2009-11-01 「秋巡業 出欠取りまーす」だって。
_ 10月31日(土)の朝日・夕刊に「秋巡業 出欠取りまーす」という大きな見出しの記事が大きな写真(巡業稽古)入りで掲載された。
なんというこっちゃ,というのがわたしの第一印象。大相撲も地に落ちたものだ,と。もはや,プロの意識もないのか,と。
小見出しをみて,さらに唖然。「サボり増え 改革」「親方衆が『考課表』」「やらずに済む時代が来れば」とつづく。
巡業の稽古をサボっていたのは朝青龍だけかと思っていたら,なんと「出欠」を取らなくてはならないほど大勢の力士たちが「サボって」いたのである。朝青龍は巡業をサボってモンゴルに帰国していて,サッカーに興じていたことがテレビで報道されてしまい,大騒ぎになった。しかし,巡業の実態を覗いてみると,巡業には参加するものの,合同の稽古(ファンに見せる稽古)は多くの力士がサボっている,というのである。見るにみかねた日本相撲協会が,全関取に対して稽古場に顔を出すように指導したという。
しかし,プロであるのに,なぜ,合同稽古をサボルのか。お客さんが大勢集まって見にきてくれているのに,なぜ,それをサボルのか。だれが考えたって不思議だ。たんなるプロ意識の欠如とかの問題ではないのだろう。それには,われわれには計り知ることのできない理由があるはずだ。
素人が勝手に想像して,決めつけることは避けなければならないが,それでも推測ぐらいは許してもらえるだろう。ということで,わたしの推測は以下のとおり。
合同稽古に行っても面白くないのである。全関取衆が集まってきても土俵は一つしかない。弱い力士の出番はほとんどない。ただ,立ってみているだけだ。だったら別のところで自主的に稽古をしていた方がいい。あるいは,筋トレでもやっていた方がいい。時間の無駄である。関取のなかには反りの合わない人もいるだろう。できることなら,顔を会わすのも避けたい,と。あるいは,本割と違って,みんな本気ではやらない。怪我をしないように,というのが本音。だから,適当に取り組む。相手によっては手の内を知られたくないので,わざと負けたりする。こうなったら,もう,稽古ではない。この他にもいろいろの理由を考えることはできよう。結論を急げば,要するに,合同稽古はほとんど意味がない,ということだ。だから,サボル。
これを「出欠」をとって縛りつけたところで,「改革」といえるのだろうか。そうではなくて,こういうお客さんサービスの方法に意味がないのだとしたら,どうすれば力士もお客さんも満足できるような稽古を見せることができるか,その方法を「改革」すべきではないのか。いい稽古ができるとなれば,力士だって放っておいても集まってくる。みんな強くなりたいのだから。
そのむかし,春日野部屋の稽古を見に行ったことがある。当時の名横綱栃錦が全盛時代のことである。ところがである。稽古場でもっとも強かったのは,出羽錦だった。横綱栃錦が関脇だった出羽錦に歯が立たないのである。それでも必死になって栃錦は出羽錦の胸を借りて稽古をしていた。ところがである。ある日の稽古場では,「一番勝負」の稽古をしていた。それは「一回」の取り組みに全力を傾け,終わると少し休んで,また,相手を変えて「一番勝負」を行う。そうなると,こんどは出羽錦は栃錦に手も足もでないで負けてしまうのである。つまり,一発勝負に集中してすべてを賭けることを得意とする力士は,通常の稽古は苦手なのである。とくに,小兵力士には,そういう人が多い。
こういう力士は,他の部屋に出向いて稽古をするのは嫌がるだろう。ましてや,合同稽古ともなれば,手の内は知られたくないから,本気ではやらない。適当に手抜きの稽古になってしまうだろう。これだったら,まったく,おもしろくもなんともない。だったら,サボって,別の稽古メニューをこなしていた方がいい,ということになってしまう。
新聞によると,親方衆は「考課表」なるものを作成して,出欠だけではなく,申し合いの番数と稽古の内容まで書きつけている,という。なにを考えているのだろう,と首を傾げてしまう。さらに,新聞には「土俵を囲んでも実際に申し合いに加わる幕内は出席者の半分程度」とある。そのくらいが申し合いに加わることのできる限度なのである。だったら,土俵を二つにするとか,三つにして巡回していく姿をお客さんに見せるとかすれば,力士だって手抜きもしにくくなってこよう。「改革」とは,そういう新しい方法を開拓することだろう。
でも,さすがに巡業部長(元大関旭国)は「チェックしないでいい時代が来るのを祈りたい。本当はみっともないことだから」と本音を吐いている。だったら,もっと,抜本的な「改革」をめざせばいいではないか。こんな,小手先の子供だましのような方法しか考えられないのだろうか。壁紙が古くなってきたから,新しい壁紙に張り替えよう,というのは「改革」でもなんでもない。壁を取っ払うくらいの「改革」を編み出してもらいたいものである。そのくらいの知恵者はいるはずだ。頭のいい力士はいくらでもいるのだから。
大相撲は日本の伝統「芸能」の一つなのだから,もっと「芸能」としての「見せ方」を工夫すべきではないか。外国人力士への指導も,この視点が欠けているように思えて仕方がない。間違っても,大相撲を「近代スポーツ」だなどと思っていてはいけない。見るわれわれも,力士も,親方衆も,そして横綱審議委員会のみなさんも。
2009-11-03 「掲示板」を再開しました。
_ 「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)のHPのなかにある「掲示板」を復活させました。
夏休み直前くらいから悪質な掲示板への書き込みが急増したため,一時,この掲示板を閉鎖していました。その間,HP管理人の寺島君があれこれ智慧をしぼってくれました。そして,掲示板書き込みのてつづきを複雑にするよりは,多少のリスクを背負いながらも,みんなが自由に書き込みができる状態の方がいいだろうと判断し,掲示板を再開させることになりました。
そこで,みなさんにお願いです。掲示板に悪質な書き込みをみつけた場合には,わたしのところか,寺島君のところに連絡をしてください。わたしは,原則として,一日一回は掲示板をチェックするつもりですが,手の回らないときもあろうかと思います。ですので,大勢の目でチェックしていただければ幸いです。
もっと大事な,みなさんへのお願いがあります。それは,この掲示板をもっともっと活用していただきたい,ということです。内容はとくに限定はしません。「ISC・21」の趣旨から大きくはずれないかぎり,なんでも結構です。ただ,できることなら,広義の「スポーツ文化」にかかわる情報交換や意見交換の場として活用していただきたい,ということです。そして,できるだけ多くの人に開かれた場として活用されることを期待しています。
いまのご時世,ありとあらゆる情報が氾濫していて,インターネットの検索機能を活用すれば,ほとんどの情報を手に入れることが可能です。それでも,一人で集められる情報には限度があります。その上,質のいい情報となると,意外に入手が困難なものです。10人の人が一つずつ質のいい情報を掲示板に書き込んでくだされば,10倍の情報を共有することが可能となります。そうやって,その輪を広げていきたいと考えています。
いずれ,もう少しシステマティックにスポーツ情報を収集・管理できるようにしたいと考えています。この点についても,いい智慧がありましたら,教えてください。そして,氾濫する情報に振り回されるのではなく,いかにして情報をコントロールしていくか,という方途を見いだしたいと思っています。こちらの方にもお知恵を拝借したいと思います。
まずは,いまある掲示板を活性化させることからはじめたいと思います。どうぞ,よろしくお願いいたします。
_ Ogaydfsuysuus [http://www.purchaseambienonline.net#23118 buy ambien onlin..]
_ Czahgstjhgsjhg [http://www.buyxanaxdiscount.com#49732 buy xanax bars no pr..]
_ Ogayusysuuas [http://www.buydiazepamhere.com#14128 buy valium tablets - ..]
_ Ogayhsfysuus [http://www.bestcheapphentermine.com#62601 where to buy phe..]
_ Ogayhsfysuus [http://www.bestcheapphentermine.com#62601 buy phentermine ..]
2009-11-04 西谷修著『理性の探求』がとどく。
_ 今朝の朝日新聞朝刊の一面下の広告蘭に,この本の広告(岩波書店)が載っていたので,今日の太極拳の稽古のあとで西谷さんにこのことを話した。
返ってきたことばは,今日あたりとどくと思いますよ,とのこと。期待に胸をふくらませながら帰宅したら,お話どおりとどいていた。早速,あちこちめくりながら拾い読みをはじめる。かつて,『UP』(東京大学出版会)に連載されていた文章をまとめて単行本化したものなので,そのうちのほとんどはすでに読んだものである。しかし,こうして単行本になるとまったく別の命を帯びて,新しく生まれ変わったかのように新鮮である。2004年4月8日に第一回目の連載がはじまって,それから5年間にわたって書き継がれたものである。それが少しも古くなっていないのだから不思議だ。このことは西谷さんのこれまでに出された本を読むたびに思うことでもある。
なにより楽しみなのは,これまで飛び飛びに読み継いできたものを,こんどは一気に読むことができるということだ。こんなありがたいことはない。西谷ワールドにどっぷりと浸かることができるから。
内容についての感想は,いつか書くとして,とりあえずは帯に書かれた3種類のキャッチ・コピーを紹介しておく。
表紙正面のコピーはつぎのようである。
<なぜ?>の問いから出発して,いま世界を動かしている趨勢とその論理を洗い出し,<啓蒙>をリセットして人間の<理性>をとう。
見えない時代の<狂気>から目覚めるための
プツンと切れている。そこにつながることばは表紙タイトルの『理性の探求』以外にはありえない。
表紙裏のコピーは以下のとおり。
近代の産業文明はたんに地球環境問題や人口問題に逢着しているだけではない。その文明を推進してきた「合理性」は,この文明が掲げてきた「人間」の理念が破綻するほどに,その「非合理」を露呈している。そこに想定されている「理性」は,それ自体が生み出した世界に「狂気」の様相を与えているのである。だからもう一度基本的なところに立ち返って,「理性」をつまりは「原理」を問い直さなければならない。
これは(「後記」より)とある。
表紙カバー内側にあるコピーはこんな風である。
9・11以後に,思想を語ることは無益か。
わたしたちを取り巻いている,不可解にして理不尽な出来事。そこに露呈している「狂気」と「非合理」の諸相は,いかにして形成されたのか。何を起源とし,どのような系譜をたどって,「今日」はあるのか。言葉をもって,現代の世界と向き合うための,ありうべき思考の筋道を求めて。
生きるために考え,歩くために「なぜ」と問う。人として在ることの根拠への問いを,混沌とした思想の風景から収集する,反時代的日録。
以上である。
どうぞ,あとは,本文を読んでご確認のほどを。
ひとことだけ付け加えておけば,西谷さんはこの本を書いたことの意味をつぎのように語っていることだ。この本が世にでることによって,これまでの自分とは異なる,まったく新たなスタートを切ることができると確信した本です。その意味でわたしにとってはとても重要な本になると思います。と。
はたして,西谷さんはいかなる地点に立つにいたったのか,謎解きも兼ねて,大いに楽しみながら読んでみてください。
_ Vzaufihsiuhsiuhdf [http://www.bestdiazepamsite.com#78551 buy valium fedex - c..]
_ Vzaufihsiuhsiuhdf [http://www.bestdiazepamsite.com#78551 generic valium 10mg ..]
_ Vzaufihsiuhsiuhdf [http://www.bestdiazepamsite.com#78551 buy valium fedex - v..]
_ Vzaufihsiuhsiuhdf [http://www.bestdiazepamsite.com#78551 buy generic valium o..]
_ Vzaufihsiuhsiuhdf [http://www.bestdiazepamsite.com#78551 valium online to buy..]
2009-11-05 テロリズムという用語・用法について。
_ 『理性の探求』(西谷修著,岩波書店)の28ページに,補注のようなかたちで「テロリズム」ということばの正しい意味が説明されている。
それによると,以下のとおりである。短いので,そのまま,引用しておく。
※「テロリズム」(=恐怖)による支配とは,フランス革命時の「恐怖政治」以来,実はそのことをさしている。つまり「恐怖=テロル」をかざして従わせる,というブッシュ政権の手法こそが「テロリズム」なのだが,それが逆転したうえでまかり通ってしまうところに,現代世界の政治を語る言語の救いようのない混乱がある。
簡単明瞭。じつにわかりやすい説明である。
なのに,ことばは一人歩きをする。それが誤用であっても,何回も繰り返し「誤用」されると,いつのまにかそれが「正しい」用語であり,用法であるかのように思い込んでしまう。恐ろしいことだ。
「タバコ狩り」も「メタボ狩り」も,ニュアンスは違うが,似たような誤用を繰り返しているうちに,いつのまにか一人歩きをはじめている。そして,いつのまにか,だれもその意味を疑おうともしない。タバコもメタボもいつのまにかテロリストにされてしまっている。じつは,このような「恐怖」を煽っている人たちがいるにもかかわらず・・・。そして,その人たちこそテロリストであるにもかかわらず・・・。
しかし,それにしても人間は「恐怖」に弱い。「恐怖」までいかなくても,「不安」を与えるだけで十分だ。「心配」する,「気がかり」になる,「気をつかう」なども同じだ。じわじわと効いてくる。そして,「怯える」ようになる。その意味でも,わたしたちはもっと「真相」を見きわめる力を養わなくてはならないのだろう。でも,それがとてもむつかしい。だから,「声の大きな人」の話(あるいは,噂)に,多くの人たちが振り回されてしまうことになる。
ブッシュ君のような「声の大きな人」ともなると,「わたしは正義の味方なのだ」と吼えるだけで,アメリカ人の多くはそのまま信じてしまう。のみならず,われわれ日本人ですら,その声に「怯えながら」信じてしまう。
顔もみえない,どこにいるかもわからない人たちに向かって,テロリストだ,といわれてもわれわれは困るだけだ。だからこそなのだろう,先手必勝とばかりに,「テロリスト」と名づけてしまった方が勝ち。相手を悪者に貶めてしまえば,必然的に,こちらは正義になってしまう。
そういう小型版が,わたしたちの日常生活のなかにも蔓延している。そして,その力学に多くの人たちは振り回されてしまう。そして,いつのまにか,それが真実になってしまうことがよくある。恐ろしいことだ。
こういう目に見えない「狂気」から目覚めよ,と西谷さんは呼びかける。その「狂気」から目覚めるための「理性」を探求しよう,と。そして,ここでいう「理性」とは,近代哲学の原理であったそれではなく,「なぜ」という根源的な問いであり,それに応える「根拠」のことだ,と。
うーん,今夜はうまくまとまらない。説得力のある文章を読むと,それに引っ張られてしまって,自分のことばにならない。まとまらない。修行が足りない。残念。でも,それがありのままのわが姿。
_ Lopsdyuwjh [http://www.order-cheap-diazepam.com/#99369 cheap valium on..]
_ ordering cialis online [f, 206207 http://easyfreeps3.com/index.html buy viagra 25..]
_ viagra music group [e, 206207 http://easyfreeps3.com/index.html viagra super ..]
_ propecia [a, 206207 http://liveteensnow.com/index.html antabuse alc..]
_ Jolhpphsoidyewer [http://www.ordercheapambien.com/#52810 order ambien online..]
2009-11-06 『理性の探求』を読む。
_ やらなくてはならない仕事が山ほどあるのに,『理性の探求』が気になって気になって仕方がないので,意をけっして読むことにした。
やはり,読んでよかった,としみじみ思う。こんな愉悦に浸れるのも久しぶりである。仕事を放棄しても読むべき本だった。ほんとうによかった・・・などと書くと某編集者に叱られそうだが・・・・(笑い)。
『UP』に連載中に全部もらさず読んだつもりでいたが,いくつか見落としていたものもあった。それを全部とおして読むことの迫力は,やはり,単行本の威力というべきか。もっとも,2004年からはじまった連載なので,もう,すっかり忘れてしまっていたものもあった。と同時に,その間にわたし自身の読解力も高くなっているのか,連載のときとはまったく違う印象で,まるで「突き刺さる」ようにして西谷さんの文章が頭のなかに侵入してくる。快感である。
それにしても西谷さんの,この数年間の,驚くべき「知」の探索のひろがりと深さを知り,いまさらながら唖然とするのみである。この人はいつのまに,これほどの「知」の巨人に変身したのだろうか,としみじみ考えてしまう。なぜなら,毎週水曜日の太極拳の稽古で顔を合わせ,昼食をとりながら歓談を楽しんでいるときの人とはまるで別人だから。もっとも,こちらの投げるボールいかんによっては,テーブレコーダーに録音しておくべきだった,と残念なほどのいい話を展開してくれることもあるのだが・・・。
とにかく,この本のなかで展開されている一つひとつのトピックスを読み進むうちに,これらの文章が同一人物によって書き継がれているというそのことが,不思議になってくる。宗教,経済,法律,映画,文学,医学,メディア,絵画,生物学,政治,戦争,歴史,生命,沖縄,そして思想・哲学,という具合である。これほど多岐にわたるトピックスを取り上げながら,ヨーロッパ近代の合理主義がめざした「理性」にもとづく「合理性」の探求が,いつのまにか「人間」の理念を破綻させてしまうほどの「狂気」を生み出してしまう,その根源に横たわる「原因」「理由」「根拠」(これらはすべてreason,つまり「理性」)を解き明かしていく。つまり,「狂気」を生み出してしまうヨーロッパ近代の「理性」にたいして,もう一度,根源から「なぜ」と問い直す,新たな「理性」の「探求」が必要である,と解く。
プロローグとエピローグに相当する文章は未発表のものだ,と後記に書いてあるのだが,なぜか,わたしには初めて読むという気がしない。なぜなら,プロローグに相当する「記憶の満天」は,2006年の秋にスポーツ史学会のシンポジウムが終わってから,西谷さんを囲む会を開催したときの夜の宴会の席で,面白いジョークをいっぱい交えて話してくれたことを鮮明に記憶しているし,エピローグに相当する「人型の転生,または横溢する生命」もまた宇佐美圭司さんの絵を好んで西谷さんが自著の表紙カバーに用いていて,そのことについて直接お話をうかがっていた記憶があるからだ,と思う。
いずれにしても,この本は,現代という時代を生きているわたしたちが,いま,いかなる「世界」と対峙しているのか,そして,そこに浮かび上がってくる時代の「狂気」から目覚めるための,新しい「理性」の「探求」を提示したものとして,貴重である。何年か前に『夜の鼓動に触れる』という本が話題になったとき以上の大きな反響を呼ぶのではないか,とこれはわたしの予感である。それほどにもインパクトが強い。
少しだけ,わたしの分野との関係を述べておけば,以下のとおりである。2年後に予定されている国際シンボジウムのテーマは「グローバリゼーションと伝統スポーツ」である。このテーマを考える上で,西谷さんのこの本以上に,深く,そして,広く,問題を投げかけてくれる本は,管見ながら知らない。このテーマは,じつを言えばわたしのアイディアを受け止めてくれて決まったものであり,だから,わたしなりにある程度の答えはすでに用意されていた。しかし,この本と出会ってしまった以上,もう一度,根源からの「問い」を立てて,新たな「理性」の探求に真っ正面から取り組むことを避けるわけにはいかなくなってしまった。その意味では,まったく新たな挑戦のはじまりである。そこを通過しないかぎり,時代の「狂気」から目覚めて,その呪縛の<外>に飛び出していく思考は不可能であろう。
毎回のことではあるのだが,またまた,これまでにもまして大きく,重い宿題を西谷さんからいただいてしまった。でも,この本の最後のところで西谷さんが明確に提示された,ジョルジュ・バタイユの「一般経済学」(「消尽」『呪われた部分』),「非−知」,「エクスターズ」,「聖なるもの」(『宗教の理論』)との,新たな「折り合い」のつけ方を求めるというベクトルを頼りに,亀の歩みにも等しい思考をこれからも積み上げていこうと思う。その道筋を明らかにしてくれた,この本に感謝。
_ buy valium online [http://buydiazepamanxiety.com/ Cheap valium without a pres..]
_ buy valium online [http://buydiazepamanxiety.com/ Cheap valium now - buy vali..]
_ gel gen tretinoin [e, 206217 http://deeplydoyoga.com/neurontin.html neuronti..]
_ buy valium online [http://buydiazepamanxiety.com/ valium - valium]
_ buy valium online [http://buydiazepamanxiety.com/ Cheap valium pills - valium..]
2009-11-07 日本図書館協会選定図書に選ばれる。
_ 『近代スポーツのミッションは終わったか』(平凡社)が,日本図書館協会選定図書に選ばれた。今日とどいた『週刊読書人』に掲載されている。
だからどうなんだ,と突っ込まれると答えようもない。でも,選ばれないよりは選ばれた方がなんとなく嬉しい。しばらく前までは,日本図書館協会選定図書に選ばれることはそれなりにオーソライズされていたように思う。しかし,最近では,ここに上がっている本をみて,なんの権威も感じられなくなってしまった。なぜなら,どのような基準で,どのような人たちが,この選定に携わっているのかその実態がみえてこないのだ。それどころか,毎週毎週,ここに選定される本のリストを眺めているが,どうしてこんな本が,と思うようなものまで「選定」されているのである。
たとえば,こうだ。『近代スポーツのミッションは終わったか』の選定と分類は「700芸術・美術」の枠組みのなかでのものである。そして,わたしたちの本に与えられた分類番号は780。つまり,一般の「スポーツ書」という分類である。このように分類されてしまうと,あとは書店に並ぶときも,一般の「スポーツ書」のコーナーに置かれることになる。しかし,この本は,一般のスポーツ愛好者が手にとって読んでくれるような本ではない。だから,わたしは「あとがき」に「思想・哲学」のコーナーに置いてほしい,とわざわざ書いておいた。しかし,選定委員の先生方は,「まえがき」も「あとがき」も,もちろん「本文」も読むことなく,ただタイトルにある「近代スポーツ」ということばをみて,スポーツ書と判定しただけのことである。
だから,この本につづいて選定された本のタイトルをみると,そのことがよくわかる。断っておくが,それらの本がいいとか悪いとか言っているのではない。分類の方法に疑問がある,と言っているだけのことだ。それらの本とは以下のとおり。
『なぜ阪神は勝てないのか?──タイガース再建への提言(江夏豊,岡田彰布著)
『ファンから観たプロ野球の歴史』(橋川武郎・奈良堂史著)
『磯釣り』(桜井裕著)
『ワカサギ釣り』(葛島一美著)
という具合である。
この調子では,かなり本格的な『スポーツ哲学』『スポーツ思想』の本を書いても,分類は「哲学」ではなくて「芸術・美術」であり,「スポーツ書」コーナーに並ぶことになるのだろう。こうなると,スポーツということばをタイトルに用いることが間違いだ,ということになろう。思いっきり抵抗しても『思想としてのスポーツ論』どまりだろう。それでも,やはり,一般の「スポーツ書」扱いになってしまうのだろう。
この隘路から脱出するアイディアがあったら教えてほしい。心底,困り果て,悩んでいるのだから。
_ Czahgstjhgsjhg [http://www.buyxanaxdiscount.com#49732 xanax no prescriptio..]
_ Ogayusysuuas [http://www.buydiazepamhere.com#14128 can you buy valium on..]
_ Ogayhsfysuus [http://www.bestcheapphentermine.com#62601 where to buy phe..]
_ Ogattsyusuus [http://www.bestcheapphentermine.com#29675 phentermine 37.5..]
_ Ozvauihfsuihsi [http://www.tobuyambien.com#20162 buy ambien online no rx -..]
2009-11-08 「詩のボクシング」雑感。
_ 今日の新聞に「詩のボクシング」が大きく取り上げられていた。高校生を中心に,小中学校にもその輪が広がっているという。
もう,ずいぶん前になろうか,テレビ番組でプロの詩人たちが「詩のボクシング」を展開していたことを思い出す。ねじめ正一,島田雅彦,などが真剣勝負をしていて,なかなか迫力があった。それがいまでは高校生に引き継がれていて,教育現場で活用されているという。しかも,地区予選を勝ち抜いて,全国大会まで開催されているという。一度,覗いてみたいなぁ,と思う。
「詩のボクシング」というと,なんだか変な感じがするが,要するに1対1の対人競技だと思えば納得できる。ただし,判定はむつかしいだろうに,とは思う。しかし,日本には句会の伝統があり,その場でお題を頂戴して俳句をつくり,参加者の互選で順位を決めるという方法が定着している。だから,意外にすんなりと優劣の判定はできるのだろうと思う。教室などで,1対1の組み合わせをつくって,その場で詩のテーマを提示して,即興で詩を朗読する,それを拍手の大きさで決めてもいいし,多数決で決めてもいいだろう。結構,ゲーム感覚で楽しめるかもしれない。新聞の記事によると,ふだん運動が不得手でおとなしい子が,詩のボクシングで頭角をあらわし人気者になるケースがある,という。みんな得手・不得手があるのだから,得手を発揮できる場を増やすことは大いに結構。
「詩のボクシング」はスポーツである,というと驚く人がいるだろうか。わたしにはなんの違和感もない。そのとおり。スポーツである,と思う。その根拠はスポーツの歴史をふり返れば明らかである。
たとえば,近代オリンピックの競技種目のなかに「芸術部門」が設けられていた時代がある(精確には調べればわかる)。絵画,彫刻,文学,音楽,舞踊,などに分かれて,それぞれ金・銀・銅のメダルが授与されたのである。わたしの記憶に間違いがなければ,1928年のオランダ・アムステルダム大会の文学部門の金メダルは,フランツ・メゾーの『古代オリンピックの歴史』という作品だった。しかし,運営上いろいろの問題が指摘されるようになって,短命に終わってしまった。芸術の優劣を判定するのは,たしかにむつかしいとは思う。しかし,映画の国際コンクールはいまも健在であるし,音楽のコンクールも行われている。絵画・彫刻も,そして,文学だって,やればできる。いまからでもいい。復活させることに賛成である。もっとおおらかに楽しめばいいではないか。柔道の判定をみていても,日本では一本勝ちとなる「内股すかし」が,逆の判定をされ負けにされてしまった篠原選手の例もある。オリンピックとはいえ,その程度のものだと思えばいいのだ。そのうち,判定の仕方も上手になってくる。最初から完璧はありえない。「詩のボクシング」だって同じだと思う。
ついでにもう一つの話。古代ギリシアの四大祭典競技といえば,オリンピア,ネメア,ピュティア,イストミアの四つの祭典競技のことだ。詳しいことはきちんと調べなくてはいけないが,とりあえず,わたしの記憶でわかる範囲のことを書いておこう。たとえば,ネメアの祭典競技は,即興の詩と歌からはじまった,といわれている。そのことは,パウサニアスの『ギリシア旅行記』のなかに記述されている。つまり,その場で題を提示され,即興で作詩・作曲して歌うのである。これがネメアの祭典競技のはじまりだった,と。しかし,オリンピアで行われていたスポーツ競技に人気がでてきたので,ネメアでもそれを取り入れて行うようになったのだ,という。
こういうことを考えてみれば,「詩のボクシング」は立派なスポーツである,と言ってなにはばかる必要もない,とわたしは思う。もっとおおらかに,インターハイの競技種目のなかに「詩のボクシング」を取り込めばいい。あるいは,「詩のボクシング」の甲子園大会を開催すればいい。
呪術儀礼をみればわかるように,もともと,歌と躍りはセットであった。つまり,一人の人間が唄って踊っていたのだ。しかし,時代がくだるにしたがって,専門職として分離,近代に入ると専門分化し,まったく別の分野として区別されてしまった。それはそれとして,もともとの形態のものもあっていいではないか,とわたしは思う。
21世紀スポーツ文化研究所の基本的な考え方としては,こんなことも考えている。つまり,21世紀の新しい「スポーツ文化」は,もっともっと多様化していけばいい,と。そのなかには「先祖帰り」するものもあっていいのではないか,と。まあ,要するに,楽しいことはどんどんやっていこう,と。ジャンル分けなどは不要。むしろ,カオスを求めて。より豊穣なスポーツ文化を模索して。
とまあ,あらぬ方向にまできてしまったが,こんな夢想を描いてみるのも楽しいではないか,とわたしは思うのだが・・・・。みなさんのご意見を。
_ antabuse [e, 206237 http://ginagore.com does quickly work zithromax..]
_ Czahefgui [http://www.buypriligynow.com#82260 priligy where to buy - ..]
_ cialis online pharmacy [e, 206237 http://convergencedance.com over the counter cl..]
_ cipro hc otic [a, 206237 http://convergencedance.com serophene, http://n..]
_ blister tounge zithromax [f, 206237 http://ginagore.com zithromax, http://goldcoast..]
2009-11-09 カズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を読む。
_ 忙しいときに限って小説が読みたくなる。困った性分だ。ほとんど無意識のうちに買い込んである小説に手がのびていく。
今回は,やはり,西谷修さんの『理性の探求』のなかにも1章を割いてとりあげられているカズオ・イシグロの作品に手がのびていった。西谷さんは,カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』と『日の名残り』を取り上げて,もののみごとに批評の言説を展開している。わたしも,この両著とも読んでいたので,なるほど,西谷さんはこんなところにまで目配りをし,紙背にあるものを読み取っているんだ,と驚きつつ感動した。そういう印象がつよく残っていたからなのだろうか,以前から気になっていた『わたしたちが孤児だったころ』に手がのびるのはごく自然ななりゆきだった。
文庫本とはいえ500ページを越す大作である。しかし,息次ぐ暇も与えないほどの迫力で読む者を最初から最後まで圧倒する,とんでもない作品である。作品の構成,仕掛け,展開,描写,等々どれひとつとってみても過不足がないどころか,みごととしかいいようがない,そういう作品である。読後は,しばらくの間,なにも手につかない。なんだったんだ,この小説は・・・と最初からストーリーを反芻することになる。
中国・上海でアヘンを取り扱うイギリス商社マンの子どもとして育った主人公が,老後にわが人生を振り返る,カズオ・イシグロが得意とする「回想」ものである。1930年ころの少年時代の回想にはじまって,1937・8年のアヘン戦争をめぐる騒動を軸に,主人公の詩と真実が,これ以上の手法はありえないと思われるほどの工夫のもとで展開していく。
上海租界にあるイギリス商社の広大な敷地をもつ社宅で,なに不自由なく友達と遊びに熱中する,時間が止まったような「思い出」が,詩情豊かな文体で描かれ,一気にカズオ・イシグロの世界に引きこまれていく。しかし,ある日突然,悲劇がやってくる。商社マンの父が,なにものかの手によって誘拐されてしまう。それから間もなく,こんどは母親が誘拐される。主人公は,あっという間に「孤児」となり,イギリスの伯母のもとに送り返され,「孤児」として育てられる。しかし,伯母の遺産に支えられて,孤児である主人公は経済的にはなに不自由のない生活を送る。ケンブリッジ大学を卒業後も,遺産を頼りに,探偵としてスタートを切る。ここまでのところに,後半の意表をつくストーリー展開の伏線が,すべて書き込まれている。それがまた小気味いいテンポで展開する。そのネタばらしをしてしまっては,この本を読む楽しみがなくなってしまうので,このあたりで止めておく。
とても勉強になったのは,以下のことがら。
アヘンを取り扱うイギリス商社をめぐるあくことなき利益中心主義,それを支えるイギリス上流社会の精神の腐敗(自己中心主義),中国人蔑視,国民党も共産党も「軍閥」と手を結んで暗躍する熾烈な権力闘争,日本帝国主義による中国侵略の実態,そこに複雑にからむ「男と女」の確執,陰謀,裏切り,なんでもありの世界を露呈させる戦争,少年のロマン,名探偵の詩と真実,などなど。
松田道雄さんの論法を借りれば,ヨーロッパ近代が「発明」した「理性」の最初のボタンをひとつかけ違えたことに気づかないまま,それを正しいと信じて(つまり,「合理性」を信じて)最後まできたら,ボタンとボタン穴のどちらか一つが残ってしまった,その間違いをひた隠しにするために,政治・経済・軍事力を背景にした「正義」の名のもとに「真実」をねじ伏せて,その辻褄合わせをする,そういう巨大な「暴力」の構造が,わたしの脳裏をかすめていく。
困った。こんなに興奮してしまっては,つぎなる仕事にとりかかれない。どうやって頭を冷やそうか・・・。やはり,バタイユを読むしかないか。
_ buy valium online [http://www.diazepamonlineforsale.com#89655 buy valium over..]
_ buy phentermine online [http://www.phentermineonlineforsale.com#85043 buy phenterm..]
_ buy phentermine online [http://www.phentermineonlineforsale.com#85043 cheap phente..]
_ buy valium online [http://www.diazepamonlineforsale.com#89655 buy valium diaz..]
_ buy valium online [http://www.diazepamonlineforsale.com#23788 cheap valium xa..]
2009-11-10 バタイユの『エロスの涙』を読む。
_ 昨夜のブログの予言どおり,なにも手につかないので,バタイユの『エロスの涙』を読むことにした。というより,眺めることにした。
ちくま学芸文庫とはいえ,この本もまた350ページに及ぶ大作である。とはいえ,図版が圧倒的に多くのページを独占しているので,まずは,なにも読まずに図版を眺めることにした。もう,何度も読んだ本なので(といいつつ,ほとんど忘れてしまっているのだが),あまり頭をつかう必要もない,となめてかかったのが間違いのもとだった。
図版といえば聞こえはいいが,すべてそれぞれの時代や社会を映し出す「エロティシズム」の図版である。よくぞこれだけの図版を集めたものだ,と驚くばかりである。以前,院生さんにこの本を紹介したら,「なーんだ,エロ本じゃないですか」といわれ,ショックを受けたことがある。ただ,眺めているだけだったら,立派な「エロ本」である。
現実にも,本国フランスでは発禁処分にされ,長い間,日の目をみることはなかったという。しかし,こんにちのわたしたちが手にとって,二百数十点にもおよぶ図版を逐一,解説もふくめて熟読玩味してみても,いわゆる「発禁本」になりそうなところはどこにもない。ましてや,バタイユの本文を読めば,間違いなく哲学(精確にいえば「非哲学」というべきか)の本であることは歴然としている。しかも,エロ本のつもりで読む人には,バタイユがなにを言っているのかほとんど理解不能であろう。もし,この本がフランスで発禁本になったとしたら,テクストの末尾にある1925年の撮影とされる中国青年の「百刻み」の刑の,なんとも残酷な一連の写真によるのではないか,とわたしは考える。この写真は,バタイユの他のテクストにもしばしば用いられている有名なものである。両手・両足を切断されているにもかかわらず,なお,この青年は恍惚の笑みを浮かべている。ここに,バタイユは,究極のエロティシズムをみている。バタイユはつぎのように述べている。
「突如として私に見えてきて,私を苦悶の中に閉じ込めてしまったもの──しかし,同時に,そこから私を解放してくれたもの──それは,神々しい恍惚に極度の恐怖を対置する完璧な反対物の同一性であった。」
いきなり,こんな話を書いてしまうとびっくりされる方が多いと思う。しかし,日本語の「エロス」や「エロティシズム」の含意があまりにも歪曲化されている節があるので,あえて,このような文章を引用してみた。バタイユにとっては,「エロティシズム」こそ人間存在のもっとも根源に横たわっているものであって,「死」を意識しはじめた原初の人間(ヒトが人間になったばかりの,ほやほやの人間)にして初めて「エロティシズム」の誕生をみることができる,と。このことが書きたくて,今夜のブログを書き始めた次第。
で,読み終えたばかりなので,書きたいことは山ほどあるが,このところ西谷さんの『理性の探求』を何回も読み返しているので,人間の「理性」の始原をバタイユはどのように考えていたのか,ということだけをここでは紹介しておきたいとおもう。まず,バタイユの該当する文章を紹介しておこう。
「・・・動物が人間になったのは,労働によってなのだ。労働は,なによりもまず,認識と理性の基礎であった。道具や武器の製造は,われわれがそれであったところの動物を人間化した初期の理性的思考力の出発点だったのである。人間は,材料を加工することによって,それに自分が与える目的にそれを適合させることができるようになった。けれども,この操作は,ただたんに彼がそれを割ることによって望み通りの形を与えられる石を変えただけではない。人間自身も変わったのだ。あきらかに労働によってこそ,人間は人間的存在に,すなわちわれわれのような理性的動物になったのである。」
いわゆるバタイユの文章としては,こんなに単純明解な運びに出会うことは珍しい。このテクストのなかでも,そんなに多くはない。しかし,このあたりの説明はじつに明解である。だから,とくに解説を加える必要はまったくないと思う。「ヒトが人間になる」ということは,バタイユに言わせれば「理性的動物になる」ということであり,そのきっかけとなったのは「労働」であり,「道具」や「武器」の製造だったのだ,と。そして,こうした「理性的動物」になることと「エロティシズム」の誕生は不可分であった,とバタイユは考える。その論理については,ここでは割愛させてもらう。ぜひ,このテクストにあたって確認してみてほしい。少なくとも『宗教の理論』を通過した人間にとっては,こんなに単純化して,言い切ってしまっていいのだろうか,と訝られるほどの明解さである。
じつは,このテクストはバタイユが,死の病と闘いながら,最後の力をふりしぼるようにして書いたものだと言われている。だからというべきか,余分な説明はいっさいはぶいて,ズバリと結論を述べている。その空白を図版で埋め合わせろ,と言わぬばかりに。
林好雄さんの「解説」によれば,バタイユもこの本のできばえには大いに期待していたようである。たとえば,バタイユ自身も以下のような記述を残しているという。
「この本を,これまでに私が出版したどの本よりも見事な本したい」(1960年3月5日)
「それは,私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最も親しみやすい本になるに違いない」(同年12月16日)
親しみやすく,わかりやすく,というバタイユの気持ちが伝わってくる。その意味では,バタイユ理解にはうってつけの本でもある。
エロ本を読むような感覚で「哲学」を学ぶことができる・・・こんな凄い本はバタイユ以外にはだれも書けない,と言っても過言ではなかろう。しかし,恐ろしい本でもある,とだけひとこと断っておく。
「
_ Ogaydfsuysuus [http://www.purchaseambienonline.net#23118 buy ambien onlin..]
_ Czahgstjhgsjhg [http://www.buyxanaxdiscount.com#49732 xanax no prescriptio..]
_ Ogayusysuuas [http://www.buydiazepamhere.com#14128 buy generic valium on..]
_ Ogayhsfysuus [http://www.bestcheapphentermine.com#62601 cheap phentermin..]
_ Ogattsyusuus [http://www.bestcheapphentermine.com#29675 buy phentermine ..]
2009-11-12 未来に開かれているということ。
_ 勝利至上主義にからめとられてしまったスポーツに未来はあるか,という問いを発したとしよう。そのとき,わたしたちはどのように応答することができるのだろうか。
今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』はそうした問いに対する,一つの気宇壮大な応答であったとわたしは受け止めている。だからこそ,その思考の深さとひろがりに深い感銘を受けた。そして,必死になって考えた。そこではサッカーを主題にして,さまざまな角度から鋭い「批評」が展開されていた。では,スポーツ全般を対象にした,普遍的な「スポーツ批評」は可能であろうか,と。
もう一つ気がかりになっていたことは,2年後に迫ってきた第2回日本・バスク国際セミナーのテーマである「グローバリゼーションと伝統スポーツ」に対して,どのように応答していくべきか,そのためのスクリプションを書かなくてはいけないということ。ここでいう「グローバリゼーション」も,スポーツに置き換えれば,そのまま「勝利至上主義にからめとられてしまったスポーツ」そのものである。残念ながら,こんにちのスポーツ情況は,どんなに欲目に考えたとしても,「勝利至上主義」のもとに自己完結し,自閉してしまっている。わずかに,それではいけない,という小さな声が聞こえるだけだ。そして,「勝利至上主義」に対抗できるだけの説得力のある,そして,わかりやすい論理,あるいはかちっとしたグランド・セオリーは杳としてみえてはこない。ただ,ベクトルとしてはこちらの方向ではないか,という提案ができるにすぎない。こういう情況からなんとか早く脱出したい,また,そうしないことには,2年後に迫ってきた「グローバリゼーションと伝統スポーツ」というセミナーに対応できない,と焦りすらある。
ちょうど,そんなタイミングを見計らったかのようにして,西谷修さんの『理性の探求』が刊行された。ここでいう「理性」とはどういうことなのだろうという,それこそ根源的な「問い」がわたしのなかには最初からあった。だからというべきか,このテクストのなかで,ピエール・ルジャンドルによる「理性」の再解釈なるものに出会ったときには,思わず膝を打ったものである。いわく。「なぜ」という根源的な問いに答える作用,これこそがこれからの「理性」として再解釈すべきだ,と。そうしないと,ヨーロッパ近代が発明した「理性」は「合理性」なるものにからめとられてしまっていて,もはや自己完結し,自閉してしまったために,そこから身動きができなくなってしまっている,と。
だから,西谷さんのこのテクストは,わたしにとっては,どこを読んでみても「グローバリゼーション」の呪縛からいかにして離脱し,もう一つの「理性」に移行していくべきか,というようなある種の啓示のように読めてしまう。深い思考は世界を考えるための普遍に触れているだけに,それがそのまま「スポーツ文化論」を語るための理論装置として転用が可能となる。ここを手がかりにして,わたしも新たな「スポーツ文化論」や「スポーツ批評」を展開することができる,と。
これから時間をみつけては,『理性の探求』のスポーツ史的読解を試みてみようと思う。それがとりもなおさず,わたしのこれからの「スポーツ批評」の重要な砦となるはずだから。
最後に,そのことをはっきりとわたしに自覚させた西谷さんの文章を転記しておきたい。それは以下のような文章である(P.194)。
廃墟のなかに構築とは別の生成を見出し,制作や構築を超える「非人間的」な作用に目を向けることは,人間の制作がつねに凌駕されてあるということを当然のように受け入れることでもある。ただしそれは,想像を何か神のようなものに託すということではなく,歴史も果てしなく生き死にを繰り返す人間の営みに属するものだとして,ただし人間の世界もまた人間だけに自閉しているのではなく,風や光りや時間や,あるいは他の生き物たちにも開かれているということを,世界を受けとめる意識のうちに織り込むことである。そして人間は,みずからを超えたものに凌駕される限りで,とどきつまりは生命世界の全体や宇宙の生成変化に開かれている限りで,未来に開かれているということである。
すべてを制御しようとする工学的欲望が世界を覆って挽き臼にかけるような狂気の時代に,なお人間の未来を語りうるかどうかは心もとないが,ひとつひとつの生が反復される限り,言いかえれば生命の気圏がある限り,ひとは破滅の彼方ではなく,可能な生存のありようについて考える。そんなとき,その思考に形を与えて促すように,宇佐美圭司の無限連鎖する絵画宇宙が曼陀羅のように広がっている。
※〔注記〕宇佐美圭司の絵画宇宙については,わたしもいつか論じてみたいと思っている。西谷さんは,この人の絵画に早くから注目していて,みずからの本のカバーのデザインを依頼したりしている。たとえば,ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』,ピエール・ルジャンドルの『西洋が西洋について見ないでいること』,『ドグマ人類学』,など。わたしもいつのまにか大きく感化されていて,この人の絵を眺めながら,あれこれ考えることは多い。荒川修作と同じ世代で,しかも世界的に活躍している画家のひとりである。
_ Ogayhsfysuus [http://www.bestcheapphentermine.com#62601 buy cheap phente..]
_ Ogattsyusuus [http://www.bestcheapphentermine.com#29675 cheap phentermin..]
_ Bzaufisjdkjdh [http://www.tobuyambien.com#26839 buy ambien no prescriptio..]
_ Kozafvsuyxyud [http://www.buytopamaxnow.com#74988 topamax side effects ra..]
_ Nzhaufshsuih [http://www.tramadolovernightstore.com#39193 buy tramadol n..]
2009-11-13 つつじの花の「狂い咲き」
_ 鷺沼の事務所への通り道に小さな公園がある。そのフェンスに沿ってつつじが植えてある。そのつつじに,ところどころにいま花が咲いている。
思わずわが目を疑った。近づいていって確かめてみたが,間違いなくつつじの木に咲いた花である。よく蔓草のようなものが巻きついていて,つつじによく似た花を咲かせることがある。それにしても季節が違うと思いながら確認した。つつじの花が,それも間隔をおいて,3〜4株の木に咲いている。しばらく立ち止まって考えてしまった。雪の季節になって桜の花が狂い咲きした,というようなことは時折,ニュースになって流れることがこれまでにもあった。しかし,つつじの花は聞いたことがない。
ことしの夏も秋口も,なぜか夏らしさを感じなかったし,秋になったなぁという感慨もなかった。秋晴れの透き通るような青空も数えるほどしかなかったように思う。そして,気づいたら,今日はとても寒い。新聞の予報では最高気温は14℃だという。もう立派な冬である。街中を歩く人もコートを羽織っている人が目立つ。わたしはようやく革ジャンを引っ張りだしてきて,バスクのべレー帽を被り,2年前のスペイン・バスクのセミナーを思い出して気分は上々。そんな気分で歩いていたら,つつじの「狂い咲き」に出会ってしまった。
自然界にもいろいろのことがむかしからあって,地球も暖かくなったり,冷たくなったりを繰り返してきた。そのつど,人間もたいへんな目にあってきた。そうして淘汰されながら生き残ったのがこんにちのわれわれである。適者生存と生物学ではいうが,この「適者」とはいかなる人間のことを意味するのか,じつはむつかしい。
新自由主義なる風がひところ強く吹き,「勝ち組」と「負け組」を生み出した。ここでは,「勝ち組」が適者で「負け組」は不敵者扱いをされている。つまり,強いものが勝ち残り,弱者は沈没していく。そして,「負け組」に自己責任の名をかぶせて合理化し,片づけようとしているかにみえる。これもまた一つの適者生存。
「負け組」のなかからはなんとかして生き残ろうとする意志強き人びとも立ち現れる。ときには,反権力をかざして,非合法な手段に訴える者も現れる。「勝ち組」は,いかなる理由で「負け組」が誕生したのかという,根の深い「理由」には徹底して「フタ」をし,自分たちの立場を合理化することにのみ専念する。その合理化が済めば,圧倒的な武力を行使してでも「テロリスト」という名の「負け組」を殲滅させることに狂気ともいうべき情熱をそそぐ。
さきほどの,つつじの「狂い咲き」の伝でいえば,植物の世界ですら狂いが生じている。動物の世界でも同じような異変を『ナショナル・ジオグラフィック』などをみていると知ることができる。しかし,もっとも狂ってしまったのは,どうも人間ではないか,と思う。しかも,もっとも狂ってしまったのが,どうやら「勝ち組」といわれる人びとではないか,と。
つつじは,みずからの意志で「狂い咲き」しているわけではない。むしろ,狂わされてしまった,というべきだろう。動物にしたって同じだ。自然の法則どおりに生を紡いでいるうちに,どこかのスイッチが狂わされてしまっただけの話だ。人間も同じように,狂わされてしまった,と言ってすまされるだろうか。
それは違うだろう。なぜ,狂わされてしまったのだろうか,という根源的な「問い」に応答する作用としての新たな「理性」を立ち上げることが,現代世界の「狂気」から離脱し,移行するための喫緊の課題ではないか,と西谷さんの『理性の探求』(岩波書店)は教えてくれる。「勝ち組」の人のなかにも,どこか奇怪しい,われわれは狂わされてしまっている,と気づいている人たちがいる。また,「負け組」の人のなかにも,もちろん,同じように考えている人たちがたくさんいる。しかし,狂わされてしまったのは「なぜ」なのか,と問う人は少ない。まずは,この現代世界を覆ってしまった「狂気」が,どこからはじまったのかという「根源」的な「原因」「理由」「根拠」を問うことからはじめよう,と西谷さんは投げかける。これこそが,本来の「理性」(=reason)ではないか,と。ヨーロッパ近代の生み出した「理性」は,科学主義を生み,資本主義を合理化し,巨大産業を生み出し,数量的合理主義を徹底させ,知性や効率主義に過剰な価値をおき・・・,という具合にして,いつのまにやら「狂気」に到達してしまった。こうしたヨーロッパ近代の文化的土壌のなかから,スポーツ文化が誕生し,いつのまにやら「勝利至上主義」という「狂気」に到達してしまった。しかも,このことに気づいている人もまだまだ圧倒的少数派にすぎない。ましてや,実際に行動を起こしている人にいたっては奇人・変人あつかいである。
いま,わたしたちは「狂気」の真っ只中に生きている。しかも,この「狂気」に適応して生き延びていくことが,まるで適者生存であるかのように,メディアの情報は操作されている。
今日,オバマ君が台風のようにやってきて台風のように去っていく。たった一日だけの滞在。沖縄基地問題について,メディアがどのような報道をするか,わたしの目はその一点に集中している。最初から,日本のメディアの腰が引けている。そうではなくて,お互いがお互いの立場からの主張を出し合って,その上で「折り合い」のつけどころを探る,古今東西,むかしから人間はそうやって,それぞれの可能な生存のありようを模索してきたはずだ。それが,本来の「歴史」ではないのか。はじめから勝負がついているかのような「試合」は,だれも見向きもしない。
今朝の,つつじの「狂い咲き」に出会った,その一瞬,わたしのからだの中を稲妻が走った。
グローバリゼーションの問題系を考えるための一つの大きなテーマがここにも存在する,と。
_ Czahgstjhgsjhg [http://www.buyxanaxdiscount.com#49732 xanax no prescriptio..]
_ Ogayusysuuas [http://www.buydiazepamhere.com#14128 buy valium australia ..]
_ Ogayhsfysuus [http://www.bestcheapphentermine.com#62601 buy phentermine ..]
_ Ogattsyusuus [http://www.bestcheapphentermine.com#29675 buy phentermine ..]
_ Ozvauihfsuihsi [http://www.tobuyambien.com#20162 buy ambien uk online - ge..]
2009-11-14 一陣の風がとおりすぎていく。
_ 昨日のブログの公園のなかを,今日は横切ってとおりすぎようとしたとき,一陣の風がとおりすぎて行った。おやっ,と思って立ちどまってしまった。
『風がつよく吹いている』は三浦しをんのランニング小説で,いま,映画化されて話題となっている。この「風」はランナーが走っているときに感ずるものだ。映画はみていないが,小説は限りなく面白いのでお薦めである。最近,スポーツを主題にした小説がつぎからつぎへとでてくるが,この作品は秀逸である。この本を読んでおくと正月の箱根駅伝を鑑賞する眼が,ワンランク・アップすること間違いなしである。
今日,わたしが感じた「一陣の風」はそれとは違う。公園のなかを横切るようにして歩いているとき,突然,ザワザワザワっと音を立てて,ひとかたまりになった風がとおりすぎて行った。その一陣の風がとおりすぎたあとは,なにもなかったかのような静寂だけが残った。いまのはなんだったのだろう,と思わず立ちどまってしまった。これに似た経験は,むかしから何回もしていて,そのたびに「なにか」を感じていた。
アメリカ・インディアンの伝承によれば,人は死ぬとき一陣の風となって「旅立って」いくという。そういう小説も読んだ記憶がある。主人公は何月何日に死ぬと予告する。それを周囲のみんなが励まして応援し,予告どおりに死の旅にでられるようにサポートする。そして,予告どおりに死を迎える。最後にお礼のことばを述べて,旅立つ。そのとき,一陣の風となって舞い上がる。それをみんなが眼で見送るのである。本の題名がでてこない。残念。その後,「千の風になって」という歌が流行ったときに,ああ,これはアメリカ・インディアンの伝承と同じだ,と思った。
今日の風はこれに似ていた。しかし,立ちどまってよくよく考えてみたが,少しだけ違うようだなぁ,と思う。そのとき,ふっと思い出した景色がある。それは眼下にたばこ畑が広がる小高い岡の中腹にあるバスの停留所。場所は,愛知県の渥美半島のとある村。「福祉村」と名づけられた医療施設のある老人ホーム。ここに3年ほど母の見舞いに通った。最後の1年は,見舞ってもわたしをだれであるか,母は認識できない。この1年は見舞うのが辛かった。その母の意識が少しずつ薄れはじめたころのことであったと思う。つぎのようなことがあった。
この「福祉村」からでるバスは1時間に1本。なので,母を見舞うときは,帰りのバスの時刻を確認しておく。話が通じたころは3時間くらいいて,さよならをする。その時間が徐々に短くなっていく。母が疲れて眠ってしまうのだ。そして,時折,意識が朦朧としてくることがあった,そんなときだったと思う。「また来るでのん」(三河の方言)と言って母の手を握る。意識が朦朧としているはずの母の手に,珍しく力が入った。しかし,眼はつむったままである。すぐに,その力は抜けたので,そのまま帰路につく。そして,バスの停留所についたが,つぎのバスまでにはたっぷりと時間がある。そこで,近くの竹藪の陰に入って夏の強い日差しを避け,眼下のたばこ畑をぼんやりと眺めていた。そのときである。風もなにも吹いていなかったのに,突然,ザワザワザワッと音を立ててひとかたまりの風がとおりすぎて行った。そのあとはすぐにもとの静寂にもどった。いまの風はなんだったのだろう,と何気なく考えてみる。たしかに,「なにか」がとおりすぎて行った。なんだろう・・・と。突然,さっき別れてきたばかりの母の顔が浮かんできた。急いで病室に引き返す。母はスヤスヤと静に眠っていた。
それ以後である。母がわたしを認識できなくなったのは。そのつぎに見舞いに行ったときは,わたしの顔をみるなり,「どなたさまでございましょうか」「ご親切にありがとうございます」などという。口調ははっきりしている。初めは冗談を言っていると思って,適当に返事をしていたが,いつまで経ってもその種の会話がつづく。途中で気づいたときは鳥肌が立った。じっと母の顔をみる。母もわたしをじっとみている。不思議な「見つめ合い」であった。
一陣の風がとおりすぎていく。あとに残るのは静寂のみ。そして,母の顔。
そうか,母の記憶を喚起させる風だったのか。
事務所に到着してからも,ずっと母の記憶をつぎつぎに思い浮かべていた。不思議なことに,最後の死に顔から徐々にむかしにさかのぼっていって,次第に若いころの母の顔になっていく。次第に,わたしをみる母の眼がきびしくなってくる。それも当然ではある。子どものころは叱られてばかりいたのだから。
こうして書いていたら,どうも,いろいろの種類の「一陣の風」の記憶がわたしのなかに残されていることに気づく。いつか「風の記憶」という題で思い出話でも書いてみようかと思う。
あっ,いま,わたしの背後で「なにか」が動いた気配。ふり返る。なにもない。こんなことが最近多くなってきた。ついに,魑魅魍魎がつきまといはじめたか。困ったものだ。でも,嫌いではないから不思議だ。なにとはなしに仲良しになれそうにも思う。そういう自分が怖い。いや,それはすでに「わたし自身」ではない。「わたし」という名の「他者」に違いない。
_ buy valium online [http://www.diazepamonlineforsale.com#89655 low price valiu..]
_ buy valium online [http://www.diazepamonlineforsale.com#23788 order valium on..]
_ buy valium online [http://www.diazepamonlineforsale.com#23788 generic valium ..]
_ buy tramadol online [http://www.tramadolonlineforsale.com#27988 tramadol overni..]
_ buy tramadol online [http://www.tramadolonlineforsale.com#27988 buy online cod ..]
2009-11-15 ハッブル宇宙望遠鏡と「理性」
_ 「記憶の満天」(『理性の探求』のプロローグに相当する論文)を何回も読み返してみる。わたしたちの「理性」がいかに頼りないものであるか,ということを思い知らせてくれる。
わたしたちは明治の近代化政策をとおして広く浸透した,ヨーロッパの合理主義的な「理性中心主義」に依拠して,国家の制度や組織や法律を構築してきた。当然のことながら,教育もまたヨーロッパ伝来の「理性中心主義」に貫かれたものであった。だから,わたしたちは「合理的」「合理性」ということばに弱い。ここから「数量的効率主義」が誕生した。より少ない力でより多くの成果を。受験勉強をとおして,一流大学を目指す若者たちは,このことの意味をからだをとおして理解した。また,スポーツ競技をめざす若者たちもまた,より合理的で効率的な練習をして強い選手になるか,をからだをとおして競い合った。現代の日本の社会に生きている人間は,大なり小なり,こうした洗礼を受けて大人になった。
ところが,こうした「理性中心主義」には,最初から大きな落とし穴があった。そのことは意外に話題にはならない。わたしたちが信じて疑わない「理性」万能主義の考え方に,もう一度,「なぜ」という根源的な問いを発すること,そして,それに答える作用としての「理性」を取り戻そうではないか,と西谷修はいう。
「記憶の満天」の冒頭にでてくる話がおもしろい。「ビッグバンとか宇宙の『膨張』とか言うが,しかしそうして広がる宇宙の中心は確定できるのだろうか。中心のない宇宙の『膨張』とはどういうことなのだろう」と,ピンポイントで宇宙論の不明瞭な部分に対して「根源的な問い」を発している。しかも,「その昔西洋では,神が万物を創造したことになっていて,では天地を作り出す前に神は何をしていたのだろうかと教会で尋ねると,そういう罰当たりなことを考える不届き者のために神は地獄をお作りになったのだ,と一喝されたという」,というこれはよく知られた挿話をはさんで,「ビッグバンの理論が出てきて以来,宇宙論はますます神学に近づきつつあるように思える」と断言する。
宇宙論と神学が接近しつつある,というこの指摘は重大である。わたしたちのほとんどは宇宙論こそ近代的「理性」が到達した輝かしい成果の一つだと信じて疑わない。なぜなら,天動説に対して地動説を唱え,キリスト教の教義の呪縛から脱出するためにコペルニクスもガリレオも「からだ」を張ったことを知っているから。しかし,神学から離脱し,ますます遠くに移動したつもりの天文学や宇宙論が,気がついてみたらいつのまにやら神学と同じようなことをいいはじめているではないか,と西谷修はこのテクストの冒頭で指摘する。
この指摘は,生命科学がいつのまにやら宗教に限りなく接近している,という風評と近似していて,わたしにはとても刺激的であった。
しかし,西谷修は,ここから始めて,「簡単なことから考えてみよう」と提案し,きわめて具体的に面白い事例を取り上げる。たとえば,太陽の光が地球に到着するには約8分かかるから,かりに,いま,太陽が爆発して消滅したとしても地球にいるわたしたちは8分間は日光浴を楽しむことができる,という話をする。ここからはじまって,いま,ここで「見えている」ものの不確実性を説きつつ,わたしたちの「理性」は,いま,ここに「見えている」ことに信をおくことによって,はじめて成立しているのだ,と話を展開していく。
こうして<現在>とはいかなるものなのかと問い,宇宙からとどく星の光はすべて<過去>の現前にすぎないと答え,さらに現前する<過去>とはなにかと問い,「われわれが<記憶>と呼ぶものである」と応答する。こういう根源的な問いをみずからに投げかけながら,その答えを見つけ出していく,この営みこそが西谷修が提唱する「新たなる<理性>」であり,この<理性>を「探求」した論考がこのような本になりました,という仕掛けになっている。
これ以上の詳細についてはテクストに譲ることにするが,少しだけ要点を紹介しておきたい。宇宙論は時間で距離を表し(何億光年の彼方),それによって自分の在り処を確認しようとする,あるいは,闇の世界に光りを当てて肉眼で「見える」ようにする(これが「啓蒙」Aufklaerung)ことによって安心立命した気になる,こうしてわたしたちは「視野が開ける」という経験をするが,かりに宇宙を見るにしても望遠鏡という「道具」を用いて「観測」するにすぎない,それは「幻視」の世界とほとんど変わらない,ハップル宇宙望遠鏡とて宇宙の軌道を周回しながら宇宙の生成変化を「情報」として送り届けてくるにすぎない,そんな宇宙に「針の穴」を開けて,なにかを「発見」したといって一喜一憂している世界,これが,ヨーロッパ近代の発明した「理性」なのだ,と。この「理性」がいま,完全に隘路にはまってしまって,身動きとれなくなってしまっている・・・いまや「狂気」に到達してしまっているのでは,と西谷修は警告する。その「理性」にとってかわる新たな「理性」の探求を,と。
この宇宙論をてがかりにしたヨーロッパ近代の「理性」批判はきわめて説得力があり,いつのまにかハイデガーの『存在と時間』を大きく超克した,まったく新しい西谷修の『存在と時間』論を聞いているような錯覚を起こしたほどである。それはもう快感ですらある。
最後の西谷修の落としどころが,これまた,面白いので引いておく。
「ふと思い出すのは,荒川修作が岐阜の養老町に作った『養老天命反転地』だ。その窪んだ楕円の斜面を滑ると,自分がハップル宇宙望遠鏡の集光装置の上で遊ぶ虫になったような気がする。」
_ glucophage pcos [d, 206217 http://boointeractive.com/ampicillin.html ampic..]
_ prednisone 40 mg [b, 206217 http://fashion-information-center.info/vermox.h..]
_ stromectol scabies [c, 206217 http://johnfranzese.com/mobic.html mobic medica..]
_ mobic abuse [e, 206217 http://johnfranzese.com/mobic.html generic mobi..]
_ effexor [b, 206217 http://gameoverthefilm.com/cymbalta.html buy cy..]
2009-11-16 いよいよ追い込みに入る。
_ 仕事を断ることが下手なわたしは,いつのまにやらとてつもない量の仕事を引き受けていることにハタと気づき,あわてている。
なぜ,気づいたか。いま,やらなくてはならない仕事がどの順番かわからなくなってしまったからだ。もちろん,ボケもはじまっているから物忘れもひどい。それにしても,つい最近までは,今日はこれをやって明日はあれをやる,という手順が頭のなかに入っていた。しかし,それがここにきてパンクしてしまった。その証拠に,今日,事務所の机に坐って,さて,なにから手をつけようかと考えたときになにも浮かんでこないのだ。これには参った。
仕方がないので,とにかく,頭に浮かんでくる仕事をメモ用紙に書き出して,それぞれの締切り日をいれて序列をつけてみる。とりあえず,来年3月末を目処に一覧表を作成してみる。そうしたら,あるわあるわ,こんなにあったのか,とわれながら唖然としてしまう。このままでは,必ず,どこかでだれかに迷惑をかけてしまうことになる。どうやって切り抜けるか。その対策を練る。
むかしから仕事の裁き方が下手で,人の2倍も3倍も時間を要する。それでも締切りに遅れてしまう。思い起こせば,卒論のときからはじまっている。締め切り日の早朝に,半分しか仕上がっていない卒論をもって指導教官の家のブザーを鳴らしたことを鮮明に思い出す。奥さまがでて来られて,事情を話すと,こっそりと秘策を伝授してくださった。だから,先生は知らないことになっている。なるほど,こういう手があったのか,と人生の機微を教えられた。
その後も,それに似たような経験が,つぎつぎに起きる。でも,なんとかお情けをいただいて,こんにちまで生き延びてきた。だから,どんなにピンチに追い込まれてもなんとかなる,という妙な自信がついてしまった。今回もあわてているようであって,じつは冷静である。一覧表を眺めながら,このピンチを切り抜けるための智慧をしぼる。これがまた,囲碁の妙手と同じで,じっと考えていると妙案が浮かんでくるから不思議だ。
まずは,一覧表のなかの仕事を眺めていると,意外なことにパッと仕事の「段取り」がみえてくることがある。そういう仕事から,順々に,箇条書きで「段取り」を書き込んでいく。詰まったら,別の仕事の「段取り」を考える。半分以上の仕事の「段取り」がつくと,人間というものは不思議なもので,妙に,これでいける,大丈夫だ,と自分に自信がわいてくる。
長年,締め切り日に追われる仕事をしてきたので,ピンチに追い込まれないと仕事ができない,という悪いくせがついてしまったようだ。逆に,締め切り日のない仕事はさっぱり捗らない。仕事というものは,締め切り日があるからできるのであって,なかったらできない,少なくともわたしの性格はそうだ。いつもいつもカチカチ山の狸さんと同じで,背中に火がついて燃え始めると,ようやくエンジンがかかって走り出す。火はますます燃え盛る。熱くて仕方がない。だから,水場に向かってまっしぐら,ひたすら走るのみ。多少の火傷はするが,日を待たずして治る。治ると不思議な快感すら覚える。この快感がたまらない。これがあるから仕事はやめられない。つまり,苦しめば苦しむほど,なし遂げたあとの快感は大きい。やがて,中毒になる。自虐的に自分をいじめ抜いて,しかるのちに快感を得る。一仕事終わったあとの「お薬」はたまらない。こんな美味なるものが世の中にあったのか,とすら思う。だから,わたしはふだんは「お薬」は飲まない。いっさい飲まない。逆にいえば,情けないことにそんな余裕はないのである。
さて,気がつけばもう11月も下旬に入っている。あと一カ月半でことしも終わりだ。なんとまあ一年の早いことか。11月は学会があり,12月は集中講義があり,と言っている間にことしも暮れる。その間隙を縫うようにして,引き受けた「お仕事」を片づけなくてはならない。
それいけ,ワッショイだ。こうなったらお祭り気分でぶつかっていくしか方法がない。ワッショイとは,ハングルで「ワッセイ」といい,「神さまがやってくる」という意味だと聞いたことがある。神輿をかついで「ワッショイ」と言うのだから,なんとなく納得してしまう。そうだ,ワッショイ,ワッショイで景気をつけて,神の降臨でも待つとするか。
明日,事務所に行ったら,和紙に大きく「ワッショイ」と書いて壁に張ろう。そし,柏手でも打って,拝むことにしよう。不信心の神頼み。
_ nizoral [b, http://healthonlineshop.net/item.php?id=2857 risperdal..]
_ cheap clomid [d, http://healthpointer.info/item.php?id=5424 ampicillin...]
_ baclofen 10mg [d, http://brandmedications.net/item.php?id=830 viagra, ht..]
_ herbal replacement for plavix [f, http://kamergids.com/index.html generic plavix, http:/..]
_ plavix mail order [e, http://warwarrior.com/index.html tetracycline, http://..]
2009-11-17 テロリズムとドーピング問題。
_ 「テロとの戦い」と「アンチ・ドーピング」運動とを比較することには,最初から大きな無理がある。しかし,原理的にはとてもよく似たところがある。
誤解をされるといけないので,最初に断っておくが,「テロとの戦い」と「アンチ・ドーピング」運動とはまったく異質のものであって,その規模もレベルも性格もまったくの別問題である。にもかかわらず,よくよく考えて行ってみると意外なところに共通点を見いだすことができる。
で,結論をさきに述べておこう。この両者の共通点は,どちらも問題が発生したところから理論武装をし,みずからの立場を合理化している,という点である。そして,どちらも,「なぜ」このような事態が発生することになったのか,という根源的な問いかけをしない,という点である。むしろ,その点については徹底的に蓋をしてしまって,ことの真相を闇の彼方に置き去りにしようとしているかにみえる点も,また,みごとに共通している。
このことに,ハタと気づかせてくれたのは,『理性の探求』のなかの,3「平和」を駆逐する「安全」──三年目の九月に──という論考である。この論考のなかで西谷さんは,じつにわかりやすく「やってはならない戦争」を「やらなくてはならない戦争」へと道を開き,いつのまにやら「やってもいい戦争」に到達させてしまう論理を説明している。そして,この論理こそが,まさに,「9・11」の事件を出発点にして,このような事件を二度と発生させないためには,いかなる「暴力」も許される,ということを合理化し,周知徹底させる論法の典型的なサンプルとなっている。以後,イスラエルはパレスチナに,ロシアはチェチェンに,という具合に世界中の権力国家が弱者を好き勝手に攻撃して,なにはばからぬ雰囲気を国際世論として成立させてしまった。そこに徹底的に欠落しているのが,「なぜ」このような事態が発生したのかという根源的な「問い」である。そして,このような「なぜ」という「問い」と,それに答えようとする「作用」こそが,真の「理性」だと西谷さんは力説する。
この構図が,なんと,「アンチ・ドーピング」運動の論理にそのまま当てはまってしまうのである。「ドーピング」問題もまた,使用禁止薬物を権力者が一方的に指定して,それを使用したアスリートを一方的に処罰する。しかも,その使用禁止薬物一覧は年々,変化していく。よほどの専門家でないかぎり,使用禁止薬物一覧を認識してはいない。一般のアスリートはおろか,監督もコーチも,詳しいことは知らない。だから,風邪薬を飲むときにも,いちいち専門家に相談してからでないと,アスリートは飲むことができないのである。しかも,トップ・アスリートは,専門家に相談したあと,さらに飲んだ薬はすべて記録しておかなくてはならない。その記録がないと,試合に関係なく行われる抜き打ち検査で「クロ」とでると,立派な「ドーピング違反者」として処分される。
こんなに厳しいチェックが行われていることはトップ・アスリートであれば,みんな承知している。にもかかわらず,「ドーピング」があとを断たないのは「なぜ」か。オリンピックの金メダリストですら「ドーピング」違反に問われる人がでてくる始末だ。「なぜ」,トップ・アスリートの多くが「ドーピング」に走るのかという根源的な「問い」が,ここには欠落している。つまり,真の「理性」が機能することなく,歪曲された不思議なヒューマニズムの論理がまかりとおっている。すなわち,アスリートたちの身体の「安全」を確保するために,と。アスリートたちが身体の「危険」を犯してまでも,つまり,覚悟してまでも「ドーピング」に走る「理由」「根拠」「原因」(これらは英語ではreasonで「理性」と同義語)を「問う」ということはしない。むしろ,蓋をしてしまっている,と言ってしまっては言い過ぎだろうか。
「9・11」以後,アメリカ政府はこの事件の真相追求を,あるところで断念してしまった。一説によれば,真相を追求していくと自分の首を締めることになってしまうことにアメリカ政府みずからが気づいたからだ,という。この構図も「アンチ・ドーピング」運動とよく似ている。「ドーピング」問題もまた,その真相を深く追求していくと,みずからの首を締めていくことになってしまうからだ。この問題系については,かつて日本体育学会体育原理専門分科会のシンポジウムの席で,わたしはシンポジストの一人として,丁寧に説明したつもりである。しかし,ほとんど理解も支持もしてもらえなかった。詳しいことは割愛するが,結論だけは述べておこう。「ドーピング問題は,ヨーロッパの近代合理主義の論理によって導き出された論理的必然の是非が問われているのだ」,と。
ついでに言っておけば,「ドーピング」が問題になるのはスポーツ競技の世界だけだ,ということ。作家が「ドーピング」しながら小説を書いても,その作品の価値にはなんら関係はない。画家も作曲家も,もちろん演奏家も,なんのお咎めもない。問われるのは,いい作品,いい演奏だけである。この論法をスポーツ競技に当てはめれば,素晴らしいパフォーマンス,いい記録が問われるのであって,それ以外のことは関係ない,ということになろう。
「テロとの戦い」がいかに論理矛盾を起こしているかは多くの識者たちが指摘するとおりである。それと同じことが「アンチ・ドーピング」運動にも当てはまる。にもかかわらず,こちらの論理矛盾には,わたしのような人間が指摘してもほとんどの識者が反応すら示さない,という不思議な現象が起きている。もう,ほとんど「思考停止」状態と呼んでもいいだろう。「アンチ・ドーピング」運動に携わっている人たちは,アメリカの「正義」の側に立ち,完全に「自閉」してしまっていることにすら気づいていない。
_ подушки из латекса [a, http://dzelenin.com/ однотонное постельное белье, ]
_ плед из меха [a, http://dzelenin.com/poduski.html гелевая подушка, ]
_ wxgbotpuz [xGTvii <a href="http://kbnfqlzrioap.com/">kbnfqlzrioap</a..]
_ lgvyrnli [KMQBWJ <a href="http://rypgptszecbb.com/">rypgptszecbb</a..]
_ description levitra [f, http://muinosmedicalvisuals.com/index.html cialis 10 m..]
2009-11-19 「身体」は「物」・・・だなんて?!
_ なにかの事故で手を切断したときに,その手をだれかが悪戯して持ち去ってしまったら,現代のフランスの法理論では「窃盗」で告発することはできない,という。
こんな不思議な話を,『理性の探求』の第4章で,西谷さんは紹介している。そして,なにゆえにそういうことになるのか,という根拠をみごとに説明している。思わず唸ってしまった。その論理をここで解説することはわたしの力ではとても不可能なので(法律の専門家でも,法制史に通暁している人でないと不可能。たぶん,ルジャンドルのようなローマ法に詳しい人でないと無理。こんなときに,西谷さんが法学部の出身であったことを思い出して,納得する),そのなかの一部を引いて,わたしの関心事につないでみたい。
この話のネタは,『盗まれた手の事件──肉体の法制史』(ジャン=ピエール・ボー著,野上博義訳,法政大学出版局,2004)であることを,西谷さんはこの章の冒頭で明らかにしている。そして,つぎのように書いている。
「著者によれば,フランスの法理論では,切断された手を故意に持ち去った者を窃盗で告発することはできないという。窃盗とは,他人の所有物を不法に自分のものにすることだが,フランスの法律は「身体,それは人格である」を金言としており,身体やその一部を<物>として扱うこと,したがって所有の対象とみなすことを拒否している。手が<物>になるとしたら,それは身体から完全に切り離されたときだが(それには判例がある),その場合は,不意に出現したこの<物>には所有者がなく,たまたまそれを取得した者は,無主物に対する先取権を主張できることになる。だとすると「盗まれた手」の被害者を救済する途がない。この不都合はどうして生じたのか,そしてどう解決したらよいのか。」
こうしてはじまる西谷さんの「なぜ」の問いが冴え渡る。そして,それへの「答え」がまたみごとである。ぜひ,テクストを読んでみていただきたい。
原著者のボーは,すでに医療の世界では輸血や臓器移植のように,身体は<物>として扱われているし,科学者たちの身体への関心も「<物>としての組織であり,その構成要素であり,その機能である」のだから,法律もまたこの枠組みに合わせて,身体の所有権を認めるべきだ,という。そうすれば,切断した手を盗まれても,それを告発することができる,と。
このポーの主張に対して,西谷さんはいくつか面白い反論を展開する。そのひとつが,身体が<物>であるならば「殺人」は成立しなくなる,というものだ。話は簡単だ。<物>には生命がない。だから,仮にナイフを突き刺して殺すにしても,それは「殺した」のではなくて,「壊した」というべきだろう,と。だから,破壊罪は成立しても,殺人罪は成立しない,と。
ここで西谷さんが読者の注意を喚起しようとしていることは,科学も医療も法律もすべて立派な「理性」に支えられて成立しているはずのものなのに,その「理性」がいつのまにか身体から生命を切り離して,たんなる<物>として扱うことになんの疑念も抱かない,その「狂気」にある。
いささか論理の飛躍があるかのように思われる人がいるかもしれないが,ドーピング問題もまた,わたしにはまったく同根であるとしか思えない。科学的合理性という名の「理性」が,いつのまにか「生命」と「身体」を切り離し,強い「身体」をつくる(造る・製作する)という競争原理に巻き込まれ,そのことのためには手段を選ばず(勝利至上主義の悪弊),という「狂気」に到達してしまう。それはもう,「身体」から「生命」を抜き去った「理性」の,行き着くべき論理的必然であった,と。
だからこそ,この「理性」に,もう一度「なぜ」という根源的な「問い」を発し,新たな答えを導き出すことが必要なのだ,と西谷さんは言いたいのだ。それこそが書名となっている『理性の探求』ということの真意であるはず。スポーツの世界にも,こうした新たな「理性」を立ち上げるための「なぜ」という根源的な「問い」が必要。その論点の中核をなすものが,「身体」の中に宿る「生命」の問題だ。科学的合理主義という名の「理性」がどこかに置き忘れてきてしまった「生命」の問題系をいかにして復権させるか,ここがポイントであるとわたしは考えている。「身体」は「物」という発想は,いまや現代文明社会を覆い尽くしていて,まるで空気のようにわたしたちを無感覚にしてしまっている。
このごにおよんで,なおも,フランスの法制史研究者のボーが,「身体」を「物」として取り扱うべきだと主張し,そのための法の整備が必要だという。ちなみに,ボーはルジャンドルの教え子であることを西谷さんは,論考の最後のところで紹介し,つぎのように結んでいる。
「ついでに触れておけば,ボーはかつてピエール・ルジャンドルの学生だったという。そのために彼は西洋法体系におけるローマ法の規定性に注意を払い,また法の人類学的広がりにもいささかの注意を向けているが,<人格>が法的フィクションだというだけでなく,<人間>そのものがドグマ的構築であるというルジャンドルの思考の要諦は,ついに理解しなかったようである。」
_ fluoxetine [f, http://londonlaksa.com/tetracycline.html tetracycline,..]
_ generic zithromax [f, http://kuwaiten.com/cipro.html cipro, http://green-sky..]
_ can diflucan i monistat together use [f, http://emanuellamoon.com/ ergotamine tartrate, http://..]
_ acomplia + medication [f, http://allofbritain.com/ cheap cialis, http://hnvue.co..]
_ cialis for sale [d, http://aromasbus.com/ cigarette discount kent, http://..]
2009-11-21 竹内敏晴さんのことなど。
_ 昨夜は,とてつもなく面白い本を夢中になって読んでいて,気がついたら夜中の12時をすぎてしまっていた。そのために,このブログが一日,とんでしまった。残念。
よほどのことがないかぎり,毎日,書こうと覚悟を決めていたので,まことに残念。で,昨夜,書こうと思っていたことを書こうとしたら,ちょっと待て,というサインがわたしの背後からでた。こういうときは無理をしてはいけない,これがわたしの法則。無理をするとかならず火傷をする。そこで,今夜は少しだけ肩の力を抜いて,スローカーブでも投げてみたいと思う。
今日の夕刊(朝日)の「惜別」蘭に,演出家竹内敏晴さんが紹介されている。見出しタイトルは「ことば探り続けた『声の産婆』」とあり,「加藤修」というサイン入りの記事になっている。そのせいか,とてもこころの籠もったいい記事になっている。そして,竹内さんがやろうとしていたことを的確にとらえている。以前,このブログで叩いたことのあるどこぞの元東大教授とは大違いである。文章というものは怖いものである。一度書いたものは消えない。のみならず,一人歩きをはじめる。
しかし,それにしても竹内さんがもうこの世にいらっしゃらないなどとは思いたくない。お願いをすれば,ああ,いいですよ,と言って日程をやりくりしてくださり,またお会いできる,そんなイメージがまだ消えない。われわれのために特別に日程を割いてくださった,いまとなっては幻の9月2・3日のレッスン。どれほど楽しみにしていたことか。
竹内敏晴さん,本名は米沢敏晴,と今日の記事にある。これは初耳だった。竹内さんご本人からうかがったお話の記憶では(わたしの記憶も近頃は危ないかぎりなので,もし,間違っていたらお許しください),たしか,竹内姓は養子先の姓だとうかがった記憶がある。また,祖父に当たる人に柔術の名手がいらっしゃったとか(で,わたしは,では柔術の竹内流の系譜につらなる方ですか,と問うたことがある。いいえ,竹内流とは関係ありません,とのお答え),でも,ぼくは柔術ではなくて弓術の方に気持ちが向かったんだよね,とかまあさまざまなことが脳裏をよぎる。
竹内敏晴さんをしのぶシンポジウムを開催したのは,たぶん,われわれのグループだけだと思う。この記録は貴重なので,なんとかうまく整理をして,次号の『IPHIGENEIA』に掲載してみたいと思う。そして,できることなら,竹内敏晴さんを追悼する文章も集めてみたいと思う。それぞれ個別に,その濃淡はともかくとして,かなり強烈な影響を受けていることは間違いない。わたしなども,これまでに何回,竹内さんのご本を読み返したことだろう。そして,竹内さんのめざしたものがなにであったのか,そのたびに考えたものである。その結論は,今日の夕刊にも書かれているように,竹内さんは終わりのない旅を続けられたのだ,とわたしは思う。どこまで行っても「満足」というものには到達しない。まさに孤高の道を歩まれたと思う。
竹内敏晴さんのことを考えるとわたしはいつも若山牧水の短歌を思い出す。
白鳥は悲しからずや空の青,海の青にも染まず漂う
幾山河越え去りゆかば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく
いざ行かん行きてまだ見ぬ山を見ん,この寂しさに君は耐うるや
竹内さんのことを思い浮かべるとつぎからつぎへと・・・思い浮かぶことがつきない。やはり,また,いつか竹内さんをしのぶ会をやろうと思う。
さて,少しだけ別の話題に触れておきたい。
このところ,このブログに書き込みをしてくれる人がでてきて,ほんとうに喜んでいる。そして,これまでブログの書き込みには応答しないことにしてきたが,やはり,それでは失礼というものではないか,と考え始めた。で,この最近の書き込みに少しだけ応答したいと思う。
「虎mama」さん。秋に咲くさつきの種類がある,と聞いてびっくり。もう少し詳しい情報がありましたら教えてください。でも,わたしが公園でみつけたものは,間違いなく「狂い咲き」でした。というのは,一株のさつきのある特定の枝にだけ数個の花をつけているだけで,春のような満開にはなっていないからです。しかし,桜の花には秋に満開になる(年に2回開花する種類)がある,ということは最近の新聞に写真入りの記事が掲載されていて知ることができました。
月嶋さん。ものさしの話,わたしも同感です。わたしたちはいつのまにか,自分のものさしでしかものごとを考えることができなくなっている。もっと自由にいろいろのものさしを使ってものごとを考える思考の柔軟性が必要だと思います。つまり,こちこちの「理性」だけに頼りすぎ。自分のものさしだけが唯一正しくて,それ以外の人のものさしは全部間違っている,という人間がこのところ急激に増えているように思われて仕方がない。だから,間違っても「わたしが正義だ」などと,神ならぬ身であるわたしたちは勘違いしないこと,同時に「わたしが正義だ」などという狂気にも似た「理性」をもつ人間のことばを信じてもいけない。
瀧元さん。この問題は軽々に扱うわけにはいきませんので,仰るとおり,きちんとした論理を立てて論じてみてください。わたしのところに送ってくだされば,このHPのどこかに掲載するようにします。たとえば,「投稿論文」の枠組みのなかで。ぜひとも,挑戦してみてください。そういう文章もまた『IPHIGENEIA』に収録していきたいと考えています。
では,今夜はこの辺で。
_ tetracycline dose [c, 206187 http://fashion-information-center.info/vermox.h..]
_ avodart issues [c, 206187 http://fashion-information-center.info/vermox.h..]
_ vermox 90 pills [d, 206187 http://todayornever.com/bactrim.html bactrim ds..]
_ dosages prednisone [e, 206187 http://insurancelinknetwork.com/prednisolone.ht..]
_ allopurinol gout [c, 206187 http://nurturingnaturallylc.com/index.html pall..]
2009-11-23 愛知教育大学時代のこと。
_ 生まれて初めて定職につき,「月給」なるものがもらえるようになったのは満36歳のときだった。その最初の職場が愛知教育大学だった。
しかも,勤務したのはたった2年だった。にもかかわらず,この2年間はとても濃密な時間だった。そのときの最初のゼミに集まってくれた元学生さんたちが,ここ数年,毎年のように懇親会をセットしたくれるので,わたしも喜び勇んで参加するようになった。
その懇親会が昨日(11月22日)に愛知県知立市で開催された。知立市は愛知教育大学のキャンパスのあるところ。最寄りの駅である名鉄電車の知立駅に降り立って驚いた。満36歳のときに初めて知立駅に降り立ったときとまったく変わっていない。駅のプラットフォームも駅前のバスターミナルも,そのまま。あれからちょうど36年が経過している。わたしも来年3月には満72歳となる。36年間,なんの変化もない駅舎というのは,いまどき奇跡に近い。立ち寄って駅のトイレの場所も同じ。ただし,以前よりは少しだけきれいになっていた。
この日の幹事さんは,知立市の中学校の校長先生(女性)。午前10時に待ち合わせた数人を車に乗せて,まっすく愛知教育大学のキャンパスへ。これは,わたしの希望でそうしてもらった。知立市といえば八ツ橋の「かきつばた」が有名だし,旧東海道の松並木の一部が残されていることでも知られている。そちらを見てまわる選択肢もあったが,わたしは,初めての勤務大学であった愛知教育大学のキャンパスのなかを歩いてみたかった。これも36年ぶり。
精確にいえば,14,5年前に,特別講義のようなものを依頼されて,一度だけ尋ねたことがある。そのときは,車で送迎され,教室に直行して,終わったらそのまま懇親会になだれ込む,というスケジュールだったのでキャンパスのなかを散策するチャンスがなかった。なぜか,とても寒い日で,強い風が吹き,時折,雪が舞っていたと記憶する。
36年前には,知立駅の近くを通っている国道1号線を横切ると,家もまばらになり,あとは見渡すばかりの田んぼが広がっていた。その田んぼのなかのわずかに隆起した丘陵地を切り開いて,整地したばかりのところに真新しいキャンパスがあった。だから,駅からバスに乗って通勤していたころも,はるかかなたからキャンパスを臨むことはできた。しかし,いまや大学のキャンパスまでびっしりと家が立ち並んでいる。駅前の変化なしにくらべて,キャンパス周辺はまったくの様変わりに,これまたびっくり仰天。その多くは,学生さん用のアパートであり,食堂・レストランであり,飲み屋さんである。もちろん,それなりの娯楽施設もちゃんとある。
もっと驚いたことは,キャンパスのなかのたたずまいがまるで変わってしまっているということ。以前は,あちこちに広々とした芝生の広場があって,その中に建物が点在している,とてもゆったりとしたキャンパスだったはず。案内をしてくれ,また,同行した元学生さんたちも同じ印象を語る。しかし,いまや,そんな広場はどこにも見当たらない。一つは建物が増えていること。もう一つは,芝生の広場だったところが,なんと竹藪と雑木林に占拠されてしまっていること。だから,まことに狭苦しいことはなはだしい,という印象。あの芝生の広場に囲まれた広々としたスペースのど真ん中にあったはずの「50メートル・プール」がブッシュ(雑木林)に包囲されてしまって,なんだか泣きっ面をしていた。シーズン・オフなので水も抜かれていて,プールの底が剥き出しになっているので,ブルーのペンキがまだら模様にはげ落ちて無残な姿をさらしている。わたしのもっとも好きな風景だったところだけに落胆も大きい。歩きはじめたばかりの娘をつれてきてやると,とても喜んで,なかなか帰ろうとしなかったことを思い出す。
キャンパスのなかにある学生寮も塗装をしてないために,みじめな姿。野球場や陸上競技場も,周囲の立ち木が大きくなって覆いかぶさり,なんだか狭くなってしまったかと思う。図書館にも立ち寄ってみたが,ここももっと大きな建物だったように記憶するが,意外に小さいので驚く。それでも,よくよくみると増築している。だから,以前よりは大きくなっているはずなのに。
最後に,わたしが住んでいた教職員宿舎(キャンパスの北側に隣接)も覗き見してみた(車の中から)。ここも周囲の雑木が生い茂っていて,なんだかうらぶれたマンションにみえる。いま,ここに住めといわれたらお断りしたくなるようなみじめさ。ひょっとしたら空き部屋があるのでは・・・?
同行した元学生さんたちの意見によると,大学のキャンパスを維持・管理していくための予算が少なくて,竹藪を除去したり,雑木を伐採することができないのだそうな。だから,放置しておくしか方法がないのだ,とか。これもまた国立大学を「独立法人化」したことによるツケがこんなところに表出しているということなのだろう。研究と教育しかできない人間集団に,経営の責任まで背負わせた政治の責任は重い。いま,いわゆる「自由化」の結果として露呈してきた問題点が社会のさまざまなところに噴出している。なんでもかんでも「自由化」すればいいというものではない。絶対に「自由化」してはいけない組織や制度というものもある,ということをもっと深く考えるべきだろう。
こんなことを思いながら,キャンパスを歩く。
夜の宴会でも,学校現場のさまざまな問題(ちょっと公表できないような話題もふくめて)を聞かせてもらった。わたしにとってはいろいろと考えさせられる,とても刺激的な時間だった。そして,みんな必死になって,子どもたちを守るために日々智慧をしぼりながら格闘している,その姿に触れることができ,嬉しかった。日本の教育も,こういう人たちがもっともっと増えてくれば,まだまだ捨てたものではないだろうに・・・・。
ここまでで時間切れ。
ぷのなかにひっそりと
_ Czahgstjhgsjhg [http://www.buyxanaxdiscount.com#49732 how to buy xanax no ..]
_ Ogayusysuuas [http://www.buydiazepamhere.com#14128 buy valium no rx need..]
_ ivlivqkfbe [1KvM4r <a href="http://vwarrwujxizq.com/">vwarrwujxizq</a..]
_ Ogayhsfysuus [http://www.bestcheapphentermine.com#62601 cheap phentermin..]
_ Ogattsyusuus [http://www.bestcheapphentermine.com#29675 phentermine 37.5..]
2009-11-24 スポーツの「ルール」を変えるということ。
_ ルールの「改正」ということが,ごくふつうに言われる。しかし,それは,なにをもって「改正」と言うのだろう。そのときの基準はなんなのだろう。
ひょっとしたら,それは「改悪」であるかも知れない。よほど大きな問題が露呈してこないかぎり,一度,「改正」されたルールは唯々諾々とそのまま維持されていく。「改正」というのだから,なにか不都合が生じたからそれを改める,それも「正しい」あり方に改める,というのだろう。一般論としてはなんの問題もない。しかし,スポーツのルールに関する最近の「改正」には,おやっ,と思うことが多くなってきた。なぜなら,そのルールの「改正」は,だれのためなのか,なんのためなのか,スポーツをどの方向に進展させようと考えているのか,そのときの理念はなにか,というものがきわめて曖昧だから。
たとえば,今日の朝日の朝刊につぎのような記事が載っている。
見出しは「ジャンプ採点 公平性を模索」「ノルディックスキーで試行 風の変化で得点修正」というものである。つまり,スキーのジャンプ競技は,ジャンプの瞬間にどのような風が吹いているかによって不公平が生じるので,それを修正しようというのである。もっと言っておけば,向かい風は有利,追い風は不利なのである。この競技をテレビでみていると,「いい風」がくるかどうかと盛んにアナウンサーも解説者も気にしながら実況中継をしている。だから,わたしなどはそこがスキーのジャンプ競技の面白さだと思っていた。選手たちもケロリとしたもので,「運がなかった」「風に見放されてしまった」とふつうに語る。これがまたなんともさわやかだった。かと思うと「原田の大ジャンプ」という歴史に残る奇跡が起きたりもする。その同じ原田選手が「追い風に出会って」しまって,これまた歴史に残る敗戦を喫したこともある。飛んでみないことにはわからない。いかなる名選手といえども,飛んでみないとわからない。これが,わたしにはたまらない魅力だった。だから,ジャンプ競技をテレビで観戦するのは好きだ。
しかし,こうした「出来・不出来」の波をなくそう,これは本人の技術や体力とは関係がないから,つまりは「自然現象」なのだから,それを高度な計算式を用いて「公平」になるように修正しよう,というわけである。この部分だけをとりあげて考えると,まことに正論であり,まさに「改正」に相当するかにみえる。しかし,この「改正」はだれのためのものなのか。選手のためなのか,観客のためなのか,それとも競技運営者のためなのか,あるいはまた,競技の「公平性」という大義名分のためなのか,といった視点が浮かび上がってくる。さらに,もっと根源的な問いを発することもできよう。たとえば,いったい,スキーのジャンプ競技の醍醐味はどこにあるのか,と。選手も観客も,そして競技運営者も,ともに喜ぶのは「大ジャンプ」である。だから,最長不倒距離を富んだ選手が,これまでのルールでは圧倒的に有利だった。それを変えようというのである。それははたしてルールの「改正」といえるのだろうか。
極端なことをいえば,たまたま強い「追い風」が吹いて,小さなジャンプしかできなかったが,飛型も素晴らしく,着地姿勢も完璧,という理由で優勝するというケースもでてくる。科学的合理主義という観点からすれば,なんの非もない,もっとも「合理的」な採点結果である,という論理が正当化される。このかぎりにおいて,反論のしようがなくなる。しかし,選手も観客もなんの面白さもなくなってしまうことは明白だろう。ジャンプ競技の最大の楽しみは「大ジャンプ」なのである。そして,だれが「向かい風」という運を引き寄せて「大ジャンプ」を実現させるか,今日のラッキー・ボーイはだれか,選手も観客も楽しみにしている。そういう不確定性が多少とも残されているからこそ面白い,という側面を軽視してはなるまい。
だいたい,大自然を相手にして行われるスキー競技は,最初から「公平性」からは遠いところに位置している競技なのだ。それを承知して競技を楽しんでいるのだ。滑降競技にしろ,回転競技にしろ,最初の方で滑るかあとの方で滑るかによって大いに有利・不利がある。天候もみるみる変化していく。風向きも変化していく。そんな中での競技なのだ。公平性などは保証のしようがない。どうしても,完璧な公平性を確保しようというのであれば,山一つをすっぽり覆う屋根をつけ,温度を一定に保つ空調設備を完備させるしかないだろう。それははたして「スポーツ」という名に値するものなのだろうか。
時間がきてしまった。
大急ぎで結論を。
ルールの「改正」の問題を考えることは,最終的に「スポーツとはなにか」という根源的な問いに突き当たること。したがって,ここを見極めないかぎり,それがはたして「改正」という名に値するかどうかは判別できないことになる。じつは,ここから,つぎなるテーゼが立ち上がり,新たな議論がはじまるのであるが・・・・。残念。またの機会に。
_ drugs for insomnia [b, http://newhealthshop.info/item.php?id=267 viagra soft ..]
_ skelaxin and skin [a, http://healthonlineshop.net/item.php?id=6147 generic a..]
_ zocor.com [e, http://healthpointer.info/item.php?id=251 cialis soft ..]
_ cheap viagra [c, http://healthonlineshop.net/item.php?id=4050 furosemid..]
_ seroquel side effect [c, http://officialdukesofhazzardfanclub.org/index.html bu..]
Before...
_ Czahddgddsfjhgsjhg [http://www.shopambienonline.com#57489 ambien online pharma..]
_ Czahdgsjfhgsjhg [http://www.buyingphenterminenow.com#37338 phentermine no p..]
_ Ogaydfsuysuus [http://www.purchaseambienonline.net#23118 ambien online sa..]
_ Czahgstjhgsjhg [http://www.buyxanaxdiscount.com#49732 get xanax online no ..]
_ Ogayusysuuas [http://www.buydiazepamhere.com#14128 buy valium worldwide ..]