イリンクス(眩暈)
井上眞(精神科医)
歌人にして精神科医であった斉藤茂吉は自身の精神病院で診察の際、患者の頭に聴診器を当てて、「どれどれ、お前の頭は、、、」とやっていたという。聴診器を当てて患者さんの精神状態がわかるかはともかく、頭の中身―構造であれ機能であれ―を客観的に知りたいという願いと現実は茂吉の頃からどれほどの進歩をとげたのであろうか。また、高次の脳機能、自己と非自己の認識に関して、脳研究の分野はどの程度までせまったのであろうか。
1990年、アメリカでは連邦議会の「脳の10年(Decade of the Brain)」決議による政府をあげての長期的な脳研究推進が提唱され、以後現在に至るまで脳研究は活況を呈している。この流れはヨーロッパや日本においても引き継がれ、「欧州の脳の10年」や日本学術会議からの提言「脳科学とこころの問題―脳科学の視点から―」として研究が推進されてきた。おりし
もこの頃から急速に進歩してきたMRI等の脳内活動を直接測定できる装置を用いて、記憶や思考など精神活動についての研究も広くおこなわれるようになってきた。このMRIとは放射線を使わずに大きな磁場の力によって体の構造や機能をしらべるも
のであるが、脳に関しては、鮮明な構造を調べることができるほか、計算や思考の際に、脳のどの部位に血流が増加してい
るかを知ることができる。つまり、リアルタイムでの脳内活動を客観的に測定することができるようになったのである。
2000年代に入り、暗算や記憶テストを行って、このMRI検査を行っていた際、不思議な現象がみつかった。何もしない状態
のときに活発に活動し、考え事や計算をしているときにはむしろ活動が低下している部位がみつかったのである。今までは
計算や思考という積極的な行為にのみ脳が活発に運動するといわれていただけに、「何もしない」ときに「活発に」脳が運動
するこの現象は衝撃的であった。以来多くの報告があるが、この活動は現在、自分がどこにいるのか、また昨日自分は何を
していたかなどの記憶と関係しており、時間的、空間的な「自己」の認識に大きくかかわる活動ネットワークではないかとの
仮説がある。
では、この活動ネットワークを適度に、良い加減に刺激してやるとどうなるのだろうか。激しい衝撃を与えたならばネットワークに支障をきたして「自我の崩壊」になるのかもしれないが、軽い衝撃であれば、自我に関する意識の低下に伴うゆるやかな
「快」刺激になるのではないかと思う。一般に、脳に対する「快」刺激とは、覚せい剤による効果のように脳内の神経を強制的
に興奮させることによるもの、または酒を飲んだ時のように、抑制的、超自我的な脳内活動を抑えることで本能的な情動を開
放するものなどがある。このような今までいわれてきた「快」 をもたらす刺激のほかに、自己を自分だと認識している意識を緩
めることによる「快」刺激というのもあるのではないか、との仮説を提唱してみたい。 「いま、ここで」何かを明確に考えている自分 、その意識を緩めるとは眠りに落ちる前の一瞬のようなものかもしれない。または音楽の合唱で自分の声が他者の声と溶
け合った時の状態に近いのかもしれない。このような状態は、心地よい眩暈のような感覚をともなっているような気がするのである。
カイヨワは遊びについて以下の4種類に分類をおこなった。すなわち、明確な意志に基づいてルールの世界に遊ぶ(競争)、
ギャンブルなど予想とその的中に気分を高揚させる(運)、なにか別の人格や事物に自分を擬して自らの自我から離れる(模
倣)、そして秩序からゆるやかな混沌にむかい、自らの意志を脱したところにむかう眩暈。
脳研究はこれまでに、シューティングゲームを競っているとき(競争)、ルーレットやスロットマシンを行っているとき(運)、他の行動を自己の行動のようにみなす課題をおこなっているとき(模倣)の脳内活動について、どのような部位が働いているのかを明らかにしてきた。しかし眩暈、それも病的なものではなく遊びの行為として快を伴うものについての脳内活動については一定の見解はなされていなかった。遊びとしての眩暈を生じさせる刺激をMRI装置の中で再現できなかったこと(MRI装置をジェットコースターに積めればいいのであるが)、そして眩暈の程度を評価することが困難であることもその困難さの要因であると思われる。
これまであまり手のつけられることのなかった自己意識の弛緩による「眩暈」、しかしこの分野は実は興味深いこれからの研究だ。それは身体感覚とも密接な関連があることが予想されるのだから。人間の精神活動、それも自我といった根源の意識の存在と維持に対して眩暈という現象は大きく関わってきていると思われる。自己意識についての脳研究は、その端緒についたばかりであるが、今後ますます進んでいくことが予想される。現在の脳研究には方法論そのものの妥当性について議論が
続いているため、もしかするとMRI装置を用いての脳機能の理解といった行為も 頭に聴診器をあてる行為と変わらないのかもしれないというおののきを感じることも多い。しかし、脳科学は新たな発見と進歩を続けるであろうと信じている。斉藤茂吉の息子の作家、北杜夫は「どくとるマンボウ航海記」の終わり にこう記している「われ信ず、荒唐無稽なるがゆえに」。現在の技術の精度をもって人間の精神活動についてのメカ ニズムを解明しようという試みは、一見「無謀」で「荒唐無稽」であるかの分野にまで進もうとしている。「自我を 超える」という方向性は、これまでの脳科学では、荒唐無稽のそしりをまぬかれない部分である。 しかしこの無謀性は、 自我とは何か、 客観とは何かを問う根源と通底するものである。MRI装置という現代における最先端の「客観性」「可視性」の技術を用いて、自我の超越という無謀に切り込むところに、脳研究の新たな地平が待ち受けているのではないだろうか。わたしは、そこの部分を信じている。
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