Diary


2009-02-01 千家十職について。

_ 毎月送られてくる『月刊みんぱく』の折り込み広告のなかに,〔特別展〕茶の湯のものづくりと世界のわざ「千家十職×みんぱく」というリーフレットが入っていた。何気なく眺めていたら,待てよ,と思うことが浮かんできた。

まず,千家十職とはどういうことなのだろうか,と思ってこのリーフレットを眺めていたら,つぎのような解説文に出会った。

千家十職とは,茶室で使われた道具,露地や水屋で使われる道具など,茶事全般の道具を作ってきた十の家です。そして300年から400年を超える歴史を持ち,当代で11代から17代を数えます。珍しい裏道具や歴代の逸品を通して,その仕事と歴史を示します。

なるほどと思って,つぎを読んでいたら,千家十職の一覧が紹介されていた。それによると以下のとおりである。

〔金物師〕中川浄益家,〔表具師〕奥村吉兵衛家,〔竹細工・柄杓師〕黒田正玄家,〔袋師〕土田友湖家,〔土風炉・焼物師〕永楽善五郎家,〔茶碗師〕楽吉左衛門家,〔釜師〕大西清右衛門家,〔一閑張細工師〕飛来一閑家,〔塗師〕中村宗哲家,〔指物師〕駒澤利斎家。

言ってみれば,利休の起こした茶の湯の道を引き継ぐ「千家」を支える裏方の職人さんたちで,全部で十職あったということだ。これらの十職のほとんどがこんにちどのような評価を受けているのかは,わたしにはわからない。が,たった一つ,〔茶碗師〕楽吉左衛門家だけは知っている。一般的には「楽焼」として広く知られているからだ。千家の茶の湯を支える茶碗であるから,道具としては「主役」と考えていいだろう。もともとは千家お抱えの茶碗師だったのが,いまでは,立派なアートの世界で一本立ちして,高く評価されている。

わたしのような門外漢でも,現代の当主である吉左衛門さんの文章を読んだことがあり,なかなかの名文で,強烈な印象が残っている。とりわけ,仏教的なコスモロジーに通暁しているばかりか,みずから坐禅にも取り組み,そこから立ち上がるイメージが茶碗を制作するときの原動力になっている,とわたしは受け取った。また,まったく別のご縁で,ご子息さんの個展を銀座の画廊で拝見させてもらったこともある。おまけに,お話もさせてもらった。そんな馴染みが生まれたせいか,楽家の情報も少しずつ蓄積されるようになった。

こうした個人的なことはともかくとして,ここで触れておきたいことは以下のことだ。

千家の茶の湯を支える〔茶碗師〕の仕事が,アートとして立派に独立しているのに比べて,能楽師の舞う能楽を支える〔能面師〕(「面打師」というのが正式らしい)の仕事は,それが舞台で使われたとしても,だれの作品であるかは表にでてくることもなく,打ち捨てられたままになっている,というのである。もちろん,面打ちの名人と言われる人は過去に何人も輩出しているのだが,なぜか,茶碗の楽家のような具合にはいかなかったのだ。だから,能面作家は,いま現在もアートとして独立できないままになっている。つまり,単なる職人のままの地位しか与えられてはいないのである。たとえば,面打師の制作した能面をアートとして評価してもらおうと思っても,日展でも,伝統工芸展でも,受け入れてはくれないのだそうである。つまり,芸術作品として認められてはいないのが現状だという。

もちろん,これらの情報のほとんどは柏木裕美さんからいただいたもので,それにわたしが若干の脚色をほどこしてはいるのだが・・・。こういう現状にどうしても満足できなくなった柏木さんは,とうとう,自分で「創作面」を打って,個展をやろうとしている。それが,2月9日(月)から銀座・文藝春秋画廊ではじまる「飛天」である。案内にいただいたはがきには「オバマ」新大統領の「面」が載っている。ほかに,「ライス」さん,「ヒラリー」さんも展示されるという。

千家十職の楽吉左衛門家のことを考えると,柏木さんが能楽の世界でやろうとしていることの構想の壮大さが浮かび上がってくる。これまでおとなしく能楽師に仕えるだけの道を歩んできた面打師の世界にあっては,まさに,これは「革命」そのものである。それだけに,柏木さんの今回の展覧会に賭ける意気込みは大変なものである。まだ,だれも歩いたことのない,まったくの未知の世界に第一歩を踏み出そうというのである。まさに,世界でたった一人で起こす叛乱である。そのことを思い浮かべるだけで,わたしの足はふるえはじめる。いや,その「ふるえ」は全身にひろがっていく。

西谷修氏といい,柏木裕美さんといい,とんでもない人と太極拳の兄弟弟子になってしまったものだ。だから,この人たちと一緒の稽古は,ちょっと信じられないほどの異様な雰囲気につつまれることになる。その,なんともいえない緊張感が,また,新たな「ふるえ」を導き出すのである。だから,つづいてきたのだろうと思う。

兄弟弟子としては,なにがなんでも今回の柏木さんの「能面展」は成功してほしい。しかし,いつの世も同じであるが,こうしたラジカルな試みには時代や社会がついてこれないのが実情である。それでも,だれか一人だけでもいい,先見の明のある美術評論家か,画商が現れてほしいものだ。人事をつくして天命を待つ,という俚諺もある。あとは「待つ,しかないか」(木田元・竹内敏晴氏の著書の名前からのパクリ)。

さて,神さまがいるとしたら,この柏木さんのたった一人の叛乱をどう評価するのだろうか,と祈りを込めて天を仰ぐ。

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2009-02-02 若麒麟の解雇に思う。

_ このところ,若麒麟の大麻問題で,朝青龍イジメの報道が遠のいてしまった。メディアとは勝手なものである。

若麒麟は「引退届」を提出したが,協会預かりとなり,今日の評議会・理事会を経て,「解雇」に決定。「除名」という意見もあったそうだが,ちょっとだけ譲歩して「解雇」になった,という。その違いは,「除名」だと退職金がでないが,「解雇」ならでるらしい。らしい,と書いたのは「解雇」についての処遇にはきちんとした規程がないのだそうだ。武蔵川理事長が言うように「まだまだ改めなくてはならない点が多い」ということだ。この理事長の弁はなかなか素直でよろしい。しかし,つぎの弁はちょっと違うのではないか,と思った。それは「これからは力士たちに対して何回もきびしい抜き打ち検査をして対処していく」というものだ。

この姿勢は,上から下を見下ろす視線が如実に現れていて,不快そのものである。そして,もっとも欠落しているのは,みずからの体質,つまり,日本相撲協会の体質についてのきびしい「まなざし」である。みずからの姿をしっかりと見極めることをしないで,目の前で起きた,許しがたい「事態」ばかりを追求する。むしろ,それを隠れ蓑にしてみずからの体質の劣化に蓋をしようとしているかに見える。しかし,そのような意識があればまだ救いようがあろう。それもなしに,ひたすら,問題の現象面だけを取り上げて,それに対する対症療法だけに情熱を注ぐ。これは本末転倒であろう。問われなくてはならないのは,なぜ,このような事態が起きてしまうのか,ということだ。

それは,オリンピックなどでのドーピング問題と同じだ。なぜ,ドーピングがあとを絶たないのか,という根源的な問いには蓋をして,ただ,ひたすら「アンチ・ドーピング」運動を展開し,よりきびしい「抜き打ち検査」に走っていく構造とまったく同じである。

この構造はまた,何回も繰り返すが,「正義」を標榜するブッシュ君と「テロ」でしか自己主張ができない「テロリスト」集団の対立関係と同じだ。なぜ,テロがあとを絶たないのか,という根源的な問いを避けている。これでは問題の解決にはいたらないのは自明のことだ。それどころか,テロリストに対する弾圧がきびしくなればなるほど,テロリストは増え続けていく。このことにも眼を向けようとはしない。イスラエルとパレスチナの関係をみれば明々白々だ。

これも繰り返しになるが,ピエール・ルジャンドルが『西洋が西洋について見ないでいること』という本のなかで,鋭く指摘しているとおりである。わたしたちは,「わたしがわたしについて見ないでいること」があまりにも多すぎる。ここから,現代社会が生み出している「ひずみ」がはじまっていることに,もっと留意すべきであろう。

当然のことながら,長年,教職についていたわたし自身に対する自戒の念もこめて,この文章を書いている。教師であるというだけで,すでに,生徒にとってはとてつもないプレッシャーになっているということを,わたしたちは忘れがちである。そのプレッシャーをいかに小さくして,お互いが刺激試合,成長し合える関係性を確保するか,が重要である。

日本相撲協会は,この際,徹底的に,みずからの「体質」を見つめなおし,ほんとうに力士を育てるに値するだけの力量をもっているのかどうかをチェックすべきではなかろうか。もっと,端的に言っておこう。力士の不祥事は日本相撲協会の写し鏡なのだ。だから,力士が駄目だということは,そのまま,日本相撲協会が駄目だ,ということだということに気づいてほしい。わたしのような者にまで聞こえてくる噂では,親方の中に「大麻常習者」がいるという。多くの力士はそのことを知っているという。だとしたら,そこの根を断ち切らなくてはなるまい。

「きびしい抜き打ち検査」をしなくてはならないのは,親方衆ではないのか,ということだ。日本相撲協会の協会員全員を対象に,外部団体が「抜き打ち検査」を実施すべきではないのか。

しかし,どんなことがあってもそれはしないだろう。なぜなら,政界にしろ,財界にしろ,なにか不祥事が起きたときの対処法は,いつでも「とかげの尻尾切り」で終わるのが常だから。この「体質」をこそ糾すこと,これが先決だ。

社会保険庁もどこぞの教育委員会もみんな同じ。日本相撲協会だけが特殊なのではない。このことをメディアはもっときびしく問いつづけるべきではないだろうか。

ああ,今日はなんだか,急にえらくなってしまって,高みからものを言っている。この姿勢こそが問題だ,と叱られそう。クワバラ,クワバラ。これからは,「ちょっとだけ変だなぁと思うんだよね」という語りかけができるよう心がけることにしよう。できなかったらお許しを。

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2009-02-03 「インターセックス」について。

_ 〔インターセックス<インターセクシュエリティ>〕

古くは半陰陽,両性具有と称されたが,外性器の形状や生殖器,染色体が曖昧で男女の一方に分類できない人々。広義に見ると100人に1人の出生頻度で出現する。

HAHAKIGI HOUSEI(漢字でHAHAKIという文字が出せないので,ローマ字で書く)の近著『インターセックス』(集英社)を読み,大きな衝撃を受けている。最初に引用したのは,この小説の表紙カバーの帯に書かれている「定義」である。

ついでに,この小説の概要を知る上で手っとり早いので,同じ「帯」に書かれているキャッチ・コピーを引用しておく。

産科医や小児科医の激減,下がり続ける出生率。一方でますます先端化する移植技術や生殖医学。現代社会の闇に切り込む衝撃のサスペンス長編。

生殖と移植では「神の手を持つ名医」と評判の岸川卓也院長が率いる,贅沢な施設と高度な医療を誇るサンピーチ病院。泌尿婦人科医の秋野翔子は岸川に請われてこの病院に勤務することになった。ここでは性同一性障害やインターセックスの患者たちへの性転換手術やさまざまな治療が行われていた。翔子は「人は男女である前に人間だ」と主張し,人知れず悩み,絶望の淵にいた患者達のために奔走する。やがて翔子は,彼女に理解を示す岸川の周辺に不可解な変死が続いていることに気づく・・・。

これで,この作品の内容についても,おおよそのところは想像してもらえるだろうと思う。この本を読んだわたしの感想を,ここでは2点だけ紹介しておきたい。

一つは,「性差医療」ということばとその意味するところについて。

もう一つは,男女の二つに分けて行われているスポーツ競技の意味するところについて。

まずは,前者から。男性と女性の身体はまったく異なる構造をもっていることは福岡伸一の『できそこないの男たち』を引き合いにだすまでもなく,説明する必要はないだろう。しかしながら,この身体の構造の違いは,同時に,身体の機能の違いをももたらしていることについては,われわれはあまり日常的には意識していない。このことは医療においても同様で,性差を意識した医療は,現段階ではまったく行われてはいない,と作者は言う。どういうことかというと,薬を服用するときの薬理上の効き目は,男性と女性ではかなりの差異があるにもかかわらず,現段階での医療は「男性」の効き目を基準にして服用する分量が決められている,というのである。つまり,男性の効き目をそのまま女性に当てはめているにすぎないのだ,と。ところが,同じ分量の薬を服用しても,男性と女性とではその効き目がかなり異なるというのだ。しかし,それでも医療の現場ではそれが無視されている。だから,この問題をもっと重視すべきではないか,と主人公の秋野翔子医師は主張する。つまり,医療の現場における「男性中心主義」に対する異を唱えているのである。これは,なにを隠そう,現代社会の制度や組織のあり方が「男性中心主義」であることに対する根源的な問いを発していることと同義である。いな,医療の現場がもっとも遅れている,というべきかもしれない。そこから一刻も早く脱出することが喫緊の課題である,と作者はかなり意図的に記述している。

このことと連動しているのが,後者の問題である。近代スポーツは,もともと,男性だけのものとして誕生した経緯がある。そこに,徐々に女性のためのスポーツが承認され,参入していくというプロセスがあった。そして,いまや,男女がほとんど分け隔てなく,それぞれのスポーツ競技が行われるようになっている。しかし,このスポーツ競技の世界では,男子種目と女子種目の二分法だけが承認されている。だから,セックス・チェックをしてまで,ほんとうの「女性」であるのかどうか,という確認が行われている。つまり,スポーツ競技の世界にあっては,「男性」か「女性」か,そのいずれかに属する「性」しか認められてはいない。この世界にあっては,インターセックスは,あってはならないのである。

だとしたら,「100人に1人の出生頻度」と言われるインターセックスの「人たち」は,スポーツ競技の世界から完全に排除されていることになる。つまり,蚊帳の外である。このことについて,じつは,わたし自身もなんの疑問もいだいたことはなかったのである。しかし,この本を読んだいまは,とんでもないことに,わたし自身も無意識のうちに加担していた,ということに気づいてしまったのである。

こうなってくると,ことの善悪はともかくとして,障害者のスポーツの方が,その障害の内容とレベルに応じてスポーツ競技に参加できるようになっていて,こちらの方が健常者のスポーツよりもはるかに進化しているのではないか,ということに気づく。もちろん,細部についてはわたしなりに疑問はある。しかし,一つの制度として,スポーツ競技のあり方を考えたときに,一歩踏み込んでいるように思う。ただし,インターセックスという点ではまったく同じであるが・・・。

インターセックスの人たちは,スポーツ競技の世界で考えると,健常者からも障害者からも排除される,まったく闇の世界の存在でしかなくなってしまう。つまり,彼らの存在は「あってはならない」,「非存在」というのがヨーロッパ近代の考え方の中核になっている,ということだ。それを,ただ,なんの疑問ももたないまま,わたしたちもまた受け入れてきたのである。そのことの誤りに気づいたいま,さて,わたしたちはこれからどうすればいいのか,という問題が浮かび上がってくる。

となると,障害者のスポーツのように,医学のレベルでの差異にもとづく分類をして,それぞれの新しいスポーツ競技の方法を編み出さなければならない,ということになろうか。つまり,インターセックスにも何種類もの差異があるからだ。遺伝子的には男性であって心理的には女性である人,その逆の人,そのあるがままのインターセックスで生きることを望む人,はっきりと性転換をしてしまいたい人,などさまざまである。となると,それぞれの生き方の選択肢に応じたスポーツ競技の方法が保証されなくてはならなくなる。

まあ,この問題はもう少し時間をかけて考えることにしよう。

ここでは,以上の2点についてのみ感想を述べておくにとどめる。この他にも,さまざまな考えなくてはならない「身体」をめぐるテーマが満載である。その意味で,スポーツの分野に身を寄せている者にとっては,看過することのできない作品である。一読をお薦めしたい。

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2009-02-05 中上健次の『紀州』を読む。

_ やることは山ほどあるのに,気持ちが定まらないまま,手にとってのが中上健次の『紀州』という文庫本。何気なく読みはじめたら,これがまた止められない。

だれかの書いた文章に(最近はすぐに人の名前を忘れてしまう),中上健次の最高傑作は小説ではなくて,この紀行エッセイ『紀州』だとあったことを思い出す。なるほど,とこころの底から得心する。なぜなら,もう,読み終わるまで止められないからだ。

テクストは,中上健次著『紀州』木の国・根の国物語,角川文庫,平成21年,改版初版。初出は「朝日ジャーナル」で,1977年7月1日号〜1978年1月20日号。この本の内容の紹介は,表紙カバーのキャッチ・コピーから借用する。

新宮,古座,吉野──。神話と伝説,そして敗者の地,故郷・紀州。その自然の核を探り当てたい。生の人生を聞きたい。地霊と言葉を交わし,美しさのおおもとを見たい。漁業組合で,製材所で,食肉センターで,この土地に生まれ,生活する人々の声を求め,中上は歩き回り,立ちどまり,また歩く。「差別」という物の怪は,まだこの地をさすらっているのか。鋭い視線で半島をえぐる旅を記録した,ルポルタージュの歴史的快作。

たとえば,つぎのような一節が,強烈にわたしの脳細胞を一撃する。

・・・青年は作業場の一等奥,物陰になり外から見えぬ場所であぐらをかき,切り取ったまだ肉のついた馬の尻尾から,毛を抜いていた。自分の肩ほどの長さの馬の尻尾である。腐肉のにおいの中で青年は,台に一台小さなラジオを置き,手ばやく毛を抜きとりそろえている。肉のついた尻尾はもちろん塩づけにしてはいるが,毛に何匹ものアブがたかってもいる。衝撃的だった。

その衝撃は,言葉をかえてみれば,畏怖のようなものに近い。霊異という言葉の中心にある,固い核に出くわした,とも,聖と賤の還流するこの日本的自然の,根っこに出喰わしたとも,言葉を並べ得る。だがそれは衝撃の意味を充分に伝えない。私は小説家である。事物をみてもほとんど小説に直結する装置をそなえた人間であるが,一瞬にして,語られる物語,演じられる劇的な劇そのものを見,そして物語や,劇からふきこぼれてしまう物があるのを見た。それが正しい。つまり,小説と小説家の関係である。若い青年が腐肉のにおいを相手にして仕事をしなくても,他に色々仕事はある,と思いもしたし,物の実体,ここでは自動車洗いに使うハケや歯ブラシという商品であるが,その物,商品の実体は,みにくいとも思った。人が,そのみにくい実体に顔をむけ,手を加え,商品という装いにしてやる。いや,そこで抜いた馬の尻尾の毛が,白いものであるなら,バイオリンの弦(ゆんづる)になる。バイオリンの弦は商品・物であると同時に,音楽をつくる。音の本質,音の実体,それがこの臭気である。塩洗いしてつやのないその手ざわりである。音はみにくい。音楽は臭気を体に吸い,ついた脂や塩のためにべたべたする毛に触る手の苦痛をふまえてある。弦は,だが快楽を味わう女のように震え,快楽そのもののような音をたてる。実際,洗い,脂を抜き,漂白した馬の尻尾の毛を張って耳元で指をはじくと,ヒュンヒュンと音をたてる。

こんな調子の文章がつぎからつぎへと紡ぎだされている。わたしの脳細胞の活動が突然,麻痺してしまうことになる。そして,いったい,わたしはなにを読んでいるのだろうか,と方向を失う。だから,何回も,前に戻って読み返すことになってしまう。遅々として前へは進まない。後へ,後へと遡ってしまうことがしばしばである。でも,それがまた,なんともいえない快感なのである。

中上健次について,下手な講釈はしない方がいいかもしれない。が,かつて中上作品が好きで,ほとんどの小説を耽読してきたつもりだったのに,この『紀州』で繰り広げられる中上ワールドは,まったく新鮮である。いな,古くて新鮮である。なぜなら,わたしたちの頭の働きは,いつのまにか近代の論理に占領されてしまっていて,理路整然とした思考をよしとし,複雑なものをいかに単純明解なものに分類・整理していくか,という習慣が身に染みこんでいる。だから,つねに,論理的整合性などという近代的知の支配下に抑え込まれてしまうことになる。

しかし,中上の思考はまったく逆である。論理も知性もどこかに吹っ飛ばしてしまった上で,なにものにも束縛されない,自由自在な想像力に身をゆだねていく。そこから,近代とはまったく別の時空間を紡ぎだし,生身の人間の生きる姿を浮かび上がらせていく。人が生きるということは,かくも残酷であり,悲しみに満ちあふれたものであり,だからこそ美しいのだ,と中上を主張する。

たとえば,「差別」の問題についても,中上の思考はわたしたちの意表をつく。人間には被差別部落民と非被差別部落民の二種類しかないのだ,と断言する。しかも,一般的には,被差別部落民を特別視(いい意味でも,悪い意味でも)する,とんでもない輩が多いが,それは間違いだという。しかも,被差別部落民は,差別されることによってますます密度の濃い生をまっとうすることになる。だから,美しいのだ,と。この主張は,たしかに,中上作品のなかに一貫していて,随所にそのような記述が現れる。たとえば,「世が世なれば・・・」という書き出しで,非被差別部落民のなかに溶け込もうとする被差別部落民の青年たちに激しく注意を促す「おリュウのおばあ」という人物が登場する。

「差別」という問題を,そんなに薄っぺらい近代のヒューマニズムで隠蔽されることに対する徹底した抵抗の姿勢が中上の精神を一貫している。そして,「差別」という構造こそが,日本的美意識の根源に宿ることを主張し,その原点を「紀州」に求め,この地こそ「木の国・根の国」と位置づける。つまりは,日本の「木の国」(「鬼の国」)の原風景をたぐり寄せようという試みを展開しているのが,この『紀州』という作品ではないか,とわたしは読みながら考える。

まだ,途中までしか読んではいないのに,あふれるほどのイメージをわたしに与え続けてくれる。至福のときである。

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2009-02-06 『紀州』読了。

_ 中上健次の『紀州』読了。途中で何回も呼吸が止まってしまうかと思うほどの緊張感のなかで,最後まで読みました。この本は聞きしに勝る「大傑作」です。正直に白状しておけば「参りました」,と。

今日は朝の9時30分に鷺沼の事務所に「出勤」して,排水口関係の浄化作業に立ち合い。これを済ませたところに李自力老師がやってきて,博士論文の単行本化のための最終ゲラの打ち合わせ。その他にも,やらなければならない仕事があって,それらを終えて,大急ぎで『紀州』にとりつく。

いつもなら,昼食後には,一定の居眠りの時間が不可欠なのに,この『紀州』はそういう眠気も吹っ飛ばしてくれる。前半から,なみの迫力ではないのに,後半に入るとますます緊迫感が募り,終章の「闇の国家」にいたっては,呼吸困難を覚える,という始末。なんともはや,とんでもない本があったものだ,とびっくり仰天。もっとも,もっと早くにこの本に出会っていたら,これほどまでには受け止められなかったかもしれない。ちょうどいいタイミングの出逢いだった,というべきか。それにしても,とんでもない本に出会ってしまったものだ。

中上健次のモチーフは一貫して「差別」。かれの小説作品のモチーフもまた一貫して「差別」。その中上健次が,腸(はらわた)がねじれる思いをこめて「差別」というものがよくわからなくなってしまった,と告白しながら,さらに「差別」の根源にあるものを徹底的に追求していく。みずからの出自からも,あるいは,世間でいう被差別部落民の問題からも遠く身を引き離しつつ,「差別」とはなにか,と問い続ける。

そして,ついには,つぎのように結論づける。

自然は人を拝跪(はいき)させる。自然,ここでは,差別,被差別というものだと短絡させてよい。自然的自然とは変な言葉だが,事物の氾濫である自然が視る者を解体させ,視る者が統括する作用として差別という心的機構を持ってしまい,人の諸関係の産物として社会や,国家,法律,いや倫理,道徳を自然と言うなら,これも差別という機構を生む。国家,法律,倫理,道徳の大本に,人の性なるものがあると取るならである。性,生殖,それが人を拝跪させる,と言ってよい,と考えた。性と生殖とは,また同時に死を浮きあがらせる。性と生殖と死とは,また四の構造の事である。

中上健次は,ここまで「差別」をめぐる問題の本質を掘り下げていく。文末にでてくる「四の構造」については以下のように説明している。

「四」とは所謂(いわゆる)差別語であると言われる。数字「四」が差別語であるのは,被差別部落民の蔑称としてあった事が最大の原因だが,私が考えるのは差別,被差別の光線が当たるとその単に物を数える数字が妙になまなまとしはじめる不思議さについてである。四とは四つ足に通じ,死に通じ,それゆえに疎ましい。確かにそうである。人の内にある獣性,生き物としての力と,死の力は,この市民社会の社会規約の中で暮らす者には疎ましく恐ろしい。だが人は生き物としての力抜きには生きられないし,死の力を無視する事は出来ぬ。「四」とは畏怖(いふ)を引き起こす。そこから私は,被差別の力,「四」の力,と旅をしながら考えたのだった。たとえば起承転結とは物語という,物の運動を記すための骨格だが,これも四の構造を踏まえている事に注目を要する。

このようにして,「四」という差別語すら豊穣な意味を帯びて,力が充満してくる,と中上は指摘する。そして,ついには,以下のように記す。

紀伊半島で私が視たのは,差別,被差別の豊さだった。言ってみれば「美しい日本」の奥に入り込み,その日本の意味を考え,美しいという意味を考える事でもあった。

ここまで言われてしまうと,もはや言うべきことばを失ってしまう。差別と被差別との関係を光と闇の関係ととらえ,奈良・京都の都は紀州という闇の国があってはじめて光り輝くのだ,と。そして,その裏づけとなる事例をつぎつぎに提示していく。紀の国という隠国(こもりく),つまり,闇の国があったからこそ奈良や京都という都が可能となったのだ,と結論づける。この気宇壮大な「差別」論に遭遇し,わたしはなんと小さな視野しか持ち合わせていなかったのかと気づく。

こうして挙げていくと際限がない。最後に,中上健次が天王寺でバーに勤めている高田さんという知り合いの女性(もちろん,被差別部落出身・43歳)を尋ねたおりのことをつづった文章を紹介しておく。この文章をどのように読むかは,みなさんにお任せ。

高田さんは,天王寺というところを「田舎では何をやってもわかってしまうけど,ここでは分からんやんか」と言う。天王寺が一種身を紛れさせる<闇>である事を言う。

「そうやんで,うちなんか何にも言えへん。わたしはこうこうやと言うてみても,他の者には知らん事やし,知ったら言われるだけや。何にも変わる事ないんやし」

私は見る。その私の眼を高田さんは見て,昼日中ビールをグラスに注ぐ。高田さんの顔がその差別,被差別の話に移って,急に若やぎ華やいでくるのを知る。それは高田さんの変化ではなく私の眼の変化だった。つまりここでは,当然のこととして,いや暗黙の了解事項として被差別者であるという事実,事物はある。秘すれば花とはこの華やぎの事であろうと思い,賤(せん)なる者が賤なる者である事実の認知を行い,それでなお秘して変幻するという事が,花なのだろうと思う。花はここにある。肥(ふと)り,色白の顔だが齢(とし)はかくせない。「五万でどうやと言われ,いまは喉(のど)から手が出るほど欲しいけど」たまたま人についた客だったから行かなかったと言うのは,花としての女である高田さんである。

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2009-02-10 「現代の能面」を語る鼎談,無事に終了。

_ 2月9日(月)1800〜19:00,銀座・文藝春秋画廊で開催された「柏木裕美・新作能面展」のオープニング・イベント,西谷修,今福龍太の両氏とわたしの3人による「現代の能面」を語る鼎談,無事に終了。

予想されたとおり,1時間は短かった。しかし,この短い時間のなかで,今福,西谷の両氏は,柏木さんの「創作面」についてきわめて凝縮された語りを展開し,聞く人々を魅了してあまりあるものがあった。余韻があまりにも強くて,トークショウを終わらせてしまっていいのだろうか,と逡巡したほどである。こういう素晴らしい鼎談の前座をつとめさせてもらったわたしは幸せである。

考えてみれば,この三人でトークを行うのはこれで6回目である。お互いに呼吸も役割もみんな熟知しているので,いつものとおり「ぶっつけ本番」で行う。話がどういう展開になるか,お互いにまったく予測がつかない「なま」の臨場感が,ほどよい緊張を生み出し,こころが一つになっていく。

トップ・バッターのわたしは,なぜ,この3人がトークをすることになったのかという経緯をお二人の紹介を兼ねて話す。そして,小面から般若まで,女性のなかに埋め込まれている顔を20分割してみせた柏木さんの「創作面」を,ドキドキしながら見せてもらったことを話し,この「ドキドキ感」がたまらない快感だった,と。それは,まるで,大相撲の一番,一番の取り組みをみるときの「ドキドキ感」と同じものだったことを話す。それが,ついには,オバマ大統領,ライス前長官,ヒラリー現長官へと展開をみせ,とうとう能面の対象が海外に飛び出していくことになり,これからの柏木さんの「創作」がどのような展開をみせるのか,ますます興味をもった,と。

二番バッターの今福さんは,まずは,戸井田道三との出逢いから話をはじめる。小学生のときに母親に連れられて,近所に住んでいた(辻堂で転地療養中)戸井田さんの「私塾」に入ったのが最初,という。これは驚きだった。今福さんには『戸井田道三の本』(全4巻,筑摩書房)を編集した実績があり,戸井田道三の直弟子だったという予備知識はもっていたが・・・。だから,小学生のころから能楽や能面をなんの抵抗もなく受け入れていたし,実際に見てもいたという。そういう眼で柏木さんの創作面をどう受け止めたかを語ってくれる。たとえば,小面という面は,女性のなかにうごめくさまざまな感情やそこから生まれる表情をすべて「封じ込め」たもので,いわゆる「中間表情」として成立しているものなのに,それを「こじ開けて」表にさらけ出す,というまことに革命的ともいうべきことに柏木さんは挑戦している,と感じた,と。そして,このことは,戸井田道三の文章のなかにある「封建主義によって抑圧されてきた日本の伝統文化を木っ端みじんに粉砕してみたい」と共鳴・共振するものだ,と。だからこそ,柏木さんの創作面は「現代の能面」としての重要な意味をもつ,と。さらに,オバマ大統領の面は,伝統面でいえば,黒式尉であり,それの「現代版」と考えれば,ごく自然な成り行きではないか,とも。

わたしは,今福さんが会場に到着したときに入り口でばったり出会ったので,一緒に能面を見て歩くことになった。もちろん,なにも語ることなく黙って今福さんを観察していたのである。そのときの今福さんは,じつに楽しそうに,ニコニコ笑いながら,ときに面を上下左右から覗き込むように眺め,ときおり,ウンウンと頷ずいていらっしゃる。わたしは「ドキドキ」したのに,今福さんは楽しんでいらっしゃる。

三番バッターの西谷さんは,学生時代に能楽鑑賞に通ったころの経験・記憶から話をはじめる。そして,フランスの精神分析家で思想・哲学に大きな功績を残しているピエール・ルジャンドルを案内して,京都の能楽を鑑賞したときに,ルジャンドルが発したことば「日本には精神分析は必要がないという理由がよくわかった。なぜなら,能楽があるからだ」を紹介。その上で,柏木さんの小面の20分割は,結果的にフロイトの精神分析と同じことをやっているのではないか,と指摘。つまり,柏木さんの内面に蓄積されている無意識を,能面という伝統様式の上に表出させている,そういう営為ではないか,と。しかも,この営為はきわめて当然のことであって,素直に納得できるものだ,と。なぜなら,柏木さんという人間がまぎれもなく現代という時代・社会に生きていて,しかも,世界とどのように対峙して生きているか,ということの明かしなのだから,と。

室町時代の能面も,おそらく,その時代と向き合って生きていた人々の心性を表現したものに違いないし,その意味では,つねに「創作面」を積み重ねてきたに違いない,と。そうして,長い歴史課程をへて淘汰され,よいものだけが伝承され,こんにちの「伝統面」として受け継がれてきたはずだ。だから,柏木さんが「創作面」に新境地を開いていくことは,能面の本来のあり方を復活させるものだ,と。

お二人の話を聞いているわたしの心臓は,最初から最後まで「ドキドキ」しっぱなし。柏木さんの創作面でドキドキし,つづいてお二人のトークを聞いてまたまたドキドキ。ああ,この場に同席できることの至福。感謝,感謝,あるのみ。また,ひとつ視野が開けてきた。喜びで一杯だ。

最後に,わたしから,二年後に柏木さんの創作面がどのような展開になっているか,大いに期待したいと思う,と挨拶。できれば,また,このトークもありかな?と水も向けておく。

会場のみなさんが,もっと聞きたい,という顔を露骨にみせてくれたことで,このトークが成功に終わったと確信。なんとか責任が果たせたか,とわたしも安心。

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2009-02-11 「内破」と「外破」ということについて。

_ 昨日のブログで書き残したことを補足しておきたい。たくさんあるが,まずは,今福さんが提起した「内破」と「外破」ということについて。

最初にお断りしておかなくてはいけないことがある。以下に書く文章は,今福さんの言説をわたしが聞いて受け止め得た範囲のことであり,当然,そこにはわたしの潤色がほどこされることになる。つまり,今福さんの言説とわたしの言説が渾然一体となっているということである。しいて言えば,話題のきっかけは今福さんの言説であり,その言説を受けて,なにかを感じ取り,話題を展開していく部分はわたしの言説である,ということ。

さて,一般的に能面といえば,小面のことである。だから,能面について考えるということは小面について考えるということと同義となる。小面は女性のあらゆる感情を「内破」して,内に封じこめられた結果,中間表情として作られたものである。この中間表情だからこそあらゆる感情を表現することが可能となる。つまり,能楽師がからだを動かす,その動きにつれて小面のなかに「内破」されていた感情が表出する。内に向かって表情が動いている。あるいは,隠そうとしている。

たとえば,「しおる」という能楽に独特の所作がある。小面をつけた女性が「泣く」しぐさ,身ぶりをいう。これは,ときに「涙を拭いている」と解釈されることがあるが,それは違う。「しおる」とは涙を「隠す」所作なのである。このレベルでは,面は皮膚とイコールになる。つまり,泣いている皮膚を隠そうとしているのだ。それが「しおる」ということの意味であり,結果として「泣いている」という表現を導き出すのだ。

だから,能面は感情を「内破」して,完全に囲い込まれた(enclosed)表情,すなわち「中間表情」をもっとうとするのだ。

しかし,柏木さんは,この「内破」した小面の感情を「外に向けて爆破」させてしまった。つまり,「外破」(explosion)させたのだ。言ってしまえば,内に閉じこめてあった感情を「解き放つ」ということに果敢に挑戦したことになる。

このことの意味は大いに考える必要があろう。なぜなら,この「内破」と「外破」とを別のことばに置き換えるとすれば,おそらく「抑圧」と「解放」ということになろう。だとすれば,「抑圧」とは室町時代以後の封建主義によってもたらされる人間の有り様をそのまま意味しており,だからこそ,小面は「抑圧」された女性のあるべき姿としての典型的なモデルであったということになろう。それは,ある意味では,女性の理想的なモデルでもあったのだ。それに対して,21世紀の日本を生きるわたしたちにとっては,もはや「抑圧」はなんの理想でもなく,むしろストレスを生み出す悪の権化のよう考えられている。そして,時代は明らかに「抑圧」からいかに「解放」されるかという方向に向かって流れている。

したがって,柏木さんの打つ能面は,まさに「現代」という時代に生きる人間の,可能なかぎり自由にのびのびとした,「解放」された表情に関心が向かっていく。それは,まさに,自然な流れなのだ。あるいは,必然と呼んでもいいだろう。

しかし,能楽界といういまもなお封建的な空気の色濃い世界にあっては,「抑圧」された(あるいは「内破」された)伝統面をひたすら継承し,伝統の枠組みの内側で面打ちに励むことが,暗黙のうちに強要されている。あるいは,そういう力学が働いている。だから,多くの面打ち師たちはそこから一歩も外に出ようとはしない。

柏木さんは,こういう能楽の世界で20数年もの間,歩調を合わせて面打ちに励んできた。もちろん,伝統面のよさは充分に理解した上で,とことんその技法を追求し,工夫もしてきたのだが,にもかかわらず,どこか違うなにかを感じはじめていたのである。そのとき,「身近にいる人をモデルに面を打ってみたら」とある人に背中を押されたという。そこから一気に,高まっていた内圧の力が溢れ出るようにして,「解放」された現代人の面が打ち出されることになった,と言っていいだろう。かくして,小面の「20分割」の誕生と相成る次第である。

しかも,この柏木さんの革命的な第一歩は,なにを隠そう,戸井田道三が密かに抱いていた魂魄と共振・共鳴しているのではないか,と今福さんは指摘する。すなわち,「封建主義に起因する<抑圧>されたものを木っ端みじんに粉砕してみたい」という戸井田道三の魂魄と。

こうなってくると,戸井田道三の『能芸論』を読まなくてはなるまい。これを読むと,柏木裕美の挑戦の意味がもっと深い位相で理解できてくるのではなかろうか。ああ,課題がまたひとつできてしまった。でも,これは楽しい課題である。まだ見たことのない山を仰ぎみることにつながるのだから・・・。いや,そんなに簡単なことでもなさそうだ。もっともっと,とんでもない世界がそこには待ち受けているのかもしれない。そこは,まだ,だれも到達したことのない「孤独」な世界なのだから。

「いざ行かん 行きてまだ見ん山を見ん この寂しさに君は耐うるや」(若山牧水)。

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2009-02-12 朝青龍バッシングに走るメディア・2.

_ 「嘘つき朝青龍」という見出しで,朝青龍がモンゴル帰国をたくらんでいるらしい,という情報がインターネットに流れている。

読んでみると,日馬富士の大関昇進祝いがモンゴルで行われるので,そのお祝いに駆けつけるべくその算段をしているらしい,と。それによれば,かれは優勝インタビューのなかで「日本の国が好きだ,日本の横綱だからモンゴルには帰らない」と約束したのに,またぞろ,恥も外聞もかなぐり捨てて,モンゴル帰国を策している,と。もっと,くわしく調べてみたら,日本相撲協会の公式行事のない期間を利用して,日馬富士のお祝いをモンゴルでやることになっている,という。日馬富士の帰国は問題なくて,朝青龍の帰国はいけない,というこの論理がわたしには理解できない。ここまでして朝青龍を叩こうとするメディアの倫理とはいったいなんなのか,腹立たしいこと限りない。

「モンゴルには帰らない」という言葉尻をとらえての,メディアの暴力としかわたしには理解できない。あの優勝インタピューで朝青龍が約束したことの真意は,「自分の個人的な理由でモンゴルに帰国することはしない」ということであって,それ以外のなにものでもない。

今回の,日馬富士のお祝いのために帰国することは親方も日本相撲協会も止めることはできないだろう。公式行事がない期間を選んでのお祝いである。しかも,モンゴルからの3人目の大関の誕生である。モンゴルでは国を挙げてのお祝いとなることは眼に見えている。しかも,朝青龍と日馬富士は大の仲良しである。仲良しの弟分のお祝いに駆けつけるのはごく当然のことではないか。もっと言っておけば,朝青龍はモンゴルでは英雄である。いずれモンゴル国の大統領になると噂されているほどの英雄である。日馬富士の大関昇進祝いは,朝青龍が参加するかしないかでは大違いだ。かれが参加すれば,間違いなく国を挙げての熱烈大歓迎会となる。あの不調から立ち直って優勝を飾った情報は,モンゴル国中を駆けめぐり,モンゴルの国民すべてに勇気を与えたことは,メディア関係者は知らないはずがない。

にもかかわらず,言葉尻をとらえた「嘘つき朝青龍」などというバッシングを平気でやる,その神経がわたしにはわからない。

こうしたメディアの暴力は,ある個人のブログをバーンアウトさせた誹謗中傷による書き込みと,その本質において変わりはない。報道に従事する人びとの猛省をうながしたい。

こんなところで引き合いには出したくないが,たとえば,辺見庸氏のようなジャーナリストを見習ってほしいと思う。彼の書いた『眼の探索』『独航記』『不安の世紀から』(いずれも角川文庫)を読んでみてほしい。かれの書いた一文を引用しておこう。

−−最近の『琉球新報』のインタビューで辺見さんは,「鵺(ぬえ)のような全体主義」とおっしゃっていますね。

辺見 この国のいまについて,私の肌で感じたもののいい方なんです。朝日新聞社刊の『眼の探索』でも書きましたし,「世界」(98年7月号)でも前田哲男さんとの対談でもそういう発言をしました。鵺のような全体主義のやっかいさは,「主体」がないということだと思うのです。菌糸のように絡まり合う全体主義でもあり,明確な責任をもった主体が皆無に等しく,全員が自覚なき共犯者で,無責任に絡まり合い,発酵し合う。かつての古い形の全体主義のように,軍部があってそれが領導して,とかいうことではないのですね。これだけの,ある意味で安保改定より重大な法案なのに,特段の強権発動もない。物理的に国家権力が言論を弾圧しているわけでもない。あからさまな抑圧はない。巧妙な形の世論誘導はあっても,はっきりした翼賛体制が存在しているわけでもない。それなのになぜ,ここまで一般の議論が死んでいるのか。鵺のような全体主義が議論を殺しているのです。加えるに,私は自己規制があると思っています。メディアの人間たちが,ただ群体としてふるまうばかりで自分の主体というのを隠していく。私は80年代からそれがマスメディアのなかで非常に顕著だと思っています。

ここまでくると,メディアに苦情を呈しているわたし自身も,もっともっと正当な議論を起こしていかないと,お前も同じ穴の狢(ムジナ)ではないか,と断罪されてしまいそうだ。そうなのだ。わたしたちは,いつのまにやら,「鵺の全体主義」のなかにどっぷりと浸かりこんでいるのだ。だから,恥さらし以外のなにものでもない朝青龍バッシングなどが平気で大通りをのし歩くことになってしまうのだ。

わたしにできることは,こんなところで意思表示することぐらいしかないのだろうか。いっそのこと,ここで書き綴っていることを単行本にでもして,世に問うくらいの気構えをもたなくてはいけないのでは・・・,と密かに考えないでもない。その日がいつの日になるのか・・・・。どこかで決断することが必要なのだろう。満を持して・・・,いまは,じっと,ひとり静かに潜行することにするか。

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2009-02-14 「オバマ」という能面が登場する意味。

_ 「オバマ」という黒人(と呼んでいいかどうかは問題)を能面にした,世界で初めての柏木さんの能面展「飛天」が今日,無事に終了した(という電話が入った)。

今福さんは,「オバマ」が能面になってもまったく違和感はない,となんの力みもなくあっさりと断言された。わたしはビックリ仰天したのに・・・。今福さんの理由は,能面には黒式尉という真っ黒な翁面があって,わたしたちの眼には慣れ親しんできたものであるから,その延長線上に「オバマ」面はなんの違和感もなく位置づくのだ,と。しかも,能面という「種」の遺伝子さえ相続していれば,外国のいかなる人物も能面になりうるのだ,と。眼からウロコの思いで,この話に耳を傾けていた。

これを受けて,西谷さんは,世界という劇場でいま主役を演じている「オバマ」という役者を,能の舞台に立たせようという,そこへの道を開くものとしてこの能面は意味がある,と説く。つまり,能面が世界に飛翔するきっかけとなるものだ,と。

このことばは,もちろん,「能はまず能面として現れる」という戸井田道三さんのテーゼとも共鳴する。つまり,能は,とうとう「オバマ」という能面として「現れて」しまったのである。いうなれば,能の世界への進出ということになる。あとは,脚本さえあれば,いつでも演ずることができる,ということだ。能は,能面がなかったら,舞うことはできないのだから。言ってみれば,能楽師は能面の前にただ頭を垂れるのみなのだ。もっと言ってしまえば,能面の奥に封じこめられた表情を,いかにして導き出すかが能楽師の仕事なのだから。

「オバマ」という能面が現れたということは,これでいよいよ「オバマ」という能舞台が可能となったということ。その日も遠からず・・・ということだ。こういうことに思い到ると,これはとんでもない現場に立ち合っているのだ,と思わず膝がふるえてくる。えらいことにとちょとなりにけりやがな・・・・(アチャコ)。

ここで少し冷静に考えてみる。たとえば,ドボルザークが「新世界」というオーケストラ曲を作曲したときに,アメリカ先住民たちの旋律をあちこちに取り込んで,アメリカという国を音楽で表現したことは,よく知られているとおりである。あるいは,現代音楽のオーケストラのなかに,日本の伝統楽器である笛や尺八,三味線や鼓,などが取り込まれて演奏されている。これらのことと同じと考えればいい。ヨーロッパ産のクラシック音楽のなかに,あるいは,現代音楽のなかに,世界の各地の旋律が取り込まれていくことは,いまでは,もはやなんの違和感もないはずだ。

ただ,「オバマ」を能面にするということは,ベクトルが逆になっているのだ。日本の伝統芸能である能のなかに,アメリカや世界の主役を演ずる人物を取り込んで能面にするという,じつはとんでもない仕掛けがそこには隠されている。つまりは,能面の世界進出だ。このことの意味は重大である。こうなってくると,柏木さんのやっていることは,やはり,ただごとではなくなってくる。

ふたたび,膝がふるえはじめてきた。

太極拳の兄妹弟子だ・・・などと嘯いている場合ではなくなってくる。えらいことにとちょとなりにけりやがな。ほんとうに,こころの底からそう思う。

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2009-02-16 「抑圧」するものを木っ端みじんに粉砕することの意味。

_ ずっと以前に開催された「ISC・21」名古屋月例会で,「竹内敏晴さんを囲む会」のテープ起こしが送られてきて,いま,その推敲に取り組んでいる。

そのなかに,現代人のからだが,どういうわけか硬直していて,他者の身体に触れることもできない人が多くなっている,という竹内さんの体験談がでてくる。それに対して,われわれの仲間のひとりが「もともとあったからだをどこかに置き忘れてきてしまったのでは・・・?」と発言したのに対して竹内さんは「いや,違うと思う。置き忘れてきたのではなくて,いまでも,そういう身体は持ち合わせているんだ。けれども,その身体がなにか得体の知れないものに覆われていて,自由に動くことをさまたげているんだと思う」という趣旨のやりとりがでてくる。

こういう話に入っていく前段には,エクスターズする身体(恍惚になる身体)をめぐる議論がひとしきりあって,こういう「エクスターズする身体」は近代の法治国家にあっては「困る身体」なので,なにかと法的に規制が加えられてきたのだ・・・という流れがある。その上で,いまの子どもたちだけではなく,学校の先生たちのなかにも「他者の身体」に触れることが困難なからだを持った人たちがいる,という展開である。

その理由が,「置き忘れてきてしまった」のではなく,なにかに「覆われてしまった」のだ,というのが竹内さんの経験談としてでてくる。つまりは,「抑圧された身体」ということになる。では,なにに「抑圧」されているのか,というところまでは踏み込まずに議論は終わっている。

このゲラを推敲しながら,わたしは,ふと,この間の今福さんの発言を思い浮かべながら,その「抑圧」の正体はこういうことではないか,と想像力をはたらかせている。

今福さんの話を要約するとこうである。戸井田道三さんの『能芸論』(敗戦直後の1948年に刊行)を紹介するなかで,伝統的な日本人の身体は封建主義のもとに「抑圧」されたままこんにちを迎えている,という戸井田さんの主張に,今福さんは注目する。このことの含意は,明らかに天皇制批判にある,と。つまり,日本人の身体は天皇制という「抑圧」を受けたまま,第二次世界大戦へと突入していったのだ,と。その結果が,「敗戦」による「占領」という事態を招いた,というわけである。そういう現実に直面した,その真っ只中にあって戸井田さんは,自著の最後をつぎの文章で閉じている,という。すなわち,「抑圧」という能面をひっぱがして,木っ端みじんに粉砕したい。そして,そのあとにどのような「顔」が立ち現れることになるのか,わたしは固唾をのんで観察してみたい,と(これは,わたしの記憶だけで書いているので,実際には,もう少しこなれた文章になっているはず。お許しを)。

敗戦直後の日本人の身体や表情というものを見据えた末の,戸井田道三さんの感慨がいかんなく表出しているようにわたしは思う。

では,さきほどの竹内さんとの会話のやりとりのなかで浮かび上がってきた,現代の日本人の身体や表情について,わたしたちはどのように考えたらいいのか,ということになる。わたしの感慨は以下のとおり。

現代の「抑圧」は他者の「眼」だ。つまり,戸井田さんのいう「封建主義」に匹敵することばを当てはめるとすれば「管理主義」,あるいは「評価主義」ではないか。子どもたちは,経済的な豊さと少子化とともに「管理」がゆきとどき,つねに「大人」の「眼」に「管理」され,「評価」されながら育つ。だから,無意識のうちに「いい子」を演ずることになる。いつも他者の「眼」にさらされ,ほんとうの自己が「覆い隠されて」しまう。そして,どこまでも「いい子」でなくてはならないという「抑圧」を結果として受けてしまう。これに追い打ちを書けるのが「偏差値」のみが重視される学校教育であり,「お受験」がそれに輪をかける。子どもたちはいつのまにか,得体のしれないものに「覆いかぶせられ」てしまい,自己を見失ってしまう。そして,大人になってもこの事態は変わらない。さらに密度の濃い「管理社会」から解放されることはない。こうして「総評論家の時代」(「コメンテーターの時代」)が登場する。

辺見庸に言わせれば「鵺のような全体主義」ということになろうか(この話はいつか,しっかりと書いてみたい)。つまり,つかみどころのない,得体のしれない「全体主義」,ということ。「赤信号,みんなで渡れば怖くない」(たけし)のギャグと同じ。

こういう「管理主義」あるいは「評価主義」に徹底的に覆われてしまったために,子どもたちはみずからの身体のまわりに「バリア」を張って,自己防衛するしかなくなってしまったのではないか。そうして登場したのが「不登校」であり,「閉じ籠もり」であり,「包帯クラブ」(天童荒太)であり,「放っといてくれ」となる。それほどに,いまの子どもたちは追い込まれている,ということに大人たちは気づいていない。いな,大人もすでに同じ情況になってしまっているのだ。

これが現代日本の「抑圧」の実体である。

だとしたら,戸井田さんと同じ論法で,わたしも以下のように言いたい。

「評価主義」「管理主義」というような「数量的合理主義」に覆われた「抑圧」という「能面」をひっぱがし,木っ端みじんに粉砕したい。そして,そのあとに現れるであろう「生身の身体」や「じかに触れる」体験を,胸をときめかせて共有してみたい。

と。

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2009-02-25 インターネットがつながりました。

_ この前のブログを書いた翌日,突然,インターネットがつながらなくなるトラブルがあって,悪戦苦闘してようやく修復までこぎつけました。

もともとパソコンのメカについてはまったくの不案内なので,どうしたものかと考えました。パソコンのいろいろのところをいじっていたら,「インターネット診断」というチェック・ポイントが見つかったので,早速,それを試してみました。その診断の結果,パソコンには異常がないこと,接続しているモデム,またはルーターの回線に問題が発生している可能性があること,の2点が表示されました。そこで,必死になって,その回線の確認作業に入りました。電源を切って,あちこちの接続をすべて確認したのですが,どこも問題はなさそうでした。しかし,最後のラインという記号のついた配線がどこからきているのかわからず,たどって行ってみたら机(ビューロー)と本箱のうしろをとおっているところまではわかったのですが,そのさきがわかりません。仕方がないので,とりあえず,机の中の本や書類を全部出し,本箱の中の本も全部出して動かしてみました。そうしたら,本箱のうしろあたりから絨毯の下に配線がもぐりこんでいて,そこから4mほど伸びていって電話につながっていることがわかりました。書斎には,もう一つの電話が引いてあってパソコンとはこの電話とつながっていて,さらに,もう一つの電話ともつながっていることがわかったという次第です。もう,ずいぶんと前のことなので,こういう接続の仕方をした,ということを忘れてしまっていたわけです。が,それでも,全部接続を確認してみたところ,どこにも問題らしきことは起こっていません。

それで,仕方がないので@niftyのカスタマー・サービス・センターに電話を入れました。ところが,何回かけても30分から40分,お待ちください,という返事。これでは埒があかないと思い,自分でなんとかしてみようと挑戦するも,どうにもなりません。そこでとうとう30分から40分我慢して待つことにしました。その結果,45分後にようやくつながって,やさしいお姉さんが相談に応じてくれました。ここからさきの手続はややこしいので,省略します。が,じつに懇切丁寧に,電話をとおして「どこどこのキーを押してください」「こんどはパスワードを入力してください」「つぎのアドレスを入力してください」「再起動を押してください」という不思議な操作を言われるままに繰り返しているうちに,うまくつながりました。この操作を経験してますますパソコンというものがわからなくなってしまいました。でもまあ,なんとかつながりましたので,これからまたブログを再開します。

とまあ,こんなことがあって,ブログを長い間,休んでしまいました。楽しみにしていらっしゃった方々にはご迷惑をおかけしましたが,こんごともよろしくお願いいたします。

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2009-02-26 野菜を食べろ,というパターナリズム。

_ パターナリズムということばを最近よく耳にする。あまり好きなことばではないが,支持者も多いらしい。

たばこ総合研究センター〔TASC〕が編集・発行している雑誌『談』の最新号(no.83)が特集・パターナリズムと公共性,を組んでいる。まだ,しっかりとは読んでいないので,こちらの感想はあとまわしに。この雑誌のエディターとして辣腕をふるっている佐藤真さんの仕掛けたことなので,相当に期待はしているのだが,はたしてその内容たるやいかに。いずれ,ここでも取り上げて論じてみたいと思う。

それとは別に,ある友人が話してくれた日常のなかのパターナリズムについて,考えてみたい。

ある友人とは,40歳前後と思われる女性編集者。生来の野菜ぎらいで,ふだんはほとんど野菜を食べない,という。そういう話をすると,インテリの女性執筆者の多くは,ほぼ間違いなく,野菜を食べないとからだに悪い,と懇切丁寧にお説教をしてくださるのだ,と。しかも,場合によっては,一つひとつ数字まであげて,どの野菜にどのような栄養価があって,100グラムにつきどれだけの栄養素が含まれていて,人間のからだは一日にこれこれの量のこれこれの栄養素を摂取しなければならないのだ,とそれはそれは情熱をこめて説得にかかるそうである。なかには,万歩計で歩数を毎日はかって記録し,食べた食事の記録も数量化して,消費エネルギーと摂取栄養素との比較までしている人もいるとか。その上で過不足があれば,栄養補給のサプリメントを飲むそうな。そして,すべて,数字で表さないと気がすまない,とか。このぐらい気をつけていても,時折,風邪を引いてしまうから,貴女もちゃんとしなくちゃ駄目よ,という調子なそうな。

それに引き換え,女性編集者は,嫌いなものは食べない,もちろん,数量でからだの管理などはしない。しかも,その日に食べたいな,と思うものはどんどん食べる。つまり,からだが食べたがっているものはなんでも気が済むまで食べる。やや,肥満気味ではあるが,着痩せするので太っているとはだれも気づかない,とはご本人の弁。野菜を食べない代わりに,果物は大好きなのでいっぱい食べる,という。だから,これでいいんだ,と。しかも,よくよく聞いてみると,肉が食べたいなと思ったら,どんなふうに調理しようかと考える。たとえば,ピーマンと炒めて,唐がらしをいっぱい振りかけて食べたいと思ったら,ピーマンをいっぱい入れて炒める,という。滅多にこういうことはないけれども,食べたいお思ったときにはドッサリと食べるという。

そういう話をインテリの執筆者に話すと,そういうのを「わがまま放題というのだ」と叱られるそうな。毎日,満遍なく栄養のバランスを考えながら,きちんとした食生活を送ることが大事なのだから,必ず守らなくてはいけない,とこれまたお説教だそうな。でも,女性編集者は,かなり頻繁に健康診断をしてもらうことにしているが,医学的にはどこも異常はないし,体調もどこも悪くないし,風邪もほとんど引かない,という。でも,わたしのような食生活をしている人は少数派だから,いつも,みんなに総攻撃をくらってしまうが,間違っているでしょうか,と相談される。

そこで,わたしはどう答えたか。

インテリの執筆者のおっしゃることは,どこも間違ってはいません。だから,否定のしようがありません。まことに清く,正しく生活していらっしゃって,まさに世の鏡です。でも,ひとつだけ間違いがあります。それは,自分の正しいと信じている食生活を他者に押しつけることです。自分でひとり正しいと信じて,科学的な裏づけのもとに,自主管理することのできる人は立派です。だからといって,それを他者に押しつけるのは,わたしに言わせれば,こころのどこかに病的なものを感じてしまいます。自分のなかに,どこか,不安を感じている証拠です。ですから,みんな自分と同じようにすることを強要します。これが「パターナリズム」の原点だとわたしは考えています。つまり,正しいことをみんなに広めることは,正しい「公共性」を確保するために必要なのだ,と。

もちろん,これはほんの一例です。これと同じようなことが,もし,信仰の問題で強要されるとしたら,それは憲法違反です。信教の自由に反します。それでも,時折,街角で「折伏」と称するまじめな人びとに出会うことがあります。不幸にして,わたしは一度も,そういう人に声をかけられたことがない。一度だけ,こちらから声をかけて話をしたことがあります。10分くらい話をしたら,向こうさんが逃げて行ってしまいました。なぜでしょう。わたしが質問攻めにしたからです。その質問に答えられなくなってしまったから。そういう矛盾だらけの,善意の押し売りは,信仰だけではなく,もちろん食生活だけてもなく,日常生活のいたるところにころがっています。ですから,わたしは基本的にパターナリズムは嫌いです。

しかし,公共の倫理や道徳が乱れてくると,それをなんとかすべきだという議論が必ず持ち上がってきます。たしかに,多くの人びとに迷惑をかけるようなマナーの悪さは困ったものです。だから,なんとかそれを制止しようという人びとが現れます。これがパターナリズムを生み出す根拠の一つではあります。

ですから,そのあたりのバランスの取り方が問題なわけです。でも,権力はパターナリズムが大好きですから,ちょっと気を許すと,いつのまにやらがんじがらめにされてしまいます。その典型的なものが「法律」というパターナリズムです。

車のシートベルトはその典型例です。安全を守る,というこのこと自体はまったく正しい。しかし,それを法律で規制して全員にそれを強要することの意味はなにか,一度,よくよく考えてみてください。だれのための安全なのか,自分で管理すればいいだけの話,というのがわたしの考え。したくない人はしなくてもいい,と。でも,いまではしないと法律違反です。

医療の現場で,もはや健康状態にはもどれないことが明白で,余命いくばくもない人に人口呼吸器を取り付けたりして,延命措置をとるのも,一種のパターナリズムです。このあたりになると,議論が百出してくることになります。また,臓器移植の問題も同じです。

ついでに言っておけば,ドーピングの問題も同じです。

となってくると,パターナリズムの根はきわめて深いということに気づくはずです。だからこそ,みんなで議論する必要があろう,というのが佐藤真さんの企みなのでしょう。

さあ,いまの仕事に一区切りついたら,『談』の最新号を読むことにしよう。

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2009-02-27 延命治療と刑事責任というパターナリズム

_ 昨夜のブログで「野菜を食べろ」というパターナリズムについて書いたら,今朝の新聞に「延命治療」の話題が一面にでていた。

内容は,救急医学会の調査にもとづくもので,「終末期」と診断された患者さんが「人工呼吸器の取り外しや投薬中止」にいたるまでの手続が,わかりやすく図示されているもの。07年に日本救急医学会の特別委員会がつくった終末期医療に関するガイドライン(指針)に沿って,延命治療を中止した場合(家族らの同意をえた場合でも),現在の法制度では,刑事責任を問われることがある,という。

この場合には,医療現場が作成したガイドラインというパターナリズムと,刑事責任という法制度にもとづくパターナリズムの激突である。いずれも,「公共性」をめぐる大問題である。この問題を細かく分析していくと際限がなくなるので,ここでは原則的なことだけを取り上げることにする。ここで問題になるのは,家族の同意が得られてもなお刑事責任が問われる可能性がある,ということだ。この場合の「正義」は民意だという。つまり,家族も医師も納得して「延命中止」をしても,民意によって定められた法制度が「ノー」といえば刑事問題になる,というのだ。つまり,当事者以上に「民意」という「公共性」が優先される,これも一つのパターナリズムである。ここでは,個人の意志や感性や情緒の問題はいっさい無視されてしまう。しかも,それが「民意」という「多数決」原理で支配されてしまうところに大きな問題がある。

臓器移植の場合の「脳死」を「死」と判定するガイドラインが欧米で承認されるようになったのは,「民意」という「多数決」原理にもちこんで,それが成功したからだ,と聞いている。わたしの疑問は,人間の生死にかかわることがらを「多数決原則」にゆだねてしまっていいのか,ということだ。同じことが,裁判制度の改革にともなう民間人の登用がいま大きな話題になっている。ここでも「民意」という「多数決原則」が採用されている。つまり,「公共性」の問題だから,すべて「多数決原則」にゆだねるべし,というパターナリズムが社会の,あるいは個人生活のすみずみまで浸透していったら,生身の人間の居場所はなくなってしまうだろう。

すでに,教育現場でも同じような問題があちこちに持ち上がってきている。数量的効率主義に毒されてしまった教育は,もはや,人間の心身まで管理することになってしまった。しかも,数量的に合理化できない要素はすべて「切り捨て」である。わたしに言わせれば,人間の「半分」だけに光を当てて,あとは「知らぬ勘兵衛」である。

ああ,だんだんと書いていること自体が辛くなってきた。これをこのまま書き続けるとわたしの気分まで落ち込んでいってしまいそうだ。

結論を急ごう。公共性の問題はたしかに重要である。だから,われわれが社会生活を営む上で,必要最小限内に「公共性」というパターナリズムを封じ込んでおくことが大事だ。つまり,われわれがコントロールできる範囲内で。あとは,個人の自由裁量にゆだねるべきだ。

「民意」という名のもとに国家権力が,個人の基本的人権にかかわる問題にまで口出しするようになることの恐ろしさ・・・パターナリズムの怖さはそこにある。

すでに,ジョウジ・オウエルが『1984年』という小説のなかで,もののみごとに私生活まで国家が管理する社会を描いている。起床時間から顔を洗い,体操をして,食事をする,それらの内容まですべてのメニューが国家によって決められていて,しかも,すべてテレビ・カメラによって監視されている人間の悲哀を。

そういう波がいまじわじわと押し寄せてきている,とわたしは肌で感じている。だから,パターナリズムということばが好きではないのだ。

しかし,よくよく考えてみるがいい。近代スポーツはまさにスポーツの「パターナリズム」の最先端を走った文化ではなかったか。そしていま,その名を「グローバリズム」という衣に着替えて,新たなスポーツの「パターナリズム」を進展させている,とわたしの直観がそう教えてくれる。サブイボが立つほどに。この皮膚感覚の方をわたしは大事にしたい。そして,信じたい。理屈以前の問題として。

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2009-02-28 今福,西谷,両氏のはやわざ。

_ 2月9日(月)の柏木裕美さんの能面展のオープニング・セレモニーとして行われた鼎談を,松本芳明さんがテープ起こしをしてくださり,それにわたしが若干手をいれて,今福,西谷の両氏に送信。そうしたら,なんと,お二人とも,翌日には手直しをして送り返してくださった。

びっくり仰天である。などと書いたら失礼,ですよね。でも,西谷さんはともかくとして,今福さんはこだわりの人なので,ご自分で納得されないかぎり原稿を送るということはなさらない。その実績もお持ちである。このあたりのことは,竹谷和之さんがよくご存知。その代わり,書かれた原稿は,まるで詩のような名文。このこともみなさんもよくご存知のとおり。熟読玩味してもなお余りある文章を書かれる人である。だから,だれもが,ひたすら,今福さんの原稿を待つ。

それが,今回は,丸一日,待つこともなく即座に戻ってきたのである。わたしからすれば「奇跡」としかいいようがない。しかも,お二人とも足並みを揃えての早業であった。なんともはや,嬉しいかぎりである。それにしても,なにかがあった,と思うしかない。

松本さんのテープ起こしを読んで,最初に思ったことは,今回のお二人のお話は,これまでにも増して,問題の核心にストレートに触れるものであった,ということだ。しかも,じつに単純明解に。

たとえば,こうだ。今福さんは,戸井田道三の話を手がかりしながら,じつは,柏木さんのお仕事の「凄さ」を,もののみごとに説いてみせた。それは,戸井田道三が,長い封建制による「抑圧」から,いまこそ解放されるべきときだ,と声高らかに宣言した敗戦直後の著書『能芸論』の最後のフレーズ「人びとに息苦しい思いをかぶせていた能面を人びとの顔からはぎ取り,これを木っ端微塵に粉砕してみたいとわたしは思う。その面の下からはいったいどんな顔が現れてくるのであろうか,わたしは期待にこころをおののきしつつそれを見つめているのである」を引いて,婉曲的に,柏木さんの今回の創作面の試みは,まさに,この戸井田道三の心境と共振・共鳴するものではないか,と呼びかける。わたしはこころの底から感動を覚えた。そして,今福さんは,柏木さんがなぜこのような試みに,意を決して転じていったのか,その理由についても考えてみたいと思うが,今回はここまでで止めておく,として話を閉じる。

その今福さんの話を,まるで,予期していたかのごとく,西谷さんは,なぜ,柏木さんはこういう創作への道を歩まねばならなかったのか,ということをこれまたみごとに説明してくれた。500年,600年という能面の伝統の技を何十年にもわたって継承しつつ,その技法をしっかりと身につけ守りながら,なおかつ,新しい創作面に向かわざるを得なかった理由を,「まさに,現代という世界を視野にいれて,その世界を真っ正面から受け止めつつ生きている人なればこその当然の成り行きであって,その真摯な生き方そのものが原動力になっている」と説く。つまり,柏木さんというひとりの面打師の,一歩もあとには引かない,ぎりぎりの生き方の明かしとして,今回の創作面が登場することになったのだ,と西谷さんは説く。この話にも,わたしは深く感動する。

なぜなら,では,お前は,それだけの覚悟をもって世界と対面し,スポーツ史研究に取り組んできたか,とわたしの耳には聞こえてくるからだ。今福さんは,柏木さんのお仕事に現代社会の含みもつ「抑圧」からの解放を読みとり,西谷さんは,現代という時代や世界と真っ正面から向き合って生きている柏木さんの「生き方」の当然の帰結として,今回の創作面を受け止めていらっしゃる。それほどの自覚をもって,お前は,スポーツ史研究に取り組んできたのか,とわたしはみずからに問いかける。そういう姿勢こそが,今福さんの言われる「批評」ということの原点ではないか,とわたしは考える。

こうした,絶妙な対話が,あの鼎談のなかで展開されていたのだ,といまごろになってしみじみとわかってくる。そして,たぶん,お二人とも,そのことを存分に分かり合っていたからこそ,こんどの「訂正・加筆」の仕事にも,まっさきに対応されたのであろう,とわたしは想像する。

いい仕事は先送りにはしない。楽しい仕事も先送りにはしない。ましてや,柏木さんの創作面という,歴史的な「できごと」に立ち合った,この感動から紡ぎだされたことばのかずかずは,お二人にとっても忘れがたい経験として記憶されたに違いない。だからこそ,「すぐに」とりかかってくださったのであろう,とわたしは確信する。

この推理が当たっているかどうかはどちらでもいい。とにかく,奇跡的な早業がなされた,という事実にわたしはひたすら感動するのである。そして,お二人とも,心地よさげににこにこと微笑んでいらっしゃる,そんな姿までがわたしの脳裏をかすめていく。けだし,至福のときである。

そにかく,わたしは嬉しいのひとこと。そして,それをなさしめた柏木さんというお人柄とその作品に,限りなき敬意を表するのみ。

そういう場に立ち合えることの幸せ。大切にしたい。

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