今月の言葉
2007年12月
 
 
「北京オリンピックは<世界史>に刻印されるイベントとなる」(西谷修)

 表題のフレーズは,さる11月25日(日)に行ったシンポジウム「グローバリゼーションとスポーツ文化」の終盤で,シンポジスト・西谷修氏の口から飛び出したものである。あと8カ月後に迫った北京オリンピックについては,ここかしこで取り沙汰され,一部ではなにが起こっても不思議ではない,という声すら聞かれる。つい最近の朝日新聞(12月14日朝刊)は「替え玉ランナー20人」という見出しで,10月に行われた北京国際マラソンのゴシップを報じている。タイム計測用のチップを他人がつけて走った,そういう人が20人もいた,というのである。これまでにも,こんな話がちらほらと聞こえていたので,西谷氏の発言の意図が奈辺にありや,と一瞬その真意を計りかねた。まさか,不祥事によって「北京オリンピックは<世界史>に刻印されるイベントとなる」などと,西谷氏が言うはずもなかろうに・・・,と。
 が,すべては杞憂に終わった。それどころか,眼からうろこが落ちるような説明がそのあとにつづき,びっくり仰天した,いやいや,さぶいぼ(奈良の方言で「鳥肌」のこと)が立って身震いした,というのがわたしの正直な感想である。そのときの西谷氏の説明を,わたしの感想や主観や願望という「めがね」をとおして整理してみると以下のようになろうか。
 オリンピック・ムーブメントは,クーベルタンの提唱以来,ヨーロッパ近代の論理(もっと狭く限定しておけば,キリスト教文化圏の生み出した理性中心主義,あるいは,神との契約のもとに成立する「主体」の論理)のもとに展開され(すなわち,ヨーロッパ中心主義),その論理を地球のすみずみにまで浸透させること,それが「世界平和」への道である,と説かれた。したがって,これまでに開催されたオリンピックは,すべて,このヨーロッパ近代の論理を,周知徹底させることに貢献してきた。アジアで初めて開催された東京オリンピックも,日本という近代国民国家が明治以後,営々とつとめてきた「ヨーロッパ化」の成果が認められてのものであった(第二次大戦後は,「アメリカ化」)。しかも,その徹底した管理・運営能力は高く評価された。つづく,ソウル・オリンピックもまったく同様であった。まさに,ヨーロッパ近代の論理は,オリンピックという巨大化したスポーツイベントをとおして,遠くアジアの片隅の国家をも巻き込んで,着々とその「世界制覇」の夢を実現してきたのである。
 ところが,北京オリンピックはそうではない,と西谷氏は断言する。これまでの<世界史>が,ヨーロッパ近代の論理による文化統合であったとすれば,しかも,その文化統合が<臨界点>に達している(西谷修著『<世界史>の臨界』岩波書店)とすれば,北京オリンピックは,まさに,この<世界史>に強烈な刻印を記すものとなる,あるいは,この<世界史>の枠組みの<外に>はみ出していくものとなる,と力説するのである。ここでいう<世界史>とは,ヨーロッパが<世界>を発見したあとの歴史(すなわち,ヨーロッパ近代以後の歴史)という意味である。その意味で考えれば,中国は,ヨーロッパ近代のはじまりと同時に,長年にわたる徹底した「いじめ」に会い,無視されたり,攻撃されたり(阿片戦争),支配されたり(日清戦争・第二次世界大戦,など),を繰り返してきた。もっと言ってしまえば,国家としての主権すら<世界>から認められることもなく,さらし者にされてきたのである。
 とりわけ,毛沢東による革命以後の中国は「赤いヴェール」につつまれ,その真の姿はほとんど知られることもなかった。中国の姿が少しずつわれわれの耳目をとらえるようになってきたのは,つい,最近のことである。なかでも,中国政府が,市場経済を一部,導入し,<世界>との積極的な経済交流がはじまってからにすぎない。それでもなお,中国という国家の全体像は,どこか霞にかかってみえにくい部分が多く残されたままである。もちろん,中国にヨーロッパ近代の論理が周知徹底されている,とはとても考えられない。民主主義や言論統制はもとより,資本の論理ですら,先手必勝のような状態で,大きな混乱を引き起こしている,と聞く。法治国家の主体たるべき国民という意識も,これからの問題だと聞く。だからこそ,中国は,これまでの<世界史>の一翼をになう国家の<外に>置かれてきたのだ。
 その中国が北京オリンピック開催の名乗りをあげたとき,IOCの理事の多数が賛成したのである。このとき,IOCの理事の多くは,中国はすでに<世界>の仲間入りをはたしている,と判断したのだろうか。そこまで,きちんと,<世界史>を読み切って,この判断をくだした,というのだろうか。そうではなかろう,と西谷氏は考えているようだ。そうではなくて,「なし崩し的」に<世界>の仲間入りをさせようとした,だからこそ「<世界史>に刻印を押すイベントとなる」というのだ。
 だとすれば,北京オリンピックでなにか不祥事が起きたとき,IOC会長をはじめ,各理事は,それ相応の責任をとる覚悟ができているはずである。はたして,そうだろうか。これは,あくまでも,わたしの個人的な杞憂であるが・・・。どこぞの国の相撲協会のように,理事長はじめ,理事のすべてが,ちょっとした不祥事に対して,みんな背を向け,責任逃れに奔走する図式が眼に浮かぶからだ。スポーツという世界の,あまりに同質的な「ホモ集団」は,異質なもの(異文化)に対する免疫力がきわめて低い。国際世論という名の<世界>の体質も同じようなものだ。
 西谷氏が力説した話のなかには,もうひとつのポイントがある。オリンピックやサッカー・ワールド・カップのような巨大化したスポーツ・イベントは,いまや,メディアの力も預かって,いかなる戦争や首脳会談よりも大きな影響を全世界に及ぼす,というのである。戦争は,いまや,局地戦争(あるいは,代理戦争)に成り果てていて,世界大戦などは不可能な時代に入ってしまった,という認識に立つ。いやいや,それどころか,巨大な「帝国」が,敵のみえない相手との戦争,すなわち「テロとの戦い」という不思議で不可解な時代に突入してしまった。その意味では「戦争」というものが,もはや,無意味化してしまった,という前提に立つ。加えて,首脳会談は,文明先進国の利権を確保することにやっきになっており,ますます「帝国」としての機能と姿を鮮明にしつつあり,マルチチュードの側に立つ人びとからの鋭い批判の声がしだいに大きくなりつつある。首脳会談開催地の反対デモはしだいに巨大化しつつある。
 それに比べたら,オリンピックは「世界平和」という仮面をかぶった,しかも地球全体をひとつの祝祭空間にしてしまうほどの威力と波及効果をもつ。オリンピックは,もはや,世界最大のイベントとしての地位を築いたのである。ほんの一瞬とはいえ,世界を熱狂の坩堝と化し,プチ・ナショナリストが多数誕生する。テレビの画像をとおして伝わってくる鍛えられた肉体の躍動感は,それをみている多くの人びとの肉体とも共振しながら,いつのまにか,意識変革をももたらす。こうして,世界の多くの人びとが,似たような意識を共有するようになる。スポーツ選手の肉体がロボット化(サイボーグ化)すればするほど,人びとの意識もロボット化する。この相乗効果は他のいかなる文化をも凌駕し,はるかに突出していると言ってよいだろう。しかも,その姿は,一見したところ,微笑ましいばかりである。
 しかし,笑って済まされる時代はとうのむかしに過ぎ去っているのである。そのことに気づいている人は意外に少ない。われわれは「ミュンヘンの教訓」を忘れてはならない。オリンピックというスポーツ・イベントが肥大化すればするほど,その陰で,犠牲になる人びとも多くなる,という事実を。あるいは,巨大なスポーツ・イベントは,いまや,環境破壊の元凶のひとつとしても無視できないばかりか,その批判の矢面に立たされているということも。
 こうして,シンポジウム「グローバリゼーションとスポーツ文化」は議論の核心部分に入っていく。スポーツ文化が「グローバル化する」ということはどういうことなのか,その具体的な事実関係に分け入っていくための基本的で,しかも,本質的な議論が,4時間の長きにわたってつづいた。この全貌は,できるだけ早い時期に,このHPをとおして公けにしたいと考えている。取り急ぎ,その概要の紹介まで。