Diary


2010-01-01 6回目の寅年。

_ 明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

_ とうとう6回目の寅年を迎えている。秀吉は「夢のまた夢」と言ったが,まさにそのとおり。あっという間の70年。過去をふり返ると,急にからだがフワッと浮き上がったような感覚に襲われる。記憶という別世界のなかに飛び込む身体感覚とでもいうべきか。まるで不思議な世界にみえてくる。やはり,70年前,60年前,あるいは成人を迎えた50年前というのは,こんにちの世界からしたら隔世の感がある。やはり,別世界のことなのだ。

60年前といえば,1950年。敗戦の年が1945年だから,それから5年しか経っていない。ようやく戦争の恐怖から少しずつ遠ざかりつつあった中学1年生のときだ。朝鮮戦争勃発という大きな写真(戦闘場面)入りの中学生新聞が学校の廊下に貼り出され,ふたたび恐怖が襲ってきたことを,昨日のことのように思い出す。それから,連日のように廊下の掲示板に貼り出される新聞に釘付けにされた。それがまた,またたく間に北に押されて南の領土が小さくなっていく。もう少しで全部とられてしまって,そのあとは,北九州にやってくるのではないか,と想像しただけで全身に戦慄が走った。とにかく怖かった。いまで言う,戦争のトラウマに襲われていたに違いない。しかし,この状況を見極めたかのようにアメリカ軍がやってきて,みるみる押し返していく。こんどは北の領土に踏み込んでいく。そうなるとソ連(当時)も黙ってはいない。こうして米ソの代理戦争がはじまった。冷戦構造のはじまりである。

それから10年後,つまり1960年。成人式を終えて,大学院進学を考えはじめた頃である。一般的にいえば,東京オリンピックの4年前。この時代はまだ米が配給の時代で,食べるのが必死の時代だ。五木寛之がまだ食えなくて,血を売って生き長らえていた時代だ。家からの仕送りもわずかしかなかったので,アルバイトをしながら糊口をしのいだ。そんな時代に,東京オリンピック開催が目の前に迫っていたのである。政府は全力をあげて,新幹線を走らせ,首都高速道路を整備し,という具合にして「日本列島改造」を繰り広げた。いまにして考えてみれば,よくぞ,オリンピックを開催することができたものだ,と薄氷を踏む思いがする。しかし,人間はよくしたもので,悪い記憶はすべて忘れてしまい,よかった思い出だけが鮮明に残る。だから,貧しくても,苦労しても,生きていけるのだろう。そんなことをケロリと忘れてしまって,「北京にオリンピックを開催する資格があったのか」という論説を,厚顔にも朝日新聞に書いた著名な国際政治学者がいる。あまりに唖然としてしまって,開いた口がふさがらなかった。「理性」が「狂気」と化してしまった(『理性の探求』)という典型的なサンプルの一つだ。ついでに書いておこう。1964年の東京オリンピックは競技会支援のボランティアとして,わたしは体操競技の一部をみることはできたが,チケットを購入して他の競技を見物するだけの金銭的余裕はなかった。この時代,日本はまだまだ貧しかったのだ。高度経済成長期などという美しいことばにごまかされてはいけない。高度に経済が成長できるほどに底辺が低かったというだけの話だ。つまりは数字のマジック。少なくとも,わたしの生活はまずしかった。テレビも冷蔵庫もない四畳半の部屋は,冬になると室内と外気の温度はほとんど同じだった。小さな火鉢を抱き抱えるようにして寒さをしのいだ。手や耳にはしもやけやあかぎれができた。そして,くる日もくる日もアルバイト。勉強する時間を確保するのに必死だった。でも,まずは食べることが先決だった。

おやおや,正月早々,わたしはなにを書いているのだろう。そうだ,過去のわたしといまのわたしとでは,まるで別人であるという話だ。まるで違う世界に生きているということ。どちらが別世界なのか,自分でもよくわからなくなってくる。人間が「生きる」という実感からすれば,むかしの方がはるかにその重みがあったように思う。人と人との関係も同じ。もっとお互いに助け合って,喜怒哀楽をともにしていたように思う。近頃は,生きているという実感がどんどん薄れていく。荒川修作ではないが『死なないために』(We have decided not to die.),もう一度,日常生活の根源から問い直さなくてはならないように思う。

ようやく落しどころが見つかった。

ことしの目標は「人と人との関係を大事に」としよう。つまり,もっとみずからのこころを開いて,他者を歓待できるように,と。

とまあ,こんなつもりでことしのスタートを切りたいと思います。

ツッコミなどを入れて,是々非々で背中を押してくださると嬉しいと思っています。どうぞ,よろしくお願いいたします。

まずは,6回目の寅年を迎えての年頭のご挨拶まで。(新年早々に,まことに妙な話を展開してしまっていますが,お許しのほどを)。

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2010-01-02 スポーツ史研究とはなにか。

_ 2010年を生きるわたしたちにとって,スポーツとはなにか。そして,その歴史を研究するとはどういうことなのか。ことしはこのテーマを追ってみたい。

昨年,『近代スポーツのミッションは終わったか』─身体・メディア・世界(今福龍太,西谷修の両氏との共著,平凡社)を上梓し,わたしなりに大きなハードルの一つを通過することができた,という感慨をもった。それはしかし,新しい出発点が定まったということをも意味していた。このことをかみ砕くと以下のようになろうか。

近代スポーツが過剰な競争原理という隘路に入りこんでしまって,その出口なき闘いが熾烈をきわめ,ついにはドーピング問題という大きな壁にぶちあたる。しかし,この問題は,わたしからみればヨーロッパ近代が仕掛けた優勝劣敗主義の当然の帰結にすぎない。つまり,ヨーロッパの近代論理(ヨーロッパの伝統的哲学である形而上学から導き出された論理)のスポーツ現場への応用であり,実践であった。その結果の一つがドーピング問題である。しかしながら,このドーピング問題を,同じ近代論理のもとで解決しようという,あまりの論理矛盾にわたしは唖然としてしまう。つまり,「アンチ・ドーピング運動」の目指すところは,自分たちの利益だけを最優先させ,そうでない部分を切り捨てる,という立場である。このスタンスは,どこぞの国の「テロとの戦い」と同じ論理である。これは一つの事例である。

近代論理の生み出した諸矛盾を近代論理で解決することは可能なのだろうか。この近代論理の根っこにある考え方の一つは,繰り返すことになるが優勝劣敗主義である。この原理が過剰に機能したために出現した諸矛盾を解決するには,一度,近代論理の<外>にでて,それに代わる新たな論理を組み立てていくしか方法はないのではなかろうか,というのがわたしの考えであり,スポーツ史研究者としての基本的なスタンスである。このスタンスがほぼ間違いではないという確信をえたのが,さきの『近代スポーツのミッションは終わったか』の刊行である。

この意味で,この本の刊行は,近代論理の呪縛からの離脱であり,近代論理の<外>に立つための確たる基盤の確保であり(もちろん,まだ,不十分ではあるが),近代論理とは異なる新たな知の地平に向かうスタート地点をも意味したのである。では,いかなる方向に向かって,新しい論理,つまり,近代論理にとって代わる論理(わたしのことばに置き換えれば後近代の論理)を構築していけばいいのか。これが新たなわたしの大きな課題となる。

そこで,わたしが現時点で提示できるとすれば,ジョルジュ・バタイユの理論仮説を手がかりにしたスポーツ史研究の新たな可能性の地平である。当然のことながら,近代論理の<外>に立つということは,近代スポーツの呪縛からいちど身を離して,スポーツとはなにか,という根源的な問いに立ち返ることが必要となってくる。この問いに応えることとスポーツ史研究の新たな可能性の地平が開かれることとは,表裏の関係にある。したがって,このテーマはしばらくの間は,徹底して「スポーツとはなにか」という問いを深めていくことになろう。

だとすれば,まずは,21世紀を生きる人間にとって「スポーツとはなにか」,あるいは,2010年を生きる人間にとって「スポーツとはなにか」という問いが立ち上がってくる。これが冒頭にかかげた,わたしの問題意識(あるいは,問題提起)と共鳴することになる。もっと厳密にいえば,「9・11」以後を生きるわたしたちにとって「スポーツとはなにか」という問いになる。

この問いは同時に,スポーツ史という長い歴史的スパンのパースペクティヴに開かれていくことになる。つまり,この問いと,まずは,原初の人間がスポーツをどのようにして導きだしたのか,すなわち,スポーツの「始原」(あるいは「起源」)の問題とが共振する。ヒトが人間になるときに,「スポーツ的なるもの」はどのような役割をはたしたのか,この「スポーツ的なるもの」の出自はどこなのか。まずは,わたしの問題意識はそこに向かう。

この問いに応答してくれるのは,わたしにとっては近代論理ではなく,その<外>

に立つジョルジュ・バタイユの理論仮説であった。幸いなことに,さきの著書の共著者の一人である西谷修氏はバタイユの研究者として世にでた人である。この人の著作のどこを開いても,バタイユの思想が通奏低音のようにひびいている。近著の『理性の探求』は,そこからさらにもう一歩を進めた新境地に立つ作品といってよいだろう。だから,わたしにとってはジョルジュ・バタイユの理論仮説に立つことは,ある意味では宿命づけられていたといっても過言ではない。ただ,ひとこと断っておかなくてはならないことは,わたしの問題意識の体質のようになっているものは,禅の思想である。この禅の世界とバタイユの世界は,もちろん,本質的にはまったく異なるものではあるが,わたしにとってはきわめて親近性の高いものである。だから,バタイユの思想は難解ではあるが(これもまた禅の思想と同じ),どこかで共鳴するものを感ずるのである。

いささか,横道にそれてしまったが,そのついでといっては失礼ながら,もうひとことここに付け加えておきたい。それは,同じ共著者の今福龍太氏は人類学者として多くの著作をものし,これまでにも大きな影響を世に与えてきた人である。この人のスタンスもまた,大陸(帝国?)の論理に対して群島(マルチチュード?)の論理をつきつける,きわめて過激な内容を含んでいる。今福氏もまた,近代論理が展開した世界戦略にはげしくアゲインストしながら,それに代わる新しい論理の構築を提唱している。そして,これもまた偶然とはいえ,早くから今福氏の著作に惹きつけられ,「スポーツとはなにか」を考え,「スポーツ史研究とはなにか」を考えるヒントをたくさん戴いた。

バタイユがマルセル・モースの『贈与論』に大きな影響を受け,その弟子であるカイヨワなどとの研究会をとおして,原始の人間の「文化」をめぐる問題に深く立ち入っていくことを考えると,わたしが今福氏から受けた影響も,奇縁とはいえ深い意味があったといまにして思う。

というようなわけで,これからしばらくは,「スポーツとはなにか」(つまりは,「スポーツ史研究とはなにか」を問うこと)というテーマを追ってみたいと思う。今日は,とりあえず,そのための決意表明として,ここまででとどめることにしよう。

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2010-01-03 「スポーツとはなにか」その1.

_ 「スポーツとはなにか」その1.で考えてみたいことは,スポーツ史の研究対象となる「スポーツ」とはなにか,という問いである。

そのためにまず問われなくてはならないことは,スポーツ史をどのように考えるか,という問題であろう。つまり,歴史観の問題である。

かつて大流行したように,進歩発展史観に立てば,近代スポーツは人類が到達した頂点に立つ一つの文化だ,ということになる。つまり,歴史を測る価値観はヨーロッパ近代が生み出した近代論理,すなわち,近代合理主義である。したがって,ここでは素朴な民族(民俗)スポーツをいかに合理化し,近代化することによって近代スポーツへと到達したか,という歴史記述が主題となる。最近は鳴りをひそめてしまったが,マルキシズムに立つ歴史観も,そのイデオロギーこそ違うものの,これもまた立派な進歩発展史観であった。つまりは,近代という時代を,人類が到達した最高の時代であるという前提に立ち,さらなる進歩発展をうながし,より理想的な社会に到達するための方途をさぐること,それがこの進歩発展史観の立場であった。したがって,近代社会が生み出した近代スポーツが,どのような歴史過程をへてこんにちに至ったのかを「合理的」に明らかにすること,そこに主眼があった。

スポーツの歴史的研究をめざす同志の集まりであるスポーツ史学会もまた,大枠でいえば,この路線に立っていると言っていいだろう。もちろん,その呪縛からいかにして逃れ,新たな歴史研究のスタンスを確保しようかと苦慮している同志も少なからずいることもたしかである。詳細については,ここでは割愛する。

このようなわけで,大きくは進歩発展史観に立つか,あるいは,そことは一定の距離をおいて,新たな歴史観に立つか,という二者択一の状況がこんにちの一般的な状況と考えてよいだろう。いまは,メタな議論をしているので,こまかなことは省略する。

しかし,進歩発展史観に対する批判はあっても,それに代わる新たな歴史観や方法論は,いくつか提案はあったものの,どことなく元気がない。いまも,暗中模索の時代がつづいている,というのがわたしの現状認識である。その原因は,これはあくまでもわたしの仮説にすぎないが,やはり,近代論理で近代論理を超克することは不可能だ,ということだ。なぜなら,近代論理に立つ歴史観が研究対象にする「スポーツ」は,多少,その視線(まなざし)を変えるとしても,そんなに大きく代わることはないからだ。つまり,歴史研究の対象となる「素材」が同じであれば,そこから生まれる歴史記述にそんなに大きな違いがでてくるとは思えない。すなわち,近代論理に立つ,という時点で研究対象となる「スポーツ」の枠組みを決まってしまうことになるからだ。

だからこそ,この近代論理の<外>に立つ,ということが重要になってくる。つまりは「後近代」の視座に立つということ。このことをわたしは長い間,模索してきた。何年か前に世に問うた『スポーツの後近代』(三省堂)もまた,こうした問題意識から書かれたものである。それ以後,わたしの書いてきたものの大半は,こうした問題意識に支えられたものである。この問題意識に立つにはそれなりの理論武装が必要であった。そのために,さまざまな思想・哲学を遍歴することになった。その結果,到達した思想・哲学の一つが,ジョルジュ・バタイユのそれであった。すなわち,ヨーロッパの近代論理を打破して,後近代の知の地平を開いてくれる,もっとも強烈で,もっとも説得力のある思想・哲学が,わたしにとってはジョルジュ・バタイユであった。もちろん,バタイユの名と同時に,多くの哲学者や研究者の名もあげなくてはならないのだが,ここでは議論を単純化するためにあえて割愛する。

では,なぜ,ジョルジュ・バタイユの思想・哲学なのか,という問いがつぎにくる。この問いへの応答は明日に残しておくことにしよう。

最後に,歴史観(思想・哲学)によってその研究対象は大きく変化するということ,つまりは「スポーツ」というもののとらえ方が大きく変化すること,のみならず,歴史の見方が変わるということは,人間のとらえ方から社会のとらえ方にいたるまで,ありとあらゆるものの見方・考え方が根底から変わる,ということを確認しておこう。そして,わたしがこれから展開しようとしている論考は,そのさわりの部分だけを,駆け足で提示してみようという試みである。だから,相当に荒っぽい議論であることは,すでに,ここまで書いてきたものからも明らかだろう。その点は平にご容赦のほどを。思い切った理論仮説を提示するにあたって,そのくらいの冒険をしないとはじまらないのだ。

もっと大胆なことを書いておけば,近代歴史学に対する「逸脱」であり,「侵犯」でもある。手のうちを明かしておけば,これまで書いてきたジョルジュ・バタイユの『文学と悪』の紹介は,このための重要な助走だったのだ。その力を借りないことには,これからさきの議論はとてもではないが展開できない,そういう代物(しろもの)であることを,ここで正直に告白しておこう。

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2010-01-04 なぜ,いま,バタイユなのか。

_ 「スポーツとはなにか」その2.のタイトルは「なぜ,いま,バタイユなのか」。これは昨日のブログの積み残し。でも,これはとても重要なところ。

バタイユは近代論理を超克するための一つの概念装置として「非−知」non savoirという概念を提示して,みずからの思想・哲学を展開した。バタイユがこの概念を提示するにいたるには,バタイユのライフ・ヒストリーを述べる必要があるが,それは『バタイユ伝』という名著があるので,そちらにゆずることにしよう。結論からいえば,バタイユはヘーゲルの「絶対知」に対するアンチ・テーゼとして,この「非−知」という概念を提示したのである。ここは大事なところなので,少し分け入って述べてみよう。

ヘーゲルの「絶対知」こそ,わたしが近代論理と呼んでいるものの根源にある思想であり,哲学である。つまり,人間の「知」を磨き上げていくことによって理想的な社会を築くことが可能であり,やがては,すべての人間が「絶対知」に到達したとき,世界史は完成する,とまあ大なたを振るって言ってしまえばこういうことである。ここで注意しなければならないことは,このヘーゲルの歴史哲学のなかに,立派な「進歩発展史観」が内蔵されている,ということだ。この歴史哲学を全面的に支持したのが,なんと近代歴史学の祖といわれるランケなのだ。ランケの資料実証主義の根はヘーゲル哲学にある,ということをここでは確認しておきたい。つまり,ヨーロッパ近代という時代は,人間の「知」(理性と置き換えても可)に絶大な信頼を寄せることによって,前近代とは異なる新しい歴史の扉を開くことになったのである。

その良さと悪さがほぼ臨界点に達した,それがわたしたちが生きている現代という時代である。その臨界点から脱出するための方途はなにか,それが現代の喫緊の課題となっている,というのがわたしの問題意識の根底にある。

そこで,わたしは提案する。いまこそ,バタイユの「非−知」の論理を導入すべきときだ,と。ヘーゲルが「絶対知」に信をおくとすれば,バタイユは「非−知」に信をおく。別のことばに置き換えれば,主体に信をおくヘーゲルに対して,主体の不在を説くのがバタイユである。ここは,現代の論争の大きな問題を秘めているところだ。あくまでも主体性の論理に信をおき,アイデンティティの確立を必要不可欠とする立場をとる論者と,主体は不在であるという前提で人間の存在様態を考え直すべきだという立場をとる論者との間には,大きな亀裂がある。もっと過激に言ってしまえば,自己中心主義の立場と他者中心主義の立場の違いと言ってもよい。もっと言っておこう。デカルト的なコギト(われ思うゆえにわれあり)の立場に立つ人(ヘーゲルはこの思想の流れの頂点に立つ),すなわち自己中心主義(このことばには定義が必要であるが)者,それに対して「自己よりも他者がさきに存在する」という立場をとるフランス現代思想の系譜の人(バタイユはその魁となった人)たち,すなわち他者中心主義(これにも厳密な定義が必要)者,ということになる。

わたしが近代論理から離れろ,そして,まったく別の視座から近代を対象化する必要があると主張するのは,この他者中心主義の立場に立つということを意味する。すなわち,バタイユの思想・哲学に注目すべし,と。

バタイユは,早くからニーチェの思想・哲学に共鳴・共振しつつ,ヘーゲル哲学を徹底的に考究し,ハイデガーの『存在と時間』に一定の理解を示しつつ批判し,みずからの信ずる「非−知」の概念に到達する。これは,バタイユの「恍惚」(「エクスターズ」)と呼ばれているものの核心をなす概念である。つまり,平たく言ってしまえば,人間存在の,むきだしの,まるはだかの,あるがままの,そして原初の姿は「恍惚」・「エクスターズ」である,というのである。そして,赤ん坊をみてみろ,と。そこから一歩ずつ,鎧を身にまといはじめるのだ,と。成人するころには,鎧だらけになっているが,その鎧を全部脱いでしまえば,まるはだかの赤ん坊と同じになるはずだ,と。もっと言ってしまえば,たんなる動物とほとんど違わない,と。

こうした「非−知」の立場に立って,もう一度,原初の人間からこんにちの人間にいたるまでの経緯を見直してみようではないか。そこには,近代歴史学が明らかにしてきた人間の歴史とはまったくことなる歴史の地平が広がっている,とわたしは確信している。すでに,バタイユはその地平のいくつかを,一つの理論仮説として提示している。そこは,まことに刺激的で,あっと驚くようなバタイユの世界があり,論理が展開している。

その一つが,昨年暮れに取り上げた『文学と悪』である。わたしの読解によれば,バタイユは同時代人のサルトルを,一定の理解を示しながらも,やはり最終的には近代主義者であった,一刀両断のもとに断罪する。そして,近代論理が「悪」と名づけた領域を徹底して「擁護」し,その「悪」にこそ生きる人間のバイタリティが無限に内蔵されていることを,一人ひとりの作家の作品を題材にして解き明かしていく。この力技の前に立ち,わたしは唖然として立ちすくむのみである。近代論理という蓋で密閉し,排除してきた「悪」の領域にこそ,近代論理を超克する新たな「知」が存在する,それをバタイユは「非−知」とよぶ。

西谷修さんが『夜の鼓動に触れる』といい,今福龍太さんが「陶酔論」を展開するのも,こういうバタイユ的世界と通底するものがある,とわたしは受け止めている。

いささか荒っぽい議論になっているが,意とするところを酌み取っていただければ幸いである。さて,つぎなる議論は,バタイユの理論仮説のいくつかを取り上げて,考えてみたいと思う。今日はここまで。

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2010-01-05 もう一度,バタイユの思想の位置づけについて。

_ 昨日のブログの約束を反故にして,もう一度,バタイユの思想の位置づけについて,もう少しだけ述べておきたいと思う。お許しのほどを。

結論をさきに述べておけば,バタイユはヘーゲル哲学(つまり,『精神現象学』)を徹底的に研究しつくした上で,ヘーゲル哲学では語り得ない(あるいは,説明しえない)次元にあえて踏み込み,そこに広がる問題系に新たな光を当てようと試みたこと,このことが,すなわち,近代論理の<外>にでる試みのひとつである,とわたしは考える。つまり,ヘーゲルを通過して,そのさきにひろがる問題系への過激な挑戦をそこにみることができるからである。もっと言ってしまえば,ヘーゲルを批判的に排除したり,忌避したりするのではなくて,むしろ逆に,ヘーゲルを真っ正面から継承し,しかも,その限界を突き破って新たな可能性をさぐる,この姿勢・スタンスにわたしは共感・共鳴するのである。

わたしが,スポーツ史研究の新たな可能性を探ることの真意も,バタイユと同じスタンスに依拠しながら,わたしなりの方法で模索してみたい,ということにほかならない。つまり,これまでのスポーツ史研究の方法を否定したり,忌避したり,批判的に排除したりするということではなくて,これまでの実績(蓄積)を真っ正面から引き受けつつ,そこを通過し,突き抜けたさきにひろがる地平にいたるための理論武装を試みたい,ということである。

バタイユが,どれほど真剣にヘーゲル哲学と取り組み,そこから大きな影響を受けたかは,『宗教の理論』の156ページ以下の記述からも明らかである。バタイユはみずから,アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』,ガリマール,1947年,をとりあげて,ヘーゲル哲学との取り組みとそこからえられた知見がどのようなものであったかを明らかにしている。コジェーヴが当時のパリ高等研究院で行ったヘーゲルの『精神現象学』に関する講義(1933〜1939)はきわめて評判がよく,多くの俊秀たちが聴講につめかけたという。そのなかのひとりがバタイユであった。その他には,クノー,ラカン,クロソウスキー,メルロ=ポンティ,ヴェーユ,ギュルヴィッチ,などという錚々たる人たちがいたという。しかも,バタイユはこの講義に何年にもわたって通いつづけたという。そうして,ヘーゲル哲学の有効性とその限界を見届けることになる。しかも,その限界を突き抜けたさきにひろがる地平を模索することに,みずからの思想・哲学の根拠を見いだそうとする。しかるのちに,バタイユ独自の思想・哲学が誕生することになる。すなわち,『非−知』(「エクスターズ」=「脱自・脱存」=「主体」の不在)の誕生である。このことをもって,わたしは近代論理の<外>に立つ思想・哲学の根拠とするものである。だからこそ,このことの意味するところは,わたしにとってはきわめて重大である。

同様なことを,『宗教の理論』の訳者である湯浅博雄氏が,「文庫版あとがき」のなかで,つぎのように指摘している。

ヘーゲル的な論理(ロジック)と弁証法(ディアレクティク)の運動を咀嚼し,あたう限りそれをたどりながら,それでも同時に弁証法の運動がもうそこでは働かなくなるような次元,つまり「いかなる綜合(ジンテーゼ)もそれをのり超えることができない」次元を模索しようと試みるところである。

ここのところが,バタイユの思想・哲学の際立った特質のひとつである,と湯浅氏は指摘している。つまり,ヘーゲル哲学の限界を乗り越えて,そのさきにひろがる「次元」を模索しようと試みる,これがバタイユの大きな特質のひとつだ,というのである。

このように,近代論理を超克したさきの地平に立つ,すなわち,近代論理の<外>に立つ,そのことによってはじめて近代論理の陥った隘路(あるいは,臨界点)からの脱出は可能なのではないか,とわたしは考えるのである。これが,なぜ,いま,バタイユなのか,というみずからの問いに対するわたしなりの応答である。

以上のことを,昨日のブログに補足しておきたい。

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2010-01-07 ヘーゲルからバタイユへの思想的ターニング・ポイントはなにか。

_ いよいよ問題の核心に入っていきたいと思う。まずは,ヘーゲルからバタイユへの思想的ターニング・ポイントはなにか,という問題について考えてみたいと思う。

ひとくちにデカルトからヘーゲルへとリレーされたヨーロッパの形而上学は,世界の中心に「自己」があり,この「自己」が「考える」ことに人間の存在理由を求め,この「考える」ことを練り上げていくことによってヘーゲルの言う「絶対知」に到達する,と考えられてきた。そして,そのとき,人間の歴史は完成する(あるいは,理想的な世界が出現する)と考えられてきた。ヨーロッパ近代という時代は,ひたすら,この道を歩みつづけてきた。理性中心主義や合理主義や主知主義や効率主義などをはじめ「自由競争」や「主体性」の論理は,こうして一気に「近代論理」の主役として登場してきた。その結果,科学の驚異的な進展を見ることになり,科学の力によって自然を支配し,すべては人間の「主体性」のもとにコントロールできるのではないか,という神話を生み出した。もちろん,わたしたちは,医療や生活の便益という点では想像をはるかに超える恩恵を受けることになった。その一方で,これまた予想だにしなかった「負の遺産」をも引き受けることになってしまった。それがこんにちわたしたちが直面している「世界」のゆゆしき情況である。

つまり,絶対的な「信」を置いてきた「近代論理」(あるいは,主体性の論理)が破綻しはじめたのである。

記憶に残る強烈な破綻のきっかけとなったできごとは,第二次世界大戦末期に起こった「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ・ナガサキ」という前代未聞の事件であった。これがいずれも「近代論理」のひとつの必然的な帰結であったということを見逃してはならない,とわたしは考える。つまり,「アウシュヴィッツ」や「ヒロシマ・ナガサキ」の提起した問題はあまりにも大きく,かつ多岐にわたるので,安易に語ることは困難ではあるが,それでも「主体の不在」という「近代論理」を根底からゆるがす大問題を露呈させたことは,なによりも優先して指摘しておいていいだろう。

そして,近いところでは「9・11」である。この事件こそ「近代論理」がもたらした「負の遺産」が一気に噴出したできごとであった,とわたしは考える。にもかかわらず,「神の名において,わたしは『正義』である」と宣言して,この『正義』に反するものを一方的に排除することが「正当化」され,いまもなおこの論理(すなわち「近代論理」)がまかりとおっている。しかも,これが「国際社会」の「良識」である,という不思議な現象にわたしたちはいま立ち会わされている。すなわち,「近代論理」が引き起こした諸矛盾を「近代論理」で裁くことはできない,という典型的な例と言ってよいだろう。(蛇足ながら,近代スポーツの論理矛盾を「近代論理」で解決することは不可能である,という問題とぴたりと重なる。)

こんな話題を追っていくと際限がなくなってしまうので,このあたりでこの話には一区切りつけておくことにしよう。ただし,ひとことだけ。「近代論理」の破綻ということは,とりもなおさず「主体性」の論理の破綻をも意味しているという点が一つと,この場合の「主体性」の論理の破綻とは,人間の「主体性」には限界があるということであって,「主体性」の論理がすべて破綻したということではない,ということだけは指摘しておきたい。誤解のないように。

こうした「近代論理」が陥った隘路から脱出するためにはどうしたらいいのか。もう,何回も繰り返しているように,バタイユの思想・哲学が有効ではないか,というのがわたしの仮説である。と,ここまで書いたところで持ち時間が終了。このつづきは明日に。お許しを。

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2010-01-08 閑話休題・「自発的隷従」について。

_ 昨日までの話は一休みして,今日は,臨時の話題をとりあげたい。すなわち,「自発的隷従」について。

今朝の朝刊を読んでいたら,雑誌『世界』2月号(岩波書店)の広告がでていて,そこに西谷修さんの論考が載っているのを発見。すぐに書店に走り,購入。鷺沼の事務所にきて熟読。タイトルは,”自発的隷従”を超えよ──自立的政治への一歩,というものである。特集・普天間移設問題の真実,とあり,錚々たる書き手の名前が並んでいる。もちろん,西谷さんの論考もこの特集に応えてのものである。

「自発的隷従」と「自爆的抵抗」(こちらのことばは記憶違いがあるかもしれない)という話を,じつは,ずいぶん前に,たしか「稽古のあとのハヤシライス」のときに聞いたことがある。西谷さんの,このみごとな創作熟語に感心しながら,しかも,その話の中身の面白さ(笑っていられるような話ではなく,すこぶる興味深いという意味)に惹きつけられた記憶がある。そのときの「自発的隷従」の話が,こういう形で世にでてくることになり,わたしとしては感動ものである。

この西谷さんの論考は,ぜひとも読んでいただきたい,お薦めである。この論考によれば,「自発的隷従」とは,敗戦後の日本の政権をになってきた自民党政治がアメリカに対してとってきた基本姿勢のことである。かんたんに言ってしまえば,アメリカによる占領時代はもとより,サンフランシスコの講和条約以後も,自民党政府はこぞってアメリカ政府のご機嫌伺いをとりつづけ,ついに習い性となり,まるで生まれたときからの体質であるかのように,そして,ついには条件反射的に「自発的隷従」の姿勢を貫くようになってしまった,というのである。この長年にわたる政治体制に待ったをかけて,この「自発的隷従」からの脱出をはかるべく選挙スローガンをかかげて,政権交代をはたした民主党が,普天間移設問題の決定を5月まで延期したことに対して,メディアが連日,総攻撃に入っている,この異常さに,西谷さんは真っ向から「異」を唱える。

この間の選挙で,沖縄の人たちは自民党よりも民主党を選んだ。自民党の候補者はひとりも選ばれなかったのだ。このことの意味を重くみた鳩山政権が,じっくり時間をかけて普天間移設問題に取り組みたいと表明し,5月決定の姿勢を打ち出した。デモクラシーの原理から言って,きわめて良識的な判断であり,行動であるはずだ。にもかかわらず,メディアは,自民党政権が合意したとおりに,早期決着をみるべきだ,そうしないと日米関係が危なくなる,という。メディアがこのように主張するということは,とりもなおさず,基地はこれまでどおり沖縄が背負っていけ,われらはその恩恵にのみ浴していくのだ,と宣言しているのと同じだ,こんなことにも気づいていないのだろうか,と西谷さんの舌鋒はきびしい。さらに,メディアは沖縄の人たちを犠牲にしてでもアメリカのご機嫌をとることの方が大事だと言うのだろうか,と。さらには,いつから日本のメディアは政権党の政治に対して上から目線でものが言えるようになったのか,いつからそんなに偉くなったのか,と問いかける。

この無自覚なメディアの基本的な姿勢そのものが,まさに,「自発的隷従」の典型的な例なのだ,と西谷さんは指摘する。自民党の代議士がそれを言うのならわかる。しかし,メディアはいつから自民党の代弁者に成り下がってしまったのか,と。民意をどこかに置き去りにして,メディアは自分たちの利権を確保することに,それも,これまでの古い体質のままの利権を保持することに全力をあげているかのようにみえる,と。

これよりさきの話は,ぜひ,『世界』を読んで,考えてもらうことにしよう。わたしは,少なくとも,この西谷さんの論考を読んで,最近の疑問がすっきりと解けた。メディアは自分たちの頭で考えることを,いつから放棄してしまったのだろうか,とこれはずいぶん前から考えていたことである。

とりわけ,スポーツ報道は酷すぎる。ほんの表面的な話題だけをかき集めてきて,面白おかしく記事に仕立てあげるのみ。つまり,購読者獲得のための戦略でしかない。スポーツのなんたるかをみじんも考えようとはしない。勝った,負けただけが重要で,だれか特定の選手をヒーローに仕立てあげ,読者の関心をあおるのみ。

それとほとんど同じ姿勢が,政治でも,外交でも,経済でも貫かれている。かつての「骨のある」ジャーナリストはどこに消えてしまったのだろうか,と情けなくなる。われわれ読者がもっときびしい目と耳でメディアを監視していくことが急務である。われわれもまた,いつのまにか「受け身」にまわってしまっている。情けないことに。そこからの脱出が必要だ。「チェンジ」とは,そういうところからはじめるべきことなのだろう。

西谷さんの論考を読みながら,いろいろのことを考えた。こんどの「稽古のあとのハヤシライス」が楽しみだ。ボイス・レコーダーを用意して。

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2010-01-09 「スポーツする身体」が開く可能性とは?

_ 7日のブログのつづき。ヘーゲルからバタイユへと展開する思想的ターニング・ポイントはなにか,がそのテーマ。

ヘーゲル的「知」の限界とその破綻現象として,アウシュヴィッツがあり,ヒロシマ・ナガサキがあり,「9・11」があったとすれば,そして,それらが「世界史の臨界」を示すものだとすれば,そこからの離脱と移動が喫緊の課題となってくるのは当然のことといわねばならない。では,それはいかにして可能なのか。その突破口はどこにあるのか。そして,このこととスポーツ史研究やスポーツ文化論は無縁であってはならない,というのがわたしのスタンスである。

そして,おさらいついでにもうひとこと。その突破口のひとつがバタイユの思想・哲学に求められないか,というのがこのブログで追っている仮説である。そして,できることなら「スポーツする身体」という窓口をとおして,新たな可能性を見いだすことはできないか,というのがわたしの密かな目論見である。そのためのメタな議論を思い切って展開してみよう,というかなり冒険に満ちた試みであることは覚悟の上である。

さて,「スポーツする身体」は,近代スポーツを体験するなかで,つまり,過剰な競争原理にさらされるなかで,ますます「透明化する身体」へと舵を切ることになった。その到達点のひとつが「ドーピングする身体」である。このことを最初に指摘したのは今福龍太氏であった(『近代スポーツのミッションは終わったか』に詳しい)。これもまたヘーゲル的「知」の当然の帰結のひとつであった,とわたしは考える。つまり,「自己完結する身体」,あるいは「閉じてしまう身体」。

これに対して,バタイユ的「非−知」の地平に立てば,「完結しない身体」,あるいは「閉じざる身体」という仮説が可能となってくる。すなわち「エクスターズする身体」である。ここにこそ「スポーツする身体」の原初の姿がある,とわたしは考える。そして,この「エクスターズする身体」を「スポーツする身体」がとりもどすこと,これがわたしのいう「後近代のスポーツ」の最大の課題なのである。

この点については,すでに,今福龍太氏が『ブラジルのホモ・ルーデンス』サッカー批評原論(月曜社)のなかで「陶酔論」として展開している。近代スポーツのもとめた「勝利至上主義」からサッカーを解き放って,人間の根源的な「快」である「陶酔」を取り戻すこと,すなわち,サッカーの快楽の原点に立ち返ることを今福龍太氏は主張する。この主張は,まさに,バタイユの思想・哲学ともみごとに共振・共鳴するものである。今福龍太氏はベンヤミンを引き合いにだして独自の「陶酔論」を展開しているが,ベンヤミンとバタイユの関係(ベンヤミンが自死する直前に,遺書ともいうべき最後の原稿を手渡した相手はバタイユであった)を考えれば,それはもう一直線につながっていく。

さらに,敷衍しておけば,バタイユの「エクスターズ」がニーチェやフロイトの思想・哲学とも密接に関係していることも,ここで指摘しておくべきであろう。この詳細については,いつか,また,別の機会に触れることにしたい。そして,さらに,さきを急いでおけば,西田幾多郎の「純粋経験」や「行為的直観」の世界とも通底していること,荒川修作の「転ぶ身体」(『死なないために』)の発想もまた「主体」の不在という点ではバタイユの「エクスターズ」とほとんど同じ地平に立つものであること,などなど。

バタイユの「エクスターズ」は,言ってしまえば,ヘーゲル的「知」から限りなく遠いところに位置づく「非−知」のことである。つまり,人間性からもっとも遠い,ほとんど動物性ともいうべき地平に成立する「知」=「非−知」というわけである。もっと言っておけば,人間性の中核にある「主体性」の論理からかぎりなく遠ざかり,もはや,「主体」が機能しない,つまり,「主体」の不在という時点での「知」のありようを意味する。だから,それはもうほとんど動物性のレベルの「知」と言ってよいだろう。ここで動物性とか人間性とか言っているのは,バタイユの『宗教の理論』のなかで理論仮説として用いられている概念を援用したものである。

限りなく「透明化」してしまった「スポーツする身体」を,もう一度,「不透明」で「魅力的」な身体である「スポーツする身体」に引き戻すためには,このバタイユの思想・哲学がその突破口になりうる,とわたしは固く信ずるものである。その根拠をもっと詳細に,かつ,厳密に説明することが,このあとのわたしに課された仕事となる。そのための手始めに,まず,取り組まねばならない作業が,「ヒトが人間になる」ということはどういうことだったのか,というバタイユの理論仮説を明らかにすることであろう。

明日は,この問題について考えてみることにしよう。

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2010-01-10 「動物は世界の内に水の中に水があるように存在している。」

_ バタイユの『宗教の理論』の冒頭にでてくる「Ⅰ.動物性」の説明のための小見出し「4.動物は世界の内に水の中に水があるように存在している」に,わたしの目は釘付けになってしまった。

初めてこの小見出しに出会ったとき,わたしは,なんとみごとな表現であることか,と感動してしまった。「水の中に水があるように」存在する・・・,なるほど,どこにも区切りがない,境目がない,自他の区別もない,まるで空気の中に溶け込んでいるかのように・・・。この状態のことをバタイユは「内在性」と呼ぶ。「水の中に水があるように」「空気の中に空気があるように」,つまり,完全に一体化したままの状態で存在すること。動物が存在するありようを「内在性」と名づけ,動物的世界は,「内在性と直接=無媒介=即時性の世界である」とバタイユは定義づける。

かつて,人間が人間性を獲得する以前のヒトであった時代には,「水の中に水があるように」存在していたのである。食べる動物と食べられる動物の間もまた,「水の中に水があるように」内在性によって溶け合って存在している,とバタイユはいう。だから,食べる動物が食べられる動物を「事物」(「客体」)として認識することもなく,また,食べられる動物も食べる動物に対して「水の中に水があるように」存在しているだけなのだ,と。これが,バタイユのいう「内在性」の意味であり,ある瞬間に食べたいとなれば目の前に存在する食べられる動物を食べるだけのことであり,食べられる動物もまた,気づいたら食べられている,というだけの話なのだ。それが,直接=無媒介=即時性ということだ。まるで,わたしたちが空気を吸っていることに無自覚であるように,また,空気も吸われるがままにしているのと,同じだ。(誤解されるといけないので,断っておくが,ここでバタイユが展開している理論仮説はあくまでも原理原則的なことがらに焦点をあてて論を展開しているということ。言うまでもなく,動物間の生存競争は熾烈なものがあるし,その闘争も生易しいものではない。しかし,動物はあくまでも「内在性」のなかに閉じたままの存在であり,その中での生存競争にすぎない。つまり,他の動物や物(石や棒)を「事物」(あとで,くわしく述べる予定)として定置する(対象化する)ことはしない。どこまでも「水の中に水があるように」存在しているのであり,その範囲内での闘争であり,生存競争にすぎない,ということなのである。この点は誤解がないように)。

われわれ人間もまた,ヒトであった時代には,こうした「内在性」のなかにどっぷりと浸かって生きていたのである。にもかかわらず,ヒトはあるときから,動物的世界の「内在性」に背を向け,そこから離脱をはじめることになる。それが,ヒトが人間になるということの原初の姿である。では,いったい,どのような契機があって,ヒトは人間への道を歩みはじめるのか。

バタイユは,Ⅰ.動物性の説明につづいて,Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成,という章を起こして,その間の詳細な説明をしている。そして,そのための小見出しがとても暗示的であり,バタイユの理論仮説をそのままたどれるような明示性を含んでいる。それらを列挙しておくと以下のとおりである。

1.物=客体の定置,道具

2.内在的な諸要素を物=客体の面の上へ定置すること

3.事物を主体として定置すること

4.最高存在〔l’Etre supreme〕(※表記は精確ではない)

5.聖なるもの〔le sacre〕(※同上)

6.精霊たちと神々

7.事物たちの世界と定置および身体を事物として位置づけること

8.食べられる動物,屍体,事物

9.労働する人間と道具

ここから読み取れることは,「内在性」のなかに溶け込んで存在していたものが,あるときから,特別の意味をもちはじめるということ,すなわち,「事物」として対象化され,意識化されるということである。動物にとってはなにものでもないものが,ある種の「ヒト」にとって,意味をもちはじめること,すなわち「水の中に水があるように」存在していたものが,ある特定の意味をもつ「事物」として定置されるとき,ここがヒトから人間への第一歩だ,とバタイユは考える。

そこで,わたしは考える。「スポーツ的なるもの」もまた,この「ヒトが人間になる」ことと分かちがたく結びついているのではないか,と。つまり,人間性の獲得や俗なる世界を形成することと,その原初から,運命共同体のようにふるまってきたのではなかったか,と。もっと言ってしまえば,「宗教」(バタイユ的な意味での宗教,つまり「聖なるもの」)と「スポーツ的なるもの」は,表裏の関係にある,あるいは,車の両輪のような関係にある,と考えるべきではないか,と。

この仮説は,じつは,もっと曖昧模糊としたものであったとはいえ,わたしの長い間の疑問であり,問題意識として温存してきたものだ。だから,このようなバタイユの言説に触れると,またたくまに夢がふくらみ,より大きな,具体的な仮説へと展開をはじめる。まるで,むかしから思いを寄せてきた恋人に出会ったかのように。

これ以上のことは,これから少しずつ議論を深めながら確認していくことにしよう。たとえば,バタイユのいう「道具」や「主人と奴隷」(ヘーゲル)の話などを取り上げながら。「道具」に付随する「聖なるもの」との関係や,その「道具」をみごとに使いこなす人間もまた「聖なるもの」の体現者となりうる・・・このことと「スポーツ的なるもの」との関係を。

それでは今夜はここまで。

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2010-01-11 「事物」の誕生と人間のはじまり。

_ バタイユは,動物の内在性からヒトが離脱をはじめる契機を,「道具」の話からはじめている。いきなり,「道具」から話がはじまることに,わたしは少なからぬ抵抗を感ずる。

昨日のブログに,kappacoolazyしゃんがツッコミを入れてくれたので,それに応答しようかと考えたが,わたしとしてはその前段の議論をまずしておきたいと思う。それは,「事物」がどのようにして誕生したのか,という話である。kappacoolazyしゃんが,やや先取り的に,道具の話とオブジェの話をしてくれたので,それをかなり意識しての,わたしなりの応答である。

「水の中に水があるように」存在しているかぎり,ヒトは自分のまわりに存在するものと同化し,溶解したままに生きている。たとえば,河原にころがっている石に対して,特別な感情も意識もないはずである。しかし,この石のなかの特定の石が,あるとき「道具」として用いられるようになる。この自然のままの石が「道具」になる,そのプロセスがわたしにはいまひとつ納得がいかないのである。そう思ってバタイユの文章をあちこち渉猟してみるものの,それらしき説明には出会わない。しいて,バタイユ的に言うとすれば,そのあたりのことはすべて霧の中の話であって,確たる根拠はなにもない,だから,あとは論理的に推定するのみである,ということになろうか。

バタイユがそのように言うのであれば,わたしも,あえて霧の中の話を論理的に推定してみようと思う。それが,以下の議論である。

ヒトが石に,なんらかの意識をもちはじめたきっかけはなにか。つまり,石器を考えはじめたきっかけはなにか,という問いである。バタイユ的に言えば,石が「物=客体」(オブジェ)としてヒト自身から区別されるようになるきっかけはなにか,ということになる。つまり,ヒトと石は内在性のなかに溶け込んでいたものが,あるとき,ある特定の石だけが「客体=対象」(オブジェ)として,ヒトの存在と区別され,意識されるようになるきっかけはなにか,ということである。

わたしの推定は以下のようである。

なにかの偶然が重なって起こった結果に,ヒトが気づく,そんな情景をまず思い浮かべてみよう。たとえば,どんぐりの木の下にどんぐりの実がたくさん落ちているとしよう。そのどんぐりの実がたまたま大きな岩盤の上にころがっていたとしよう。ヒトは,毎日のように,そこに集まってきてどんぐりの実を食べていたとしよう。あるとき,そこに山の上から大きな石がころがってきた,としよう。その石がころがっていったあとのどんぐりは,みんなこまかくつぶれていた,としよう。その場に居合わせたヒトたちは,ひとつずつ歯でかみ砕かなくても,どんぐりを食べることができる,ということを知ったとしよう。そして,そのなかの,賢いヒトが,ころがってきた石と岩盤とどんぐりとの関係(因果関係)に気づいたとしよう。つぎに,大きな石を探して,それをころがしてどんぐりの実をくだくということに成功したとしよう。このとき,大きな石は「道具」となる。

この因果関係に気づいたとき,その石は「水の中に水があるように」存在していた石から区別されて,「物=客体=対象」(オブジェ)となる。そして,このオブジェに磨きをかけていくことによって,より使い勝手のいい「道具」となる。こうして,使い勝手のいい「道具」はそのヒト(すでに,人間というべきか)にとってはまことに都合のいい「事物」(ショーズ)となる。こうして「事物」が誕生する。この「事物」は,もはや,「水の中に水があるように」存在するものではなく,その内在性から離脱し,人間の思いのままに用いられる「道具」としての地位を獲得する。すなわち,「1.物=客体の定置,道具」という小見出しの,わたし流の解釈と内実がこれである。

このとき,ヒトは人間となる。

このことを,もう少し別のアングルから考えてみよう。ヒトは,オブジェや「道具」を「事物」(ショーズ)として認知することによって,人間への道を歩みはじめる。すなわち,オブジェという「他者」からの働きかけがあって,はじめて人間という「自己」が立ち現れる。人間の誕生である。すなわち,その当初においては,「事物」が主人で「人間」が奴隷である(ヘーゲルの「主人・奴隷」をヒントにして考えている)。しかし,やがて,「人間」が主人となり,「事物」が奴隷となる。すなわち,逆転現象が起こる。このとき,人間のなかに大きな変化が生ずることになる。この問題は,バタイユの理論仮説に導かれつつ,これから少しずつ考えていくことにしよう。

ただ,つぎのことだけはしっかりと記憶にとどめておくことにしよう。

「ヒトが人間になる」ことの意味はきわめて重大な内実をともなっていたということ。たとえば,動物性という内在性の世界から飛び出して,人間という孤独な世界を生きることになったこと,このとき「理性」(考えるという営み)が誕生したこと,そして,人間の内なる動物性との「折り合い」のつけ方が人間の「理性」に重くのしかかってきたこと,さらには,内在性の中にどっぷりと浸って生きているときには動物的本能(あるいは,遺伝情報)に依存していればよかったが,それに代わるべき「なにもの」かが必要になったこと,「事物」のなかに「聖なるもの」を意識しはじめたこと(この点については,いずれ,詳細に検討することになろう),などなど。

kappacoolazyしゃんが指摘した,駆け出しのアーティストのオブジェには「題なし」(「台なし?」)が多く,たぶん,「ぎりぎりのところに立っている」に違いない,という指摘にわたしも賛同する。アーティストにとってオブジェとは,ヒトが人間になるときの「追体験」ではないか,とわたしは考えている。つまり,なんでもない「石ころ」が,かれにとってはあるとき突然,ある意味をもちはじめる,その瞬間に立ち合って身を打ち震わせている,その感動・・・,それがオブジェの誕生である。だから,作品として展示したアーティストにとってはきわめて重大な意味を帯びていても,観る側の人間にとっては,なんの意味も感じられないということはよくあることだ。ときに,その意味を共感・共有できるときがある。これはこれでまた,大きな感動をともなうものである。オブジェ誕生の瞬間に立ち合うこと,これがアート誕生の瞬間でもある。

kappacoolazyしゃんが熱く語る「農具」こそ,オブジェが道具となり,まったき「事物」となる,典型的な例といっていい,とわたしは考えている。

さて,明日は,なにをテーマにしようか。これからとくと考えることにしよう。

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2010-01-12 動物性と人間性のはざまで揺れる「聖なるもの」。

_ ヒトが人間になる,つまり,動物性から人間性への離脱と移行の道程には予期せぬ罠があちこちに仕掛けられていた。その一つが「聖なるもの」の登場であった。

何回も繰り返すが,ヒトが動物の世界に安住していたときには「水の中に水があるように」,環境世界に「融即」しながら存在していた。だから,ヒトは自分の感覚のおよぶ環境世界が「世界」のすべてであった。すなわち,自分が「世界」のすべてであった。そこでは,この世に生まれ出て,生かされてあるがままの命をまっとうすることだけが「生きる」ことの実態であった。すなわち,内在性のなかにどっぷりと浸かりこんで,直接=無媒介=即時性の世界との連続性のなかに身をおいていた。あるがまま,いま,ここに,すべてが存在する,そういう世界に生きていたに違いない(いま,わたしは明らかに禅の説く「無」の世界を意識して書いていることを白状しておこう)。

しかし,ヒトが,ひとたびオブジェ(物=客体)を定置することに思い至ったときに,原初の人間が立ち現れ,動物性から人間性への離脱と移行という,人類史上の大事件が発生する。しかし,この離脱と移行という大きな「旅」のはじまりは,そんなに容易なものではなかった。しかも,その「旅」はいまもなおつづいている,とわたしは考えている。なぜなら,現代人といえども,わたしたちはいまもなお,動物性と人間性の両方を抱え込んで生きているのであり,その両者のはざまで微妙に揺れ動きながらバランスをとっている,というのが実態であると考えるからである(この問題はおいおい詳細に語る予定である。同時に,この両者のバランス・シートとして「スポーツ的なるもの」が,「聖なるもの」と表裏の関係で登場する,とわたしは考えている)。

原初の人間が,まず最初にとまどった問題は,動物性の世界に安住している自分と,その世界にあるもろもろの存在を少しずつオブジェ(物=客体)として意識しはじめる自分との「分裂」「分断」であったろう。つまり,動物性の世界から人間性の世界への第一歩を踏み出すことの「不安」(ハイデガー的に言えばSorge)である。バタイユは,このオブジェ(物=客体)を「道具」の制作と使用によってますます増大するものと考え,ここに「理性」の立ち現れる根拠を定置している。すなわち,「融即」の崩壊であり,「他者」の出現(「オブジェ」や「事物」の出現)であり,同時に「自己」の出現である。

さて,バタイユの主張にしたがえば,「道具」の制作と使用をとおしてオブジェの分節化が進むと同時に,そのオブジェを人間に従属させようとする意識がはたらきはじめる。そうして「事物」(ショーズ)が誕生する。その原理は「有用性」である。つまり,人間にとって「役に立つ」かどうか。こうして,動物性のレベルでの「自己感情」の世界から人間性の根拠となる「自己意識」の地平に歩を進めることになる。この「有用性」という「自己意識」(あるいは,原初の「理性」と呼んでもいい)の登場が,人間をして人間たらしめ,同時に,人間をして悩み苦しめる根幹をなすものとなる。

動物性の世界にあっては「融即」に身をゆだねておくだけの「生」が,人間性の世界に踏み込むと,「生」そのものを「理性」のもとでコントロールしていかなくてはならなくなる。ところが,この人間の「生」は尋常一様ではないし,複雑に分節化をはじめる。だから,原初の人間は,そのたびごとに「つまずく」ことになる。そこで,さきほど触れたように「不安」(Sorge)の問題が登場する。つまり,人間は,ヒトの時代の内在性を否定することによって人間の世界に飛び出したにもかかわらず,内在性や融即の世界の安住性に未練を残す。そして,「理性」によってコントロールしていく「俗」の世界に対して,融即の世界に「聖なるもの」(あるいは「聖性」)を意識しはじめる。すなわち,「聖なる世界」と「俗なる世界」の分断である。

さらに追い打ちをかけたのが,「道具」の制作と使用。人間は「有用性」の原理にもとづき,ますます便利で役に立つ「道具」を制作し,使用しながら,さらにその「道具」の性能を高め,磨き上げていく。このとき,「道具」のもつ力(あるいは,「性能」「能力」)に,それを制作した人間が気づく。人間にはできないことを「道具」は可能とする。そこに,ある種の「超越性」(つまりは「聖なるもの」)を感じはじめる。やがて「道具」は人間に従属するものであると同時に,人間を超越するものとして認知されていく。すなわち,「事物」(ショーズ)として定置されていく。となると,「事物」が意識に対して「超越性」をもつと同時に,意識が「事物」に対して「超越性」をもつ,という関係が生まれてくる。こうして,意識と「事物」との間にも「聖なるもの」が誕生する。

簡単に補足しておけば以下のとおりである。

たとえば,ものを切る「道具」として,ひとつの究極の形態をとったものに刀剣がある。この刀剣に人間が早くから「聖なるもの」を感じとっていたことは,日本の歴史をみても明らかである。と同時に,それを制作する人(人間)もまた「聖なるもの」の上位に立つ人(あるいは,それに近い人)として,特別視されてきたことも明らかである。こうした事例は,この他にもいくらでも挙げることは可能であろう。

さて,今日の結論を。ヒトから人間へ,そして,動物性から人間性へと「比重」を移していくにしたがって,「理性」と同時に,「聖なるもの」への意識がめばえてきたということ。そして,この「聖なるもの」とどのような「折り合い」をつけることになったのか,そのひとつの選択肢が「スポーツ的なるもの」であった,というのがわたしの仮説である。この点については,これから少しずつ議論の俎上に乗せていきたいと思う。

なお,蛇足ながら,忘れてしまうといけないので、以下のこともここで述べておくことにする。

それは,人間というものの概念についてのわたしの仮説のひとつである。

わたしたち人間とは,楕円のようなもので,そこには中心が二つある。その中心の一つは「動物性」,もう一つは「人間性」。この二つの中心をいかにうまくコントロールして「折り合い」をつけていくか,それがわたしたちに課された重要な課題である,と。

ヨーロッパ近代は,人間を円と考え,その中心は一つと考えた。つまり,動物性を徹底的に排除し,隠蔽することに全力を挙げた。その結果が,こんにちの「世界」の諸矛盾を引き起こすことになった,と。

とりあえず,今日はここまで。

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2010-01-14 「聖なるもの」の出現について。

_ 一昨日のブログで,「聖なるもの」は動物性と人間性のはざまで揺れる,と書いたがどうもしっくりいかない。そこで,もう一度,少しだけアングルを変えて考えてみたいと思う。

なぜ,これほどまでに「聖なるもの」にこだわるのか。それは「スポーツ的なるもの」を考える上で不可欠である,とわたしは考えるからである。だから,これからも徹底的に「聖なるもの」にはこだわっていきたいと考えている。このことをしっかりと記憶にとどめておいてほしい。これはわたしの願望。

さて,「聖なるもの」とはなにか。ここから入った方がわかりやすいと思う。「聖なるもの」とは,端的に言ってしまえば,「動物性」のこと。あるいは「自然界」そのもののこと。つまりは,人間の力の遠くおよばない存在のすべて=「超越性」=「神的なるもの」。

ヒトは,こういう世界に「融即」しながら生きていたのである。つまり,動物,植物,自然現象といった環境世界のなかにどっぷりと浸り込み,その同類として,連続性,内在性,直接=無媒介=即時性のもとに生きていたのである。この世界そのものが,すなわち「聖なるもの」であり,「神的なるもの」なのである。しかし,ヒトはこの世界に身をゆだねて生きている間は,当然のことながら,「聖なるもの」も「神的なるもの」もまったく意識はしていない。意識もなにもはたらかせる必要のない「聖なるもの」「神的なるもの」に身をゆだねておけばいいのであるから。ただ,自己感情の赴くままに身をゆだねて生きていたのである。

では,どうして「聖なるもの」が出現することになるのか。それは,ヒトが人間になって「自己感情」だけではなく,「自己意識」をはたらかせながら生きるようになったからである。この「自己意識」を芽生えさせるきっかけを与えたものが,すなわち,オブジェ(物=客体)であり,ショーズ(事物)である。ここからが人間の登場となる。すなわち,理性の誕生である。ヒトが初めて環境世界に対して,「なぜ?」という問いを発したとき,これが人間の誕生の発端である。そして,この「なぜ?」という問いを発したときから,「俗なるもの」が出現する。それは,「聖なるもの」「神的なるもの」の存在に対する疑念であり,否定であるからである。それがヒトが人間となることの実態だったのである。だから,人間は「聖なるもの」「神的なるもの」と,どのように「折り合い」をつけるか,これが人間としての生存にとって最大の課題となる。ここにバタイユのいう「宗教」(これはきわめて広い意味で考えられている)が誕生する根拠がある。

こうして,原初の人間は,かつて類として連続性のなかにあった動物や植物はもとより,自然現象のあらゆるものに「聖性」を見出し,崇拝の対象とするようになる。すなわち,アニミズムの誕生である。たとえば,太陽。その太陽信仰はもっとも普遍的な信仰形態のひとつといってよいだろう。

「聖なるもの」の出現について・・・わたしとしてはかなりすっきりとしたので,今日はここまでとする。

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2010-01-15 「聖なるもの」と「スポーツ的なるもの」との接点について。

_ 少し早すぎるかも知れないが,「聖なるもの」と「スポーツ的なるもの」との接点について考えてみたいと思う。今回はその発端に相当する。やがて全体像が明らかになる予定なので。

すでに,何回も繰り返している「動物性」とか「人間性」などというバタイユに固有の用語に関する前提については,こんごは必要最小限に抑えていくこととする。

まず,「聖なるもの」は,まずは動物の世界を意味し,そこは融即の世界であり,すべての存在が同類として内在性のなかにつつまれている。つまり,連続性のなかに一体化しており,直接=無媒介=即時性をその特質として共有している。そして,個々の動物(ヒトも含めて)たちの行動を決定しているものは「自己感情」である。そこには「自己意識」はまだ生まれていない。なぜなら,この「自己意識」の誕生こそが,ヒトと人間とを分かつ大きな分岐点となっているからである。

とはいえ,人間は動物の時代の「自己感情」を捨てて,「自己意識」だけで生きることになったわけではない。こんにちのわたしたちが,みずから胸に手を当てて考えるまでもなく,自分自身のなかに「自己感情」も「自己意識」も両方ともに持ち合わせていることは明白であろう。つまり,わたしたちは動物の時代の「自己感情」を,人間の時代の「自己意識」でコントロールすることが,社会生活を営む上で義務づけられることになったのである。言ってしまえば,「自己感情」という内なる他者との折り合いをどのようにつけるか,ということが大きな課題として登場することになったのである。

別の言い方をすれば,「情動」を「理性」でいかにコントロールするか,ということになろうか。この問題は,ヒトから人間へと徐々に比重を移していくにしたがって,人間に重くのしかかってきたことは想像に難くない。こうして広義の「宗教」が立ち現れることになったことについてはすでに,これまでのブログで触れたとおりである。

そこで,いよいよ本題に入りたい。たとえば,坐禅が求める「無」の境地。もう,すでに詳しく説明するまでもなく,雑念を振り払ってこころの中を空っぽにするための修行が坐禅,そして,その行き着くさきが「無」の境地。これをバタイユの用語で語るとすれば,以下のようになろう。人間のもつ「自己意識」が雑念の生まれる根源であるので,まずは,これを振り払うことに専念しよう,と。なにも考えない,なにも思わない・・・つまり,人間としての「自己意識」を捨て去れ,と。そのさきに待っているのは「自己感情」のみ。そこに到達したとき,ヒトの時代の融即の世界に入ることができる。つまり,連続性,内在性,直接=無媒介=即時性のなかに入ることができる。すなわち,禅のめざす「自然との一体化」が,こうして実現し,そここそが「無」の境地。言ってしまえば,人間性を捨てて動物性をとりもどせ,ということになる。この世界だけが,完全に「自由」であり,なにものにもとらわれない完全に身もこころも解き放たれた状態を保証してくれる。だから,動物たちの自由闊達な身のこなしは,ここから生まれる。

それに引き換え,人間の身のこなしの「こわばり」を見るべし。たとえば,スポーツ選手たちの過緊張のもとでの硬直化した身のこなしはその典型的な例。つまり,「自己意識」が過剰にはたらいてしまって,からだの自由を失ってしまっている。優れたスポーツ選手は,この過緊張を通過して,こころの自由を確保している。そこに到達するためには,さまざまな艱難辛苦をなめ尽くし,それらを克服してはじめて可能なのである。そのとき,動物たちの,あの伸びやかな身のこなしが再現できるようになるのである。そこにこそ,最高のパフォーマンスが待っている,という次第である。

一足飛びに話はここまできてしまったが,「聖なるもの」と「スポーツ的なるもの」との接点のひとつはここにも求めることができるであろう。

つまり,宗教的な修行とトップ・アスリートたちのトレーニングとの,「自己意識」をいかにコントロールするか,という点での共通項をここにみることができるという次第である。

これと同じような例は,イエズス会の「霊操」にも認めることができるし,ヨーガのような「瞑想系身体技法」にも認めることができる。このあたりのことは,わたしの書いた著書のなかでも展開しているので,そちらも合わせて確認していただければ幸いである。

とまあ,ここまで書いてはきたものの,最初の思惑とはいささか違ってしまって,いまひとつ説得力が足りないなぁ,と素直に思う。もっと,簡単明瞭に説明ができるようにならなくてはいけない・・・と自戒。

でも,今回は,最初にも断ったように,「聖なるもの」と「スポーツ的なるもの」との接点に関する,その発端を取り上げたにすぎない。これから,もっと多面的に,そして,多層的にこの両者の接点について考えていくことにしよう。

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2010-01-16 「スポーツ的なるもの」が出現する根拠・その1.

_ さて,今日は,「スポーツ的なるもの」が原初の人間の世界に出現する根拠はどのようなものであったのか,ということについて少し考えてみることにしよう。

昨日のブログでは,「聖なるもの」と「スポーツ的なるもの」の接点の一つは広義の宗教的な「修行」のなかに見出すことができる,という仮説について考えてみた。しかし,これはいささかさきを急ぎすぎたように思うので,もう少し外堀を埋める作業をしておきたいと思う。そこで今日は,その1.として「スポーツ的なるもの」が出現する根拠というテーマを立ててみた次第。

「スポーツ的なるもの」とは,ひとくちに言ってしまえば,運動(身体運動)そのもの。運動といっても,特定の目的意識のはっきりした作業や労働のための身体運動は除く。ひとえに運動そのものの快楽・快感・陶酔・恍惚に接近していく喜びに連なる身体運動のことを,とりあえず,ここでは「スポーツ的なるもの」と定義しておくことにしよう。

その上で,もう一度,ヒトが人間になるとき,なぜ,この「スポーツ的なるもの」が出現することになったのか,その根拠について考えてみたいというのが今日のブログの趣旨である。

ヒトの時代にあっては,作業や労働や「スポーツ的なるもの」といった区別はなにもなく,それらは渾然一体となって,ただ,そのときの「自己感情」のままに身体を動かしているだけであった。つまり,「聖なるもの」の世界にすべてがゆだねられていたのである。からだを動かすことそのもの,つまり,運動そのものが「聖なるもの」の次元で展開していた,ということである。したがって,そこでは「スポーツ的なるもの」の原初形態があらゆる場面で展開していた,ということでもある。

しかし,ヒトが人間になるときの契機は,環境世界としてただ存在しているだけの「もの」をオブジェ(物=客体)として意識しはじめ,それらをつぎつぎにショーズ(事物)として,みずからに従属させるという,つまり「自己意識」の出現にあった。このことについては,すでに,考えてきたとおりである。この「自己意識」はやがて「理性」としての性格を明確にし,「他者」の存在をさらに分節化していくことになる。と同時に,これまでほとんど意識することもなかった「自己」が登場し,やがて,この「自己」をも事物化させていく。つまり,理性の力によって自己を対象化し,客観化させて考えるようになる。こうして,人間を「事物」のなかに封じ込めてしまうことになる。

このとき,人間は,ヒトの肉体をも「事物」のなかに封じ込んでしまう。このことがなにを意味しているのか,わたしたちはもう一度,しっかりと考えてみることが大事である。ヒトの肉体を「事物」のなかに封じ込んでしまうということは,同時に,ヒトの「内奥性」をも「事物」のなかに封じ込んでしまうということを意味する。すなわち,「聖なるもの」の世界の中で,「水の中に水があるように」存在していたヒトの肉体もヒトの「内奥性」も,すべて「事物」のなかに封じ込められてしまったのである。こうして,「理性」のコントロールのもとで生きることを選択した人間,つまり,「野性」を「理性」で支配することを選択した人間にとって,運動(身体運動)はまったく新たな意味をもつことになったことは自明であろう。すなわち,人間の運動は,有用性のもとに統合整理され,生き延びるための効率的な労働へとからめ捕られていくことになる。こうして,ヒトの時代の「聖なるもの」としての「運動」は次第に姿を消してしまう。つまり,単なる気晴らしや消尽にも等しい運動は,正当な運動からは排除され,隠蔽されることになる。こうして,正当な運動である労働からはみ出した運動として,「スポーツ的なるもの」が新たに出現することになる。

したがって,「スポーツ的なるもの」の出現は,ある意味では「聖なるもの」への回帰をも意味することになる。

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2010-01-17 「スポーツ的なるもの」と「供犠」の構造について。

_ 「スポーツ的なるもの」の出現は「聖なるもの」への回帰である,という理論仮説が可能であるとすれば,さて,そこから語られるスポーツ史やスポーツ文化論はどのようなものになるのであろうか。

じつは,このことを考えるために,このブログを書きつないできた。しかし,本丸攻めに入る前に,まだまだ外堀を埋める作業が残っている。それは「供犠」の構造に関するバタイユの見解である。正直に種明かしをしておけば,さきの「スポーツ的なるも」の出現は「聖なるもの」への回帰である,という理論仮説も,このバタイユの「供犠」の構造についての見解を,そのまま転用したものにすぎない。だから,この仮説の根拠となっている「供犠」の構造について,今回は考えてみたいと思う。

バタイユが「供犠」の構造について語っている部分は文庫本(『宗教の理論』)にして2ページに満たない分量にすぎないが,わたしにとっては黄金に輝く「聖典」のようにみえてくる。だから,少し丁寧にバタイユの語るところを追ってみたいと思う。

まず,バタイユは,つぎのように簡単明瞭に語りはじめる。

「収穫の初物を供物として献上したり,一頭の家畜を供犠に捧げたりするのは,事物たちの世界から植物や動物を引き戻すためであり,そして同時に農耕者や牧畜者を引き戻すためである。」

供物や供犠は,事物の世界から本来の自然存在へと「引き戻す」ためである,とバタイユは明言している。しかも,農耕者や牧畜者をも「引き戻す」ためだ,と。つまり,自然(融即の世界,動物の世界,聖なるもの,神的なるもの)から離脱して文化・文明の世界へと移動した人間,その人間によって「事物」とされてしまった植物や動物を,もう一度,本来のあるべき姿である「自然」の世界に「引き戻す」こと,しかも,それに従事した人間(この人間もまた「事物」となってしまっているので)も「引き戻す」こと,これがバタイユのいう供犠のもともとの意味なのだ,という次第である。

これにつづけて,バタイユはつぎのように論旨を展開していく。

「供犠の原理は破壊であるが,そしてときには全的に破壊するにまで至ることもあるけれども,供犠が挙行しようと望む破壊は無化してしまうことではないのである。供犠が犠牲の生贄の内で破壊したいと願うのは,事物(ショーズ)──ただ事物のみ──なのである。」

ここに高らかに宣言されているように,供犠の原理は「事物(ショーズ),ただ事物のみ」を破壊したいと願うことにある。当然のことながら,ここでいう「事物」のなかには人間もふくまれている。まさに,文化・文明の「事物」の世界から自然界への回帰である。さらに,バタイユはつぎのようにつづける。

「供犠はある一つの物=客体を従属関係へと縛りつける現実的な絆を破壊する。つまり生贄を有用性の世界から引き剥がして,知的な理解を絶するような気まぐれの世界へと戻すのである。献上された動物が祭司によって殺される領界へと入っていくとき,その動物は事物たちの世界から──つまり人間にとって閉じられており,なにものでもなく,外から知るだけの事物たちの世界から──引き戻されて,人間にとって内在的な,内奥的な世界へと,ちょうど消尽を思わせる肉体的交わりの中で女が知られるのと同じように知られる世界へと移行するのである。」

この引用文について余分な解説は不要であろう。ただ一点のみ,触れておきたいことは,「消尽を思わせる肉体的交わり」だけが,「人間にとって内在的な,内奥的な世界へ」と移行することを可能にする,とバタイユが述べていることである。およそ,思想・哲学の世界で,「性」の問題は,なぜか忌避されてきたように思う。ヨーロッパの形而上学の伝統からすれば,それでなんの矛盾もないのかもしれない。しかし,それでいて,そこでのメインとなるテーマはつねに「存在」論であった。かりに,人間の「存在」を問うとしたら,「性」の問題を忌避して人間の「存在」を論ずることのむなしさ(無力さ,無意味さ,偏見,など)をわたしは感じてしまう。管見ながら,「性」の問題を思想・哲学の視野からはずすことなく,真っ正面から言説化した人を,バタイユ,ニーチェ,フーコー以外にわたしは知らない。とりわけ,バタイユにとっては「エクスターズ」の概念を持ち出すまでもなく,かれの思想・哲学の中核をなすものである,とわたしは考えている。

さらに,バタイユはつぎのように畳み込む。

「それが仮定しているのは,そのとき人間の側でも自分自身の内奥性から切り離された状態を止めるということ,すなわち労働という従属関係において人間がそうである状態を止めるということである。」

ここで指摘されていることは重大である。人間が,つまり,事物と成り果ててしまっている人間が,「自分自身の内奥性から切り離された状態を止めるということ」,そのための契機として「供犠」を必要とすること,それが「供犠」が存在する理由だ,とバタイユは指摘する。のみならず,「労働という従属関係において人間がそうである状態を止めるということ」も同じ原理だ,というのである。

じつは,「スポーツ的なるもの」が出現する最大の根拠はここにある,とわたしは考えている。このつづきは明日のテーマにして論じてみたいと思う。今日はここまで。

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2010-01-18 「内奥性」「内在性」をとりもどすということ。

_ 「供犠」の意味は,「内奥性」「内在性」に回帰すること,そのために「事物」を破壊すること,ただそれだけだ,とバタイユは主張する。

人間の手で栽培される植物であることを「やめ」,飼育される動物であることを「やめ」,そのような「労働」に従事する人間=「事物」であることを「やめ」,「聖なる世界」(内奥性,内在性の世界)に向けて,すべての「事物」たち(植物も動物も人間も)を「引き戻す」こと,それが「供犠」なのだ,と。このことをしっかりと頭に収めておくことにしよう。その上で,バタイユが,さらに語りつづける言説に耳を傾けてみることにしよう。

「供犠執行者と事物の世界とがあらかじめ切り離されることが,人間と世界との間に,また主体と物=客体との間に内奥性が回帰するために,あるいは内在性が回帰するために必要である。つまり供犠執行者は,自己を事物の世界から切り離すために供犠を必要としているのであり,そして生贄となる動物の側でも,もし供犠執行者が彼自身まずもって事物の世界から分離するのでないならば,生贄のほうも事物の世界から分離することはできないであろう。」

「事物の世界」とは「俗なる世界」のこと,そして「内在性の世界」とは「聖なる世界」。言いかえれば,前者は「文化・文明の世界」,後者は「自然界」。「文化・文明の世界」は人間の知性や理性によって「自然」を支配(「否定」)することによって構築された世界=「事物の世界」。「自然界」は宇宙誕生以来のあるがままの,天地自然の大いなる力がはたらいている世界=「神聖なる世界」(「聖なるもの」や「神的なるもの」が充満する世界)。ヒトは前者の世界に,人間は後者の世界に属する。したがって,「供犠」とは人間がヒトに回帰するための「儀礼」なのである。そのために,人間にとっては生贄となる動植物が必要であり,動植物もまた人間がヒトになることを必要とする。

こうして,バタイユは「供犠執行者は次のように呟いているのである」として,「供犠」に関する直接的な言説を閉じる。

「内奥においては,この私は神々の至高な世界に,神話が示すような至高性の世界に属している。すなわち激烈な力が荒れ狂う,利害や打算を離れた雅量の世界に属している。ちょうど私の妻が諸々の私の欲望に属しているのと同じように。生贄の獣よ,私はおまえをそのいる世界から引き戻す。つまりおまえが事物の状態に還元された形でしか存在できず,だからおまえの内奥の本姓にとっては外的な意味しか持てないような世界からおまえを引き戻すのだ。そして私はおまえを神的世界との親密な交わりへと,あるいは全て存在するものの深い内在性との親密な交わりへと立ち返らせる。」

供犠執行者である人間だけは,密かに「内奥」を持ち合わせていて,「激烈な力が荒れ狂う,利害や打算を離れた雅量の世界に属している」ことを自覚している。それは「私の妻」との交合をとおして確認することもできるように。しかし,飼育されている動物たちにとっての「内奥の本姓」は,もはや,「外的な意味しか持てないような世界」に封じ込められている。だから,供犠執行者であるわたしが生贄にして,「事物の世界」に封じ込められている状態から「引き戻す」のだ,と。そして,「神的世界との親密な交わりへと」立ち返らせるのだ,と。

以上が,バタイユが「供犠」について直接言及している部分のすべてである。しかし,この「供犠」に関する言説はこのあとにつづく各論の大前提になっているものであって,これで完了しているわけではない。すこしだけ予告をしておけば,やがて,祝祭を論じ,人身供犠を語り,戦争や商品にまで架橋しながら,宗教の根源に横たわるものを明らかにしていく。

そこで,わたしも予告をしておこう。

もう,すでに,ここまでのブログでも明らかにしてきているように,とりわけ,この「供犠」にいたって明らかになってきたように,「スポーツ的なるもの」の源泉が,こうした宗教的な儀礼とつねに表裏の関係にあった,というわたしの仮説である。この勢いにのってさらに極論しておけば,バタイユのいう供犠執行者をスポーツのプレイヤー(競技選手,トップ・アスリート,スポーツマン,など)に置き換えて考えてみよう。たとえば,スポーツ選手たちが心身の限界に挑戦しながら繰り広げるプレイは,事物である人間の世界の枠組みに閉じこめられつつ,そこから離脱し移動せんとする強度をともなった激情(Leidenschaft)として,わたしの眼には映る。だから,普通では考えられないようなスーパー・プレイが生まれた瞬間,プレイヤーも観衆も一体となって感動する。これを「神が降臨した」と表現するのは,文字通り「俗なる世界」を突き抜けて,「神的世界」と共振・共鳴した瞬間ではないか,とわたしは考える。スポーツの「快楽」(この快楽についてもこれから,さまざまに考えていきたいと思っている)の源泉の一つがここにある,と。

あまり,さきを急ぐのはやめよう。これからの楽しみがなくなってしまう。少なくとも,ここでは「供犠」の構造を,バタイユの理論仮説にもとづいて,わたしなりに解釈し直してみると,そこにはみごとに「スポーツ的なるもの」の原風景が二重写しとなって,浮かび上がってくる。これだけを指摘するにとどめよう。

とりあえず,今日はここまで。

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2010-01-19 「内奥性」について。

_ 「供犠」とは,人間も動物も植物も,すべて生きとし生けるものたちを「事物」の世界から「内奥性」「内在性」の世界に回帰させることだ,ということについてはひととおりの理解はしていただけたものと思う。

そこで,では,「内奥性」とはなにか,という問いがでてくることだろう。「内在性」については,これまでも何回も説明してきたように,なんとか理解はえられるものと思う。しかし,「内奥性」については,わたし自身のなかにもわかったようでいてわからないという曖昧模糊としたものが残る。そこで,今回は,この「内奥性」について考えてみたい。もちろん,バタイユの言説に依拠しながら。

まず,バタイユは「内奥性」について以下のように語る。

「内奥性を表現するのに,言説(ディスクール)に依拠したやり方で行うことは不可能である。

目玉の飛び出すほどの膨張,歯をくいしばりながら急に炸裂し,そして涙を流す悪意。どこから来るのかも,どこへ行く野かもからぬ横滑り。暗闇の中で,大声を張り上げて歌をうたっている恐怖。白目をした顔の蒼白さ,悲しげな温和さ,激昂と嘔吐・・・・こうした言い方は数々あっても,そのどれもが表現しえないものをなんとか示そうとする逃げ道なのである。」

いきなり,バタイユは,内奥性を語ることは不可能だ,と断言する。そして,なぜ不可能なのかという根拠として,内奥性の特徴をいくつか「言説」化してみせた上で,これらはみな「表現しえないものをなんとか示そうとする逃げ道」にすぎないという。なるほど,内奥性につながると思われるものを,さまざまに言説化することはできても,では,それが内奥性かといえば,それは違うとしかいいようがない。では,いったい,内奥性とはなにか。

「その強い意味において内奥的なのは,個体性の不在がもたらす熱狂状態とか,河の流れの掴みがたい響きとか,空の虚しい明澄さなどを持つものである。しかしそれもなおまだ消極的な定義であって,本質的なものは抜け落ちてしまう。」

ここにいたってバタイユは,「内奥的なるもの」の三つの特質を提示してみせる。一つは「個体性の不在がもたらす熱狂状態」,二つには「河の流れの掴みがたい響き」,三つには「空の虚しい明澄さ」である。

一つめの「個体性の不在がもたらす熱狂状態」は,この三つの特質のなかではわかりやすい。われを忘れて熱狂する状態は,一度ならず経験したことがだれにもあるからだ。この忘我没入の状態は,バタイユのいう「エクスターズ」そのものでもある。ということは,なにを隠そう,バタイユの「エクスターズ」とは,「内奥性」「内在性」の世界に回帰することなのだ。「スポーツ的なるもの」の快楽がここから発するということを,いまや疑う人はいないだろう。この点はしっかりと銘記すべきであろう。

二つめの「河の流れの掴みがたい響き」はいささか難解である。あえて,わたしなりの解釈を試みるとすれば,自己をはるかに超越した大きな力動の流れのなかに,どこからともなく聞こえてくる響き,ということになろうか。でも,これはもう,限りなく「内在性」の領界に近い。そういうところに繋がっているものが「内奥性」なのだ,とひとまず理解しておくことにしよう。そしてまた,これも「スポーツ的なるもの」と通底しているということも。あえて言っておくとすれば「スポーツ的なるもの」のなかにある「本能的直観」。

三つめは「空の虚しい明澄さ」。このことばに接して,まっさきにわたしの脳裏をかすめたのは,バタイユの初期のころの小説『空の青み』(伊東守男訳,河出文庫)である。なるほど,あの小説は,人間の「内奥性」をライト・モチーフにした小説であったのか,と。そして,同時に,もう一つの小説『眼球譚』(初稿)(生田耕作訳,河出文庫)である。どちらも「死とエロスが交錯する極限の物語」(『空の青み』の帯にあるコピー)と言っておこう。つまり,これ以上の言説化は不可能なのだ。あとは,小説を読んでもらうしか方法はない。

「内奥性」とはかくも言説化を拒否するものなのだ。それにもかかわらず,バタイユはつぎのように語る。

「逆説的な様態において内奥性とは激烈な暴力であり,また破壊である。なぜなら内奥性は切り離された個体=個人の定置と両立することは不可能であるからである。」

こうして,最終的には「激烈な暴力」であり,「破壊」である,と言い切る。その理由は,事物である「個体=個人」と「内奥性」とは徹底的に対立するものであって,この両者が両立することは不可能だから,バタイユは説明する。ここまでくれば,もはや,「スポーツ的なるもの」がこの両者のはざまで揺れ動く,微妙なシチュエーションにあることも,難なく理解してもらえるものと思う。

最後に,バタイユの以下の言説を引いて,今日のブログを閉じることにしよう。

「人間は,事物たちの秩序と両立せず,和合しない内奥次元を怖れるのである。そうでなかったとしたら,供犠は存在しなかったであろう。そしてまた人間性もありえなかったであろう。内奥次元が,個体の破壊のうちに,そしてその聖なる不安のうちに啓示されることもないであろう。内奥性は事物と隔たりのない同一平面にあるのではなく,むしろ事物がその本性において(つまりそれを構成する諸々の企図において)脅かされる状態を通じてこそ,戦慄する個体のうちで,神聖な,聖なるものであり,不安という光背を帯びているのである。」

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2010-01-21 閑話休題・日馬富士の「燕返し」に感動。

_ ときにはお相撲の話を。日馬富士と白鵬の一戦。仕切り直しの段階から,なにか異様な雰囲気を醸し出す二人。本日の最高のカード。

昨年の一年は,白鵬に全敗していた日馬富士。とはいえ,それまでは五分の戦いを展開していた二人だけに,今日あたりはなにかが起こる・・・という予感がわたしの脳裏を走る。しかも,今場所の日馬富士の調子は悪くない。この一番だけはみておかなくては,と思いスイッチを入れる。

タイミングよく,琴欧州と豪風が土俵に上がっている。淡々と仕切り直しをしている。みていると,豪風の方が上半身の力が抜けている。とくに,腕の脱力の状態がいい。少なくとも緊張はしていない。それに引き換え,琴欧州の方はすでに全身に力が入ってしまっている。大関が緊張してどうする,と声をかけながら観戦。案の定,豪風に左からいなされて一気に態勢を悪くして,かんたんに押し出されてしまった。琴欧州のこころのコントロールの弱点がでてしまった一番。豪風は,勝って当たり前のような顔をして引き上げていく。

そして,期待の一番が,このあとにきた。じつは,久しぶりにテレビで相撲をみる。日馬富士のからだに肉がつき,顔も丸みを帯びてきて,いい力士になってきた。もはや軽量ということばは当たらない。仕切り直しをしていても,体格的にも五分である。みていると,白鵬の方の気合がすさまじい。口を一文字に結んで,鋭い眼光を放ちながら,相手の日馬富士を睨み付けている。どこか不自然,睨みすぎ,という感じ。それに対して,日馬富士の方は,そんなに睨むのならお付き合いしますよ,という感じで受けて立っている。どこかに余裕すら感ずる。日馬富士が塩をとりにもどっていくのに,白鵬はまだ腰を下ろしたまま,日馬富士の背中を睨みつけている。仕切り直しは,すべて日馬富士がさきへ,さきへと動いていくのに,最後の仕切りだけは白鵬の動きが早く,さっさと手を下ろして待っている。日馬富士はそれまでの仕切り直しと同じリズムで,最後の仕切りに入る。当然のことながら,日馬富士の呼吸で立つことになる。

立ち合いの呼吸はみごとに一致。五分の立ち合い。日馬富士は,なぜか,突っ張ってでた。白鵬も応戦。激しい突っ張り合いののち,一瞬だけ間合いがあいた。その直後,さきにでたのは白鵬であった。右で張手にでたのだが,日馬富士がそれをかわし,張手は空振りになってしまった。そこをうまく回り込んで,白鵬をあっさりと送り出してしまった。張手をかわして回り込む,柔道でいえば「燕返し」と同じワザ。あっけない勝負ではあったが,見応えはあった。

今日の勝負に関していえば,白鵬は気負いすぎ,日馬富士は自然体。やはり,闘志は内に秘め,外見は自然体が一番。日馬富士がこういう相撲を身につけていくと,横綱がみえてくる。楽しみな力士である。ひょろひょろのからだで,下位にいたころから,真っ向勝負にでる日馬富士の相撲がわたしは好きだった。だから,いまもこころから応援をしている。朝青龍のあとを引き継ぐ横綱は日馬富士になるだろう。その日をいまから楽しみに待つことにしよう。

頑張れ,日馬富士。

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2010-01-22 「からだが動いた」日馬富士。

_ 昨日のテレビの印象では,かんたんに送り出したように思っていたが,今朝の新聞の写真をみると,背中側に回った日馬富士が白鵬の背中に頭をつけて「もろはず」の万全の体勢で,顔を真っ赤にして押している。

すごいものだなぁ,と思う。背中に回っても,まだ,相撲の基本どおりの構えで全力で押している。この心技体の統一・調和が相撲の奥義なのだ。しかも,考える以前,つまり,思考回路がはたらく以前の「からだ」の反応なのである。こういう「からだ」の反応が,相手の動きに合わせて自然にでてくるようにするために,日々の稽古がある。

今朝の新聞を読みながら,記事にはなっていない,ことばの背景に思いを巡らす。たとえば,立ち合いの一瞬に「しまった」と思ったと日馬富士は語っている。そし,そのあとの,張手をかわして右に体を開いて回り込んだのは「自然にからだが動いた」のだという。つまり,日馬富士は,一応の作戦は立てていたけれども,一つとして考えたとおりにはならなかった,と言っている。白鵬の方は相撲内容についての談話はなかったが,「まだ,なんとかなる」という決意を語っている。

そこで,この一番をもう一度,わたしの視点から見直してみたいと思う。

白鵬は立ち合いで先手をとって,自分充分の組み手になりたかった。つまり,そのときから「あせり」があった。だから,いつもよりも立ち合いに鋭さが欠けた。その一瞬の間合いの違いを日馬富士は「からだ」が感じ取り,気がついたら「突き立て」ていた。で,自分の意識(作戦)としては「しまった」と思った。こんなつもりではなかった,ということなのだろう。でも,「からだ」は「突き合い」を選択している。お互いにつっぱり合って,スキをみて自分充分の体勢をつくりたい,と思っていた矢先に,一瞬,双方のからだの動きに「間合い」が生じた。このとき,白鵬は,日馬富士がふところに飛び込んでくる,と「からだ」が反応してその飛び込んでくる相手の顔を想定して「張手」をかました。が,日馬富士の方は,白鵬のからだが前のめりになっていることを「からだ」が感じとっていた。だから,もう一呼吸,間合いをのばした。そのために,白鵬の「張手」は空振りになってしまい,その瞬間に日馬富士は体を右に開いて,向き直ったら,そこに白鵬の背中があった。とっさに,飛びついて「もろはず」の体勢をつくって,全力で押した。だから,白鵬はたまらず土俵を割った。

ここで,しっかりと見届けておきたいことは,横綱も大関も,自分の想定していた相撲にはならなかった,という点である。どの力士もそれぞれの対戦相手によって,それなりの作戦(手順)を立てるはずである。しかし,そのほとんどは作戦どおりにはならない。あとは,相撲の流れに身をゆだねるしか方法はない。そこで,生きてくるのが稽古で培われた「からだが動く」という,考える以前の反応の問題である。

この「からだが動く」という世界こそ,これまでの思想・哲学が中心テーマにして論じてきた人間の「存在」にかかわる根源の問題なのだ。西田幾多郎に言わせれば,「主客未分化の状態」での「からだ」の反応であり,それをかれは「純粋経験」と呼び,さらに「行為的直観」という概念に仕立てあげ,最終的には「絶対矛盾的自己同一」に到達する。古代ギリシアのころから言われていたことばでいえば「ポイエーシス」。この考え方が,近年になって,さらに進化して「オート・ポイエーシス」の理論となる。バタイユの思想の側からみれば,「事物」(ショーズ)の中に閉じ込められた人間の呪縛から解き放たれた,なにものにも囚われない,まったくの自由な,あらゆる感覚や無意識が自在に反応する「動物性」(バタイユのいう意味で)の世界に立ち返ったところで表出するもの,ということになろうか。禅佛教でいえば,「父母未生(ぶもみしょう)以前 本来の面目」という公案に相当しよう。つまり,お前の両親が生まれる前の,お前の本来の姿はなにか,言ってみろ,というのである。この公案をテーマにした小説が,夏目漱石の『門』である。主人公の宗助が,この公案を与えられて困り果てる姿がみごとに描かれている。明治の知的エリートが,親友の女を奪い取り,駆け落ちした末にもなお過去の亡霊に怯え,この苦悩から抜け出したい一心で,ついに鎌倉の禅寺の「門」を叩く(この話はここで止めておく)。

相撲をみる醍醐味は,わたしにとっては「からだが動く」という絶好調の力士の相撲内容にある。そこに,日々,抑圧され,「事物」に閉じ込められた現代人の日常とは「対極」にある,自由自在にからだが躍動する丸裸の力士の姿をみる。これぞ「父母未生以前 本来の面目」の姿なのである。それをそのまま現前化してくれる,それがわたしにとっての相撲なのである。

わたしにとっての大相撲初場所は昨日の白鵬と日馬富士の一番で終わった。あとは,だれが優勝しようと,それは「おまけ」のようなもの。もう,すでにして大満足なのだから。もし,千秋楽に優勝決定戦にまでもつれていったときに,これまでにもあったような迫力満点の「真剣勝負」が展開したら,これまた予期せざる「おまけ」である。これはこれで楽しい。ただし,ふだんではみられないような「相撲内容」が展開したときに限る。つまり,双方のこころとからだのバランスが最高の状態にあって,一瞬の勝負の分かれ目をみることができたなら,という条件つきである。そうしたら,わたしはこのブログを書くこともやめて,ひたすらその「恩寵」にひたりながら,少なくとも一週間はぼーっとしていたい。これぞ至福のとき。

言うまでもなく,大相撲の一番が,「父母未生以前 本来の面目」の世界にわたしを誘ってくれるから。バタイユ的に言うなら,「聖なる世界」「神的世界」にわたしを誘ってくれるから。もっと言っておけば,バタイユの言う「供犠」の構造を,じつは,大相撲がいまも伝承しているからだ。「事物」と化してしまった現代人を,もう一度,動物たちの住む「聖なる世界」に「引き戻して」くれる文化装置の一つとして大相撲は存在している,とわたしは考える。わたしのいう「スポーツ的なるもの」の根源には,すべて,この「引き戻し」の機能が備わっている。ここに,スポーツ観戦する多くの人びとに「感動」を呼び起こす源泉がある,というわけである。

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2010-01-25 閑話休題・山焼きを楽しんできました。

_ 毎年,恒例の奈良の「山焼き会」を楽しんできました。ことしは遷都1300年祭とかで,花火もたくさん上がり,いい山焼きでした。

「山焼き会」は,奈良教育大学の卒業生の組織する「イナッチ会」と「ISC・21」奈良月例会との合同の会です。ですから,懇親会と研究会とをドッキングさせて昼の部を展開し,夜の「山焼き」を鑑賞してから,宴会へと流れていきます。まあ,まことにバラエティに富んだ会ではあります。わたしにとっては,毎年,この会をとおしてその年を乗り切っていくためのエネルギーをいただく大事な会になっています。ことしもたくさんのエネルギーをもらいました。これで,ことしも大丈夫でしょう。あとはタイガースに頑張ってもらって・・・・(笑い)。

奈良の若草山の山焼きは,すでに30年以上,ほぼ毎年,しっかりと鑑賞してきました。山焼きはいろいろの条件が整わないとうまく燃えません。ことしは,この30年の鑑賞経験の中でも上等の部類に入る燃え方をしました。草の乾燥状態,風向き,などがとてもよかったようです。ちょっとだけ不満なのは,たぶん,とても上手に管理された燃え方を演出しているのではないか,ということです。むかしは一気に燃え上がり,炎が山を駆けめぐるようなシーンがあって,見ていてドキドキしたこともありました。これはとても迫力があって,山を焼くという自然のエネルギーのようなものがこちらにも伝わってきて,体内の血液も駆けめぐり,からだが熱くなる,というような感覚がありました。そのとき,なにか事故に近いことが起きていたらしく,以後は草が乾燥しすぎているときには,わざわざ水を蒔いて,燃えにくくするという話を聞いたことがあります。まあ,安全第一はわかりますが,山焼きの本来の迫力が失われるのはちょっと残念。

なぜなら,山焼きは,こんにちの説明では害虫を焼き殺して駆除し,春にはいい草が生えて青々と生い茂るようにするための行事なのだ,ということになっていますが,ほんとうの意味は違うのではないか,とわたしは考えているからです。ここでまたもや,バタイユ仮説です。つまり,枯れた草を焼き,虫を焼き殺すということは一種の「供犠」である,という考え方です。若草山の草は,いまでは観光のために手入れもされ,鑑賞用に管理されています。つまり,自然のままの草ではなくて,人間に従属する存在,すなわち「事物」と化してしまっています。ですから,これに火を放って「死」を与え,「事物」としての存在から解き放ち,本来の自然存在へと送り返すための儀礼を行う必要があるわけです。ですから,山焼きの点火に携わる人たち(消防団員が総動員をかけられていると聞く)の気構えはふつうの人たちとは違う,と聞いています。それはそうでしょう。そのむかしは,燃える「火」の管理をするなどという発想がなかったはずですので,ときには激しく燃え上がり,火にまかれて死者もでたことがある,とものの本には書いてあります。若草山全体を,もう一度,「聖なるもの」「神的なるもの」に回帰させるための儀礼であるとすれば,それが本来の「山焼き」ということなのでしょう。「事物」と化した人間もまた「神的世界」に回帰させる必要があったはずです。「人身供犠」の発想がどこかにあったとしても不思議ではありません。若草山のとなりの春日山はまさに神の住む山として,いまも信仰の対象となっています。ですから,春日山には人間の手を加えてはならないことになっていて,いまでも「原生林」のままにしてあります。まさに,神の領域だからです。その好対照となるものが若草山だということになります。

こんなことがわたしの頭のなかにあるものですから,点火の火がコントロールされていると聞くと,この火もまた「事物」(人間に従属するもの)と化してしまっているのか,と少なからず失望してしまう,という次第です。ですから,少なくとも,真っ正面の一番下の笠だけでもいい,自然のままの火力で燃え上がらせるくらいの演出はできないものか,というのがわたしの希望です。そうなると,山焼きの迫力が年によって変化し,猛々しく燃え上がる山の火をみたいという観光客も倍増するのではないか,とわたしは考えるのだが・・・・。

「事物化」が極限にまで進行してしまった現代社会を生きるわたしたちにとって,もっとも必要なことは,「事物」の呪縛から解き放つ儀礼を年中行事のどこかに組み込むことではないか,とわたしは考えるのだが・・・。

どなたか賛同してくれる人はいませんか。

とまあ,こんなことを考えた,ことしの山焼きでした。

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2010-01-26 「父母未生以前 本来の面目」ということについて。

_ 昨日のブログのつづき。山焼きの日には,わたしの年頭のご挨拶をかねて,毎年,ちょっとしたお話をさせてもらっている。

ことしのテーマは「私という仮面をはぎとるとき」というもの。いささか物騒なテーマではある。しかし,少し落ち着いて考えてみれば,当たり前の話であって,そんなに驚くべきものでもない。わたしたちは,日常的にはある職業についていて,その職業にふさわしい「仮面」をかぶって仕事をまっとうすべく努力している。教師であれば,教室に入れば教師としての「仮面」をかぶり,まじめに「教育」という仕事に専念する。これを日々繰り返していると,自分が「仮面」をかぶっていることすら忘れてしまう。それが当たり前だと思ってしまう。そして,無事,平穏に日々が流れていくときには,この「仮面」もそんなに気にもならない。しかし,いったんなにか困ったことが起きると,教師という「仮面」が重くて仕方がなくなることがある。そんなときには,この「仮面」をはぎとってしまいたい,と思うこともある。そこまでいかなくても,日頃からなにかと教師という「仮面」にストレスを感じている人は少なくないだろう。かく申すわたしも,かつて,そういう時代があった。その反動というか,憂さ晴らしというか,酒に酔って悪ふざけをしたことも少なくない。世間では,教師と医者と坊主は,酒を飲むと豹変する人が多い,という。故無しとしない。

この職業上の「仮面」はともかくとして,「私」という「仮面」はもう少しややこしい。第一に,「私」とはなにものか,という根源的な問いがあり,それに対する解はいまだに明らかではない。ひところ,哲学の話題として「私さがし」というテーマがさかんに論じられたことがある。しかし,結局は,考えれば考えるほど「私」はどこかに消えてしまう。にもかかわらず,日常的には「私」を中心にして日々の生活が成り立っている。法律もまた「私」というものの存在を前提にして,その責任問題の基準を提示している。つまり,この世俗を生きていく上では「私」が基本となる。基本的人権もまた「私」が前提である。近代の法治国家は,この「私」にある実態を付与し,国民として国民国家の一員として位置づける。そうして,さまざまな「義務」をも覆いかぶせてくる。気がついてみると,この「私」が重くて重くて仕方なくなってくることがある。なぜなら,日常生活のすみずみまで,この「私」がついてまわってくるからである。にもかかわらず,「私」には実態がないのである。

というようなわけで(ほんとうはもっともっと別の説明が必要なのだが,省略),いっそのこと,この「私」という「仮面」をはぎとってしまいたい,という衝動に襲われることがある。ここでいう「私」という「仮面」は,まあ言ってしまえば,とても表面的なものである。しかし,ほんとうに「私」という「仮面」をはぎとる,ということを考えてみるとそれは恐ろしいことになってくる。端的に言ってしまえば,自分が自分ではなくなる,ということだ。もっと言ってしまえば,自己というものが消えてしまう,ということだ。自己が消えるということは,人間としての存在から「自然存在」へと回帰することを意味する。つまり,ヒトへの回帰である。

じつは,「人間という仮面をはぎとるとき」というテーマは,「人間がヒトに回帰するとき」ということを考えるためのわたしの仕掛けだったのである。で,その話を山焼きのときにはさせてもらった。そのとき,話すつもりであったが,時間切れで省略した話に,このブログのタイトルとした「父母(ぶも)未生(みしょう)以前 本来の面目」という禅の公案があった。この公案は,夏目漱石の三部作のなかの一つ『門』の最後のところにでてくる話でもある。この公案そのものはとても有名なものなので,どこかで見聞きしたことのある人は多いと思う。

「お前の両親が生まれる以前の,お前自身の本来の面目(自己本来の姿)を言ってみろ」というのだから,ことは単純ではない。しかし,「人間という仮面をはぎとるとき」というのは,この公案にもつながっていく,きわめて重要な問題を内包している,ということをここでは強調しておきたい。この公案に対して,道元はつぎのような歌を詠んでいる。

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけり

ついでに,良寛は,この道元の歌を本歌として,つぎのように詠んでいる。

形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉

さて,みなさんはこの公案にどのように応答するのか,一度,考えてみてください。このつづきとしてのわたしの考えは明日,このブログで書いてみたいと思います。あえて予告をしておけば,これまでのブログで述べてきたバタイユの理論仮説ときわめて近いところに到達してしまう,ということ。いや,ほとんど同じと言ってもいいほどの近さを,わたし自身は感じてしまいます。

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2010-01-27 「父母未生以前 本来の面目」その2.

_ 禅の公案のほとんどは,まともには応答のしようのない,二律背反であったり,宙づり状態のエポケーであったり,まあ,とんでもないものばかりである。

この「父母未生以前 本来の面目」も,まさに,その典型的な見本のようなものである。両親が生まれる前にわたしという自己があるはずもない。そんなことは自明のことである。にもかかわらず,両親が生まれる前の自己の本来の姿を言え,というのだから無理難題というものである。しかし,少し思考の軸をずらして,冷静に考えてみれば,意外にその解がみえてくるものである。

わたしの解はきわめて簡単。まず,両親が生まれる前というのだから,自己などというものの姿も形もあるはずがない。つまり,なんにもない,のである。すなわち,「無」である。自己本来の姿は「無」。これで終わりである。

これで終わりでは味もそっけもない。そこで,もう少しだけ味付けをしておけば,以下のようになろうか。

佛教では輪廻転生ということをいう。つまり,生まれ変わりのこと。前世の生をまっとうして,潔い死に方をすれば,つぎに生まれ変わるときにはその分だけ浄土に近づくことのできる生をいただくことができる,と言われる。しかし,前世の生で悪事を重ねた場合には,その分だけ浄土から遠ざかってしまい,いつまでも輪廻転生を繰り返すことになる,と。だから,この世に生をうけたときには善行を積むことが大事だと教える。そうすれば,やがて浄土に生きることになり,輪廻転生から開放されることになる,と。

この考え方を援用すれば,両親が生まれる前の自己は,前世を終えて,この世に生まれ変わるチャンスを待っている,そういう状態にある。もう少しリアルに言えば,前世を終えた肉体は土に帰り,霊は浮游する。土に帰った肉体は,やがて植物の養分となって吸い上げられ,幹となり枝となり,葉や花となる。それもまたいつかは土に帰っていく。それの繰り返し。他方,霊の方は風のように浮游したり,あるいは,霊的世界にあって,この世に生をうけるチャンスを待っている。そして,運良く生をうけてこの世に誕生したとしても,それは単なる仮の姿でしかない。つまり,肉体という器に霊が宿るだけの話。これもつかのまの生死の間のことでしかない。しかも,その生が人間ではなくて動物の生であったとしたら,そこには自己が立ち現れることはない。つまり,「無」なのである。運良く人間として生をうけた者だけが自己を意識することになる。つまりは自己意識を持つことになる。そして,この自己意識なるものが,佛教にあってはまことに災いのもとと考えられていて,この自己意識をいかにコントロールし,少なくしていくかが修行の課題となる。坐禅とは,そのための一つの方法なのである。

坐禅の最大のテーマは「己事究明」である。つまり,自己をとことん究明すること。自己とはなにか,と問いつづけること。そして,その自己から抜け出して,自他不二の境地に達することが一つの目標となる。自他不二とは,自己と他者とが一つのものとなること。自己が他者となり,他者が自己となること。つまり,自他が一体化すること。すなわち,天地自然はもとより,自己をとりまくあらゆる環境世界と一体化すること。すなわち,「無」であり,「無」の境地である。

「父母未生以前 本来の面目」とは,すなわち,この「無」に到達した自己のことであり,「無」の境地に達した自己のことを意味する,とわたしは応答する。

道元はその境地を「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけり」と詠み,良寛はこれをうけて「形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉」と詠んだ。つまり,「自然と一体化」するところに自己の「本来の面目」がある,と説く。

ここに至って,わたしは,ふたたびバタイユの「動物の世界」を想起する。「水の中に水があるように存在する」世界と,道元や良寛が詠む歌の世界との,あまりの近似性に驚きを禁じ得ない。この点については,ここではこれ以上には触れないことにしておく。

いつか,参禅することがあって,老師から「父母未生以前 本来の面目」と問われたら,わたしは大きく一声「ワン」と吠えてみようかと思う。老師は「カッカ」と大笑するだろうか。

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2010-01-28 「スポーツ的なるもの」の始原について。

_ 人間が動物の世界から事物の世界へと,その第一歩を踏み出したそのときから,「スポーツ的なるもの」の原初の姿が立ち現れることになる。

このことは,すでに,何回もこのブログでも取り上げてきているとおりである。しかし,書いている自分自身がどうもいま一つ納得できないので,もっと納得のできる説明の仕方を見つけ出すことはできないものかと思う。そういう思いで,もう一度,自分自身への挑戦のつもりで考えてみたいと思う。

「水の中に水があるように存在する」動物の世界から,個体として,事物として存在する人間の世界へと移行したときから,すなわち,ヒトから人間に移行したときから,人間には「不安」がつきまとうことになる。なぜなら,人間は,動物性を完全に捨て去ることはできないからである。つまり,人間は,表面的には事物の世界の秩序のなかに溶け込んでいるかのようにふるまうことができたとしても,生死という動物性の枠組みから抜け出すことは不可能なのだから。人間は事物であると同時に,動物性そのものである内在性や内奥性を内包している,という現実から逃避することはできないのである。

人間はまずなによりも「死」を畏れるようになる。なぜなら,人間は事物たちの秩序の中に身を寄せているにもかかわらず,「死」はその事物たちの秩序をかき乱してしまうからである。この「死」をはじめとして,「生」もまた「生まれるもの」であって,道具のように製作するものではない。さらには,動物としての本能ともいうべき「内奥次元」も,事物たちの秩序とは両立しない。このあちらを立てればこちらが立たずという二律背反の存在であることに気づいたときから,人間は「不安」に苛まれることになる。

この「不安」を解消するための一つの文化装置として「供犠」が誕生したことは,このブログでも触れてきたとおりである。事物であるはずの人間が,もともと自然の世界に存在していた動物や植物を,自分のものとして所有する,つまりは「従属させる」こと,すなわち「事物化」することに対して「不安」をいだく。同時に,事物となりはてている人間自身にも「不安」をいだく。これらの「不安」を同時に解消するために,「供犠」が営まれることになる。

こうして「供犠」をとおして,つまり,個体の破壊をとおして,その聖なる不安のうちに「内奥次元」が啓示されることになる。すなわち,内奥性は,事物としての個体が脅かされる状態=供犠をとおして,「聖なるもの」「神聖なるもの」となる。同時に,内奥性は,供犠に晒され,戦慄する個体のうちで,「不安という光背」を帯びることになる。

内奥性は,すなわち,「聖なるもの」は,「供犠」をとおして表出するように生命の惜しげもない「沸騰」であり「消尽」であるが,これに対して事物たちの秩序は,みずからの秩序を持続するために「供犠」を拘束し,コントロールしようとする。しかし,そのコントロールしようとする「力」こそが,内奥性の反発を買い,さらなる内奥性の奔騰状態へと導き,激烈な暴力性を露呈させることになる。こうした内奥性の尽きることのない奔騰と事物たちの秩序との葛藤とが,間断なく繰り返される。こうして,内奥性と事物たちの秩序とのせめぎ合いのなかで,一定の「折り合い」がつけられたものだけが,「祝祭」として持続されることになる。これが「祝祭」という空間・時間の内実なのである。

この「祝祭」という空間・時間こそが「スポーツ的なるもの」の始原である,とわたしは考える。つまりは,内奥性の発露と事物の秩序とのせめぎ合いの一つの発露の形態,それこそが「スポーツ的なるもの」の始原である,と。

したがって,祝祭の場には「消尽のあらゆる可能性」をもつものがかき集められることになる。「舞踊,詩,音楽,そしてさまざまな技芸」が祝祭の場で繰り広げられることによって,祝祭は「目を奪う劇的な昂揚と奔騰の場となり,また時間となる」という次第である。ことわるまでもなく,バタイユが「さまざまな技芸」と言っていることのなかに,わたしのいう「スポーツ的なるもの」がふくまれている。すなわち,バタイユに言わせれば,舞踊も詩も音楽も「スポーツ的なるもの」も,すべて「消尽」なのである。

バタイユのいう「舞踊,詩,音楽,そしてさまざまな技芸」は,そっくりそのまま古代ギリシアの四大祭典競技である「オリンピア祭」「ネメア祭」「ビュティア祭」「イストミア祭」のなかで展開されたものであり,それらはすべて祝祭空間のなかで展開された「消尽」であったという点に,ここでは注目しておきたいと思う。詳しい議論は,また,別のところで展開したいと思う。そして,ここでは,「スポーツ的なるもの」の始原が「消尽」にあった,という仮説に注目おくにとどめよう。

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2010-01-29 スポーツの原点は「消尽」にある。

_ スポーツの原点は供犠にはじまる祝祭のなかで繰り広げられる「消尽」にある。このことの意味についてもう一度,確認しておくことにしよう。

人間の登場によって栽培され飼育されることになってしまった植物や動物を,もう一度,自然の状態に送り返す儀礼が供犠であった。つまり,動植物の世界(「聖なる世界」)から事物の世界(「俗の世界」)に取り込んで,人間に従属する存在に貶めてしまったことに対する「不安」を解消するために,事物と化した動植物を「聖なる世界」に送り返すための儀礼,それが供犠の意味である。このことをまずしっかりと銘記しておこう。

アイヌの「熊送り」の儀礼は,われわれのよく知る,もっとも典型的な事例といってよいだろう。神である「熊」を人間の世界(事物の世界,世俗の世界)から神の世界(動物の世界,聖なる世界)に送り返す儀礼である。火祭りとも呼ばれる「熊送り」儀礼は,そこに参加する人びともまた熊と一緒に神の世界に帰っていく,という疑似体験を伴う。そのために人びとは歌い,踊り,事物の世界に閉じこめられていた「内奥性」を全面的に解き放つ。そのための文化装置の一つとして「スポーツ的なるもの」が立ち上がる。

スポーツの原点はここにある,とわたしは考える。つまり,スポーツもまた「内奥性」を解き放つための文化装置の一つなのだ,と。事物の世界(世俗の世界,日常の世界)に閉じこめられていた人間の「内奥性の次元」を解き放ち,動物の世界(聖なる世界,非日常の世界)を擬似的に体験すること,ここにこそ人間の根源的な「不安」(ヒトが人間になったことによってはじまる必然)から解き放たれた「快感」が待っている。その「快感」をわがものとするためには祝祭空間が不可欠となる。飲み,食い,歌い,踊り,肉体のなかに閉じこめられていたありとあらゆる暴力的なエネルギーをも解き放ち,そしてセックスをも解放する,それが原初の祝祭空間であった。そこに働いていた最優先の原理は「消尽」であった。なんの計算も打算もなく,「有用性」とはまったく無縁のところで,ただひたすら「消尽」に全力をそそぐ。

しかし,そのような祝祭空間にあってもなお,人間である以上は人間としての覚めた意識が機能する。その意識は,祝祭を容認できる範囲内にコントロールするべく働く。つまり,事物の世界のルールが祝祭をコントロールすることになる。こうして,「内奥性の次元」を解き放つ許容範囲をルールによって制限する,ということがはじまる。そのバランス・シートの折り合いのついた祝祭だけが存続することになる。つまり,祝祭もまた「持続」という事物の世界にからめ捕られることになる。こうして,原初の祝祭もまた徐々に姿を消して,ついには世俗の世界に完全に取り込まれてしまうことになる。

そこで,きわめてわかりやすいので引き合いに出すのだが,古代ギリシアのオリンピア祭を考えてみれば,このプロセスがみえてくる。前776年に始まったとされる(記録として確認できるという意味)オリンピアの祭典競技は,まさに,ゼウス神に奉納するための競技であった。このときには,すでに,いろいろの約束事(ルール)が成立していて,一定の管理のもとで祭典競技は執り行われている。それでもなお,供犠にはじまる祝祭の原初形態は温存されている。ということは,オリンピアの祭典競技が成立する以前の,おそらくは「ディニュソス的なるもの」(ニーチェの意味で)を剥き出しにした原初形態がいくつも散在していたはずである。それが徐々に「アポロン的なるもの」との折り合いをつけながら,古代オリンピアの祭典競技の形態が整ってきたものと考えることができる。

そして,前776年から1000年以上にわたって継続した,この祭典競技も徐々に「世俗化」が進み,「聖なるもの」から遠ざかり「世俗的なるもの」へと変化していったことはよく知られているとおりである。そのなれのはてが,こんにちのオリンピック競技会というわけである。そのオリンピック競技会がはらんでいる問題はなにか,という点については『近代スポーツのミッションは終わったか』に明らかなとおりである。残念ながら,ここには「消尽」のひとかけらも見出すことはできない。すべてが「勝利至上主義」のもとにからめ捕られてしまっているからだ。この問題については,また,いつか論じてみたいと思う。

今日のところは,スポーツの原点は「消尽」にある,というわたしの仮説を提示するにとどめておこう。

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2010-01-30 閑話休題・相撲界の「怪」(あるいは「椿事」)

_ 相撲界が揺れている。いよいよ本丸攻めに取りかかったか。しかし,その資格はあるのだろうか。

台風の目玉は二つ。一つは,理事選挙をめぐる「椿事」。もう一つは,朝青龍の暴力沙汰。この二つを比較したときに,どちらが相撲界にとって重大なできごとであるか,はわたしの眼には明らかである。

誤解を恐れずに私見を提示しておけば,朝青龍の暴力沙汰などは大したことはない。いつも一緒に酒を飲んで遊んでいる友人のクラブのマスターと,たまたま口論となり,ゲンコツがとんだだけの話。しかも,示談も成立している。だから,事件ではない。言うならば「喧嘩両成敗」で終わり。この程度のことは相撲界では,ちょっと裏情報に詳しい人なら,いくらでも起きていることを知っている。また,大相撲の事件史を少し洗ってみれば,こんなことはとるに足りない。あの双葉山だって,奥多摩に立て籠もって・・・という大事件を起こしている。こちらは警察を向こうに回して,真向から対立した。でも,中に入って取りなす人がいて(超大物),無罪釈放,そして,のちの理事長になっている。親方が弟子の頭をビール瓶で叩くなんてことも,ある意味では日常的に行われている。死亡事件にまで進展しなければ,だれも知らないできごとであったはず。

にもかかわらず,メディアの眼は一気に朝青龍バッシングに向かっている。そして,こんどこそ朝青龍は絶体絶命である,と報じている。なぜなら,朝青龍擁護にまわっていた横綱審議委員会の委員長が動きはじめたから・・・,あるいは,文部科学大臣が調査報告を命じたから・・・,などとさまざまに憶測されている。しかし,もし仮に,これで朝青龍だけが相撲界から追放され,親方が無罪に終わるとしたら,これこそ大問題である。ひょっとしたら,モンゴル国と日本国との政治・外交問題になりかねない。はたして,いまの日本相撲協会には,朝青龍を追放するだけの資格があるだろうか。これまでの日本相撲協会の無責任体質を問うことなく,一方的に朝青龍だけを裁くとしたら,相撲通は黙っていないだろう。

その最たるものが,理事選挙をめぐる醜聞のかずかずである。理事候補者として立候補しただけで,一門から破門される,というようなことが起きていてもなんのお咎めもない。日本相撲協会の寄付行為をみれば,第20条に「理事および監事は,評議員会で選任し,理事は互選で理事長1名を定める」と明記されているように,だれが理事候補として立候補してもいいのである。一門の推薦がなければ理事に立候補することはできない,とはどこにも書いてはない。つまり,われこそはと思う人はだれでも立候補できるし,若くても信頼されれば理事になることができる仕組みになっている。にもかかわらず,一門で候補者をしぼりこむ,それに文句のある者は「破門」だというのである。観るにみかねた監督官庁である文部科学省も,公平な選挙が行われるように,とクレームをつけた。しかし,一門の親方衆は,その結束を確認するためのあらゆる手段を講じている・・・という情報が流れてくる。わたしの耳にも極秘情報として伝わってくる。

それほどに貴乃花親方を恐れなくてはならないのはなぜか。それにはそれで,はっきりとした理由がある。ここでは露骨に書けないが,一般論として述べておけば以下のとおりである。脛を舐めあって悪事をはたらいてきた集団は,その非を公の場で指摘されることを極端に恐れる。貴乃花が引退して親方になってからの,彼およびそのグループを,日本相撲協会や二所一門はどのように扱ってきたか,この問題まで掘り下げて論ずるメディアは,いまのところ一つもない。貴乃花親方を支持することを表明した間垣親方(二代目若乃花・横綱),阿武松親方(益荒雄・関脇),音羽山親方(貴ノ浪・大関),大嶽親方(貴闘力・関脇),常磐山(隆三杉・小結),二子山親方(大竜,十両)の六人の顔ぶれをとくとご覧いただきたい。こんなことは相撲界では知らぬ人はいないだろう。だから,一門をとわず,若手親方のなかには貴乃花親方を支持したいとこころの中で思っている人はかなりいる,と聞く。

選挙の結果がどうなろうと,遠からず貴乃花親方は新しい一門を構築する方向に動くだろう,とわたしは推測している。そうなることをもっとも恐れているのは,ほかならぬ日本相撲協会の現在の執行部である。だから,寄ってたかって貴乃花叩きの体勢を組んでいる。そうではなくて,一門を破門にするような愚挙を諫め,公明正大な選挙を,責任もって遂行していくことを理事長をはじめとした執行部が一団となって率先垂範すべきではないか。

そんなこともできない日本相撲協会が,朝青龍を相撲界から追放する,などという「判定」を行う資格があるとは,わたしにはとても考えられない。

いささか熱くなりすぎた。ことば足らずはお許しいただくとして,これがわたしのホンネである。いろいろの意見があっていいと思う。この場を借りて,大いに議論できれば幸いである。

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2010-01-31 マイケル・ジャクソンの「This is It」をみる。

_ 親しくしている編集者から,これをみて感想がほしいといってマイケル・ジャクソンの,いま話題の「This is IT」のDVDが送られてきました。

これ幸いとばかりに,ほかの仕事を投げ出して,このDVDをみてみました。以前に,もうずいぶん以前になりますが,「Thriller」をみてびっくり仰天した記憶があります。が,こんどのものは,マイケル・ジャクソンとはそもなにものか,ということを考える上でとても面白いと思いました。世間を騒がせたマイケルと,仕事に打ち込んでいるときのマイケルとは,おそらく別人ではないかと思うほどの差を感じました。というのは,マイケルがとてもいい人間である,ということが前面にでているからです。アーティストとしてのセンスはもとより,作品を仕上げていく過程でのスタッフの人たちとの会話がとても思いやりがあり,優しいのです。これだから,スタッフの人たちもみんなやる気になって,全力を出す,だから,すごいDVD作品が仕上がるのだとしみじみ思いました。まあ,そういった感想はともかくとして,強烈に思ったことを少し書いておこうと思います。

それは,マイケル・ジャクソンは,なによりもまずはダンサーである,という発見です。以前からダンスの名手でもあることはよく知られているとおりですが,それでも歌手としてのマイケルの方に一般的な関心は強かったと思います。わたしも,ダンスの上手な歌手くらいに思っていました。しかし,今回のこのDVDをみるかぎりでは,それは完全なる間違いだ,ということに気づきました。それはどういうことかというと,以下のような次第です。

今回のDVDはすべてリハーサルが中心ですから,作品ができあがっていくプロセスがとてもよくわかるわけです。そこで,たとえば,マイケルが歌を軽く流すときにはダンスをしていない,ということがわかってきます。そして,どこかでスイッチが入ると,とたんに足裏と踵の動きが激しくなってきます。それにつれて下半身から上半身へとなにかの力が伝わっていきます。まるで震動するかのように。そして,その力が腕と頭に伝わっていきます。そうして全身が踊りはじめたとたんに歌も全力投球になっていきます。気がつけば,ダンスも歌も完璧に本番さながらの状態に入っています。本人も途中で気づいて,「あまり本気にさせるなよ,これはリハなんだから」とジョークをとばしたりします。つまり,マイケルの場合には,ダンスが先行して,それにつられるようにして歌が乗ってくる,というわけです。このことはなにを意味しているのでしょうか。

わたしのみるところでは,マイケルはやはり根がダンサーであって,その「踊る身体」の中に歌手のマイケルが隠れているのではないか,というものです。つまり,ダンスの調子が上がってくると,歌手のマイケルが飛び出してくる,というわけです。もっと言ってしまえば,踊る身体をとおして声を発し,リズムを刻んでいる,だから,あのキレのいい,しかも情感の籠もった歌が生まれてくるのではないか,と。ダンスが興にのればのるほど歌の調子も上がってくる,と。そして,その逆ではない,ということ。歌からダンスへのベクトルはマイケルの場合にはまったく感じられない,ということ。

マイケルには,ふつうの歌手のように,じっと立って歌っている姿はまったく見受けられません。つねに,からだのどこかが動いています。そのからだの動きにあわせるようにして歌唱の仕方も変化していることが,よくわかります。だから,マイケルは踊りながら歌うのであって,歌いながら踊るのではない,ということです。マイケルにとってはダンスと歌はセットになっていて,けして切り離すことはできないものなのだ,ということです。しかも,どちらかといえば,ダンスが先導していくタイプ。その意味で,マイケルは,まずはダンサーであるということ。

しかも,かれのダンスの起点になっているのは足裏と踵。まるで,大地からエネルギーを吸い上げているかのように,ぴたりと吸いついています。その状態から少しずつ動きが激しくなっていきます。足裏・踵の激しい動きのなかから,徐々に全身のダンスが立ち現れてきます。そこで,よくよく足裏・踵の動きを注意してみていると,それはもう極限に近いほど足裏・踵の運動が分節化している,ということがわかってきます。つまり,足裏のどのポイントに立っても重心を支えることは可能ですし,からだの軸もぶれることはありません。これは単なる修練で身につくものではないでしょう。おそらく天性のものがあって,そこに修練を積み上げたからこそ可能になったことだと思います。

そのなによりの証拠が,一世を風靡したムーン・ウォークでしょう。かれのムーン・ウォークはまるで床の方が動いているかのような錯覚をみている人に起こさせるほどみごとなものでした。これは足裏・踵の運動が極限まで分節化していないと不可能だと思います。この足裏・踵のとんでもない震動が全身に伝導されることによって,マイケル独自のダンスがはじまります。そこはもうかれ独自の世界でしかありえません。バック・ダンサーたちが踊り終わって静止の姿勢に入ったとき,みんな呼吸が上がっているのに,マイケルだけはどこか涼しげに立っています。剣道でいうところの格の違いをみる思いがします。

というようなわけで,マイケルはダンサーだった,というわたしの発見を記してみました。この見解について,どなたかご意見をお寄せくださると幸いです。

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