アゴン(競争)

 

いつこ(大学研究職、生化学)

 
 研究には新規性や独創性が求められる。これは、どの学術分野でも共通だと思う。 公知であることや、ほかの研究者によって論文等で発表されていることと同じことを繰り返し研究したところで、価値は見出されない。発表論文の数で評価される現在の研究者の立場としては、見えない世界の競争相手より早く、独創性の高い自分の研究を形にすることが何より重要となる。小さい頃は、兄弟姉妹や近所の友達といった見える相手といろいろな遊びで競争したが、中学受験、大学受験と進むうちにその相手はどんどん見えなくなっていった。競争相手が見えなくなってくると、受験のように試験日が決まっている競争とは違って、論文を1番に発表しなくてはと焦る気持ちより、これほど独創性が高い研究をしているのは世界でも私ぐらいだろうという自負がやや優勢になり、日常の忙しさにかまけて論文作成を怠けがちである。特に、作文が苦手な私にとっては、何かしらの目標がなければ重い腰がなかなか上がらない。オリンピック選手や、企業の経営者には、競争相手は自分であると答える方がいる。常に、今日は昨日の自分より高みを目指して努力する。競争相手が見えないからこそ、昨日の自分より今日の自分、さらに明日の自分は一行でも一段落でも発表論文を書くぞ、という前向きな気持ちで…と言いつつも、現在産休・育休中の私は、本稿を作成するだけでも結構な時間がかかってしまった。今はほんの少しのこどもの成長を肌で感じ取るにつけ嬉しい。競争社会から一歩引いた家の中で、こどもと過ごすのも良いものだ。

アゴン

 

 

 

 

物質の競争意思

 

(湯川の丸、学生、物理学)

 
 物質に徒競争をさせてみよう。どんなレースになるだろうか。物質の運動の性質を決めているのは慣性というものである。物質に力が働かないとき、物質は自らの運動を保持し続ける。バネにつないだおもりの振動を考えてみよう。バネが自然長(バネを放って置いたときの長さ。バネにとって一番安定の長さ。)になった所でバネはおもりを引っ張るのを止める。それにも関わらず、おもりはそこで止まらない。おもりが止まらないからバネは縮んで再び力を及ぼし始める。こうして振動が起こる。振動運動はバネだけの力では達成できないのだ。それゆえおもりの種類を変えてみると違った振動を見ることが出来る。おもりも振動に寄与しているからである。物質の運動は力の影響を受けて始めて変化する。力を運動に交換するレートは物質によって違い、この交換レートが質量である。物質によって同じ力で引っ張っても運動が異なるのでそれでもって物質のラベル付をしようというのである。今述べたことが物質の運動の法則である。物質が力を受けるまで運動を変更しないということは暗に仮定しておくというものではなく、法則として明言されるものである。むしろこれだけ言えば惑星の運動からシュートしたボールの放物運動、バネの振動まで全て導けるのだから、物質の競争意思の無さ、つまり受動的な性質を根本に据えたというのはなかなかセンスの良いことなのである。
 では運動の性質が分かった所で物質のレースを見ることにしよう。今日見るのは普通のレースではない。選りすぐりのつまらないレースを見るのである。では状況設定として観客はじっとしていることにする。見る側が動いてしまっては物質の運動と混じってしまって厄介だからである。単に簡単のためである。更にスタート時の速度は揃っているものとする。公平なレースはフライング無しである。
 一番つまらないレースは、力が働かない時である。慣性の法則である。スタート時の速度を保持し続ける。スタートで静止していると棄権ということになる。スタートで速度を持っていると引き分けということになる。 もう一つつまらないレースがある。力が働いているに
  も関わらず皆引き分ける。それは重力の中でのレースである。ピサの斜塔のてっぺんからスタートした鉄球と木片は地面に同時にゴールしたのである。
 そしてもう一つどんなに頑 張っても勝てないレースがある。今度は色んな力を総動員して物質を走らせてみる。しかし相手が世界最速の光であった場合、勝敗は完全に分かっている。光に勝つためには無限大のエネルギーが必要なのである。  一般には様々な力が作用し、最初に述べたように物質によって様々な運動が有り得るのでここに挙げた3つの現象は自然界の運動の本当に特別な場合である。一般の運動に比べて何がこのレースをつまらなくしているか。レースは個性の発揮によって面白くなるのに3つのレースは物質の個性が見えないのである。面白くない原因はそこにある。1つ目は力が存在しない時、物質は見分けがつかないと言っている。2つ目のレースは重力という力が
皆に等しく働く、 あるいは重力に全物質が等しく応答してしまうと言っていて、 これも物質の見分けがつかないと言っている。 3つ目はなぜかこの宇宙には速度に上限があって、 光によって実現されているということである。このレースは個々の物質の個性が存在する点で他の2つとは違う。 完敗する物質から僅差で負ける物質があるという点では少し面白いかもしれない。 このレースの持つ意味は、光速で走るものと走らないものは互いに移り変われないので、宇宙に先ほどまで考えていた物質の違い(慣性)よりももっと大きな分類があるということである。慣性だけで分類できない領域があったのである。さて1つ目のレースと2つ目のレースが同じ結果を与えるのだから、物質の運動によって、重力があるのか力が0なのか判断不可能ではないだろうか。個性( 慣性 )というものを力で決めた以上1つ目のレースで個性が消えてしまうのは分からなくも無いが、重力の前に個性が無くなるとはどういうことなのか。力という名を冠しているにも関わらず、その他の力と全く様子が違う。個性を無くすためには運動の方程式からこの個性の部分を消してしまわねばならない。両辺を個性で割ればいいのである。(物質の個性は0ではないので割って良い。個性0とは任意の力を加えて動かないということである。光は運動方程式で記述されないので個性0でも光速で運動することに矛盾はない。)力が0の時0を何かで割っても0である。だから個性は簡単に除去できる。重力から個性を除去できるのは重力が物質の個性を持っているからである。両辺で同じものがあるので割れば消えるという仕組である。
 重力を前にしては全ての競争意思が奪われてしまう。競争に優劣は必要である。真に優劣が無い平等な世界が重力の世界なのである。差異が無いゆえ物質に名前を付けられない。感知できるのは物質の個数くらいなものである。我々は他の力によって物質の差異を得て、個数以上に様々な情報を読み取ることができる。そして競争が可能になる。どうして重力の記述だけが他の力と異なってしまうのか。もしくは本当は異なるものを力と呼んで一緒くたにしてしまっているのか。現在この世の力は4つに分けられる。うち3つの力は似ていて統一して記述する理論がある。残る1つはやはり重力なのである。ミクロな素粒子のレベルで重力がどうなっているのか分からないのである。重力とはとても身近である。体重は重力であるし、息を吸えるのも重力のおかげである。空気が宇宙空間に散逸していかないのは重力が引っ張っているからである。身近な力が一番分かっていない。
 つまらないレースを楽しそうに見ている人がいた。 アインシュタインは3番目のレースから特殊相対性理論を、 1、2番目のレースから一般相対性理論を発見したのである。

物質

 

 

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