Diary


2010-02-01 映画『Dr.パルナサスの鏡』をみる。

_ ある仕事の関係で,いま話題の映画『Dr.パルナサスの鏡』をみてきた。なんともはや,不可解な映画だった。

昨日から急遽,予定を変更してDVDビデオや映画をみて,これを770字で評論するという苦行と取り組んでいる。困ったものだ。困るのは字数の少なさ。あまりに少なすぎる。でも,これが書けないようなら,文章を書くことをあきらめるしかない,という覚悟で取り組んでいる。挑戦である。

昨日のマイケルの方は,なんとか書けるという目処がついた。しかし,今日のこの映画は困ったものだ。わたしに感動がない。あまりに多くのことを詰め込みすぎて,なにがいいたいのかわけがわからない,という印象。ちょうど,鍋料理に,魚も肉も貝もおでんも蟹も海老もと具沢山にした上に,調味料も醤油に塩に味噌に・・・という具合に入れ込み,結局,この料理のメインはなにか,わけがわからない,というような状態である。なんでこんなに欲張ったのだろう,と首を傾げてしまう。しかも,すごいテンポの速さでテーマがつぎつぎに切り替わってしまう。おまけに,価値観も複合的に組み合わされているから,なおのこと錯綜してしまって,わけがわからなくなる。

映画を見終わっても,しばらくはだれも立とうとはしない。電灯がついて明るくなったのに,ざわざわと話し声が聞こえてくる。みんな,わけがわからないという顔をして,お互いの感想を確認し合っている。この情景がとても面白かったので,しばらく,この様子を眺めていた。やはり,納得がいかない,という顔はいつまでも消えない。お前もか,おれもだ,という顔が圧倒的に多い。場所は,六本木の森ビルのすぐ横にある東急シネマ。まあ,言ってみれば,いま東京の中心にあるもっとも旬な人気スポット。もっとも,午後1時からこの映画を見に来る人種がどのような人たちなのかは一考を要するところ。でも,一見したところ,身なりもいいし,顔だちも悪くない若者たち。中年以上の人はちらほら。あとは若い男女。恋人同志だったら,この映画をみたあと,どんな会話をすることになるのだろうか。わたしが当事者だったら,困ってしまう,と思う。

一般に流れている映画評では,CGを多用した美しい場面をふんだんにちりばめたファンタジー映画,ということになっている。しかし,美しいなぁ,と思った情景はほんのわずかだけ。あとは,子供騙しのCGテクニック。それよりもなによりも,見終わったあとの後味が悪い。せっかくの恋人とのデートもぶち壊しである。あの男女たちは,あのあとどうしたのだろうか,と気がかりである。

なぜなら,映画の中味にちょっとだけ触れておけば,つぎのようだから。

映画の主人公Dr.パルナサスは,悪魔と契約して不死を手に入れる。その代わりに悪魔はある賭けをして,おれが勝ったらDr.パルナサスの娘をくれ,と約束する。なんだか,ゲーテの『ファウスト』の焼き直し。こちらは,命ではなくて,魂。その代わりにファウストの欲望はすべて叶えてやる,という。命と魂の違いはあるものの,その本質に変わりはない。

死を畏れる気持ちはだれにもある。しかし,だからといって不死を手に入れれば,問題が解決するかといえば,それは違う。なぜなら,死があるからこそ生が輝くのであって,不死となれば生はその意味を失ってしまう。意味がなくなる。不死なのだから。

案の定,Dr.パルナサスの生は弛緩してしまい,酒におぼれ,トランプ占いに依存する。それでいて人生には「物語」が必要だと可愛い娘に説く。Dr.パルナサスの職業は,馬車を改良したステージの上で瞑想し,かれの瞑想の世界が「鏡」の向こう側にあって,お客さんを「鏡」の向こう側に送り「エクスタシー」を体験させてお金をかせぐ,といういささか怪しげな旅芸人である。娘は旅芸人の世界から逃げ出して,ふつうのマイホームで暮らすことを夢見ている。そこに,さまざまな怪しげな登場人物がからんで映画は複雑な展開をしていく。しかも,現実と非現実が交錯したり,あの世とこの世が入れ替わったり,佛教的な浄土の世界にメフィストフェレスばりの悪魔が押しかけてきたり,善と悪,慈善と偽善,政治と暴力,息子と母,二者択一の選択(一種の賭け),等々のテーマが矢継ぎ早やに展開する。それでもなお,弁護しておけば,近代の階層秩序的二項対立的なものの見方・考え方は人生にとってほとんどなんの意味もないのだよ,と言っているかのようでもある。それは,映画の最後のところで「二者択一」を迫られたDr.パルサナスが,「おれはもうどちらも選ばない」と,まるで禅者のようなセリフを吐くところにも現れている。

このようにわたしなりの読解を試み,整理してはみるものの,わたし自身がいま一つ納得がいかないのである。しかも,もう一度,みてみるか,と問われたら「ノー・サンキュー」と答えるだろう。わたしの映画評からすれば,駄作。お薦めもしない。見てもほとんど意味がない。それよりなにより,感動の場面が一つもない。なんなのだ,この映画は・・・。というのが正直なわたしの感想。

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2010-02-02 貴乃花親方の理事当選記事のお粗末。

_ わたしの予測どおり,貴乃花親方が理事に選出された。当選はありえない,という大方(メディア情報)の見方を覆すことになり,朝日新聞も今日の朝刊で大きく報道した。

しかし,その記事を読んで,がっかりしてしまった。そのほとんどがとってつけたような記事ばかりであったからだ。しかも,不思議なことに,まるで貴乃花親方が相撲界の慣行を破った非常識な人間(あるいは,犯罪人)であるかのような印象を与える文章がはしばしに見受けられたことだ。たぶん,朝日新聞社の担当記者やデスクの考え方が思いがけず表出してしまった,ということなのだろう。これはこれでとても面白いと思った。しかし,一般の読者はこの誘導的な記事に洗脳されてしまう畏れは少なくない。その点は心配だ。

実際にも,今日,久しぶりに会ったむかしの友人も,ほぼ,朝日新聞の記事に同調する発言をしていて,わたしを驚かせた。仕方がないので,わたしはつぎのようにその友人に話をしておいた。その結果,おおむね理解してくれたようだったが,どこか納得できない顔を残していた。

それは,貴乃花親方は,日本相撲協会の寄付行為に定めてある規則どおりに立候補して,評議員の選挙によって選出されたものであり,このことは民主主義のルールからいってもごく常識的なことである,と。一門の推薦がなければ立候補することはできない,とはどこにも書いてない。だから,貴乃花親方が一門を離れて立候補するという意志表明をしたとき,だれも止めることはできなかったのだ。貴乃花親方が問題視されたのは,二所一門の親方衆にとって,それも年功序列制を維持しようという考えの親方衆にとって,不都合が生じただけのことであって,われわれ一般人にとってはなんの問題もない。むしろ,日本相撲協会の古い体質に風穴をあける意味では,とても重要な決断であり,行動であった,と拍手を送るべきではなかったか。

くだんの友人は,でも,貴乃花親方は具体的な改革案をひとつも提示していない,と仰る。そんな必要はなにもない,とわたし。なぜなら,こうして自分の意志で立候補できるようにすることが,かれにとっての最初の改革であり,すでに身をもって提示していることだから,と。このことは口が避けても選挙前に言ってはならないだろう。黙って耐えることが一番。まさか,定年間際の親方衆たちに理事会をまかせておくわけにはいかない,とは言えないだろう。年功序列で構成されている理事会が保守的であり,保身的になるのは当然のことだ。だから,相撲界はいつまでたっても風通しはよくならない。こころざしのある若い親方衆が理事会に参入できる道を開いていくこと,これが貴乃花親方のめざす「改革」の第一歩だったのだ。だから,メディアが想定できなかった「3票」もの若手親方衆の票が集まった。わたしの予測は5〜6票は集まるのではないか,というものであった。しかし,そうは問屋は卸さない。ぎりぎりの当選に終わった。

もう一点だけ,ついでに述べておきたい。新聞やラジオで見聞きしているかぎりでは,多くの評論家と称する人たちが「貴乃花親方がひとり理事に参入したからといって,なにも変わることはない」と物知り顔に発言していることだ。あなた方の頭脳は「思考停止」状態にある,と声を大にして言いたい。こういう無能な評論家諸氏が世論に大きな影響を与えていることを,もっと自覚してほしい。

わたしの考えはまったく違う。貴乃花親方は理事に当選しなくても,立候補しただけで,かれの言う改革の第一着手は成功した,というものだ。このことがこれからの相撲界にとってどれほど大きなインパクトを与えることになるか,考えてもみてほしい。かれが立候補したことによって,6人の親方衆が支持にまわり,二所一門は,全部で7票を失うことになり,これまでの3人の理事枠を2人にするしか方法がなくなったではないか。これだけで,貴乃花親方の「改革」の第一歩は完了しているのである。

しかも,こんどの選挙で,1票が貴乃花親方に流れている。おまけに立浪一門からは2票が流れているという。こうなると,いまの執行部体制に不満をもっている若手親方衆は,もっとものが言いやすくなってくるだろう。2年後の理事選挙までには,もっともっと大きな変化が生まれてくるだろうとわたしは推測する。だから,

貴乃花親方がひとり理事に参入したことが,これから起こるであろう改革の「はじまり」の第一段階として,どれほど大きな意義をもっているかは,一目瞭然である。おそらく,理事長を筆頭とする元執行部のメンバーたちの間には激震が走ったことだろう。まさに「革命」の第一歩である。しかも,きわめて民主的な方法で。不満分子の突破口が開いたということだ。

これから起こるだろうことの一つは,「一門の再編」という問題がある。もはや,一門制度は内実を失ってしまっている。ただ,これがあった方が甘い汁を吸うことのできる定年間際の親方衆たちは,なにがなんでもこの制度を維持するために結束するだろう。それが,こんどの選挙行動にも現れていた。が,その一角がみごとに崩れはじめた,ということだ。同じ一門制度で,なにかと障泥をくっているのは九重親方(元千代の富士)だ。かれもまた我慢に我慢を重ねてきている。貴乃花親方の動きに対してもっとも敏感に反応しそうなのは九重親方だろう。かれの出方次第では,相撲界の改革は,意外な展開をはじめることになるだろう,というのが現段階でのわたしの推測である。

こういう話をはじめるとエンドレスになる。しかも,あまり予言者みたいなことはしない方がいい。楽しみが減ってしまう。でも,これからの相撲界は意外な展開をはじめることになる,とこのことだけは断言しておこう。あとは,じっと観察することにしよう。

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2010-02-04 朝青龍,ついに引退へ。

_ 朝青龍が引退したという。今福さんからのメールで初めてそれを知った。びっくり仰天である。今福さんはそれを「私的憤激」と表現している。

いつものとおり,午後7時まで鷺沼の事務所で仕事をして,食器を洗ったり,後片付けをして帰宅。午後8時少し前。夕食の前にメールをチェックする。これもいつものとおり。そこに「私的憤激」というタイトルの今福さんからのメールをみつけ,「あれっ,今福さんに不快感を与えるようなことをなにかしてしまったのだろうか」と思い,恐るおそるメールを開く。朝青龍の引退会見をみて「私的憤激」を覚えている,というかなり激しい口調のメールだった。そして,わたしの意見を聞きたい,と。

もちろん,わたしはすぐに応答した。今福さんが仰るとおり,これはまぎれもなく日本人の無意識のなかにやどるゼノフォビアによる恐るべき暴力の犠牲以外のなにものでもない,と。これは,わたしが以前に雑誌『世界』に投じた論説の延長線上にあるもので,とうとうここまで追い込んでしまったか,というのが実感である。情けないやら,悲しいやら,恐ろしいやら,複雑な感情がこころのなかで渦巻いている。こんなことをしてしまって・・・・と。慙愧に耐えない。

いま,このブログを書きはじめたら,徐々に怒りの感情が込み上げてきて,このさき冷静に文章が書けるだろうかと不安になってくる。しかし,極力気持ちを静めながら,いま思っていることを書き留めておくことにつとめよう。

まず,なによりも,指摘しておかなくてはならないことは,ゼノフォビアの問題である。いまや,日本の相撲界はモンゴル出身力士なしには成り立たないことは,だれでも知っているとおりである。東西の両横綱をはじめ,大関から幕内力士にいたるまで,きら星のごとくモンゴル出身力士が並んでいる。そんな中で,一刻も早く強い日本人力士の登場を待ち受けている一般的な感情があることも事実だろう。かく申すわたしとてその気持ちに変わりはない。が,だからといってモンゴル力士,あるいは,外国人力士を排除しようという意識はまったくない。この世界は,まさに実力の世界だから,堂々と土俵の上で勝負して地位を獲得すればいい。この公明正大さが,外国からやってくる力士たちの魅力でもあるのだから。同じ原理で,日本人力士も頑張ればいい。その上で,一喜一憂すればいい。そして,それを楽しめばいい。仮に勝てなくても,ゼニのとれる力士になればいい。わたしは,徹底して,星勘定よりも一番一番の相撲の内容に注目する。キラリと光るワザが飛び出したり,地味ながら理詰めの相撲でしぶとく相手を苦しめたり,稽古充分の光り輝く身体に出会う恩寵を楽しんだり,みなぎる闘志が全身に表出する力士の一挙手一投足に恍惚としたり,「からだが自然に動く」力士の取り口にこころを奪われたり・・・。

わたしにとって朝青龍はそういう楽しみを与えてくれる典型的な力士のひとりであった。つまり,土俵の上では心身ともに完璧な力士そのものであった。だから,多くのファンを獲得してきた。かりに土俵外で多少の瑕疵があったとしても,それもまた愛嬌のひとつだった。少なくとも,相撲の本質を知っているファンには充分に理解されていたはずだ。横綱の品格を問題とする横綱審議委員会の委員も多いそうだが,その委員という人たちに「品格」を「判定」(仕分け)するだけの資格があるのかどうか,そちらの方がはるかに大きな問題だとわたしはかねがね考えている。はたして,横綱の品格とはなにか。しばしば引き合いに出される双葉山にしても,あまり公にはされていない私生活があった。かれの伝記などを少し丁寧にたどったことのある人ならみんな知っていることだ。たとえば,工藤美代子の『ひとりさびしき双葉山』というノン・フィクションがある。ご確認いただきたい。

話が思わぬ方向に展開してしまった。

話をもとにもどそう。このような魅力をもった力士・朝青龍を引退に追い込んだ最大の理由は,眼にみえないゼノフォビアという暴力だ。日本人の無意識の奥底にうずまいている外国人排除という暴力だ。その先陣を切ったのは,ほかならぬメディアである。記事を書き,情報を構成して放送・放映するメディアが,この人たちもまた無意識のうちに(わたしには,どこか意識的だったのではないか,と疑うまなざしがある)朝青龍バッシングに力を貸したことは,疑いの余地がない。そして,なによりも,その垂れ流されるメディア情報をそのまま「鵜呑み」にして「納得」してしまう一般的日本人の集合無意識こそが,大きな暴力となっていることに,ほとんどの人が気づいていない,この事実こそが大問題なのである。

どうして,こういうことが起きてしまうのか,そここそが問われるべき問題なのだ。これは,だから,暴力とはなにか,という根源的な問いに通底する大問題なのである。このことにはフタをしてしまい,見えない(見ない)ようにする,あるいは,考えないようにする,なんらかの力(規制)がはたらいている,という現実にこそ注目すべきなのだ。だから,なにが,このようなことを可能とさせているのか,という問題を徹底的に掘り下げ,剥き出しにしていくことが喫緊の課題となる。

朝青龍を引退に追い込んだ「力学」はなにか,その背景にはたらいている暴力装置はなにか,それこそが問われるべき問題なのだ。酒に酔って人を殴った,などという一般人であれば日常茶飯事にも等しい「小さな暴力」を仰々しく言挙げして,日本人の大合唱にまで持ち込み,ひとりの,きわめて優秀な,歴史に残る,外国人横綱を引退に追い込んだ,この「暴力」をこそ問うべきなのだ。

こんな稚拙なゼノフォビアの力学が,無意識のうちに機能してしまう,全マスコミを巻き込んで機能してしまう日本の社会はまだまだ幼児性から抜け出せていない,きわめて未熟な社会であることに,わたしたちは自覚的でなくてはならない。だから,この問題について,わたしたちはもっと真剣に,持続的に議論を展開していかなくてはならない。

まだまだ,言いたいことは山ほどあるのだが,とりあえず,今夜はここまでとしておく。明日の新聞が,どのような報道をするのか,注目してみたい。

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2010-02-05 「綱の品格問われ続け」・・・だって?!

_ 今朝の新聞を楽しみにしていた。朝日は「綱の品格問われ続け」という大きな見出しで,朝青龍引退の記事を詳細につたえていた。

もちろん,いろいろの人の談話も載せている。しかし,全部,大見出しの論調に右へならえをしたように,みごとに同じヴェクトルの主張でまとめていた。結論からいえば,朝青龍がただひとり悪者にされて,それで終わりというなんとも情けない紙面に終始している。かろうじて弁護しておけば,朝青龍を野放しにしておいた親方,協会にも責任がある,という小さな記事はあった。が,全体からみれば,とるに足らない記事であった。

ただ一つ,わたしの眼に焼きついた記事は,元横綱曙の談話であった。やはり,角界から外にでた人だからほんとうのことが言えるのだろうなぁ,と注目した。それでも,かなり控えめな発言になっている。それ以外の人の発言は,すべて,ことなかれ主義に貫かれたもので,わが身可愛さの保身のための発言でしかなかった。こんな発言ばかりを拾い集めて記事をつくって満足している朝日のデスクはいったいなにを考えているのか,とわたしは大いに疑問をいだく。おそらく,新聞が掲載したくない正論を吐いた人も少なからずいたはずである。そういう発言はすべて「ボツ」にされてしまったのだろう。わたしにも,そのむかし,そのような取り扱い方をされた記憶がある。たとえば,ゼノフォビアについて触れた識者もいたはずである。一人もいなかったとはとても思えない。こうして新聞の記事というものはつくられているのだ。だれかの意志によって。それが集合無意識によるものだとしたら,もっと恐ろしいことだ。

曙の発言は,要約しておけば,以下のとおりである。外国人として初めて横綱になり,なにかと風当たりは強かった。そして,横綱として恥ずかしくない態度・行動をするように要請された。そして,大勢の人がこうすべきである,ということを教えてくれたが,全部,言っていることが違っていた。だから,どうすればいいのか自分にはわからなかった。頭の中が真っ白になることもしばしばだった。そのつど,各方面から批判された。でも,どうすればいいのか,わたしにはわからなかった。横綱というものは孤独である。だれかが責任をもって,横綱とはこうあるべきだ,ということをきちんと教えるべきだ。朝青龍も,たぶん,孤独だったのだろうと思う。その結果として,高い壁を築いて,自分の世界に閉じ籠もってしまった。それがいけなかったのだろう。と,こんな趣旨の発言をしている。

これを読みながら,思い出したことがある。貴乃花が横綱になってしばらくしたころに,親方の二子山親方(初代貴乃花・大関,実父)に,横綱をどのように指導しているのか,という新聞記者の問いにたいして,「大関で終わった者が横綱に教えることはなにもありません」と答えていたことがある。実父にして,そうである。それほどに,相撲界のランクづけは厳しいのである。番付が一枚でも上であれば,たとえ弟弟子であっても,口出しはできない,という。部屋で食事をするときの坐る位置も,順番も,すべて番付にしたがうという。そういう世界なのである。

高砂親方(元大関・朝潮)が,朝青龍に手出しができなかった(つまり,指導ができなかった)というのは,そういう事情がある。だから,野放しにされていたというか,自由にされていた(よく言えば)。でも実態は,朝青龍が相談しても親方は「横綱なんだから自分で考えろ」と言っていたようだ。さきほどの曙の発言はこのことを意味しているに違いない。だれも教えてはくれない孤独な世界,それが横綱というものなのだ。

たとえば,横綱としての品格,と言われてもだれも答えられないだろう。元横綱を張っていた理事長をはじめ理事である親方衆に聞いても,だれも答えられないだろう。もし,答えてもらえたとしても,おそらくは一人ひとり意見は違うだろうと思う。つまり,これが「横綱の品格である」ということをまとめて示すことなどだれにもできないのである。そういうものなのだから。だから,白鵬のように,理想とする横綱を双葉山と定めて,そのイメージに自分を合わせていくしか方法はないのである。その双葉山とて,ほんとうに「横綱の品格」を備えていたかどうか,となるとわたしなどは疑問である。わたしが,かつて,大好きだった横綱・千代の富士だって,土俵の外では人には知られたくない恥部をもっている。横綱とはいえ,やはり,人間なのだから,必ずとこかに少なからず瑕疵をもっている。だから,古い横綱ほど土俵の上での輝かしい活躍だけが記憶に残り,立派な「品格」があったかのように,わたしたちは錯覚をおこしているだけのことなのだ。

そのことには眼をつむり,見ても見ないふりをしておいて,モンゴル人であるという潜在的な差別意識に多くの日本人が気づかないまま,朝青龍だけをターゲットにして,「ヒール役」に仕立て上げ,その罪の意識を覆い隠すかのようにして,同じモンゴル人である白鵬を「善玉」にして帳尻合わせをしている。しかし,白鵬とて人の子である。ときには,朝青龍ばりの荒れ方をすることがある。このことは,ほとんど報道されない。なぜなら,せっかくの「善玉・悪玉」のシナリオが崩れてしまうから。

またまた,横道に入り込んでしまった。要するに,朝青龍だけが絶好のターゲットにされたまま,ゼノフォビアの暴力にさらされつづけてきたのである。朝青龍自身も言っているように,土俵に上がれば鬼になるしかない,と。このイメージが絶好の標的にされてしまった。なぜなら,とてもわかりやすいから。つまり,説明する必要がないから。朝青龍が睨んだ,と書けば読者はみんななんの抵抗もなく「かれならやりかねない」と納得してしまうからだ。しかし,この睨みを、一般市民と同じレベルで判断してはいけない。勝負師は眼に血が入るという。そのときは,すでに,ふつうの人間とは別人である。それが「土俵の鬼」(初代・若乃花)の姿なのである。

だめだ。話はどんどん横道にそれてしまう。書いておきたいことは,ゼノフォビアの問題が,じつは,相撲界だけの問題ではなくて,日本の社会の普遍の問題と通底している,ということだ。でも,今夜はここまでで打ち止めにしておく。

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2010-02-06 朝青龍問題をとおして考えなくてはいけないこと。その1.

_ 朝青龍問題は,本人からの引退表明をもって一件落着という幕引きをしてしまったが,はたして,それでよかったのだろうか。

わたしにはなんとも納得のいかない不思議なことがたくさん課題として残った。そのいくつかをここで明らかにしてみたいと思う。

その1.は,今回の「暴力事件」なるものの真相はとうとう明らかにされないままに終わってしまった,ということだ。あるいは,真相究明の前に「断」がくだされてしまった,という不思議に対してほとんど問題にされない,この空気がなんとも空恐ろしい。みなさんはなにを根拠に朝青龍の引退を当然と判断したのだろうか。なにを根拠に納得しているのだろうか。大多数の日本人は,メディアをとおして流れてくる情報だけで,これでいいのだと判断しているのだとしたら,これもまた空恐ろしいことである。

わたしには,いまも,朝青龍の「暴力」がいかなるものであったのか,さっぱりわけがわからない。少なくとも,ある判断,判定をするだけの質も量も足りない。日本相撲協会の理事会もまた情報をしっかり確認してから判断をくだすべきだとして,調査委員会を設けることにした。しかし,横綱審議委員会の委員長は,独自の情報網(元の勤務先である日経新聞社)をとおしてえた情報をもとに,委員会に諮り,「引退勧告」という決定をとりつけた。この委員会での議論の正確な情報がわからないが,ほとんど,全員一致でこの決定にいたったと聞く(1名,欠席)。だとすると,委員たちは委員長の情報を丸飲みしたことになる。しかも,その情報は公表されてはいない。そういう非公式の情報をもとに,ほとんど全員一致でことを決してしまう,この体質にこそ,大きな問題がある。

朝青龍は,結局,最後まで自分の主張というものはしないまま引退ということになった。もちろん,彼は「酔っぱらっていておぼえていない」と最後までしらを切ったわけだが,引退表明後には,「報道と実際とは大きな差がある」とぼやいている。それでもよしとして,それを「運命」と表現した。苦肉の策である。つまり,止めようもない一方的な情報に対して,もはや,個人では戦えないというあきらめの感情が「引退」を決意するきっかけになっている。

結局,真相は「藪の中」のまま,横綱審議委員会は「引退勧告」という断をくだし,理事会はそれを受け入れた。理事会も根性がない。理事会はある意味では互助組合なんだから,もっと力士(横綱)を守る立場を貫くべきではなかったか。日本相撲協会は,原則として,元力士によって協会員を構成しており,すべて,自分たちで重要事項を決定することができるようになっている(寄付行為)。つまり,外部からの圧力に対してみずからの身を守るための組織だ。しかし,今回は,外部の圧力をすんなりと受け入れてしまった。しかも,「引退勧告」という横綱審議委員会が組織されてはじめての,前代未聞の意志決定を。

問題を整理しておこう。「暴力事件」の真相が曖昧なまま「引退勧告」を決議した横綱審議委員会,その勧告をそのまま受け入れた理事会,そして,朝青龍には「解雇」か「引退」かの二者択一を迫る,というこの追い込み方の異常さについて,ほとんどの人が気づかないで納得している。あるいは,気づいていても目を瞑っている。そして,黙ってやり過ごそうとする,この集合無意識の「暴力」に対して,わたしは我慢ならないのである。

なぜなら,この精神的態度(Geisteshaltung)こそ,こんにちの日本の社会の異常さを支えている根源ではないか,とわたしは考えているからだ。政治や経済はもとより,国際問題から日常生活のさまざまな問題にいたるまで,みごとにこの精神的態度が貫かれているように,わたしには見受けられるからだ。

だから,今回の朝青龍問題の根は深い,とわたしは考える。朝青龍問題を考えることは,日本の社会や日本人を考えることだ。あるいは,国際社会での日本や日本人について考えることだ。だから,軽々しく見過ごしてはならない,とわたしは考えている。

できることなら,その2.以下も取り上げて考えていけたら・・・・といまは考えている。ご意見をお聞かせいただければ幸いである。

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2010-02-07 朝青龍問題をとおして考えなくてはいけないこと。その2.

_ ゼノフォビアの根源にある問題を突き詰めていくと,グローバリゼーションという普遍の問題に行き着く。

すなわち,「伝統スポーツ(相撲)とグローバリゼーション」の問題である。朝青龍問題の背景には,日本の大相撲とモンゴルの相撲との,どうしても相容れない「文化」の違いが,見え隠れしている。しかし,この問題は,日本の大相撲が「グローバル化」の道を選択したときから予見できたことであって,いまさらあわてることではない。ただ,そのことへの対応がほとんどなされないまま放置されてきたことに,今回の引退問題の大きな鍵の一つが隠されている,とわたしは考える。つまりは,日本相撲協会の理事会の責任であり,その一端は,横綱審議委員会の委員たちにもある,というわけだ。

人間は,自分の都合の悪いことについては「見ても見ぬ」ふりをする。そして,そのツケは必ずだれか他人にあてこする。そうしないと自分の身が危なくなるから。これはほとんど無意識のうちに行われる。だから,ほとんどの場合,気づくこともない。P.ルジャンドルの本に『西洋が西洋について見ないでいること』(以文社)というタイトルのものがある。ユーロセントリズムを外に向けて推進していくときには,西洋についての都合の悪いことは「見ない」でいる,というのである。それと同じことが,ブッシュ政権下でも起こった。みずからを「正義」(これは神の領域のもの)と名のり,テロリストを「悪魔」と名づけ,この関係性のもとではいかなる「暴力」も許されるということを,国際社会(これもまた不思議な存在ではあるが)に押しつけた。多少の反論はあったものの,いまや,堂々と「王道」を歩いている。つまり,「アメリカはアメリカについて見ないでいる」からこそ可能なのである。

猫の首に鈴をつけるのは恐いからだれも手を出そうとしない。ただ,それだけなのに,国際社会に認知されている,と大見得をきる。そして,多くの主要国が後追いをする。ごますりである。どこぞの政党の「ドン」もまたしかり。だれが見たっておかしい。しかも,いかようにも「説明」のできる立場にいながら,まともな説明は一切しない。そして,トカゲの尻尾切りをして,わが身はほうかむりをして押し切ってしまおう,というのである。

日本相撲協会や横綱審議委員会のやったことは,これとほとんど同じ体質から,生まれてきたことだ,とわたしの眼には映る。朝青龍だけを悪者に仕立て上げ,わが身の犯罪性をひたすら隠しとおす,そのための「引退表明演劇」であった,と。このみごとな演出によって,人びとの眼は一斉にテレビの前で釘付けになり,朝青龍の一挙手一投足に息をひそめた。そして,まことに低俗な評論家諸氏の発言に首肯する。お粗末としかいいようがない。

その背景には,さらに,「思考停止」してしまった,われわれ現代の日本人の姿が浮かび上がってくる。自分ではなにも考えようとはしない。だれか上位にある人の発言があれば,なんの躊躇もなくそれに従う。そして,唯々諾々と日常をやりすごす。西谷修氏に言わせれば(『世界』2月号),その本質は「自虐的隷従」にあるという。これまた恐ろしい表現であるが,思わず正鵠を射ている,とわが膝を打った。たんに服従したり,従属したり,従順である,という段階を当のむかしにとおりすぎてしまって,「隷従」だというのである。しかも「自虐的」という形容詞までついて。これがこんにちの世界を構成しているのだ,と。「正義」を名乗る人がいる以上は,「自虐的隷従」しか方法はないのだ,と。そこからはみ出すとすれば,あとは「自爆的抵抗」(すなわち,テロリスト)しかないのだ,と。

さて,大きな遠回りをしてしまったが,これは脱線ではない。意図的・計画的な計算のもとに行ったことである(と書くと,悪い奴だとお思いでしょうが)。ここまで問題を追い込んでおけば,結論は簡単である。つまり,伝統スポーツである大相撲がグローバル化するということの背景には,こういう問題が潜んでいるということだ。もちろん,他にも検討しなくてはならない問題は残っている。それらの問題については,機会を改めることにする。世にいう「グローバリゼーション」が,文化の領域で起こるときには,必ず「伝統」が犠牲になる。それは必然である。柔道をみれば歴然としている。柔道とJUDOとは「似て非なるもの」である。どうしても「伝統」を守りたいのであれば,国際社会に門戸を開かないことだ。このことについても,相撲界は無知でありすぎた。あるいは,無関心でありすぎた。他山の火事として傍観しすぎた。明日はわが身,という危機意識に欠けていた。それほどに「無責任」体質が浸透してしまった,ということだ。日本相撲協会の協会員(すなわち,力士,年寄,床山,など)の「甘え」の精神構造が,すなわち,「自虐的隷従」の精神構造が,そのしわ寄せ(デリダ風にいえば「亡霊」)を生み出し,このたびの「引退表明演劇」を引き出したのだ。

朝青龍は,どこまでもモンゴル相撲の力士としての精神構造を貫きとおした,ただ,それだけなのだ。強ければいい。眼の前に現れた邪魔者はすべてなぎ倒す。それが「強者」の生き方なのだ。酒席で難癖をつける奴がいたら,ぶんなぐる,こんなことはモンゴルの力士にとっては当たり前のことなのだ。いやいや,日本の大相撲の力士だって,つい,この間までは日常茶飯事だった。みんな大目にみるだけの,こころのゆとりをもっていた。いつのころからか,狭量な「ヒューマニズム」が,あたかも「正義」であるかのごとく振る舞いはじめた。そのために,学校で悪事をはたらく子どもを先生が殴ることまで禁止になってしまった。わたしの小学生のころには,「ピッチン」というあだ名の先生がいた。なにか悪いことをすると,すぐに「ビンタ」をとばしたからだ。それが当たり前だった。いまだったら,その先生は即刻「クビ」だ。いいことなのか,よくないことなのか,そろそろ一度,真剣に考えなくてはいけない時ではないか。

このあやしげな「ヒューマニズム」を隠れ蓑にして,資本という名の「暴力」装置は野放しになっている。勝ち組,負け組,などということばが平然と一人歩きをしている。さも,「正義」であるかのごとく。

さてはて,またまた,エンドレスの底無し沼にはまり込んでしまった。

今日のところはこの辺で終わりにしておこう。ことほど左様に,今回の朝青龍引退劇の背景には,さまざまに考えなくてはならない問題が山ほどある,ということだ。しかも,それらは全部ひとつながりになっていて,なにも特殊なできごとではない,ということ。これだけはここで明言しておくことにしよう。いま,わたしたちは,いやでも「グローバリゼーション」という問題と日々,向き合いながら生きている。このことと朝青龍の問題は連動している,ということ。だから,もっともっと考えなくてはならないことがある,ということ。わたしたちも同じ穴の狢だという自覚を忘れないこと。ここでもエンドレス・・・・。ああ。

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2010-02-08 お粗末な「ドーピング」の解説。

_ 今日の朝日の夕刊の「わかるカナ」というコラムで「ドーピング」が取り上げられている。その解説がまことにお粗末。読んで,腹が立った。

東大大学院教授という肩書と本名を明かしてのコラムである。このコラムを書いた人にも唖然としたが,この原稿をそのまま掲載したデスクの神経にもあきれた。いったい,朝日は「校閲」ということをしていないのだろうか。書き手が東大大学院教授であれば,フリー・パスということなのだろうか。

問題の,冒頭の部分を引用しておく。

すっかりおなじみのカタカナ語だが,もともとは「潤滑油(を塗る)」の意で,転じて「興奮剤・麻薬(を与える)」を意味し,対象は主に競走馬であった。オリンピックとドーピングの関係は半世紀の歴史を有し,ローマ・オリンピック(1960年)にまでさかのぼる。つまりそれ以前,ドーピングはもっぱら競走馬相手のものだったことになる。

以上。このあとは,カール・ルイスとベン・ジョンソンの話が紹介され,さらに,米大リーグのマクガイアとソーサの話がつづき,おまけにつぎのような余分なことを書いている。少なくとも,わたしは読みたくもない話。場合によっては科学者からクレームがつくであろうような話である。

・・・その後,マクガイアはステロイド使用を告白し,ソーサは今なお疑惑の渦中にある。ところが,私が奉職していた大学の工学部出身の学長は訓示の中で,これを近年まれに見る男と男のさわやかな戦いと絶賛したのである。科学者とは時にかくまで世事にはナイーブなものなのである。ナイーブが褒め言葉でないことについては,いずれこの欄で取り上げたい。

というお粗末さ。このコラムはいま話題になっているカタカナ言葉を取り上げて,わかりやすく解説をすることが目的。これまでにもお粗末な解説を読まされることがあって,ひとり憤慨していた。が,この欄の書き手はリレー方式で人がつぎつぎに変わるのだが,まさに玉石混淆。今回のこの人は玉ではなくて,たんなる「石」ころだった。いやいや,石ころよりもひどい。石にもなっていないのだから。

まずは,最初の語源。冒頭の語源の解説は,ごくふつうの英和辞典に書いてある語釈をそのまま転用しただけ。ドーピングの語幹となる「dope」の語源をとばし,いつ,英語になったのかも書いてない。しかも,ドーピングということばの定義もしていない。これでは,知らない人が読めば,スポーツ選手は「麻薬」を使っていると誤解しかねない。ドーピングとはスポーツ選手が指定された「禁止薬物」を一定期間内に用いること,とはっきり書いておいて,その上で多少の脱線があるのは仕方がない。

ついでに言っておけば,この人の説によれば,ローマ・オリンピック以前のスポーツ選手はドーピングらしきことはなにもしていなかった,と読めてしまうが,そうではない。大昔から,それこそ古代オリンピックの時代から,いやいや,それ以前の祝祭の場で繰り広げられた「スポーツ的なるもの」には,ドープを用いるのは当たり前のことだった。むしろ,神がかるための必需品ですらあった。つまり,ドープとは「呪薬」のことだったのだ。ふつうの人間からふつうではない人間になるための「呪薬」だったのだから。「スポーツ的なるもの」も,そういう祝祭の場での「力くらべ」であったり,「駆けっこ」であったり,「踊りくらべ」であったり・・・・というところから生まれたのだから。言ってしまえば,スポーツとドープはつきものだった。

こんなことまで書いてくれとは言わないまでも,せめて,「禁止薬物一覧」というものが,いつから定められ,公表されるようになったのか,しかも,その一覧はつぎつぎに変わっていくこと,その中には市販されている風邪薬もふくまれていること,スポーツ選手は試合前に風邪を引いても薬を飲むことすらできないこと,くらいは書いてほしかった。もっとも,この先生,たぶん,こういうことも知らないので,自分の元上司である学長の悪口を書いて原稿用紙の余白を埋め合わせた,ととられても仕方がないだろう。

この先生,科学者のナイープさを窘めたつもりなのだろうが,どっこい,それを書いたあなたは,もっともっとレベルが低いたんなる俗物にすぎない。東大大学院教授の肩書が泣いている。

新聞という公器を使って,こんなことを書いてはいけないし,また,こんなコラムをなにも考えることなく掲載してはいけない。以前の,大江健三郎さんの「定義集」での一件もなるように,新聞もしっかりしてほしいものである。なんだか,世の中,あちこちで「思考停止」という悪性のインフルエンザが大流行しているようだ。そのうち,みんな「自虐的隷従」の民と化してしまうのだろうか。そういう民が増えれば増えるほど「自爆的抵抗」の民も増えてくるのだ。アントニオ・ネグリの論理を借りるまでもなく・・・・。

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2010-02-09 「炎の舞姫」長嶺ヤス子。

_ 2月8日(月)の朝日・夕刊に「人生の贈りもの」という少し大きいコラムがある。そこに「炎の舞姫」と呼ばれる長嶺ヤス子が登場。

大きなポートレートが載っていて,あごのエラの張った意志の強い顔がおしゃれな帽子をかぶって微笑んでいる。彼女の年齢をみて驚いた。73歳とある。まさか,ともう一度,確認してみる。間違いなく73歳と書いてある。おれより年上だったのだ・・・と感慨にふける。

あれはいつのことだったか,もう,記憶も定かではないが,何年か前に歌舞伎座で彼女が踊るというので見に行った。長嶺ヤス子が歌舞伎座で踊る,というのは新聞で知っていた。一瞬,こころが動いたが,そのころやや鬱気味に沈んでいて,チケットを予約するところまでは行動を起こせないでいた。そこへ,Mさんからメールが入り,一緒に見ないか,と誘われた。チケットもこちらで用意する,という。渡りに舟とばかりに,お願いする。

見に行ってよかった。生涯にわたって忘れることのない踊りをみた。もちろん,ディテールは忘れた。しかし,長嶺ヤス子の「踊り」は,そのど迫力の固まりとして,しっかりと記憶されている。思い出すだけで,血が逆流をはじめる。そのときみたものは,フラメンコといえばフラメンコ,フラメンコではないといえばフラメンコではない,そういう「踊り」だった。

およそ,2時間。舞台に出ずっぱりで,長嶺ヤス子が踊りつづけた。全身で舞台の床を叩きつけるような,恐ろしいものを見た,と思った。2時間,絶えることなく,裸足の足が床を蹴り続けている。それもそんじょそこいらの裸足の足ではない。鍛えに鍛えぬいた裸足の足だ。その足を惜しげもなく床に叩きつける。その音のすさまじさ。それが次第にリズムに乗り,もう,引き返すことすら忘れてしまったかのように,そのリズムのスピードが上がっていく。

前半の踊りでは,ときおり,耳に飛び込んできた気合を入れる短い声が,後半に入ると,その度合いが多くなってくる。終盤に入ると,もはや,連続してみずからに気合を入れている。もう,息も絶え絶えに,からだの披露もピークに達しているだろうに・・・・。そして,裸足の足は真っ赤に腫れ上がっているのが,遠くはなれた客席からも,確認することができる。もう,とっくのむかしに心身の限界を超越してしまっている。髪振り乱して,全身汗まみれ。顔はいつのまにか鬼の形相になっている。この世の人の顔ではない。舞台の上で,鬼になってしまった女性をはじめてみた。鬼気迫るものを,この眼でみてしまった。

もう,これで終わるだろう,いや,こんどこそ終わるだろう,ということが何度も繰り返される。寄せては返す波のように。もう,ふらふらの状態になっているのに,これでもか,これでもか,とわが身をいじめ抜いていく。こんなにも激しい女の情念を,舞台の上で見せつけられることになろうとは・・・。長嶺ヤス子はこの世の人ではない・・・・と本気で思った。

たった一回限りの公演,と書いてあったが,当然だ。こんな踊りを踊ったあとは,身もこころもズタズタに痛んでいるはずだ。最低でも一カ月は休養が必要だろう。あの日の夜,長嶺ヤス子は,どんな時間をやりすごしたのだろうか,と時折思うことがある。火照るからだを冷しながらも,それでも炎のように燃え上がるこころは抑えようもなく,スタッフの人たちと酒でも飲んだのだろうか。もし,飲める人なら徹夜で・・・,夜明けまで,興奮さめやらず・・・,ということだったのではないだろうかと想像する。あるいは,荒れに荒れて,何人かの人はスケープ・ゴートにされてしまったのではないだろうか,と想像したりする。どうやって,はやる気持ちを鎮めたのだろうか,と。

たった一回の公演に全力投球をする。しかも,2時間という長丁場を,たった一人で。長い稽古を重ねて完璧な踊りに仕上げたものを,たった一回の公演にすべてをぶっつけていく。そして,完全燃焼する。計算も打算も超越してしまって,ただ,ひたすら「炎の舞姫」の思いのたけを,まさに鬼となって,さらけ出していく。その惜しげもない「消尽」。そう,この惜しげもない「消尽」に,わたしは打ちのめされたに違いない。

あの世とこの世を往来する魂の運動をみていたのだろうか。それとも,ヒトでもなく,人間でもない,そう,「原初の人間」の情念をみていたのだろうか。動物性と人間性のはざまで揺れる「存在不安」を打ち砕かんとする「消尽」を,あのとき目の当たりにしていたのだろうか。あの踊りは,まさに「供犠」にも等しいものだったに違いない。オブジェと化し,事物(ショーズ)と化してしまったわが身,わが心を,もう一度「聖なるもの」へと還元させるために長嶺ヤス子は踊ったのだろうか。あらゆる呪縛から解き放たれるために・・・。

フラメンコ公演「YASUKO Returns !」が4月にある,という。わたしのこころはいま微妙に揺れ動いている。なぜなら,こんどこそ最後まで見届けることができるだろうか,と不安だから。でも,見たい。しかし,耐えられないのではないか,と。あの「供犠」の現場に立ち合うということは,わたしもまた「聖なるもの」の世界へ引きずり込まれていく,ということなのだから。

でも,これがほんものの「芸能」なのだ,としみじみ思う。

朝青龍の相撲もまた,そして,その生き方も含めて,近年には珍しい「芸能」そのものだったのだ。そのことの意味をどれだけの人がわかっていたのか,と残念で仕方がない。朝青龍は「事物」であること(=横綱の品格)を徹底して拒否し,動物性の「自由」をこよなく愛したのだろう。「自分はふつうの人とは違う人間だから」とみずから語っていた,あのことばが印象的である。

(長嶺ヤス子や)朝青龍のような天才を,われわれ凡人の「事物」の物差しで測って,断罪することはあってはならないことなのだ。それができない社会は,まことに未熟な社会として,恥ずかしいと思うべきであろう。

おやおや,いつのまにか,朝青龍の話になってしまった。

長嶺ヤス子さん,ごめんなさい。わたしよりも年上だとは知らなかった。あの強靱な肉体の持ち主は,どう考えても50歳台の前半としか思えなかったのだから。やはり,あなたは天才です。

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2010-02-11 「供犠」と「スポーツ的なるもの」とは同根?

_ 9日のブログで,長嶺ヤス子のフラメンコは「供犠」にも等しい,と書いた。あのあと,その想念が頭から離れない。その余韻を追ってみると・・・・。

「踊る身体」の限界をおおきくはみ出して,もはや,自分の身体であるかどうかも判明できないような状態にまで追い込む,長嶺ヤス子の「踊り」は「供犠」にも等しい,と。この領域は,スポーツ競技のトップ・アスリートたちが,ある特定の条件がととのったときにのみ入り込んでいく世界と同じだろう。これがまた,スポーツの魅力の一つであることはまぎれもない。一度でも,このような現場に立ち合ったことのある者は,二度,三度とその追体験を追い求めることになる。スポーツが面白くて仕方がない,ある種の麻薬性をもっていて,ついには病み付きになる契機の一つがここにあることは確かだ。

以前にも書いたように,バタイユに言わせれば,「供犠」とは,事物になってしまった人間やそれに従属することになってしまった事物たちを,もう一度,「聖なるもの」の世界に引き戻すための儀礼だ,という。つまり,失われた内在性や内奥性の世界に引き戻すための儀礼である,と。だから,わたしたちは野生の動物性(強靱な生命力)にたいして,こころのどこかに畏敬の念と強い憧れの感情をいだいている。この畏敬の念や憧れの感情があるからこそ,祝祭という文化装置をセットして,この時空間のなかでそれを回復させようと試みる。こういう中から「スポーツ的なるもの」も立ち上がってくる,とわたしは考える。

たとえば,スペインの闘牛。説明するまでもなく「供犠」そのものだ。闘牛場で過ごす「時」は,いわゆるサッカーや相撲を観戦している「時」とはいささか質が異なる。それは,もろに一頭の闘牛の「生と死」の物語をまのあたりにするからだ。それに引き換え,サッカーや相撲には「生と死」の物語は,直接的には表出しない。しかし,広義の「供犠」の概念からすれば,なにも「殺す」必要はないのだから,ゴールや決まり手は,立派な「死」の儀礼と考えてなんの不思議もない。だから,われわれは,神がかり的なゴールに熱狂するし,みごとな決まり手に感動する。それは,まさに「供犠」であり,動物性への回帰をまのあたりにするからだ。こんなまなざしで,他のスポーツをも分析してみると,とても面白いことが浮かび上がってくる。

相撲などは,まさに,その起源をたどっていけば,まぎれもなく「決闘」である。日本の『古事記』に登場する相撲も古代ギリシアの神話に登場するレスリングも,みんな「殺し合い」である。なにゆえに「殺し合い」でなくてはならなかったのか,とくと考える必要がある。古代ギリシアの神話には,さまざまな競技の世界が描かれているが,その多くは,敗者は「殺される」ことになっている。それが,ごく当たり前のように伝承されていることの意味はなにか。よく考える必要があろう。『ニーベルンゲンの歌』の中に登場する競技も,敗者はみんな殺されている。なにゆえに「殺す」ということが行われたのか。

さらに,想像力を飛躍させれば・・・。

ハード・トレーニングや千本ノックなども,体力の限界への挑戦であり,一種の「供犠」ではないか・・・と。可愛がりやしごきなども立派な「供犠」の変形ヴァージョンではないか・・・と。マラソンを走ったり,バドミントンの競技に熱中して気力・体力の限界をさまよったりするのも,みずからの身体に課した立派な「供犠」ではないか・・・と。このような例をあげていけばエンドレスだ。そのような一覧表を作成してみると面白いだろう,と思う。

わたしたちは,現代社会にあっても,どこかで先祖還りへの衝動をもち続けているのだろう。つまり,動物性への回帰を,無意識のうちに希求しているのだろう。それが,もっとも合法的に,一つの文化や制度として認知されたものが,こんにちのスポーツなのであろう。このように考えてみると,「供犠」の精神があちこちに姿・形を変えて,いまも温存されているということに気づく。

とまあ,こんなことを大まじめに考えている。このことを,なんとかまともな文章にして記述することはできないか,とも大まじめに考えている。そして,みんなで議論できる素材として提示することができれば・・・・と。

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2010-02-13 神戸市外国語大学の卒論発表会。

_ 12日の早朝に家をでて(まだ,真っ暗のうちに),神戸市外国語大学の卒論発表会を傍聴してきました。なかなか面白い発表があって,刺激を受けました。

プログラムをみると,13名の発表なので,朝の9時にはじまって夕刻の6時に終了することになっている。そのあと,懇親会。わたしが到着したのは,11時ちょうど。5人目の発表から傍聴することができた。

なにを楽しみにでかけたのかといえば,外国語大学の学生さんたちが「スポーツ文化論」という枠組みのなかで卒論をまとめると,どんなものが仕上がってくるのだろうか,というまことに素朴な興味である。予想どおり,まことに自由で,伸びやかに,自分の好きなテーマを立てて,その答えを見つけ出そうとしている。発想も方法も論の展開も,いわゆる狭い意味でのアカデミックな呪縛から解き放たれていて,じつにのびのびとしている。だから,聞いていて面白い。

たとえば,タイトルだけみても,以下のようである。

「時代が求めるテニス」「マラソンの美学」「身体を愛すること」「現代サッカー批評」「スポーツとメディア戦略」「バスクダンスと共同体」・・・といった調子である。しかも,そこで展開されている中味も,いわゆる体育系の学生さんたちが考えることとはかなり違っていて,まことにロマンチックである。だから,思考の展開の仕方がじつに伸びやかである。これがまことにいい。悪しきアカデミズムの形骸化した論文よりは,はるかに味がある。

当日,配布されたレジュメの中から,眼にとまったものをいくつか紹介しておこう。「マラソンの美学」のレジュメの最後のところには,こんなみごとな文章が書いてある。

「マラソンを見て,感動するとき,その感情の奥底には,マラソンランナーのみなぎる生命力に対する深い共感がある。マラソンを走り,マラソンに魅了されるとき,その感情の奥底には,マラソンを走ることによって生まれる,自分自身の生命力に対する快い発見がある。

わたしはマラソンをとおして「生きる自分」を自覚していた。」

じつに素直に,想いのたけを文章にしている。さすがに外大生だなぁ,と思う。理屈よりも自分の感じた感覚を優先させる。そういう若さとみずみずしい感性がいい。人間は「閉じて」しまうと,文章も「閉じて」しまう。まさに「開かれた身体」が書かせる文章である。

もう一つ,引用してみよう。

「身体の自然の在り様と,近代価値観が支配する社会で生きていくために求められる身体との間には何らかの大きな歪み(ズレ)があり,そこから様々な問題が生じているのではないか。人間の身体は遠い昔からほとんど変わっていないにもかかわらず,その身体の生きる社会はどんどん変容を遂げていき,現在は身体がもはやついていけなくなってしまっている状態なのではないか。」

こんなことを一生懸命に考えた学生さんもいる。偉いものだと思う。わたしの大学4年のときにこんなことを考える頭はあっただろうか,と思うと驚いてしまう。どこかに覚めたまなざしがあって,巨視的な思考の展開を可能とさせている。その意味ではみごとである。素朴な疑問をそのままぶっつけていく,その純粋性がいい。なかなか真似のできないことである。

あるいは,テニスの判定のために開発された「ホークアイ」の話も,わたしの思考を激しくゆさぶった。いまや,人間の眼では判定不可能なものをハイテクノロジーが判定する時代なのだ。にもかかわらず,このことの重大さに気づいている人は少ない。この問題はなにもテニスの現場だけではなく,わたしたちの日常生活のすみずみにまで浸透しつつある,という事実にもっと注意を向けるべきだろう。いつのまにか,人間の感覚は不要のものとなりつつあり,その代わりにテクノロジーが補填しつつある。こうして,知らずしらずのうちに,人間の感覚器官はマヒしはじめている。

というようなことを考えさせる発表がつづく。だから,少しも退屈しないのである。こんなことを書くと叱られそうだが,学会発表はすぐに退屈してしまう。なぜ,そうなってしまうのか,もっと真剣に考えるべきだろう。

まだまだ,面白い話題には事欠かないが,このあたりで終わりにしておこう。あとでじっくりと考えることにして・・・。

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2010-02-14 横綱の起こした事件簿

_ いささか必要があって,過去の横綱が起こした事件を調べてみた。あるわ,あるわ,こんなにあったかとびっくり仰天。

その主なものを紹介してみよう。

その筆頭は,双葉山。1947年に,ある新興宗教に入信したまではよかったのだが,その宗教団体が警察の取り締まりの対象となる。代表者の教祖を任意で取り調べようとしたものの,出頭せず。とうとう強制捜索の対象となり,石川県の県警が本部に踏み込む,という事態となり双葉山はからだを張って,警察と対峙。とうとう我慢ならなくなった双葉山が棒を振り回して大立ち回りを演ずることになる。しかし,いかに元大横綱(このとき,時津風邪部屋の親方・前年に引退)とはいえ,多勢に無勢。とうとう,取り押さえられ「逮捕」となる。立派な公務執行妨害で,現行犯逮捕。にもかかわらず,その10年後には日本相撲協会の理事長に就任している。しかも,いまや,横綱の鏡と言われ,品格のお手本とまで言われている。もっとも,こんなことを記憶している人は,いまや圧倒的少数派ではあるが・・・。しかも,なぜか,新聞記者もこのことには触れようともしない。勉強不足か,あるいは,意図的に無視しているのか。いずれにしても,お粗末としかいいようがない。

二番目の話。大鵬,柏戸,北の富士の3人は,拳銃を不法所持していたことで検挙されている。当時,大鵬,柏戸は横綱。人気絶頂の二枚看板。北の富士も昇進街道をまっしぐらの人気力士。このときの理事長が元・双葉山(時津風親方)。自分にも脛に傷を負っていたために強い処置を講ずることができなかったのだろうか。日本相撲協会としては,注意を与えただけで相撲をとらせている。このとき,横綱審議委員会がどのように対応したのかは,まだ未調査。どこかに記録があるはず。当時の新聞を確認するのが一番早いだろう。

三番目の話。双羽黒の暴力・失踪事件。詳しいことは省くが,親方と言い争いになり,親方夫人を突き飛ばして部屋を出て行った,という事件。そのまま,部屋にはもどらなかったので自動的に解雇となる。まあ,わがままといえば,これほどわがままな横綱も前代未聞。しかも,双羽黒は,一度も優勝経験がないのに横綱に昇進している。まことに不自然な,無理やり横綱をつくったというのが,その当時のわたしの印象。日本相撲協会も横綱審議委員会もこぞって賛成した,と記憶している。こちらも,もう少し精確に調べる必要があるが・・・。(この何年かのちに,武蔵丸は二場所連続優勝したのに,横綱昇進に待ったがかかる。武蔵丸は「差別があった」とのちに発言している。)

四番目の話。前田山事件。本場所を休場しているときに,日米野球を見物していた,というお粗末な話。

以上は,第二次世界大戦後の話。それも全部ではない。八百長相撲を取り上げたら,それこそ泥沼にはまってしまう。それ以前の話を拾いはじめたら,それはそれは面白い事件がいっぱいある。

こういう流れからみても,今回の朝青龍の事件がどの程度のものかは,少し冷静に考えればだれでもわかることだ。だから,事件の大きさをはるかに超えて,無意識にはたらいたゼノフォビアという「暴力」こそが,問い直されなくてはならない,とわたしは考える。「朝青龍排除」の大合唱。それをなんの疑問もなく受け入れる日本人の「思考停止」の問題。この問題はひとり相撲の世界のことに限定的に起きている問題ではない。いまや,あらゆるジャンルのできごとについて,メディアの流す情報をそのまま無批判に受け入れてしまう日本人の「思考停止」のもつ「暴力性」こそが問われているのだ。しかも,その背景には,「集合無意識」というもっとも見えにくい「暴力」が潜んでいる。こうした構造こそ,今回の朝青龍問題をとおして問い直されることが喫緊の課題である,とわたしは考えるのだが・・・・。

もちろん,朝青龍問題については,この他にも考えなくてはならない問題はあまりに多い。みんなで,しっかりと考えていきたいと思う。まさに,相撲を批評することは世界を批評することだ,と。このことを肝に銘しておきたい。

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2010-02-15 「国母の乱」は立派な自己主張。

_ 虎mamaさんからのご要望にお答えします。

「国母の乱」はみごとな自己主張。ただし,少数派ですが。スノボー自体がマイナー(いまの大人には)なスポーツなので,それがそのまま世論となって跳ね返っただけのこと。国母君自身は「なんでやねん?」と思っているはず。かれのインタビューの応答をみていればわかるはず。

このギャップがあることはスノボー関係者のみならず,スキー連盟の人たちにはわかっていたはず。だとすれば,事前に,なぜ,きちんと指導をしなかったのか。国母君にしてみれば,W杯もオリンピックも同じ大会。だから,いつもの海外遠征と同じ意識でやってきたはず。

ただ一つ,公式ブレザーなるものを着用すること,というしばりがあるということだけが違う。だから,かれは苦労して公式ブレザーなるものを着用した。たぶん,着用の仕方まではどこにも規定がないはず。だから,かれなりのやり方をしただけだ。要するに自分のファッション・スタイルを貫いただけのこと。

新聞の記事などを読むと,ドレッド・ヘアーに鼻ピアス(2個),黒のサングラス,まであげつらっている。シャツを外に出す着方は,わたしも2年ほど前から,時折,楽しんでいる。いつもの自分とは異なる気分を味わうことができる。ネクタイも必要ないときには,ゆるめている。ただ,「腰パン」だけは,ちょっと抵抗が大きい。でも,わたしなりにファッションには密かにこだわりを持っているつもりだ。第一,ヒゲがなによりの証拠。これにはなかなか風当たりがいまでも強く,それなりの覚悟が必要だ。やはり,スタンダードから外れるにはそれなりの覚悟がいる。

国母君は,明らかに,自分のファッション・スタイルを自覚していて,それを貫いているだけの話だ。わたしにはなんの違和感もない。ドレッド・ヘアーやピアスは,サッカー選手をとおして,かなり認知されてきたはずである。でも,いまでもスポーツ関係者のなかには(もちろん,高齢者),強く反対する人たちの方が圧倒的多数であることは間違いない。

その反対に,20代,30代の若者たちにすれば,なんの違和感もないはず。スノボーがヒップホップの流れとつながっていることを考えれば,服装なんて自由であること,それどころか,いかに自分の個性を打ち出すかということに懸命なはず。他人とは違うファッションを工夫し,それを表現することの喜びを楽しんでいる,と聞く。国母君は,その中のヒーローなのだ。しかも,国際的に実力を認められた選手なのだ。そういうトップ・アスリートを,なにゆえに「スタンダード・ナンバー」の価値観の中に閉じ込めてしまおうとするのか。このことが,こんにちの日本の社会のあり方をひどく歪めてしまっている,ということに,なぜ,気づかないのだろうか。

たけし君のギャグではないが「赤信号,みんなで渡れば怖くない」の真意がわかっていないのだろうか。このギャグのすごいところは,みんな「思考停止」してしまって,「自虐的隷従」が習慣化していることに対する強烈な批判が込められているという点だ。

たしかに,社会の良識なるものは必要である。しかし,その良識をすべての人に当てはめることの危険さに気づかないのだろうか。みんな同じでなくてはならない範囲はある限定つきでなくてはならない。でないと,それは全体主義であり,ファシズムの世界に突進していってしまうことになる。ましてや,ファッションではないか。これこそ自由な自己主張が許される唯一の場ではないか。そこまで縛りつけることの「暴力」に,もっと敏感でなくてはならない。

いまの世論なるものの「暴力」(そのうちの多くはメディアが後押しをしているのだが)が,最近,とみに強くなってきているように思う。朝青龍の「引退」劇も同じ構造からきている。ひさびさに現れた力士中の力士である朝青龍を,どうしてもっと寛大な気持ちで受け入れてやることはできないのか。日本の社会の許容力があまりに小さくなってしまったことを,悲しいと思うし,情けないと思う。「一般人に手を出した」と誇大に報じているが,その「一般人」の姿はいまも明らかにはされていない。明らかにされると,よほど困る人がいるらしい。朝青龍からすれば,いつも一緒に酒を飲んでいる飲み仲間のひとりにすぎない。そのひとりが,たまたま,朝青龍の逆鱗に触れるような言動をしてしまった,ただ,それだけのことだ。こんなことは,まあ,言ってみれば「どうでもいいこと」だ。

同じことを繰り返すようだが,「殴った」かどうか,それだけが問題視される。なにゆえに「殴った」かは問おうともしない。ここには「理性」のかけらもない。「9・11」問題の報道の仕方とまったく同じだ。なにゆえに「9・11」という事件が起きてしまったか,という背景を追求しようとはしない。

国母君が朝青龍のような「性格」をどこかに持っているとしたら,ひょっとしたら,金メダルを獲得するのではないか,とそんな予感がよぎる。逆境をバネにして,さらに,力を発揮する,そういう「性格」だとしたら。スポーツ選手はそのくらいでなくては世界を相手にはやってはいけない。そういう人に,平均的常識を求めてはいけない。まして,オリンピックという祝祭空間でのことではないか。国母君には,大いに羽を伸ばして,君の考える「最高のパフォーマンス」に挑んでほしい。「調子がいいからオリンピックにやってきた。ただ,それだけだ。他の大会も同じだ」と君は言った。それでいいのだ,とわたしは思う。

まだまだ言いたいことはありますが,このあたりでこのブログは終わりにしておきます。虎mamaさん,いかがでしょうか。ご意見をお聞かせください。

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2010-02-16 朝青龍の相撲の魅力。

_ ある雑誌の企画で,朝青龍問題についてIさんとお話をする機会があった。とても刺激的な話題が展開し,至福の時間だった。

そのなかの一つ。朝青龍の相撲の魅力について。

Iさんは,仕切り直しの最後のところで左手を大きく振り上げまわしをポンと力強く叩き,塩をとりにいく,この所作はモンゴルの力士たちが相撲をとる前に舞う「鷹の舞い」に通ずるものだ,と仰る。つまり,あの所作をとおして力士となる,と。その瞬間から荒ぶる魂が全開となり,立ち合いへと向かっていく。この荒ぶる魂こそ人間のアルケー(古層)に潜んでいるものだ。それが立ち現れる瞬間に立ち合うことの快楽を,わたしたちは朝青龍から受けているのだ,という。

なるほど,Iさんはそんな眼で朝青龍の仕切り直しをみていたのだと知り,わたしとほとんど同じ見方を楽しんでいたんだ,と同感。わたしの場合は以下のようだ。

朝青龍の仕切り直しは,場所で直接,自分の眼でみていると徐々に,徐々に気合が入ってくるのがかれのからだ全体をとおして見えてくる。さらりとした白い粉を吹いているかと思われる上半身が,徐々に赤みを帯びてくる。眼の光りも次第に鋭くなってくる。そして,最後の仕切り直しをして,くるりと半回転して塩に向かう瞬間から,重心が下がり(つまり,両脚の膝が曲がり),大きく振り上げた左手を力いっぱいに振り下ろしてまわしを叩く。そのときを境に,朝青龍は俗の世界から聖なる世界に入っていく。そのときの顔は鬼そのもの。まるで仁王さんとなる。形相もすさまじい東大寺南大門の仁王さんとそっくりとなる。塩をとりにいく歩き方も,それまでとは一変して,ゴリラが歩いているような重心の下がった歩き方になる。もう完璧なる相撲人の歩き方である。いつ,どこから相手が飛び掛かってきても対応できる「闘う人」の,まったくスキのない歩き方になっている。あの気迫にふつうの力士であれば圧倒されてしまうだろう。ます席で見ているだけでも,ゾクッとするほどの迫力である。この迫力こそ,Iさんが仰る「荒ぶる魂」の表出の瞬間である。この瞬間に立ち合うだけでもう快感である。このときから,わたしは「エクスターズ」してしまう。

つまり,わたしの身体は朝青龍の身体と一体化してしまう。ます席に坐っているとなりの人もものかわ,わたしの身体は朝青龍の身体の動きと共振・共鳴しながら,右に左にと傾いていく。こうなるともはや,こころもからだもわたしのものではなくなる。バタイユのことばを借りれば「水の中に水があるように存在する」,そういう「存在体」になりはてている。自他の区別のまったくない,そういう世界に入り込んでいる。すなわち「聖なるもの」の領域に踏み込んでしまっているのだ。

朝青龍の相撲とは,わたしにとっては,そういうものだったのである。それがもう見られない。これからは映像で追憶することしかできない。残念の極みである。

というところで時間切れ。

また,チャンスがあったら力士・朝青龍への追悼文を書こう。しかし,それは横綱・朝青龍に向けてのものではなくて,あくまでも,「ちからびと」としての,つまり,力士としての朝青龍への追悼文である。わたしの内なる

「荒ぶる魂」を呼び覚ましてくれる「ちからびと」への追悼文である。あの鬼の形相と化す,仁王さんたる朝青龍に,である。

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2010-02-18 春近し。河津さくらが咲く。

_ 寒さが底を打つと,あとは暖かくなるよ,と子どものころに教えられた。今日の風はほほを切るように冷たい。

いつものように,溝ノ口から鷺沼に出勤(?)。以前から感じていたことだが,溝ノ口と鷺沼では2℃ほど気温差があるように思う。つまり,鷺沼の方が寒いのである。その代わり夏は涼しい。その溝ノ口も東京都内にくらべると2〜3℃低いと思う。多摩川を渡ると気温が下がるとはむかしから聞いてはいた。が,たしかに実感としてそれはわかる。渋谷から電車に乗って,溝ノ口で降りると「エッ」と思うほどひんやりと感ずる。それと同じことが鷺沼の駅を降りると感じられる。

溝ノ口をでるときには,ゆうべは雨だったのだ,と思いながら鷺沼にやってきたら,あれ,雪が降ったのだ,ということを知る。駐車場の車の屋根やフロント・ガラスに雪が積もっている。建物の北側にはかなりの雪が残っている。しかも,風が吹いている。その風がほほを切るように冷たい。雪解けの風はつめたい。雪が降っているときの方が暖かい。

そんなことを思い浮かべながら,歩いていると,住宅街の庭に植わっている枝垂れ紅梅が咲いている,それも満開の紅梅が目にとびこんでくる。ああ,そうなんだ,と気づく。もう,2月も中旬をまわったのだ,と。急にわたしの意識は植物に目がいく。吉野ざくらの蕾芽もはっきりわかるようになってきており,遠くからみるとなんとなく赤みがかってみえる。もう,開花の準備に入っているんだ,としみじみ思う。残雪を背景にした寒椿の花も葉も輝いてみえる。くるりと世界が一回転したかのように,眼に入ってくる景色がまるで違ってみえる。

「ISC・21」の事務所のあるマンションのすぐ近くに,庭師さんの大きな屋敷がある。そこにはさまざまな木が植わっていて,四季折々に花が咲いている。だから,ここを通るのは毎日の楽しみの一つ。でも,「こころここにあらざるとき」(とくに,原稿に追われているとき)には「見れどもみえず」で,ここしばらくはなにも眼に入っていなかったことに気づく。

考えてみれば,このところ,わたしの人生でも初めてという経験がいくつかつづいた。一つは,ある季刊雑誌のコラムで「評論」を連載しないか,というお誘い。しかも,わたしの専門のスポーツ文化論ではなくて,映画や音楽というジャンルだという。で,早速,映画「Dr.パルナサスの鏡」とDVD「This Is It」(マイケル・ジャクソン)の評論を書くという,恐ろしいことが起きた。これには緊張したが,勇を鼓して挑戦。なにか,別世界にとびだしたような初体験。

もう一つは,日本の哲学系の学会から声がかかって,ある話題を提供してほしいとの依頼。こちらは5月の上旬に開催される学会大会のある一つのセッションでの議論となる。そのための打ち合わせが,つい,この間あったばかりである。しかも,議論に参加される先生方は,お名前を聞いただけで脚の震えが止まらなくなってしまいそうな,著名な方ばかりである。はたして,わたしで務まるのだろうか,と不安になる。こちは,『談』という雑誌と『近代スポーツのミッションは終わったか』を読んだ上での依頼である,という。と言われてしまうとお断りするわけにもいかず引き受けることになる。もう,いまから胸がドキドキしている。

あと一つは,ある雑誌でのIさんとの対談。こちらは,16日(火)の夕刻に終わったばかり。終わるまではどうなることか,と胸がドキドキ。小心者だから,もう,この話が決まったときから,そわそわと資料集めをはじめた。しかし,実際に対談に入ってみたら,集めた資料はほとんどなんの役にも立たず,これまでに見聞してきた情報の蓄積で,なんとかやり過ごしたというのが本音。

という具合に,まだまだある。すでに,とっくの昔に締め切りが過ぎてしまった重要な論文の原稿がある。さらには,3月末締め切りの,こちらも重要な国際セミナーの原稿がある。そのあとには・・・・,この稼業は終わることがない。

だから,ここ数カ月は,わたしの頭の中は目の前の仕事をどうやってさばくか,というところに釘付けになっていた。まわりのことに目配りをするなどという余裕はまったくないまま,日々を送っていた。一つひとつの仕事のたびにオブセッションの状態に入っていた。いまも,そこから脱出できないままである。

なのに,今日は,どうしたことだろう。ほほをなぜる冷たい風が,わたしの眼を覚ましたかのように,まわりの景色がみえはじめた。なにかが大きく変化しようとしているかのように。

さきほどの庭師さんの屋敷のなかに植わっている河津さくらが,もう5分咲きになっている。そういえば,去年も,早く咲いていてびっくりした記憶がある。伊豆の河津ではもう満開なのだろうなぁ,と想像しながらしばらく立ち止まって,こころゆくまで眺めてしまう。道を歩いている人もいないので,なに憚ることもなく,じっと眺める。こんなことは久しぶりである。

この冷え込みで,ことしの冬の寒さも底を打ったとすれば,あとは暖かくなるだけだ。もちろん,三寒四温というので,まだまだ寒い日もやってくるのだろうが,それよりも温かさの方に近づく力の方が強いということ。第一,河津ざくらが咲いた。これから春に向かって,わたし自身もまた,なにか大きな変化が起こるのだろうか。そんな予感のようなものが襲ってきて,こころが浮き立ってくる。

さきほどまで,どんよりと曇っていたが,いまは,もう真っ青な青空が広がっている。春近し・・・いつもとは違う感情を伴いながらしみじみと思う。こういうときは慎重であれ,と故人は教えてくれた。

「春近し」「はるちかし」「ハルチカシ」と唱えながら・・・・。

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2010-02-19 國母くんの「着こなし」だって・・・・?

_ A新聞の今日の記事を読んでびっくり仰天。國母くんの記事の書き方が180度,ひっくり返ったからである。

まずは,国母くんが「國母」くんに変わったこと。こんな基本的なことも確認しないで記事を書いていたのか,と唖然。最初から人間扱いにしていないで,邪魔者扱いしてきたことが透けてみえてきてしまう。

ところが,國母くんの過去の「善行」が明るみにでてきたとたんに,記事の書き方が変わってしまった。新聞メディアの恐るべき「暴力」をまのあたりにして,しばし呆然。ひとことくらいお詫びのご挨拶があってもいいではないか。

A新聞一面の有名コラムで,遠回しに「賛否両論があったが・・・」と書いて,國母くんの「着こなし」問題を擁護する立場に変じた。だれだ,「服装の乱れ」と書いたのは! しかも,他の紙面を眺めてみても國母くんへのあのバッシング記事が嘘のように,ごくふつうの代表選手なみに扱われている。8位で終わったにもかかわらずこの扱いならば,バンクーバーの地元新聞の予想どおり「銀」を獲得していたら,どういうことになったのだろうか,と勘繰りたくなってくる。

おまけに,「4年後も・・・」という國母くんの意志もそのままきちんと書いている。本来ならば,「冗談じゃないよ,顔を洗って出直してこい」ぐらいの記事が書かれても不思議ではない。にもかかわらず,「4年後にはもっと立派な選手になって,もっと上を目指してほしい」とまで書いている。おやまあ・・・と開いた口がふさがらない。

SAJ(全日本スキー連盟)の幹部さんたちは,これからどういう姿勢を打ち出すのだろうか。ひとことくらい國母くんに謝るのだろうか。おそらく,苦々しい思いでだんまりを決め込むのが関の山。まことに元スポーツマンらしくない態度を,老化するととる。情けない。それに引き換え,聖子ちゃんは今回は立派。団長としての矜持を守り通した。これぞ団長というものである。なによりも,選手たちへの深い「愛」が伝わってくる。

それから,もう一点。東海大学の「応援会」の不甲斐なさ。もっとも身近にいて,國母くんの日頃の言説や態度や,これまでの実績(善行も戦績もふくめて)についてもよくわかっているはずなのに,なぜ,ひとこと「國母くんは<着こなした>こと,インタビューには不慣れで,いつもの剥き出しの自己主張をしただけのこと,と弁護しなかったのだろうか。そして,大学としては國母くんを応援する気持ちに変わりはない,と主張しなかったのだろうか。「チッ」と「セーナ」のひとりごとは,一度でもいいから,報道陣の取材に応じたことがある人間ならすぐにわかる。同じことを,しかも,こちらにとってはなんの興味もないことを,何回でも繰り返し質問してくる。もう,いい加減にしてくれ,という気持ちにもなる。

メディアが一致団結して,「国母」バッシングに走る,この姿は異常である。メディアは,これほどまでに単細胞で,報道についての独自のコンセプトもなしに,ただ,お祭り騒ぎのようにみんな足並みをそろえて「神輿」を担いでいる。メディアが「思考停止」してしまったら,このさきに待つものは「全体主義」の足音しかない。強烈な個性をもった,カリスマ的な性格をもった政治のリーダーが現れたら(たとえば,ヒトラーのような),あっと言う間に日本は一つになって「ハイル・ヒトラー!」の大合唱がはじまってしまう。

こういう情況を生んでしまった責任の一端は当然のことながらわたしたちにもある。どうして,わたしたちはこれほどまでに他人のちょっとした欠点を針小棒大に取り上げ,言挙げするようになってしまったのか。このことを一度,冷静に考えてみることが必要だ。

國母くんは,まだ,救われたからいい。難病から立ち直った大先輩が,わたしの命の恩人だ,と名乗りをあげてくれたからよかった。ドルジくんには,だれも助ける人が現れなかった。なぜだ。風向きが変わるとみんな腰がひけてしまい,谷町的な大御所までもだんまりを決め込んだ。いわゆる「死んだふり」である。貴乃花の得意の手だ。ドルジくんこそ,かれが日本にやってきてから,こんにちまでの足どりをトータルに検証する,ということをやるべきだろう。NHKは,特番を組んで,ドルジくんの相撲人生を報道する気はあるのだろうか。

わたしの眼からみれば,ドルジくんが日本相撲協会につくした貢献の大きさは計り知れないものがある。21場所,一人横綱で,相撲人気を維持しつづけたことの意味をほんのちょっとでも考える気持ちがあれば,こんなことで「引退」させることなどできなかったはずだ。ドルジくんのお蔭で,日本相撲協会の会員諸氏(力士も親方も理事も床山もみんな)がどれほど潤ったことか。そして,なによりも,どれほど多くの日本国民がドルジくんの相撲に酔ったことか。感動を与えたことか。そのことをとくと考えた上で,今回の「引退劇」を振り返ってみたい。

点で人を評価してはならない。できるだけ長い眼で人をみとどけるべきだ。そして,トータルで最終的な評価をすべきだ。

國母くんのこと,ドルジくんのこと,多くの教訓を含んでいる。二度と,このような愚を犯さないよう,そっとわが胸に手を当てる。

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2010-02-20 小長谷有紀さんの「朝青龍引退に寄せて」を読む。

_ 2月15日の毎日新聞の夕刊・文化欄に,小長谷有紀さんの「朝青龍引退に寄せて」というエッセイが掲載されている。

やっと,まともな批評がでましたね,とIさんがコピーをわたしてくれた。一読して感動。さすがに小長谷さんだ,と。モンゴルをフィールドとする文化人類学者で,モンゴル相撲についても第一人者。しかし,エッセイのなかではひとことも専門家であることには触れず,さらりと,ごく自然に,さも当たり前のことであるかのごとく,ことの本質を明らかにしている。わたしも,ここまでは目配りができてはいなかったので,たいへん刺激を受けた。小長谷さんの主張は以下のとおりである。

日本はとっくのむかしにホスト社会になっていて,08年末現在,約222万人が外国籍をもって日本に住んでいる。ほぼ長野県の人口に匹敵する。こういう人たちが,少子高齢化した日本社会の重要な構成メンバーとなっていることを忘れてはならない。なぜなら,こういう人たちを他者として排斥すると日本のシステムそのものが成り立たなくなってしまうだろう。角界にいるモンゴル人の場合も同じはずだ。

横綱がモンゴル人だけなのは,日本人が弱いからではない。力士になりたいという夢を描く日本人の若者が少ないからだ。もはや,異形の身体になんの魅力も感じなくなってしまったし,おまけに「可愛がり」があることも知ってしまっている。しかも,古いしきたりがいっぱいあって,自分の自由にはならない。そんな「伝統」があるとはつゆ知らず,純粋に格闘技だと誤解してやってくる外国人のお蔭で,日本の大相撲がかろうじて成り立っているのだ。だから,いまや瀕死の状態にある大相撲を,一人で21場所も横綱として支えてきた個人に対して,わたしたちは一言感謝してもよかったのではないか。

そういう感謝のことばを告げる間もなく,いかにも日本らしいやり方を世界中に発信してしまった。喧嘩両成敗や謝れば許すという日本的な流儀も閉ざされたまま,情けない結果となってしまった。

たしかに入幕当初からさまざまな言動が問題視されてきた。しかし,そのたびに,わたしたちはなにがいけないとされているのか,隠された掟を知ることができた。わたしたちに内在化されてきた「文化」が,かれの言動をとおして,はっきりと可視化された。つまり,物議をかもす朝青龍によって,わたしたちは自画像を見据えることができたのだ。出身地を問わず,全力士にとって反面教師であり,防波堤でもあったろう。そんな彼は去って彼自身の問題は解消する。しかし,わたしたち自身の問題はなにも解決されてはいないのだ。

むかしから日本は,優れた技能や技術をもった渡来人を受け入れてきたという,ホスト社会の歴史をもっている。また,近代には,日本人自身が移民して新天地を開いてホスト社会に受け入れてもらったという経験をもつ。にもかかわらず,現代におけるホスト社会はどうあるべきか,わたしたち一人ひとりはどのようにふるまえばいいのか,まだまだ検討中であり,模索中なのだ。

という具合である。

まさに眼からウロコである。そうなのだ。大相撲はすでに外国人力士なしには成り立たなくなってしまっているのだ。この現実に眼をつむって,国技がどうの,横綱の品格がどうの,と「識者」と言われる人たちが口角に泡をとばして力説される。なんと陳腐な図柄であろうことか。相撲がいつから国技になったのかも,いまの力士たちは知らないだろう。もちろん,ほとんどのインテリを自称する日本人ですら知らない。なのに・・・,である。横綱の品格とはなにか,きちんと説明できる人がいるのだろうか。これほど話題になっているにもかかわらず,これが「横綱の品格である」という定義をした人はひとりもいない。にもかかわらず,横綱の品格が一人歩きをしている。そんな,わけのわからない「亡霊」の犠牲となったのが,ドルジくんなのである。

情けないことではあるが,わたしたちはいま一度,日本の社会がどのようにして成り立っているのかをしっかりと見極めること,そして,世界がなにゆえに混迷の一途をたどっているのか,冷静に考えることが必要だ。いまこそ,ほんとうの「理性」が問われている。ヨーロッパ近代の理性ではなく,そこを超克した新しい「理性」の誕生が待望されている。すでに,芽生えつつあるのだが・・・・。

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2010-02-21 バタイユの「祝祭」について。

_ たんなる馬鹿騒ぎをして日頃の憂さを晴らす時空間,それが祝祭である,とぼんやりと考えていた。しかし,バタイユを読むと,そうは問屋が卸さない,ということがわかった。

出典は,いつもの『宗教の理論』。そのなかに「Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則」なる章がある。このなかで,これまでにもこのブログで触れてきたことの核心部分が展開されている。いつものことながら,びっくり仰天しつつ,まわらぬ頭を必死で回転させている。バタイユは「祝祭」というものを以下のように考えている。

結論から言ってしまえば,動物性と人間性のせめぎ合いの結果の妥協の産物,それが「祝祭」だ,というのである。動物性とは,人間がまだヒトであった時代の「生」のあり方を意味し,内在性・内奥性のなかにどっぷりと浸りこんで生きている状態のことである。つまり,「水の中に水があるように存在」している,ということ。自己と他者の区別がない状態での「生」の有り様のこと。それに対して,人間性とは,動物性から一歩踏み出し,理性でものごとをに対処する「生」のあり方を意味し,他者を事物として認識し,その事物を人間に従属させ,ますます自分におって都合がいいように作り替えていく「理性」的な生き方のことである。

人間は,他者を事物としているうちに,自分自身もまた事物となってしまい,そこから抜け出して,かつて,ヒトの時代の内在性や内奥性を取り戻そうという願望をもつようになる。そして,いつのまにか,ヒトとしての動物性と人間としての人間性のはざまで揺れ動きながら生きることになってしまった。つまり,動物性の「生命」と人間性の「理性」とはお互いに相容れないものであるので,自分自身が矛盾に満ちていることを知る。言ってしまえば,絶対的矛盾のうちに生きている。あるいは,「宙づり」状態で生きている。

もう少し砕いておけば,動物性の「生命」とは,たとえば,「本能」的欲求のままに生きること。すなわち,三大本能と言われる「睡眠欲」「食欲」「性欲」をまっとうする生き方。野生の動物は眠くなれば眠り,腹がへれば食べ,性欲が高まればそれを満たし,となにものにも束縛されることなく生きている。ヒトはこういう「生命」を生きていた。しかし,ヒトに別れをつげ,人間への道を歩みはじめたばっかりに,大きな悩みを抱え込むことになった。つまり,「理性」で「本能」をコントロールしなければならなくなってしまったからだ。しかし,どう考えても力関係からいえば,「理性」よりは「本能」の方が残念ながら強い。世の中の不祥事の大半は,ここに起因する。とりわけ,男と女の関係は貴賤・貧富の違いはない。等しく平等である。

気づけば,なにか,とんでもないところに脱線してしまっている。もとに戻す。とはいえ,もう手遅れ。時間がない。最初の「結論からいえば」というところに戻すには,もっと手間ヒマがかかる。したがって,このブログは明日,最初から書き直すことにする。お許しのほどを。

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2010-02-22 スポーツは「人間」を考えるためのバロメーター?

_ スポーツは「人間」を考えるためのバロメーターではないだろうか,と突然,ひらめいた。

このところ,ぼーっとしていることが多く,そんなときに限って妙なことが頭をよぎっていく。

「スポーツ」とはなにかと問うことは「人間」とはなにかと問うことである。

「スポーツ」は内在性への回帰願望から生まれた。

「決闘」とは「供犠」であり,「人身御供」である。

「決闘」はなにものにも勝る「消尽」である。

「決闘」こそ「聖なるもの」に接近する最高の手段である。

こんなことを考えていたら,突然,スポーツは「人間」を考えるためのバロメーターではないか,と飛び出してきた。

「萌の襲」(もえのかさね)である。こういうときはまことに心地よい。快感そのものである。だから,ぼーっとしていることがやめられない。つぎからつぎへと「萌の襲」が押し寄せてくる。全身の力を抜いて,身もこころも空っぽにして,ただ,ひたすら,ぼーっとしている。寝っころがっていていいのだから,坐禅よりもずっといい。

さて,本題に入ろう。スポーツは「人間」を考えるバロメーターではないか,という問いへの自己流の応答は以下のとおり。いささか荒っぽい論旨になってしまうが,足りないところは想像力で補っていただきたい。

「人間とは自らが不分明なうちにそうであるところのもの,つまり判明に区切られていない内奥性を喪失した存在,あるいはさらに拒み,投げ棄てた存在である」とバタイユは『宗教の理論』のなかで書いている。やや逆説的ではあるが,だからこそ,人間は内奥性への回帰願望が強いのだ,ともバタイユは主張する。つまり,拒否し,放棄してしまった内奥性をそのままにして人間は生きていけるのか,というとそうはいかないのである。ここで言っている「人間」とは,「理性」なしには生きていかれない,事物と化してしまった存在のことである。

しかし,わたしたち人間は,無意識のさらに深い部分に内奥性を宿しつつ,理性という名のご主人さまに仕えながら(「自発的隷従」=西谷修『世界』2月号),矛盾だらけの「生」を生きている。もっと,単純化してしまえば,内奥性と理性の間をゆきつもどりつしながら生きている。つまり,あるときは理性的に生き,あるときは内奥的に生きている。この矛盾を一気に解消するものが「スポーツ」ではないか,というのがわたしの仮説である。なぜなら,「スポーツ」は,内奥的な衝動と理性的なルールとを同時に実現させる文化装置であるからである。

もう少しだけ述べておけば,さきほどのひらめきの一つ,スポーツは内在性への回帰願望にその起源をもつ,というものと結びついていく。つまり,内在性に接近するためには,なにをおいてもまずは過剰な「消尽」を必要とする。その「消尽」こそ内奥の衝動が引き金となって,ますます激しさを増す

。しかし,その「消尽」もまた,近代にあっては「ルール」という理性的コントロールのもとに管理されている。だから,十全なかたちでの「消尽」はもはや不可能ではある。しかし,スポーツという一定の枠組みのなかで,つまり,条件つきの「消尽」は可能である。

この条件つきのというところがキー・ポイントとなる。なぜなら,「消尽」の範囲をどの程度まで許すかは「ルール」によって表現されているからだ。つまり,時代や社会とともに「ルール」はどんどん変化していく。つまり,理想的人間像をどのように設定するかによって,スポーツの「ルール」もまた,それに同調するからである。

人間の生命や怪我に対する「安全圏」のとり方,考え方が,当然のことながら,スポーツの「ルール」の設定となって表出する。だから,スポーツの「ルール」をつぶさに分析していけば,そのような「ルール」を創案し,実践させる「人間」の姿というものが,おのずから浮かび上がってくるからである。

だから,スポーツは「人間」を考えるためのバロメーターになりうるのではないか,と。

ブログで書くとしたら,このあたりが限界かなぁ,と思いつつ・・・。ひらめいた感動は冷めないうちに書いておかないと・・・,という程度のお話。もう少し精度を高めて,きちんとした理論仮説にまでもっていかれたらなぁ,という密かな願望もいだきつつ・・・。

とても素朴なひらめきなので,論理も穴だらけ。大いにツッコミを入れていただけると幸いである。

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2010-02-28 名古屋は春。横浜は冬。

_ 昨日から「ISC・21」2月名古屋例会に出張。濃密な時間をすごすことができ,大満足。

今回は新人がひとり参加して,フレッシュな気分を味わった。大島さん。この4月から奈良女子大学の大学院に進学するという。臨床心理学が専門で,卒論は,フィギュア・スケート選手の性格特性の分析。ご自身がフィギュア・スケートの選手であり,コーチもする経験をもとに,選手たちの性格特性を分析したもの。科学的な分析に経験知を加えた,面白い内容であった。ときには,こういう発表を聞くのも楽しいものだ。

名古屋の出身なので,子どものころから,真央ちゃんや美姫ちゃんたちと試合では競い合ってきたという。こちらの経験談の方も聞きたかったが,今回は遠慮した。また,つぎの機会に,フィギュア・スケートの世界の裏話なども聞きたいと思っている。

第二部は,『理性の探求』(西谷修著,岩波書店)の輪読会。井上邦子,月嶋紘之の二人による,ⅠとⅡの読解。ルジャンドルの再解釈による「理性」というものをどのように理解するか,いろいろと面白い話題が展開した。詳しいことは省略するが,やはり,読み手によってずいぶんと違う読み方がでてくるものなのだ,ということをあらためて知る。だから,輪読会は面白いのだが・・・・。

問題は,『理性の探求』のなかから,なにを,どのように読みとり,それらを,自分の研究にどのように反映させることができるのか,ということを明らかにすることだ。そうでないと,たんなる内容紹介に終わってしまう。それではつまらない。少なくとも,このテクストはそういう内容を含んだものであるのだから,そのつもりで読まないと・・・。

この輪読会は,3月21日の3月大阪例会でも,残りのⅢとⅣを取り上げることになっているので,そこらあたりのことをしっかりと議論できるといい,と考えている。そうして,4月東京例会の合評会に備えたいと思う。そのためにも,しっかりと読み込んでおきたいものだ。

夜の宴会が,また,楽しかった。初めての「やきとり」屋さん。味が抜群によかった。これはやみつきになりそう。

名古屋の今日は,もう,まるで春。吹く風が心地よい。薄着のお姉さんの姿が目だつ。女性は季節の移り変わりに敏感に反応する。そして,その季節に合わせて着るものを変える。男は駄目だ。鈍感なのか,着る衣裳が凡庸なのか,少しも代わりばえがしない。

新横浜の駅に降り立ったら,そこは,まだ真冬だった。吹くかぜが冷たい。思わず首をすくめてしまった。新幹線でたった1時間30分。それなのに,春と冬を同じ日に体験した。日本列島は面白い。

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