Diary


2009-12-01 5日間の旅から帰る。

_ 11月27日に出発して,今日(12月1日)旅からもどった。旅は日常とはまったく別の時間が流れ,異質の刺激がいっぱい。しかし,くたくたに疲れた。

27日は名古屋の某女子大学から講義の依頼があり,いそいそとでかけた。が,いきなり新横浜でとんでもない大失態をやらかしてしまった。新横浜には予定の時刻よりも30分も早く到着。駅のプラットフォームでおむすび(権兵衛)を食べ,つづいて講義のネタ本を夢中になって読んでいた。ひっきりなしに新幹線がやってきてつぎつぎに発車していく。ふと気づいて前をみたら,予定の列車が到着している。あわてて,飛び乗った。座席に坐ってすぐにネタ本のつづきを読み始める。沼津で,となりの席に人がやってきて,大きな荷物を網棚に乗せた。つられてその荷物をみていた。そのとき,ハッと気づく。わたしのトランクはどこにあるのか?と。網棚にもない。足元にもない。あれっ? どこに置いたのだろうか,と考える。突然,ぞっとする。新横浜のプラットフォームに置き去りにしてきてしまったことにようやく気づく。すぐに車掌さんを探して,ことの次第を伝える。すぐに連絡をとってみます,とのこと。ほどなく,車掌さんがやってきて,それらしきトランクが見つかりました。これから引き返して引き取りに行きますか?という。いまから引き返してトランクを受け取りにもどったのでは,講義の時間に間に合わない。仕方がないので,後日,受け取ることにして,名古屋の女子大に向かう。困ったことに,講義用のノートがトランクの中にある。一番大事なノートがない。レジュメはメールで送信してあるが,このレジュメは講義にはほとんど役に立たない代物である。気持ちばかりが焦って,講義用のノートの内容が思い出せない。頭が真っ白になったまま女子大に到着。ほどなく,講義ははじまる。

しかも,いつもの研究会のメンバーも坐って楽しみにして待っていてくれる。おまけに,女子大の哲学の先生も坐っていらっしゃる。もう,完全にパニックに陥ってしまっている。なんとか気持ちを静めて,どこか話の糸口をみつけようと懸命に努力するが,一向にいつものような調子がでてこない。冷や汗たらたらの時間がずーっとつづく。ついには,行く先不明になって,座礁に乗り上げてしまう。フロアの先生から助言をもらいながら,なんとか話をつなげようと必死になるも無駄。やみくもに思いつくことを断片的に話すも,つぎにつながらない。ほんとうに困り果ててしまった。こんなこともあるのか・・・と自分で自分が嫌になってしまう。というよりも情けなくなってしまう。

それでもなんとか展望がみえてきたときには,すでに時間切れ。わたしとしては,本邦初公開となる講義内容に挑戦をして,みずからの殻を打ち破って,新しい革袋に新しい酒を注ぎ込もうと意欲満々だったのに・・・・。それが果たせなかった。それどころか講義としては大失敗である。なんとお侘びをしたらいいのか,わけのわからないお侘びをして,この講義を終えた。後味が悪いことかぎりなし。このまま,どこかに姿を消してしまいたい。学生さんはもとより,折角,遠くから聞きにきてくれた研究者仲間,そして,哲学の先生,ひたすら頭を下げるしかない。が,もう取り返しがつかない。

こうなったら,お侘びの印に,予定していた講義内容を文章化して,わたしの「レポート」として提出するしかない。失敗転じて福となすべく,最後の手段を打つしかない。書かなくてはならない原稿は他に山ほどあるというのに・・・。でも,そんなことは言ってはいられない。やるべきことをやって,トンネルから抜け出さないことには気持ちが収まらない。

これが,この長い旅の初日のできごとであった。

その翌日から学会があり(28・29日),学生時代の寮の同期会(ことしはわたしが幹事)が一泊二日の温泉旅行。そして,5日目の今日(1日),帰宅。この間のことは,また,いつか折をみて書いてみたいと思うことがたくさんある。それだけ密度の濃い時間を過ごしてきたので,新たに考えなくてはならないこともたくさんあった。その意味では旅はいいものだ。しかし,それにしても初日の大失態は痛手だった。しかも,この傷は深い。立ち直るにはしばらくの時間が必要だ。そのためにも早く「レポート」を書き上げなくてはいけない。

それいけ,ワッショイ,である。わたしのところに,はたして,救いの神さまはやってくるだろうか。

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2009-12-02 稽古のあとのハヤシライス。

_ 今日は太極拳の稽古の日。稽古が終わったあとの昼食は,近くの喫茶店でハヤシライスを食べながらよもやま話に花が咲く。

このよもやま話が,ときおり,思いがけない進み行きとなり,ただ聞き流していたのではもったいないレベルに達することがある。もちろん兄弟弟子のNさんの話である。この話を録音しておいて,いい話だけ原稿に起こして,いつか本にしようということになった。書名は『稽古のあとのハヤシライス』と,その場で決まった。こういう瓢箪から駒がとび出すようなときの話は早い。

今日は,その第一回目。早速,ボイス・レコーダーをセットして,よもやま話をはじめる。いきなりKさんが「ユンケル」は効くか効かないかという話をはじめる。しかも,とても高価な種類の「ユンケル」の話をしている。それを聞いていたNさんが,われわれが飲むのはもっと安物で十分,という話をする。どうして?とKさんが問う。だって,ふつうの疲れをとるだけなら安物で結構。お相撲でもとるというのであれば話は別だが・・・,とNさん。えっ,じゃあ,女の人はお相撲はとらないから高い「ユンケル」は飲まなくていいんだ・・・,とKさん。これを聞いていたわたしはおもわず吹き出しそうになったが,Nさんがどう応答するのか興味があったので黙って聞き流す。いつもなら,すぐに,Nさんの言っているお相撲の意味について解説をするところだが,今日はがまんする。そうしたら,Nさんがちょっとことばにつまりながらも,いやいや『今昔物語』などを読むと女相撲の話もでてきて,女の人もお相撲をとった時代がありますよ,と切り返す。さすがはNさん,うまく切り返したなぁと感心しながらわたしは黙って聞いている。Kさんは,へぇーっ,どんな話が書いてあるんですか?と問う。ここからひとしきり『今昔物語』のなかに登場する女相撲の話を詳細にNさんが展開。

ここから本格的なお相撲の話になり,相撲の語源は「相舞」(そうまい)で,二人の力士が相身互いに組み合って舞うことにある,という折口信夫の説まで登場する。するとKさんが,いまの大相撲は外国人ばかりで,国技でもなんでもないよね,という。すかさず,Nさんが反応して,相撲は中国から半島を経由して日本に伝来したもののはずで,異人とか,まれびととか,異形の人とかいうのはその痕跡のひとつなのでは? だから,国技と言われる相撲はもともとから外国人のものだったのだから,別に驚くことはない。いまの大相撲はもともとの姿にもどっただけの話である,と。これを聞いてわたしがびっくり。そういえば,野見宿禰は天皇が死ぬとその塚のまわりに人間を生き埋めにするのが慣習となっていたがその代わりに埴輪を埋めることを提案したことが日本書紀には書かれていて,野見宿禰は葬祭儀礼を司る渡来系の人だった,と考えられているとわたし。ここから大いに話がはずみ,とうとう相撲節会は,全国にちらばっている「力人」たちを集めてきて相撲をとらせ,強い力士を天皇のもとに抱え込むための「天皇服属儀礼」の一つだった,というところまで微にいり細にわたる話が展開。さらには,野見宿禰の子孫は代々優秀な人物が現れ,天皇に大いに取り立てられ立身出世をはたすのだが,周囲の公家たちからは,もともと葬祭儀礼を司る子孫ではないかと蔑視される。それがいやで天皇に直訴して,平城京のすぐ西側にある菅原の地に移住し,以後,菅原姓を名乗るようになる。その子孫から菅原道真が現れる。しかし,位階を上り詰めたあとも公家たちに嫌われ,とうとう濡れ衣を着せられて太宰府に流されてしまう。すると,都では雷が鳴り響き,疫病が流行して,天皇の子どもたちが相次いで死んでしまう。これは菅原道真の霊の祟りに違いないと恐れおののいた天皇家の人びとが,天神さまを祀り,祇園まつりを主催して,ようやく疫病が収まったという伝承がある,というような話までとび出す。

もともと天皇家だって渡来系の人であることは,昭和天皇みずから語ったことによってよく知られているとおり。また,京都の街は,渡来人である秦氏が開いたのがはじまりである,と京都の博物館の常設展に明示されている。

こうなってくると,国技とはなにか,という根源的な問いに立ち返ることが必要になってくる。「相撲は国技である」などと言い始めたのは明治以後のはず(これは,確認を要す)。だとしたら,なんのために「国技」などと命名する必要があったのか,と問わねばなるまい。近代国民国家を立ち上げるための,一つの文化装置だったのでは・・・・という仮説が浮かび上がってくる。

とまあ,こんなよもやま話に花が咲き,昼食会を終了。第一回目から面白い話が展開したものだ,と大満足。そこで,ボイス・レコーダーを確認したら,操作ミスでひとことも録音できていないことが判明。いやはや勿体ないことをしたものだ,と大反省。そこで忘れないうちに話題の概要だけでも記録しておこうと考え,このブログを利用させてもらった。

この分では『稽古のあとのハヤシライス』という本の刊行はいつのことになることやら・・・・。でも,諦めてはいけない。粘り強く,失敗しても失敗しても,しつこく挑戦あるのみ。そのうちなんとかなるだろう・・・と。

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2009-12-06 相撲は「国技」の由来。

_ 12月2日に「お相撲」のことを書いたら,珍しく3人の人から書き込みがあった。嬉しいかぎりである。

そこで,「要確認」として残しておいた,「相撲は国技」の由来を調べてみた。というよりは,偶然『相撲,国技となる』(風見明著,大修館書店,2002年)という本が,食卓用のテーブルの下に積んであった本のなかからでてきたので,その由来を確認しただけのこと。

ついでに白状しておけば,沖縄に住んでいる娘が彼氏を連れて帰ってくるというのであわててテーブルのまわりの書籍を移動させる必要があった。そのうちのほとんどは雑誌だったので,それらは全部捨てることにし,単行本だけは残した。そのなかから上記の本がでてきた,という次第。それが,娘たちが帰ってくる前日の3日のことである。僥倖というべきか。

さて,本題に入ろう。「相撲は国技」という考え方が定着したのは,明治42年6月2日に開館式が行われた「国技館」がきっかけであった,とこの本にある。しかも,相撲常設館として建設された建物の名前が「国技館」と決まったのは,開館式の直前だった。相撲常設館の開館委員長は板垣退助。かれは,角○(すもう)尚武館を提案して衆議にはかったが,この案では決まらなかった。他の委員からは,尚武館,東京大角力尚武館,大相撲常設館尚武館,相撲館,といった対案がだされたが決まらず,委員として参加していた協会年寄に一任することとなった。

そこで,協会年寄は協会役員を集めて館名について相談した。尾車文五郎検査役が国技館を提案。この名前がいいだろうということになって,これを板垣委員長に報告して,了承をえて正式決定。このときの「国技館」という館名を考えるヒントとなったものが「初興行披露文」なる文章だったという。これを書いたのは江見水陰(えみ・すいいん)という小説家で好角家。その核心部分を引いておくと以下のようである。

「大角力常設館全く成り,来る五月初興行仕るに就いて,御披露申し上げます。(中略)。事新しく申上ぐるも如何なれど抑(そもそ)も角力は日本の国技,歴代の朝廷之を奨励せられ,相撲節会の盛事は,尚武の気を養い来たり。年々此儀行われて,力士の面目ために一段の栄を加え来たりしも,中世廃れて,遺憾ながら今日に及んで居ります」

ここに「角力は日本の国技」という文言がある。この文言をヒントにして尾車文五郎検査役が「国技館」なる館名を考えたという。この「国技館」なる名前に対して,板垣退助は気に入らなかったらしい。こんな言いにくくて小難しい名前をつけたのは拙者の不行届きであった,と東京朝日新聞(明治42年6月4日)に書いたという。しかし,この名前は世間一般には受けがよかった。またたくまにこの名前が知られるようになり,同時に「相撲は日本の国技」という認識を広まっていったという。そして,明治45年2月の浅草国技館を皮切りに,京都国技館(明治45年6月開館),名古屋国技館(大正3年2月開館),大阪国技館(大正8年9月開館)など,続々と「国技館」という名のついた相撲常設館が各地に建造された。こうして,「国技館」という名称と「相撲は日本の国技」という認識はセットになって,広く国民の間に浸透していくこととなった,という次第。

以上が,このテクストをとおして確認できたことがらである。

明治42年(1909年)といえば,まさに,日本が近代国民国家としての骨格を明確にし,日清・日露の二度の戦争に勝利して意気盛んな時代であった。そのタイミングとみごとに同調するかのように,天皇制と国技館と国技は三点セットとして国民の間に浸透していった。ほとんど批判らしき批判もないまま(「国技」という考え方に対する疑問など),さもむかしから「国技」として相撲が存在していたかのような認識が定着してしまった。よくよく考えてみれば,たかだかこの100年の間の歴史の捏造にすぎない,というのに。

こうして,こんにちの横綱審議委員会の委員たちを筆頭に,メディアもほとんど無批判に「相撲は国技」だと信じて疑わない。だから,圧倒的多数の国民もそう信じて疑わない。だから,ゼノフォビアともおぼしき言動が大通りをまかり通ることになる。困ったものである。

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2009-12-07 『タバコ狩り』再読。

_ 以前,このブログでこの本を紹介したことがある。が,ある必要性があって,再読してみた。やはり,この本は素晴らしい。

ある必要性とは,しばらく前のある会合の席で「受動喫煙」が話題になり,そこにいた8人の人(わたしを除いて)が全員,タバコ有害論者で「嫌煙家」ばかりだったからだ。しかも,かなりのインテリばかり。その中でただひとり,わたしだけが「受動喫煙」はほとんど根拠のない話であり,それ以上にはるかに有害なのは自動車の排気ガスだ,と主張。しかし,どのように話をしても,てんから受け付けてはくれない。お前は「JT」の回し者かとまで言われてしまった。もちろん,『タバコ狩り』(室井尚著,平凡社新書,2009年6月)という本を紹介し,その論証性に依拠しながら話をしたにもかかわらず・・・・。

「受動喫煙」なることばを世界中に知らしめたのは,平山論文。間違った情報を流してしまうといけないので,大事なところはこの著者である室井尚氏の文章を引用しておくことにする。

・・・・1981年に発表された平山論文『Non-Smoking wives of heavy

smokers have a higher risk of lung cancer : a study from Japan』(ヘビースモーカーの夫を持つ非喫煙者の妻たちは肺ガンの高いリスクを持つ。日本からの研究)は,世界で初めて受動喫煙による健康被害を証明したとされている論文であり,その後厚生省(当時)の「たばこ白書」や厚生労働省になってからの『健康日本21』などにも,その根拠として引用されているからです。「健康増進法」もまた平山論文を前提として策定されました。また,先述の『たばこアトラス』の受動喫煙のページでも平山氏の名前は大々的に挙げられており,いわば「受動喫煙」研究の金字塔とされている論文なのです。

平山雄氏の論文は,1966年(昭和41年)から79年(昭和54年)まで約24万人を対象に行われた厚生省(当時)の委託研究でした。このうち平山は,40歳以上の9万1540人の非喫煙日本人妻を14年間追跡すコホート研究を行っています。妻の標準化死亡比を夫の喫煙習慣に関して評価したところ,ヘビースモーカーの妻ほど,肺ガンで死亡するリスクが高い(約2倍)ことを,平山は見出したとされています。その後の研究で,受動喫煙と肺ガンとの関連性に関する数字がせいぜい1.1倍から1.3倍にしかならないことからしても,最も劇的に受動喫煙が病気を引き起こすことを示した研究です。

この論文に関しては,当初からその信頼性が疑わしいという批判の声が上がっていました。しかし,嫌煙運動の流れが強まるにつれて,これを支持する人たちの声の方が強まり,批判の声は打ち消されたり,その批判の中身にかかわらず単なるタバコ会社の陰謀として非難されたりしています。

以下,省略。

ここから著者は,克明に平山論文を分析し,その矛盾を一つひとつ指摘し,最終的に喫煙と肺ガンとの関係はほとんど実証できていない(その他の研究も含めて,現段階では実証できていない)と結論づけます。そうして,一番恐ろしいことは,こうした「受動喫煙」の弊害をWHOまでがとりあげて,世界的なキャンペーンに仕立て上げてしまった「衛生帝国主義」(このことばはわたしが意図的に用いています)の蔓延にある,と指摘しています。これは,まさに,ヨーロッパ近代を通過して到達した新しい「中世」の「魔女狩り」に匹敵するものだ,と。

そして,さらに,著者の室井氏は,思想・哲学をも援用しながら,「9・11」以後,この傾向は一段と加速化し,いまや「テロリスト」と指名してしまえばいかなる「暴力」も肯定される恐ろしい時代に突入している,と説いています。こうした動向と「タバコ狩り」はけして無縁ではない,だからこそあえて「愛煙家」宣言をして,問題の本質に迫るべく,根源的な「問い」を発しつづけることが必要なのだ,と主張します。

最後に,もう一度,著者の極めつけの文章を引いておきたいと思います。

人々は「文明」は「人間」が作り出すものだから,人間が自由にコントロールできるものだと考えています。しかし,人間はそんなに合理的な生き物ではありません。理性や論理や科学ではコントロールしきれない,もっと動物的な,というか,生命の根底に潜んでいるエネルギーや無意識の衝動によってのみ文明は変化していくのです。マルクスが見過ごしていて,ニーチェやフロイトが気づいた深い問題がここには横たわっています。そして,いったん動き始めたら,それはもはや合理的な判断によって乗り越えたり,止めたりすることはできなくなってしまうものなのです。

むしろ問題なのは,文明を動かしているのが「人間の理性」だと確信している人々の方です。タバコをめぐる言説に典型的なように,(人間の理性に支えられた,素晴らしい!)「科学」によってタバコの有害性は「完全に証明されている」のだから,そのことが「エビデント」である以上は,それを「絶滅」し「消滅」させることが「正しい」と,頑なに信じ込み,決めつけているような人々のことです。

この場合の「科学」は中世における「ローマ教会」とほぼ同じ意味で使われています。私はこういう人たちに対しては単純に「醜い」と思っています。こういう人たちの特徴は,WHOや医師会といった権威におもねり,それに従わない人たちに対して居丈高に自分たちの「正しさ」を押しつけ,がんじがらめに社会を管理しようとすることです。

このあたりで引用は打ち止めにしておきましょう。

もう,いかなる解説も不要なほどに著者の意図がはっきりと伝わってきます。「正義」という名のもとに,それに従わない者はすべて「絶滅」「消滅」させることが正当化されている「世界」を,あえて「新しい中世」「中世のローマ教会」に置き換えて,ことの本質を浮き彫りにさせようとしていることは,論を待つまでもないことでしょう。

この本はきわめて身近な問題である「受動喫煙」を窓口にした思想・哲学の本であり,わたしたちが生きる現代社会・現代世界の根底に横たわる根源的な問題を考えるための本になっています。「理性」とはなにか,と問う西谷修の論ともみごとに通底し,共鳴し合っているようにわたしには感じられます。もっと言ってしまえば,著者の室井尚氏の根底にある思想は,ジョルジュ・バタイユのそれである,とわたしは共感をもって理解しています。これはひょっとして深読みのしすぎかも・・・。

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2009-12-08 『近代スポーツのミッションは・・・』再読。

_ 『近代スポーツのミッションは終ったか』─身体・メディア・世界(平凡社刊,今福,西谷の両氏と共著,2009年)の再読に入る。

自著を読むのは気が重いものである。わたしは好きではない。だから,ほとんど読み返すということをしない。しかし,この本は別だ。なんといったって,今福・西谷の両氏との共著である。自分の発言のところは,やはり,気が重い。しかし,このお二人の発言のところは目が覚めるような,眼からウロコが落ちるような,そして,こころの底まで腑に落ちるような,あるいはまた,こんな視点・見方があるのかと驚かされるような,そんな発見につぐ発見がある。何回,読んでも新鮮である,というのが不思議だ。

今回は,この本をテクストにして神戸市外国語大学で集中講義を行うことになっているので,いつもとは違う読み方になっている。つまり,受け身で読むのがふだんの本の読み方なのだが,今回は,能動的である。とりわけ,今福・西谷の両氏の発言の根底に横たわっている思想・哲学をどこまで察知して,解説していくか,という重い仕事が待っている。

集中講義の根幹はこのテクストがあるので,まずは,このテクストに沿って順番に読み込んでいけばいい。問題は,この根幹に,どのような枝葉をつけて,解説していくかである。今福さんについては,前期の集中講義で『ブラジルのホモ・ルーデンス』─サッカー批評原論を取り上げ,その関連の本についてもかなり紹介をし,今福さんの思想・哲学の概要についてもすでにひととおりの説明もしてあるので,その分だけ手間はかからない。しかし,西谷さんのことについては,ほとんど初手からの説明が必要となってくる。これはいささかやっかいではある。でも,わたしにとっては長年の知己としての蓄積があるので,ふつうの人とは違う説明がいくらか可能ではある。ひょっとしたら,それだけで(西谷さんについての解説だけで),この授業の大半を埋めていくことも可能であろう。しかし,そういうわけにもいかないので,まずは,西谷さんの最新刊である『理性の探求』(岩波書店)を副読本として指定しておいた。だから,主としてこの本の記述を手がかりにして,西谷さんの思想・哲学を語ることになろう。でも,ジョルジュ・バタイユの思想・哲学と西谷修との関係だけは,特別のテーマを立てて説明することは不可欠になりそうだ。まあ,そのときの雰囲気に身をゆだねることにして。

さて,集中講義の準備として,このテクストを読み始めると,ゲラの段階で何回となく読み通したこの本の内容がまた別の読物として伝わってくるから不思議だ。とりわけ,今福・西谷の両氏のところはますます強烈なメッセージとなって迫ってくる。もちろん,この間にまたわたしの思考もいくらか深まったということなのだろうが,それにしても恐ろしい。しかも,それらの発言がつぎつぎに新しい研究テーマを想起させるほどの力をもっている。だから,講義のためのノートをとっているのか,自分の研究のためのノートをとっているのかわからなくなってしまう。それに引き換え,自分の発言部分の貧しさ,お粗末さは目を覆うばかりである。なんともはや情けなくなってくる。この部分だけカットして,お二人の発言だけで授業をやりたくなってくる。困ったものだ。

「プロローグ」として書いた,また,それがそのまま書名のタイトルにまでなった「近代スポーツのミッションは終ったか」──<透明化する身体>のゆくえ,を読み返して冷や汗が流れてきた。書いた当時(もう一年以上前)は,自分としてはある程度までは納得のいく文章だったのだが,いまはもう物足りない。薄っぺらいのである。もっと読み手のこころにグサッとくるような文章の運びと,ことばの使い方ができるはずなのに・・・と。要するに未熟なのである。できることなら,もう一度,書き直したい。そんな衝動に駆られる。でもまあ,逆に考えれば,わずか一年ほどの間にわたしの思考もいくらか深まってきている,ということを喜びとすべきなのかもしれない。まあ,こんな感触の得られるうちが花だとも言えよう。こうして一年,一年,見晴らしのいいところに立てるよう心がけるべし,とみずからを励まして,この「プロローグ」の内容については目をつむることにしよう。そして,その代わり,授業では,みずからの主張を徹底的に批判しつつ新たな知の地平を開くべく努力せよ,と鞭打つことにしよう。

さて,この集中講義は,今月の16日(水)から三日間,朝8時50分から午後5時50分まで,神戸市外国語大学で行われる。詳しくは,このHPの掲示板で確認してください。集中講義は,オープンにしていますので,どなたでも聴講できます。が,一応,神戸市外国語大学の竹谷和之先生の了解をとりつけておくか,このブログに聴講希望の「書き込み」をしてください。あるいは,inagaki@isc21.jp宛にメールをください。

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2009-12-09 スポーツのヴァーチャル化の問題。

_ 『近代スポーツのミッションは・・・』の第一章で,今福さんと西谷さんが「スポーツのヴァーチャル化」の問題をとりあげ,もはやヴァーチャルがリアルを凌駕する時代に突入したのだ,というきわめて刺激的な議論を展開している。

しかも,その議論の発端はわたしの発言だった。それは以下のように始まる。こんにちのわたしたちはスポーツのほとんどをテレビというメディアをとおして触れるだけで,実際のトップ・アスリートたちの生身の身体を自分の眼でみるという経験がきわめて少なくなってしまっている。たとえば,大相撲なども,場所に足を運んでじかに力士たちの身体を自分の眼で確かめるということなしに,テレビの映像をとおして力士たちの身体を眺めている人の方が圧倒的多数を占める時代になっている。しかし,力士たちの身体は,土俵に上がって仕切り直しをしている間にも,みるみる赤みを帯びてきて,次第に気迫がからだ全体に漲ってくる。その上で立ち合いがあり,取り組みが展開する。これが真の相撲であって,テレビというメディアをとおしてみている相撲はヴァーチャル・リアリティのものであって,それは本物の相撲とはいえない・・・というわたしの発言に対して今福さんは,つぎのように反論を展開している。

「いま,稲垣さんが最後に言われた点ですが,相撲を生で,桟敷かできればかぶりつきあたりの席で見れば,それはもうまったく別のものが見える,というのはまったくその通りでしょう。ただ,それこそが「真の」相撲である,ともはや言えるのかどうか,ということになると少し微妙です。ある意味で,もはやわれわれにとっての相撲とは,もっぱらテレビをとおして,メディアをとおして届けられるものになりかけている。相撲に限らず,プロスポーツと社会の接点は,現場であるよりはるかにメディアを媒介に成立しているわけですから。だからむしろ,現場に行って見るものは,もはやスポーツじゃない,あるいはスポーツという枠組みでは捉えきれない何かになろうとしている・・・。」

この発言を聞いて,わたしはびっくり仰天しながらも,「あぁ,そういう視点もあるでしょうね」と応じている。それに対して今福さんは,さらに,つぎのような発言を展開している。

「やや逆説的な見方ではありますが。だから,現場に本物のスポーツがあってメディアが虚像を流しているという構図ではなくて,メディアにおいてスポーツが再創造されて,われわれはそれをスポーツとしてあらたに受容し認識しなければいけない状況がもうやってきたのかもしれない。メディアの演出されたイメージや造話作用のなかにスポーツの不在をただ嘆くのではなく,逆に従来のスポーツというノスタルジーにもはや逃避するだけではすまないかたちで,身体文化の表象作用の先端が何を生み出しかけているのか。それを問うべきなんでしょうね。」

というきわめて重大な視点を提示している。つまり,リアル・リアリティよりもヴァーチャル・リアリティの方にスポーツの比重が移りつつあり,そこに新たな可能性をみよう,というのである。こうした発言を受けて,西谷さんは,女子パレーボールのテレビ中継を取り上げ,アイドル選手の顔ばかりがクローズアップされていて,試合の攻防がどのように展開しているかはもはや関心の<外>にあるかのように,相手チームの選手の顔もプレーもなにも映そうとはしない。ひたすら,日本代表チームの選手たちの顔やプレーのみを追いかけていて,相手チームのそれはまったく無視。まるで相手チームは不在であるかのような映像の取り扱い方をしている。

この手法は,じつは湾岸戦争のときも,その後のアフガンやイラクでの戦争のときにもとったテレビ放映の仕方とまったく同じである,と西谷さんは指摘する。つまり,アメリカ側の映像には兵士の姿も顔もみえているが,相手側の様子は,ただミサイルが飛んでいく光の軌跡だけが映し出され,そのさきでどのようなことが起こっているのかは不問に付す,その手法とまったく同じだ,と。これがこんにちの戦争というもののイメージを形作っているのだ,と。もっと言ってしまえば,相手をテロリストと決めてしまえば,あとはいかなる方法を用いて相手を殺そうとすべては合理化され,正当化されてしまう,そういう発想がスポーツ・メディアにも適用されているのだ,と。

このことは,2003年に高橋尚子選手が走った東京国際女子マラソンにも該当する,として西谷さんは詳しくこのときのテレビ報道の構造を分析してみせる。簡単に述べておけば,高橋尚子選手ひとりが重要なのであって,彼女がいかに素晴らしい走りをみせて,オリンピック代表選手となっていくか,というシナリオが最初から用意されていて,それ以外の選手は不要なのである。だから,高橋選手が途中で失速し,アレム選手に抜かれてしまうと,アナウンサーも解説者もシナリオを用意したセリフがなくなってしまい,もはや実況中継ができなくなってしまうような事態に陥る。つまり,最初からカウンター・パート(競争相手)は眼中にないのである。こういう放映の仕方は,もともとは戦争を中継するときのものである。この手法がいつのまにかスポーツ中継にも取り込まれ,当たり前のように,一方的な映像のみが垂れ流される。

こうしたスポーツ・メディア複合体が目指すもの,あるいは,その結果として到来するものがなにであるのか,ということこそがいま問われるべき問題であろう,と今福さんも西谷さんも指摘する。われわれはいまのところ,この「問い」に対する答えを持ち合わせてはいない。しかし,この「問い」を避けてしまったら,こんごのスポーツ批評もスポーツ文化論も成立しなくなってしまうだろう。こういうスポーツ状況にいまわたしたちは立ち合っているのだ,という認識だけは明確にしておくべきだろう。そして,つねにその「問い」に対する応答,あるいは「作用」を保ちつづけること,これこそが西谷さんが『理性の探求』のなかで主張していることと共振・共鳴する。

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2009-12-12 スポーツに人が惹きつけられるのは・・・?

_ 『近代スポーツのミッションは・・・』の第2章の終わりの方(P.114)で,西谷さんがわたしへの宿題を出している。

まず,その文章を引いておこう。

西谷──スポーツに人が惹きつけられるのは,まさに透明に合理的に裁断できない,なにか不透明なものがあるからなんでしょうね。それを身体がになっている。その部分をどうやってこの時代のなかで引き出していくかというのが課題なんでしょう。稲垣さんに宿題を押しつけるようで,申し訳ないですが(笑)。

この発言を受けて,わたしは蓮実(正しくは旧漢字)重彦さんの『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』(青土社,2004年)のなかにある「スポーツを見るみもしろさは,潜在的なるものが突如として顕在化する,その瞬間に立ち合うことだ」という一文を引きながら,わたしはつぎのような話を展開している。サッカーなどで,まったく予測もしなかったスーパー・プレーが突如として現出するその瞬間に立ち合うこと,あるいは「神が降臨した」とも思われるようなプレーの瞬間に立ち合うこと,こういう場面に出会うともう人は完全にスポーツに惹きつけられてしまう。そういうプレーは「不透明なところ」から突如として出現する,と。計算された理詰めのプレーでは不可能なスポーツの,もう一つの魅力がこうした不透明性のなかに潜んでいる,と。

このあとも,それらしきことを一生懸命に話しているので,本文で確認していただければありがたい。で,この話に至った経緯は,今福さんの提起した「透明な身体」がきっかけとなり,では「不透明な身体」とはどういうものなのか・・・という話があって,その上で,アテネ・オリンピックに登場した選手たちの身体はどんどん「透明化」してしまって,そういう選手たちのプレーはあらかじめ「透けて」みえてきてしまうので,見る楽しみがなくなってしまう,と今福さんは主張する。それを受けて西谷さんも同じ趣旨の発言をされ,最後に,このブログの冒頭に引用した,わたしへの宿題を提示される,という次第である。

で,いまになって,この第2章を読み返してみると,今福さんも西谷さんも,じつはもっと深い洞察にもとづく解答を用意しているのだが,あえて,そこには触れずに終っているように,わたしには感じられる。なぜ,今福・西谷の両氏は,その深い洞察にもとづく解答のところまで話を進めていかなかったのか,ということには理由がある。その話に入り込むには時間が足りないことと,話ことばで説明することがきわめて困難なために,あえて避けたのだといまのわたしは思う。

少なくとも,西谷さんは,その点をはっきりと意識していたと思う。それは,たとえば,第2章の最後のところに登場するプロ野球の球団経営に関する西谷さんの発言からも推測できる。引いておこう。

今福──・・・だからかつては鉄道,映画,新聞。それがいまはテレビとインターネットの支配に変わりつつあるという構図でしょうか。

西谷──だから,どうして日本ハムが札幌で・・・(笑)。

今福──いまや貴重ですね,球団経営の歴史的性格から言ってもね。ナマものを製造している企業ですものね。

西谷──日本ハムというのは動物のからだと切り離せないし,考えてみれば大事な存在なんですね(笑)。

こんな,ごく当たり前の話に聞こえる発話のなかに,じつは重大な鍵が秘められている。ヒントは「ナマものを製造している企業ですものね」「日本ハムというのは動物のからだと切り離せないし」というところ。

この会話と,このブログの冒頭に引いた西谷さんの発言「まさに透明に合理的に裁断できない」「なにか不透明なものがあるから」「それを身体がになっている」「その部分をどうやってこの時代のなかで引き出していくか」というフレーズとが通底しつつ共振・共鳴している,とわたしは読み解く。

ごく短く種明かしをしておけば,以下のとおり。ヒトが人間になるときに否定した「動物性」への回帰をめぐる問題系がそこに秘められている。つまり,かつてもいまも人間が持ち合わせている「身体」という「動物性」への回帰の問題。そこに「不透明なものがある」。この部分とスポーツの接点をどのように考え,いまの時代のなかで引き出していくか,これが西谷さんがわたしに課した「宿題」だというわけだ。その答えを,わたしは最近になってジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』とマルセル・モースの『贈与論』のなかで発見したつもりである。ここに答えがあるということを,今福さんも西谷さんも,百も承知の上で,あえて踏み込まなかったとわたしは受け止めている。

この第2章のあとに挿入された今福さんの「インターリュード 身体の贈与経済」は,明らかにそのことを意識して書かれたものである。この文章のなかにでてくる「普遍経済」はまさにジョルジュ・バタイユの概念である。そういう背景をしっかりとふまえてこの今福さんのインターリュードを読まないと,とんでもない誤解を招くことになる。しかも,第3章は「21世紀の身体」を考える,というものである。そことの繋ぎをするための,みごとな「間奏曲」となっていることも見逃してはならない。

今福さんが提起した「不透明な身体」がもつ豊穣性とは,人間の身体のなかに秘められた「動物性」のなかにある,とひとまず提示しておくことにしよう。この議論のさらなるツッコミは,こんどの集中講義で,と考えている。

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2009-12-13 グローバル秩序のなかで剥き出しになる「生存」

_ 『近代スポーツのミッションは・・・』の第3章のなかで,西谷さんが「21世紀の身体」が置かれている情況について,きわめてメタな議論を展開していて,じっと考え込んでしまう。

第3章のテーマは「21世紀の身体」を考える,というもので三者三様の問題を提起しながら,気合の入った論を展開している。稲垣は「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではなくなる」そういう身体のありようについて,能面と身体の関係,能面を打つ身体,太極拳をする名人の身体,トップ・アスリートたちの最高のパフォーマンスを支える身体,などを例にあげながら西田幾多郎の「純粋経験」や「行為的直観」の概念を借りて,その理論的根拠を提示しようとしている。今福さんは,プロレスラーの大木金太郎の「パッチギ」(頭突き)とボボ・ブラジルの「ココバット」(椰子割り)をとりあげ,これらの身体技法を支えている民族的・歴史的・文化的バナキュラー性に分け入って,その独特の議論を展開している。それによれば,これらの技は単なるプロレスの技ではなく,かれらの身体に刻まれた民族的な土俗性から発するこころの表出のようなものではないか,だからこそ,あれだけの感動を呼んだのではないか,と推測する。つまり,今福さんの持論でもある,ヨーロッパ近代が構築した「透明な身体」とは対極にある「不透明な身体」にこそ,「21世紀の身体」の可能性と期待がある,と結論づける。

この二人の議論に対して,西谷さんは「身体を語るとはどういうことか」「身体をいまどういう環境が取り囲んでいるのか」という,きわめてメタな話を展開している。そうした話の終わりのところで,グローバル秩序のなかで剥き出しになる「生存」,という問題を取り上げている。ここに至るまでのプロセスが,じつはとても重要なのだが,それらについてはテクストで補ってもらうことにして,この議論のサワリの部分を以下に引用しておきたいと思う。

19世紀から20世紀にかけては政治統治の時代で,その生存のレヴェルは政治による統治を介してしか,われわれの意識に上ってこなかったし,実際そうしか扱われてこなかった。けれども,いま,いわゆるグローバル秩序のなかで,生き物であるというそのレヴェルが剥き出しになっている。そのことが経済的原理の優位と不可分になっているわけです。そうすると,一方では人間が完全に飼育の対象とか,繁殖の対象とか,遺伝子操作の対象とか,そういうふうになって,その是非も市場原理や経済効果や費用対効果の原理による決定に委ねられてゆくという傾向があります。またその一方では,あらゆる政治的な属性を失って万人が平等であるというような,そういう側面も浮かび上がっている。

おそらくいつの時代でもそうでしょうけれども,ある時代的状況が生み出すものは,ポジティヴな局面とネガティヴな局面とが同時にあります。だからわれわれの課題というのも,おそらくいま言ったような状況のなかで,剥き出しになっている生存をどういうふうにしてポジティヴな方に,一人ひとりの生存を活かすような形に方向づけていったらいいのかということになっているのではないかと思うわけです。ちょっとスポーツと離れすぎたきらいもありますが,現在の「身体」というか「生存」の置かれている状況を考えると,そんな事態が浮かび上がってきます。

西谷さんのこの発言は,2006年12月のシンポジウム(第20回スポーツ史学会大会)のときのものである。ちょうど『理性の探求』(岩波書店,2009年刊)に収載された論考が『UP』(東京大学出版会)に連載されているころと重なる。ということは,ヨーロッパの形而上学的な「理性」に依拠する語りに対する疑念を手がかりに,新たな「理性」を立ち上げようという西谷さんの思考の新たな旅立ちのときと一致する。だから,それ以前に,西谷さん自身も語ってきた「身体」に関する語り口に「違和感」を覚え,そこから脱出する試みのひとつとして,ここでの議論が存在している。この認識は重大である。

つまり,「もの」としての「身体」を批判的に語るだけではもはや物足りない,いや,それどころか本質的なものを取り逃がしてしまう,という危機意識がそこには感じ取れる。だから,「身体」ではなく,「生存」という概念を前面に押し出してきて,「生きている身体」「生身の身体」というものをトータルに把握し,そこから新たな論を展開しようという心意気を感じ取ることができる。

こうした西谷さんの発想の根底には,これはあくまでもわたしの推測にすぎないが,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』や『呪われた部分』のなかで展開されている思考と,深く切り結び,共振・共鳴するものがあるように思う。つまり,ヒトが人間になるときに「否定」し,その「部分」に「フタ」をし,抑圧・隠蔽してきた「ツケ」をいかにして回復させるか,というテーマがある,と。これはとてつもなく大きなテーマである。まさに,これまでの形而上学的な「理性」ではとても捉えきれないテーマである。つまり,近代的な「理性」の<外>をも包括する新たな「理性」を立ち上げることが喫緊の課題となってくる。西谷さんは,そのことを強く意識して「生存」という概念を提示し,新たな『理性の探求』を目指している,とわたしは受けとめている。

わたしは,いま,スポーツ史・スポーツ文化論という立場から,この問題とどのように対峙したらいいのか,と考えている。この問題は,昨日のブログにも書いたように,西谷さんがわたしに授けてくださった「宿題」である。わたしにとっては避けて通ることのできない「関門」でもある。だが,とても楽しみでもある。

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2009-12-14 「これは柔道ではない」の意味するところ。

_ 『近代スポーツのミッションは・・・』の第4章のテーマは「グローバリゼーションとスポーツ文化」である。この章でも,今福・西谷の両氏からきわめてスリリングな問題提起がなされた。

いつものように,わたしがまずは口火を切って,それを今福さんが受けて立ち,最後に西谷さんが二人の話を普遍の問題へと接続していく,という流れはいまや不動のオーダーとなったかのようだ。このオーダーがまたじつによく機能するから不思議だ。でも,この章のわたしは何回もしどろもどろになっている。そして,必死になってその穴埋めに奔走している。情けないが事実である。

一つは,わたしが雑誌『世界』に書いた原稿「相撲は「国際化」したか」──「朝青龍問題の深層」(2007年11月号)の内容について今福さんからきびしいコメントをいただいたこと。そのポイントは,最終的に稲垣がなにを言いたかったのか,いま一つ,ピンとこない,というご指摘である。そのとおりで,あれもこれも言いすぎて,結局,なにが言いたかったのかピントがぼけてしまったのである。そこで,原稿のなかには書き込めなかったわたしの思いのたけを必死になって弁明することになってしまっている。その内容については,テクストにゆずることにする。

もう一つは,勝利至上主義的な発想についてのご注意である。たしかに,今福さんは「サッカー批評」をとおして,いかにして勝利至上主義から抜け出して,サッカーにフレッシュな「命」を吹き込み,美しいサッカーをとりもどすか,という主張を積み上げてきていらっしゃる。その一つの結晶が『ブラジルのホモ・ルーデンス』──サッカー批評原論(月曜社)だ。その批評精神の背後には,資本の論理にもとづく経済至上主義に対する痛烈な批判が秘められていることは明白である。「強い者が勝って当たり前」がこんにちの世界のすみずみにまで浸透しつつある現状に対して,どこかで歯止めをかけることはできないものか,という思いはわたしも共有しているつもりである。しかし,にもかかわらず,わたしの発言のなかに勝利至上主義を「無意識」のうちに擁護している場面をとらえ,きびしく批判されてしまった。わたしたちはいつのまにか「勝利至上主義」を「無意識」に容認してしまう,悪しきハビトゥスが身についてしまっている。この内なる「勝利至上主義」との闘いこそが急務であることを,今福さんに教えていただいた。

以上の2点だけは,ここではっきりと断罪しておくべき,きわめて重要なポイントとなっている。お詫びして反省の弁としたい。

以上はほんの前振りのつもりで書いたのだが,すでに,相当量の文章になってしまっているので,以下は,ごく簡単に触れるにとどめたい。

この章のメイン・テーマはなんといってもスポーツ文化をめぐる「グローバリゼーション」の問題である。この点についても,今福さんがもののみごとに問題の所在を整理してくれている。その部分を引用しておくと以下のとおりである。

ちょっと大きく構えて考えると,こんにちわれわれが見ているスポーツのほとんどは「近代競技スポーツ」という形で定義できると思います。オリンピック種目となっているスポーツ全般を総称して近代競技スポーツと呼んでいい。これは基本的には,体系的なルールというものの固定化と共有化をつうじて,個別の文化的な差異,個別の文化的ハビトゥスの違いというものを「無化」していくという前提に立ってつくられたものです。いうまでもなく,近代競技スポーツにおけるルールの固定化というのは非常に重要なことで,これがないとさまざまな文化的なハビトゥスが,個々のアスリートの身体にまさにinscribeされてしまうわけです。そういう文化的な身体性をinscribeされる余地を残さないような,ある共通ルールというものを確立して,それを共有するということが近代競技スポーツの前提で,これが共有されていないと試合にならない。競技にならない。だから,ルールを固定化することによって文化的なハビトゥスという差異を「無化」できると考える。こんにちの近代競技スポーツはそれができるんだ,という前提のもとに成り立っている一つの幻想だと言っていいでしょう。

この今福さんの発言を初めて聞いたとき,わたしは全身に「さぶいぼ」が立った。なるほど「幻想」なんだ,と。たとえば,サッカーという近代競技スポーツがある。このサッカーのルールの源泉のほとんどは,19世紀イングランドのパブリック・スクールの文化的なハビトゥスにある。そのスクール・ルールを調整してインタースクール・ルールを立ち上げ,カレッジはカレッジでインターカレッジ・ルールを立ち上げ・・・という具合にルールの「固定化」と「共有化」が行われる。やがて,ナショナル・ルールをつくり,ついにはインターナショナル・ルールとなる。このインターナショナル・ルールがFIFAをとおして全世界に浸透していくことになる。それがこんにちわたしたちが目にするサッカー・ルールの成り立ちである。言ってしまえば,イングランドのパブリック・スクールの文化的ハビトゥスを軸に作成されたサッカー・ルールが,最終的には国際ルールとなって,地球上のすみずみにまで浸透していくこととなった。これがサッカーという近代競技スポーツの「グローバリゼーション」の内実である。この実態をきびしく見極めた上で,今福さんは,それは単なる「幻想」にすぎないと断言されたのである。

ふと思い出すのは,P.ルジャンドルが書いた『西洋が西洋について見ないでいること』(以文社)という本である。タイトルから類推できるように,自分にとって都合の悪いことは「見ないでいる」。「わたしがわたしについて見ないでいること」と置き換えてみればよくわかる。「日本が日本について見ないでいること」と置き換えてみたとき,ハッと気がつくことがある。わたしが書いた「相撲は「国際化」したか」の問題の根底にあるものが「これだ」。つまり,「幻想」なのだ。文化的ハビトゥスが違うのだから,日本の相撲が「国際化」することは「幻想」にすぎない。

それとまったく同じことが,もっともっと先鋭化して,いま現象しているのが柔道の「国際化」をめぐる問題だ。わたしは,とうのむかしから日本の「柔道」と国際化した「JUDO」とは別物である,と発言してきたし,書いてもきた。それがとうとう2007年9月にブラジルのリオデジャネイロで開催された柔道の世界選手権で問題化した。予選第2回戦で登場した鈴木桂治が場外戦での大外刈りで相手のリトアニアの選手の背をつけさせながらも土壇場で返し技にあい,ビデオ判定の結果,一本負けを喫した試合について,日本側の監督・コーチや柔道関係者からとびだしたセリフが,「これはもはや柔道ではない」というものだった。このことはテレビ・新聞でも大きく取り上げられたので,記憶に残っている人も多いと思う。

今福さん流にいえば,もともと「幻想」なのだから当然の帰結,ということになろう。極論を最後にひとこと。「グローバリゼーション」とは「幻想」の上に成り立つ虚構にすぎない,と。

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2009-12-15 スポーツはいまや人間社会の中心に。

_ 『近代スポーツのミッションは・・・』の「エピローグ」の最後のところで西谷さんは,驚くべき一文を投げかけている。

・・・こうしてスポーツをめぐる問いが人間社会にかんする問いの中心に立ち現れてくる。

わたしはいま感涙に涙している。こんなことは絶えて久しく経験したことがない。長い間,わたしは「スポーツを考えることは人間を考えることであり,スポーツをめぐる環境世界を考えることは人間をとりまく環境世界を考えることだ」と信じ,その根源にある問題が「身体をめぐる問題だ」と考えてきた。そして,とうとう「ヒトが人間になる」ということは,なにがどのように変わることなのか,このとき「理性」はどのような役割をはたしたのか,そして人間は広義の「スポーツ文化」とどのような「折り合い」をつけながら今日にいたったのか,ということを考えるところに至りついている。

だから,このテクスト全体をとおして,今福・西谷の両氏は,ひたすらこのわたしに向けて珠玉の言説を送りつづけてくれている,と全身で受け止めている。それほどに,読めば読むほどに味わいが深まり,その背後にある思想・哲学が次第に浮上してくる。そして,みるみるうちにその深みにはまっていく・・・,それがまたたまらない快感となって・・・。

西谷さんが書いた「エピローグ」には「北京奥林匹克」,祭りの後で,というタイトルがついている。つまり,北京オリンピックを総括しつつ,いま,わたしたちが立ち合っている「スポーツ情況」というものがいかなるものなのかを,短い文章のなかに圧縮して,じつに明確に,鋭くえぐり出してくれている。まず,その書き出しを引いておこう。

「ボスト・フェストゥム(祭りの後)」という言葉がある。昂揚と喧騒に満ちた祝祭の時が過ぎ,疲労とともに訪れる虚脱感のなかで,何かが終わってしまったことの空しさに戸惑い,やがて取り返しのつかなさに打ちひしがれる,そんな無力で鬱陶しいひとときのことだ。

西谷さんが描き出すこの「祭りの後」の「無力で鬱陶しいひととき」を,わたしも同じように感じ取っていたように思う。いよいよ,これからスポーツの歴史にとって,まったく新しいページが開かれることになる・・・という予感のようなものに導かれながら,ぼんやりと,あれこれ思い浮かべていた「ひととき」があった。それはなんとも「無力で鬱陶しい」という表現にぴったりであった。この感情はいまもわたしのなかに渦巻いている。

しかし,そんなわたしの個人的な感情とは関係なく,いまもなお新たな「スポーツ情況」はまぎれもなく新しいページをつぎつぎに更新しつづけている。西谷さんはこの「エピローグ」のなかで,つぎのようにも言う。

・・・いまの世界にとってオリンピックは最大の「祝祭」だといってもいいだろう,と前振りをしながら,問題の核心に分け入っていく。少しばかり長くなるが,とても重要な部分なのでそのまま引用しておく。

オリンピックをめぐる多くの論評は,スポーツを論じるよりもむしろ政治的ないしイデオロギー的観点から大会を批判する。けれども,スポーツに立脚するなら,むしろ問うべきことは別にあるだろう。そのもっとも基本的な事柄は,技術的に高度に発達し,政治や文化においては多元的だが,グローバル経済とメディアによって結び付けられた現代世界で,スポーツが,スポーツだけが,もっとも象徴度の高いグローバルなメディア・イヴェントの内実たりうるということである。開会式があり,ゲームのルールがあり,世界の選手たちが集まって儀礼的なパフォーマンスを演じるグローバル・スペクタクル,それがオリンピックであり,そこに集約されるのが現代世界のスポーツである。言葉や人種や宗教の違いを越え,国境を越えて共有されるスペクタクルとしてのスポーツ。それは人びとに求められ,熱狂させ感動を誘う。そのためにまた国家の政治展開に(内政においても外交においても)活用され,企業の経済活動にも徹底的に利用される。

※ここからが,さらにわたしのこころを捉えて離さない。

それがなぜスポーツなのかを考えるとき,逆に,人間にとってスポーツとは何なのか,スポーツする人間とは何なのか,という基本的問いの輪郭が現れてくるように思われる。そこには,祝祭とは何なのか,このウルトラモダンなテクノロジーで機能化し,すべてが数値化されて測られ価値づけられるような世界で,「祝祭」はどこに行ってしまったのか,そして人間の「身体」はそこでどんな位置に置かれているのか,どう生きられているのか,といった問いが含まれている。そしてその問いを深めることが同時に,われわれがいまどんな世界に生きているのかを照射することにもなり,こうしてスポーツをめぐる問いが人間社会にかんする問いの中心に立ち現れてくる。

ここで「エピローグ」の文章は完結している。わたしは,ゲラの段階でこの文章を初めて読んだとき,感動のあまりしばし瞑目し,瞑想もどきの状態に入っていた。そして,気づいたときには感涙の涙,涙・・・であった。これまで生きてきてよかった,と。スポーツ史・スポーツ文化論をやってきてよかった,と。わたしは,いま,もっとも恵まれたポジションに立ち,最良の眺望をえて,ようやく確信をもって新たなスタート地点に立つことができた,と。このテクストのお蔭である。足掛け7年にわたるフォーラムやシンポジウムをとおして,ようやく立つことのできたポジションである。その間,いろいろの人に助けてもらった。一人ひとりお名前をここに列挙してお礼を申しあげたい,そういう気持ちで一杯である。夢は追い続けるものだ,としみじみ思う。こんな個人的な感慨にふけるのはこのあたりで止めにしておこう。

それにしても,西谷さんの,この「エピローグ」はわたしへの最大のプレゼントである。そして,最大のエールでもある。このテクストをとおして,あちこちで西谷さんはわたしへの「宿題」を出してくれている。すでに,西谷さんの答えは用意されているのに・・・。でも,わたしはこれから全身全霊を込めて,西谷さんが出してくださった「宿題」へのレポートを書いていこうと思う。

西谷さんの,この「エピローグ」は,このまま近著である『理性の探求』に収載されてもいい,新しい「理性」を掘り起こすための指針にもなっている。わたしはわたしなりのやり方で,スポーツに立脚した,新しい「理性」の「探求」の旅に出たいと思う。「スポーツする人間」を問い,「祝祭」を問い,そこでの人間の「身体」を問うということ,そして,そこから始まる「作用」こそが,西谷さんが新しく提起している「理性」そのものである,と信じて。

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2009-12-20 6日間の長丁場を乗り切る。

_ 15日(火)から今日(20日・日)までの6日間,神戸に出張。集中講義と研究会を無事に済ませて帰ってきた。やはり,相当に疲れた。

しかし,帰りの新幹線で熟睡。新横浜で降りたときにはもうすっきりしていた。これはわたしの特技のようなものである。わたしにとって汽車の旅は休息をとる場でもある。そのむかし,登山が好きで,山に行くときは夜行列車を使った。この列車のなかで眠れない人間は山で苦労することになる。しかし,わたしはだれよりも早く眠ることができた。だから,翌早朝から,ほとんど辛い思いをすることなく,山道を歩きはじめることができた。多くの友人たちは,この段階ですでに苦しみはじめていた。このとき,わたしの特技はこれだな,と知った。以後,山登り以外の旅行でも,疲れたらすぐに列車のなかで眠ることを覚えた。いつしか,これはわたしの特技になった。いまも役立っている。

さて,最初の3日間は,朝8時50分から夕刻の午後5時40分まで,毎日,5コマの授業を行う。この授業は「演習」なので,半分は学生さんたちのプレゼンテーションいがあるので,とてもありがたい。すくなくとも,その間は,心安らかに聞いていればいい。その間に,どのように議論を展開するか,その戦略を考えていればいい。うまく議論の仕掛けができたときには,わたしが黙っていても,学生さんたちが勝手に話をはじめてくれる。こうなったらしめたものである。よほど妙なところに議論が進展しないかぎり,じっと耳を傾けていればいい。そして,その間も,この議論の落しどころをさぐりつづけている。いい落しどころを見つけたときには,早く話をしたくてたまらなくなる。が,そこは禁欲的にぐっとこらえる。ここが大事なところ。それでなくても,ついつい,わたしが一人でしゃべりすぎてしまうのだから・・・。

テクストは『近代スポーツのミッションは終わったか』──身体・メディア・世界(平凡社)。何回もゲラ校正をした本なので,内容は手の内にある。問題は,どうしても伝えたいメッセージを精選することだ。そこにいかにして誘導していき,学生さんたちに考えさせるか,それがポイントとなる。学生さんはみんな真面目な人ばかりなので,とても授業はやりやすい。うまく議論が展開するときなどは,いつまでもつづけたくなるほどだ。

最終日(3日目)の夜には「打ち上げ」と称して,キャンパスのなかにある会館でコンパをやってくれた。学生さんたちの手になる鍋料理が用意されていた。料理を食べ,お酒がまわったころには,学生さんたちのゼミの先生であるT教授の,そもそもの馴れ初めはどうだったのか,という話題になり,大いに盛り上がる。T教授は顔を真っ赤にして必死の防戦。ますます盛り上がる。わたしも学生さんたちの側に立って,大いに盛り上げる。ますます窮地に立つT教授。いやはや,久しぶりに学生気分に浸ることができた。感謝,感謝である。

最後に,前期のときと同様に,色紙に寄せ書きしたものをプレゼントしてくれ,記念撮影をしたり,テクスト(『近代スポーツのミッションは終わったか』)にサインをしたり,と余韻に浸る。ほとんどの学生さんたちが4年生なので,来春には社会人となる。みんなそれぞれに就職も決まっていて,張り切っている。いまは,卒論に必死だとのこと。頑張れ,とエールを送る。

こんな楽しい集中講義であれば,何回やってもいいなぁ,と思う。いまから,来年はどのようにやろうかな,と胸がふくらむ。

翌日(19日)は,「ISC・21」神戸月例会。こちらのことは,また,明日にでも報告することにしよう。今夜はひとまずここまで。

_ 追伸:集中講義の間に,学長さん,丹生谷貴志さんとお会いすることができ,とても楽しいひとときを過ごすことができた。こちらの話も,チャンスがあれば書いてみたい。乞う,ご期待!

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2009-12-21 ルールの変更と技術・戦術の関係。

_ 「ISC・21」12月神戸例会が12月19日(土)13:00〜18:00の時間で開催された。とても充実した例会だった。

プレゼンテーターは3人。その中のひとりはわたし。この人の話はともかくとして,他のお二人は女性。お二人とも,素晴らしい問題提起をしてくださり,久しぶりに興奮。今回は,その中のお一人。今回はプレゼンテーターの名前のイニシアルは全部「I」さん。で,面白いので,そのままイニシアルで書いてみたい。

まずは,トップ・バッターのIさん。バドミントンのルールの変更が技術・戦術の変化に及ぼす影響関係について,とても興味深い問題を投げかけてくださった。具体的な内容に踏み込んでしまうと,とてつもなく長い文章になってしまうので,ここではこの研究のポイントとなることがらに絞って,抽象的に述べておくことにする。

まず,第一点は,ルールの「改正」という用語について。スポーツのルールはだれのためにあるのか,なんのためにあるのか,という立場によって「改正」であるのか,「改悪」であるのかは変わる。したがって,その判定がまだ明らかではない場合には,ルールの「変更」とするのが中立の立場であろう。時間が経過して,新ルールのなかに含みもたれている性格が徐々に露呈してくるにしたがって,それが「改正」なのか「改悪」なのか,がはっきりしてくる。しかし,それでもなお,判定者がどのような立場に立つのか,つまり,そのスタンスによって「改正」なのか「改悪」なのかは違ってくる。だから,それまでは不用意に「ルールの改正」などと言わぬ方がいいだろう,というのがわたしの立場。

つまり,バドミントンの競技団体の執行部の立場からすれば,当然のごとく「ルールの改正」である。競技運営上のなんらかの問題点が生じたからそれを改めるという立場にあるのだから。しかし,その問題点の内容こそが問われなくてはなるまい。したがって,まずは,ラリー・ポイント制を採用することの必然性はどこにあるのか,と問うこと。

このルールの変更は,少なくとも選手・プレイヤーからの要請に応えたものではあるまい。では,バドミントンを見て楽しむ人の要請なのだろうか。そうでもあるまい。あるとすれば,競技時間を一定の時間内に限定したいとする側の要請でしかないようだ。だとすれば,競技運営をコントロールしている競技団体の側のご都合主義が一つ。もう一つは,テレビ放映をする側の要請。つまり,最大2時間で一つの番組が完結するためには競技の進行を促進する必要がある。予測できる要素はこんなところか。あるいは,まだ,他にもいろいろあるのだろうか。もし,あるとすれば,それらもまた,分析の対象として意味をもつことになろう。

Iさんのプレゼンテーションのなかでは,これらの問題を提示しながら,さらに,このルールの変更がバドミントンの技術や戦術の「変化」を余儀なくする,という現実問題に踏み込んでいく。多少ともバドミントンになじんだ人であれば,ラリー・ポイント制に「変化」すれば,試合運びや攻撃の仕方なども大きく変化するだろうということは容易に想像できる。そして,事実,大きく「変化」した,とIさんは指摘する。その結果,とまどっているのは選手たちだ,と指摘し,その証拠として雑誌に掲載された選手たちの感想を洗いざらい拾いだして,その実態に迫ろうとしている。もともと,全日本のチャンピオンだったIさんなので,そのあたりの分析はわれわれ素人とは違う鋭さをみせる。そして,ますますIさんのプレゼンテーションは佳境に入っていく。

わたしもじっと耳を傾ける。意識を集中させて。で,おやっ,と思うことがあった。それは,Iさんは,いま,選手の立場に立つのか,それとも研究者としての立場に立つのか,という分析者としての立場の問題である。もう少し踏み込んでおけば,選手,監督・コーチ,競技団体役員のこの三つの立場によっても,たぶん,ルールの変更と技術・戦術の関係を分析する視点と判定(あるいは,評価)は大きく異なるはずである。もう一つは,研究者としての立場にも,バドミントンという競技の魅力をどこに求めているのか,もっと言ってしまえば「スポーツとはなにか」という根源的な「問い」に対する応答の仕方によって,さまざまな立場がある。

この点を意識して,Iさんのプレゼンテーションに耳を傾けていると,微妙にその分析の視点が揺れ動いていることに気づく。これはしかし当然のことであって,当たり前といえばあまりにも当たり前のことだ。しかし,これから論文にしてまとめようとすると,そうはいかなくなってしまう。Iさんのからだのなかには,選手としての血がまだまだ騒ぐはずであるし,それでいて,現場の指導者としての監督・コーチとしての血も騒ぐはず。しかも,競技団体役員としての血も騒ぐ。その上で,あえて研究者としての視点をわがものとしようとしていらっしゃる。しかも,これからどのような研究者としてのスタンスをとるのか,という点ではその途上にある。

でも,このプレゼンテーションをすることによって,このことがじつに明確になってきた。これこそが大収穫というべきだ。お蔭で,わたしも一つ賢くなったと思う。ルールの「変更」と技術・戦術の変化との関係を分析することの難しさが,一歩,踏み込んだところでみえてきたからである。この問題は一朝一夕で解決するわけにはいかないが,その根底には,つねに「スポーツとはなにか」という根源的な「問い」が隠されている,ということだけは明確になった。ここまで,掘り下げて問題を見つめなおしてみると,はやり,ここにも「バドミントン競技複合体」とでもいうべき,複雑な構造が浮かび上がってくる。

ここまでくると,少しだけ道が見えてくる。たとえば,いくつかの分析視点ごとに論文を一つずつ仕上げていくこと。それらの研究論文を積み上げたのちに,ようやく,ルールの「変更」がもたらしたさまざまな影響関係の結論としての「改正」か「改悪」のスポーツ史的な判定(あるいは評価)をくだすことができるようになるだろう。

どうやら,Iさんは,これで論文が一気に4〜5本は書けそうだ。それいけわっしょい! お蔭で,わたしの頭のなかもすっきり。これからのIさんのご奮闘を期待したい。次回,どんなプレゼンテーションをされるか,いまから楽しみ。

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2009-12-22 『談』の最新号がとどく。

_ 『談』(たばこ総合研究センター発行)の最新号No.86がようやくにしてとどいた。秋にはでると聞いていたので,どうなったのかな,とちょっぴり心配していた。

ことしの7月12日(日)午後1時から,三鷹天命反転住宅で開催された「トポロジカル・トーク・セッション」をまとめたものである。主催者はもちろん「たばこ総合研究センター」であるが,その陰の仕掛け人はアルシーヴ社の編集者である佐藤真さん。この佐藤さんに誘われて,わたしもこのトークに出演することになった。題して「からだのなかにヒトが在る」・・・動物・暴力・肉体。対談のお相手に選んでくださったのは柳澤田実さん。まだ初々しさの残る若い女性研究者。ご専門は,哲学・倫理学・宗教学。

この日は,3組の対談が用意されていて,トップ・バッターの対談は河本英夫×柳澤田実さん,二番目の対談は河本英夫×宮本省三さん,そして,三番手がわたしと柳澤田実さん。久しぶりに河本さんの「オート・ポイエーシス」のその後の理論の話が聞けるという楽しみがあって,もっぱら聞き手として期待に胸をふくらませていた。案の定,ものすごいテンポの語りが繰り出され,ある意味では河本さんの独壇場。柳澤さんも宮本さんも話をかみ合わせるのに相当に苦労されたのではないか,と聞いていて同情してしまった。

しかし,こうして冊子となって読み返してみるときちんと面白い話になっているから不思議だ。編集の手が入るとこうもみごとな読物に変身してしまうものかなぁ,と驚いてしまう。つまり,ゲラの段階で相当に編集の手が入り,それをもとに対談者が自分の発言に手を入れていく。そうすると,こんなにみごとな話の展開になっていく。さすがにプロの手並みは凄い。松岡正剛の「編集工房」で鍛えられた編集者たちがあちこちで活躍している。佐藤真さんもその一人。もう一人,わたしが知っているのは『近代スポーツのミッションは終わったか』の編集に力量を発揮してくださった田村洋子さん。最近になって,ようやく「編集」ということの意味がおぼろげながらわかってきたように思う。このワザはこんごの『IPHIGENEIA』の編集に生かしてみたいと思う。いささか遅きに失した感は否めないが・・・。

今回の対談の特集テーマは「エンボディメント」・・・人間=機械=動物の身体。この仕掛けの意図するところは,佐藤真さんの手になるeditor's note [before]と[after]を読むとみえてくる。多少,佐藤真さんのチカラワザのようなところも感じられるが,まずは要領よく問題の所在は整理されている。やはり佐藤真さんは大した人である。

毎回の楽しみの一つにもなっているのだが,表紙の作り方が面白い。今回は,山崎史生作品である木彫の牛人間が立っている。題して「静かな隣人/silent neighbor」2006年(32×12×16㎝,楠,水彩着色)。まさに「エンボディメント」・・・人間=機械=動物の身体,というわけだ。しかも,丑年の最後を飾ってもいる。まさか洒落でもあるまいが・・・。

この対談の会場となった「三鷹天命反転住宅」は,もちろん,荒川修作の作品であるが,これがまたまことに面白かった。あちこちに荒川修作の企みが仕込んであって,それらを発見する喜びもおまけについてくる。住宅であるから,実際に賃貸住宅として貸し出してもいて,実際に人が住んで暮らしている。また,短期の貸し出しもあるとのことなので,ここを借りて合宿研究会なども可能だという。一度,試してみたいと思う。

内容については今夜は割愛。じつにスリリングなトークが展開しているので,ぜひ,読んでください。なお,この本は大きな書店には置いてある。値段は800円なので購入していただければ,なお,結構なこと。

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2009-12-24 エロチスムとは,死を賭するまでの生の讃歌である。

_ ジョルジュ・バタイユの『文学と悪』(山本功訳,ちくま学芸文庫)のなかの「エミリ・ブロンテ」の章で用いられている「小見出し」がずっと気になっていたので,それを表題にしてみた。

エロチスムとは,死を賭するまでの生の讃歌である。

この小見出しの前段にあるバタイユの文章をまず引いてみよう。

彼女が死後にのこしたものは,ただ数篇の詩と,『嵐が丘』だけだが,これこそ古今の文学を通じてもっともうつくしい作品のひとつなのである。

むしろ,恋愛小説のなかで,もっともうつくしく,深く,荒々しい作品,と言おうか・・・・

それというのも,運命のさだめで,エミリ・ブロンテはうつくしい娘でありながら,恋をまったく知らないままでその生涯をおわるようにきめられていたのだが,それでいながら,彼女はまた情熱についての苦悩にみちた認識をもつよにうさだめられていたからである。その認識とは,単に愛欲を意識の明晰さに結びつけるだけのものではなく,さらに暴力と,死にも──それというのも,あきらかに,死こそ愛欲の真理であり,また愛欲こそ死の真理であるからだが──結びつけるものなのである。

という具合に,バタイユは強烈な文章を書きなぐっておいて,これを引き受けるようにして,さきの小見出しの文章につないでいく。読んでいるわたしの方の頭がクラクラしてくるような文章がつづく。

エミリ・ブロンテを語るにあたって,わたしはどうしても右の〔死こそ愛欲の真理である〕という第一の命題を,徹底的に解明せずにはいられないような気がする。

ところで,エロチスムとは,死を賭するまでの生の讃歌ではないだろうか。性欲はすでに死が前提としてふくまれている。それというのも,単にあらたに生まれるものたちが,消え去ったものたちのあとをうけつぎ,それにとってかわるという意味からだけではなく,性欲とは生殖しようとするものの生をあやうくするものだからである。生殖するとは,消滅することにほかならない。・・・中略。

いずれにせよ,性欲発情の根底には,自我の孤立性の否定が横たわっている。つまりこの自我が,自己の外にはみ出し,自己を超出して,存在の孤独が消滅する抱擁のなかに没入する時に,はじめて飽和感を味わうことができるのだ。清純なエロチスム(情熱としての恋)の場合にも,体と体が触れ合う肉欲の場合にも,存在の崩壊と死とがすけて見えてくるほどになると,その強烈さはこの上もなく大きなものとなる。その意味から,世のいわゆる悪徳とは,まさしくこの奥深い死の介入に由来するものだが,また肉体に具象化されない恋の苦しみも,愛に結ばれているふたりのものたちの死が近づき,彼らにおそいかかるほどにもなると,それだけに愛欲の究極的な真理の象徴となるのである。

という具合に,どこまでも息継ぎも許されないほどのパンチのある文章がつづく。そして,どこまでも引用文を書き写す手が止まらない。「性欲にはすでに死が前提としてふくまれている」ということの意味が,どんどん掘り下げられていき,ついには「悪徳」に到達する。そして,「悪」とは「生の源泉」に発するものであることを,徐々に明らかにしていく。最終的には,バタイユの恐るべき思考の深さを思い知ることになる。

さきの引用文のなかで,最後まで,わたしを惹きつけてやまないものは「性欲発情の根底には,自我の孤立性の否定が横たわっている。つまりこの自我が,自己の外にはみ出し,自己を超出して,存在の孤独が消滅する抱擁のなかに没入する時に,はじめて飽和感を味わうことができるのだ」という一文である。言うなれば「生と死」の境界領域の皮膜の間(あわい)のなかに「存在の孤独が消滅」する瞬間,この瞬間とはなにか,ということだ。わたしのことばに置き換えると「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではなくなる時」,この瞬間とはなにか,という問いになる。

あえて断るまでもなく,わたしのいうスポーツの魅力や陶酔の源泉は,こうした「瞬間」に触れることなのだ。つまりは「エロチスム」に到達する。もう,死んでもいい,と覚悟する「瞬間」である。だから,まさに「生の讃歌」そのものだ。

こんなことを考えはじめると,またまた,眠れなくなりそうだ。でも,この思考は限りなく楽しい。

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2009-12-25 人類はふたつの目的を追求している。

_ ちょっとした理由があって,バタイユの再読に入っている。昨日,とりあげた『文学と悪』のなかに「ミシュレ」の章があって,ここの結論部分に興奮している。

ミシュレについてはあまり説明する必要もないかもしれないが,一応『魔女』(篠田浩一郎訳,岩波文庫,全2冊)の著者である,とだけ断っておこう。このミシュレの『魔女』という作品をとりあげて,バタイユは持論を思う存分に繰り広げている。その勢いに押されてしまって,読んでいるこちらの呼吸までが息苦しくなってしまうほどだ。なんども,途中で,本から目を離して深呼吸をしなくてはならない。それほどの畳み込み方で迫ってくる。もう,余分な解説も,感想も不要であろう。たとえば,最後の結論部分をそのまま引いてみよう。その方がわかりが早い。

人間性〔人類〕はふたつの目的を追求している。すなわち,そのひとつは,否定的なものとして,生を保存しようとする(死を回避しようとする)ものであり,もうひとつは,肯定的なものとして,生の強烈さを増大しようとするものである。ところで,このふたつの目的はおたがいに矛盾するものではない。しかし,生の強烈さは,危険なしには決して増大されることのないものである。したがって,多数のひと(もしくは社会集団)によってのぞまれる時には,当然この強烈さは,絶対的な優位性を付与されている生とその諸作品とを維持しようとする関心に,従属させられることになる。ところが,それが少数者もしくは個人によって希求される時には,持続することへの欲望を無視して,希望もなく,追い求められるということになりがちである。それというのも,この強烈さとは,自由の多寡に応じて変化するものだからである。ところで,この強烈さと持続との対立関係は,その対立関係の全体において価値のあるものなので,そこではさまざまの調和がなり立ち得る(たとえば,宗教的な禁欲主義。魔術では,個人的な諸目的の追求)。善と悪との考察は,これらの与件から出発して再検討されなければならない。

バタイユは,このように問題の所在を明らかにした上で,さらに,つぎのように畳みかける。

強烈さは,価値として定義することができる(しかもこれこそ唯一の積極的な価値なのだ)。一方,持続は,善として定義することができる(これが徳の目ざす一般的な目的なのだ)。ところで,強烈さの概念は,悦楽の概念に還元することはできない。それというのも,すでに見てきたように,強烈さの探究とは,まずなによりも不快にむかって,悶絶の限界にまで,すすんで行くことを前提とするからである。したがってわたしの言う価値とは,同時に善とも悦楽とも異なるものだ。ところで,価値は,善と一致することもあるが一致しないこともあるし,時には,悪とも一致する,その意味で,価値とは,善悪の彼岸に位置づけられているのもだが,しかしその場合に,ふたつの相対立する形態をとる。すなわち,そのひとつとは,善の原理と結びつくものであり,もうひとつとは,悪の原理と結びつくものである。ところで,善への欲望は,価値を求めるわたしたちの動きに制約を加えるが,それとは反対に,悪へとむかう自由は,価値の過剰の諸形態へと道をきりひらいて行くのである。しかしここから,真正の価値とは悪の側に与するものだと結論することは許されないだろう。価値の原理それ自体は,単に「できるだけ遠く」行くことをのぞむだけにすぎないのだ。したがって,善の原理と結びつく時には,社会集団としての「できるだけ遠く」(構成された社会としてそれ以上にすすむことのできない極限)をはかる尺度となり,悪の原理と結びつく時には,個人──もしくは少数者──が一時的に〔瞬間的に〕到達する「できるだけ遠く」をはかる尺度となる。ところでこの「できるだけ遠く」とは,なにびとにも行きつくことのできない地点なのである。

バタイユのこの議論は,ここでもまだ終わることなく,「しかし,第三の場合がある」とつづいていく。この「第三の場合」というのが『魔女』の作者ミシュレの立ち位置のことであるが,ここでは割愛させてもらう。

で,以上に引用してきたように,ここには,これからの(つまりは,21世紀の)スポーツ史・スポーツ文化論を考えていく上でのヒントが剥き出しになって提示されている,とわたしは全身で感じ取っている。たとえば,ヘーゲル哲学の流れを汲むランケ史学に端を発する近代歴史学とはまったく位相を異にする別次元の,これからの歴史研究の新たな「可能性」を予感する。その予感の中核をなすものは,史料実証主義の枠組みや方法では不可能であった,つまり,近代歴史学の研究対象からはみ出してしまった「歴史事象」をも取り込むことが可能なのではないか,というところにいきつく。もうひとつの予感の中核をなすものは,スポーツ文化の背後に陰のようにつきまとう「暴力」の問題を考える上で,ここでバタイユが提起した「持続」と「強烈さ」の概念がきわめて有効ではないか,というものである。つまり,人類のふたつの目的の追求と,スポーツ文化の変遷過程とは無縁ではない,と考えるからだ。もっと言ってしまえば,「持続」は,「否定的なものとして,生を保存しようとする(死を回避しようとする)ものである,とバタイユが言うように,この「持続」の力はそのままスポーツの「ルール」の制定に向き合ってきたはずであり,「強烈さ」は,「肯定的なものとして,生の強烈さを増大しようとするものである,というこの力は,そのままスポーツをとおして人間の能力の限界に挑戦していこうとするパトスへと直結していく。だとすれば,生きる人間にとってのふたつの目的を,スポーツ文化もまた追求してきたことになる。

こんな,とんでもなく根源的な,スポーツ史研究の新たな「問い」にぶちあたってしまう。わたしの中で,新しいなにかがはじけそうな,そんな予感が充満しつつある。だから,バタイユのこんな文章に出会うと,呼吸困難を起こしてしまう。でも,この呼吸困難はまことに「快」そのものでもある。だから,バタイユを読むことは止められない。

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2009-12-28 年賀状をあきらめる。

_ 年内に年賀状を書き上げる,という長い習慣についに見切りをつけることにした。理由は簡単。時間のやりくりがつかない。ただ,それだけ。

ここにきて,小さな仕事が吹き溜まりのように残っていることに気づき,とうとう年内に年賀状を書き上げることを断念。その代わり,正月早々から年賀状書きがはじまるだけの話。時間がズレただけのことなのだ。若いときならいざ知らず,もうそろそろ年賀状が「後出し」になっても,「失礼な奴」といって文句をいう人もほとんどいなくなってしまった。いささか寂しいことではあるが・・・。

と,ふっと気が抜けたようなタイミングのところに『風は山河より』(宮城谷昌光著,新潮文庫)の第5巻と第6巻がでたという新聞広告が目に飛び込んできて,そのまま書店へ走る。それがまたタイミングよく店員さんがワゴンで運んできて平済みにしているところに出くわす。ものも言わずに2冊を抜き取ってカウンターに向かうわたしの背中に「ありがとうございます」という店員さんの大きな声。ちょっと恥ずかしいなぁ・・・と思いながら悪い気はしない。

これが,26日の午前。少し片づけ仕事を済ませてから鷺沼の事務所へ。ここでもやらねばならないことがあったので,読み始めたのは夕食後。もう止まらない。やらなくてはならないことがあっても全部,後回し。まず,夜更けまでに1冊。翌日,27日も鷺沼にでかけて,やりかけの仕事があったのでそれを片づける。そして,やはり夕食後,最終巻である第6巻にとりかかる。そして,とうとう朝方まで。感極まって,つい「クッ,クッ,クーッ」という声がでてしまう。唇は打ち震え,顔はクシャクシャ,眼には涙が一気にあふれ出る。もちろん,その瞬間から文字はかすんで見えなくなってしまう。

その理由も簡単。三河人に独特の「心情」の奥に秘めている,えもいわれぬ琴線に触れるような文章に接したとたんに,わたしの感情は一気に爆発してしまう。抑えにおさえていた感情が,まるで臨界点に達したかのように,一気に雪崩現象を引き起こす。もはや,止めようがない。気持ちが収まるまでそのままなりゆきにまかせるしかない。久しぶりに何回も泣いた。声をおしころして泣いた。こういう泣き方ってとてもいい。気持ちがすっきりして,元気がでてくる。

宮城谷氏は愛知県蒲郡市出身の作家であるが,なんと,わたしの高校の後輩でもある。宮城谷という姓は,あの地方ではほとんど聞いたことはないから,比較的新しく移り住んだ人の子孫に違いない。ところが,この宮城谷氏が大の三河人びいきなのである。突然,「三河人」などというとびっくりする人がいるかもしれない。愛知県は「尾張」の名古屋と「三河」(岡崎・豊橋)の二つの地域から成り立っていて,この二つの地域はいまでもあまり仲はよくない。第一に「ことば」が違う。名古屋弁と三河弁は,イントネーションもそこに込められる情感もまるで違う。性格も,名古屋の人の方が決断が早い。三河の人間はどんくさい。その代わり,一度,こうと決めたらテコでも決心を変えようとはしない。その点,名古屋人は切り換えも早い。どちらも一長一短があるが,お互いにその違いがとくに気に入らない。そのあたりの人情の機微のようなところを,宮城谷氏はこの作品をとおして,じつにみごとに描き出している。

まあ,言ってみれば,三河人の美質をひときわ引き立てるような作品のつくりになっている。豊橋から飯田線で北上し,平野から山間部に入りかけのところに「野田」という地域がある。いまは新城市の一角となっている。この野田城の城主をつとめた菅沼新八郎を名乗る親子3代の物語が,この『風は山河より』という作品である。三代目の新八郎は徳川家康と同じ年に生まれたという因縁もあって,この両者の関係のもち方も,戦国動乱の時代を生きる武将たちの生き方としてとても面白い。絶えず戦争があって,あっけなく人は死んでいく。それだけに激しく,かつ濃密な人間の感情が露呈し,人と人との深い結びつきを産む。そのとき,三河人と尾張人との違いがみごとに表出する。そこを,宮城谷氏は描きつづける。しかも,三河人の気質・心情は素晴らしい,と。

だから,三河人であるわたしには堪らない。一冊,読み終えるまでは眠れないのである。しかし,この本は,尾張,駿河,甲斐の出身者には受けが悪いだろうなぁ,とも思う。逆にいえば,こんな本を書いてしまって,宮城谷氏は大丈夫かなぁ,と心配にすらなってくる。もっとも,これは小説の話だから,なにも問題はないのだが・・・・。

たとえば,どんな描写がされているのか。最後に,ちょっとだけ引いておこう。

「三河で生きている者は,農業を中心とする生活形態が思想の根幹にあり,志のすえかたは,じみちな作業のすえに秋の収穫を待つ心境に似ているので,投機をふくむ商業という危険をはらんだ実利的な契約世界に関心がない。(中略)人の合理におさまらず,人の力のおよばない存在を知りつつ,三河の者は生きている」

「新八郎(注・定則)も妄(うそ)を好まず,背信を嫌う。情義の人だからである。三河人は知恵を先行させず,情義によって動く。清康(注・家康の祖父)に付いたのは,今川家の旧恩を忘れたと非難されるかもしれないが,根本的に今川家に情義を感じていないあかしである」

「清康の戦いかたとは,ときに,そうである。策も術もない。必死に戦うだけである。たしかにみかたによっては愚劣な用兵であるが,策も術もないがゆえに,敵からすれば策も術も利かないともいえるので,清康はいやらしい武将であった。三河の武人の多くは,そういう清康の戦いかたを好み,おしつけられる戦術を嫌った」

とまあ,こんな風である。まるで,わたし自身が丸裸にされているような錯覚に陥る。この感覚は他郷の人たちにはちょっと理解不能ではないかと思う。しかし,こんな情感が,現代社会を生きるわたしのからだにも,いまだに宿っているということが不思議でならない。もう,とっくのむかしに忘れてきた情感のはずである。なぜなら,情けないことに,わたしは「三河弁」をしゃべることすらできないのである。にもかかわらず,このような小説を読むと,こころの奥底から不思議な感情が沸き上がってくるから不思議である。

人間というものは不思議なものだ。でも,だから生きていられるのかもしれない。なにもかもわかってしまったら,もはや,夢も希望もなくなってしまう。わからないっていうことはまことに魅力的なものだ。生きる源泉でもあるのだから。

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2009-12-29 自我と科学と供犠と・・・。サドを語るバタイユ。

_ サディズムやサディストの語源となったサド侯爵の作品(『百二十日』)を批評するバタイユが,これまた凄まじい。その迫力に圧倒されてしまう。

『文学と悪』(バタイユ著,山本功訳,ちくま学芸文庫)のなかに「サド」を取り上げた章がある。はじめはサド文学の外堀を埋めるような手法で,本丸攻めのための踏み石を設定していく。もちろんバタイユの理論仮説のうち,「サド」の文学とうまく交叉するものがつぎつぎに提示されていく。このあたりを読んでいるかぎりでは,サドとバタイユの感性はきわめて近いのだ,という不思議な世界に導いてくれる。しかし,徐々にその分析の鋭さが加わるにつれて,そうではないことがわかってくる。そして,最終的には,サドのめざしたものとバタイユのそれとではまったく次元の異なるものであることがはっきりしてくる。たとえば,サドが徹底して「サディズム」のなかに横たわる人間の本質(存在理由)を徹底して探求していくのに対して,バタイユの思考はそれらを包含してなおそのさきに広がる無辺際の世界にまで伸展していく。言ってしまえば,自我(あるいは理性)の殻の<外>にとび出すことの意味を強調するという点では,この両者の主張はまったく同じペクトルをもつ,と言ってよいだろう。

さて,そこでバタイユのサド批評のさわりの部分に入っていくことにしよう。この論考のおわりの方で,バタイユはつぎのように言う。

人間生活の営みは,わたしたちを安易なさまざまの意見に結びつけている。まず,わたしたちは自分自身を,充分に限界づけられた〔定義づけられた〕本質として表象している。思考の基礎となるこの自我ほど,確実らしく見えるものはない。ついでその,自我が諸客体とぶつかる時,それはただ,それらを自分の道具に変形するためでしかない。したがって,その自我は自分ではないものと対等のものになることは決してないのである。すなわち,わたしたちの有限な存在の外にあるものは,あるいは,わたしたちを従属させる測り知れない無限であるか,あるいは,わたしたちに従属させられていてわたしたちの自由になる客体であるか,いずれかである。もちろんそれ以外にも,個人は,間接的な手段を弄して,自分の自由になる諸事物から類推しながら,その広大なひろがりの内部に自分をつなぎとめている有限なものとされた一秩序に,従属しようとすることもできる。しかし,たとえ個人が,そのようにして,この広大なひろがりを科学の諸法則(すなわち,世界と有限な諸事物とのあいだに,対等であるという記号をおく)のなかにつなぎとめてしまおうと試みても,彼は,自分の〔道具としての〕客体と対等のものになることはできるとしても,やはり,自分を圧しひしぐひとつの秩序(自分を否定し,自分を,自分に従属させられている有限な事物から区別しているものを,自分のなかで否定する秩序)のなかにつなぎとめられていることになるだろう。このようなさまざまの限界から個人が脱却し得る手段としては,ただひとつの手段しかない。すなわち,わたしたちに似ている存在(意識存在)を破壊することである(この破壊を通じて,わたしたちに似ているものの限界は,否定されることになる。事実,わたしたちは,無生物を破壊することはできない。それというのも,無生物は変化するが,消滅することはないからである。ただわたしたちに似ている存在だけが,死のうちに消滅してしう。わたしたちがわたしたちに似ているものに加える暴力は,時には有益なものともなり得る有限な諸事物の秩序のなかには,ふくまれてはいないものなのである。それは,わたしたちに似ているものを,広大なひろがりに返してしまう力をもっている)。

引用したい文章はまだまだつづく。が,ここで一端切って,立ちどまってみよう。バタイユはこんな短い文章のなかに,とてつもなく壮大な理論仮説をみごとに詰め込んでいる。自我と科学の問題をこれほど端的に説明した文章を,管見にしてこれまでまだ接したことがない。ここで,バタイユが指摘していることがらの前半のしがらみの真っ只中に,わたしたちはいま立たされている。そして,そこからの脱出口すら見いだせないまま立ち往生している。「見えない時代」とか「価値の多様化の時代」とか言って,ごまかしている。しかし,バタイユは即座に,そこから脱却し得る手段は「ただひとつ」だと断言し,その方途を示している。「すなわち,わたしたちに似ている存在を破壊することである」と。この脱却方法を提示したあと,すぐに,バタイユはつぎのように力説する。

これは,すでに供犠において真実だったことだ。すなわち,聖なるものへの恐怖にみちた畏怖感において,精神はすでに,自分と存在するもの(わたしたちが認識できない無際限な全体)とが対等のものとなる動きにまきこまれているのである。しかし供犠は,狂奔であると同時に,また狂奔への恐怖でもある。すなわちそれは,明快な行動性の世界(世俗の世界)が,自分を破壊するおそれのある暴力から解脱するための操作にほかならないのだ。もっとも,供犠のなかでは,孤立した個人から無辺際へのずれ落ちた注意が集中されているが,それにもかかわらず,やはり明晰な意識とは真向から対立する逃げ腰の釈義の方へと,注意はそらされているのである。それに供犠とは,受動的なものであり,原始的な恐怖心に立脚するものだ。したがってただ欲望だけが能動的なものであり,ただそれだけが,わたしたちを現前させてくれるのである。

ここでもバタイユはコンパクトに言うべきことを言い切っている。バタイユの『宗教の理論』やマルセル・モースの『贈与論』を通過してきたわたしたちは,もはや,このバタイユの文章になんの抵抗もなく受け止めることができるだろう。だから,あえて敷衍しておけば,現代文明がもっとも遠くに置いてきてしまったものは「供犠」である,と。そして,そのことによる「ひずみ」あるいは「ツケ」が,こんにちの世界や社会に蔓延しているのだ,ということになろうか。

別の言い方をすれば,「供犠」のもつ意味についての歴史の忘却。あるいは,「供犠」の抑圧・隠蔽。つまりは,近代論理の「自閉」。

21世紀の劈頭を飾った「9・11」はその象徴的なできごとであった。ここからの脱出をいかにしてはかるか,がいまや喫緊の課題となっている。にもかかわらず,杳としてその行方が見えてこない。歴史学研究に置いてもしかり。西谷修氏が,業を煮やして『世界史の臨界』(岩波書店)を書いた。にもかかわらず,なんの反応もなし。では,スポーツ史研究ではどうか。同じ穴のむじな。このことなかれ主義の横溢するアカデミズムの世界からの脱却をいかにしてはかるか。

そのためのヒントはここかしこに散在している。その一つが,この「供犠」のもつ意味の再検討である。同じことが「儀礼」についてもいえる。それも,近代的な意味での「供犠」や「儀礼」ではない。この呪縛からわたしたちを解き放つ「爆発力」を秘めたバタイユの『非−知』の地平に立つことだ。サドの『百二十日』もまた同じ「爆発力」を秘めている,とバタイユは評価する。

思い切って飛躍したテーゼを投げておこう。「スポーツ的爆発力」の源泉はどこからくるのか。これを「探求」すること。スポーツ史研究の新たな「地平」がそのさきに広がっている・・・と期待するのだが・・・。

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2009-12-30 フランツ・カフカはスポーツマンだった?

_ 『変身』『審判者』などの作者フランツ・カフカはスポーツマンだった,というと驚く人が多いだろう。かく申すわたしもびっくりした。

もっとも「イエス・キリストはスポーツマンだった」と言い切るまじめな研究者に出会ったときの方が,もっとびっくりしたのだが・・・・(『談』No.86,で対談した柳澤田実さん)。でも,そのことの意味は,この『談』のなかの対談をとおしてわたしなりに理解できた。なるほど,そういうスポーツマン解釈もありか,と教えられるところがあった。いまや,スポーツは「万能薬」のようにあちこちで利用・活用されている。それがいよいよ「ディスポジション」などという哲学上の概念の説明に,スポーツがまことに適切な例として取り上げられるようになり,この概念を敷衍していくと「イエス・キリストはスポーツマンであった」ということになってしまう。

ところが,フランツ・カフカは,イエス・キリストとは違って,文字どおりのスポーツマンであった(らしい)。連日,このブログで取り上げているバタイユの『文学と悪』のなかに「カフカ」の章があって,そのなかにつぎのような引用がでてくる。原典は『死刑宣言』。この作品は,「ひとりの友人の生活態度のことで父親と口論し,そのはてに絶望して自殺してしまうひとりの青年の物語である。ところで,その口論の場面の描写がながいのにひきかえ,この青年の自殺の場面は,わずか数行で片づけられている」とカルージュの解説。そこで,本題の自殺の場面の引用は以下のとおり。

「彼は,門からとび出し,電車線路をこえ,川の方へと,どうしようもない力に押されて行った。そして,まるで飢えたひとが食物にとびつくようにして,すでに欄干にとりついていた。彼は,少年の頃には親たちの自慢のたねだった持ち前の身軽な体操家の身ごなしで,手すりをとびこえた。それでも彼はまだしばらくのあいだ,だんだんと力のぬけゆくのを感じる片方の手でつかまりながら,手すりの棒のあいだから,自分の落ちる音を簡単に消してくれそうなバスがくるのをうかがっていたが,低く『なつかしいお父さん,お母さん,それでもぼくは,いつもあなたがたを愛していたんですよ』と叫ぶなり,虚空のなかに落ちこんでゆくのにまかせた。

その瞬間に,橋の上には,文字どおりに雑踏をきわめた車馬の往来があった」。

以上である。ここに登場する「少年」は,カフカの分身であると考えられているので,カフカは「体操家」のように敏捷であった,と推定されても不思議ではない。「身軽な体操家の身ごなしで」というのは古風な訳語を当てているが,今風にいえば「身軽な体操選手の身ごなしで」となるところであろう。

この話には落ちがついていて,バタイユは以下のようなネタばらしをしている。それによると以下のようである。

「ミシェル・カルージュがこの最後の文章の詩的価値を力説しているのは正しい。カフカ自身も,敬虔なマックス・プロートにむかって,この文章に別なひとつの意味をつけ加えている。『きみは,この最後の文章がなにを意味するか,知っているかい。ぼくはこれを書きながら,猛烈な射精のことを考えたんだよ』と。しかし,この『とほうもない告白』は,『エロチックな舞台裏』を垣間見させるものだろうか。つまりこれは,『書くという行為にふくまれている,父親の前での敗北と,夢のなかでの生命伝達の失敗とに対する,一種の補償作用』を見る目安となるものだろうか。わたしにはなんとも答えられないが,しかし,この『告白』と照らし合わせて先の文章を読み返してみると,それは,よろこびの至高性を,つまり,虚無──すなわち,存在に対して他者たちがそれであるところの虚無──のなかへとはまりこんで行く,存在の至高のずれ落ちを,表現するものだということがわかるのである。」

このように解説してくれると,難解な「至高性」や「虚無」も「他者」も「ずれ落ち」もとてもよくわかる。そして,それが一度わかると,あとはこれらの概念をわがものとして用いたくなってくる。つまり,とても便利なツールとなってくるからだ。しかし,実際に自分の文章のなかで用いるには相当の要心がいる。なぜなら,これらの概念用語を用いるにふさわしい思考のレベルに達していることが先決であるからだ。というわけで,バタイユ理解の奥は深い。

ところで,このような情景描写とエロティシズムを重ね合わせるという手法は,じつは,多くの作家たちが好んで用いるところである。かの大江健三郎さんの小説のなかにもしばしば登場する。作品名はあえてあげないが,たとえば「四国の山奥の川沿いの道をたどっていくと,川が二つに分かれている。その二つの川に挟まれるようにしてこんもりとした森がある。その森の入り口のところには石段がちらりと見えていて,それを登っていくと弁天さまが祀ってある・・・」(これはわたしの記憶で書いているので原文ではありません)というような描写がある。こういう描写のひとつを取り上げて,作家の井上ひさしさんが「図解」して解説しているものに出くわして,思わず大笑いをしてしまったことがある。

もっと遡ると,外山滋比古先生(わたしの学生時代の英文講読の先生だった)の授業でも,指された学生が大まじめに英文を読み上げた上で日本語訳をつけていく。「こんもりした丘は背丈の低い草で覆われていた。ときおり,風が吹いてきてその草がやわらかになびいている。この丘を下っていくと小さな祠があって,マリア様が祀られている・・・」という具合に。そこで,外山先生はにこやかに,文学を鑑賞するということは,ただ日本語に置き換えればいいということではありません,と解説をはじめる。あとはご想像にお任せするが・・・。いまでも忘れられない授業のひとつであった。

フランツ・カフカもたぶん間違いなく運動神経抜群だったのだろうと思う。大江さんも毎日のように泳いでいる。外山先生はテニス大好き人間である。『海辺のカフカ』の村上春樹さんは有名なマラソン・ランナーである。

ああ,このブログの落ちまでもって行かれない。残念。落ちはカフカが探求した「よろこびの至高性」は,文学の独占物ではなくて,われわれスポーツ愛好者にもいえることであって,「からだ」をとおして「よろこびの至高性」に到達する。これを一度でも経験した者は,間違いなくスポーツのとりこになってしまう。それは「大いなる射精」となんら変わるところはない。まさに「至高性」の経験。

じつは,こういう議論をスポーツ文化論や,いや,もっと深くスポーツ哲学のレベルでやっていけるようにならない,近代アカデミズムに対する苛立ちがわたしのなかには根強くある。悪しきアカデミズムの「自閉」からとび出して,生身の人間の「よろこびの至高性」が論じられる日がやってくることを夢見ている次第。

以上。

_ 「彼は,門からとび出し

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2009-12-31 至高性・聖性・聖なるものを求めたジュネ。

_ 『泥棒日記』の著者,ジャン・ジュネのことについてはほとんどなにも知らなかった。しかし,バタイユの手にかかるとかくも魅力的な哲学上のテーマとなりうるということを知り,感動である。

もう,大昔も大昔,学生時代にだれかに薦められてジャン・ジュネの『泥棒日記』を読んだことがある。もう,なんというハチャメチャな小説であることか,と生真面目一本の考え方をしていたわたしには,あまりに落差がありすぎて,こんな小説が存在すること自体を理解することができなかった。ルールを守り,フレンドシップを高めることの意義を認める近代スポーツ信奉者にとってはまるで別世界のことでしかなかった。むしろ,許せない,という感情すらいだいたように思う。しかし,人間というものは不思議な生き物ではある。あれから半世紀が経過して,いまではまるで正反対のものの見方・考え方をするようになったのだから・・・。時代も大きく変わったが,わたし自身も大きく変わった。あの時代を知っている友人たちは,みな一様に驚く。

まあ,そんな感傷にひたっているときではない。話をもとにもどそう。

バタイユと同時代に生きたジャン・ポール・サルトルは早くから脚光を浴びて論壇に登場する。そして,日本にも早くから紹介されて,当時の学生たちの間でもよく読まれていた。しかし,難解であった。『存在と無』などというタイトルをみて,わたしなどはすぐさま「あっ,これは禅ではないか」と思った。そして,苦労しながら読んでみたが,なんのことやらさっぱりわからない。禅に近いような話にも読めるが,どこか違う。当時のわたしには形而上学もキリスト教もほとんど頭に入っていないのだから当然といえば当然。それでも,サルトルのいう「無」が禅でいう「無」とはまったく次元の違うところの話であるということだけはわかった。それで充分だった。なぜなら,禅の「無」の立場からサルトルの『存在と無』を批評する学生は,わたしのまわりにはいなかったからである。論客でならしていた寮生も,いささか意表を突かれたといわぬばかりの顔をした。

実存主義で一世を風靡したサルトルが,『聖ジュネ,道化と殉教』(ガリマール書店,1952年)という大部の略伝を書いた。しかも,サルトルはジュネをパスカルやボードレールにも列する偉大なる作家である,とぶち上げたというのである。もちろん,フランスでは大きな反響を呼び,ジュネの評価は跳ね上がった。しかし,当時,まだ無名であったジョルジュ・バタイユは,このサルトルの書いた略伝を,サルトルの最高傑作である,と持ち上げつつ,根底からサルトルの立つ思想的地平のいい加減さを批評してみせたのである。それが,連日,とりあげている『文学と悪』の中の最終章「ジュネ」である。

サルトルの実存主義の時代がとおりすぎて,つぎつぎに新手の思想がとりざたされ,およそ30年ほど経過したころに,日本でもジョルジュ・バタイユが話題になりはじめていた。わたしはありがたいことに,この初期のバタイユ・ブームの時代から,西谷修さんをとおしていくらかの情報だけは入るようになった。そして,もっぱら,西谷さん経由でのバタイユ理解がはじまった。なぜ,いま,バタイユなのか,と西谷さんに問うたことがある。その答えはいまでも忘れない。「時代がバタイユを理解するようになった」と。つまり,バタイユはサルトルと同時代の人でありながら,サルトルはその時代にすぐに迎合されたけれども,バタイユの思想はサルトルよりもはるかかなたにまで延びていて,その時代の人たちにはまるで受け入れてはもらえなかった,というのである。だから,バタイユに押された最初の烙印は「異端の思想家」である。このイメージをいまもひきずっている人は多い。しかも,そのようなイメージのまま文章を書き,評論活動をしている人も多い。もう,とっくのむかしにそんなことは解決済みでるはずなのに・・・。思想の偏見というものは恐ろしい。

これだけの前提をもって,このバタイユの「ジュネ」を読むときわめて面白いことが見えてくる。サルトルの「ジュネ」評を題材にしながら,褒めるところは褒め,駄目なところは徹底して駄目という。しかも,なぜ,駄目なのか,という根拠を明らかにしながら。その根拠を提示することが,このバタイユのジュネ批評のねらいでもあるのだが・・・。

サルトルのジュネ理解において,徹底的に欠落しているのは「至高性」の視点であるとして,バタイユは以下のように持論を展開している。それを引いて,このブログはおわりにしよう。この引用文をどのように読み取るかはご自由ということにして。

ジュネは,自分が目ざすべき権威のことでは躊躇しない。彼は自分が至高のものであることを知っている。ところで,彼が享受しているこの至高性とは,求めて手にはいるものではない(つまりそれは,努力して手に入れることができるものではない)。それは,神の恩寵のように,啓示されるものだ。すなわちジュネは,自分のうちにわき起こる歌をたよりに,至高性を認めることしかできない。しかし,歌をわき起こらせる美とは,掟への侵犯にほかならないし,また,禁制への侵犯こそ,至高性の本質でもある。至高性とは,生の持続を保証するさまざまな掟のかなたへと,死をものともせず超出する能力にほかならない。それが聖性と異なるのも,ただ表面的なことでしかない。それというのも,聖者とは,死の魅力に惹きつけられる者だし,それに対して王者とは,自分の頭上に死を招きよせる者だからである。それに,決して忘れてはならないことは,「聖」saintという言葉は,「聖なる〔犯すべからざる〕sacreを意味するものであり,さらに,聖なるとは,禁制,すなわち,暴力的なもの,危険なもの,それに接するだけですでに壊滅が予告されるもの,すなわち悪,を意味する言葉だということである。

以上でことしのブログはおしまい。

来年もどうぞよろしく。

よい年をお迎えください。

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