2008-12-01 ことしも師走に突入。
_ 時間の過ぎ去るのが年々早くなる。ことしももうすでに師走である。嘘みたいな話である。夢ではないかと思う。はたしてこれがほんとうの現実の世界で起きていることなのだろうか,と頬をつねってみる。痛いから現実なのだろうと,自分に言い聞かせる。
ことしの3月末で定年退職して,それからは暇になるはずだった。その暇つぶしの道楽として「21世紀スポーツ文化研究所」を立ち上げ,みんなで楽しく遊ぶことができればいいなぁ,と夢見ていた。しかし,そうは問屋が卸さない。
とくに,なにか大きな仕事をしたわけでもない。かといって,なにもしてこなかったわけでもない。そこそこの仕事はしてきている。ただ,大した生産性もあげ得ないまま,気がつけば,いま,ここにいる。しかも,なにげに忙しい。それが不満なのだろうか。いつも,なにかに追い立てられるように毎日が過ぎ去っていく。こんなはずではなかった。もっと自分の時間を確保して,悠々自適の生活をエンジョイするはずだった。どこか間違っているのだろうか,とチェックしてみるが,とくにどこといって奇怪しいことはない。ごくごくまじめに過ごしている。
では,このなにげに忙しい生活が不満なのか,と自分に問うてみる。と,そこにはなにも不満はないことに気づく。この気ぜわしさは自分が好きでやっているようだ。なにかに追われたり,ときにはなにかを追いかけたり,というシーソー・ゲームを楽しんでいるらしい。ひとり鬼ごっこ。そういう自分がそこにいる。だったら,それでいいではないか。
とまあ,こんなことを考えながら,今日一日を過ごす。やはり,師走なのだ。そのついでに,では,「21世紀スポーツ文化研究所」のこれまでを総括してみる。少しずつではあるが,軌道に乗りつつある。残りの時間でやるべきことは,研究所紀要の発行の準備だ。これまでの『IPHIGENEIA』を継承的に発展させて,<ISC・21>版『IPHIGENEIA』と名称変更をし,版の大きさも小型化してハンディなものにすることを考える。そして,研究所の特色を活かした「投稿規程」の案をつくってみる。こちらは近々,世話人の人たちにチェックしてもらおう。そして,これまでのような個人編集はやめて,編集委員会を組織しよう。原著論文はしかるべき手続をへて審査することにしよう。原稿の枚数は制限なしにしよう。内容さえよければ何枚でもいいではないか。通例の「紀要」ではできないことをやるべし。大部の原著論文,大歓迎にしよう。ただし,冗長なものについてはチェックしよう。編集委員はだれにお願いしようか。などなど,現実と夢の間を往来しながら考える。こういう時間はまことに楽しい。なにものにも代えがたい。まさに,至福のときだ。
こんなことを暇があると考えているので,なにげに忙しいのだ。だから,実際には暇なのだ。暇だからこそ,こんなことを夢見ていられるのだ。その証拠に,この4月からは好きなことばかりやってきたではないか。なにげに忙しいのは好きなことを追いかけているからだ。よし。こうなったら徹底的に「なにげに忙しい」毎日を送ることにしよう。その方が張り合いがあっていい。
そうとなったら,明日から,もっともっと走るぞ。先生業は廃業したけれども・・・。
2008-12-02 サンマリノのサッカー代表,雑感。
_ 12月1日の朝日の夕刊に「サンマリノ2勝目近い?」という見出しの,写真入りの大きな記事が掲載されていた。
わたしの眼は吸い込まれるようにして,この記事に書かれていることを追っていた。そして,「ニンマリ」と,こんな笑い方があったことを遠い記憶のなかから引っ張り出すようにして,しみじみと笑った。こころの奥底からほのぼのとしたものがわき上がってくる。いいなぁ,とひとりごとまで言っている。
2003年の夏,ドイツ・スポーツ大学ケルンでの半期にわたる三つのゼミナール(授業)を終えて,家族で北イタリアを旅行したときの思い出がまざまざと蘇る。ミケーラ(最初に娘が友達になり,その後,家族みんなと仲良しになったイタリアの女の子)が車で案内してくれたサンマリノ。それはそれは素晴らしいところ。ちょっとことばでは説明ができない,おとぎの国のような世界。
新聞の記事を引用した方が早い。
イタリアに四方を囲まれた人口3万人の小国,サンマリノ共和国は,20年前に国際サッカー連盟(FIFA)に加盟してから国際試合に1度しか勝ったことがない。世界ランキング201位はグアム,パプアニューギニアなどとともに最下位タイ。アマチュア選手主体の代表チームは,列強の壁に跳ね返され続けている・・・と,この記事を書いているのが稲垣康介。親戚?いやいや,まったくの赤の他人。
さらに,引用。
真剣勝負の殺気がない。11月19日,サンマリノ−チェコの10年W杯欧州予選。7千人収容のオリンピック競技場の入場者は1316人。敵対するはずのチェコ,サンマリノの応援団が並んで座っている。のどかな雰囲気の中,キックオフの笛が鳴った。
こんな記事を読みながら,さもありなん,と思わず膝を打った。車で走っていると,イタリア北部のなだらかな丘陵地帯の中に,突如として片側だけが切り立った崖になっている755mほどのティターノ山が見えてくる。この山の頂上に,かつて,ローマ皇帝によるキリスト教徒迫害を逃れて城砦を築き,立てこもって身を守りとおしてできた,現存する世界最古の共和国。世界で5番目に小さな国。面積は,山の手線の内側くらいしかない,という。その中心に,ティターノ山がある。だから,平野と呼べるようなところは,少なくとも,その城砦の上から眺めたかぎり見当たらない。家も丘陵地帯に点々とまばらにあるだけで,とても人口が3万もあるとは思えない。そういう国のサッカー代表チームがワールドカップ予選を戦っている,と聞いただけで頬がゆるんでくる。
そこには勝敗を度外視したサッカーが繰り広げられている。お互いの応援団が並んで座っている・・・なんとも,のどかな光景ではないか。サンマリノの選手は,そのほとんどがアマチュア選手。練習は週2回。試合そのものを楽しんでいる姿が眼に浮かぶ。
かつて,今福龍太氏が,あるシンポジウムの席で,南米の多くの国のサッカー・チームは,ワールドカップ予選を勝ち抜くための戦略を放棄して,ただ,ひたすら自分たちが美しいと信じて疑わないサッカーを探究している,と発言されたことを思い出す。勝つことだけがサッカーではない。もっと次元の違うところにある「サッカー美学」とでも呼ぶべきものを,ひたすら,追い求めていく,そういうサッカーもあっていいのだ,と。
サンマリノのサッカーは,それともまた違うサッカーを模索している,とでもいえばいいだろうか。いかによく戦ったか,善戦したか,自分たちのサッカーが実現できたか,といったようなものを追い求めるサッカー。そういうサッカーもまた楽しいのではないかと思う。
最近のスポーツ記事は,そのほとんどが「勝ち負け」の結果しか問題にしないものが圧倒的であるところに,こういう牧歌的で,のどかなサッカー・ワールドカップ予選を戦う記事を見出すと,なぜか,ほっとする。スポーツは「勝ち負け」だけではない,もっともっと多面的で,重層的な面白さがあるのだから,そういう記事も掲載してほしい。
サンマリノのようなチームは,世界の各地にわんさとあるはずだ。
そうだ,もう一度,サンマリノに出かけて行って,こんどはサッカーをみてこよう。
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2008-12-04 小森陽一の『村上春樹論』を読む。
_ このところ暇をみて,村上春樹の『海辺のカフカ』上,下と『ねじまき鳥クロニクル』1,2,3を読んでみた。ちょうど,これらの作品を読み終えた直後に,本屋さんで小森陽一の『村上春樹論』(平凡社新書)をみつけたので,いま,読みはじめている。
が,驚いたことに,小森陽一の手にかかると名作の誉れ高い『海辺のカフカ』が木っ端みじんに粉砕されてしまっている。もう,ちょっと,どうしようもないほどの,徹底した「やっつけ方」をしている。しかも,それらが,どれ一つとってみても反論のしようがないほどの,ほぼ完璧と言っていいほどの裏づけをしているのだ。その裏づけの一つに,フランス現代思想があり,これが重要な役割をはたしている。
わたしの周辺にも村上春樹の熱烈なファンがいて,何回,読んでもいい,という。しかし,このファンの人たちは,この小森陽一の『村上春樹論』を読んでいるのだろうか,と首を傾げるしかない。なぜなら,これを読んでしまったら,相当のショックを受けるはずだからだ。そんなそぶりも見せないところをみると,どうやら,読んではいないらしい。
以前も,このブログで小森陽一氏との出会いについて少しだけ書いた記憶があるが,かれは東大教授のほかに「文芸批評家」という肩書をもって活動をしている。文芸評論家ではなくて「文芸批評家」と名乗っているところがいい。評論と批評はどこがどう違うか,というややこしい議論になると,わたしには自信はないが,やはり,どことなく大事なところが違うように思う。たとえば,スポーツ評論家,野球評論家,相撲評論家・・・と名乗る人はいくらでもみかけるが,「スポーツ批評家」「野球批評家」「相撲批評家」と名乗る人はみたことがない。この分野では,評論のできる人はいても「批評」のできる人はいない,ということだ。
かつて,蓮実(これの古い漢字がでない)重彦さんが『スポーツ批評宣言』という本を出されたとき,わたしはびっくり仰天しながら読んだ記憶がある。それは,「スポーツ批評」ということばの新鮮さにあった。「批評をする」とはどういうことなのか,と初めて真剣に考えた。それに対して,蓮実さんはじつに明解に答えを提示してくれ,わたしの疑問が一気に氷解したことを覚えている。蓮実さんにいわせれば「潜在的なるものが顕在化する瞬間を擁護すること」,この一語につきると。眼からうろこ,とはこのことだった。わたしの頭の回路が一つ,びしっと決まった。
それからずいぶん時間が経過している。そして,今回の小森陽一の「文芸批評」である。文芸評論ではなくて「文芸批評」とはどういうことなのか,という点に神経をつかって読んでみる。そうしたら,その典型的なお手本のような本がこの『村上春樹論』であった。「批評」とは,これほど精緻にテクストを読み解き,その問題点を浮き彫りにし,なぜ,それが問題なのかという根拠を,思想・哲学をはじめとするあらゆる手段を用いて展開していく。その博覧強記ともいうべき守備範囲の広さに,まずは,圧倒されてしまう。村上春樹の作家としての企みが丸裸にされてしまい,そのぶざまさを徹底的に「批評」していく。そのまた歯切れのよさは,あの陽気な小森陽一の語り口調そのままだ。
渋谷のとある飲み屋で,小森陽一が「文学をガクガクする」という話をするという情報が入ってきたので,西谷修氏を誘ってでかけたことがある。そのときに,講演が終わって,かなり酒がまわってきてから小森氏が西谷氏に告白していたことばが忘れられない。「おれは西谷のようにトップは走れないけれど,二番手くらいでは頑張るから頼むよ」と。西谷氏は軽くいなしながら,「体質も,スタンスも違うんだから,あまり無理することはないよ」といった調子。そのうちに二人で「禅問答」のような話を展開しはじめたので,「それって,どういうこと?」と間に割ってわたしが入る。そうすると,お二人とも,じつに熱心にわたしに説明をしてくれる。これがまた,とても,ありがたかった。それで,すっかり,小森陽一氏とも仲良しになってしまった。お互いに顔を真っ赤にしながら「記念撮影」までして・・・・。そのときの話題の中心は,なんと,「フランス現代思想」をどう受け止めるか,ということ。
だから,このテクスト『村上春樹論』は,冒頭からフロイトの理論をもちだして「エディプス・コンプレックス」が『海辺のカフカ』の最初のモチーフになっていることを解き明かす。そして,やがて,そこに現れる「暴力」の問題に立ち入っていく。そこでは,ジャック・デリダの『法の力』ほかの文献がでてくる。
一般に,『海辺のカフカ』は「癒し」や「救い」のある小説として歓迎されたようだが,その内容は,とんでもない,「暴力」のすり替えのであり,しかも,その「暴力」を正当化までしている,恐るべき作品である,というのが小森氏の結論である。「批評」するということがどういうことなのか,ということを知るための絶好のテクストになっている。
わたしも,できることなら,いつか,「スポーツ批評家」という肩書で仕事をしてみたいものだ。小森陽一さん,ありがとう。
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2008-12-06 三鷹天命反転住宅を見学。
_ 『談』の編集長佐藤真さんのお誘いで,荒川修作の「三鷹天命反転住宅」の見学会に参加した。養老天命反転地や奈義現代美術館の「太陽」とは少しばかり趣を異にしていた。なるほど,住宅にするとこういうことになるのか,と合点。
午後3時に現地集合。空を荒れ模様。武蔵境からタクシーに乗る。その間,断続的に雨が降っている。しかし,わたしが三鷹天命反転住宅の前で降りたときには雨はピタリと止んでいる。よし,いつもの天気幸運男。
現地にはすでに何人かがきており,わたしのあとにも続々とやってくる。みんな知らない人たちばかり。総勢20人ほどか。ほどなく,住宅の中から佐藤さんが迎えにきてくれる。
まず,空き室になっている部屋を見せてもらった。なにを隠そう,この住宅は一般の人に賃貸で貸しているのだ。精確に数えたわけではないが,写真でみるかぎりでは,全部で12室ほどか。ほとんどの部屋は人が住んでいる。そのなかの空き室を見せてもらった,という次第。
この住宅の様子を言説化することには基本的に問題がある。養老天命反転地も奈義現代美術館も,体験の場としてつくられている。つまり,からだをとおして「感じる」こと,「体験する」こと,そして,「変化する」ことを求められているからだ。だから,その場に立って,動いて,自分のからだがなにを語りだすか,その声に耳を傾けること,それが重要なのだ,と荒川修作の本にはある。
とはいえ,おおよその言説化が可能なことがらについては書いておくことにしよう。部屋のタイプは二つ。2LDKと3LDKで,それぞれ52平方mと60平方mほどの大きさ。基本設計は,円形のダイニング・キッチンを中心に,三つなしい四つの部屋が外に飛び出している。その飛び出した部屋の間をつなぐようにしてバルコニーがある。たとえば,四つの部屋は,スタディ・ルーム,畳部屋,寝室,バス・ルーム。
スタディ・ルームは,全体がほぼ球体でできている。その球体の約六分の一ほどが外に向けた平面の窓ガラス,その部屋への出入り口が円周の約八分の一ほど切り取られている。それ以外はすべて球体の壁。もちろん,床も球体のまま。中に入って話をしてみると,自分の声が不思議な反響をして自分の耳に跳ね返ってくる。壁との向き合い方によって,つまり,立ち位置によんて響き方が違うのである。これはまことに楽しい仕掛け。それが,なんと,スタディ・ルーム。
畳部屋は,ほぼ正方形の部屋に円形の畳が中央にあって,その余白部分は部屋の入り口が板の間,奥の窓側は玉砂利が敷いてある。ここは大の字になって寝ころんでみると,なかなか気持ちがいい。和室と思しき部屋のなかに玉砂利が敷いてある,この発想がいかにも荒川修作らしい。うつ伏せに寝ころんで,窓の外を眺めながら,玉砂利に手を触れ,転がしたりして遊んでいると,なんだか身もこころも開かれてくる感じがする。荒川修作は,そういう姿勢で「スパゲッティでも食べてごらん,世界観が変わるよ」と言っている(説明書)。
バス・ルームも正方形の部屋でドアはない。中央にシャワー室,その奥の窓側にトイレ。トイレには使用中は音楽が流れる装置がついている。丸見えではないか,と聞いてみると,必要ならカーテンを下げればいい,とのこと。でも,このまま使っている人が多いとのこと。
寝室も正方形の部屋。床も平ら。ごくごくふつうの部屋。
さて,問題のダイニング・キッチン。全体は円形で,ややすり鉢状に中央が低くなっていて,その中心に太い柱が一本。その柱のまわりは人が一人動ける程度の空間がある。その外側をテーブルとキッチンがドーナッツ型にしつらえてある。テーブルは外側から切りこたつのように中央に向かって足を入れて座る。その周囲は「たたき」をイメージしたという,でこぼこでざらざらのコンクリート。しかも,中央に向けてゆるやかに傾斜している。裸足で歩くとこれがまたなんとも快感なのである。
日本縄文学会の人たちがやってきて,玄関から足を一歩踏み入れたとたんに「あっ,これは竪穴式だ」と言ったそうである。なるほど,と納得。言いえて妙である。
こんなところが,まずは,第一印象。このあと,この住宅を管理している荒川東京事務所に移動。ここも,いま説明した部屋と同じ3LDK。さきほどのものは「空き室」であったが,ここは実際に事務所として使われている。なるほど,事務所として使えばこんな風になるのか,とこれまた感動。ありとあらゆるスペースを利用して,面白い工夫がされている。これはまあ,書きはじめるとエンドレス。今日のところはここまで。
このあと,吉祥寺の不思議な店(フリー・ミュージックとワインとチーズが絶妙)に流れて行って,ここでまた盛り上がる。
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2008-12-07 「批評」ということについて。
_ 小森陽一の『村上春樹論』(平凡社新書)を読み終えて,なるほど「批評する」ということはこういうことなのだ,ということがこころの底から腑に落ちた。ちょうど,その感慨にふけっている絶妙のタイミングで今福さんから『ブラジルのホモ・ルーデンス』サッカー批評原論(月曜社)が届いた。これもなにかの恩寵というべきか。
帯をみると「勝敗原理の抑圧と『評論』に叛乱するサッカー批評の戦闘的論考」「歴史として捏造されたにすぎない勝利や戦術といった概念に,サッカーのすべてを売り渡してしまう必要はないのだ」とある。
急いで目次を覗いてみる。0から11まで,つまり12章までの見出しが並ぶ。ここからして,すでにサッカーである。1から11までがピッチに立つプレイヤーであるとすれば,0は監督か。
その0は序論となっていて,「サッカー批評」は世界批評である,という見出しがついている。ちょうど,小森陽一の『村上春樹論』を読み終えたばかりなので,この見出しが痛いほどよくわかる。つまり,「批評する」とはこういうことなのだ。「世界」をどのように考えるか,捉えるか,わがものとするか,という普遍につながらない論評は「批評」とはいえない・・・とこの見出しがわたしに語りかけてくる。
で,おそるおそる序論を読んでみる。冒頭から挑発的である。なるほど,「戦闘的論考」である。いつものことながら,文章の端はしまで今福節が鳴り響いている。あまりにみごとな文章なので,気が引けるが,引用しておこう。
「スポーツ評論」やスポーツ・ジャーナリズムとは,結局,自己と社会とがさまざまな制度的限定を被りつつ生きる「世界」というリアリティと直接対峙することを無意識のうちに回避し,幻想のなかにつくりあげた「スポーツ」という安心の聖域と自己陶酔的な関係をとりむすんで,そのなかで生きようとする,きわめて自閉的かつ逃避的な言説の衝動なのである。そしてそうした衝動から,現代人はなかなか自由になることができないのだ。
と述べた上で,「サッカー評論」というジャンルがあるとすれば,それも,同じ自閉的な世界への後退の欲望を免れていない。しかも重要なのは,そうした言説の後退が,無自覚のうちに行われていることだ,と指摘して「評論」というものの陥る隘路を痛烈に批判する。
そして,「サッカー批評」というものを以下のように論じている。
そこで要請されるのが「サッカー批評」である。なによりもまず確認すべきは,「サッカー批評」とは「サッカー評論」ではない,という文字どおりの事実だ。対象化された聖域のなかで幻想的・自己満足的な言説を繰り出すこともできるのが「評論」(コメンタリー)の世界だとすれば,「批評」(クリティーク)という行為はそもそもそうした書き手の主体性を,現実から隔離することが不可能な行為である。なぜなら批評とは,なによりも,思考対象への批評以前に,言説の生産者たる自己と自己が生きる社会への徹底したクリティークによって,批評的言説の生産の場自体を相対化することからしか,はじまらない行為だからだ。したがって,サッカー批評とは,サッカーというものが成立する歴史的・社会的・文化的・政治的文脈へのトータルな批評行為であり,それはすなわち,サッカーに対峙する私たち一人一人の人間の生存条件への徹底した批判力をも含み込んだものでなければならない。
とまあ,こんな具合で,まことに説得力のある言説がつづく。わたしは一つひとつ,まことにもっとも,と相槌を打ちつつ読み進む。ここに展開されていることがらは,まさに小森陽一が『村上春樹論』でもののみごとに提示してくれた「文芸批評」そのものを,「スポーツ批評」「サッカー批評」に置き換えて,さらに鋭利な刃物で切り刻んでいく「行為」そのものである。こういう書物に,しかも,このタイミンダで出会うことを恩寵と呼ばすしてなんと呼ぶべきか。
いわずとしれた「相撲評論」や「野球評論」を生業としている「評論家」たちの不毛な言説に嫌気がさしていたわたしは,なんとしても「評論」ではなくて「批評」を展開する道はないものかと模索していた。そして,できることなら「スポーツ批評家」という肩書を用いて仕事をすることはなきないものかと考えてきた。しかし,「評論」と「批評」との厳密な区別ができなくて,うろうろさまよっていた。
やはり,レディネスがあったということなのだろうか。小森陽一の『村上春樹論』と今福龍太の『ブラジルのホモ・ルーデンス』サッカー批評原論という二冊の,決定的な「批評」のお手本に連続して出会うことができた。これはまさに運命的ともいうべき「出会い」(Begegnung)である。これを機会に,徹底的に「スポーツ批評」の道をめざしていこう,と腹をくくる。
最後に,目次の前に置かれている定義を紹介しておこう。
ブラジルBrasil〔bra'zil〕人間の下半身のゆらぎとボールの偶然の運動性とのあいだに一つの美学を打ち立てようとする,ある精神共同体の名。あらゆる固定的イデオロギーや規則はこの符牒を旗印として戴くことで相対化され,無化される。南アメリカに位置する一国家の名称との類似は偶然の一致に過ぎない。
このあとに,「ホモ・ルーデンス」の今福龍太による定義が載っている。こちらは長くなるので割愛。
さて,だれか,わたしと一緒に「スポーツ批評」への道を模索しませんか。
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2008-12-08 『ブラジルのホモ・ルーデンス』を読む。
_ ほかにやらなくてはならない仕事が山ほどあるというのに,「読みたい」という衝動抑えがたく,『ブラジルのホモ・ルーデンス』に手を伸ばしてしまう。でも,読み終えて,やはり,読んでよかった,としみじみ思う。
ひとくちに言ってしまえば,全編にわたって,今福節がうなりをあげて鳴り響いている,といえばいいだろうか。もう,どのページを開いても,今福さんの博覧強記ともいうべき守備範囲の広さとサッカーに寄せる深い深い「愛」に満ちあふれていて,まさに,今福さんの独壇場。こんな「サッカー批評」はちょっとだれも真似ができないだろう。どの章を読んでもしびれてしまう。まるで,ふぐ通の板東三津五郎が,かつて毒のまじったきわどい刺身を食べたときのような感覚といえばいいだろうか。と言っても,わたしは経験したことはないが。つまり,一度,味わったらやめられない,死ぬまでやめられない,という意味で。
では,いったい,どこに,どのように「しびれた」のか。それを説明するのは至難のわざだ。その部分は実際に読んでもらった方が早い。
ここでは,今福さんの攻め口について,少しだけ触れておくことにする。
冒頭にでてくるのは,文芸批評家の渡辺直己の『プロ野球観戦学講座』(論創社,1987)と『日本プロ野球革命宣言』(メタローグ,1997)を援用しながら,「批評」とはなにかと問い,「それが一種の<暴論>としてつくられている」側面に光を当てる。たとえば,渡辺直己は,「年報査定にゲームを美しく挑発した『芸術点』を加えよ」「もっともよく打つ打者にもっとも打席の回る一番をつねに与えよ」と力説する。つまり,野球というゲームをもっともっと面白いものに仕立て上げていくための,まさに,意表をつく提言をしていく。しかし,このような「一種の<暴論>」が成立するのはプロ野球だからだ,と今福氏は言う。そして,サッカーではこうはいかない,と。そこにはなにかがある,と。そして,今福さんは以下のように論を展開していく。少し長いが引用しておく。
その何かとは,おそらくサッカーという競技の本性にかかわっている。本書でこれから本格的に論じていくことになるが,サッカーという運動領域は本質的に近代スポーツの競技性をどこかで裏切ってゆく部分がある。勝敗による決着,ルールによるゲームの文法化,得点という数学的均質性の導入,国家による競技者や競技会の占有・・。これらの近代スポーツとしてのサッカーが身につけた属性は,どこかで,サッカーの示す混沌とした原初的な運動性によって裏切られている。そしてサッカー自体が,原型的には,快楽とか気まぐれとか審美性とか遊戯性といった反近代的生産原理によって成立しているとすれば,サッカーの本質をえぐりだそうとする批評は,そのまま近代世界批判へと,みごとに接続されることになる。あえて大胆な言い方をすれば,近代世界に対して「サッカー」というもの自体がすでに「批評」的な構造をもっている,ということなのだ。つまりサッカーは,近代世界のメカニズムと無意識とを照らし出し,その欠陥を露呈させる,批評の武器そのものなのである。サッカーは批評の「対象」であるばかりでなく,それ以上に,見事な批評の「方法」となりうるのだ。
このような論陣を張った上で,つぎのように言う。
サッカー批評は,サッカーを対象化し,サッカーを語りつつ,まさにサッカー的な批判力をサッカーを成立させる政治的・社会的な文脈への批評へと展開してゆくことで,そのまま近代の「世界」自体を語り,批判することが可能となるからだ。
という調子で,さらにさらに深みへと分け入っていく。こうした「批評精神」をわたしたちはこれまで欠落させたまま,のうのうと生きてきてしまった。深く恥じるばかりだ。しかし,このことに気づいた以上は,自分なりのスタンスで可能な「スポーツ批評」を展開していくしか方法はない。こういうことをほんとうに思い知らせてくれる内容がふんだんに盛り込まれている。大いに遅きに失したとはいえ,これから一歩を踏み出すしかなかろう,とみずからに笞打つ。それあるのみ。
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2008-12-09 ベンヤミンの『陶酔論』の衝撃。
_ 今福さんは,ベンヤミンの『陶酔論』を手がかりにして,ブラジルのサッカーの含みもつ根源的な意味を問い直している。そこでは,ブラジル人にとってサッカーはもはやなくてはならない必需品であり,生きる喜びそのものの根源に触れる文化なのだ,と断言している。
ブラジルの人びとにとって,サッカーは勝敗を超越した「陶酔」のための文化装置である,と今福さんはいう。そして,みずからのブラジル・サッカーをとおしての「陶酔」体験を語る。この体験を,ベンヤミンがみずから実験台となって麻薬のハシッシを吸引して体験した「陶酔」とを重ね合わせながら,それが通俗的な「陶酔」とはまったく異なる新たな自己との遭遇と新たな自己体験であり,新しい自己の誕生を意味することを確認していく。そして,ブラジル人にとってサッカーとは,このような「陶酔」をとおして,まったく新たな自己を発見し,新しい自己に生まれ変わる体験をすることを意味するのだ,という。
それは同時に,ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』のなかで展開した「遊戯論」とも通底していることを,精密に論述している。子どもは純粋無垢の状態で,忘我没入して遊びに熱中することをとおして,過去の自己を脱皮し新たな自己を形成していく。それは,大人であっても同じことだ。ただ,近代文明社会の大人にはその機会があまりに少なすぎる,というにすぎない。しかし,ブラジル人にとっては,それがサッカーをとおして実現されている,とみずからの体験をとおして今福さんは主張する。
こういう話を聞いて,わたしの脳裏に浮かんでくるのはジョルジュ・バタイユの「恍惚」(エクスターズ)である。かれは「内的体験」という一種の神秘体験をとおして,この「恍惚」の存在を知る。そして,この「恍惚」体験を哲学の概念に置き換え「非−知」として位置つける。しかも,この「非−知」こそ,ヘーゲルのいう「絶対知」の対極に位置づくものと定義する。そして,バタイユは人間の存在を規定する原点がこの「恍惚」(エクスターズ)だと位置づけ,そこからかれの存在論が展開される。換言すれば,「エロス」の世界であり,バタイユが展開する『エロティシズム』もここからスタートする。
ロジェ・カイヨワのいう『本能』も,このバタイユの思考とつながっているように,わたしには読める。
もっと飛躍させてしまえば,西田幾多郎の「純粋経験」や「行為的直観」や「絶対矛盾的自己同一」などという西田に特有の概念もまた,ここと通底しているようにわたしは考えている。いまはやりの「オートポイエーシス」の概念もまた同じ土俵に上がってくる。
ここまでくれば,もう,白状してしまった方がいいと思うのは,最終的には仏教思想にまで到達する,というわたしの仮説である。仏教経典の原点ともいわれる『般若心経』のなかに説かれている「色即是空 空即是色」という概念もまた,同じ地平に立つ。このことは,拙著『身体論−−スポーツ学的アプローチ』に詳しく論じたつもりである。また,その後もこの論考を追いつづけていて,ますます,わたしには納得のいくものとなりつつある。こうした発想は,ついには,禅仏教の思想に到達する。
道元禅師が説く「修証一等」や,白隠禅師の「因果一如」も同じことを説いている。そして,「我を忘れる」ことが肝腎であり,「無心」「無我」の境地が一つの到達目標となる。
ジョギングしているときに体験するという「ランナーズ・ハイ」もまたかなり近いところで起きている現象ではないか,とわたしは考えている。それが,たとえ,エフェドリンという脳内物質のいたずらにすぎない(と脳科学者たちは言う)としても,一つの体験としては,ベンヤミンの『陶酔論』と遠い存在だとはとても思えない。
もう,これ以上は書かないことにするが,老子や荘子がいう老荘思想もまた,きわめて近似したところのものである。これらは禅仏教を生み出す引き金ともなった思想であるから,当然といえば当然である。
こうして考えていくと,なにか大きな大同円が描けそうな気がしてくる。そして,なにより大事なことは,ブラジルのサッカーが,こうした人間の根源の問題と深く切り結びながら,日々の自己変革につながる文化装置としての機能をはたしている,という事実なのだ。この点をこそ,今福さんは強調する。わたしも大賛成だ。
近代スポーツが求める「勝利至上主義」とはまるで無縁の,ことばの正しい意味での「陶酔」体験をとおして,新たな自己を発見していく,差異のある反復がもののみごとに実現されているブラジルのサッカーに,一つの大きな可能性を見出している今福さんの主張に,いまごろになって気づく。
かつて,今福さんから「一度,わたしと一緒にブラジルのサッカーを見に行きませんか」と誘われたことがある。その真意はここにあったのだ,ということをいまになって知る。いまからでは遅いだろうか。こんどはわたしから「今福さん,ぜひ,わたしをブラジルに連れていってください」とお願いしなくては・・・・。
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2008-12-11 プリンターの寿命。
_ 数カ月前,「ボッ」という大きな音を立ててテレビの画面が消えてしまった。ちょうど10年ほどが経過していた。こんどはプリンターが「カタカタ」という音とともに印字がうまくできなくなってしまった。テレビと同じころ買ったので,やはり10年ほど経っている。
近くの電気屋さんに相談してみると,10年はよくもった方だという。使い方が上手だ,と褒められてしまった。仕方がないので,新しいプリンターを購入。これが思ったよりも安かったので驚いた。日進月歩といわれる家電製品の技術革新と大量生産のお蔭だという。
テレビはなくても仕事に支障はきたさないが(それどころか,テレビを見なくなってから時間がたっぷりでき,仕事がとてもよく進む),プリンターはいまやなくてはならない必需品だ。午後2時ころ買って帰り,早速,セットアップにとりかかる。10年前はもっとかんたんにセットアップできたと思ったのに,今回はなかなか手間がかかる。何回かに分けてダウンロードをし,再起動を繰り返しする時間も結構かかり,なんとか使えるようになったときには日が暮れていた。
パソコンのメカに弱いわたしとしてはよくできたと褒めてやりたい。もちろん,マニュアルがあって,その指示どおりにことを運ぶだけのことなのだが,そこに書いてある日本語の説明が理解できないのだ。何回も繰り返し読んで,その前後との関係から類推しながら,おっかなびっくりでクリックする。やり終えてしまえばかんたんなことなのだが,なにせ,慣れないことをやるのは疲れる。
さて,遅くなってしまったが,これからクリスマス・カードの挨拶文の印刷からはじまって,年末年始はいろいろと活躍する場がたくさんある。ついでに名刺もつくってみようかと思う。いろいろ楽しめた方がいい。カラー写真もプリントできるとある。こちらのマニュアルを読んで実行するには,よほどの時間がかかりそうなので,当分の間はできそうもない。でも,なんとか時間をみつけてチャレンジはしてみたい。
これは正月の楽しみに残しておこう。
さて,気分も一新して,仕事にとりかかるとしよう。
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2008-12-12 北京オリンピックを「批評」するとは。
_ 時間の過ぎるのが早すぎる。「ISC・21」東京例会まであと一週間になった。ここでの話題提供のことが少しずつ気になりはじめている。もう,タイトルも公表してしまっているので,いまさらあとには引けない。
「北京オリンピック」をどう受け止めたのか−−みずからへの問い,が自分で決めたテーマである。ここには明らかに「オリンピック批評」を試みようという企みがある。以前から,わたしの頭のなかは,多木浩二の『スポーツを考える』と蓮実重彦の『スポーツ批評宣言』が,なんともいいようのないスレ違いにも似たひっかかりがあって,これをなんとか克服したいと考えていた。そして,その手がかりとして,わたしにとっては有効だったのが,ジャック・デリダの『法の力』とヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』であった。これで,かなりの「批評」のスタンスが明確になってきた,と考えていた。もちろん,ここに至りつくまでには,ジョルジュ・バタイユやレヴィナスやジャン=リュック・ナンシーやピエール・ルジャンドルなどのフランス現代思想の洗礼がある。しかも,そこから派生して,ニーチェの思想は不可欠となったし,木田元さんのお蔭でハイデガーの思想をどのように通過するかということが,21世紀を展望する上できわめて重要であることも知った。こうして,いくらか「批評」なるもの(たとえば,「スポーツ批評」「オリンピック批評」「テニス批評」など)を展開することも可能になってきたかな,と考えはじめていた矢先に,最近になってとんでもない3冊の本に遭遇してしまった。
その一冊は,堀田善衛の『上海にて』(集英社文庫)であり,二冊目は,小森陽一の『村上春樹論』であり,その仕上げをしてくれた三冊目が今福龍太の『ブラジルのホモ・ルーデンス』サッカー批評原論である。これらの一つひとつについては,いま,ここでは論じない。が,「批評」というものの成立根拠というものを,いまのわたしに如実に示してくれたことが,なにものにも代えがたいありがたさである。ちょうど,タイミングがよかったということだ。スポーツ体験でいえば,レディネスがととのっていた,ということだろう。やはり,「出会い」というものは大事である。
こういう人たちの論考をヒントにして,さて,わたし流の「オリンピック批評」を展開してみようではないか,というのが20日の研究会の企みである。おやおや,なんだか,当日,お話すべき「手の内」をいまからさらけ出してしまっている。といいつつ,じつは,こんどのプレゼンテーションをどこからはじめて,どのように展開しようか,その戦略を模索しているにすぎないのだが・・・。
少なくとも,テレビやその他のメディアをとおして浮かび上がってきた「北京オリンピック」とはいささか距離をおきながら,もっともっと普遍につながる問題とクロスさせつつ,みずからの「オリンピック批評」の方法を探ってみたい,というのが本音である。まあ,これまでのわたしとは一味違った「批評」の,新しい地平を切り開いてみたい,と強く願望していることだけはたしかだ。
ただし,問題は,どこまでそれが実現できるか,やってみなけりゃわからない。だから,面白い。自分の未知なるものとの遭遇がどこまで可能なのか,どこまでみずからを開いていくことができるのか,しかも,公衆の面前で。プレゼンテーションの醍醐味はそこにつきるだろう。つまり,多くの他者の力を借りて,すなわち,「場」の力を借りて,みずからを劈り開いてみよう,と。
なんだか,70歳にして「振り出し」に戻ったような気分である。初心忘るべからず,と世阿弥も教えている。まあ,虚心坦懐の心境で臨むことにしよう。いやはや楽しみではある。未知なる自分への挑戦。
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2008-12-13 堀田善衛著『上海にて』の衝撃。
_ 以前のブログで,堀田善衛の『上海にて』を読む,を書いた記憶がある。しかし,もう,忘れてしまっている。最近になって,また,拾い読みをはじめている。20日の研究会に備えて。
「北京オリンピック」とはなにであったのか−−みずからへの問い,というテーマがここにきて渦を巻きはじめている。なにを,どこから語ろうか,と考えれば考えるほど渦が大きくなってくる。そして,「なにげ」に手が伸びていくさきが,この『上海にて』という本である。なぜだろうか,とみずからに問うてみる。
「9・11」のときもそうだったが,メディアは,そして,わたしたちの思考回路も,みんな「事件」が起きたその日からのことに意識が吸いよせられていく。そして,なぜ,「9・11」のような「事件」をひき起こさせることになったのかという原因・力学を問おうとはしない。そして,すべての理論武装は「9・11」以後の趨勢をみはからいながら構築していく。その結果として,まことに短絡的な「アメリカの正義」が成立してしまう。これは根本的に間違っている,とわたしは思う。
「北京オリンピック」も同じだ。いま,現在,起こっていることからすべてが始まる,とでもいうかのようにメディアの情報は氾濫する。そして,「聖火リレー」についても,チベット問題をめぐって論議がたたかわされるにもかかわらず,そこに横たわる本質的な問題については,決して深入りしない。とくに,今回の「北京オリンピック」をめぐってはそうだった。つまり,メディアも日本政府も中国政府に対して腰が引けてしまっているのである。このことについては,日本側が中国政府に対して「遠慮」していた,という事実がのちに明らかにされている。
こんなことでは「批評」は成立しない。もっと言ってしまえば,「批評」を抑圧するような力学が働いていた,と言ってよい。だから,どうでもいい「評論」ばかりがのうのうと氾濫したのだ,といいたい。
では,「北京オリンピック」を「批評」するにはどうすればいいのか。その一つが,堀田善衛の『上海にて』の「批評精神」だ。そして,そこからの「視点」が不可欠である,とわたしは考える。なぜなら,いまの中国が誕生する真っ只中に身をおいて,時々刻々と激変する中国を目の当たりにする体験をした堀田善衛の「視点」を欠くことはできないからだ。
堀田善衛は,1945年3月24日から1946年12月28日までの,1年9カ月を上海で,まことに希有な体験をしている。「3月10日の東京大空襲」を見届けるようにして,3月24日には日本軍の特務機関の要員として上海にわたる。要するに「スパイ」だ。しかし,戦局はますます悪化し,8月15日には日本はギブアップしてしまう。そのあとは,こんどは中華民国の政府(蒋介石)に雇われ,やはり,特務機関の要員として働く。しかし,この中華民国政府も落ち目にあって,中国共産党に圧倒されていく。そこに,国際連盟の義勇軍が入りこみ,アメリカ軍もロシア軍も,さまざまな駆け引きを展開する。その裏事情を手にとるように承知しながら,堀田青年(当時,28歳)は特務機関の仕事をこなしていくことを要請される。そこで見聞きした,恐るべき体験は,堀田青年のその後の生涯を決することになった,とみずから語っている。
戦争という非常事態とはいえ,いや,非常事態だからこそ,人間の極限状態での本質が露呈してしまう。そこを,どのように通過しながら,中国共産党が力を獲得していくのか,そして,こんにちに至るのか,ということをわたしは重視したいのである。つまり,こんにちの中華人民共和国が,いかに長い歴史過程を経て,誕生したのか,それを支えた理念・思想はなにであったのか。それを毛沢東の「哲学」と呼んでもいいだろう。
言ってしまえば,ここから「北京オリンピック」を照射すること,それが可能であるかどうかはともかくとして(力不足は否めないが),とりあえずは「試みる」こと,それなしにはなにごとも始まらない。そのための,きわめて重要なヒントを,このテクストはわたしに提示してくれる。
再度,読み直して,20日に備えようという次第。
ああ,なんだか,とてもややこしい話になりそう・・・・。うまく話ができるだろうか。不安である。でも,前にでる,しかない。まるで,大きな試合を前にしたときのような緊張が襲う。久しぶりの感覚だ。こういう密度の濃い時間をもっともっと大切にすべきだった。あとの祭り。でも,気づいたときが吉日。
若山牧水の歌3首
いざ行かん 行きてまだ見ぬ山を見ん この寂しさに君は耐うるや
幾山川 超え去りゆかば 寂しさの 果てなん国ぞ 今日も旅ゆく
白鳥は 悲しからずや 空の青 海の青にも 染まず漂う
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2008-12-14 受賞・授賞ということについて。
_ 週刊読書人の最新号に「2008年賞と受賞者」が掲載されている。恒例の年末企画の一つではあるが,ことしはなぜか気になって隅々まで眺めてしまった。そして,この賞ははたしていかなる意味があるのだろうか,としみじみと考えてしまった。
一つには,ことしのスポーツ史学会の「学会賞」「奨励賞」についての,審査過程から授賞にいたるまでの,なんともはややりきれない思いがこころの底に残っていたからだろう。
もともと,スポーツ史学会が賞を出すことになったいきさつには,それなりの理由がある。会員の多くが所属するのは大学である。その大学も,「大学の自治」なる理想も遠いむかしの話となってしまい,いまでは地に堕ちたも同然である。なぜなら,やれ,自己評価だ,やれ,他者評価だと言って,大学のレベルはもとより個人の研究業績にまでいちいち「他者」なるものから干渉される時代である。それもきわめて形式的に。ならば・・・という次第で,会員が不利益を被ることを少しでも減らすことが先決と考えて「学会賞」と「奨励賞」を設けることにした。
ところが,ここ何年もにわたって,これらの賞がなかなか素直には授与できないでいる。それには,いろいろの理由がある。選考過程で議論をしているうちに,ますます,難しい話になっていってしまい,その結果,「該当者なし」という情けないところに落ち着いてしまう。また,それで仕方がない,というところで引き下がってしまうことにも問題がある。そして,もっとも問題なのは「多数決原理」という民主主義だ。学術のレベルを決めるのに民主主義はまったく似合わない。いや,あってはならない,とわたしは考えている。
誤解を恐れずに,もっと言ってしまえば,多くの論文のなかから,この論文がもっとも優れている,という判定をくだすこと自体に,すでにして問題がある。でも,ある程度までは,これはいい論文だね,という程度の了解をとりつけることは可能であろう。しかし,そのさきに行って,序列をつけるとなると,それはもう不可能としかいいようがない。たとえば,これはいい論文だね,と言われた論文が三つあったとしよう。そして,それらの論文が,たとえば,ガウルホーファーの研究と河童の研究とホメーロスの研究だったとしたら,だれが,どのようにして,それらの論文に序列をつけることができるというのだろうか。だから,そこからさきは「ガラガラポン」でいい,とわたしは考えている。
なぜなら,「ガラガラポン」だけが「正義」だから。それ以外の方法で序列をつけるとしたら,そこには必ず「計算・打算」がはたらくことになるから。「計算・打算」と言ってしまっては身も蓋もないが,アカデミズムの主流に乗るかどうか,というように考えれば話は簡単だ。歴史学でいえば,もはや「資料実証主義」一辺倒による研究の限界が叫ばれるようになってすでに久しい。にもかかわらず,そのことには「ほっかむり」をして知らぬふりをしている研究者が圧倒的多数を占めているのが実情だ。それは,ことしの学会発表を聞いていても,そして,フロアからの質問を聞いていても,まったく変わらない。こういう土壌のなかでの「学会賞」「奨励賞」の選定がいかにむつかしいものであるか,ということは手にとるように理解できる。しかも,その根拠たるや・・・。
いささか前置きが長すぎた。言いたかったことは,週刊読書人の「2008年賞と受賞者」の内容である。
たとえば,「文部科学大臣賞」では,演劇:三谷幸喜,映画:周防正行,文学:島田雅彦,大衆芸能:立川志の輔,細野晴臣,評論:赤坂憲雄・・・という調子である。なぜ,いま,この人たちなのか,わたしにはまったく理解不能である。もっともっと文部科学大臣が表彰しなければならない人はほかにいっぱいいるではないか。にもかかわらず,こういう結果になってしまうのが現実なのだ。ここにはたらく力学について書くつもりであったが,もう,書く気力がつきてしまった。
ほんとうは,ここからはじめて,「文学賞」の中味に入っていくつもりであった。芥川賞:川上未映子,よしよし。親鸞賞:立松和平『道元禅師』,なかなかよろし。ゆきのまち幻想文学賞:前川亜希子『河童と見た空』,ますますよろし。読売文学賞:川村湊『牛頭天王と蘇民将来伝説』,ますますもってよろし。という具合で,どうやら文学賞の方が面白い。
それにしても,これらの賞もまた,日本の良識と称する圧倒的多数の「計算・打算」で生きている人たちの意志を反映したものにすぎない,ということは「見え見え」である。でも,これらの賞をもらうことによって一喜一憂している人たちがいて,それによってまた新しい歴史が刻まれていることも,厳然たる事実なのだ。
こんな絶望的な気分をなんとか文章にしたかったが,やはり,それは失敗だったようだ。もっと,力をつけて,きちんと書けるようにならなくてはいけない。またまた,反省。
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2008-12-15 不可解で了解不能な存在
_ 世の中には,いくら話をしても話の通じない人たちがいる。こちらの話を受け付けてはくれないのである。自分のなかに持ち合わせている「物差し」でしかものごとを見ようとはしないし,人の話も聞こうとはしない。もっとも,人間は基本的にはそういう動物であるということは了解しているが,少なくとも,他者の話に耳を傾けて,そこからものごとを慎重に判断するくらいの努力はするのが普通だと思っている。しかし,そうではない人がいる。困ったものだ。
日本人同士ですらそういう人がいるのだから,外国人になれば,ますますその傾向は強くなってくる。つまり,持ち合わせている「物差し」がまったく違うのだから仕方がない。それでも,ある程度まではお互いに理解し合えるものだ。だから,なんとか喧嘩もしないで,お互いに生活をエンジョイすることができる。しかし,肝心なことになるとテコでも動かない,という外国人は多い。言ってしまえば,文化の違いであり,慣習行動の違いであり,宗教・信仰の違いであり,思想・信条の違いが,日本人同士よりも多いのは当然のことだ。
今日も,日本に10年以上暮らしているという中国の人と話をしていて,なんの違和感もなく楽しく話ができていたのに,話がダライ・ラマに及んだ瞬間から,人が違ったかと思うほどの豹変ぶりに出くわして,びっくり仰天してしまった。この人に言わせると「ダライ・ラマは悪魔だ」と。「多くのチベット人民をたぶらかして,誤った方向に導いている」「あれでは永遠に貧困から脱出することはできない」「チベット人が住んでいる地区はすべて自治区にしろと言っている。そんなことは断じて許せない」と言って一歩も譲らない。
でも,ダライ・ラマはノーベル平和賞をもらった人ですよ,とわたし。「ヨーロッパ人にだけいい顔をしている二重人格者だ」とかれ。では,どうしてチベットでは暴動が起こるのか,とわたし。ダライ・ラマが煽動するからだ,とかれ。こんなイタチゴッコのような会話をしばらく続けたけれども,一向にらちがあかない。わたしが匙を投げ出したところで,かれは,さらに,つぎのように雄弁に語りつづけたのである。
わたしは,ずっとむかしにラサに行ったことがある。そのときのラサの人たちの生活はまことに貧しくて,着るものもボロボロだった。ご飯もまともには食べられなかった。しかし,それから10年後にラサに行ったら,町並みはきれいになっているし,歩いている人たちの服装もみんなよくなっていた。生活も安定していて,みんな幸福そうだった。これらは,みんな中国政府が経済的な援助をしているからだ。大学受験に際しても,合格点を低く設定して,入りやすく配慮している。なのに,なにが不服なのか。みんな,ダライ・ラマにだまされているからだ。悪いのはダライ・ラマただ一人。この人がいなくなれば,チベットの人はみんな幸せになる・・・,という調子で延々としゃべりつづける。
もういい,この話はやめよう,とわたし。でも,ひとことだけ,とわたし。日本も,つい,この間まではご飯が食べられなかった人がたくさんいたんですよ。「おしん」というドラマを知っているでしょ。日本人の圧倒的多数は貧乏だったんですよ。いまのような,こんな暮らしができるようになったのは,つい最近のことなんですよ。わたしだって敗戦直後には,食べるものにも着るものにも苦しんだんですよ。日本人の暮らしが少しずつよくなってきたのは1950年代に入ってからで,これは,ちょうど中国でいえば,中国共産党が中華人民共和国を立ち上げたときとほとんど同じですよ。それまでの,中華民国の時代の農村の人たちは,食べるものも着るものもなくて苦しんでいたんですよ。そのことを考えたら,チベットの人たちだけが貧しい生活をしていたわけではないんですよ。
とまあ,こんな風に一生懸命に話してみたが,途中から話は半分しか聞いてはいない。そして,そんな話は聞いたことがない。ほんとうの話だとは思えない。あなたは作り話をしているのでしょう。あるいは,だれかから間違った話を聞いたのでしょう。それをわたしに話しているのでしょう。わたしは自分でみてきたことを話しているんです,と。
なんともはや,侘しい思いをして,この話を打ち切りにした。正直に書いておけば,じつは,このかれとは,すでに何回も同じ話を繰り返しているのである。そして,いつも同じところで終わってしまう。また,いつか,同じことを繰り返すことになるだろう・・・といまも思っている。
同時に,堀田善衛の『上海にて』のなかにある,「了解不可能なこと」が中国ではじつに多いし,中国人そのものが「了解不可能なもの」の一つだ,というくだりを思い出していた。そういえば,この『上海にて』のなかには,そういう話が満載である。日本人の作家には「自殺」する人が多いが,中国人の作家には「自殺」する人はほとんどいない。その代わりに「虐殺」されるか,「暗殺」されるかして,他人によって「殺害」されることが多い。これもまた,堀田氏に言わせれば「了解不可能なこと」の一つだという。
こうした違いをどのように納得した上で,新たなコミュニケーションを築いていけばいいのか,まったく,気のとおくなるような気分に襲われている。しばらく,このことがわたしの頭から離れそうにない。とにかく,考えつづけるしかない,と覚悟を決める。が,いささか重いなぁ,と自分を慰める。
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2008-12-16 動物園のゾウさんの寿命の話。
_ 今日の朝日新聞の「天声人語」にゾウさんの寿命の話が書いてあった。これまた,わたしには衝撃だった。肝腎な部分だけ引用すると以下のようである。
動物園のゾウの寿命は,放し飼いの半分にも満たない。そんな研究結果が米科学誌に発表された。欧州で飼育された雌と,ケニアや東南アジアの保護区で放し飼いされた雌,約4500頭の記録を調べたところ,アフリカゾウは放し飼いの56年に対し17年,アジアゾウも42年に対し19年だった。
以上が新聞からの抜き書き。
「半分にも満たない」どころか,アフリカゾウは「三分の一にも満たない」。のに,このことを曖昧化させて書いている。だれに遠慮しているのだろう?とわたしは考えてしまう。最近の新聞は,こういう腰の引けた記事が多すぎる。どこかピンぼけなのである。それは,「北京オリンピック」がらみのチベットや少数民族の「暴動」(人権問題)に関する報道もそうであったし,食べ物に危険薬物が混入した事件についての報道もそうである(こちらは,のちに,政府も知っていたし,報道各社も知っていた。にもかかわらず,自主規制をした,ということがのちに明らかになっている)。もっと,ほんとうのことを知らせる努力をすべきだ。でないと,歴史はとんでもない方向に走り出す。人間というものは,とんでもないデマ情報に,いともかんたんに翻弄されてしまうものだ。わたしも長い間,生きてきて,何回もその被害にあっている。いや,いまも,つづいている。しかし,一切の釈明もしないことにしている。事実は,いずれ,明らかになる,と固く信じているから。
さて,ゾウさんの寿命の話に戻ろう。
この記事を読んで,まっさきに頭に浮かんだことは,「動物園」という文化的?な施設が存在することの理由である。以前から,「動物園」とはなんだろう,と考えていたからである。野生の動物をつかまえてきて,人間の鑑賞用に囲い込んで飼育する,という人間中心主義が顕著になってきたのは,やはり,「近代」という時代をとおしてだ。こんなことまでして,はたして,近代人はなにを得たというのだろうか。日曜日に家族づれで「動物園」にでかけて,珍しい動物を眺めながら弁当を食べ,家族の団欒を楽しむ。これらの動物をみてまわることによって子どもたちの感性はどのように育てられ(そこには,動物を人間の勝手にしてもいいのだ,という無意識も「育てられる」ことになる)るのだろうか。そして,いつのまにか「動物」の見方が歪められ,偏見をものともしない「大人」になっていく。こんにちの「ペット・ブーム」はそのなれのはて,としかいいようがない。
そのつぎに浮かんできたことは,ヒュー・ロフティングの名作「ドリトル先生」シリーズのなかにでてくる「動物園」の話である。ドリトル先生は野生の動物たちを檻のなかに閉じこめて飼育する「動物園」の在り方を痛烈に批判している。そして,その公立の「動物園」に対抗して,自分の屋敷のなかに私設の「動物園」をつくる。そこでは,檻の鍵は動物たちが自分で管理し,出入りは自由である。食事も自分たちで好きなときにとっている。そこでは,逆に,人間の方が,じつは,大きな囲いのなかに囲い込まれているのだ,という。しかも,ドリトル先生は「動物語」を話すことができるので,会話を楽しむこともできる。アフリカからやってきた動物たちには寒くないように,その設備も完備している,という。だから,わたしは動物たちを「正しく飼育している」のだ,と胸を張る描写がある。
これを読んだとき,わたしは憤懣やるかたない「怒り」を感じたものだ。断じて許せない,と。そこで,すぐに,「文学にみるスポーツ」という連載に取り上げ,わたしなりの方法で「批評」をしたつもりである。詳しくは,拙著『児童文学のなかにスポーツ文化を読む』(叢文社)をご覧いただきたい。
さらに,ドリトル先生は,南米諸国の旅にでて,そこで「闘牛」という見世物に出会う。そして,「闘牛」という野蛮なものは許すわけにはいかない,ただちに止めさせなくてはいけない,と義憤する。得意の動物語で闘牛用の牛たちと諮って「八百長」を演じて,「闘牛」という見世物を廃止させてしまう,という話がまるで「ヒーロー」として描かれている。これもまた,キリスト教文化の価値観が唯一絶対に正しい,すなわち,「正義」である,という前提で他の宗教や文化を暴力的につぶしにかかる,ブッシュ君(はやくも,「ブーツ」君というあだ名がついた)のいう「正義」と同じである。一方的な価値観の押しつけがどれほどの悲劇を生むか,いまの,アフガニスタンやイラクをみれば明らかだ。それと同じ構図のもとに中国の「チベット政策」も位置づく(昨日のブログ,参照)。
こういう「名作童話」をとおして,子どもたちの「感性」はどのように育てられていくのだろう,と考えると背筋が寒くなってくる。もちろん,このヒュー・ロフティングの「ドリトル先生シリーズ」は日本図書館協会選定図書であり,多くの学校図書館にも置いてある。しかも,だれも疑問には思っていないし,わたしのような「批評」をしたものを,管見ながらお目にかかったことがない(もし,あったら教えてほしい)。
この名作シリーズの翻訳をやったのが,これまた井伏鱒二で,太宰治の師匠である。だから,だれもこの「名作」のなかに込められている「落とし穴」に気づかないのだ。
ちなみに,「ドリトル」先生とは「Do little」先生のこと。音訳そのまま。しかし,これもまたよくよく考えてみれば,「ほとんどなにもしない」という「道教」的な色合いが含みもたれたネーミングである。だから,イギリスではオリエンタリズムの匂いがして,大いに受けたのかもしれない。このさきのことは,もう少し厳密に調べてからでないと,安易に書くわけにはいかない。しかし,きわめて重要な鍵が隠されていることは間違いない。だれか,やってみませんか。立派な論文が一本書けます。
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2008-12-18 教員採用試験の「不正」について
_ 16日の朝日の朝刊に,大分県の教員採用試験で,「不正」があったとして採用取り消しとなり,「臨時講師」として働いている青年(23歳)が,処分が不公平である,と訴えている記事が載っていた。
この記事を読むかぎり,本人の知らないところで行われた「不正」に,なにも知らないで先生になって喜んで働いていたら,突然,教育委員会から呼び出しがあって,「採用取り消し」を言い渡された,という。同じような先生が20人。全員が「不正」を知らないでいたかどうかはわからない。わたしの奈良県での経験では,ほとんどの受験生は知らない。やっているのは,親や親戚や政治家である。なのに,県教委の方は,教育長と数人の職員が減給と停職の処分があっただけだという。この処分は「不公平」ではないか,とこの「採用取り消し」をされた元先生は訴えている。
おなじ日の夕刊の「素粒子」につぎの4行ほどの文章を読んで,わたしの怒りは発火点に達した。
大分県教委幹部が甘い処分で/とどまっているのは不公平だっ/て。教育者らしい処し方お考え/なんだろう,と言いたいけど。
わたしが当事者だったら,ずいぶん昔のタケシのように,こうもり傘をもって朝日新聞社に乗り込んで,啖呵の一つくらい切って,脅していただろう。
この種の教員採用試験の「不正」に関する報道に接するたびに思ってきたことだが,このような「不正」をなにも知らないで先生になった人にはなんの罪もない,ということだ。なのに,いかなる理由で「採用取り消し」が成立するのか,わたしには理解不能である。
この問題の処し方はただ一つ。「不正」によって採用されなかった人を正式教員として採用すること。ただ,これだけである。「不正」に採用してしまったのは,教育委員会の側なのだから,全力をつくして身分を保証すべきだろう。こういう罪のない人をまるで「犯罪者」のように取り扱う新聞社に対して腹が立つ。
じつは,新聞社がこのように報道するには,それなりの裏がある,と思われて仕方がない。なぜなら,この教員採用試験をめぐる「不正」の根源を断ち切るためには,相当な犠牲者を覚悟しなければならないからだ。わたしの数少ない経験からも,某県教委の体質からして「不正」を生む構造は,おそろしく根深いものがある,と推測できるからである。少し極端なことを云えば,たとえば,大分県教委の「不正」を徹底的に洗い出していったら,おそらくは,総入れ換えをするしか方法はないだろうと思う。つまり,みんな知っていて眼をつむっているだけのことなのだから。こんなことは言いたくもないが,地方の議員さんたちは,採用試験の結果については,発表前にみんな知っている。しかも,その前の段階で相当の「取引」が行われている,とも聞く。そのためにはかなりの額の金が動く。もう,何十年という長きにわたって行われてきた一種の「慣習行動」にさえなっている。この根をほじることに「腰が引けている」のだ。
このブログにも書いたように,「北京オリンピック」当時の,チベットや少数民族の人たちの人権問題や食品の安全管理をめぐる問題について,政府も新聞社もわかっていて,「報道を差し控えた」とのちになって白状しているのである。だから,県教委のこの問題も,ほじればほじるほど新聞社は怖じ気づいているだろう,とわたしは推測する。それなりの見えない圧力が(いやいや,丸見えの圧力が),あちこちから掛かっているに違いないからだ。新聞記者もわが身がかわいいのはよくわかる。事実,朝日新聞社の支局が襲撃されて死者がでたこともあった。
だからといって,弱い者をいじめてどうするのか。
もう一度,16日の「素粒子」の文章を引いておく。
大分県教委幹部が甘い処分でとどまっているのは不公平だって。教育者らしい処し方お考えなんだろう,と言いたいけど。
これは,どうみても,文句を言っているお前はおかしい,としか読めない。いまの新聞記者もまた「勝ち組」だから,「負け組」のことなど眼中にない,ということなのだろうか。
そして,社会も裁判所も弁護士も動こうとはしない。
うすら寒い世の中になったものだ。
一度でもいいから考えてみてほしい。教員になりたくて一生懸命勉強して,採用試験を受けて合格し,晴れて教員となっている人が,その母体である県教委から「お前の点数は改竄されたものであったので,採用を取り消す」と言われたら,どうする? 身に覚えのない先生が「だれがそんなことをしたのだ」とその場で問いただしたら「ここは意見を聞く場ではない」と突っぱねられたと,新聞には書いてある。もう,この時点で,この先生は「犯罪者」の方にまわされてしまっている。ほんとうの「犯罪者」は「採用取り消し」を宣告している「お前」ではないか。
ああ,今夜は眠れそうにない。
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2008-12-19 オニノカクラン。
_ 昨日のブログを書いたあと,そのままベッドへ。ダウン。からだに力が入らない。こういうときは無理をしてはいけない。素直に横になるに限る。
こんなことも珍しい。以前,こんなことがあったかなぁ,と思い出そうとしても,ちょっと思い出せない。なんだろう,なにがあったんだろう,とベッドの中で考える。そのうちに熱がでてきた。ポッポコ,ポッポコしてきた。あっ,風邪を拾ったな,とピンとくる。それも大した熱ではない。からだがだるいというほどのものでもない。きわめて冷静に理詰めに考えている。それからしばらくしたら,下痢のはじまり。いやはや,断続的に何回,トイレに駆け込んだことか。からだのなかにはこんなにも沢山のものが入っていたのかと思うほどに,つぎからつぎへと便意が襲う。これも夕刻までにはほぼ収まり,あとはスヤスヤとよく眠れること。夜中に喉が乾いたので,葛根湯をつくって飲む。ついでに,ウコンを5粒ほど。真夜中に3回ほど,葛根湯を飲む。空腹を感じはじめたということはいい徴候。
朝も思いっきり朝寝坊をして起き出す。もう,完璧にすっきり。嘘みたい。でも,食欲はそれほどでもない。こんどは葛湯をつくって飲む。これで空腹がくるのを待つ。明日の発表用のレジュメをつくらなくてはならないので,それに取りかかる。さすがに,その頭にはなってくれない。でも,なんにもしないのもいけないので,なんとか,頭に浮かんでくることをメモする。午後3時ころに猛烈に空腹が襲ってくる。よし,しめたものだ。ここで,大好物の「ニューメン」をつくって食べる。これがなかなかの美味。味覚ももどっている。大丈夫だ,という確信が生まれる。
気がつけば,からだの芯に力がもどっている。姿勢もしゃんとしている。よし,これならば,というところで一気に明日のレジュメをパソコンに入力。あとは,ちょっと時間を置いて,最終チェックをすればよい。ここまでが終わったのが午後9時。さてはて,またしても急激な空腹。こんどは「玄米かゆ」をつくって食べる。味も少し強くして,塩分の補給をはかる。もう,余裕である。
これで体調も戻り,明日に備えるのみ。
それにしても,こんな経験は何年ぶりだろう。もう,遠い記憶のかなたにしかないことだ。もともと風邪を引かない体質らしく,滅多に風邪も引かない。もちろん,それなりに気をつけてはいるのだが・・・。
さあ,明日は気合いを入れて頑張るぞ,と自分に言い聞かせる。
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2008-12-21 東京月例会が無事に終わる。
_ 20日(土)は午後1時から5時間にわたる第25回「ISC・21」東京月例研究会が,青山学院大学で開催された。3人が発表。夜の懇親会には10人が参加。大いに盛り上がる。
青山学院大学の河本洋子先生のお世話で会場をお借りすることができ,とても助かった。第一に,なによりロケーションがいい。渋谷から歩いて5分。そして,環境がいい。教室の設備もいい。景色がきれい。もう,云うことなしだ。会場が6階だったこともあって,東京都心の景色が目の前に手にとるように広がっている。こうして眺めてみると,ふだん感じている東京よりもはるかに狭いなぁ,と思う。すぐそこに代々木体育館がみえ,そのすぐ向こうは神宮の森だ。そして,そこに隣接するように新宿のビル群がみえる。しばらくは,研究会どころではなく,景色ばかりに見とれていた。これは病み付きになりそう。これからおねだりをして,この会場は借りられたらなぁ,と夢見る。
大岡昇平の小説に『青山学院物語』というのがある。あまり知られていないかもしれないが,わたしは大岡昇平ファンだったことがあるので,こんな小説まで読んだことがある。大岡昇平は付属小学校からの生え抜きで,いうならば青山っ子で,大学だけは余所に行った。その大岡昇平が自分が通った時代の風物をふんだんに語っている。もう遠くなっている記憶を頼りに,思い出せる範囲で書いてみるとつぎのようだ。
渋谷から青山学院までは広々とひろがる原っぱだったという。そして,その原っぱのなかに牧場があり,学校の農場があり,電車の引き込み線があった,という。まことにのどかな風景がひろがっていた,というのである。いまの,この都会化した姿からは想像もできない。その証拠のひとつは,青山学院の裏の方の國學院大学との境目あたりのところに,むかしここに牧場があったという「碑文」が立っている。近道をしようとして道に迷い,あちこち歩きまわった,これはその成果だ。
その牧場の近くには,比較的大きな家が一軒あって,それは,いまの中村屋(新宿)の初代が新婚だったころに住んでいて,のちに,夫人だけがひとりで住んだところだ(夫は安曇野に住む)。そして,詳しいことは省くが,若い文人や詩人や画家・彫刻家といったアーティストの卵たちが集まり,寄宿していたという。とりわけ,安曇野出身の関係者が寄り集まっていたらしい。このころの様子は,臼井吉見の『安曇野』という小説に詳しい。
この牧場は,もうちょっとで,日本で最初の競馬場になるところだった,という話もある。この話はつぶれて,結局は,北海道に作られることになった。作者は忘れてしまったが『日本で最初に競馬場を作った男』というノン・フィクションのなかにその話がでてくる。
こうして考えると青山学院というところはなかなか馴染みやすいところになる。わたしの個人的な思い出を語れば,大学を卒業してから間借りをしていた大家さんが青山学院の中等部の先生で,この人にはずいぶんとお世話になった。金がなくて苦労していると,家庭教師の口を紹介してくれた。それも大金持ちのお坊ちゃんで,日曜日に逗子まで通った。いまでは信じられないような待遇だった。手当てのほかに,夏にはお中元と称して夏用の上下のスーツをプレゼントしてくれたし,冬にはお歳暮と称して冬用のやはりスーツをくれた。たぶん,わたしがよほど貧しい恰好をしていたのだ。そんな見すぼらしい学生さんに出入りしてほしくなかったのだろう。いま,思うと冷や汗ものである。逗子の大きなお屋敷だった。中庭で野球をして遊ぶことができたほどだ。
とまあ,初めて開催した青山学院大学での「ISC・21」東京月例会のご縁で,さまざまなことを思い出した。懐かしい思い出ばかりだ。こんど,ここで開催されることがあったら,キャンパス内をじっくりと見学させてもらおうと思う。だれか一緒にお付き合いしてくれませんか。そのときには,大岡昇平の『青山学院物語』を片手にもって。なぜなら,そのなかに,大岡氏の手書きになる地図が載っていたはずだから・・・・。
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2008-12-22 「ズル・パン」ルック雑感
_ 「ズル・パン」ルック,などということばがあるかどうかは知らない。いま,わたしがネーミングしただけの話。ひょっとしたら,正しい名前があるのかもしれない。あったら,どなたか教えてほしい。つまりは,若い男性がズボンを思いっきり下げて,パンツの色まで確認できる,そういうファッション?のこと。
ひところ,高校生,中学生の男の子が,制服のズボンを思いっきり下げて,ズボンの裾を引きずるようにして歩いている姿を多くみかけたものだ。いまも,若干,残ってはいるが,ずいぶんと減ってきた。その余波というべきか,大学生にも流行しはじめて,やれやれと思っていたら,どっこい,大学院生にまで波及してきた。えっ,と思っていたら,こんどは,わたしの直々の院生君がズボンを下げたまま,わたしの前に現れた。
日頃は,きわめてまじめな青年である。ふつう以上にまじめである。しかも,敬虔な信仰までもっていて,それはそれは礼儀正しい男が・・・である。わたしは,黙って,そのズボンを引きずり下ろしてやった。あわてて彼は逃げ出した。これで懲りるだろうと思っていたら,翌日も同じ恰好をして現れた。こんどは,わたしが近づいたら彼の方が逃げ出した。こんなことを繰り返しても,彼は止めようとはしなかった。だから,わたしの方が諦めた。というか,大いに失望した。
こんな経験があったものだから,最近の高校生の傾向はずいぶんと改善されたなぁ,と思っていた。ところが,である。今日,溝ノ口の駅前で,とんでもない男の集団に出会ってしまったのである。7〜8人の,20歳前後の男性が立ち話をしていた。そのうちの3人は「ズル・パン」の最新型であった。他のメンバーもその程度には差があるものの,みんな少しずつ下がっている。しかし,その「最新型」は,中のパンツ(要するにさるまた)が丸見えで,しかも,なかには太股の生肌まで,ちらちらみえている。一瞬,「ナヌッ」と思った。でも,まわりの通行人はみてみぬふりをして通りすぎていく。
わたしがその横を通りすぎた直後に,その中のひとりが突然,駆けだしてわたしを追い越して,わたしの前を行く。その駆け方は,テレビでお馴染みのチンパンジーの「パン君」とそっくり。ズボンが下がりすぎていて歩幅が小さいのである。だから,ちょっとだけ横向きに両足でジャンプ気味に走ろうとしている。しかし,スピードは一向に上がらない。ほとんど,わたしの視線の真ん前で,パンツ丸見えの男が躍動しているだけ。
しかし,こういうのは「猥褻物陳列罪」で捕まらないのだろうか,と不思議である。もっとも,女性たちは,いまや堂々と「おへそ」をだして闊歩する時代である。電車の座席に座っているわたしの真ん前に「ヘソダシ」ルックで立たれると,どうあがいてみても,わたしの視線の真ん前に「オヘソ」が鎮座ましましているのである。目のやり場に困る。これですら「猥褻物陳列罪」にはならないようなので,今夜,お目にかかった男性の超「ズル・パン」ルックも無罪なのであろう。
おかしな時代がやってきたものだ。もう,こうなると珍ファッションの世界も「なんでもあり」という時代に突入するのであろうか。でも,男性のパンツと太股が丸見えというファッションだけは御免蒙る。
今日は傘をもっていたので,よほどのこと,傘で丸見えのお尻を突ついてやろうかという衝動にかられた。が,かろうじて抑えた。むかしのような腕力はもうない,と自分に言い聞かせて。
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2008-12-23 『覚悟のすすめ』を読む
_ このところ集中的に根をつめた仕事をしていたので,たまにはご褒美に,金本知憲著『覚悟のすすめ』,角川oneテーマ21,を読む。ご存じ,アニキの初めての書き下ろし。
だいたいがこの手の本には手を出さないことにしているのであるが,金本だけは例外である。かれの野球に取り組む姿勢をみていると,その裏に相当の哲学があることは容易に推測できる。ダメトラを蘇らせたその力たるや,たいしたものである。
帯には仰々しく,以下のようにある。
覚悟を決めて我が道を突き進む
大切なのは「どうにもならない状況に陥ったとき,どうするか」だ。私は四番を打っていて,チームの中心としての役割を期待されている。だから,ほかの選手が失敗しようが,ケガ人が何人出ようが,どれだけチームの調子が落ちようが,その穴はすべて自分が埋める覚悟を持っている。そうすれば,いかなる状況に直面しようとも,あわてふためくことはない。
という調子である。東北福祉大から広島カープにドラフト4位で入団。どうみても一流の評価ではない。二流どころか三流,四流という評価で入団した。だから,当初からだれも注目などしていない。その彼がレギュラーを獲得するまでの創意工夫とだれにも負けない密度の濃い練習の積み重ねは,やはり,並の男ではないことを証明してくれる。
それでいて,けして威張ることはない。つねに,黙々と行動で示すのみ。みずからの実績で人を説得する。ことばではなく,野球そのもの,プレイそのものをとおして。みずからの野球人としてのレベルを高めるための創意工夫は,どの世界にも通用するものだ。どの世界にいても,やはり一流は違う。そうなるだけの理由がある。人は一流の輝かしい表面しかみようとしないが,それでは一流のほんとうの意味はわからない。一流に押し上げるだけの,独自の創意工夫があることを,まずは知るべきであろう。
イチロウ君にしてもそうだ。日々,昨日よりは今日,今日よりは明日,という具合にほんの少しずつにしろ「進化」するための創意工夫がつねに張りめぐらされている。そしてまた,それを楽しんでさえいる。つまり,みずからが創案者であり,命令者であり,受容者であり,実践者である,という四つの役割を一人でこなしているのだ。そのうちの,どれもこれもみんな自分なのだ。
差異のある日々の積み重ね,これこそが一流への道程だ。
爪の垢でも煎じて飲むことにしよう。
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2008-12-26 李老師の話。
_ 太極拳の李老師がとても興味ぶかい話をしてくれました。滅多にこういう話はしてくれないのですが,どうやら,久しぶりに気持ちがなごんでいたからなのかもしれません。
それは,体重と太極拳をするときの心地よさの関係についてです。李老師は「心地よい」とか「気持ちいい」という表現をしますが,たぶん,その感じ方は「陶酔」であり,「恍惚」(エクスターズ)でもあるのだろうなぁ,とわたしは想像しています。
李老師のおっしゃるには,やはり,太りすぎては駄目で,自分のベストの体重というものがある,と。自分の体重の重さを忘れてしまえるくらいの重さが一番いいという。あまりに軽すぎても駄目なのだそうです。適度に重くて,しかも,その重さが気にならない程度がいい,と。それは,ちょうど,李老師のこの半年間の間に起きたことと体重の変化と話が合っています。というのは,夏休み直前くらいまで,いつのまにやらとても肉付きがよくなっていて,ときおり「太ったんじゃないの」と言って冷やかしていたほどでした。ご本人も「そう,太ってしまった」と笑っていました。が,夏休みに入ってしばらく太極拳の稽古をお休みにし,北京オリンピックで帰国されたりして,ほぼ,一カ月ぶりに稽古を再開したときには,すっきりとした体型にもどっていました。いや,以前よりもっと絞った体型になっていました。「少し痩せすぎではないですか」と聞いてみたら,このくらいがちょうどいい,と言って,その理由を説明してくれたのです。
ここまでからだを絞ったら,これまで感じたことのない快感がえられた,と言っていろいろと話をしてくれました。たとえば,太極拳をやっていてうまく集中したときには,肩と腕がなくなってしまったような感覚になる,と。そして,手の平だけが鉛のように重くかんずるのだそうです。手の平に重いボールが張りついたようになって,それをかなり力を入れて前に押したり,上に挙げたりしなくてはならない,とおっしゃる。でも,腕にはほとんどなんの感覚もなく,その存在すら感じられない,という。だから,腕を使うことはできないので,からだ全体で,まずは足の裏から力を持ち上げてきて脚筋力で腰を回し,その力を上半身に伝えていくことに専念する。そうすると,おもむろに手の平が押し出されたり,押し上げられたりすることにつながっていく,と。このとき,からだは,もはや自分のものではない,なにか,まったく別の力によって動かされている,と感ずるのだそうです。その境地に入ってしまうと,もう,快感そのもので,いつまでもこの状態でいたいとからだが主張するそうです。
この話をされるときの老師の顔はもう子どものような笑顔で,満面に喜びが溢れています。嬉々として話をされるものですから,聞いているわたしたちの方も思わず引き込まれてしまいます。しかも,李老師にして,初めての経験が最近になって起きている,というのですから。
李老師の太極拳はまだまだその高みに昇りつづけているようです。そして,むかしの名人と言われた人たちの書いた本が面白くて仕方がない,とも。なぜなら,これまで読んでもわからなかったことが,最近は手にとるように理解できるのだ,と。これは思想でも哲学でもなくて,からだの智慧だとおっしゃる。からだをとおして共通体験をした者だけが分かち合える,ある種の「境地」のようなものなのでしょう。それは,瞑想をとおして到達する境地とも似ているのだろうなぁ,と想像するのみです。
それにしても,われらの老師はすごい境地に達していて,いまも,日々,発見の毎日だというのですから,これはたまらないだろうなぁ,とこれも推測するのみ。だから,李老師は生涯,太極拳の道をきわめていきたい,とつねづねおっしゃる。しかし,北京に帰るとそうはいかなくなってしまう。それが残念で仕方がない・・・・と。
ならば,帰国しないで,ずっと日本にいたらどうですか・・・と悪の誘いをはじめる。すると,ときおり,グラリと気持ちがゆらいでいるのがわかるときがある。それほどに,日本でのかれのいまの時間は密度の濃い,充実した内容になっているということなのだろう。
名人の話はときおり理解不能なときもあるが,それでも雰囲気で理解できてしまうことがある。不思議なものである。ことばの表現を超えて伝えられる雰囲気というもののもつ情報伝達のすごさ,というべきか。
さあ,不肖の弟子とはいえ,日々,新たになにかを見つけることを目標に,ゆっくりでいい,これからも稽古に励むことにしよう。なんでもいい,昨日とは違う自分になれることだけで嬉しいのだから。その積み重ね,それが生きるということなのだから。
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2008-12-27 「高気圧カプセル」がドーピングだって?
_ 最近は妙なスポーツ用器具が開発されていて,名前を聞いただけではその使用法がわからないものがある。そのなかではこの「高気圧カプセル」はわかりやすい。
「高気圧カプセル」という名前を聞いて思い出すのは,そう,あの「ハンカチ王子」さまが甲子園の決勝戦で決着がつかず,翌日に持ち越したときに,これを用いて疲労を回復した,というニュース。あのときは,そんなものを使って疲労が回復するものなのだろうか,とわたしの頭では理解不能であった。しかし,その後,サッカーの「ベッカム」さまがこの器具を好んで用いるとかで,「ベッカム・カプセル」という名前で親しまれるようになった。いまでは,かなりの普及をしているらしい。
しかし,ここでまたまた妙な問題が持ち上がっている,という。今日の朝日の「スポーツ短信」というコラムにつぎのような記事が載っていた。それによると以下のようである。
日本アンチ・ドーピング機構(JADA)が,「高圧酸素カプセルの使用は控えるべきだ」という見解を示したために,「高気圧カプセル」が売れなくなったとしてアメリカのメーカーがJADAに対して約10億円の賠償を求める民事訴訟を起こす,というのである。JADAは,ことしの6月に,世界アンチ・ドーピング機構(WADA)が「酸素摂取や酸素運搬,供給を人為的に促進すること」を禁止しているので,それに同調してさきのように「高圧酸素カプセル」の使用は控えるべきだ,という見解を表明していた。アメリカのメーカーは「JADAの見解で,気圧を高めるものもドーピングにあたると受け止められた」という。
まあ,こういう記事を読むと,相変わらず馬鹿げた論争をしているものだ,とあきれかえってしまう。最近,たまたま「世界アンチ・ドーピング規程」なるものの詳細を確認する必要があって,全文を読んだことがある。これがまた,とてつもなく長いのに,まずはあきれかえってしまった。この「規程」を選手はもちろんのこと,指導する監督・コーチも,たぶん,精確には知らないだろうと思う。このことも,最近,ある大学の監督・コーチの集まりの席で確認してみたら,はっきりと「知らない」という。では,どうするのか,と聞いてみたら,そのつど「ドーピング規程」に詳しいスポーツ・ドクターに相談することにしている,という。つまり,とても全部を頭に入れることはできないのである。もっと言ってしまえば,かなりの法律文の読解能力がないかぎり理解不能な文章になっている。わたしも何カ所か,繰り返して読み直してみたが,どのように理解したらいいのか不明なところがあった。この問題が一つ。
この「ドーピング規程」を読んだ全体的な印象では,「人為的」になにかをすることを禁止しているなぁ,というものである。その精神をしっかりと受け止めれば「酸素」を摂取することも「高圧」を加えることも「人為的」に行うことにおいて変わりはない。なのに,アメリカのメーカーは「酸素」を人為的に摂取することは「ドーピング違反」に相当するが,「高圧」を加えることは違反ではない,という見解に立っていることがわかる。こういうことが不可解なのだ。文言に一つひとつ書いてないものは「違反ではない」というのがアメリカ的合理主義者の主張である。法律の裏をかいて金儲けをしようという魂胆がまるみえだというのに。こういうアメリカ的発想が,もうひとつの問題。
もっと初歩的な問題がある。それは,こういう高価な器具を自由に使えるのは,サッカーのプロでも「ベッカム」さまクラスでないと使えない。ましてや,高校野球の選手たちが用いることができるのは,相当の金持ちの野球部でなくては不可能だ。なのに,高野連は無視している。これはほんの氷山の一角にすぎない。もっと視野を広げていけば,不平等があちこちに散見できる。まとめてしまえば,金持ちが断然有利,ということが野放しになっているのである。この不平等こそが問題である。これが三つめの問題。
このようにして「ドーピング問題」を考えることは,なんのことはない,現代社会の縮図をそこにみることと同じところにゆきつく。もっと言ってしまえば,「ドーピング問題」を考えることは「世界」を考えることだ,と。ここまでくると,今福さんが『ブラジルのホモ・ルーデンス』の冒頭に書き記した「サッカーを考えることは世界を考えることだ」という名言につながっていく。そして,このような思考の展開の仕方,あるいは,問題の問い詰め方こそが「批評」という名に値するものなのだ。
ちょっと考えれば,だれにでもわかる理屈なのに,それこそ「猿にもわかる」矛盾なのに,それにフタをして「知らぬ勘兵衛」を決め込むのが,いわゆる「勝ち組」の論理なのだ。そして,そここそが「テロ」を生み出す温床になっている,というのに。この「根」を絶つことなしに,現代世界の問題解決はありえない。
ああ,困ったものだ。
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2008-12-28 三井記念美術館の能面展
_ 来年の2月9日に初日を迎える,柏木裕美さんからの「能面展」の案内状が届いてから,なぜか居心地が悪い。なぜなら,なんだかあまりしっかりした考えもなく,いつのまにかこの「能面展」でトークショウをやることになっているからだ。
いつだったか,太極拳の稽古のあとの昼食のときに,柏木さんから,いともさらりと「トークショウをやりたいのでお願いしますね」と言われ,ああ,そうなんだ,と他人事のように聞いていたことを思い出す。しかし,よく考えてみれば,これは大変なことを引き受けてしまった,といまごろになって臍をかんでいる。そして,いつのまにかプレッシャーとなっていて,無意識のうちに「現代の能面」というテーマを脳裏に思い浮かべるようになっている。このテーマも柏木さんが決めたものだ。この案内状をみて,初めてテーマは「現代の能面」なのだ,と自分に言い聞かせる。
引き受けた以上は,いまさら,逃げるわけにもいかない。それとなく「覚悟」を決めなくては仕方がない。
そんなことを思っていたら,週刊読書人の1月9日号に,全面にわたって能面の記事が掲載されているのが眼に入る。紙面には,つぎのような文字が大きく躍っている。
「寿ぎと幽玄の美」重要文化財の能面五十四面を一挙公開。三井記念美術館で1月24日まで,と。
思わず引き寄せられるようにして記事を読みはじめる。「三井記念美術館で所蔵する室町〜江戸時代の『旧金剛宗家伝来能面』五十四面が平成二十年度に一括して重要文化財に指定されました。それを記念した展覧会を開催しています」とある。そして,五つの能面が写真で紹介されている。「孫次郎」(オモカゲ・伝孫次郎作),大飛出(伝赤鶴作),般若(伝龍右衛門作),翁(白色尉・伝春日作),不動,の5面。
こうして五十四面が一挙に展示されるのは本邦初のことだそうだ。となれば,なにがなんでも見ておかなくてはならない。しかし,これは素人判断なのだが,ここに紹介されている五つの面は,わたしの眼にはそれほど(つまり,重要文化財に相当するという意味で),いいものだとも見えない。もっとも,能面は写真にしてしまうとイメージが静止してしまうので,実物はもっと変化に富んだ表情をしているのだとは思うのだが・・・・。なぜか,平凡な作にみえてしまう。このことは,実際にみるまではなんとも言いようがないが・・・。
記事の内容は,三井記念美術館学芸課長清水実さんに,読書人の記者・松井文恵さんが問いかけ,その応答で構成されている。しかし,このやりとりがなんとも歯がゆいのである。どうしてもっと適切な応答ができないものか,と。記事になる文章に,なぜ,もっと手を加えて内容のあるものにしないのか,と。はっきり言って稚拙なのである。たとえば,以下のような調子である。
──ひとつの面でいろんな表情を見せるのでしょうか。
清水 能面によってはそういうものもありますが,全体的に同じに見える面もあります。たとえば「大飛出」のような鬼神面です。鬼は大暴れに暴れて舞台で派手に動きますからね。でもよく造形化されています。
こんな記事を読むと「なにを言ってんだか・・・」とため息がでてきてしまう。「そうではないだろう!」といつのまにか怒っている。わたしの経験では,どの面ひとつとってみても,相対する角度によって微妙に変化していく。まさに生き物のように千変万化するのだ。その変化こそがたまらなく面白い,とわたしは考えているのだが・・・。この学芸員氏はそんなことにはまったく無頓着のようである。たしかに,この新聞に紹介されている五つの面は,重要文化財といわれるからそのように見てしまうのだが,それほどいい面だとは思えない。いつのまにか,わたしの能面をみる眼は肥えてきているのだろうか。
ことしに入ってからも,8月の安曇野,9月の二子玉川と2回の柏木さんの能面展をじっくり見させてもらった。とくに,二子玉川での個展では,歩いていける距離だったので何回も見せてもらった。お客さんが少ないときには,柏木さんから直接いろいろ説明をしてもらって,わたしなりに納得のいく見方が身についてきたのかもしれない。能面はみる人のこころを映す鏡のようなもの,というのが最近のわたしの感想だ。だから,日によって,あるいは,時間によって同じ能面の表情が変化する。この能面とわたしとの「掛け合い」あるいは「交信」「交流」にこそ能面と対峙する醍醐味がある,とわたしは考えている。つまり,柏木さんの制作する能面は,みごとに見る者のこころを写し取り,跳ね返してくる,そういう迫力がある,ということだ。ときには,眼もこころも奪われて,身動きができなくなることもある。そんな体験をもっているので,この新聞に掲載された能面の写真はなんだかぼんやりして見える。
たとえば,今回,柏木さんから送られてきた案内状にある「オバマ」さんの迫力に,わたしは圧倒されてしまった。テレビでみるオバマさんとはまた一味もふた味も違う,妖しげなものを感じてしまうからだ。つまり,単なる写実をとおりこした,その向こうに透けて見えてくる「オバマ」さんの顔がなんとも妖しいのである。それが「面」と呼ばれるものなのではないか,とわたしは考えている。
こんどの柏木さんの「創作面」として「クリントン夫人」「ライス長官」などが並ぶと聞いている。銀座の文藝春秋画廊にどのような雰囲気を醸しだすことになるのか,想像していると,なんだかドキドキしてくる。
ああ,やはり,トークショウはいつのまにやらプレッシャーになっている。こんなことなら,引き受けなければよかった,といまごろになって腰が引けてくる。若かりしころの,体操競技の試合が近づいてくるときの,あのなんとも落ち着かない気持ちが蘇ってくる。でも,こういうところをいくつか通過することによって,人間はもまれ,成長することも事実だ。まだまだ,お前は未熟者だからこの機会をとおしてもっともっと成長しなさい,と神さまが命令しているのだろうか。ならば,神さまの胸を借りる覚悟で臨むしかなかろう。神の試練に向かって。
それにしても柏木さんの制作する能面はすごいと思う。それが,こんどは「創作面」だ。ドキドキもするが,それだけ楽しみでもあるのだ。そうとなれば,早く対面してみたいものだ。
あっ,その前に三井記念美術館で,ここに紹介されている能面をみておく必要があろう。はてさて,どんなことが起こるのやら・・・・。
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2008-12-29 股関節をゆるめる。
_ 「太極拳するからだ」というものを最近,考えるようになった。李老師のからだをみていると,いわゆる,スポーツマンのからだとはどこか違う。鍛練の考え方が違うのではないか,とちらりと思う。
李老師の稽古は,そのほとんどが準備運動に費やされる。まずは,しっかりとからだをほぐすことからはじめる。手首を柔らかくする運動,腕・肘を伸ばす,肩を柔らかくする,胴体を左右に曲げる,上体と骨盤を同時に後ろにひく,股関節を柔らかく回す,膝の周辺を揉みほぐす,足首をやわらかくする,脚の曲げ伸ばし・・・といった具合である。そして,柔軟運動・・・とつづく。
この柔軟運動が,わたしの経験してきた体操競技の柔軟運動とは,かなり違う。床に腰を下ろして長座したり,開脚したりして前屈運動をする際に,足先は天井に向けている。体操競技でいう「下駄履き」の状態で前屈を行う。このとき,李老師の前屈の仕方をみていると,天井に向けた足先に,もう少しで顎が届きそうなのである。わたしが体操競技をやっていたころの柔軟運動では膝の上に顎がつくような方法だったと記憶する。しかし,李老師の前屈は足先に顔が届くような姿勢なのである。これはどうみても不可解である。
で,不思議に思って,じっと観察してみると,ただ,上体を前に曲げるのではなくて,上体を股関節のところから折り曲げるようにして前に倒している。真似をしてみると,なるほど,すでに固くなってしまったわたしのからだでも,膝のところよりは多少,前にでてくる。この鍛練をもっとつづけていけば,やがて,顎が足先のすぐそばまでいくことになるのだろう。要するに,太極拳のための前屈運動は脚筋や背筋の柔軟性を求めるのではなくて,股関節を思いっきり「はずす」ことにねらいがある,ということに気づく。この前屈運動が終わったあとに立ち上がって,一歩ずつ前進しながら行う運動も膝を高く引き上げたり,大きく回したり,という具合で,やはり,ここでも主たる目的は「股関節」を柔らかくすることにある。
そうして,ようやく太極拳の基本の稽古に入る。このときも,よくよく注意してみていると,やはり,主たる目的は「股関節」をゆるめることの稽古にあることがわかる。こんな単純なことに気づくのに3年を要したという次第。なんだか情けなくなってくる。
もっとも簡単なことにみえる動作がもっともむつかしい。これは体操競技でも同じ。簡単で,ゆっくりと動くことが一番むつかしい。脚に力を入れるときには,その直前に股関節をゆるめろ,と何回となく言われてきたのに,そのほんとうの意味が少しだけわかりはじめたのが,つい最近のことだ。
これから少し本気になって「股関節をゆるめる」という課題に取り組んでみたいと思う。なぜなら,そこに意識を集中させるだけで,すでにして,自分のやっている太極拳に変化が起きはじめているからだ。どこが変わったか。手の平の感覚が変わった。いままで感じられなかった「なにか」が手の平で感じられる。その他にも,ことばで表すことのできない感覚が目覚めはじめている。これは自分で探り当てるしかないようだ。
李老師はいまでも新しい発見がある,という。それが「たまらなく快感だ」という。
太極拳は奥が深い。
白鳥は悲しからずや 空の青 海の青にも 染まず漂う
いざ行かん 行きてまだ見ん山を見ん この寂しさに君は耐うるや
若山牧水の歌が脳裏をかすめる。
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2008-12-30 「アメリカの自由」には「原罪」がある。
_ 西谷修氏が雑誌『世界』(岩波)に短期連載していた「アメリカ 異形の制度空間」が2月号の第4回目で完結した。第1回目から注目して読んでいたが,いったい,この話はどういう落しどころにもっていくのだろうか,と思っていたらやはり意表をつかれた。
「アメリカの自由」には「原罪」がある。
「アメリカの自由」は「原罪」を負っているのである。
このフレーズが2回でてくる。強烈である。
しかも,アメリカはみずからの「原罪」について一度たりとも謝罪したことがない。それどころか,ひた隠しにしつづけていて,しかも,その「原罪」に怯えるかのようにして,その「原罪」と同じことを繰り返し,しかも,それを「正義」という名のもとに合理化し,果てることのない,終わりのない夢を追いつづけている。
アメリカの「原罪」とは,言うまでもなく(西谷氏は一度もその「原罪」については語ろうとはしていない,それほどに自明のことだ,というのだ),先住民族であるアメリカ・インディアンを抹殺してしまったことである。アメリカ合衆国が所有している土地のすべては,アメリカ・インディアンからだまし取ったものである。しかも,法律というものを知らないアメリカ・インディアンたちと裁判闘争まで「欺瞞的」に行って,合法化し,正当化するという手の込んだことまでして。このことにも西谷氏は触れようともしない。もっと大きなところでの「大なた」を振って,「アメリカ」という世にも不思議な「異形の制度空間」の特異性を明らかにしてくれる。
「新世界」「アメリカ」に移住した人びとは,歴史も伝統もなにもない(とかれらは信じている),だからこそ,土地を所有する人もいない,そういう「異形の制度空間」に侵入して行って,われさきに旗を立てて土地の所有権を宣言すること,それが「アメリカの自由」の原風景なのである。そして,その「自由」こそが人間を解放し,真の人間性を取り戻す原点だとかれらは固く信じている。自分たちの犯した「原罪」を忘却のかなたに捨て去ったことにして・・・。でも,「原罪」は<亡霊>となって,思いがけないときに出現する。ひところのアメリカ映画で人気をはくした「西部劇」は,その<亡霊>とのあくことのない戦いであった。突然,襲いくるアメリカ・インディアンを「テロリスト」に仕立て上げ,かくなる「悪」との戦いこそが「正義」であるとみずからに言い聞かせ(そうしなければ戦えない),英雄を気取る。アメリカの「ベースボール」は,こうした背景を合理化し,正当化するための文化装置として,きわめて大きな役割を果たした,とわたしは考えている。
この「新世界」をわがものとした同じ手法を,アフガニスタンにも,イラクにも強引に当てはめようとしている。しかし,どうにもならないのは,アフガニスタンにもイラクにも長い歴史があり,厳然たる「伝統社会」が形成されてきた。それらの国々に対して,アメリカ・インディアンに対して行ったのと同じ「追い散らし作戦」をとった。そして,そこに「自由」の御旗を押し立てようとした。ところが,そうは問屋が卸さない。アメリカはもはや身動きのとれないところまで追い込まれてしまった。あとに引くに引けなくなってしまった。
そこに「オバマ」の登場である。まさに,「アメリカ」が背負っているもうひとつの「原罪」の記憶を蘇らせる大統領の出現という,まことにドラマチックな演劇がはじまったのである。もっとも,「オバマ」を単純に「黒人」と呼ぶことは間違いであろう。なぜなら,白人の母から生まれ,しかも,黒人である父はエリートであり,少なくともアメリカの「原罪」に触れる奴隷の子孫とは明らかに別であるから。とはいえ,「黒人」の大統領の出現としてにぎにぎしく世界に情報が流れている。
「オバマ」が「Yes, we can」と言うときの「we」とは,だれを意味するのか,この響きのいいセリフをアメリカの国民はどのように聞いているのだろうか,とわたしは考える。この「we」の捉え方によって,アメリカは大きく変化する可能性を秘めると同時に,まったく変わらないとみることも可能である。大統領就任後のオバマの采配の振り方に,わたしは注目したいと思う。しかし,半分は,やはり,「アメリカ」の背負っている「原罪」から解き放たれることはないだろう,とも思っている。
このように考えてくると,ますます,「アメリカの自由」には「原罪」がある,という決めゼリフの重さがひしひしと伝わってくる。
西谷修氏が4回にわたって展開したこの論考は,こんごの「世界」を考える上で不可欠の視座を提供してくれている。こんごも,ことあるごとに,この論考を読み返すことになりそうだ。それにしても,まことに絶妙なタイミングで,この短期連載が企画されたものだと思う。
こうして,ますます,スポーツ文化を考えることと「世界」を考えることとは「パラレル」である,という実感がわたしの中で強くなってくる。そして,これこそが「批評」への道筋だ,とも強く思う。
またまた,「いざ行かん・・・」(若山牧水)になってしまう。
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