Diary


2009-01-01 元旦のメモリー。

_ 明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

_ 昨年もあっという間に一年が過ぎ去っていました。3月末の定年退職,4月からの研究所の立ち上げ,事務所の開設,そして新しい仕事への取り組み,とわたしの人生にとっても重要な節目となる1年でした。お蔭さまで健康にもめぐまれ,なんとか新しい生活のリズムをつかむこともでき,これでなんとかやっていける,という目処も立ちました。

そして気がつけば,70歳の元旦。この3月末には71歳になります。子どものころの記憶をたどれば,70歳というのはどうみても立派な「おじいさん」。腰も曲がり,顔もしわだらけ,ものの言い方もどこか空気がぬけている,そんなイメージがつよく脳裏に浮かんできます。それに引き換え,いまどきの老人はみんな元気です。わたしもお蔭様でとても丈夫なからだを両親から授けてもらい,いまも元気に日を送ることができます。このことを,なによりも感謝したいと思います。

晩年になってはじめた太極拳の稽古が,いま,振り返ってみるととても効果的だったように思います。60歳をすぎたころに一念発起して,大学院生の授業にもぐりこんで水泳にチャレンジしたことがありました。そのとき,準備運動で「伸脚」をしようとしたらうしろにひっくり返ってしまい,周囲にいた院生たちを驚かせてしまいました。担当の先生が,「大丈夫ですか」と心配顔に気遣ってくれました。自分でもなにが起きたのかわからずにキョロキョロしていました。長い間,まともな運動から遠ざかっていたために,もともと固い足首がさらに硬直化してしまい,その上,股関節がしっかり固くなっていて,もちろん脚の筋肉も固くなったまま。ところが,運動感覚だけは頭のなかに残っていて,「伸脚」くらいの運動はどうということもない,と勘違いして「ひっくり返って」しまったというわけです。それでも,2年間,水泳をつづけました。これはこれで心肺機能にとってはとてもいいリハビリになりました。

が,いまから3年ほど前に,瓢箪から駒がでる,という俚諺のとおりのことが起こりました。まずは,ありえないという前提で,あの忙しい西谷修氏に「太極拳の稽古をはじめようと思うけど,一緒にやらない?」と誘ったら,二つ返事で「うん,やる」と即答でかえってきました。が,まあ,2,3回やってすぐに諦めるだろうなぁ,と思いながらはじめたところ,どっこい,とても真剣に取り組みはじめました。やはり,一流はなにをやるにしても姿勢が違うと感心しながら,わたしの方がひっぱられる形で太極拳の稽古がつづきました。でも,最初のうちは,やらないよりはからだの調子がいいみたい,という程度の感覚でした。が,次第に奥の深さがわかるにつれて欲がではじめ,昨年の4月ごろからわたしの意識のなかで大きな変化が生まれました。それは,「太極拳をするからだ」をつくらなくてはいけない,という当たり前のような「気づき」でした。

そのときから,わたしの太極拳への取り組みが変わりました。「からだ」を変えること,太極拳のできる「からだ」にすること,ここからはじまりました。まずは,体重を落すこと。

それからしばらくしてから,もう一つのことに取り組みました。それは,このブログを書くこと。自分がほんとうに感じたこと,気づいたこと,新しく発見したこと,頭のなかで閃いたこと,感動したこと,悲憤したこと・・・,などなどをありのまま書き綴ること。

この二つのことが車の両輪のようにかみ合って,わたしの意識とからだは大きく変化をはじめました。最初,体重はなかなか落ちませんでした。ブログもなかなか素直に書けなかった。しかし,面白いもので,ある日,突然,物の怪が落ちたように変化がはじまりました。まずは,ブログを書くことが楽しくなってきました。この調子なら書ける,というペースがつかめたときと体重が落ちはじめたときは,ほんの少しだけズレていますが,ほぼ同時と言っていいでしょう。

ブログの内容がいいかどうかは別として,わたしとしてはなにかがひとつポロリと落ちたなという感覚はありました。それ以後は,なにか新しいものごととの出会いがあれば書く,という基本方針が決まりました。そうなると日々新たな自分が立ち現れてくることにとても敏感になってきました。「差異のある反復」のはじまりです。よし,これでハイデガーのいう「頽落」(Verfallen)からの脱出が可能となる,と。嬉しくなってくると文章も自然にはずんできます。いつのまにか文体も変わってきたように思います。

ちょうどそのころ,8月の終わりころから体重が落ちはじめました。食生活も睡眠時間もなにも変わってはいません。変わったとしたら,太極拳のひとり稽古を新しく加えた,という程度のことでした。このひとり稽古はいささか工夫をしました。週に一回の,李老師に教えてもらう準備運動とは別のメニューを組み立ててみました。それは,わたし個人のからだを,もっと太極拳をやるにふさわしいからだに作り替えるための第一歩でした。ただ,それだけでした。

それなのに,からだに変化が起きはじめました。同時に,太極拳をやっているわたしのからだの感覚が,それまでとはまったく別のものに変化しはじめました。これはもう快感以外のなにものでもありません。老子のことばに「無為自然」というものがあります。その方向に向かっている,ということをからだをとおして感じることができるようになったのかな,といまは想像しています。

このこととブログを書くという営みとがうまく相乗作用を起こしはじめたように思います。ことしは,この道をもう少し探究してみたいな,と考えています。というか,もはや,止めようがない,と言った方が正しいでしょう。あとは,なるようになる,なるがままにゆだねる,その境地へのチャレンジ,それあるのみ,と。

とまあ,年頭にあたり,こんなことを考えています。

というご挨拶まで。

ひょっとしたら,自分自身への「言い聞かせ」かも。声高らかに宣言をして,もはや,ここから逃げ出さないように,と。まあ,これもまた自然の流れ。あるいは「自然功力会」鷺沼支部の決意表明,かも。

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2009-01-02 Yes,we can・・・・?

_ ことしは,ちょっとしたわけがあって年賀状を欠礼した。日頃,お世話になっている人びとや親しい友人たちには大変申し訳ないと思っている。いずれ,そのちょっとしたわけについては釈明をさせていただくつもり。

そんなこととは関係なく,ことしもたくさんの年賀状をいただいた。そのなかで,これまたちょっと気になる共通語が,多くの年賀状に書かれていて,「うーん」と腕を組んで考えてしまった。その共通語とは,次期アメリカ大統領となるオバマが選挙演説のなかで多用した名セリフ:Yes,we can!である。

少し前のブログにも書いたが,このときの「we」の内容が問題である,といまもまた改めて考えている。なせなら,アメリカ大統領が「Yes,we

can!」と高らかに宣言するとなると,その「we」は,われわれ日本人も含む親米諸国の国民全体を意味することになりかねないからだ。いや,実際にそうなるしかないという実態が,それを証明しているからだ。

たとえば,「アメリカの自由」を世界に押しつけようとするこれまでの基本路線は,「アメリカ」という国の成立にかかわる「原罪」のなせる技だ。だとすれば,オバマとしてもこの路線を変更することはほとんど不可能だ。それは,ストレートに「テロとの戦い」として親米諸国を巻き込んでいく。日本もその例外ではない。そして,「国際社会」はそれを暗黙のうちに認めてきたし,支持・支援までしてきた,という実績まで残している。これもまた,オバマの言う「Yes,we can !」となる。「アメリカ」が「あいつはテロリストだ」と断言したら,みんな黙ってついていくしかない。アフガニスタンからはじまって(いや,その前からあるが)イラクの大量破壊兵器問題にいたるまで,わたしたちはその矛盾を目の当たりにしてきた。にもかかわらず,猫の首に鈴をつける国は現れなかった。そして,いまもその延長線上にある。

そこに加えて,今回の金融危機である。100年に一度の世界規模の金融危機だから,みんなで力を合わせて乗り切ろう,という。これもまた「Yes,we can !」の掛け声のもとに問題の本質をすり替えられようとしている,とわたしの眼には写る。だから,よく考えてみたいと思う。軽々にメディアの報道にだまされてはいけない,と。わたしのような単純な頭でも,今回の金融危機をひき起こしたのは「アメリカ」のサブプライムなどという,どう考えてもおかしな不良債権を野放しにしてきた「アメリカ」政府の新自由主義政策にある,と気づく。この「誤り」についての責任を,だれが,どのように取るのか,これが先決ではないのか。ここの部分をうやむやにして(意図的にふたをして),100年に一度の起こるべくして起こった世界的な金融危機だと喧伝して,問題をすり替えようとしている,のではないかとわたしは危惧する。

このことをはっきり意識させてくれたのは,昨年の11月にイタリア・ローマで行われた30万人規模のデモである。このときのスローガンは「われわれはあなたたちの危機には支払わない」というものだった。つまり,自分たちの失敗は自分たちで穴埋めをせよ,という主張だ。この運動はヨーロッパ全土に広がりはじめている,と聞く。でも,なぜか,日本にはこのような運動が立ち上がる気配もない。なんと能天気なことか,と思う。そして,まったく無批判のまま,Yes,we can !とういう名セリフに乗せられようとしている。いや,もう,すでに乗せられているというべきか。

他人が困っているときには助けるのが人間として当然の行為である,という。このこと自体はまことに正しい。しかし,このきわめてヒューマニスティックなセリフになにもかも巻き込まれる必要はない,とわたしは考える。それほどに世の中は甘くない,と考えているからだ。アメリカが儲かって仕方がないときに,どれだけ困っている国に援助の手をさしのべただろうか。アメリカは,なぜ,パレスチナの人びとを助けようとはしないのか。アメリカは,なぜ,チベットの人びとを助けようとはしないのか。それどころか,イスラエルを支持し,中国政府を支持してきた。アメリカの考えるヒューマニズムにも偏りがあるのだ。

日本では,銀行が大量の不良債権を出したときに,国民の税金が大量に投入された。そして,立派に再生したという実績をもっている,と日本の財界は豪語する。しかし,大量の利益が生まれるようになったときに銀行はなにをしたのか。そして,こんどの金融危機の波が押し寄せてくると,日本の一流企業は,なにを,いま,なそうとしているのか。ひたすら,とかげの尻尾切りに熱心なだけである。勝ち組と負け組の格差がますます大きくなっていくだけだ。この根源にあるものもまた,小泉君の新自由主義政策だ。なんでもかんでも「自由化」すればいいというものでもあるまい。弱者はますます生きることが困難になるだけだ。その実態はこれからますます厳しくなっていく,と予測されている。

「われわれはあなたたちの危機には支払わない」というスローガンをもう一度念頭において考えてみよう。

そうすると,おのずからなるセリフ「No,we can’t !」となるはずではなかろうか。それを言うだけの勇気を,いまこそ,肝に銘じてもつべきではなかろうか。あらゆる困難を覚悟して。

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2009-01-03 「一呼間」ということについて。

_ 朝,目覚めるときにぼんやりと天井を眺めていたら,突然,「一呼吸」ということばが浮かび,つづいて「一呼間」ということばの意味がひらめいた。最近,こういうことが多くなってきた。ありがたいことだ。

今日から太極拳のひとり稽古をはじめようと決めていた。むかしなら「書き初め」というところだろう。太極拳の稽古はいつもは1人の老師に3人の弟子がそろってやってきた。だから,おのずから老師の動きについていくだけで寸んだ。つまり,老師のペースによりかかっていればいい。ときおり,弟子たちだけで24式をとおしてやりなさい,と言われることがある。そうすると,とたんに慌ててしまう。それはペースがわからなくなるからだ。それでも,もたもたしていると老師がみるにみかねて,ゆっくりと声をかけてくれる。「いち,に,さん」と。しかし,この「いち」と「に」と「さん」の間の間隔が少しずつ違うのである。つまり,ラジオ体操をやるときの号令の間隔とはまったく違うのである。もっと言ってしまえば,「一呼間」の間隔が均一ではないのである。

太極拳では呼吸が中心になっていて,その呼吸に応じておのずから動きが決まってくる。だから,厳密にいえば,一人ひとり動作のペースが異なることになる。つまり,呼吸の間隔の違いに個人差があるように。とすれば,「一呼間」ということばの原点は,太極拳のような稽古のなかにあるのではないか,ということだ。これが,今朝の目覚めで気づいたこと。

ということは,ラジオ体操で「四呼間」とか「八呼間」という言い方は,ことばの正しい意味で厳密にいうと間違いではないか,ということになろう。ラジオ体操の原点はヨーロッパ近代の合理主義に根ざすものなので,体操の方法も,西洋音楽のメトロノームのように,同じ時間間隔で一定のリズムを刻む。つまり,リズムを優先させた体操なのである。このリズムのことを「一呼間」「四呼間」という呼び方に置き換えた。そして,きわめて機械的な間隔を意味することになった。

ところが,太極拳でひとり稽古をはじめてみると,まったく自分ひとりの呼吸に合わせて行うしか方法がない,ということに気づく。この自分ひとりの呼吸の間隔,これぞ「一呼間」という意味だ,と今朝の目覚めのときに初めて気づく。まあ,考えてみれば当たり前のことだ。しかし,このことの意味するところは重大である,ということにも気づく。

たとえば,ひとり稽古のときには自分でも不思議なほどに24式をとおすことができるのに,週1回の合同稽古のときには,かならず,どこかで乱れてしまう。ずっと不思議に思っていた。集中力が足りないのだろうか,仲間の動きに翻弄されてしまうのか,などといろいろ考えもし,それらを克服することもやってみた。それでも,どこかで乱れてしまう。よくよく考えてみたら,それは一回ずつの「呼吸」の長さが違う,その辻褄合わせをしなければならないために起こる「乱れ」だ,といまごろ気づく。

日本の伝統芸能のほとんどは「面授」という方法を用いる。そして,あとは,ひたすら「ひとり稽古」を行うことになる,と聞いている。ここでも,たぶん,一人ずつ「一呼間」の間隔が違うことを経験的に知っていて,そのことを配慮して編み出された教授法なのだろうと思う。

ところが,西洋的な合理主義は,その根底に「人間機械論」がある。だから,体操も,全員がみんな同じリズムで行うことが当たり前となってしまう。こういう体操のやり方に対して,ガウルホーファーは「関節人形体操」(Giiederpuppengymnastik)だとして痛烈に批判し,もっと自然な動きを取り入れるべきだと主張し,「自然体育」(Nutuerliches Turnen)を提唱した。この問題は,いまから,ここで論じるには大きくなりすぎたので,割愛することに。

日本のあちこちで,準備体操といえば,ラジオ体操が行われることが多い。みんながだれでもできるという利点があってのことではあるが,その一方では,一人ひとりの「呼吸」を無視した,全員一律の動作を要求する,摩訶不思議な現象が当たり前のように起こっている。

こんなことを新年早々に思いつき,「一呼間」ということを,もっとまじめに考える必要がある・・・と寝ぼけ眼をこすりながら考えていた,というご報告まで。

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2009-01-04 連載「文学にみるスポーツ」の最終回

_ 昨年の暮れに『月刊体育施設』の編集長さんが鷺沼の事務所を尋ねてくださり,いろいろの打ち合わせをしました。その折に,この4月から雑誌全体をリニューアルして再出発することになったので,これまでの連載ものもすべて終わりにしたい,という話がありました。

リニューアルの構想は,A4版にすること,オール・カラーにすること,こまかな情報をたくさん掲載すること,などと伺いました。わたしの方からも,「文学にみるスポーツ」に代わる別の企画をいくつか提案させてもらいました。が,はたしてどのような結論に到達するのか,いまから,不安半分,期待半分,という微妙な心境になっています。

思い返せば,最終回は233回目の連載となります。途中,ウィーンに在外研究員としてでかけたときに,一時,中断したことはありますが,足掛け30年になろうという長期の連載でした。最初は毎月連載で,枚数もかなり潤沢に書かせてもらいましたが(10ページに及んだこともある),次第に,枚数制限がきびしくなり(いまは,3ページ),後半は,隔月掲載となりました。30年という年月の間の時代や社会の変化が,こうした連載の形式にまでみごとに反映しているなぁ,としみじみ思います。むかしは「文化」や「教養」というものに対する理解度が高かったけれども,それが次第にやせ細り,いまでは,細切れ情報だけでいい,というところにきてしまっています。それも「市場原理」に押されながらの妥協点といえばいいのでしょうか。とにかく,儲からないことはやらない,ということが大手を振って歩くようになりました。雑誌本来の使命である,ある特定の領域・分野の,薫り高い文化や教養を,時代にさきがけて切り開いていく,という姿勢はもはやどこにもみられません。これが「郵政民営化」にはじまる「新自由主義」に身売りした小泉政権のなれのはてであることを,すでに多くの人が忘れてしまっているようです。

まあ,リニューアル版がどのような姿・形となって再登場するのか,いまから,いろいろの意味で注目してみたいと思います。

_ 閑話休題。

_ 連載「文学にみるスポーツ」の最終回となれば,少し変わった趣向をこらしてみようかと考え,テクストになりそうな,あちこちの本を読み漁っています。しかし,こういうときに限って,これはというテクストに出会わないものです。今回も,すでに何冊か空振りです。いまでは,どんな小説でも料理してみせる,と豪語してきましたが,そうもいかないようです。正直に白状しておきましょう。

そんな中で読んだ小説の一つは,石田衣良の『眠れぬ真珠』(新潮文庫),もう一つは,天童荒太の『悼む人』(文藝春秋)でした。前者は,熟年の版画作家(女性)が17歳も若い青年と恋に落ちる,という恋愛小説。更年期障害とたたかいながら,長くはつづかないとわかっている恋愛心理を描いたもので,読物としてはなかなか面白かった。しかし,「スポーツを読む」材料に乏しいのでボツ。

もう一つの『悼む人』は傑作。天童作品は,以前,児童虐待とDV(ドメスティック・バイオレンス)を取り扱った作品(題名が思い出せない,全5冊くらいあった大作)を読んで,とても大きな衝撃を受けたことを記憶している。で,こんど7年の構想のもとに書き継がれてきた作品が一冊の本になった。『悼む人』は,文字どおり,死者に対して「悼む」人の生態を浮き彫りにしていく。交通事故や殺人事件に巻き込まれた死者の霊を,日本全国を徒歩で尋ね回り,ひたすら「悼む」行為を繰り返す,この主人公を巡って繰り広げられる人間模様が,なかなかよく描かれている。まさに,ドラマティックに話が展開する。そのスケールの大きさに圧倒される。そして,人間が生きるということはどういうことか,という本質的な問いを深めていく。生と死は一体のものとして現象する,その実態に迫っていく。死者は「だれを愛していましたか,だれに愛されていましたか,どういう人に感謝されていましたか」という三つの問いを関係者に尋ね回り,ひたすら,そのことだけを「記憶」すること,そして,死者の霊に対して,わたしはあなたのことを忘れません,と誓う,これが「悼む人」のモットーである。要するに,人間が存在することの最終的な意味は,この三つしかないのではないか,と作家は問いかけているようだ。ひさびさに読後感の重い作品に出会って,まずは大満足。でも,最終回の原稿のネタにできそうもないので,ボツ。

第一,この本を買った動機がいささか不純だった。天童作品なら,相当にヘビーなものであろうという予想はあった。しかし,それ以上に「買おう」と思った直接的な動機は,表紙カバーを飾っている船越桂の彫刻作品「スフィンクスの話」の,人を惹きつけてやまぬその迫力にあった。そして,なによりも「眼」のもつ力に惹きつけられてしまう。昨年も,都内で「船越桂展」が開かれたので,一連の作品を見せてもらった。この「スフィンクス」シリーズも進化していて,長い首はそのままであったが,加えて,豊満な,それでいて形のいい,だれもいなければ自然に手が伸びていって触りたくなるような「おっぱい」があった。それでもなお,その人の「眼」は異様に人を惹きつける。奥が深い,遠くを見通す,静謐そのものの「みる力」を感じさせる。そして,ほんのわずかに「斜視」である。だから,正面に立ってもみる人の眼と視線が合うということはない。それゆえか,ますます,深い「まなざし」に惹きつけられてしまう。じっとみていると,柏木さんの打つ「能面」の「まなざし」と通底していることに気づく。

天童荒太は,2005年に,船越桂のアトリエを尋ねてこの「スフィンクスの話」という作品に出会う。そして,許可をもらって作家みずからが写真に収め,それをこの表紙カバーに用いている。この「スフィンクスの話」の彫刻作品そのものが「悼む人」の本質とつながっている,ということが読後になってしっかりと認識できる。

ここまで書いてきたら,あっ,これは「文学にみるスポーツ」の最終回を飾るにふさわしいテクストではないか,と気づく。よし,これで行ってみよう。

なんだか,このブログの書きはじめには考えてもいなかったところにたどりついてしまった。こんなことが,このブログを書いていて,次第に多くなっているようだ。いいことか,悪いことか・・・わからないが・・・。これも一つの流れ・・・と思って身をゆだねるしかないか。

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2009-01-05 ミッションとは?

_ 今日の朝日の夕刊の「わかるカナ」のコラムに「ミッション mission」ということばの説明がしてあった。署名入りのコラムで,書いた人は東大大学院教授の井上健という人。

ちょうど,いま,最終的な編集作業に入っている平凡社から出す予定の単行本のタイトル案が『近代スポーツのミッションは終わったか』──身体・メディア・世界,というものである。当然のことながら,わたしなりに思い入れも込めて「ミッション」ということばを用いている。ところが,である。この東大の先生の説明は,まさに describe で,「外に書く」ことの見本のようなもの。新聞のコラムだからこれでいいのだ,ということなのだろうと思う。しかし,これ以上のことは「書かない」という強い意志のようなものも感じられ,いささか不満である。ちょっと長いが全文を引用してみよう。その上で私見を述べてみたいと思う。

ミッション

mission

ミッションというカタカナ語からまず連想されるのは,ミッション・スクールだろうか。車好きな人なら,自動車のミッション(トランスミッション)を思い起こすかもしれない。オートマチック車のオートマチックとは,オートマチック・トランスミッションのこと。キリスト教布教を目的として設立した学校と,エンジンの力を車輪に伝達するトランスミッションとの共通要素は,何かを「伝える」「送る」という点である。

missionとは「ある使命,任務をもって人を派遣すること」,およびそうして「派遣された人たち」のこと。まずはイエズス会伝道者の「派遣」,派遣される「布教団」,「布教活動」「伝導事業」を,ついで外交的な「使節団」や「大使館」,軍事的「任務」を,さらには「使命」「任務」全般を意味するようになった。

企業パンフレットで,「わが企業のミッションとは・・・」という表現にお目にかかることも珍しくない。宗教とも外交とも無関係な,一企業が社是として掲げる「使命」であるこの種のミッションは,「企業ミッション」と呼ばれたりする。あえてミッションと言ったほうが,社会的な広がりがあり,崇高な感じが漂うとすれば,このカタカナ語がどこかに,フランシスコ・ザビエルのごとき献身的伝道者の像を呼び覚ます効果を秘めているからなのかもしれない。

以上である。

まことにもっともな説明であり,なにも過不足はない,と思われる方が圧倒的に多いことも承知している。たしかに,みごとな説明になっている。それだけに,なにかを隠している,意図的に避けている,という印象が拭えない。わたしの理解の仕方がゆがんでいるからだろうか。

そうではあるまい。なぜなら,わたしがつけようとしている書名の『近代スポーツのミッションは終わったか』というときの「ミッション」はここに説明されていること以上の意味が込められているからだ。そのむかし「ミッション・インポシブル」というテレビの人気番組があった。「ミッションとはインポシブルでなくてはいけない」とは,この書名となる予定のわたしの書いた「プロローグ」に対して,昨年秋の札幌での今福さんの発言である。あの番組を知っている人たちはみんなどっと笑った。不可能を可能にするからこそ「ミッション」なのだ。そういう意味を,さきほどのコラムは無視している。

『近代スポーツのミッションは終わったか』というときの「ミッション」もまた同じである。ありえないことをあらしめてしまう,そういう「ミッション」の意味を込めて,わたしは書名に用いようとしているのである。そして,このことを知っている人たちには相当のインパクトを与える書名になっているはずである。その根拠の一つが,今福さんもこの書名に賛成してくれたし,西谷さんも「このタイトルがいい」と賛成してくれた。お二人とも,この本の共著者なので,とても嬉しかった。このタイトルの含みもつ微妙な奥行きをもっとも精確に,しかも,わたし以上に共感してくれているに違いない,と思ったからなおさらである。

ザビエルさんも含めてキリスト教の宣教師たちは,みんなキリスト教の伝導という「ミッション」を背負って,地球のすみずみまで分け入って行った。なぜか。一つには,地球上のすべての人びとをキリスト教の光に照らしだして,未開の土着信仰から救済するというミッションを実行するために。このことによって救われた人びとも数多くあったことは間違いない。しかしながら,過剰にこの「ミッション」が機能したところでは,大きな悲劇が生まれたことも事実だ。その延長線上にあるのがブッシュ政権のとった「アメリカニズム」であり,キリスト教の「ミッション」という限定つきの「正義」である。つまり,地球をまるごとキリスト教化するという,ある意味ではとんでもない「ミッション」がそこには込められているのだ。もっと言ってしまえば,キリスト教による「世界支配」の実現という「ミッション」である。ここまでくると,もはや,その「ミッション」は違うのではないか,ということになる。

「近代スポーツのミッション」と言ったときの「ミッション」はこういうことを含意している。「スポーツのグローバリゼーション」とは,その背景にキリスト教文化を背負っているという厳然たる事実を忘れてはならないだろう。なぜなら,「近代スポーツ」そのものがキリスト教文化圏が生み出した「傑作」中の「傑作」なのだから。その「ミッションは終わったか」と問いかけているのである。ここに込められている含意をこそもっと重く受け止めてもらうべく,わたしは,あえて「ミッション」というカタカナ語を持ち込んだのだから。これを「近代スポーツの使命は終わったか」とやったのでは,なんの迫力も感じられない。

わたしの言いたかったことは,「ミッション」ということばに含意されている「暴力」の問題をまったく無視,あるいは,ネグレクトしてしまった解説というもののもつ「暴力」への疑問である。しかも,確固たる権威者による解説である。

最近,こういうことが気になって仕方がない。やはり,寄る年波には勝てないということか。あるいは,ひょっとしたら,加齢とともにものごとを見極める「視力」がよくなってきているのかも・・・・? そうであって欲しいものではある。

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2009-01-06 宗教を語ることはタブーか。

_ パレスチナ問題がいよいよ深刻になってきている。にもかかわらず,国連も,そして国際社会(この実態こそが妖しい存在なのだが)も音沙汰なしだ。わずかに,フランスのサルコジ大統領だけが動きはじめたかにみえる。しかし,この人の立つスタンスも微妙だ。

いま,世界の諸悪の最大の震源地は,あるいは,世界の「暴力」の根源はパレスチナをめぐる問題にあるとわたしは考えている。にもかかわらず,この問題解決に真っ正面から取り組もうという姿勢が,まず,なによりも「国連」において欠落している。なぜか。この問題に触れることをアメリカが反対するからだ。しかも,アメリカに追随する国際社会も「右へならえ」という姿勢をくずさない。もちろん,日本もその片棒をかついでいるのだ。こんなことでいいのか,といつも日本人としてのわたしは考える。

しかし,日本のメディアも,いわゆるパレスチナ問題を真っ正面からとりあげようとはしない。なぜか。この問題を突っ込んでいけはいくほど宗教の問題に踏み込むことになるからだ。まるで宗教をメディアが取り上げることはタブーであるかのごとくに。たしかに宗教を語ることはむつかしい。できることなら避けてとおりたい。その心理は,ジャーナリストならずとも,研究者や教育者のなかにも強く働いている。なぜなら,憲法で保障されている「信教の自由」を侵す危険性があるからだ。

このことを承知しながらも,もはや,語らざるをえない情況が,このいまもガザ地区では起きている。すでに,一般市民も巻き込んだまま「520人」もの死者がでている。それに対して,イスラエル軍の死者は「1人」である。この圧倒的軍事力の差のもとでの無差別攻撃が,公然とくりひろげられており,しかも,国連も国際社会もなんら語ろうともしない,この異常事態をこそ重く受け止めるべきではないか。もちろん,日本政府も同罪だ。こういう世界の圧倒的なアンバランスな力関係のなかからテロリストが生まれ,アルカイーダが立ち上がってくることは,だれの眼にも明らかだ。それでもなお,テロ撲滅のために手段を選ばず武力を行使する側が「正義」で,テロしか戦う術すらなくなってしまった側を「諸悪の根源」とする論理がまかりとおっている。

なぜ,こんなことが平気で見過ごされてしまっているのか。

その背景に,長年にわたる「宗教戦争」の問題が横たわっているからだ。その問題をきわめて単純化して述べておけば(このこと事態がすでにきわめて危険なのだが,誤解を恐れずに述べておけば),ユダヤ教,キリスト教,イスラム教という一神教の「3兄弟」の誕生とともにはじまった,いわゆる「兄弟喧嘩」なのだ。

長男はユダヤ教(旧約聖書),次男はキリスト教(新約聖書),そして,一番あとに遅れて生まれてきた三男がイスラム教。まず,長男が次男に強烈に批判されて,生まれ故郷を追われ,世界に流浪の旅にでることになる。そして,次男の権力はヨーロッパを中心にしてますます強大化していった。そのため,三男はヨーロッパ以外の地にその活路を見出すことになった。そうして,アラブ世界を構築していった。しかし,聖地「エルサレム」を巡っては歴史に名高い「十字軍」による戦いが長くつづいた。この問題は,いまも未解決のままであり,3兄弟が所有権争いをつづけている。わたしたちのもっとも新しい記憶では,長男が「アウシュヴィッツ」を筆頭とする強制収容所で悲惨な大量死という(300万人とも500万人ともいわれる)経験をすることになった。この帰るべき国をもたない長男に,聖書に書かれていることを根拠にして「イスラエル」という国を与えようと,第二次世界対戦後の国連は決議した。それにアラブ諸国は猛烈に反発した。なぜなら,国連が与えようとした「イスラエル」という土地には長い間,バレスチナ人が住んできたのだ。その土地を,今日からはユダヤ人のものだ,と国連が決めてしまった。その後押しをしたのがアメリカだ。

以後,イスラエルはアメリカの庇護のもとにやりたい放題の「暴力」を,先住民であるパレスチナ人に対してふるってきた。そこが,いわゆる「パレスチナ問題」の原点である。ここのところをアメリカを筆頭に,国連も国際社会も蓋をしたまま,知らぬ勘兵衛を演じている。言うなれば,「アメリカのもう一つの原罪」がここにある。この問題にはどうしても触れられたくないからこそ,「9・11」という絶好のチャンスをとらえて,アメリカはみずからを「正義」と名乗り,現代の「十字軍」を結成して,テロリスト狩りに乗り出すことになった。

つまり,この場合のアメリカとは「次男」のことであり,テロリストとは「三男」のことを意味する。そして,イスラエルとは「長男」のことであり,パレスチナとは「三男」のことだ。言ってしまえば,次男が長男の後押しをして三男をいじめている,ただそれだけのことだ。ただし,いま,いじめに会っている三男の占める人口も面積も,3兄弟のなかではもっとも多くて大きい,ということを忘れてはならない。次男が怯えているのはこの点だ。だから,なにがなんでも早くテロリスト軍団を制圧しなくてはならないのだ。しかし,次男であるアメリカが強烈な武力を行使すればするほど,三男なるテロリスト軍団を支持する層が厚くなる,という皮肉な現象が起きているのも厳然たる事実だ。

長くなってきたので,この話はこのあたりで一端打ち切りにしておく。

最後に,どうしても触れておきたいことを,ピン・ポイントで述べておく。それは,近代スポーツを考えるときにも,こうした視点は不可欠だということ。とりわけ,ルール,マナー,などの問題を考えるときに,パレスチナ問題をどのように受け止めているのか,そして,そこから派生する諸問題をどのように考えているのか,ということとが避けがたくリンクしているからだ。そういう視点を欠落した研究とは一体なんなのか,とわたしは問いたい。わたしがスポーツの「評論」ではなくて,スポーツの「批評」の地平に踏み出したいと願う根拠はここにある。

ああ,えらいことにとちょとなりにけりやがな(アチャコ)。

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2009-01-08 ヨーロッパの体操改革運動の研究について

_ びわこ成蹊スポーツ大学の菅井京子さんから,これまで書かれた研究論文の抜き刷りがドサッと送られてきた。友人の藤井君からの紹介で,相談に乗ってやってほしい,という話だったので気楽に引き受けたが,これは間違いだった。

内容は,一世紀ほど前のヨーロッパで盛んに展開された「体操改革運動」に関する研究である。そのむかし,わたしもオーストリアの「自然体育」の研究に取り組んでいたことがあって,その関連で「体操改革運動」についても必要最小限の分析を試みたことがある。もう,すでに,遠い過去の記憶になってしまっている。

送っていただいた論文の抜き刷りを拝見すると,懐かしい「メダウ」「ラバン」「ボーデ」といった人たちの名前が登場する。これらの論考をめくりながら,ハタと考えてしまう。菅井さんの書かれた論文を読む前に,まず,わたし自身が「体操」について,いま現在,どれほどの理解と仮説をもっているのだろうか,と。それなしに読んだところで,そこからはなにもアイディアは生まれてこないだろうし,助言できるものもなにも生まれてはこないだろう。

この「体操改革運動」のことを,わたしが必死で考えていたのは1960年代のことだ。いまから,少なくとも40年は前のことである。それから時代も社会も大きく様変わりしている。もちろん,「体操」をめぐる情況も著しく変化してしまっている。とりわけ,最近の「体操」とそれに隣接する関連領域との垣根も限りなく取り払われてしまい,体操,ダンス,演劇,などがミックスした方向に動いているように感じられる。

まあ,こんな程度の現状認識しか持ち合わせてはいないが,それでも,いま,一世紀前の「体操改革運動」の問題をどのような視点から掘り起こそうとするのか,ということを問うことは不可欠であろう。だとしたら,わたしだったらどうするか,と問わなければならなくなる。

さてはて,とんでもなく大きな課題がわたしの上にのしかかってくることになってしまった。でも,よくよく考えてみると,「体操」を考えることは「身体」を考えることでもある。ということは,こんにちの「身体」をめぐる盛んな議論のどの部分を「体操」とリンクさせていけばいいのか,という一つの道筋がみえてくる。もちろん,これだけではない。しかし,とりあえず,一つの突破口としては可能だろう。となれば,こんどは,では,「身体」をめぐる議論をどのように整理し,それらのうちのどこから分析の視点を研ぎ澄ましていけばいいのか,ということがつぎの課題として登場する。こうして問題は限りなく拡大し,深化していくことになる。まあ,当分は,方法論をどのように確立するか,ということが先決となりそうだ。

もっとも,わたし自身の考える「身体」は,すでに,かなりの部分を明らかにしてきているので,その延長線上に「体操」を位置づけることは,わたしとしてはもっともわかりやすい。たとえば,拙著『身体論──スポーツ学的アプローチ』や『現代思想とスポーツ文化』などで展開したいくつかのアイディアを手がかりにして,新しい研究仮説を構築することは面白そうである。

最近では,西田幾多郎の「純粋経験」と「体操」との関係について修士論文をまとめた院生もいた。こういう方法も一つの突破口ではあろう。しかし,かなりの難題ではある。

こうした比較の対象となる題材をいくつか手中のものとしておけば,あとは,20世紀初頭のヨーロッパに舞台を移していけばいいだろう。そうすれば,ヨーロッパのこの当時の「モダニズム」の運動と,この「体操改革運動」との関連もみえてきて,まさに,こんにちの「国際化」や「グローバリゼーション」の原点にある発想のいくつかがが浮き彫りになってこよう。そして・・・・。

おやおや,いつのまにやら,自分自身の研究仮説の再構築に踏み込んでしまっている。でも,こんなことを考えるきっかけを与えてもらえたことを,菅井さんに感謝したいと思う。

1月24日の山焼きの会(「ISC・21」奈良月例会)では,菅井さんも研究発表をしてくださるという。わたしも「わたしの<スポーツ批評>宣言」というタイトルでお話をさせてもらうことになっている。それまでには,少しでも稔り多い「体操改革運動」に関する議論ができるよう,準備しておきたいと思っている。

蜘蛛の巣が張りめぐらされた頭のなかを,もう一度,クリーンアップする絶好のチャンスを与えてくださった菅井さんに感謝。24日がいまから楽しみ。

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2009-01-09 ポイエーシスのための脚注メモ。

_ いま,平凡社からでる予定の『近代スポーツのミッションは終わったか』──身体・メディア・世界(仮題)の最終段階の「脚注」をつける作業に取り組んでいる。その中のひとつ,「ホイエーシス」にも脚注をつけようと思って,念のため,岩波の『哲学・思想事典』を調べてみた。なかなかいいことが書いてあって勉強になったので,原稿にする前の「ノート」を紹介しておこうと思う。

大半は引用。(  )内の文章はわたしのコメント,あるいは,アイディア,ヒントのこと。

poiesis(ギ)。<制作>一般を意味するギリシア語で,とくに詩の制作を意味する場合もある。(詩の制作といえば,たしか,ネメア祭の初期の競技は「即興詩」であったはず。そののちに,「即興詩」に「メロディー」をつけて朗誦する形式に発展していく。それから,しばらくして,オリンピア祭にならってスポーツ種目を採用したという経緯がある。だとすれば,ネメア祭の初期に展開していたものは「ポイエーシス」の競技であったことになる。しかも,神々との交信のための「即興音楽」に「即興詩」を会わせたものだ。このことの含意するところは面白い。)

プラトンは『イオン』において,実際の詩の創作者および詠唱者(ラプソードス)に対して,実在の知識を欠いたまま神的なインスピレーションに頼るものと批判し,またさらに『国家』では,実物であるイデアの像としての感覚的事象のさらに写しである「模倣」(mimesis)を,実在から三段階隔たったものと見て,そのような模倣を行う詩人を理想的国家から排除したことは有名である。(こういう文章に出会うと,もう,いても立ってもいられなくなってしまう。ヨーロッパ近代の論理の魁となる思考が,プラトンによって,しかもこんな意味内容のもとで展開しているのだから。たとえば,神的インスピレーションを排除し,模倣を行う詩人をも締め出してしまう発想が,プラトンによって展開されているのである。まさに,形而上学(メタフィジック)を最優先する考え方の原点をこんなところに見いだせることに,ちょっとした感動すら覚える。)

『法律』では,このような考えをさらに展開して,総ての秩序は知性によって与えられたものであり,自然を含めた総ての事象を理解することは,その制作の目的の把握に帰着するとした。この点で,アリストテレスは師の考え方を批判し,より内在的な目的論を構築したが,これは人工物ではなく,自然の生命体,特に動物の生成・発達を考察の中心に据えた,彼の探究に根ざしたものである。(プラトンとアリストテレスとの違いを,ポイエーシスという概念をとおして説明してくれると,とてもわかりやすい。なるほど,アリストテレスの思考はプラトンの思考を批判的に通過することによって構築されていくことがわかる。そのアリストテレスもその弟子であるテオプラストスによって批判されることになる。)

だが何れにしても,同じく物理的決定論に対抗する目的論的思考の内部における,このような数学的・構成的思考と生物学的・生成的思考との対立は,より強力な決定論を準備するルネサンス期における自然科学の発酵期にも,再び形を変えて現れることになる。それはデカルトの分析的・解析的発想を批判したヴィーコによって唱えられた「作られたもの(factum)が真理(verum)である」という考えである。(ヴィーコのこのテーゼはこれまでもしばしば眼にしてきたが,このようなコンテクストのなかから誕生したものであったということは知らなかった。だから,なお一層,嬉しい限りである。こういう重い哲学的な背景を背負いながらヴィーコのテーゼが登場することになったのだから。まさに,形而上学に対する真っ向からの異議申し立てである。)

芸術作品や歴史的構築物を人間の主体的真理の発現とするヴィーコの考えは,後のヘルダーなどのロマン主義的思考や,またヘーゲルやマルクスの歴史認識の先駆けとも言えるものを含んでいる。(ここまでくると,もはや,プラトンのイデアの世界からは完全に離脱して,次第に「物質」そのものに,つまりは「形あるもの」への信頼に移行していることが明らかとなる。つまり,史的唯物論のお膳立てが用意されていくことになる。)

このヴィーコに再び光を当てたのは,レーヴィットとガダマーであるが,そこには彼らの共通の師ハイデガーの,「存在」を「制作」(Herstellung)と関連づける考えの影響があったと推測される。(こうして,いよいよハイデガーの登場である。やはり,「制作」の最大のポイントは人間の「存在」の問題系との接点にこそあるはずである。それを繋げたのもまたハイデガーではないか,という。この指摘は,わたしにとってはまことにありがたい限りである。なぜなら,ハイデガーの「存在論」をいかに批判的に通過するかということが,こんにちを生きるわれわれの最大の課題であるからだ。)

ハイデガーは「表象」(Vorstellung)を制作に先立てる近代的技術的思考の転倒を,プラトンにまで遡って「存在忘却の歴史」として糾弾していた。後期の彼の思索は,ニーチェやヘルダーリンを手がかりに,詩や芸術作品を通して,近代の技術的制作の基盤の持つ問題性を浮き彫りにしようとしたものである。(ここにいたって,ようやくプラトンの否定した「神的インスピレーション」や「模倣」の復活への道が可能となっていく。とにもかくにも,プラトン以来のヨーロッパの形而上学の系譜にどこでピリオドを打つか,それがわれわれに課された研究者としての大前提となろう。それを意識していない研究こそ,悪の再生産に力を貸すことにほかならない。その意味で,ポイエーシスの問題を考えることは大事である。)

他方,現代の生物科学的思考を,様々な組織論に適用するオートポイエーシスの考えや,認知科学における「設計姿勢」(design stance)(デネット)という発想も,今日におけるポイエーシス概念の新たな展開と見ることができる。(ここまでくれば,もはや,オートポイエーシスも怖くはない。ひとつの思想的系譜につなげて考えることができるようになれば,あとは,いかようにもアレンジすることが可能となる。)

と,以上である。

さてはて,これだけの内容を,数行の脚注にまとめなくてはならない。ここからがほんとうの力技を必要とするところだ。明日,一日,考えて,あとは「エイッヤッ」と「力の一撃」で切り抜けるしか方法はあるまい。でも,考えることによって,さらに,わたしの思考が深まるのであれば,そんな苦労もなんのその・・・・。楽しむべし,楽しむべし・・・・。

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2009-01-13 32年前の学生さん。

_ 昨日(12日)は名古屋で32年前の学生さんたち9名と再会。まことに楽しいひとときを過ごした。

32年前の学生さんたちとは,わたしが初めて定職に就いた愛知教育大学の体育科の学生さんたちのこと。ときに,わたしが36歳。かれらはゼミの学生さんだったわけだから,20前後というところ。つまり,15,6歳しか年齢差がない。しかも,わたしは長年,定職に就けなくてルンペンをしていたので,ものすごく気合いが入り,張り切っていた。エネルギーもありあまっていた。だから,そのときの出逢いは,双方にとって強烈であったようだ。尽きることのないむかしの思い出話が延々とつづく。そして,ドッと大笑い。久しぶりに「青年気分」を満喫した。

この元学生さんたちは,いま,55,6歳のはず。だから,なかには,校長さんになっていたり,教頭さんになっていたりで大活躍の人もいれば,そういう管理職は好きではないと拒否をして淡々と「子どもたちとの接触」をなによりも楽しみたい,という主義を貫いている人もいる。女性の何人かは家庭の事情(介護など)で早めにリタイアして,方向を変えて,頑張っている人もいる。

ひととおり,出席者の近況報告が終わったころには,2時間という宴会時間があっという間に過ぎていた。まだまだ,話したいことはあるのに・・・とみんな残念。でも,腹八分目という俚諺があるように,こういう宴会も,もう少しつづけたかったのに・・・というところで終わるくらいがちょうどいいのかも知れない。なぜなら,当然のことながら,「こんどは,いつ,会おうか」という話になる。

この日の会もそういう流れとなって,次回は,11月22日と決まった。幹事さんも立候補する人がいてすんなりと決まる。すると,だれかが,「ああ,いい夫婦の日だ」と。じゃあ,メモしなくても覚えられる,と笑い。こうして名残惜しそうに散会。

こんど集まるときには大学のキャンパスも散策しよう,幹事さんがやっている染め物の工房で実習もやろう,あれもこれも・・・と盛り沢山のアイディアが即座に決まる。むかしの仲間というものはいいものである。

わたしも,それまでに報告できるいいニュースをつくるべく努力しなくては・・・と胸が熱くなる。こうして,また,新しいエネルギーをいただいた。ありがたいことだ。

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2009-01-15 バタイユで最終回を。

_ 連載「文学にみるスポーツ」が,こんどの3月号で最終回となることが決まった。233回目の連載の終わりは,やはり,バタイユ以外にはない,とただちに決めた。

ずっと以前から,生田耕作訳の『眼球譚』をなんとかして取り上げてみようと,何回も試みてきたが,ついに果たせないままでいた。そうこうしているうちに,こんどは,中条省平訳の『マダム・エドワルダ/目玉の話』(光文社古典新訳文庫)がでてきた。読んでみると,とてもスマートな訳になっている。もちろん,内容は「どぎつい」ままではあるが,文体がスマートなので,とても読みやすい。

この二つのテクストを読み比べてみると,生田訳の方は,バタイユが31歳(1928年)のときの初稿を原本としているのに対し,中条訳の方は,バタイユが50歳(1947年)になってから,徹底的に手を入れて改稿したものであることがわかる。読み終わったあとの印象はかなり違う。わたし自信は体質的には初稿の方が合うが,文学作品としては改稿したものの方が完成度が高いとのことである。なぜなら,50歳という歳は,バタイユの思想がもっとも円熟したときで,かれの代表作といわれる『内的体験』と『呪われた部分』を同時並行で書いていて,その間隙を縫うようにして,『目玉の話』の書き直しがなされた,という。となれば,やはり,中条訳を取り上げることになる。

しかし,問題は「スポーツ」とどこに接点を見いだすか,である。バタイユの思想は,断るまでもなく,その中核にあるものは「エクスターズ」(バタイユの「恍惚」)である。そして,このテクストは,まぎれもなく,この「エクスターズ」の世界を小説化したものである。だから,どこを,どのように切り取ってきても,「スポーツ学」的に料理することは可能である。とはいえ,もっとも典型的なところを切り取るとなると,これはまた至難の技ではある。

たとえば,「マダム・エドワルダ」の最後のフレーズは以下のような「ただし書き」で終わっている。

※「『分かっている』というのなら,神は豚だ」と私は書いた。ある者が(その瞬間,体は不潔で,「髪は乱れている」と思うが)観念を究極まで理解したとして,その者が人間的であるはずがあろうか? 彼方,すべての彼方で・・・さらに遠く,そしてさらに遠くで・・・彼自身でありながら,空虚をこえて忘我の恍惚にひたる者が・・・・。だがいまは? 私はふるえている。

という調子である。この「ただし書き」は,まさに,バタイユの「恍惚」を別の言い方で表現しているのだが,この文章をどこまで掘り下げて解説すれば,読者の納得を得られるのだろうか,と考えてしまう。つまり,観念の究極を突き抜けて,さらに,はるか彼方にまで到達し,忘我の恍惚のなかで,ただふるえているだけの「私」の存在を,神が理解できるとしたら,神はもはや豚にすぎない,とバタイユは断言する。神なんていったところで,所詮はこんなものなんだよ,と無神論者のバタイユは暴き立てる。その程度の神の世界なら,さっさと,その世界から脱出することだ,と。そして,人間はどこまで行ったところで「ただ,ふるえている」だけの存在でしかないのだよ,と。そこから思考を立ち上げてみたらどうか,とバタイユは提案する。それが,バタイユの「エクスターズ」の立ち位置なのだ。

そこで,この「ただし書き」をつけた本文を確認してみると,それは以下のとおりである。

私の生命は,私が生命を欠くときにしか,私が狂うときにしか意味をもたない。分かる者だけが分かればよい,死ぬ者だけが分かれば・・・。かくして,存在がそこにあらわれる。理由も分からず,寒さにふるえたまま・・・。広大なもの,夜の闇が存在を包む。存在がそこにあるのは,ただ・・・「分からない」ため。だが,神は? これをどう説明するのか,雄弁家諸氏よ,信心家諸氏よ?──すくなくとも,神は分かっているのか? 「分かっている」というのなら,神は豚だ。

この本文をどう読むか。生命が意味をもつのは,生命が脅かされるときか,狂うときだけだ,とバタイユは高らかに宣言する。そして,そのときに「存在」があらわれる,と。しかも,その「存在」があらわれる理由も分からないまま,ただ寒さにふるえているのみだ,と。このことを神はどのように説明するのか,とバタイユは迫る。神にはわからない世界のことをバタイユは「エクスターズ」という概念を用いて問題提起しているのだから,神にわかるはずはない,と。それでも,もし,神が「分かっている」というのなら,ただ,寒さにふるえている「豚だ」というのである。

ここまで書いてきたら,「スポーツ」との接点も,おぼろげながら見えてくる。ヨーロッパ近代が求めてきた「合理主義」的なスポーツの世界を突き抜けた,そのまた彼方の,とおい彼方に到達するとき,バタイユの「恍惚」の世界が立ち現れてくる。そこに,ひょっとしたら,21世紀のスポーツ文化の可能性が開けてくるかも・・・・と。

よし,これで行こう。決まりだ。最終回の落しどころが決まった。

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2009-01-16 インターネット検索の脅威。

_ 新しくでる予定の本の「脚注」をつける必要があって,しばしば,インターネット検索で調べたりしている。そのたびに,このインターネット検索とは,どういう仕組みになっているのだろう,と考えてしまう。

今回は,3年ほど前に,今福さんがル・クレジオを呼んでシンポジウムをやったときの情報が知りたくて,この検索エンジンを活用した。じつは,わたしもこのシンポジウムに参加したので,その記録は多少は残っている。しかも,そのときに,とてもしゃれたリーフレットと,三つ折りにしたシンポジウム関連情報を盛り込んだ印刷物が配布され,なるほど,こういうやり方があるんだ,と関心した記憶がある。しかし,それもどこかにしまってあるはずなのだが,簡単には見つからない。

仕方がないので,「ル・クレジオ」で検索にかけてみた。そうしたら,13,400項目がある,と表示されている。このなかから探すのでは大変なことになると考え,さらに,検索の見出し項目を絞り込むことにした。そして,かろうじて「群島」ということばがキー・ワードになっていたことを思い出し,「ル・クレジオの群島」と入れてみた。これが,みごとに的中して,シンポジウムのテーマそのものであることがわかった。このシンポジウムのテーマだけでも,656項目がある,と表示。

そのなかから,これなら大丈夫という情報を選び出さなくてはならない。いくつか開いてみて,内容を確認していく。妖しい情報(まったく趣味的な情報)も含まれているが,概して,要領よく内容がまとめてある。概要を知るだけならこれで十分。しかし,単行本の「脚注」にするための情報としては慎重にならざるをえない。いくつか当たっていくと,当日,配布されたリーフレットの写真入りのものがでてきた。このリーフレットに記載されている公式の情報がほしかったのだ。

シンポジストのフルネームと所属,そして,テーマ,などの精確な情報を確認する必要があった。たとえば,当日のシンポジストとして,作家の津島祐子さんがいらしたことは間違いないのだが,どういう役割であの場にいらしたのか,を知りたかった。わたしの記憶では,津島祐子さんがアイヌの詩歌集のようなものをフランス語に翻訳していて,それを読んだル・クレジオさんがとても強い関心を示していたが,はたして,そのリーフレットなしには津島祐子さんの役割がどのように紹介されていたのかがわからない。そういう,もっとも重要なポイントを確認したかったのである。

が,これらの問題も一気に解消した。とても,ありがたい,と思った。書斎にいながらにして,見つからなかったリーフレットをインターネットで見つけることができたのだから。ところが,この作業を終えたあとで,はたと考え込んでしまったことは,この検索エンジンにひっかかって画面に登場する情報の源はどういうものなのだろうか,ということだった。

さきほどの,リーフレットを写真にして,Web情報にした人の名前も,発信方法も,どこに掲載されているかも,すべて不明である。まさに,「ル・クレジオの群島」というキー・ワードに対応するWeb情報だけが切り取られて,そこだけが表示される。だから,情報の信憑性は,検索をかけた人の「眼力」にゆだねられている。それはまあ,こちら側の,資料吟味の力量の問題なので,自分で納得できることだ。

しかし,この検索にひっかかってくる情報源は,どの範囲にまでいたっているのだろうか。だれか,詳しい人がいたら教えてほしい。

なぜ,このことにこだわるのかといえば,たとえば,わたしが発信しているこの「ブログ」の内容もまた,この検索エンジンの対象になっているのだろうか,と考えるからだ。もし,そうだとしたら,めったやたらなことは書けないな,と考えてしまう。たとえば,実名を公表して,名指しである個人を論評することの是非論である。称賛するのはいいとしても,批判するときには,よほど慎重でないといけない,と。

もうひとつは,逆に,こちらから,ある戦略として,特定の情報を発信しつづける,ということも可能になると考えられるからだ。いまはまだ確認していないが,このブログが掲載されるホームページの「掲示板」に書かれた情報は,インターネット検索の対象になっているのだろうか。もし,そうだとしたら,あの「掲示板」を別の目的で活用することも可能になってくる。これはとても興味深いことだ。

となれば,掲示板の「見出し」や,このブログの「見出し」は,これから相当に戦略的に考えた方がいい,ということになる。これまでは,まったく無神経に,そのときどきに思い浮かんだ「見出し」を勝手につけて,そこから大いにはずれてしまうような文章も平気で書いてきた。これは,まずい,ということになる。もっと,意図的・計画的に「ネット情報」を発信すべきだ。もはや,受け身でぼんやりとインターネットを楽しんでいる場合ではない。もっともっと積極的にこのメディアにコミットすべきだ。

と,いまごろになって,ようやく少しだけ気づく。考えてみれば,むかしから,いつも「遅れてくる青年」だったような気がする。流行の先端には乗れないのである。その流行がある程度,落ち着いたころに,やおら立ち上がる,そういう「青年」だったように思う。インターネット検索についても,いまごろになってようやく,この程度の認識でしかない。

でも,気づいた日が「吉日」だ。これから少しずつアンテナを張って,インターネット活用法を考えることにしよう。だれか応援してください。

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2009-01-17 朝青龍バッシングに走るメディア。

_ 今場所の注目はなんといっても朝青龍だ。序盤の成績いかんによっては早々に引退が予想されたからだ。しかし,暗に相違して,今日で6連勝。

異例とも思われる慎重な相撲で5連勝すると,今日は,苦手の豊の島を相手に2秒6という一方的な相撲で片づけた。いよいよ波に乗りはじめたか,という相撲内容。立派なものである。からだも直っていない,稽古も不十分,休場すれば「引退勧告」の4文字が待っている,そんな切羽詰まった悪条件のなかでの出場決意である。相当の覚悟を決めて場所に臨んだはずだ。だから,いつもはよくしゃべる朝青龍が,ほとんど口をきかないで我慢を重ねている。にもかかわらず,しつこい記者はなんとか言質がとれないものかと後を追い,駐車場近くまで追いかけて,あまりほめたものではない取材をつづける。そして,でてきたセリフが「おれが殺してやる」だ。

このことばだけを聞けば,横綱にふさわしくない「暴言」となることは間違いない。しかし,よくよくインターネットで調べてみると,そうではないことがわかる。記者が「インターネット上に朝青龍を殺すと書いた青年がいるが・・・」という問いに対して朝青龍は冗談まじりに「おれが殺してやるよ」と応じ,さらに,記者が「その青年が警察に自首してきたそうだ」というと,「その子はいい子じゃない」と笑ったという。いかにも,朝青龍らしい応対だ。もともと童心いまだ去らずという,とても純粋なこころの持ち主なので,怒るときはまともに怒るが,事情がわかれば素直に納得し,喜ぶ,そういう青年なのだ,朝青龍という横綱は。

こういう「やりとり」があったことを知ってか知らずか,日本相撲協会の理事長は,親方を呼んで注意する,という記事が新聞に載っている。横綱にはなにも言わない,という。これもおかしな話である。そんなに重大なことだと判断したのなら,もっと徹底的に周知させなくてはなるまい。そうではないのだ。

また,ネットで配信されている毎日新聞の記事によると,同じように,横綱は「おれが殺してやる」という「暴言」を吐いた,ということだけを報じている。「その子はいい子じゃないの」という発言は省略している。これは明らかに悪意があるとしかいいようがない。

そして,朝日の夕刊には,朝青龍が記事を書いた記者に対して「記事を書き直せ」と「恫喝した」と報じている。これも違うだろう。真実を伝えていない記事に対して「書き直せ」というのは当たり前のことではないか。むしろ,正当防衛に等しい。それをも黙って我慢するのが横綱だ,とでもいわぬばかりの新聞メディアの「暴力」はあきれるばかりである。プロレスラーだったら,とっくのむかしに記者をつかまえて「ぶん殴っている」。

しかし,である。しかし,場所まで足を運ぶファンというものはありがたい。ネットに流れている情報によれば,6日目の朝青龍が土俵に上がったところで,約500人のお客さんが「朝青龍」と書いたカードを高々とかかげて応援したという。これも写真まで載っていたので,間違いではあるまい。

ファンはトータルに朝青龍を見守っているのである。そして,ついに,判官贔屓ではないが,朝青龍支持にまわりはじめているのである。つまり,やりすぎではないか,という批判である。あるいは,これぞファンがからだで示す「批評」そのものと言うべきであろう。

そのうちに,相撲が分かっていない内館牧子は,相撲ファンからつるし上げを受けることになろう(すでに,受けているという話もある)。理事長も,もっと毅然たる態度で,相撲の相撲たるところを主張していくべきだろう。もっとも,悪いのは,相撲がいかなる文化であるかという認識をまったくもたないまま,言葉尻をとらえて注目を集めることに汲々としている記者であり,デスクだ。つまり,読者の関心を引いて,新聞が売れればいいのだ。まさに,経済原則に乗っ取られたメディアの敗北である。自分で自分の首を締めて,どうするつもりなのだろう。

いずれにしても,そろそろ新聞講読を止めようか,と考えはじめている。こういう新聞を存続させておくこと自体に問題がある。それは,なにも相撲報道に限ったことではない。最近の,アメリカ寄り,イスラエル寄りの報道の仕方は腹に据えかねるものがある。一つずつ,インターネットで確認をしないと,とんでもない情報を信じ込まされることになる。同じ,イスラエルのガザへの攻撃にしても,アメリカとフランスとイギリスでは情報の流し方に違いがある。アルジャジーラの報道はもっともパレスチナ寄りだ。なぜなら,アルジャジーラだけが現地取材を続行しているからだ。つまり,命を張っている。それに引き換え,日本の新聞は,すべて,どこかの情報を受け売りで垂れ流しているだけだ。国内政治に関しても同じだ。政府見解をそのまま,受け流しているだけだ。かつてのような骨のあるジャーナリストはどこかに消え失せてしまったのか。

情けないかぎりである。日本という国が根底から崩壊しはじめている。そのことに気づいている人がどれだけいるのだろうか。困ったものだ。

相撲情報は,その典型的な縮図だ。相撲を語ることは世界を語ることだ,と今福さんなら言うだろう。わたしにもそのことの意味が少しずつわかってきた。「批評」とはそういうことなのだ。『ブラジルのホモ・ルーデンス』−−サッカー批評原論の発するメッセージは,そういうところまで触手が伸びている。

ああ,だれか止めてくれぇ。これでは,バタイユの短編小説『マダム・エドワルダ』の終わり方と同じだ。だれか,この不安に怯えて「ふるえている」からだを・・・。

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2009-01-18 朝青龍が「睨んだ」と叩く朝日の記者の認識不足。

_ 連日,朝青龍の話で恐縮。でも,書かずにはいられない。朝日の記者とデスクは相撲のことをなにも知らないから。無知のまま,朝青龍を叩けば読者が喜ぶと勘違いしている。

昨日の取り組みは,元気のいい嘉風との対戦。取り組みが終わって,土俵を下りてからも,朝青龍が嘉風を睨みつづけていた,と叩く。横綱にあるまじき態度だ,と。そうだろうか。

横綱だって人間だ。しかも,勝負師だ。勝負にでているときはふつうの精神状態ではない。つまり,ふつうの人間ではない。そのくらい入れ込まないと,あの小さなからだで横綱を張ることはできない。土俵の,この一番に集中する並外れた力で横綱になった力士だ。だから,なおのこと,ふつうの力士とは違う。そこのところが記者やデスクにはわかっていない。

もう少しだけ解説しておこう。昨日の一番は,嘉風との初の対戦である。つまり,初顔合わせで,嘉風は横綱相手に「張手」をかましたのだ。これはルール上は認められている。しかし,相撲の慣習上では「許されない」,まことに無謀な行為だ。それを承知で嘉風は「張手」にでたはずだ。だから,取り組みが終わってから,朝青龍に睨まれているのを承知で,「絶対に目を合わさないようにした」と自白している。やってはならないことをやった,ということを嘉風ははっきり自覚している。だから,睨まれて当然と思っている。相撲界では当たり前の話だ。それを,なにも知らない記者は書き立てる。しかも,横綱にあるまじき行為だ,と。

かつて,千代の富士が横綱を張っていたときに,一度だけ初顔合わせの力士に「張手」をかまされたことがある。当時は,勇気のある力士(あえて名前は伏せておく)として挑戦者を褒める記事が載った。しかし,これには後日談があって,その後,巡業にでたときに,その勇気ある力士は千代の富士に呼び出されて,徹底的に「可愛がられた」という。以後,千代の富士に「張手」をかます力士はひとりもいなかった。要するに,初顔合わせの力士がいきなり横綱に「張手」をかますのは,ある意味では「タブー」なのである。やってはならないという不文律がある。

だから,まさか,と朝青龍はびっくりしたはずだ。そのために二度も危ないところまで攻め込まれている。なんとか勝ちを拾ったからいいものの,あれで負けてでもいたら,さて,どういうことになっただろうかと考えると冷や汗が流れてくる。朝青龍としては「許せない」という態度を相手に知らしめる必要があった。あのあと,これはわたしの推測だが,嘉風は朝青龍のところに「わびを入れ」に行ったはずである。それをやっておかないと,相撲界では生きてはいけない。そういう世界なのだ。

この「睨み付け」の記事を書いた記者もまた,朝青龍は「暴言を吐いた」ことに反省のかけらもない・・・と書いている。一体,かれらの眼はどこについているのだろうか。500人ものファンが朝青龍の名前を書いた大きなカードをかかげたという事実については無視して・・・。

このところのメディアの朝青龍に対する報道の仕方は,あまりにも不公平だ。こうなったら,いやでも朝青龍擁護の立場に回らざるを得ない。どこまで連勝がつづくのか心もとないかぎりだが,なんとか勝ちつづけてほしい。いずれ取りこぼしがでてくることは間違いない。でも,できるだけあとの方がいい。相撲界のためにも。そして,メディアのためにも。こういう記事が連日でてくると,みんな朝青龍ファンに転じていく,ということに気づかないのだろうか。あるいは,それを承知して書いているとしたら,これまた大変な記者だ,ということになる。

相撲にも「批評」が必要だ。この世界には「評論家」しか登場しない。いわゆる「相撲評論家」だ。評論家の発言は所詮は「コメント」でしかない。だから,問題の本質には踏み込まない,ほんとうのことは言わない,言ってはいけないと考えている節がある。どこまでも「コメンテーター」の立場を貫こうとする。そうでないと,やはり,生きてはいけない世界なのだ。だから,大事なことはいつも「藪の中」だ。

先週の『週刊読書人』の特集は「コメンテーターの時代」というものであった。この特集は面白かった。これを語りだすと,また,際限がなくなってしまう。でも,ひとことだけ,「コメンテーターの時代」とは「無責任の時代」と読み替えることができる。しかし,コメンテーターの言説ばかりが世の中に受け入れられていく。読みやすいし,当たり前のことしか言わないし,だれにも納得できるからだ。しかし,そんなことだから,いまの世の中はよくならないのだ。そうではなくて,わが身を切り裂くほどの痛みをともなうような「批評」こそが世界を変えていく力となりうるのに。それを世の中は認めようとはしない。なぜ? そういう辛口の「批評」は本にしても「売れない」から。つまりは「儲からない」から。

『バカの壁』を筆頭に,『悩む力』などという本がバカ売れだという。こういうことと,新聞の相撲報道とは連動している,ということを見逃してはならない。もっと言っておこう。相撲報道の仕方と,バレスチナ報道の仕方は,ほとんど違わない。これが「世界」の現実だ。

そこから「一歩」だけでいい,<外>に踏み出す勇気をもたなくてはならない。わたしが<スポーツ批評>にこだわる理由(reason:根拠,原因,理性)はここにある。たかが相撲,されど相撲である。

何度でも繰り返すが,今福さんの「サッカーを考えることは,世界を考えることだ」という言説にこころの底から共鳴し,共振する。そして,その知の地平に立ちたいと願う。

ああ,今日は,こんなにまじめなところに行き着いてしまった。自分で書いていて,びっくり仰天である。くわばら,くわばら・・・・。

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2009-01-19 「コメンテーター的知識人」の時代。

_ 昨日書いたブログに一部,誤りがありましので,お侘びして訂正します。しばらく前の『週刊読書人』の特集「コメンテーターの時代」,というのは間違いでした。

このところ整理学が下手になってしまって,新聞もときおり古いものがどこかからでてきて,つい最近のものと混同してしまうことがよくある。今回も,じつは,読まないでどこかの下積みになっていたものがでてきて,そのことに気づかないまま,「しばらく前の」と書いてしまいました。もう一点は,特集ではなくて,一面の大見出しでした。しかも,正しくは「コメンテーター的知識人」の時代,という大見出しでした。これから気をつけます。お許しください。

ついでに,この記事のことを少しだけ。

ちなみに,この「コメンテーター的知識人」の時代,というのは,この記事を書いた毛利嘉孝(社会学)氏の造語である。もう一度,よく読み直してみると,なかなか皮肉がきいていて,奥が深い。論評の対象になっているのは,大澤真幸編『アキハバラ発──<00年代>への問い』(岩波書店)である。毛利氏の言説によれば,この本では22人の執筆者(学者,批評家,小説家,ジャーナリストなど)による「反/非解釈的な議論」が展開されていて,しかも,自分の専門性に関係なく自由に(わたしに言わせれば「勝手に」)「アキハバラ問題」について「コメント」している,という。この「コメント」の仕方が,これまでの「伝統的な『公的知識人』に代わって」登場した新しいスタイルだ,と毛利氏は指摘する。このスタイルが最近,いろいろの分野で眼につくし,なかなかに歓迎されている,という。つまり,このスタイルで書かれる「新書」がよく売れるということだ。だから,これは新しい流行と呼んでもいい,だとすれば「コメンテーター的知識人」の時代の幕開けではないか,と毛利氏はいう。

しかも,毛利氏の,このテクストを論評するスタンスは,きわめて微妙である。よくよく深読みをしてみると,そこにはかなりの「毒」が盛られている。編者の大澤真幸氏に対しても,「はじめに」と大澤自身の論考「世界の中心で神を呼ぶ──秋葉原事件をめぐって」を読むかぎりは,意外にベタな物語化や解釈学を期待していたのかもしれない,と指摘した上で,さらにつぎのように述べる。「とすれば,22名にも及ぶ論者たちの多くは,よくも悪くも期待を裏切って」いる,という。まあ,言ってしまえば,編者の意図と執筆者の意図とがズレている,というのである。しかも,それで平然としていることの不思議さを暗に提起しているように,わたしには読める。

たとえば,社会学者としての「公的知識人」の立場を放棄して「秋葉原問題」に「コメント」することの意味ははたしてなにか,という問いがそこからは必然的に現れる。

解釈学ですら,場合によっては,単なる「ディスクライブ」(外に書く)にすぎない。書く人にとっては痛くも痒くもないのである。そこから,さらに後退した「コメント」とは,単に「おれはこう思うよ」というだけの話である。もちろん,そこには妙な解釈学を超えた,みごとな「切り口」を提示することが可能な場合もあろう。しかし,一般的には,まあ,どうでもいい話である。朝青龍に対する新聞記者の記事の書き方は,まさに個人的な「コメント」にすぎない。はたして,ジャーナリストの言説はその程度のものですまされていいのだろうか。かつて,朝日新聞社の記者として切れ味鋭い記事を書いていた辺見庸(いまは,作家)のような記者はもういないのだろうか。わたしの記憶では,辺見の書く名入りの記事は,まさに「インスクライブ」(内に書く)であった。だから,記事を読んでいて心臓が高鳴ったものだ。いまでは,もはや,むかしの物語となってしまった。

わが身を劈り開くような,あるいは,わが身に刻印するような(西谷氏に言わせれば「入れ墨をするような」),そういう「インスクライブ」がますます遠ざけられている社会現象をとらえて,毛利氏が「コメンテーター的知識人」の時代と名づけているとしたら,その意味するところは重い。ことばの正しい意味での「批評精神」がますます軽んじられる時代,みんなが「コメンテーター化」していく時代,そういう時代にいま,わたしたちは立ち合っているのだ,と毛利氏はいいたいのだろう。その点では,わたしもまったく同感だ。

わたしはわたしの立場からの<スポーツ批評>宣言に向けて,その根拠と方向性を明示しなくてはなるまい。

おやおや,これまた大変なことになってしまった。1月24日の話はどういうことになるのやら・・・。ドキドキ,ドキドキ・・・・。怒気,怒気,怒気・・・。土器,土器,土器・・・。

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2009-01-20 朝青龍がとうとう10連勝。

_ 憎まれっ子,世にはばかる,とはよく言ったものだ。あれだけメディアが寄ってたかって叩いた朝青龍が,よれよれの相撲ながら,いつのまにやら10連勝。10連勝の場所は優勝の確率が100%だという。

それとは対照的に,昨日まで完璧の相撲を取り続けていた白鵬が,今場所,絶不調の日馬富士にもぐり込まれて,相手の相撲にもっていかれてしまった。いくら苦手だとはいえ,この相撲はいただけない。白鵬はいったいどうしたというのだろう。まだ,どこかに精神的な弱さがあるようだ。少し,メディアが持ち上げすぎたか。

人間は不思議なもので,叩かれると強くなる,そういう側面をもっている。朝青龍なんかは,性格的にも,なにくそ,と思う負けん気の強さが顔に現れている。だから,ほどほどに叩かれていると彼のこころはますます強くなってくるのだろう。それにしても,この一番にかける集中力一つで,ここまで踏ん張ってきた。相撲というものは怖いもので,ぜんぜん駄目な相撲も「勝ち星」が薬になって,いつのまにやら調子を取り戻してくる。そして,その流れに乗ってしまうと,いつもの強い横綱がもどってくる。それにしても,このま勝ちつづけるとは思えないが,少なくとも優勝争いのトップに立ったことだけは間違いない。こうなると,ますます,朝青龍の本領発揮ということになる。楽しみだ。

むかしから,「役者殺すにゃ手間ひまいらぬ,三日つづけて褒めりゃいい」という。また,「褒め殺し」ということばもある。しかし,近頃の子育てや教育の理論の主流をなしているのは,「子どもは褒めろ」「褒めてその気にさせろ」というものだ。褒めてやると子どもの能力はどんどん伸びてくるという。実験的なデータもあるそうだ。ある局面だけをとりだして,一定の条件を整備すれば,そのとおりの結果が生まれるのだろうと思う。しかし,現実はそんなに甘くはない。こういう風にして育った子どもは「転んだ」あとの立ち直る力が弱いというのは経験的に知られている。

とりわけ,大人になってから褒められると,これはかなり危険だ。褒められるとついついその気になって,「よい人」を演じてしまう。白鵬は,いま,たまたま,朝青龍という「悪役」がおおいにその本領を発揮してくれているために,おのずから,「善玉」に仕立てあげられてしまっている節がある。白鵬が,もし,それを意識しているとしたら,それはかなり危険だ。今日の負け相撲は,そんなことをチラリと思い浮かばせてしまう。やはり,もっと,気迫を全面に押し出すくらいでいいのではないか。今場所の,昨日までの白鵬の土俵上での振る舞いをみていると,あまりにも自信に満ちあふれていて,全盛期の貴乃花の土俵を思い出させるものがある。それは,とてもいいことだ。でも,ちょっと,まだ,早すぎはしないか。少なくとも「苦手」の力士がいる間は,それではいけない。日馬富士に対したときぐらいは,もっと剥き出しの気迫を全身で表現してほしいと思う。番付をあっという間に駆け上がって行ったときの千代の富士のように。そう,「ウルフ」と呼ばれたように。そういうところを通過してからのことだろう。「自然体でいきます」などと,あまり早くから悟ることはない。

さて,明日からの5日間,朝青龍がはたしてどのような相撲をとるのか,楽しみではある。この一番の強さを発揮するのか,それとも,稽古不足が露呈してしまうのか。相撲ばかりは取ってみないことにはわからない。それが,相撲なのだが・・・・。だから,相撲は面白い。

わたしは基本的に小兵力士が好きだ。だから,おのずから朝青龍には肩入れしてしまう。もちろん,彼が高校生だったころに,直接,話をしたことがある,という親しみもおおいにある。まことに素直で,無邪気で,ちょっぴりわがままで・・・・。高校生としては,とても可愛い青年だった。彼のお父さんという人は貫祿のある人だった。一緒にきていた二人の兄たちも立派な力士だった。今場所は,お父さんと娘さんが応援のために来日している,という。朝青龍の気合いが入るのはこれからだ。

それよりも,なによりも,彼の土俵は「銭がとれる」。それが魅力だ。男芸者は,まずは,なによりも,銭が稼げなくてはいけない。いい相撲をとってなんぼのものだ。

朝青龍よ,明日からは,こころを鬼にしてぶつかっていけ。その激しさを徹底的に白鵬にみせつけておくこと,それこそが,より強い白鵬誕生への最高のプレゼントだ。

でも,ほんとうのところは日馬富士が大好きなのだ,ということだけは告白しておこう。だから,早く勝ち越してほしい。そうすれば,来場所からの活躍につながる。それでいい。

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2009-01-21 山焼き講演の準備。

_ いよいよ24日が迫ってきました。この日に予定されている「山焼き講演」のことが,ずっと以前から気になっていながら,なにも手がつけられないまま今日になってしまいました。

そろそろ時間切れになってしまいますので,このブロクを借りて,ウォーミング・アップさせてもらおう,と考えました。もう,こうなったら非常手段を使うしかありません。お許しのほどを。

テーマは「わたしの<スポーツ批評>宣言」。

「批評」ということがどういうことを意味しているのか,ということについては,すでに,このブログのなかでも折りにふれ書いてきたとおりです。基本的には,ヨーロッパ近代の合理主義的思考(つまりは,形而上学的思考)の<外>にでること,あるいは,「ディスクリプション」ではなくて「インスクリプション」でなくてはならないこと,と考えています。ですから,このことをどのような事例を引き合いに出しながら,いかにわかりやすく論ずるか,だけの話です。が,じつは,わかりやすく論ずるということがむつかしい。勝手に好きなようにしゃべっていいということになれば,ことは簡単です。が,それでは,自分自身にとって意味がない。だれにでも理解してもらえる言説で語ること,それが課題だと自分に言い聞かせています。このための思考訓練の場,それが「山焼き講演」だと自分で位置づけています。つまり,この「場」そのものが,ふだんのわたしの<外>にでることを要求していること,そして,みずからの身体に向けてインスクライブすること,すなわち,話者であるわたし自身を<批評>することを要求している,というわけです。ですから,ことは容易ではありません。

そのための覚悟だけはできているのですが・・・・。さて,では,どこからはじめるか,それすらまだ未定。困ったものです。

で,まあ,少しだけ,いま,頭に浮かんでくることでも書きながら,イメージを膨らませる糸口でもみつかれば・・・,というのが今日のブログの企みです。が,もう書いたも同然のところに,すでに着地しているようにも思います。なので,以下にはメモ風に。

まずは,蓮実(漢字が違う)重彦さんの『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』を,どのように「通過」するか,ということがおおきなハードルになってきます。すなわち「潜在的なるものが顕在化する瞬間を擁護すること」これが「批評」の原点だ,とする蓮実さんの主張をどのように受け止め,かつ,「通過」するか。とてつもなく大きくて,重い課題になってのしかかってきます。これが一つ。

もう一つは,やはり,今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』サッカー批評原論,でしょう。「サッカーを考えることは,世界を考えることだ」というテーゼをどのように受け止め,かつ,みずからのからだに刻み込むか。このことと,過去5回のシンポジウムをとおして今福さんが繰り出してきたメッセージをどのようにわが身に引き受けるのか,ということとも連動してくる。また,それをしなくてはなんにもならない,ということ。

こうして考えていくと,つい,最近,書いたばかりの連載原稿「文学にみるスポーツ」のテクストとして取り上げたジョルジュ・バタイユの『マダム・エドワルダ/目玉の話』が,にわかに別の意味でわたしのからだの上に重くのしかかってきます。それは,バタイユ自身が,みずからの「エクスターズ」という思想の概念装置について,小説という方法を用いて「批評的試行錯誤」を展開しているように,わたしには読めてしまうからです。つまり,バタイユはみずからの思想を,みずからの小説(作品として)をとおして<批評>しつつ,その可能性と限界を提起している,とわたしとしては解釈できてしまうからです。

この,バタイユの試みを下敷きにして,わたし自身の<スポーツ批評>を<批評>するスタンスを構築してみたい,これがいまのわたしを突き動かしている強い衝動ではないか,と自分で問い返している・・・これがホンネのように思います。さてはて,わけのわからないことを言っている,と叱られそうですが,これがほんとうのホンネです。

ここのところを,いかにわかりやすく語るか,ということにこだわっているわけです。ですから,ただ,しゃべればいいということではありません。大変です。困ったものです。

でもまあ,折角,与えてもらったチャンスですので,その「場」の力を借りて,自分の<外>に飛び出していく試みに賭けてみよう,という次第です。ああ,今夜も眠れそうにありません。でも,この不眠こそが自分からの「離脱と移動」のためには必要なのでしょう。まあ,なるがままに,みずからの身をゆだねることとしましょう。と自分に言い聞かせて,終わり。

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2009-01-22 スポーツを<批評>することのゴールはなにか。

_ 今日も,24日のためのウォーム・アップです。昨日の話が前段だとすれば,今日の話は後段になります。つまり,スポーツを<批評>するということは,最終的にどこに行きつくのか,ということです。

ただ,スポーツをきびしく<批評>すればそれでよい,ということではありません。最終的に,その<批評>がどこに到達するのか,ということがはっきりわかっていなかったら,それこそ無責任の誹りを免れません。では,どこに到達するのか。それは「普遍」に到達するということだ,とわたしは考えています。

では,「普遍」とはなにか,ということになりましょう。それは,なんぴとといえども否定することのできない地平に到達すること,つまりは「普遍の真理」に到達すること,だと考えます。このことを,今福さんは「サッカーを考えることは,世界を考えることだ」という言い方をします。別の言い方をすれば,スポーツの問題を考え,<批評>するということは,とりもなおさず,人間とはなにかを問い返すことであり,その問い返された人間にとって,わたしたちがいま立ち合っているスポーツ(文化)はいかなる機能をはたしているのか,また,いかなる意味をもっているのか,あるいはまた,いかなる<暴力性>を秘めているのか,ということを明らかにすることだろうと,わたしは考えています。

もう少し平たく言ってしまえば,いま,日本のこの社会に生きているひとりの人間として,日常的にゴルフを楽しむということが,いかなる意味をもつことになるのかと問うことになります。もっと問い詰めていけば,ゴルフが大勢の人に楽しまれるようになれば,それでいいのか,という問題です。つまり,わたしたちは,一般的に,スポーツが大勢の人に愛好されて,広く普及していくことはいいことだ,とアプリオリに考えがちです。ヨーロッパ近代という時代は,それは普遍的な価値をもつ,と考えてきました。しかし,21世紀を生きるわたしたちにとって,ほんとうにそうだろうか,という根源的な問いがそこには必要になってきます。

そのためには,ある意味での,自己否定が必要になってきます。つまり,自分のやっていることを自分で否定しなければならないことも,当然のことながら,起こりうるということです。いな,大いに起こりうる,わけです。だからこそ,自己の<外>に立つ思考が必要になってくるわけですし,みずからの身体にインスクライブすることも必要になってくる,という次第です。ですから,そこには第三者的なコメンテーターはまったく意味をなしません。もっと言ってしまえば,昨日も書いた「コメンテーター的知識人」の時代が,いま,到来しているとしたら,それこそ,それを「批判的に超克」することが求められることになります。<批評>とは,そういう営為を包含している,とわたしは考えています。

ですから,最終的には,人間の生き方の問題であり,自己の自律と解放のバランス・シートの問題であり,理性とエクスターズの折り合いのつけ方の問題であり・・・・という具合になっていきます。ここから始まって,やがては,わたしたちが生活する「社会」の問題になり,「世界」の問題へと展開していくことになります。これが,さきほど述べた「普遍」の問題だ,とわたしは考えています。

こういうことを,わたしたちはふだんすっかり忘れたまま,ひたすらスポーツをエンジョイすることに熱中しています。そして,きわめて表層的な不都合に対してのみ「評論」(コメンタリー)が行われるだけで,真の意味での<批評>(クリティック)精神に目覚めた言説はどこかになおざりにされたままになっている,というのがわたしの認識です。ですから,いまこそ,<批評>精神をスポーツの分野で蘇生させ,活性化させることが,21世紀を生きるわたしたちにとっての喫緊の課題だ,とわたしは主張したい。これが,「わたしの<スポーツ批評>宣言」の骨子です。

ああ,24日の講演の手の内をいまから明かしてしまっている・・・。でも,これでようやく,わたし自身のなかにイメージがかなり鮮明になってきました。あとは,どのようなレジュメを作成して,どのように話を展開するか,明日,じっくりと考えることにしよう。

わたしの個人的な,きわめて個人的な話題にお付き合いくださり,ありがとうございました。こころからお礼を申しあげます。もう一度,ありがとうございました。

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2009-01-27 奈良の月例研究会に行ってきました。

_ これまで11年間,「山焼き講演」と称して,奈良の山焼きの日に奈良教育大学教職員会館を会場にして開催してきたものをリニューアルして,ことしから「ISC・21」奈良月例会として開催することになりました。

奈良の山焼きといえば,成人式の前日と決まっていましたが,ことしから1月の第4土曜日に変更になりました。それに合わせ,奈良月例会も1月24日(土)に開催されました。奈良の世話人は竹村匡弥さんが担当してくれることになりました。しばらくは,この態勢でやっていきたいと考えています。

当日のプレゼンテーターは,松浪稔,菅井京子のお二人にわたしが加わっての3人。松浪さんは,昨年4月から東海大学体育学部に転勤となり,「スポーツ・レジャー学科」というまったく新しい学科での授業展開のご苦労を語ってくれました。まだまだ未開拓の分野ですので,それだけに大変だということもよく伝わってきました。でも,クレバーな頭脳と情熱で乗り切っていくパワーに感動しました。これでまた,ひとまわり大きくなったなぁ,と嬉しいかぎりです。菅井さんはびわこ成蹊スポーツ大学の先生で,20世紀初頭にヨーロッパで展開された「体操改革運動」の研究者です。わたしも若いころに「自然体育」の研究をしていましたので,それとの関連で「体操改革運動」には興味がありました。ですから,今回の菅井先生のお話は,この月例会にとってもとても新鮮な印象でした。これからのご発表がとても楽しみになってきました。

「わたしの<スポーツ批評>宣言」というのが,ことしのわたしの話のタイトルでした。このブログでも何回も書いてきましたので,省略しますが,こだわりは「評論」(コメンタリー)と「批評」(くりティック)の厳密な区別です。「コメンテーター的知識人」の時代,と毛利嘉孝が名づけた現代の特徴にみられるように,いまや,きわめて多くの知識人たちが「なんにでも口出し」をする時代になってしまいました。その結果どうなってしまったのかというと,ことばの正しい意味での「批評」がどこかに消えてしまった,という印象がつよく残ることになりました。つまり,まことに無責任なコメンテーターばかりが増えてしまって,まともな発言をする「批評家」の声は排除されつつある,というのがわたしの印象であり,憤りでもあります。ですから,いまこそ,<スポーツ批評>を定置しなくてはならない,という決意表明として,今回のお話をさせてもらいました。

今日の新聞をみて,またまた,呆れ果ててしまったことがあります。朝青龍の優勝に対して,横綱審議委員会がクレームをつけていることです。「横綱としての品位に欠ける」と。じゃあ,その品位に欠ける力士を横綱に推挙したのはだれなのか,とお伺いしたい。みずからの顔の上につばを吐くようなことをして平気でいる。これが「コメンテーター的知識人」の一つの実態です。もし,かれらが「批評家」としての「品位」を自覚しているのなら,みずから「横綱審議委員会」に対して責任をとって辞表を提出すべきでしょう。そういう「批評家」としての自覚もなく,ただ,いたずらに「他者否定」をしてみずからの「安心立命」だけに走る。この構図は,まさに,ブッシュ君がとった手法とまったく同じです。それの「猿まね」でしかありません。イスラエルのとった「軍事行動」もまた,まったく同じです。「諸悪」のすべてはパレスチナにあって,それを懲らしめるために「爆撃」をしたと平然としている。横綱審議委員会の多くの委員が,ブッシュ君やイスラエルとまったく同じことをしている,ということに気づいていない。要するに「無責任」そのもの。その場かぎりの「評論」を重ねて,ひたすら保身に走る。情けないかぎりだ。

これまで朝青龍のお蔭で潤ってきた日本相撲協会の利益はだれのふところにころがりこんでいるのか,しかと,胸に手を当てて考えてもらいたい。おんぶにだっこのようにして,日本相撲協会が朝青龍に凭れかかっていた時代がどれほどつづいたか,とくとお考えいただきたい。

朝青龍が優勝決定戦で勝った瞬間にみせたあの「値千金の笑顔」こそ多くの人を感動の渦に巻き込んだに違いない。人間朝青龍の純朴な子どものような側面があれほど素直に表出した瞬間に立ち合えたこと,このことにわたしは生きている喜びを感じた。大きな仕事をなし終えた瞬間の喜びを表出すると,横綱の品位に欠けるのだそうだ。その喜びの表出の自然な流れとして「ガッツ・ポーズ」もでた。わたしは人間として共感・共振した。にもかかわらず,横綱審議委員会の人びとのご意見によれば,「横綱としての品位を著しくけがした」として,とうとう,武蔵川理事長が朝青龍にたいして「注意」を与えることになった,と新聞は報じている。

「潜在的なるものが顕在化する瞬間を擁護すること」これが<批評>の原点だ,と蓮実重彦氏は書いている。わたしもまったく同感である。一般の相撲愛好家の人たちが,新聞報道によってあらぬ方向に誘導されていくことが悲しい。だからこそ,いま,<スポーツ批評>を立ち上げなくては・・・,とわたしはひとり「ふるえながら」考えている。

このことが,奈良でうまく伝えられたかどうか,心もとないかぎりではある。が,これからも何度でも繰り返していくしか方法はあるまい。そして,ほんのわずかな人でもいい。賛同者をひとりずつ増やしていくこと,まずは,そこから始めるのみ。隗よりはじめよ,と。

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2009-01-30 メタボの話。

_ 昨日(29日)の朝日の夕刊トップに「メタボ基準値,女性緩すぎ」という大見出しにつづいて,中見出しに「腹囲90センチ→『80センチ最適』」とある。

なんのことかと思ってよくよく読んでみると,これまでの女性のメタボの判断基準は,腹囲「90センチ」だったが,いろいろと調査・解析をしてみると「80センチ」が最適だという。このデータをはじき出したのは,厚生労働省研究班(主任研究者=門脇孝・東京大教授)。腹囲の10センチの差はとんでもない差である。これはなにごとかと思って詳しく読んでみたが,記事の書き方が悪いのか,わたしの頭が悪いのか,どうも要領をえない。なにゆえに,10センチの差がでてくるのか,その根拠,あるいは,解析方法の違いなどを説明していないのである。

ただ,平板的に,メタボリック症候群の基準に使われている腹囲だけがクローズアップされ,記事として取り上げられているだけである。たとえば,現行の「各国・地域でメタボリック症候群の基準に使われている腹囲」として,米国では,男性102,女性88,欧州では,男性94,女性80,南アジア・中国では,男性90,女性80,日本では,男性85,女性90,という一覧表が掲載されている。この表も眺めれば眺めるほどに,不思議なものだと思う。なぜなら,ここには身長も体重もなにもなくて,ただ,腹囲だけが問題にされているのである。

もう少し詳しく紹介しておくと,「現行の特定健診で使われるメタボリック症候群の診断基準」は,この腹囲と血糖と脂質と血圧の四つのチェック・ポイントがあって,このうち2項目以上に該当すると「メタボ」であると診断されるのだという。これをみても身体の外形の特徴は「腹囲」だけである。身長の大きい人も小さい人も関係なく,日本の男性であれば「85センチ」以上はアウトということになる。しかも,日本の女性は「90センチ」まで,現行ではOKということになる。女性の腹囲「90センチ」といえば,相当のデブになるはずである。それでもOK。

米国と欧州の「差」はいったいなにを意味しているのだろうか。アメリカ人にデブが多いことは,わたしのわずかなアメリカ滞在経験からもよくわかる。しかも,かれらはそれをデブだとは思っていない。わたしはそれで一度,大きな失敗をしたことがある。ある大学に勤務している女性の教授に,どうみても胸囲よりも腹囲の方が大きいので,体重を少し落すことは考えていないのか,と聞いてみた。もちろん,かなり親しくなってからのことである。ところが,彼女は目の色を変えて「わたしは太ってはいない。なぜなら,みんなと同じ速さで歩くこともできるし,遠い距離も歩くことができる。日常生活になにも不自由を感じてはいない」とのたまう。わたしは唖然として口も聞けなくなってしまった。それ以後,わたしは彼女と一緒に歩くことになったときには,いつもにもまして早足で歩くことにした。やはり,ついては来られないのである。でも,彼女はだれはばかることもなく悠然とマイペースで歩いている。

デブの基準は健康と同じで,どこにも精確な境界線は引けないのである。それとまったく同じことが「メタボ」の「腹囲」の判定基準にもある。それにしても,ただ「腹囲」だけが比較の基準になっていることの不思議はわたしのなかから消えはしない。身長が180センチある男性の腹囲85センチと,160センチの男性の腹囲85センチでは,見た目には相当の違いがある。

それが,日本の女性の場合には,現行では「90センチ」までOKだというのである。たとえば,身長150センチで腹囲が90センチの女性を想像してみてほしい。それでも,現行ではメタボの判断ではOKということになる。それが,こんどの解析では一気に「80センチ」が最適である,という。この「10センチ」の差が,わたしにはどう考えても理解不能である。にもかかわらず,新聞の解説はその点には一切触れてはいない。書いた記者も不思議に思わなかったのだろうか。そして,最終的に記事を判断する「デスク」もまたなんの不思議も感じなかったのだろうか。

ああ,今夜は眠れそうにない。

これを書きながらわたしの脳裏には,小学生の体力の測定値が下がってきたので「体力づくり」を復活させるという議論や,学力テストの結果を公表するしないの議論や,数学の国際ランキングが下がってきたので時間を増やさねば・・・というような議論がちらついている。これらのどの数値にも,わたしの眼からすれば,ほとんど有意差はない。にもかかわらず,1点下がった,1点上がった,と言っては大騒ぎをしている。どちらだって,たいしたことはないのに。そのむかし,養老孟司さんの本のなかに,東大で教えている医学部の学生さんが浮かぬ顔をしているのでどうしたのだと聞いてみたら,トップの学生が98点をとったのにぼくは97点しかとれなかった,と言ってしょげていた,という話がでていた。どっちもたいしたものだと養老さんは言う。わたしもそう思う。学力テストの点数が隣の学校の平均点よりも1点低かったと言って,こちらの学校の生徒は「バカだ」と言われるから公表すべきではない,という議論も同じだ。ひとりの学生くらいならまだいい。大の大人が集団でそんな数字に惑わされている時代である。なにを考えているのやら・・・。

ああ,今夜は眠れそうにない。

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2009-01-31 日本相撲協会こそ,大丈夫なの?

_ 日本相撲協会の武蔵川理事長が,朝青龍問題で高砂親方にきびしい注意を与えたが,それどころではなくなってしまった。またまた,力士の大麻疑惑による逮捕劇である。

とうとう,公益法人日本相撲協会の監督官庁である文部科学省が「公益法人の認可取り消し」を検討する,という非常事態宣言まで飛び出すというとんでもない展開となってきた。もはや,朝青龍問題どころではなくなってきた。こうなってくると「ガッツポーズ」(わたしはガッツポーズだとは思っていない)問題などは小さい,小さい。カッパの屁みたいなものである。

前回の大麻事件のあと,日本相撲協会は二度とこのような不祥事を起こさないよう全力をあげて取り組む,と約束したばかりである。しかも,徹底して協会員全員に注意をし,指導もした,と公言していた。にもかかわらず,この失態である。

武蔵川理事長は,高砂親方に対して「朝青龍の指導をしっかりやるように」「こんど問題を起こしたときには重大な決定をくだす」と高らかに宣言したばかりである。その理事長のもとで,ありえないはずの「二度目の大麻事件」の発覚である。新聞報道では,どうやら氷山の一角らしい,という。相当に根深く大麻汚染がひろがっているようだ。だとしたら,もはや,日本相撲協会そのものが立ち行かなくなってしまう。いったい,どうするつもりなのだろうか。もはや,朝青龍に向けてなにかを注意する資格は,日本相撲協会にはなにもない。

高砂親方と朝青龍の関係は,相撲界でも例外的なものだ,とわたしは考えてきたがそうではなかった。これが,どうやら,一般的なものらしい。なぜなら,この大麻事件を起こしたのが尾車親方の部屋の力士だった,と知ったからだ。尾車親方といえば,角界を代表する人格者で,指導者としてもきわめて高い評価を受けている人物だ。かれの相撲解説を聞いていても,とても暖かい人間性が伝わってくるし,その知性の豊かさにも感心するばかりだ。しかも,親方は「こういうことは絶対にあってはならない,として徹底して指導してきた」という。にもかかわらず,そのお膝元から起きた不祥事である。となると,他の部屋ではもっと・・・?という疑問が湧いてくる。これはとんでもないところまで問題が発展してしまう可能性がある。笑い事では済まなくなってきた。

日本の「国技」だとか,「横綱の品格」だとか,言っている場合ではない。日本相撲協会そのものの組織としての,公益法人としての最低の条件すら満たしていない,ということが明るみにでてきたのだから。もう,こうなったら,いっそのこと日本相撲協会を解散して,一から出直した方がいい。NHKとの癒着問題もある。天皇杯なるものを授与している場合でもない。どこもかしこも馴れ合いになってしまって,お互いに「もたれ合って」「傷を舐めあう」という長い慣習行動の積み重ねが,その根源にあることをしっかりと見届けるべきであろう。

横綱審議委員会とて同じだ。委員はみんな「仲良しクラブ」の寄せ集まりで,都合の悪いことにはフタをし,自浄能力はとうのむかしに失ってしまっている。こんにちの平均的日本人の感性とはおよそ縁遠い人たちばかりである。なにかと言えば,横綱の品格は・・・と仰る。そんなものは幻想であって,むかしからありはしない。あの大横綱と言われた「双葉山」ですら,こんにちの総「コメンテーター的知識人」の時代からみれば醜聞だらけである。それでも,それらを許容する懐の深さを社会がもっていた。工藤美代子の『ひとり寂しき双葉山』をとくとご覧あれ。

おやおや,あらぬ方向に話が進展しはじめている。

このあたりで今夜は終わりにしておこう。

ただ,この問題は,もう少し多面的に,しかも深く分析をしてみる必要がある,ということだけは明らかになってきた。これからしばらくは,「相撲批評家」という肩書を意識的に使って,問題の本質を問い続けてみたいと思う。乞う,ご期待!

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