スポーツ」ということばを,わたしはわたしなりのスポーツに関する思考をとおして到達した一つの概念として用いることを思いついた。ちょうど同じころに,まったく異なる発想から今福さんも同じことばを用いて文章を書いていらっしゃることを知り,驚いたことがある。そして,いまごろになって,たとえば『ミニマ・グラシア』を読みながら「透視する」という文章に出会ったりすると,今福さんのおっしゃる「ヴィジョナリー・スポーツ」のイメージがこことつながっているということに気づき,得心する。

わたしが考える「ヴィジョナリー・スポーツ」の原イメージは,瞑想系身体技法のことを考えているときに浮かんできたものだった。これも,ある意味では「透視する」という方法だったのかもしれない。しかし,それは単なる偶然にすぎない。しかし,今福さんのおっしゃる「ヴィジョナリー・スポーツ」は,今福さんの深い思考をへたのちの,しっかりとした思想性を帯びた概念として提起されていることが,わかる。

断るまでもなく,今福さんが文化人類学者としてフィールドに立ち,参与観察というもっともオーソドックスな方法で調査をし,エスノグラフィを「ディスクライブ」することに疑念をもち,それに逆らうようにして,参与観察ではなくて「参与」あるいは「参加」して,しかも,「ディスクライブ」ではなくて「インスクライブ」をめざしたことは『荒野のロマネスク』の冒頭の論文に明らかである。しかも,この問題意識はその後もずっとひきずりながら,近著の『ミニマ・グラシア』や『群島─世界論』にもそのまま継承されている。言ってしまえば,ヨーロッパ近代の生み出した「科学的方法」や「アカデミックな方法」という,一種の神話化された「方法」にたいして根底的な疑念を提起しながら,それに代わるべき一つの方法として「透視する」という方法を意図的・計画的に用いている,といまのわたしには見えてくる。それは,「ディスクライブ」を拒否して「インスクライブ」を目指したことによる一つの必然として「透視する」という方法が次第に大きな意味をもちはじめた,と言ってもいいだろう。

さらに言っておけば,科学的方法からはこぼれ落ちてしまう「詩学的な知」の地平に分け入っていくための,これはもはや不可欠な方法なのである。ちょうど,吉増剛造さんのような詩人が,「萌の襲」をとおして,つぎつぎに「飛び出してくる」ことばに導かれるようにして,まことに不思議な世界を描き出すのも,今福さんに言わせれば,おそらく「透視している」ということになるのだろう。なにかの拍子に「興」がのり,それに導かれるようにして,未知の,未発のイメージが誕生する瞬間というものは,「科学的方法」では捉えきれないし,近代のアカデミズムで論証することはほとんど不可能に近い。しかし,実際の,「科学的知」に到達する原初のアイディアのようなものは,あるとき突然「湧いて」でてくる。その次元は,今福さんのおっしゃる「透視する」とほとんど同じだ,とわたしは考えている。

人間が,詩を書いたり,作曲したり,絵を描いたりする,いわゆる「創作活動」は,ほとんど「無から有」を生じさせることにも等しい営みだと,わたしは思う。それは,マラドーナのような天才的なサッカー選手もまた,なにかを「透視する」ようにして,瞬間的にとんでもないスーパー・プレイを演じてみせる。実際にも,かれの目にはそのように見えることがある,という。

しかし,こんなに構えなくても,ごく日常のわたしたちの生活の場面でも,「透視する」ということはいくらでも起こっている,とわたしは考えている。ただ,それらはあまりにも当たり前のように振る舞われてしまうために,意識に登ってこない,あるいは無意識のレベルで処理されてしまうために,なかなか思いつかないだけのことではないか,と思う。だから,「透視」したり,「幻視」したりすることは,意外に,人間が生きるという営みの根幹に位置しているものではないか,というのがわたしの仮説である。この辺りのことはまだ未整理なので,ここではこの程度のことにしておこう。

ただ,今福さんは,もっとしっかりした根拠をもって,「透視する」とか,「幻視する」という方法を多用していることは間違いない。それは,もはや,今福さんの思想の一部をなしている。ゆるぎない「方法」の一つとなっている。それは「科学的方法」にたいする一つのアンチテーゼであると言ってもいいだろう。しかも,この方法を援用することによって,人文的知の地平は限りなく拡大されていくことは間違いないし,より,人間的営為に接近できることも間違いない。そういう確信があるからこそ,「最小限の恩寵」についても,「透視」したり,「幻視」したりしながら,遠大なる知の地平を切り開いていくことが可能となる。

こういう方法を「非科学的」だと言って笑い捨てるか,そうではなくて,近代のアカデミズムの「外」に飛び出して,人間のありのままの姿により接近するための有効な方法とみるかは,それこそ一人ひとりの思想の問題だ。そこさえ覚悟しているのであれば,どうぞご随意に,ということだ。

今福さんの「透視する」という方法は,かくも遠大なる構想のもとに展開されているものである,ということに気づくとき,それまでもやもやしていた疑問が一気に瓦解する。

この文章,もっと推敲しないと理解してもらえないかもしれない。お許しのほどを。

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2009-07-31 「駄目トラ」が息を吹き返すか。

_ もう死にかけていた阪神タイガースが,ここにきてようやく4連勝。「駄目トラ」が息を吹き返すか。

WBCに参戦した岩田が肩をこわしてしまい,他の投手も調整が遅れ,阪神タイガースはスタートからこけてしまった。打線が好調なときは投手陣が駄目,投手陣が少しよくなってきたかなと思うと打線が駄目。こんなことの繰り返しで,あれよあれよという間に借金生活。最大14もの借金をかかえてしまって,もう,今シーズンは終わり,と諦めかけていたらそこから4連勝。借金も10となった。この4連勝は偏に投手陣の頑張りによるものだ。打線もいくらか上向いてきたものの,まだまだ,本調子ではない。なにより新井の不調が大きい。8月に入ったら,これまでの不調をとりもどす勢いで打ちまくってほしい。新助っ人のブラゼルが予想以上にいいので,あとは,新井が打ちはじめれば鬼に金棒だ。

岩田,能見,久保といったところが安定してくれれば,あとのベテラン投手も調子を取り戻してくれるだろう。完投とはいわないまでも,せめて,6,7回まで踏ん張ってゲームをつくってくれれば,あとはなんとかなる。そのためには,できるだけ早い回で打線が奮起して先取点をとることだ。ある程度のリードをとっておけば投手は気分よく投げられる。そのリズムができてくれば打線もはずみがでてくる。

昨年の絶好調時のように,なんとか2勝1敗ペースで波にのるところまで,元気を取り戻してほしいものだ。そして,来年への希望をつないでおいてほしい。この4連勝がフロックではないことう証明するためにも,この連勝記録をのばしていってほしい。

このあたりで「駄目トラ」を卒業して,「勝ちトラ」になるべし。

真弓君,たのんまっせ。

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