今月の言葉
2008年2月
 
 
時津風部屋「力士死亡事件」の深層
  ――「自己の内なる他者」の問題      稲垣正浩
        
    大相撲初場所は,朝青龍がよく頑張り,13勝1敗同士の横綱対決に持ち込んだ。この時点で朝青龍はみずからの「責任」を果たし終えた。ひさびさの満員御礼の札止めが7日 もあったというから,日本相撲協会としても安堵の胸をなで下ろしたに違いない。結果は ,進境著しい後輩横綱白鵬が制した。これで白鵬は,がっぷり四つに組み止めれば負けな  い,という自信がついたことだろう。それに対して負けん気の強い朝青龍のことだ。このままでは勝てないということを肌で知ったはずの朝青龍が,来場所の巻き返しに向けて,どのような稽古をしてからだを作ってくるか,大いに期待したところ。この初場所の結果は,日本相撲協会にとっても,白鵬にとっても,そして朝青龍にとっても,とてもよかったのではないか,とわたしは考えている。なぜなら,日本相撲協会にとっては,千秋楽横綱対決で優勝が決まるという,大相撲にとっては最高のシナリオがこ れからも期待できるからだ。そして,この両横綱にどのようにして「土」をつけるかが若手力士たちの目標となる。しかも,その相撲内容が,若手力士の自信につながることはも ちろんのこと,三賞候補の条件にもなるからだ。もし,「金星」を挙げるようなことにでもなれば,賞金と同時に給料も上る。こうなってくると,初日から全取り組みともに眼が離せなくなる。このようなシナリオが展開するようになれば,興行で成り立っている大相 撲にとっては最高のものだ。これでふたたび連日の満員御礼の垂れ幕がみられることになるだろう。白鵬は,「二場所休んでいた横綱に負けるわけにはいかない,という強い気持ちで臨んだ」と心境を正直に吐露したように,どうしても「この一番」だけは負けるわけにはいかなかった。ここ二場所,二連覇をなしとげた実績が,朝青龍がいても同じであった,ということを実証する「引くに引けない」事情があった。しかも,これまでにも,わがまま勝手にふるまってきた朝青龍に対する幕内力士たちの暗黙の反発がある。千秋楽の横綱対決ということになれば,圧倒的多数の力士たちが白鵬に与したことだろう。この幕内力士たちの無言の声援を,白鵬はひしひしと感じていたはずだ。ここで負けてしまったら,顔向 けできなくなる,とみずからの気持ちを引き締めたに違いない。その気迫はテレビの画面をとおしても,充分に伝わってきた。
    一方,朝青龍にしてみれば,休んでいる間に急成長した白鵬というとてつもなく大きな 壁が眼の前に立ちふさがり,あとは「打倒・白鵬」に向けて本気で稽古に励むしかない,というところに追い込まれてしまった。もはや,稽古嫌いなどと言っている場合ではない 。あの激しい気性をさらに剥き出しにして,鬼の形相となって,来場所は登場してきてほしい。そして,激しい相撲を展開してほしい。おそらく,マスコミは喜んで,朝青龍のマナーの悪さを叩きつづけるだろう。それでいいのだ。大相撲はアマチュア・スポーツではないのだ。力士は髷を結った異形の人であり,世俗の倫理を超越した芸能者なのだ。土俵の上が唯一の表現の「場」なのだから。かつて「土俵の鬼」と言われた初代若乃花が,ことの真相はともかくとして,土俵の上で怒りを爆発させ,連日のように「呼び戻し」「仏壇返し」「つり落とし」といった大技を繰り広げたことがある。これで若乃花の人気は一気に沸騰した。朝青龍も,こころの内に秘めた「悔しさ」を,徹底して土俵の上で表現するしかないのだ。荒業師と異名をとった初代若乃花の後継者としてはうってつけである。他の力士たちに恐れられるくらいの悪 役に徹するべし。正統派の白鵬と荒業師の朝青龍の両横綱がしのぎを削るとき,そして,進境著しい若手力士たちが両横綱に一矢報いるべく絡むとき,日本相撲協会はまったく新しいステージに駒を進めることになるだろう。かくして,ふたたびの大相撲人気が日本中を席巻することになるだろう。その日の到来を密かに待ちたい。そのためには,もっともっと,朝青龍が土俵の上で華々しく暴れまわり,悪役に徹することだ。そのひとことにつきる。
        
昨年の『世界』(岩波書店,11月号)に「大相撲は『国際化』したか――朝青龍問題 の深層」という一文を投じたところ,意外な反響があった。その一つが,昨年11月25日にわたしの主催する研究会が取り上げたシンポジウム,「グローバリゼーションとスポーツ文化」の中での今福さんの発言である。詳しい論旨は,「シンポジウム再録」で確認 していただきたいが,その中で,充分にディスカッションできなかったテーマの一つに, 大相撲の部屋制度の問題がある。それは「可愛がり」問題とも結びつく相撲部屋での「暴力」の問題である。
 今福さんの主張は,この種の「暴力」は比較的新しい現象と考えるべきで,むかしは,きちんとどこかで「歯止め」がかかるようになっていたはずだ,でなかったら,大相撲がこんにちにまで連綿とつづく歴史を築くことはできなかったと思う・・・というものである。この意見に,わたしも賛成である。しかし,わたしの説明不足で議論がすれ違ってしまった部分がある。というのは,こんにちの相撲部屋には,このような「歯止め」がかかる装置が温存されなくなってしまっていることを前提にして,わたしは相撲部屋の「近代化」(「合理化」)が必要である,と述べたつもりだった。たとえば,箱根駅伝に参入してくる強豪チームや六大学野球などには,水泳の北島選手をサポートするための「チーム・キタジマ」のような多くの専門家集団による支援システムが採用されており,そこでは「暴力」の問題は発生することもなく,むしろ,チームが一丸となって好成績をあげている,という話をわたしはしたつもりだった。が,すかさず,今福さんは,そういう勝てばいいというような,勝利至上主義的な方向に,スポーツの問題が収斂されていく考えには違和感がある,とずばり指摘された。わたしは冷や汗をかきながら,どこかで補足説明をするチャンスをうかがっていたのだが,それが果たせないままシンポジウムの話題は別のところに流れていった。
        
    もともと大相撲の相撲部屋は,力士の出身地別に構成されていた。たとえば,井筒部屋は鹿児島出身の力士たちを中心に,佐渡ケ嶽部屋は四国出身の力士たちが集まってくる,そういうシステムになっていた。地元には,優秀な力士を見つけ出す世話人(地元の名士)がいて,部屋の親方とは一心同体のような関係を結んでいた。だから,新弟子を部屋に送り込むときには,この世話人が「親代わり」になって,部屋の親方と新弟子とが「親子 の契り」を結ぶ。つまり,部屋制度とは「家族」の延長線上に成立しているものなのである。だから,親方は「親」なのであり,兄弟子,弟弟子は文字通り「兄弟」なのである。いわゆる「身内」意識が前提となっている。こういう制度ができたのには必然的な理由がある。江戸時代には,まだ,標準語というものがなかったので,出身地が違うと「ことば」が通じない。有名な話では,江戸城明け 渡しの直談判のとき,西郷隆盛と勝海舟は,お互いに「ことば」が通じなかったので,間をとりもつ「通訳」が必要だった,という。方言が通じないということは,感情移入をした会話が成立しない,ということだ。だとしたら,相撲の稽古のときの微妙な会話は著しく困難になってしまう。ことほど左様に,「ことば」が違えば,立ち居振る舞いの作法から,食事をはじめとする風俗習慣も違う。つまり,「文化」が違うのだ。だから,どうしても,同じ「文化」を共有する人間の集団でなくてはならなかった。このような「ことば」をはじめとする「文化」を共有し,親子・兄弟の「契り」を結んだ「家族」のなかにあっては,「可愛がり」のような「暴力」にも,おのずからなる「歯止め」がかかる。そこには,基本的に「家族愛」という制御装置がはたらいているからだ。この「家族愛」が欠落してしまえば,それは単なる「男集団」にすぎなくなる。それは ,近代社会にあっては,軍隊であり,体育会系の運動部であり,応援団となる。だから,これらの組織には,どことなく「うさん臭さ」がつきまとう。それでも,うまく機能すれば,親兄弟以上の「絆」で結ばれることもある。こういう組織では,ある一定程度の限度を越えた「暴力」には「歯止め」がかかる。そういう良識がはたらく。しかし,そのような良識が一時的な感情によって吹き飛ばされてしまったとき,しかも,それが集団化して しまったとき,もはや,「暴力」の「歯止め」は効かなくなる。
        
    母親が娘を殺してしまったり,息子が金属バットで親をなぐり殺したり,父親が家族を殺そうとしたり,兄が妹を殺したり・・・と最近は,眼を覆いたくなるような「家族内」の殺人事件が相次いで起きている。基本的には,これと同じことが,ついに「相撲部屋」でも起こるようになった,ということだ。断っておくが,時津風部屋だけが異常なのではない。そして,明治大学応援団部だけが異常なのではない。それを管理しているはずの日本相撲協会も,そして,明治大学執行部も,旧態依然たる慣習(自動的に「歯止め」のかかる「愛」と「良識」=そんなものは疾うのむかしの幻想でしかない)にもたれかかったままにいる。これは,なにも,ここに名前をあげた団体に限られたことではない。一つひとつ名指しにすることはしないが,こんにちの組織はどこもかしこもみんな似たようなものだ。わずかに,このことの異常さ,危険さに気づいた組織だけが,時代をさきどりするようにして組織の体質改善を急いでいる。その他のほとんどの団体・組織は,すでに,そのボロが出はじめているにもかかわらず,みんなで「隠蔽」しようとやっきになっている。官庁も行政も,老舗も,チョコレートも紙も・・・みんな同類である。ということは,われわれが身を寄せている組織も同類だということだ。
        
     いま,日本相撲協会に起こっているさまざまな現象(とりわけ,大相撲のグローバリゼーションに付随して起こっている諸現象)は,他山の火事ではなくて,わが家の火事なのだ。そのことに,あまりにも無自覚,無頓着だ。まるで他人事のようにして情報を垂れ流しているジャーナリズムもそれを受け取っているわれわれ読者・視聴者も。みんな「他人事」だと思っている。そこに現代社会の,もっとも深刻な「病弊」をみる。病人を助けるべき病院ですら,緊急患者を「たらい回し」にする。大阪府では「3500億円」もの「 赤字隠し」が露呈している。そういう時代・社会のなかで,時津風部屋の「力士死亡事件 」が起きた。
        
    強く自省する意味で,ここに書き記しておかなければならないこと,それは,わたし自身も「同じ穴のムジナ」である,ということ。重要な会議でも「黙して語らず」の姿勢は  ,同類と呼ばれても仕方ない。この文章を書きながら,みずからの首を締めていることに気づく。情けない。では,いったい,そこから抜け出すにはどうしたらいいのか。そのために「スポーツ文化」はなにができるのか,わたし自身の課題である。すなわち,これから正式に立ち上げようと考えている「21世紀スポーツ文化研究所」のテーマ「スポーツと暴力」として。