今月の言葉
2008年3月
 
 
『スポーツを語ると<身体>や<世界>が見えてくる』
                                                                     稲垣正浩(「ISC・21」主幹研究員)

 振り返ってみれば,ここ数年の間に,西谷修,今福龍太のお二人とご一緒したシンポジウムを4回もやっていることに気づく。こんな僥倖に恵まれ,わたしの思考回路は大きく深化(進化)した。われながら驚くほどの思考の新地平への展開である。それまでのわたしの思考は,ある意味で,<スポーツ>のなかで完結していた。せいぜい<スポーツ>から<スポーツ文化>へと,いくらか思考の枠組みを広げてみよう,という程度のものにすぎなかった。それでも,多少,以前から気になってアンテナを張っていたのは<身体>の問題である。この問題も,じつは,西谷さんや今福さんの書かれた本などに導かれながら,少しずつ外堀を埋める作業はしていた。
 そして,これはまったくの青天の霹靂であったのだが,2003年に,ドイツ・スポーツ大学ケルンのゼミナールで「身体論」を取り上げ,半年間,ドイツの学生さんたちと議論を重ねることになった。そのときの話をまとめたものが『身体論――スポーツ学的アプローチ』(叢文社,2004年)である。ここで取り扱った「身体観」は,言ってしまえば,西洋医学的な,あるいは近代的な,科学的な「身体観」の<外>にある,もう一つの身体観,すなわち,東洋的な,あるいは前近代的な,神秘的「身体観」である。つまり,近代という時代が抑圧・隠蔽してしまった前近代の「身体」に,もう一度,光を当ててみようという試みである。
 この経験は,その後のわたしの「身体観」に決定的な影響を及ぼすこととなった。その典型的なものの一つは,<身体>をどのように捉えるかによって<スポーツ>の見え方が違ってくる,というある種の確信をわたしのなかに根づかせたことだ。つまり,スポーツ文化を規定するもっとも大きな要因は,そのスポーツ文化を支える人びとの<身体>の理解の仕方にある,という仮説である。だから,これを契機にして,ますます<身体>へと,わたしの関心は傾斜していった。そんな折に,西谷,今福の両氏と,いずれも<スポーツ>を話題にしたシンポジウムでご一緒することになった。これを僥倖と言わずしてなんというべきか。
 この一連のシンポジウムをとおして,わたしの頭のなかは,「スポーツ⇒身体⇒世界」という図式がいつのまにか出来上がっていた。つまり,スポーツと身体と世界は一直線につながっているということ,もっと言ってしまえば,スポーツを語るということは,身体や世界を語ることと同義だ,ということ,すなわち,この小論のタイトルに書いたように「スポーツを語ると<身体>や<世界>が見えてくる」というものだ。
 なぜ,そこに至りつくことになったのか。
 一口にスポーツと言った場合,その中心にあるものはヨーロッパから移入された近代スポーツである。つまり,競争原理に支えられた,あるいは「勝利至上主義」や「優勝劣敗主義」に支えられた競技スポーツのことを意味する。しかし,この中心から遠ざかるにしたがって,「競争」とはほとんど無縁のスポーツ文化が存在することも事実である。その最たるものが,神や自然と交信するような祭祀儀礼のなかで展開される身体的なパフォーマンスである。いわゆる,特定の地域で,バナキュラーな文化として展開される「民俗スポーツ」とでも名づけるべきものだ。それらは,もはや,スポーツも歌もダンスも武芸も酒宴(直会)もみんな渾然一体となった,一連のパフォーマンスとして展開する。いうなれば,中心スポーツに対する周縁スポーツとでも呼ぼうか(本意ではないが,分類・差異の必要上)。あるいは,競技スポーツに対する民俗スポーツ,とでも。
 したがって,こんにち,「スポーツを語る」ということは,とりもなおさず,中心スポーツである競技スポーツを語ることを意味する。となれば,当然のことながら,その主題はオリンピックであり,ワールドカップとなる。これらのスポーツについて語っている中から飛び出してきたものが,今福さんの言う「透明な身体」という概念である。それは言うまでもなく,トップ・アスリートたちの鍛え上げられた筋肉隆々たる身体のことである。科学的トレーニングをとおして,意図的・計画的に「作り上げ」られた身体である。こうして「作り上げ」られた身体は,みんな,「サイボーグ化」し,まるでよくできた「ロボット」,すなわち「機械」に近づいていく。そうなってくると,つかみどころのない「不透明な身体」,すなわち,生身の身体が醸しだす「怪しげな」雰囲気はどこにもなく,単なる「機械」が,ひたすらその性能の良さを競うだけの,出来上がった製品(記録)の善し悪しについてのコンクールになってしまう。そのうような「透明な身体」=「機械」からは,もはや,人を感動させるドラマは生まれない。だから,アテネ・オリンピックをみる「気がしない」し,みていて「退屈した」と今福さんは仰る。西谷さんのことばを借りれば,競技スポーツをする身体がもはや「臨界点」に達していて,それはとても人間の身体とは思えない,ということになる。そのうちに,ロボット化した身体が加熱して機械が故障を起こすように「ドカーンと爆発する」のではないか,と西谷さんは笑いながら危惧されている。つまり,オリンピックはもはや前代未聞の非常事態を迎えているのだ,と警鐘を鳴らす。
 こうした事態はもはや競技スポーツの世界に限らない。芸能人も,政界や財界の有名人も,研究者と呼ばれる人たちも,ごく普通のサラリーマンも,そして,家庭の主婦も,金と時間の余裕のある人たちは,こぞってスポーツ・ジムに通って「ボディ・ケア」に余念がない。世はあげて「メタボリック・シンドローム」に怯えている。そして,専属のトレーナーは「お医者さん」よろしく,「どこの贅肉を落したいですか」「どこに筋肉をつけたいですか」といった調子で,クライアントの希望に応じた「トレーニング・メニュー」を作成してくれる。クライアントはせっせとその「メニュー」をこなすことに余念がない。その姿は悲壮感さえただよっている。しばらくすると,やれ「上腕二頭筋」がどうの,「大胸筋」がどうの,「深層筋」がどうの,とご託を並べるようになる。この光景は,トップ・アスリートたちが競技力向上を目的にトレーニングする姿と,基本的にはなんら変わらない。こうして,みずからの身体は,みずからの意志で,改造が可能である,という神話を「無意識」のうちに生み出していく。これが第一の落とし穴である。まさに「人間機械論」の再現である。そして,こうすることがインテリであり,セレブであることの証左であるかのように・・・・。どこぞの大統領が必死になってジョギングに余念がないのと同類である。
 理性的にはもっともらしく身心一元論を語る人たちが,やっていることは心身二元論だ。つまり,理性でみずからの身体をコントロールできない人間は,エリートとして失格なのだ,と。もちろん,個人のレベルで,個人の好みとして取り組むことを非難するつもりは毛頭ない。しかし,俺がやっていて「いいこと」だからお前もやれ,ということは別である。どのような身体としてみずからの身体と折り合いをつけるかは,その人,個人の問題である。つまり,趣味・嗜好の問題であり,生き方の問題である。すなわち,宗教と同じ。だから,他者の身体を,自分の趣味・嗜好で強制してはならない。これが第二の落とし穴。
 じつは,もう一つ,大きな落とし穴がある。みずからの意志や理性で抑圧された身体は,かならず不完全燃焼を起こし,身体に歪みを残す。その歪みが蓄積されていくと,かならず,どこかに「亡霊」となって,ある日,突然,姿を現す。まるで,テロリストのように。いま,現代の日本の社会にとって,あるいは,世界にとって必要なことは,身体の根源的な欲望を「解き放つ」ことだ。問題はどのようにして「解き放つ」かにある。これこそが大問題なのだ。もう一度,繰り返しておきたいことは,「抑圧」が強くなればなるほど「亡霊」は多くでてくる,ということだ。もはや,言わずと知れた「正義」と「テロ」のいたちごっこ,ということ。
 この,とんでもない落とし穴に,世界のリーダーたちが気づいていない。いや,気づいているのだが,気づいていなふりをしている。まるで,一度,目的を定めて離陸した飛行機は目的地に到着するまでは,いかなる理由があろうとも,途中で着陸することも,Uターンすることも許されないかのように。なぜなら,それは自分たちだけが「正義」であるという前提に立つ「テロとの戦争」だから。
 この「戦争の論理」と,スポーツ・ジムで培われる「身体の論理」とは,あまりにも酷似している。かつての第二次世界大戦のときに,われわれはすでに経験済みのことであるように(鬼畜米英)。つまり,無意識のうちに自分は「正義」であり,それ以外の者は「邪悪」であるとする「他者否定」の論理が根を張っていく。気づいてみれば,この「他者否定」の論理(「身体の論理」「戦争の論理」)を「正義」の御旗として掲げ,<世界>をコントロールする論理にすり替えていく。しかも,この「論理」が,平気で世界を闊歩している。(いま,「平気」という文字を出そうとしたら「兵器」という文字がでてきてギョッとする。まさに,「兵器」で世界を支配しているからだ。)これは恐ろしいことだ。こんなことはみんなわかっているはずだ。にもかかわらず,だれも猫の首に鈴をつけようとはしない。ただ,息をひそめて傍観するのみ。
 こうしたみずからを呪縛してしまうような,セルフ・コントロールの気質もまた,こんにちの「身体」の有り様と不可分ではない,とわたしは考えている。ひとことで言ってしまえば,権力,権威(科学),経済,メディア,欲望,などに弱い「身体」なのである。これらの問題を一つひとつ取り上げて,精細な思考を展開させていけば,おのずからなる<世界>の実像が浮かび上がってくる。しかし,そこまでの余裕はいまはないので,ここでは割愛する。
 もう少し詳細な論の展開を試みてみたいところであるが,今回はここまでとする。
 <スポーツ>を語るということは<身体>の問題を抜きにしてはありえない。また,<身体>の問題もどうしても<世界>の問題に至りつく。この三つは,まるで三つ巴のように,お互いに絡み合い,拘束し合っていて,密接に影響し合う。これからのスポーツ文化論は,この三つの視点を視野に入れて展開することが肝要であろう,としみじみ思う。そのことを,ここ数年にわたって,西谷,今福の両氏をまじえて行われたシンポジウムが教えてくれている。