Diary


2010-03-01 「ゾーエー」と「ビオス」のせめぎ合い。

_ 2月27日の「ISC・21」2月名古屋例会で,「ゾーエー」と「ビオス」という二つのギリシア語が話題になり,大いに盛り上がった。

『理性の探求』をテクストにした輪読会での話題なので,当然といえば当然のことだが,いきなりエピローグに相当するところに書き込まれた西谷さんの論の展開の仕方に,この研究会のメンバーの関心が向かったところが面白いと思った。なぜなら,役割分担としては,このテクストの前半がこの日の議論の対象になっていたからである。それが,どうしたはずみか,いきなりエピローグの話題に飛んだからである。

「ゾーエー」とは,「ただ生きているという事実」を意味し,「ビオス」は「形ある生」(ケレーニー),言いかえれば「ポリスの様式にしたがって営まれる生」(西谷修)を意味する。これをジョルジョ・アガンベンは,「社会的に人格をもって生きる生」と,その条件を奪われた「剥き出しの生」(たとえば,アウシュヴィッツの生)とを対比させて考えようとした。

この議論の詳しいことは,テクストの『理性の探求』にゆずることにして,ここで,どうしても取り上げておきたいことをピン・ポイントで切り取っておけば,以下のとおりである。

西谷修はアガンベンの論旨を紹介しながら,さらに一歩を進めて,この用語の核心に触れている。

「・・・この場合『ゾーエー』はネガティヴに規定されるが,それがネガティヴなのはあくまで『文明のビオス』にとってのことである。だが,その『文明』が臨界点に達して変容を迫られているとき,『文明』によって『ソーエー』の領域に排除されてきたものの方が,逆に人間の存続の可能性を担うことになる。」

この指摘が,いまのわたしにはことのほか刺激的である。なぜなら,いま,ちょうど必要に迫られてある論文を書きつつあって,そこで展開している論旨と,みごとに符号してしまうからである。たとえば,こうである。

「ヒトが人間になる」という生物学的な進化をとおして,なにが,どのように変化することになったのか,を問うてみる。そうすると,ヒトとは「動物の生」を生きる「生きもの」であり,「人間」とは文化を生み出し,それを維持・発展させることをめざした「生きもの」のことであることがわかってくる。ところが,人間になった「生きもの」は,その当初からヒトとして生きる「生きもの」の世界(「聖なる世界」)を完全に忘れて生きるわけにはいかず(いろいろの理由があるが,ここでは省略),たえず,ヒトの世界,すなわち「聖なる世界」への回帰願望をいだき続けることになる。この構造は,基本的にいまも変わらない。にもかかわらず,人間はヒトであることをネガティヴに考えている。しかし,ヒトであることを完全に排除してしまうことはできないのである。

この関係は,ちょうど,「ビオス」と「ゾーエー」の関係に符号する。これを「スポーツ」とはなにか,という問いとクロスさせてみると,じつに面白い世界が広がってくる。わたしは,いま,ヒトと人間という観点から,「スポーツ」とはなにかという問いに応えてみたいと考え,ある論文を書き続けている。これと同じことが「ビオス」と「ゾーエー」の概念を用いて説明することができる,と確信する。すなわち,「スポーツ」とは,「ビオス」と「ゾーエー」の二つの領域をみごとにカバーしうる文化装置である,と言うことができるからだ。

このあたりの論旨をもう少し整理して,いま,書いている論文の結論にもってこようかと考えている。

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2010-03-03 「スポーツ」とはなにか。

_ 長い間,脱出不能のトンネルのなかにいて,ようやく抜け出てきたと思ったら,もう3月3日,お雛さまの日。

ある必要に迫られて総説論文なるものに挑戦していた。題して「スポーツ」とはなにか。このブログをずっと前から読んでいてくださる方には,あっ,あれの話だな,と直感されると思う。そう,そのとおり。

バタイユの『宗教の理論』の世界が急にみえるようになり,なにかが一気にはじけた。最初に読んだころには,なにか不思議な本だなぁ,という程度の理解だった。しかし,なにかがわたしの頭のなかにひっかかっていて,時折,取り出してきては拾い読みをしていた。が,あるとき,ほんとうに「あるとき」突然に,濁っていた水が「すーっ」とみるみるうちに透明になるように,バタイユの言わんとする原初の人間の世界がみえてきたのである。それが,ちょうど1年くらい前の話。

なにか,とてつもない大発見をしたような感覚になり,オーバーな言い方をすれば世界観がひっくり返るような,まったく新しい知の地平にとびだしてきたように思った。しかし,よくよく落ち着いて考えてみたら,これまで長い時間をかけて問いつづけてきた「開かれた身体」や「自己否定」や「他者肯定」といった,わたしなりの到達点の延長線上に位置づく世界であることがわかってきた。つまり,「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではなくなる」,そういう世界と通底している,と。

だとしたら,これは,なんらかの形でまとめておく必要があると考えていた。そんなタイミングを見計らったかのように,特別講義の依頼があった。内容はなんでもいい,という。では,この『宗教の理論』の冒頭のテーマ「ヒトが人間になることの意味について」話をしてみようと提案。すぐに,OKがでる。そして,当日,意気揚々と学生さんたちの前に立った。が,どうしたことか,話したいことが山ほどあるのに,入り口が見つからない。あせればあせるほど混迷のど真ん中に入っていってしまう。途中でなんども立ち往生。なんとも情けない経験をしてしまった。やはり,実力不相応のことはしてはいけない,と神さまから一撃をくらった思いで引き上げる。

そのあと,悔しくて悔しくて,納まらない。自分で納得がいかない。よし,では,学生さんたちにお詫びに「レポート」を書こう。そうしてお許しをえることにしよう,と決意。そんな思いをこめて,このブログをとおして,『宗教の理論』の内容に触れるテーマを何回にもわたって断続的に書かせてもらった。この「書く」という営みをとおして,ようやくバタイユの言わんとする世界が,少しずつ自分のことばとなって語れるようになってくる。これは予測どおり。やはり,書くということが大事だ。

これで,準備運動は完了。いよいよ論文にとりかかろうとしたが,なかなか,まとまった時間が確保できない。こういうものは一気に書くにかぎる。丸三日もあればいいだろう。そのチャンスをうかがう。しかし,そんなことは待っていても駄目だと気づく。むりやりにこじ開けるようにして,「三日間」の時間を確保。そして,とりかかる。が,そのつど,突然の仕事が割って入ってくる。結局,二つほど,わたしにとっては大事な仕事を済ませて,ようやく原稿の執筆に入る。だから,結果的には,何回も途切れ途切れを繰り返しながら書くことになってしまった。

冒頭に書いた一文は以下のとおり。

「スポーツ」とはなにかと問うことは「人間」とはなにかと問うことだ。この問いに応答するスポーツ史研究は可能か。もし,可能だとすれば,どのように可能か。本稿では,そのための理論仮説を提示してみたい。

という調子である。自分でも不思議なことに,この一文は,なにも考えることなくごく当たり前のように指が動き,パソコンのディスプレイに文字が浮かび上がる。書きながら興奮する。えっ,と思わず声を発する。冒頭からこれである。だから,途中でも思いがけない展開が随所に表出し,書いている自分が驚いている。最初に用意した構想は,冒頭から吹っ飛んでしまって,おとなしく頭の中のどこか片隅から「ひょこっ」と浮かんでくることばをロボットのようにパソコンに打ち込む。

久しぶりの経験である。これまでにもこんなことがときどき起きた。書いているという主体性などというものはどこにもない。なにかに「書かされている」という不思議な経験。虚実皮膜の間(あわい)からとびだしてくる「萌の襲(かさね)」。

このようにして誕生した論文のできばえは自分では評価できない。よいのか悪いのか,そんな次元を超えでてしまっている。ただ,自分としては,こんな作品になってしまった,という実感があるのみ。充足感が半ば,不安が半ば。おとなしく他者の批評を待つのみ,というところ。

それにしても,ようやく長いトンネルから脱出することができた。そうしたら,もうお雛さまの日を迎えている。これからは日毎に暖かくなっていくことだろう。さて,つぎはなににとりかかろうか。こんな経験を,もう一度,近日中にしてみたいものである。

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2010-03-04 P.ルジャンドルの「理性」理解について。

_ 『理性の探求』(西谷修著,岩波書店)の輪読会(2月27日・名古屋)で議論になったP.ルジャンドルの「理性」理解について,少しだけ補足をしておきたいと思います。

西谷さんが「後記」で記しているように(P.199),この本で用いられている「理性」ということばは,P.ルジャンドルが再解釈した意味である,ということをまずもう一度,確認しておきたいと思います。そして,西谷さんはつぎのように述べています。

「それは人間の『根拠』に関わるものではあるが,抽象的な能力ではなく,『なぜ』という根源的な問いに答える作用である。言葉で生きる生きものである人間が,生きうるものになるためにはそのような『理性』が欠かせない。そのような『生きものの要請としての理性』に立ち戻って『人間』を問い直さなければならない状況に,現代の世界は立ち至っている。『理性』といえば『啓蒙』が想起されるが,ここではむしろ『啓蒙』をリセットして『理性』を捉えなおし,それに骨肉を与えることが課題になる。」

ここで述べられていることは,このテクストを読むための共通の理解として不可欠の部分です。わたしたちは,つねに,ここから出発して,ここに戻ってくるような,そういう読み方をしていくことが必要だ,と思います。そうしないと,議論がかみ合わなくなってしまう畏れがあります。つまり,議論が不毛になってしまう,ということです。

で,想起されることは,この間の名古屋で話題になった「ことばを話す動物」と「ことばを付与された生きもの」の区分の問題です。このとき「ことば」をどのレベルで考えるか,ということが議論を深める上での一つの大きなポイントとなってきます。ルジャンドルの言うように「類としての人間を定位する」視点として「ことば」を考えるか,J.デリダのようにことばが誕生する以前の「原言語」まで下ろして考えるか,あるいはまた,ソシュールのように「意味するもの」と「意味されるもの」という記号論のレベルで考えるか,この問題はじつはとてもやっかいな内容を含んでいる,という次第です。ただ,そこまで行ってしまうと肝心要の「理性」が抽象論の世界に入っていってしまうことになります。

ですから,ルジャンドルの「ことば」は,類としての人間を定位するための概念として理解しておくのが無難ではないかと思います。それは,ちょうど,バタイユが「道具」を引き合いにだして,類としての人間を定位するのと,同じ方法だと思います。このバタイユのいう「道具」も,厳密にいえば,なかなかやっかいな問題を含んでいます。それはハイデガーのいう「道具」論をかなり意識した用い方をしているからです。

いずれにしても,この輪読会で大事なことは,ルジャンドルが再解釈したとされる「理性」にもどってくるような議論をしていくことだと思います。その意味で,月嶋君が,ルジャンドル理解のために,『現代思想』に寄せた西谷さんの論考(2003年9月以降の連載)を参考文献として挙げていることは,まことに当を得た方法だと思います。ちょうどその時期にルジャンドルが来日して,一連の講演やシンポジウムが行われています。『ドグマ人類学総説・西洋のドグマ的諸問題』(平凡社)は,ルジャンドルの来日に合わせて大急ぎで刊行されました。が,この本は相当に気合を入れて読まないかぎり,歯が立ちません。きわめて難解です。

そこでお薦めは,『西洋が西洋について見ないでいること──法・言語・イメージ』(以文社,森元庸介訳,西谷修解説)です。これは,来日した折のルジャンドルの講演集です。「マネージメントと科学主義がグローバルな支配を及ぼす時代に,鏡をとおして,イメージ,主体,アイデンティティを問い直し,ことばを話す生き物=人間の生きる論理を明るみに出す。ドグマ人類学への最良の手引き」(帯のコピー)とありますように,こちらとてもわかりやすい内容になっています。そして,なによりも,この本のなかに収められている西谷さんの「解説」が簡にして要を得た素晴らしいものになっています。この部分は,すぐに読めますので,きちんと押さえておきましょう。

それともう一冊。やはり,ルジャンドルの行ったワークショップでの議論をまとめた本,『<世界化>を再考する』(西谷修編,東京外国語大学大学院21世紀COEプログラム「史資料ハブ地域文化研究拠点」研究叢書)がお薦めです。この中でも,西谷さんが「ピエール・ルジャンドルとドグマ人類学」というコンパクトな「解説」を書いています。この本全体を読むと,日本の若手研究者の研究内容にルジャンドルがコメントをつけるという「やりとり」をとおして,さらに具体的に「ドグマ人類学」が浮かび上がってきます。このワークショップに参加した人間にとっては,強烈な印象となって,このときの議論が蘇ってきます。

こうした文献がありますので,これらのものを援用しながら,もう一度,ルジャンドルが再解釈した「理性」とはなにか,と問い直す努力をすると,また一つ別の世界が見えてきます。それを要約したことばとして「生きもののの要請としての理性」が立ち現れるという次第です。

長くなってしまいましたので,今夜はひとまず,このあたりで終わりにしておきます。なお,『理性の探求』で取り上げられた一つひとつのエポックにはそれぞれにとてつもなく大きく,深い歴史・社会的な背景が隠されています。それらをどこまで認識した上で読むかによって,そこから導き出される意味・内容も違ってきてしまいます。

より稔り多い議論を積み上げるためにも,事前の準備が不可欠です。そのつもりで,今月の21日の大阪例会に臨みたいと思います。そして,4月の本番である「合評会」に備えたいと思います。それが西谷さんに対するわたしたちのマナーというものでしょう。

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2010-03-05 『理性の探求』の奥行きの深さについて。

_ 『理性の探求』の合評会(4月17日)に向けて少しずつ準備をはじめた。読むほどに思考の奥行きの深さに驚かされる。

ここで用いられている「理性」ということばは,ルジャンドルによって再解釈されたものであることは,昨日のブログでも触れたとおりである。しかし,そのまた基層をなしている思考はバタイユであることは,このテクストのあちこちにちらりと顔をみせてくれるのでわかる。

それはともかくとして,このテクストの中に収められた内容の幅の広さ(守備範囲,領域,アンテナの高さ,など)といい,そしてまた,一つひとつの思考の深さといい,この人の頭の中はいったいどうなっているのかと,開いて覗き込みたくなる。このことについても,いつか,書いてみたいと思っている。が,今日は別のことを取り上げてみたい。

それは,このテクストの中に取り上げられている一つひとつの章の背景にある,西谷さんの思考の真摯な積み重ね,ということである。西谷さんの文体はよほどのことがないかぎりは,できるだけ平易に,わかりやすく,をモットーにしているので,一見したところ,なんでもないエッセーに見えてしまう。西谷さん自身も語ってくれたことがあるように,「8歳から80歳までの各年齢層にむけて,だれにもわかるように語ること」を心がけている,という。だから,このテクストもじつにわかりやすい,読みやすい内容になっている。そのため,このテクストがなんでもないごくふつうのエッセー集であるかのごとき誤解を招いている節がある。ところが,それはとんでもない誤解というのである。

たとえば,「7 人みなそれぞれの『アフリカ』を・・・──『ダーウィンの悪夢』から──」がそうだ。文末に丁寧な説明があるので,その背景の一端を知ることはできる。しかし,実際に,その現場(映画の上映,講演,ワークショップ)に立ち合った人間からすれば,ここに書かれていることは,それこそ氷山の一角にすぎず,その水面下には10倍もの情報の量と質が眠っている。そして,この映画を制作したザウパー監督の,なんともいえぬ肌のぬくもりのようなものまでが,わたしのからだの中には染みこんでいる。そして,きわめて情緒レベルでの了解の仕方をしている。わたしは,これらの現場に立ち合った人間,つまり,受け手の人間にすぎないが,西谷さんはそれらを主催し,みずから司会をし,議論をし,報告書をまとめている。そこに注ぎ込まれた情熱と思考のレベルが違う。その西谷さんが,さらりと,わずか9ページの分量でまとめていらっしゃる。だから,表面的な読み方をしてしまうと,ごく月並みなエッセーと変わらない。しかし,文章のはしばしに仕掛けられた,西谷さん独特の「毒」のようなものを感じ取ることのできる人間には,このエッセーがただごとではない,と感じ取ることができるはずである。

これはほんの一例にすぎない。

たとえば,「9 アトス山訪問」は,ルジャンドルと二人で二度,三度と足を運び,特別ルートでアトス山の修道士たちと接触を重ねている。その一端を切り取ったものである。ここに到達するには,これまでの西谷さんの著作をとおして明らかなように,ルジャンドルと二人三脚的な「キリスト教とはなにか」という根源的な問いとその応答の積み重ねがある。それ以前には,バタイユの「無神論」からの洗礼がある。思想的にはイスラエルとパレスチナの問題があり,ユダヤ教とイスラム教のどうにもならない対立抗争をどのように考えるかという,それこそ根源的な問いがある。この問題とキリスト教は切っても切れない関係にある。つまり,一神教の三兄弟をどのように理解したらいいのか,という根源的な問いである。この問題はやがて,西谷さんの「宗教論」としても結実している。日本の佛教思想をも視野に入れた(もちろん,西田幾多郎や鈴木大拙をも視野に入れた)壮大な「宗教論」の構想がある。このように考えてくると,この「アトス山訪問」という論考は,とてもとても氷山の一角どころの話ではなくなってしまう。

「10 アルジャジーラと報道の理性」も,文末の解説にあるとおり,港千尋,石田英敬,中山智香子の3氏を誘ってアルジャジーラに乗り込み,直接,取材をして書いた本『アルジャジーラとメディアの壁』(岩波書店)が背景にある。

「15 沖縄,揺れる活断層」にいたっては,すでに,何回も足を運び,講演やシンポジウムをこなし,多くの沖縄の友人たちとの交流をとおして得た,それこそ膨大な情報を西谷さん固有の視点から説くほぐした作品となっている。そして,西谷さん自身もみずから映画とシンポジウムを組織して,何回も主催している。その一端が『沖縄/暴力論』(西谷修・仲里効編,未來社)となって,世に問われている。

「16 医における知と信──医療思想史の試み──」は,この数年にわたって担当されている,某医科大学での集中講義の講義ノートが背景にある。この話は,じつは,何回も直接伺う機会があって,わたし自身はとても興味をもっている。もう,とっくに一冊の単行本が書かれて当然なほどの内容の煮詰まり方をしている。一刻も早く単行本にして・・・と懇願している次第である。

長くなったので,このあたりで終わりにするが,このテクストの各章には,それぞれに西谷さんの深い洞察や経験や不思議な出会いが籠められている,ということを忘れてはなるまい。

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2010-03-07 ルジャンドルのいう「ドグマ」について。

_ 西谷修の『理性の探求』の読解には,ルジャンドルのいう「理性」の再解釈がどういうものであるかを理解することが必要だ。

しかし,その前に,いくつものハードルがある。まず,最初のハードルはルジャンドルが「ドグマ人類学」というときの「ドグマ」とはどういうことを意味しているのか,を理解する必要があろう。でないと,「ドグマ人類学」などとは?とのっけから排除されてしまう恐れがある。

わたしたちが一般的に「ドグマ」と聞いて,真っ先に思い浮かべることは「独断」であり,「ひとりよがりな考え方や断定」であろう。だから,あいつは「ドグマティックな奴だ」というときには,ひとつもいい意味は含まれてはいない。自分の考え方だけが唯一正しくて,他はすべて間違いだ,と断じて憚らない,そういう人間のことを「ドグマティックな奴だ」と表現する。

もう一つは,「教条主義」。わたしたちに馴染みがあるのは,マルキシズムをめぐる議論や運動のなかで,しばしば,この「ドグマティック」ということばが用いられたからだ。言うまでもなく,マルクスの教え・理論に凝り固まってしまって,そこから一歩も外にでようとしない主義・主張を繰り返す人間のことを,やはり,「ドグマティックな奴だ」と呼んだ。

このようにして,いまでも,時折,自分の主義・主張を曲げない人間,しかも,他人の話に耳を傾けようとしない人間,自分の好き勝手な行動をとる人間,あるいは,特定の思想・哲学に凝り固まってしまった人間,特定の宗教だけを唯一絶対と信じて疑わない人間,などを指して「ドグマティックな奴」と呼ぶことがある。

ところが,「ドグマ」のもともとの語源をたどると,それは「宗教的な教義・教え」のことだ,とある。ヨーロッパでいえば,キリスト教の教義のことだ。たしかに,キリスト教を信仰する人びとにとっては,キリスト教の教義は唯一絶対のものであり,それを守ることが信仰の証でもあり,生きるための道しるべでもある。それは,日本の仏教や神道においても同じである。信心の深い人ほど,その教義を信じて疑わない。

ここで三つの問題か立ち上がる。一つは,なぜ,人間には宗教的な教義が必要なのか,という問いである。もう一つは,なぜ,この宗教的な教義が「独断」「独善」というような悪い意味に転じていったのか,という問いである。三つめは,なぜ,悪い意味に転じてしまった「ドグマ」ということばをルジャンドルはみずからの主張を包括する学問の冠として用い「ドグマ人類学」と名づけたのか,という問いである。一番目の問題については,バタイユの『宗教の理論』ともつながる問いで,きわめて興味深いものであるが,また,機会をあらためて取り上げてみたいと思う。ここでは,後者の二つめと三つ目の問題について考えてみよう。

二つめの問題は簡単だ。キリスト教の教義は科学的な根拠がない,というただそれだけの理由で「独善」「独断」と判定されてしまったからだ。つまり,近代の科学的知によってキリスト教の教義は否定されてしまったのである。このことを視野に入れつつニーチェは「神は死んだ」と宣言した。つまり,神を信ずる人が激減してしまったことを逆説的に表現したものである。こうして,科学こそが万能であると信じて疑わない人たちが圧倒的多数を占めてしまうと(現代はまさにそういう時代である,とわたしは考えている),それはもはや「科学教」とでも呼ぶべき新たな宗教が登場したも同然である。こうして,「ドグマ」の意味は完全にひっくり返ってしまった。

では,どうして,科学的知によって叩きつぶされてしまったはずの「ドグマ」ということばが,なにゆえに,ルジャンドルの手によって復活しようとしているのか,この問題を考えてみよう。

というところで「時間切れ」。このつづきは明日のブログで。

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2010-03-08 「ドグマ」を召還することの意味について。

_ 昨日のつづき。では,なぜ,ルジャンドルはこの「ドグマ」ということばを現代という時代に召還しようとしているのか,という問いへの応答である。

キリスト教の教義(一般的には,宗教の教義)=ドグマを科学的知によって,根拠のないもの,無意味なもの,単なる「独善」,として貶め,価値のないものとして排除してしまったにもかかわらず,もう一度,召還しようとする意図はなにか。それは,科学的知によって「明るみ」に照らしだされることになった「合理主義的知」が生み出す闇の世界(闇のメカニズム)の存在にもう一度人びとの注意を引きつけること,そして,さらには,「合理主義的知」によって導き出される普遍性(明るみ)の「画一的支配の構造」を解明すること,にある。いささかややこしい話であるが,簡単に言ってしまえば,科学的知によって見えなくなってしまった闇にはなにがあるのか,そして,科学的知(合理主義的知)による画一的支配はどういう仕組みになっているのか,この二つに人びとの注意を喚起させようというわけである。もっと言ってしまえば,宗教の世界を無視して人間は生きていけるのか,科学的知だけで人間は生きていけるのか,という問いを投げかけることになる。すなわち,人間が生きるとはどういうことなのか,という根源的な問いにいたりつく。そのために,ルジャンドルは「ドグマ」ということばを,現代社会を生きるわたしたち人間の前に突きつけているのである。

いささか無謀な試みかもしれないが,ここにバタイユの『宗教の理論』の仮説を持ち込むとどういうことになるのだろうか。つまり,「ヒトが人間になる」ときに,動物性(内在性)の世界から人間性(理性)の世界へとジャンプした,その埋めることのできない「間隙」の問題が,こんにちに至ってもなお解決できていないのではないか,というのがわたしの考えである。動物性と人間性の間に横たわる「間隙」を埋め合わせるために,つまり,そのことによって引き起こされる「存在不安」を埋め合わせるために,「宗教」が誕生したとすれば,科学的知は,その「宗教」にとって代わるだけの役割を果たすことが義務づけられることになる。しかし,科学的知は「宗教」を否定しつつ,新たな「宗教」になる,という根源的な矛盾を露呈することになる。つまり,ドグマを否定しつつみずからがドグマとなる,という矛盾である。

わたしたち人間は,いまでも動物の「生」を内に抱え込みながら,「理性」を前面に押し出して生きている。つまり,二重の「生」を生きている。もっと言ってしまえば,わたしたち人間は,内なる願望,すなわち,動物性への回帰願望をつねに抱え込みながら,それを理性によって押さえ込み,合理主義的知(科学的知)に身を委ねているのである。この動物性への回帰願望を,みごとに横滑りさせて「聖なるもの」への回帰願望とし,これを宗教の教義(ドグマ)によって救済しようとしてきたのではなかったか。

ああ,またまた時間切れ。今日はここまで。エンドレス。

このあと,書きたかったことは,短絡的になるが,ドグマを考えることはスポーツの根源的なるものに触れることになる,ということ。だとしたら,ルジャンドルの仕掛けていることは,わたしが仕掛けていることと,どこかで通底している,あるいは,パラレルではないか,という親近感を覚えるということ。その意味で,ルジャンドルの提起した「理性」の再解釈は,スポーツ史やスポーツ文化論を展開していく上でも無視できない問題であること,それどころか,そこに依拠しつつ,あらたな理論仮説を構築していくことが可能である,というわたしなりの確信が見え隠れしている。

ここまでで,残念ながら,ひとまず,おしまい。

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2010-03-09 「科学主義」に対するアンチテーゼとしての「ドグマ」。

_ 昨日のブログは「自爆」。でも「隷従」だけはしない。懲りずに「自爆」覚悟で,今日も「ドグマ」。これぞ「ドグマ」。

少し視点をずらしてみよう。人間はパンのみにて生くるにあらず,とはよく知られたキリスト教の箴言であるが,人は科学だけでは生きられない,とわたしは言いたい。声を大にして言いたい。いまの世の中,科学的に正しいこと以外はすべて排除されてしまう傾向が強すぎる。過剰な「科学主義」が世の中を支配してしまっている。科学が実証する一つひとつの因果関係は,それはそれで正しい。これは間違いない。だからといって,それをそのまま普遍化してしまっていいかとなると,それはそれで,また,別問題である。そのことの区分けができていない。つまり,「生きものの要請に答える」ことをわすれて,科学的な因果関係だけが独走してしまう。その結果,科学に「生きもの」が支配されてしまうことになる。

科学はもともと人間のためになる智慧の集積として誕生したはずである。ドイツ語のWissenschaft=科学とは,まさにWissen=知の集合体のことである。その科学がいつのまにやら人間を支配しはじめた。いまや,科学とハイテクノロジーに,人間は完全に支配されてしまっている。その結果が,だれの眼にも明らかなように,人と人との関係性の希薄化である。なぜなら,科学は人間のトータルどころか,ほんの一部を,それも実証できる部分だけを明らかにしているにすぎないからだ。科学,すなわち,合理的知は,人間とはなにかという根源的な問いに対して,ほんの一部分しか答えられないままなのだ。このことを銘記しておこう。

科学もテクノロジーも驚異的な進展をみている。それに対して,人間が後追いをはじめた。このときから理性は「狂気」と化しはじめた,とわたしは考える。科学は人間を「制定する」(ルジャンドル)ことはできない。だから,ルジャンドルは人間を「ことばを話す生きもの」として「制定」し,そこから人間の成り立ち,社会の組み立て,制度や組織のあり方などを,もう一度,根源から問い直そうと提案する。それが,すなわち,ルジャンドルの提唱する「ドグマ人類学」の立場である。

ルジャンドルが「ドグマ」を旗印にして,新たな「人類学」(文字どおりの人類のための学)を提唱するのは,まぎれもなくヨーロッパ近代の科学によって見えなくされてしまった「闇の世界」を取り戻そう,という壮大な野望がある。たとえば,「世界」というものが地球のような球体だとして,科学の光を当てれば,世界の半分は明るく照らし出されることになるが,あとの半分は「闇の世界」に閉じ込められてしまうことになる。この科学によって抑圧・排除され,隠蔽されてしまった「闇の世界」こそ,「ドグマ」の世界なのだ。人間は,科学(合理的知=理性)によって照らし出された「昼の世界」だけで生きているのではなく,「闇の世界」をその内側に抱え込んだまま生きているのだ。そのことを,いつのまにか,わたしたちは忘れてしまっている。ここが大問題なのだ。

人間は,まず,なによりも「生きもの」であること,つまりは「動物」であること,この動物性を,前近代までは「ドグマ」(宗教的な教義)によってコントロールしようとしてきたのだが,近代にあっては「科学」(「理性」)がそれにとって代わる。しかし,「ドグマ」はそれなりに人間をトータルに捉え,そこから倫理的な規範を導き出し,それを生きるための道しるべとして提示したのだが,「科学」にそれはできない。

時期が時期だから,ほんの少しだけ脱線するが,日本を代表する立派な脳科学者が膨大な脱税をしていたにも関わらず,記者会見で「国税庁が計算をしてくれたので楽でいい」と居直った。以後,わたしはこの人の書いた本を読む情熱を失った。科学者としては立派なのかもしれないが,人間として信頼することができないからだ。つまり,そこには倫理のかけらもみられない,そういう世界に生きている人だと知ったから。つまり,科学的知がすべてであって,あとのことは無視して平然としていられる,このことは許せない。不思議なのは,この事実をマスコミは叩こうとはしない。朝青龍がいつもの飲み仲間の一人を酔っぱらって殴った,これを仰々しく「暴力事件」としてとりたてて,よってたかって叩き,とうとう引退に追い込んだというのに,この脳科学者に対するメディアの対応はなんだ。これを「ゼノフォビア」といわずしてなんというべきか。他方,脳科学者に対しては「全能幻想」がここまで浸透しているのか,とあきれてものも言えない。

あれあれ,ちょっとだけのつもりが本気になっている。

結論。「ドグマ」の含みもつ問題系を,科学のもたらす「全能幻想」によって抑圧・排除してしまうのではなく,真っ正面に据えて,考えなおすべきではないか。それが,21世紀を生きるわたしたちの,もはや,忌避してとおりすぎるわけにはいかない喫緊の課題なのだ。「生きものの要請」に答える,ほんものの「理性」を「探求」しつつ。

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2010-03-10 人が生きるとは,「悲劇」を生きること。

_ 水曜日は太極拳の稽古の日。「稽古のあとのハヤシライス」を食べながら,久しぶりにNさん語録が炸裂。

帰りの電車のなかで,大急ぎで記憶を記録する。そのメモを手がかりにして,そのときの話の骨子を書き残しておきたいと思う。多少の記憶違いがあるかもしれないが,そこはお許しいただきたい。だから,わたしはこう聞いた,という記録。

ハヤシライスを注文したあと,ストレートにNさんが「ブログ,読んでますよ」と。その瞬間,わたしの背中を冷や汗が走る。「エッ,ほんとうですか?」「あれは,ひとりごとのようなもので,自分に言い聞かせているつもり・・・」などと,必死で言い訳。まさか,Nさんに読まれているとは・・・。これは想定外。もし,そうだとしたら,これから書き方について気をつけないといけない,と反省。

で,その言い訳のようなつもりで,ルジャンドルの「ドグマ」の仕掛けと,バタイユが『宗教の理論』のなかで展開している仕掛けとは,根の部分できちんと共鳴しているということがわたしなりに理解できたので,その勢いで書いているのですが,途中で「自爆」してしまったりして・・・情けない,と白状。そうしたら,ウンウンと聞きながら,Nさんの眼がキラリと光る。こういうときはなにかが始まる,とわたしは身構える。そうして,Nさんの口からとび出してきた語録は以下のとおり(繰り返しておくが,これはわたしの理解の範囲にすぎない)。

人が生きるということは,「悲劇」を生きることなんですよ,と切り出す。つまり,生きるということの実態は「悲劇」そのものなんだ,と。ギリシア悲劇に典型的に現れているように,人としての道理がとおらなくなる。そこから悲劇がはじまる。人生とは,人が生きるとは,そういうこと。ことばで説明できることと,ことばでは説明できないこととが,悲喜こもごもに起こる。これが人生。これが「生きる」ということの実態。

ルジャンドルは,「悲劇」をきっちり研究した上で,そういうことも踏まえて「ドグマ」の存在に注目するようになる。(なるほど,ルジャンドルが精神分析の手法を取り込むのも,ことばで説明することのできないことがらの存在を看過することはできない,という必然の結果なのだ・・・と聞きながらわたしは考える)。動物の世界に「悲劇」は存在しない。(おっ,ここでバタイユの登場!)動物の世界は,ことばで説明する必要はない,ことばで考えることもない,つまり,理性を必要とはしない。お互いに内在性のなかに溶け込んで生きている。「食べる側も食べられる側も,なんの違和感もない」という次第。

人間の世界は,ことばとからだが分離・分断されてしまった。つまり,理性とドグマに分離・分断された。からだはことばを用いて語るしかない。しかし,ことばはからだを語ることはできない。しかし,からだは現前として存在し,その存在を無視することはできない。そこに,ことばの限界がある。あるいは,理性の限界がある。このことを忘れてしまって,ことばによる論理的整合性に満足し,それに酔いしれてしまう人間たちが増えてきた。ここに,形而上学的理性の限界がある。この理性が,ついには,「狂気」と化す。「全能幻想」が蔓延し,科学にあらざれば人でなし,というような主客転倒のとんでもない理屈が平然と闊歩する時代に,わたしたちはいま立ち会っている。

そこに,真っ向から匕首を突きつけたのが「ドグマ人類学」というルジャンドルの構想なのだ。ボタンを一つかけ違えてしまったために,ボタンとボタン穴が一つずつ,ずれたまま残ってしまった。これが近代の論理の落とし穴だ(松田道雄)。ヨーロッパ近代の到達した「理性」はこれと同じ。「生きもの」としての人間を,どこかに置き忘れてきてしまった。そして,いまごろになって,どうも少し変だ,と気づきはじめている。が,それを小手先の論理で処理しようと躍起になっている。(ドーピング問題も同じ)そうではなくて,「生きものの要請に答える」理性を取り戻すこと,これがルジャンドルによる再解釈だ。

「じゃあ,わたしの研究所の紀要に『IPHIGENEIA』と名づけたのは正解だったのだ」とわたし。Nさん,ニッコリ。

わたしは,ただ,ひたすら,スポーツの問題を考えつづけてきて,ここに起こっている諸問題を克服していくには,ヨーロッパ近代が生み出した「二項対立」的な,正邪,善悪,などのような単純な論理では対応しきれない,という結論にいたりついていた。つまり,J.デリダ的に言うとすれば,正義は「力の一撃」でしかない。だとすれば,この「力の一撃」をどのようにして,人間が「生きる」という現実に対応させればいいのか,と考えていた。このテーマを追いつづけようという決意表明として『IPHIGENEIA』というネーミングを考えた。

「悲劇」は,文学の世界には,掃いて捨てるほど転がっている。いまも,多くの作家が「悲劇」をテーマにしている。そして,最終的には「人間とはなにか」という根源的な問題をつきつけている。だから,文学のタネは尽きないのだろう。それに引き換え,「科学」は無力そのもの。手も足もでない。挙げ句のはては,遺伝子の謎を解明すれば,人間がわかったかのような,それこそ「全能幻想」を振り回す。そして,それにまんまとひっかかってしまう人があまりにも多すぎる。困ったものだ。

よし,こうなったら,当分の間は「ドグマ」の問題を徹底的に考えてみよう。それは「スポーツとはなにか」という根源的な問いに応答するための,きわめて有効な方法の一つだと考えるから。

以上,稽古のあとのハヤシライス,でした。

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2010-03-11 久しぶりの快晴。春近し。

_ このところ天候が不順で,くもりや雨ばかりがつづいていたので,今日の快晴は嬉しかった。気分爽快。

いつものように溝の口から鷺沼に出勤。溝の口をでるときに,真っ青な空が広がっていて,足の運びも軽やか。こんなことは滅多にないことだが,鼻唄が口を突いてでてくる。もともと「晴れ男」なので,太陽がさんさんと照る日は,からだ全体に喜びが満ちあふれてくる。いっそのこと口笛を吹き,スキップしながら歩いてみたい。

気分よく,鷺沼駅に到着。谷間のようなプラットフォームから,3階分くらいある長いエスカレーターで改札口にでる。溝の口よりも一段と明るい。太陽の光が強く,まぶしい。これだけ空気が澄んでいる証拠。歩いている人びとの表情もこころなしか明るい。やはり,晴れの日はいいなぁ,としみじみと思う。

鷺沼の駅から事務所までは徒歩8分。ひたすら長い坂道をだらだらと下っていく。その下り坂に入る高見の地点からは,東京の高層ビルが遠望できる。大陸性の寒気に押されて広がった青空はどこまでも澄みきっている。冬の青空である。だから,ふだんは霞んでいてはっきりとは見えない東京の高層ビルが鮮明に浮き上がってみえる。あれが新宿の高層ビル,こちらが渋谷の高層ビル,さらに右手に六本木ヒルズがみえる。東京タワーもみえる。しばらく,この遠望を楽しんでから,だらだら坂をくだる。

頬をなぜる風はまだ冷たい。「春は名のみの風の寒さよ」と懐かしい歌が口をついてでてくる。ここは歩く人もほとんどいない通りなので,かなり大きな声で歌うことができる。吹きさらしの,風の通り道になっているところの風は相当に冷たい。しかし,太陽の光に力があるので,直射日光を受ける顔の半分は暖かい。坂を下っていくと,日溜まりのようなところを通る。このあたりの風は暖かい。もう,春の風が吹いている。

そのあたりに,植木屋さんの屋敷があって,いろいろの植物が四季折々の花を咲かせている。この間まで,河津さくらが満開だったが,いまは葉桜に変化。そのすぐとなりに緋寒桜が,いまにも咲きそうなつぼみになっている。花が開くとピンクになるが,いまは,つぼみなので真っ赤。明日には咲き始めるのでは・・・と楽しみ。その同じ屋敷のなかにこぶしの花が咲き始めている。まだ,大半はつぼみだが,下の方にある枝の花は二つ,三つ,咲いている。近くまで行って,カメラを出して撮影。真っ青な空に真っ白なこぶしの花のつぼみが密集している。思ったよりきれいに写る。満足。

つい,先週まで満開だった紅梅も,今日は全部散ってしまって,どこに紅梅が咲いていたのかという風情。一瞬,わが眼を疑う。そばまで行ってよくよく確かめたら,確かに梅の木はある。が,花びらのかけらも残ってはいない。みごとな散りかたである。その代わりに馬酔木の白い花が鈴なりになって咲いている。この花をみると奈良公園の奥にある「ささやきの小道」を思い出す。両側にびっしりと馬酔木の木が植わっていて,シーズンになると観光客も押し寄せてくる。そう,ちょうど御水取のシーズンと重なっていたはず。春近し,と思う。

この10日間ほどの間に,太陽の勢いが一気に増していることに気づいた。これが今日の大きな発見。そして,もうすぐそこに春が近づいている。そういえば,日が暮れるのも遅くなっている。このところくもりや雨が多かったので,日の暮れるのも早かった。今日は,午後6時を過ぎてもまだ明るかった。ああ,もう,こんなに日照時間が長くなっているのだ・・・とこれも発見。そういえば,春スキーはリフトが止まってからもゲレンデが明るかったので,いつまでも登って行っては滑ったものだ。場合によっては,夕食を済ませてから,お月見スキーを楽しんだこともある。あのころは元気だった。果てることのないスタミナがあった。人間のからだというものはどこまで酷使することができるのだろうか,とわが身を不思議に思ったことがある。懐かしい想い出。

どうやら,明日も快晴らしい。大いに元気を出して,たまっている仕事を裁こう。からだの調子もいいことだし・・・。快晴,万歳!

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2010-03-12 グローバリゼーションと伝統スポーツ

_ 第2回日本・バスク国際セミナー(来年9月予定)の発表原稿の締め切りが近づいてきた。そろそろまとめにとりかからねば・・・・。

テーマは「グローバリゼーションと伝統スポーツ」。

この場合の「伝統スポーツ」をどのように定義するか,そして,「グローバリゼーション」の概念をどのように定義するか,この二つがいきなり大きな重しとなってのしかかってくる。と同時に,それ以上に,これを語るわたし自身のスタンスをどこに置くのか,この三つめの課題が最大のテーマになりそうだ。ウォーミング・アップを兼ねて,いま,現在の見取りをさぐってみると以下のとおり。

まず,「伝統スポーツ」。「民族スポーツ」とどう違うのか。「民族スポーツ」の方は,厳密にいえば,それぞれの「民族」に固有の伝承されてきたスポーツ,ということになろう。その意味では,大きくくくれば「伝統スポーツ」のなかに包括される。となれば,「伝統スポーツ」とはなにか,これが問題となる。

「伝統スポーツ」は,それぞれの地域や国によって伝承されてきた固有のスポーツ,とひとまず定義することにしよう。しかし,「伝統スポーツ」というものはよくよく考えてみると,そんなに単純には取り扱うことのできない意味・内容をもっている。たとえば,「伝統」とは,よく言われるように「創られたもの」である。だから,そんなに長い歴史をもつ必要もない。問題は,どのようにして「創られた」のか,そこを明確にしておくこと。もう一つのポイントは,「近代スポーツ」になることを拒否して「伝統スポーツ」の形態を維持しようとするものと,「近代スポーツ」になることを拒まなかった「伝統スポーツ」との二種類がある,ということ。前者は,日本の例でいえば,古武術がそれに相当し,後者は,剣道がそれに相当する。微妙なのは,柔道とJUDOの違い,あるいは,太極拳とTAICHIの違い,である。ここに,じつは,スポーツの「グローバリゼーション」をめぐる諸問題が凝縮されている。

日本の大相撲もまた,やや特殊ではあるが,この問題を考える典型的な例といってよいだろう。なぜなら,「国技」(これこそ「創られた」もの)と称しながら,多くの外国人(外国籍のまま)を迎え入れ,いまや,この人たちなしには興行として成り立たないほどに,力士の顔ぶれは「国際化」している。国外への普及という意味では「グローバル化」を果たしているわけではないが,内実としては,立派な「グローバリゼーション」が進行している。朝青龍問題は,この視点からの議論なしに,一方的に引退へと追い込む「ゼノフォビア」そのものが剥き出しになった。その意味で,まことに後味の悪いものを残した。

さて,このような「伝統スポーツ」をめぐる問題は,地球規模でアンテナを張っていくと,あちこちに散在する。その一つが,バスク民族のスポーツである。こちらは正真正銘の「バスク民族」が存在するので,「民族スポーツ」と呼ぶことになんの問題もない。しかも,それがそのまま「伝統スポーツ」と重なっていく。しかし,ここにも,近代スポーツとなることを拒否したものと,みごとに近代スポーツとなりえたものとの二つの問題が存在する。しかも,たとえば,同じ「ペロタ」と呼ばれているボール・ゲームの中でも,「近代化」を容認したものと,それを拒否したものとの二つに分かれる。そこに横たわる問題はなにか,それを明らかにすることが,このセミナーが問いかけているテーマの内実であろう。

もう一つ,「伝統スポーツ」の問題を考える上で重要なことは,そのルーツをたどると,どこにいきつくのか,という根源的な問題を明らかにすることである。この問題は,明日のブログにまわすことにしよう。つまりは,「民族スポーツ」のルーツはなにか,という問題でもある。

この問題を考えてから,「グローバリゼーション」とはなにか,を考えてみることにしよう。

とりあえず,今日はここまで。

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2010-03-13 「伝統スポーツ」のルーツはどこか。

_ 「伝統スポーツ」のルーツは,まったく新しく「創られた」ものを除けば,それぞれの「民族スポーツ」(民族が明確に確認できない場合には「民俗スポーツ」)にゆきつくはず。

では,「民族スポーツ」のルーツはどこに求めることができるのか。マルセル・モースの主張に立てば(『贈与論』),ポトラッチに求めることが可能となる。つまり,祝祭空間で繰り広げられる一種のポトラッチとして,ある特定の身体技法がパフォーマンスとして行われた,と。たとえば,熱狂的なダンスであったり,供犠にもひとしい難行苦行であったり,力くらべであったり,かけっこであったり,とさまざまである。それは広義の「贈与」と考えることもできよう。

このマルセル・モースの『贈与論』から多くの啓示をえて構想されたというジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』の立場に立つと,もっと面白いことがみえてくる。それは,ポトラッチを成立せしめる原理を「消尽」とみきわめ,この「消尽」の含みもつ意味・内容をつきつめていったバタイユの炯眼に触れるときに,忽然と姿を現す。すなわち,人間の存在をはじめ,人間に役立つ存在のすべてを無化するための儀礼として「消尽」が行われるようになった,と。

それは,別の言い方をすれば以下のようになろうか。

もともと,人間も,人間をとりまく環境世界も,すべては自然存在そのものであった。その時代の人間は,まだ,動物性のなかにどっぷりと浸りこんで生きる「ヒト」であった。まだ,自他の区別をもたない,道具もことばももたない,動物そのものであった。しかし,その「ヒト」のなかから「他者」の存在に気づく原初の人間が現れる。バタイユは,それを道具の発見に結び付けて考える。つまり,自然存在そのものであった石や棒が道具として「役に立つ」(「有用性」)ということを知った原初の人間が,さらに,その道具に改良をくわえていく。こうして,道具という「他者」が現れることによって,はじめて「他者」ではない存在,すなわち「自己」という存在に気づく。これが人間のはじまりだ,と。

こうして,創意工夫する「人間」が登場する。言ってみれば,「理性」の誕生である。しかし,このときの「理性」は,あくまでも「生きもの」としての人間の要請に答えるものとして機能していた。こうして,道具の改善・使用をはじめ,ことば(名づけ)を用い,植物を栽培し,動物を飼育するようになる。しかし,このことのもつ意味は,こんにちのわたしたちが考えるほど単純ではない。道具は,単なる自然存在から人間の使役に耐えうる「事物」(ショーズ)へと転身する。つまり,人間に従属するものとなる。これと同じことが,野生の植物から人間の手によって栽培される野菜へ,そして,野生の動物から人間に飼育される家畜へ,と変身する。すなわち,自然存在から切り離され,人間に従属する「事物」になる。

このことの意味は,こんにちのわたしたちの考えることとは次元が異なるというべきであろう。なぜなら,動物性の世界にどっぷりと浸っていた「ヒト」から原初の「人間」が現れたときには,まだ,その大半は動物性に依存して生きていたから,動物性から離脱し,人間の世界に移動することに大きな「不安」をいだいていたからである。つまり,動物性や自然性を否定して(ここから「文化」が生まれる=「文化の否定性」),人間性を獲得することに対する「不安」(「存在不安」)が,たえず,つきまとっていたのである。それと同じことが,植物を栽培したり,動物を飼育したりすることにも,人間の「原罪」のようなものとして感じていた,とバタイユは主張する。そのための傍証はここでは割愛する。

だから,この「不安」を解消するために,人間も栽培植物も飼育動物も,「供犠」として捧げ,人間の世界からもともとの動植物の世界に送り返すことを「儀礼」として行った。その原理が「消尽」であり,それを展開する時空間が「祝祭」である。「人身御供」は,言うならば,人間の動物性への回帰願望を「儀礼」化したものである。動植物の「供犠」もまた同じ。人間性の世界から,動物性の世界(自然性の世界)へ送り返すこと,すなわち,人間に従属する「事物」から本来の存在へと回帰させること,これが「供犠」の原理なのである,とバタイユは主張する。

当然のことながら,これらの「供犠」が取り行われる「祝祭」の時空間は,人間を人間ではなくする時空間となる。ここが,「スポーツ的なるもの」,あるいは「スポーツの原初形態」が誕生する「場」であり「時間」であった,というわけである。「民族スポーツ」(あるいは,「民俗スポーツ」)の誕生の現場はここにあった,と考えてよいだろう。

繰り返しておけば,ヒトが人間になる,そのことの「原罪」を解消するための文化装置として「祝祭」が取り行われ,その内実が「供犠」であり,「消尽」である,ということになる。これこそが「生きものの要請に答える」ための文化装置であり,「理性」の発露であった,と考えてよいだろう。すなわち,「民族スポーツ」のルーツは,「生きものの要請に答える」「理性」が編み出した文化装置であった,と。

このことの認識は重大である。なぜなら,この本来の「理性」が,いつ,いかなる理由・根拠によって歪曲化されてしまうことになるのか,を考えるための絶好の糸口を提供しているからである。すなわち,「民族スポーツ」の成立と変遷をたどることによって,本来の「理性」が,いつ,どのようにして,形而上学的な「理性」に歪曲されてしまうのか,そのことが明らかになるはずであるから。

その最後の仕上げが「グローバリゼーション」ではなかったか,というのがわたしの現段階での仮説である。この問題については,明日,考えてみることとしよう。

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2010-03-14 スポーツにとって「グロバリゼーション」とはなにか。

_ 「グロバリゼーション」は是か非かというような二項対立的な見方をする傾向がつよいが,わたしはそういう立場をとらない。

文化(スポーツ)の「グロバリゼーション」には是もあれば非もある。なにをもって是とし,なにをもって非とするか,この立場も人によって異なる。文明の先進国と途上国とでも,「グローバリゼーション」についての認識はまるで異なる。また,政治,経済,軍事,外交,文化・芸術・教育,宗教,などジャンルによっても,それぞれに主張が異なる。ことほどさように,「グローバリゼーション」の問題は考えれば考えるほど複雑怪奇で,単純ではない。

では,スポーツにとって「グローバリゼーション」とはなにか。

わたしが初めて「グローバリゼーション」の問題に真っ正面から向き合ったのは,もう10年以上も前に早稲田で開催された「伝統スポーツ国際会議」(主催は外務省)であった(詳しくは「報告書」がでているので確認のこと)。アフリカのセネガルの代表者が発した一言で眼が覚めた。それは「セネガルの伝統スポーツは,ヨーロッパからの資本が進出し,産業構造が変化してしまったために,一変してしまった」「もし,伝統スポーツを守ろうというのであれば,むかしながらの生業形態を保存することだ」「日常の生活と無縁の伝統スポーツを保存しても,それは意味がない」とつづくプレゼンテーションであった。アジア・アフリカのいろいろの国から代表団が送り込まれ,それぞれの代表者がプレゼンテーションを行った。が,他の国のどの代表者も,セネガルの代表者のような発言はしなかった。それが,わたしにはとても奇異に映った。

アメリカの代表者は,ここでもリーダーシップを発揮して,「われわれ文明先進国が率先して,途上国の伝統スポーツを守るべく救いの手をさしのべなくてはならない」と,いまも変わらぬ「上から目線」の発言を繰り返した(なにを隠そう,ブランチャードの発言である)。わたしはこのときから,スポーツ人類学とはよほど気をつけないと,とんでもない間違いを犯す暴力装置となりかねない,と考えるようになった。

最後に質疑応答の時間に入ったとき,わたしは,真っ先に手を上げて,さきほどのセネガル代表の発言を取り上げて,自分なりの意見を述べた。そうしたら,質疑応答のための時間を30分以上も残したまま,突如,座長は閉会を宣言してしまった。そのときの座長は岡野俊一郎氏である。わたしのすぐ近くに坐っていたどこぞのジャーナリスト(アジア系)がわたしのところにやってきて,「せっかく面白い議論がはじまると思ったのに,なぜ,閉会したのだ? まだ,時間はたっぷりあるではないか?」と問いかけてきた。わたしにもなにが起きたのかわけがわからなかった。日本の外務省にとって都合の悪い方向に議論が進むと岡野氏がとっさに判断して,会議を打ち切ったのではないか,としかわたしには理解できなかった。

いささか余分なことまで書いてしまったが,問題の核心はたった一つ。ヨーロッパ資本の進出が,アフリカの伝統的な産業構造を破壊してしまったために,伝統スポーツの伝承者がいなくなってしまった,という事実。それを「保存しよう」という文明先進国の「奢り」。いやいや「奢り」などという生易しい問題ではない。文明先進国の「暴力」(犯罪にもひとしい)を隠蔽するための,事後処理でしかない,とわたしは考える。そして,一見したところ,いかにも伝統文化を保存するよき理解者の顔をみせているが,じつは,伝統スポーツを「囲い込み」,「グローバリゼーション」の「遺物」(「異物」)として排除しているにすぎない。そして,そのあとに植えつけられる(プランテーション)のは,ヨーロッパ産の近代競技スポーツであり,優勝劣敗主義であり,勝利至上主義である。つまりは,「資本の論理」の押しつけである。

このことを,まったく別のアングルから証明してみせたものが,ザウパー監督が撮ったドキュメンタリー映画『ダーウィンの悪夢』である。こちらはDVDになって,いまも販売されているので,ぜひ,みていただきたい。西谷修は,山形映画祭にやってきたザウパー監督をとらえて,東京外大でシンポジウムを開催している。その報告書が『グローバル化と奈落の夢』(西谷修・中山智香子編)である。そのなかの一節が,『理性の探求』(岩波書店)にも転載されている。題して「人みなそれぞれの『アフリカ』を・・・『ダーウィンの悪夢』から。

この映画は強烈である。ヨーロッパ資本の進出がアフリカの人びとの生活を根底から破壊し,ごく少数の大金持ちと圧倒的多数の貧乏人を生み出す,その結果がどういう現実を生み出すか・・・もう,みるに耐えないほどのすさまじい現実が眼の前に繰り広げられる。良心の呵責なしにはみることはできない。ここにある「現実」は,伝統スポーツが破壊されてしまった,などというのどかなものではない。しかし,すべては伝統スポーツが破壊されるところから「はじまる」のだ,ということを忘れてはなるまい。

経済のグローバル化は,アメリカを筆頭とするヨーロッパ文明先進国のリーダーシップで展開されるかぎり,「資本の論理」が最優先されることは自明のことである。そこに現れる「現実」は,「弱肉強食」の,動物次元よりももっと悲惨なものでしかない。

「生きものの要請に答える理性を」と西谷氏が『理性の探求』をとおして訴えるのは,こうした「現実」が,国際社会の「狂気」にもひとしい歪曲化された「理性」の必然的結果が導き出したものだからだ。わたしたちが「伝統スポーツ」をとおして「グロバリゼーション」の問題を考えるための原点は,「生きものの要請に答える理性」を取り戻すための,もっとも素朴な営みなのだ。

このことを肝に銘しておきたい。

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2010-03-15 能面アーティスト柏木裕美さんのご活躍。

_ 太極拳の兄妹弟子の柏木裕美さんが,ことしの1月から「能面アーティスト」と名乗ることになった。

とたんに,生まれ変わったかのように,つまり,まるで別人になったかのように能面制作に打ち込んでいらっしゃる。いまは楽しくて楽しくて仕方がない,つぎつぎにアイディアが浮かんできて,眠るのも惜しい,時間がもったいない,といって立て続けに伝統面,創作面を完成させていらっしゃる。その一部は,柏木さんのブログで紹介されている。能面の写真つきなので,毎回,とても楽しい。書いていらっしゃる文章もなかなか上手い。ぐいっと惹きつけて,読ませるのである。

しかし,それにしてもこの制作意欲のすさまじさはどこからくるのだろうか,と考えてしまう。とりわけ,創作面にいたっては自由奔放,まるで童心にかえったかのように,なにはばかることなく無心に遊ぶ。昨夜のブログをみると,大きな口をあんぐりと開いた,口だけの創作面が紹介されている。その前にも,大きな唇だけの,つまり,眼も鼻もなにもない,とんでもない作品が紹介されていた。写真であれだけの存在感があるのだから,画廊で額に飾られたら,どういう主張をはじめるのだろうか,と楽しみである。ブログを読むと,どうやら「口シリーズ」ができそうだと仰る。いったい,この人は「口」だけで何面の能面を制作するつもりなんだろう,とつい吹き出してしまう。

その柏木さんの制作した創作面の一つが舞台で使われる,というので太極拳の兄弟弟子3人が雁首を揃えて見に行った。場所は,日本橋三越の三越劇場。出し物は「もうひとつの こころ」。これは,夏目漱石の『こころ』の主人公である先生,の奥さん(「静」さん)の「こころ」を描いたもの。原作のなかでは「静」さんの「こころ」はほとんど描写されていないので,まったくの創作である。つまり,先生が死んで(自殺)から,一年後の「静」さんの「こころ」を作品にしたもの。

この「静」さんが,いまは亡き先生を回想しながら「こころ」が千々に乱れる場面に,柏木さんの創作面が登場する。柏木さんのお話だと,舞台稽古に呼ばれて,それをみているうちにあるひらめきがきたので,大急ぎで家にもどって,すぐに打った面だと仰る。もともとは,舞台稽古をみて,それに見合う伝統面を探して使ってもらうつもりだった,とのこと。しかし,稽古をみているうちに,ある種の啓示があったのだ,と。

その創作面が,柏木さんのブログによると「うちの嫁はこーんな顔してんの」というタイトルの面である。面の右半分と左半分とが少しずれている。右半分はふつうの顔,左半分は眼がつり上がっている恐い顔。しかも,ブログによると,「うちのお義母(かあ)さんって,こーんな顔してんの」の対になる作品だという。「嫁の顔は姑に似る」という俚諺をヒントにしたそうだ。しかも,その嫁の顔に,舞台の主役を演ずる女優さんの顔を重ねている。だから,このお面と主役の女優さんの顔とは不思議に似ている。顔の右半分と左半分がずれた,ブログの写真をみたかぎりでは,なんともちぐはぐな,実際にはありえない顔。まるでピカソの描く顔のように,一人の顔が何人もの顔に見えてくる,そういう面である。

その面が,舞台では,なんの違和感もなく,ぴったりとはまっていた。これは演出のうまさもあるかと思うが,最初は,女優さんが顔に面をつけて登場。その瞬間から,すでにこの世の話ではなくなる。異界と交信・交感する女,あるいは,異界に引き釣り込まれた女(つまり,先生の妻)の登場である。その女が,突然,面をはずす。そして,はずされた面が宙を舞う。女優さんが演ずる生身の「静」の顔と,能面になった「静」の顔とが共振・共鳴する。しかも,そのお面が,主役の女優さんの顔に負けないほどの迫力をもって,宙に漂う。

まさに,「もうひとつの こころ」である。この場面が前半のクライマックスを構成。わたしにとっては,この舞台全体をとおしての,最高の見せ場だったという印象である。それほどに面が生きていた。

いったい,柏木さんという能面アーティストは,どういう人なんだろうと考え込んでしまう。ひょっとしたら,天才? いやいや,ほんものの天才? ふだん,太極拳の稽古をしているときは,ごくごくふつうの明るい女性。この落差を,わたしのような凡人の持ち合わせている「ものさし」では推し量ることができない。要するに,ふつうの人ではない。それだけは確かである。しかし,そのさきにある才能が,どこまで伸びているのか,わたしには見えない。でも,なにかをつよく感じてしまう。そんな雰囲気が,最近,しだいに強くなってくる。

舞台が終わってから,柏木さんを囲んで,近くの喫茶店で3人の男性があれこれ反省会。考えてみれば,わたしを除くお二人もまた,尋常な人たちではない。Sさんは大学時代は演劇に熱中していたというし,Nさんはパリの国立劇場で俳優として立った経験があるという。しかも,いまや,押しも押されもしない立派なお仕事をこなしていらっしゃる。このお二人の話がどんなものであったかは,またの機会に。Nさんは,今日の昼ころのフライトでパリに飛び立ったはず。いまごろは,飛行機の中で,未来設計図を描いているのだろうか。別れ際に,これから帰って荷造りです,と笑っていた。

さて,能面アーティスト柏木裕美さんはこれからどんなはじけ方をしていくのだろうか。この調子でいくと,来年2月に予定されている銀座・文藝春秋画廊では,どんな作品が並ぶことになるのだろうか。想像しただけでワクワクしてくる。そして,2月11日(金)午後5時30分からのトークショウでは,西谷さんや今福さんはどんな語りを展開するのだろうか,とこちらもまた想像しただけでワクワクしてくる。

柏木さんの未来に光あれ,と祈る。

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2010-03-16 生物学的制約から自由になるために。

_ 福岡伸一さんが書く本のような良質な情報をふんだんに盛り込んで,それをわかりやすく説くと,かなりハードな内容の本でも売れるんだ,という話。

だれが,いつ,どこで,この話をしたかは省略。ご想像にお任せ。このブログをつづけて読んでくださっている方にはおわかりのはず。

この話を聞いて,たしかに,わたしも何冊かの福岡さんの本を一気に読んだことを思い出す。そして,その中には,あっと驚くような話が随所に現れる。第一,分子生物学などという,こんにちの最先端の科学の話など,わたしの考えているスポーツ史やスポーツ文化論などとはもっとも遠いところの話だ。にもかかわらず,一度,読みはじめたら,ぐいっと惹きつけて離さない魅力に満ちている。

難しいことをやさしく説く,これが大変なことなんですよ,といつものNさん。相当に内容を咀嚼できていないと,わかりやすく解説することは不可能である。それはわたしのささやかな経験からもわかる。難しい話を難しく話すことは,少し頑張ればできる。しかし,難しい話をだれにもわかるように話すことは至難のワザだ。これができる福岡伸一さんという人はすごい。自然科学者にしては珍しく文が立つ。もっとも寺田寅彦のような人もいたので,まったく前例がないわけではない。が,とにかく柔軟な頭で,人のこころの奥底にひびくことばを多用しながら,分子生物学の到達した最先端の研究成果を,われわれ素人にもわかるようにさらりと説明してくれる。希有なる人であることは間違いない。

その福岡伸一さんのデヴュー作である『動的平衡』(木楽舎)という本がある。わたしもこの本から入って,いきなり,福岡伸一さんのファンになった。久しぶりにこの本をめくってみる。

「私たちを規定する生物学的制約から自由になるために,私たちは学ぶのだ」(P.58)

いきなり,こんな文章がわたしの眼を釘付けにする。この話は,鳥取西高校の生徒さんたちを前にして行った講演「なぜ学ぶことが必要なのか」のなかの一節。

「学校で勉強なんかしなくても,実社会で体得する直感や経験則のほうが生きていく上ですっと有効ではないか・・・」という生徒の問いに,福岡さんは以下のように応答している。

「いいえ,それは違うと思います。かつて私も高校生の頃,同じ疑問を深く感じていた。ようやく最近になって,少なくとも次のように言えると思うに至った。『私たちを規定する生物学的制約から自由になるために,私たちは学ぶのだ』と。」

このあと,さまざまな実例を引き合いに出して,丁寧に説明したあと,さらにつぎのようにつづける。

「このことから,私たちは,直感が導きやすい誤謬(ごびゅう)を見なおすために,あるいは直感が把握しづらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ,勉強を続けるべきなのである。それが私たちを自由にするのだ。」

これを読みながら思い出すことは「ヒトが人間になることの意味について」である。もちろん,バタイユの『宗教の理論』の考え方を下敷きにして。福岡さんは,「自由」を「生物学的規制の外側へ思考を広げること」と解し,ヒトが人間になることの意味をここに見いだしている。だから,わたしたちは「勉強」しなくてはいけいな,と。

しかし,このテーマはよく考えてみると永遠のテーマなのである。人間はヒトから離脱して,自由の世界に飛び出したつもりでいる。しかし,どこまで行っても基本的には「生きもの」であることに変わりはない。この「生きもの」であることに必死でフタをして,「理性」でなにもかもコントロールしようと,不遜な選択をしたのがこんにちのわたしたちの姿である。たしかに,「理性」の力で思考を展開するのは「自由」そのものである。しかし,行動や行為はどこまで行っても「生きもの」であるという現実から逃れることはできない。

夏目漱石の三部作といわれる『門』『それから』『こころ』(一説によると,『三四郎』『それから』『こころ』)のテーマも,なんのことはない「理性」と「自然」の折り合いのつけ方に悩む主人公の物語である。漱石は,男女を結び付ける力のことを「自然」と表現し,「理性」でいくらコントロールしようとしても「自然」には勝てない,と三部作をとおして主張している。「理性」中心主義で生きていくとすれば「自然」を犠牲にしなければならないし,「自然」中心主義で生きていくとすれば,「理性」の組み立てた社会や組織に適応することは困難になってしまう,この二律背反をテーマにしたものが漱石の三部作である。

この三部作の主人公はいずれも,大学を卒業したインテリたちである。ここでいう大学とは帝大,すなわち,こんにちの東大である。この時代に帝大を卒業する人がどれほどの希少価値をもっていたかは,こんにちのそれとは比較にならないほどの特権であった。だから,突然,眼前に立ち現れる「自然」(男女関係)に対して,みんな「理性」で考え,悩みに悩む。しかし,いくら「理性」で考えても,問題を解決することはできない。二者択一の「賭け」なのだから。むしろ,考えれば考えるほど「自然」優位に到達してしまう。そして,そこに「悲劇」が待ち受けている。これが人間が「生きる」ということの意味なのだ,と漱石は投げかけているように。

福岡さんの主張によれば,勉強をすることによって生物学的制約の<外>に思考を広げること,そこに「自由」の世界が待っている,というのだが・・・。たしかに,形而上学的な「自由」はそこに広がっているだろう。しかし,「生きもの」としての「自由」は,そのとき,どこに行ってしまうのだろうか。ことほどさように単純ではない。

福岡さん自身も,もちろん,そのことは承知の上で問題を投げかけているのだ。たとえば,「汝(なんじ)とは『汝の食べた物』である」「生命は時計仕掛けか」というテーマを取り上げ,この本のなかで論じている。とても,奥の深い,しかし,とてもわかりやすい本である。

福岡さんの本はお薦めである。

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2010-03-18 中国少数民族の歌と踊り「シャングリラ」をみる。

_ 芸術監督・構成・主演:ヤン・リーピンのステージ「シャングリラ」をみてきた。驚きと感動の連続であった。そして,考えることも多かった。

渋谷Bunkamuraのオーチャード・ホールで昨日(17日)が初日のステージを李老師と二人でみてきた。このブログをどこから書きはじめたらいいのか,迷いにまよう。一夜明けたいまも,まだ,興奮状態がつづいている。書きたいことが山ほどあるのだ。が,ブログなのだから,もっとも身近なところから書きはじめることにしよう。

まずは,ヤン・リーピン。彼女は,中国雲南省出身のペー族(白族)。李老師は雲南省昆明の出身。李老師の祖先は,明朝最後の皇帝の側近だったそうで,清朝による革命が起きたときに麗江に「追放」されて,代々ここに住んだという。この麗江は,その当時から,中国の中央(北京)にもっとも遠い辺鄙な地域として知られていて,いまも,僻地であることに変わりはないという。いうなれば,李老師の祖先は,この地に「流され」,幽閉されていたというわけである。この麗江のあたりは26の中国少数民族が住んでいて,それぞれの少数民族が仲良く棲み分けていた。いまもそうだという。だから,逆にいえば,李老師の祖先は,この少数民族の人たちに守られてきた,と考えることができる。いまも,おじいさんの弟に当たる人の奥さんは少数民族出身の人で(教養も高く美人である,とのこと),そういう人たちとは子どものころから接していて,李老師にとってはとてもなじみ深い人たちなのである。だから,ヤン・リーピンはとても他人とは思えない,そんな情感が李老師から伝わってくる。だって,ヤン・リーピンについて語るときの李老師はふだんの顔つきとはまるで違う。

「セーロ,セロセロ,セーロ,セロセロ」という掛け声をとりまきの仲間がかけあって,特定の男女のペアリングにむけて,囃し立て,けしたてる遊び(わたしは日本にも伝わった古代の「歌垣」を思い浮かべていた)が舞台で繰り広げられると,李老師はたまらず,わたしの耳に口を寄せてきて,子どものころにこういう遊びをしたことがある・・・という。「セーロ,セロセロ」はそのまま日本語だよ,とわたし。李老師は,そうですよ,日本人の祖先は雲南省から渡って行ったという説があるくらいですから,と。なるほど,なるほど。映像写真でバックに美しい「棚田」の景色が映ると,これがとても美しいのだ,と李老師。日本にも同じ景色があちこちにありますよ,とわたし。

そういえば,このヤン・リーピンのステージを見ないかという李老師からのお誘いがある前に,9月の連休のあたりで中国に一緒に行きませんか,と誘われている。そして,この麗江に案内したいのだ,と。ここは,中国の「理想郷」なのだ,とも。ぜひ,案内をしたい,という。その段階では,まだ,ぼんやりした頭のまま,ああ,いいですねぇ,ぜひに,と応答する程度のことだった。そして,今回のこの「シャングリラ」公演へのお誘い,である。ああ,なるほど,といまごろになって納得。これでもう,わたしの頭は120%,「なんとしても行く」に決定。

「シャングリラ」ということばはどこかで聞いたことがあると思って調べてみたら,イギリスの作家ジェームス・ヒルトンの『失われた地平線』のなかで描かれた「理想郷」のことだ,とある。そして,この「理想郷」がどこにあるのか内外の専門家や旅行家たちが探索した結果,雲南省北西部にあることが確証された,と。それが,麗江を中心とした「香格里拉自然遊覧区」である,ということがわかった。

昨夜,手に入れた小冊子によれば,「東方へ広がる山脈の中に雪に覆われた神秘的な渓谷がある。近くには金字塔のように雪を頂いた峰,青い湖,広々とした草原,その中に点々とラマ寺,尼寺,道教廟,イスラム寺院,キリスト教会が共存し,風景に溶け込んでいる。四季折々の花,太古からの清水,収穫を待つ穀物,たわわに実った果物など,ここに暮らす人々は貧しさや苦しさ,病気,憎しみとは無縁で,唯一大自然と調和のとれた暮らしを送ることができる」とある。もう,わたしのこころは決まった。「なにがなんでも行く」。行って,この眼で確かめ,この足で歩き,この口で呼吸し,からだ全体で「シャングリラ」を体験してみたい,と。

ステージで展開された「シャングリラ」の内容については,じつに多くのことを考えさせられた。とりわけ,少数民族の伝統的な芸能が,ある意味でのフィルターをとおして(とりわけ,アーティスティックなフィルターをとおして),舞台芸術となり,世界に発信されていくことの「功罪」について。ちょうどいま,「グローバリゼーションと伝統スポーツ」の問題について考えている最中なので,なおさらのことである。この点から考えてみても,ことしの9月は,なんとしても「麗江」に行かねばならない。

楽しみが一つ増えた。

李老師,謝々。よろしくお願いいたします。

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2010-03-19 「シャングリラ」をみる−PART 2.

_ もう一度「シャングリラ」について。わたしにとっては相当のインパクトがあって,どうしても,もう少しだけ書いておきたい。

民族に固有の歌と踊り。そのルーツ,あるいは,淵源をたどっていくと,「生きもの」としての人間の素顔を垣間見ることができる。まさに,祝祭空間で繰り広げられるギリギリのパフォーマンス。このギリギリとは,公衆の面前で表演が許される許容範囲の限界,ということだ。つまり,セックスと暴力の表出をどこまで許すか,ということ。そのギリギリが,時代や社会や民族によって,それぞれに変化しながらこんにちにいたっているはずだ。それが,いまは,ヤン・リーピンという一人の天才的な踊り手によって演出されている。ここでも,ギリギリの表出が,ここかしこに垣間見られる。もちろん,セックスも暴力もみごとに昇華されていて,それが芸術の域に到達しているからこそ舞台が成立する。

もう少し,視点を変えてみよう。原初の祝祭は,ヒトと人間の境界領域を侵犯し合う,そういうパフォーマンスが展開していただろう,ということはバタイユを引き合いにだすまでもなく容易に理解できよう。つまり,ヒトの世界に充満していた動物性と,人間の理性によってコントロールされる人間性との,激しい葛藤とその表出,それが民族芸能(歌と踊り)の原点になっていたということ。だから,そこには,つねに「生きものとしての要請に応える理性」がはたらいていたはずである。この「理性」が機能しない祝祭は,どこかで破綻をきたし,継続・持続しないで姿を消して行ったはずである。こんにちにまで継承されてきた民族芸能は,その「理性」が十全に機能していたからこそだ,と考えることができる。

しかし,その民族芸能も,いまやつぎつぎに姿を消している,という。中国雲南省の「桃源郷」(=「シャングリラ」)と呼ばれる山間部に住む,わずかな少数民族の間でも,つぎつぎに伝承者がいなくなっている,という。この現状を知り,ヤン・リーピンは私財をなげうって,15カ月間,山間部を訪ね歩き(道なき道を分け入って「歩いた」という),民族芸能の調査と伝承者(継承者)を探し歩いたという。そして,かき集めた素人集団を,徹底的に訓練をして,舞台芸術に耐えうるダンサー兼歌手に仕立てあげてきたという。それを,わたしたちは,いま,東京のど真ん中の劇場で,ただ座して鑑賞している。このことにも,じつは,考えなくてはならない問題が山ほどある。

この舞台芸術としてのギリギリが,わたしにはとても印象的だった。

たとえば,プロローグの太鼓。「神鼓」と呼ばれる巨大な太鼓を10人余の男たちが捧げもち,その太鼓の上に一人の男が乗って打つ。太鼓の胴の部分には太い木が所狭しと突き刺さっている。そのとき歌われる歌は「私は野火,私は風,私の魂を太鼓に埋めよう,私の種を腹に埋めよう。雷よ響け,草木よ芽を出せ,目覚めよ,鼓霊よ,目覚めよ。」(イ族歌謡『神鼓』)。そして,その解説書によれば,太鼓は女性器,突き刺さったいる木は男性器,その上に乗り太鼓を打つ男のもつバチは男性器そのものだ,という。この太鼓のまわりを大勢の女性たちがとりまき,さかんに囃し立て,太鼓のリズムの昂揚と女性たちの踊りが呼応する。そして,次第に高まりをみせ,ついには,エクスタシーに達する。それを舞台でのアートとして演出したヤン・リーピンに頭が下がる。

おそらくは,イ族の祝祭空間で繰り広げられる「神鼓」の表演は,もっともっと生々しい性の表現がなされているはずである。それは,日本の祭り(たとえば,奈良県の「お綱まつり」をみていてもわかる)でも同じだ。男女の性愛の表現を,どこまで公的な場で許容するか,これこそがヒトと人間の境界領域でのせめぎ合いの典型例といってよい。このとき求められるのが「生きものの要請に応える理性」の力だ。

ヨーロッパ近代の形而上学は,この問題にどのように対応したのか。近代合理主義は,この問題にどのように対処したのか。明治以後の日本の社会は,この問題にどのように取り組んできたのか。

男女の性愛の問題こそ,まさに,自己の他者化を考えるための絶好の素材なのだ。つまり,自己中心では成立しない世界,それが性愛の世界だ。他者があって,他者からの働きかけがあって,はじめて成立する世界だ。逆にいえば,自己の働きかけに他者がどのように応対するか,そして,徐々に自他の境界があいまいになっていく,ついには自他が合一する。そこには人間の,形而上学でいうところの「理性」は存在しない。あるのは,ヒトの世界であり,動物性そのものである。このとき,まさに「水の中に水があるように存在する」という動物の世界が可能となる。

ヤン・リーピンが,このことをどこまで意識していたかは,わたしには不明である。しかし,このプログラム全体を見渡したとき,そして,そこで演じられた舞台をみるとき,ヤン・リーピンには,明確な「戦略」として,このコンセプトがあったとわたしは受け止める。

プロローグの「神鼓」は『混沌初開』。つづいて,マングー太鼓,太陽太鼓,シンバルの舞。屈強な身体をもった男たちが,一人一つずつ太鼓をもって登場。ずらりと舞台の上に並んで,男と太鼓がそれぞれに取っ組み合う。男たちは顔はもとより全身にボディ・ペインティングをして,もはや,この世の者とは思えない形相である。そして,酒を飲まずに太鼓を打つことはできない,といわしめるほどに,精根尽き果てるまで打ち続ける。クライマックスでは,男たちは思いっきり飛び上がって太鼓を打つ,打ちつづける。まさに,体力の限界まで打ち続ける。そして,果てる。太鼓は強く打ては強く応える。弱く打てば弱く応える。まさに,阿吽の呼吸で打つ者と太鼓は応答する。打つ者もまた太鼓の応答する音に,大いに励まされつつ,興奮状態に入っていく。そこには,もはや,自他の間に境界は存在しない。もちろん,自己は存在しない。他者も存在しない。あるのは,自他合一の世界のみ。これを中国では「陰陽」の世界として,いとも簡単に理解する「伝統」がいまも生きているという。

太極拳の世界もまた「陰陽」の世界。自他合一の世界。李老師が「気持ちがいい」というときの顔は,俗世間の顔ではない。エクスタシーの世界そのものである。

あらためて,バタイユのいう「エクスターズ」という概念が含みもつ奥行きの深さを,思い知る。ヤン・リーピンの舞台の最後のところに登場する「整地巡礼」の「五体投地」もまた,自他合一のエクスタシーの世界であることが,自然に,みているわたしたちのからだの中に理屈抜きに伝わってくる。しかも,最後の最後にエピローグとして,ヤン・リーピンが踊る「孔雀の舞」は,ヤン・リーピン自身が「孔雀」そのものになってしまっている。ヤン・リーピンのからだがそのまま孔雀になっている。動物性の真っ只中に遊んでいる孔雀そのものである。

できることなら,もう一度,みてみたい。いやいや,何度でもみてみたい。しばらくは追っかけをしたいくらいだ。でも,わたしが最近,ずっと追いかけてきたテーマと,ヤン・リーピンの舞台はぴったり一致していて,これは単なる偶然とはいえない・・・と思いはじめている。なにかがわたしの背中を押してくれている・・・・と。

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2010-03-20 「スポーツ評論家」・・・・だって?!

_ 生まれて初めて「スポーツ評論家」なる肩書をいただいた。自分で名乗るつもりはなかったが,気づいたらそうなっていた。

なんのことかと驚かれるかもしれないが,実際に起こった話。最初にことわっておくが,けして不快感をいだいているわけではない。そうではなくて,わたし自身の気持ち・思惑といささかズレがあって,なんとなく居心地が悪いというだけの話。これも慣れてしまえば,案外,居心地のいい世界かもしれない。でも,ちょっとだけ,自戒の念もこめて,ことのあらましを書いておこうと思う。

なかなかおしゃれな季刊雑誌『嗜み』(文藝春秋)が,リニューアルして新装刊1号(通巻6号)を出すにあたって新企画「Cross Cultural Review」を立ち上げるので,この企画に参加しないかと編集者のSさんから声がかかった。企画の趣旨を伺ってみると,「Book」「Art」「Movie」「Music」「DVD/Blue−ray」の五つの分野の評論を8人のメンバーでやってみようと思う,とのこと。しかも,一つの話題作を二人の評者が同時に書くのだという。そのために,できるだけよって立つバックグラウンドが違う人で評者を構成したい。だから,スポーツの分野から一人,ということでわたしのところに白羽の矢が立った,という次第。

最初に考えたことは,五つの分野のどこかでスポーツに関連するものが取り上げられたときに,わたしも参画してひとこともの申すことになるのだな,ということだった。しかし,ふたをあけてみたら,そんなきれいごとでは済まないということがわかった。いきなり,割り振られたのは,「Movie」と「DVD」の分野で,スポーツとはなんの関係もないものだった。さあ,困った。早速,Sさんに相談。「Movie」は『Dr.パルナサスの鏡』,そして,「DVD」は『This is IT』(マイケル・ジャクソン)。映画の方は,鑑賞して感じたことをそのまま書いてください,マイケル・ジャクソンの方は「ダンス」に焦点を当ててください,とSさんのアドヴァイス。

そうして書き上げた原稿が,新装刊1号に掲載されて,昨日(19日)に送られてきた(書店に並ぶのは,25日)。早速,開いてみたら,「評する人」の一覧があって,そこにわたしの名前のところに「スポーツ評論家」とあった。「エーッ」と思わず大きな声をあげてしまった。びっくりしたのである。そうかぁ,スポーツ評論家なのだぁっ,と。

これにはいささか理由がある。というのは,できることなら,いつか,「スポーツ批評家」という肩書で仕事をしてみたいと考えていたからである。そう考えるようになったのは,今福龍太氏の『ブラジルのホモ・ルーデンス』の冒頭のところに「サッカー批評をすることは世界を批評することだ」という意味のことが書いてあったのがきっかけである。なるほど,「サッカー」を批評することと「世界」を批評することとは「同格」なのだ,ということにいたく感動したからである。そうか,ならば,「スポーツ」を批評することは「世界」を批評することだ,という覚悟を決めて,そのレベルでの「批評」を展開してみたい,と。しかも,今福さんは別のところで,「批評」と「評論」の違いをわかりやすく説いていて,これにも共鳴した。「クリティーク」と「コメント」の違いである。つまり,「クリティーク」とは,みずからの思想・信条を鮮明にしつつ,みずからの主張を展開することだ,と。それに対して「コメント」はあくまでもある視点からの論評にとどまる,と。

こんなことを夢見ていたので,「スポーツ評論家」という肩書をみて,みずから「たじろいだ」というのが正直なところ。もっとも,この小文では,どう考えたって「評論」でしかない。400字で2枚たらずの分量である。だから,どう考えみたところで,なにがしかの論を展開できるわけがない。だから,これは「スポーツ評論家」なのだ,と納得。

それから,これは最初からわかっていたことなのだが,わたしを除く7名の執筆者がすごい。こんな人たちと,わたしのような者が同列に並んでいていいのだろうか,といまも思う。ちなみに,マイケル・ジャクソンを「評する人」としてわたしのお相手をしてくださったのは,あの香山リカさんである。映画『Dr.パルナサスの鏡』の方は,建築評論家の五十嵐太郎さんである。

まあ,大変なことがはじまった。こうなったら前にでていくしか方法はない。いま,考えられることを考えて,ありのままを書くしかない,と腹をくくる。さあ,こんどはなにがくるのか。矢でも鉄砲でも飛んで来い,とそれなりに覚悟をきめる。それにしてもありがたいことである。こういう人たちの仲間に入れていただいて,なにがしかの文章を書かせてもらえる,このこと自体が夢のまた夢である。丈夫で長生きはするものだ,としみじみ思う。これが正直な気持ち。

まずは,Sさんに感謝。こんごともよろしく。

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2010-03-23 2泊3日の旅が終わる。

_ 21日から今日まで,2泊3日の旅にでていた。21日・22日と二日間は,ただ,ひたすら坐っておしゃべりを楽しんできた。

21日は「ISC・21」3月大阪例会。ザウパー監督のドキュメンタリー映画『ダーウィンの悪夢』(DVD)をみんなで見て,西谷修さんの近著『理性の探求』(岩波書店,2009)の輪読会。『ダーウィンの悪夢』は何回みても衝撃が大きい。しかも,みるたびに印象が違う。不思議だ。みる側のその日の心身の状態によって,あるいは,その日のアンテナの高さや感度によって,からだに入ってくる情報の質が違うのだろうか。極端な話をすれば,今回みた印象はこれまでとはまるで違う。宗教と政治と経済がワンセットになって,タンザニアの産業構造(生業形態)がグローバリゼーションの荒波に洗われていく。そして,一気に勝ち組と負け組に分断されてしまう。それに対して打つべき手も見つからないまま,現実はますます深刻化していく。恐ろしいとしかいいようがない。

IMFの基金が,伝統的なアフリカの生活を破壊することに貢献してしまっているという事実,キリスト教の教義解釈がエイズ救済の妨害となってしまっていること,アフリカの紛争地帯に武器を運び込み,タンザニア産のナイルパーチ(白身の魚)を自国に運ぶロシアのパイロット,それがほぼ公然と黙認されているという事実,子どもたちの劣悪な生活環境,戦争肯定論(兵士になることによって収入増が見込まれるので戦争があった方がいい,と),売春婦の実態(いわれなき暴力),などなど。

このDVDをみてからの『理性の探求』読解は,予想どおり効果的だったと思う。よほどことばを選んで語らないかぎり,あまりにもむなしい。そこで飛び出してきた議論の一つが,過去の希有なる記憶や体験を「分有」するとはどういうことなのか,ということだった。もちろん,簡単に結論のでるはずもない議論ではあるが,そういうことを考えるきっかけを共有することができた,というだけでも大いに意味のあることだとわたしは思う。そして,少なくとも,『ダーウィンの悪夢』という映画をとおして,タンザニアのナイルパーチをめぐる諸問題については「分有」が成立するはずだ,と。そこには当然のことながら,個人差がある。まったく同じものが「分有」されるなどということは起こり得ないはず。とまあ,いろいろのことを議論しながら考えを深めることができた,と思う。これぞ「分有」。

夜の懇親会も大勢の参加があって,大いに盛り上がった。

今回の3月大阪例会には珍しいお客さんの参加があった。スペインからエステル(かつて神戸市外国語大学に留学していて,修士論文を提出)とそのボーイ・フレンド(スペインを代表するアイアン・レースの選手)の二人だ。短期の滞在であるが,エステルだけは,もう一度,出直してきて,博士論文のための資料集めをするとか。そのときは,かなりの長期にわたる滞在になるだろう,と。日本語の上手な,とても性格のいい,賢い女性。だから,みんなに好かれる。

わたしの神戸市外大での集中講義がいつ行われるのかを手帳に控えていたので,それに合わせてやってくるのだろうか。彼女の日程はまだ未定だと言っていたが。

昼の研究会の議論が熱を帯びると,ホテル宿泊者による「二次会」が盛り上がる。こちらはアルコール入りだから,かなり,リラックスしながらの議論となる。そして,その方がやはり本音がでてきて,話は面白くなる。プラトンの『饗宴』(シュンポシオーン)を地でいくようなもの。ビールを買い足しながら,とうとう朝の4時まで。最近は,2時くらいには打ち止めにすることにしているのだが・・・・。だれもが時間を忘れていた。それほどにみんなが話題に引き込まれたということか。

22日は,スポーツ史学会の理事会。で,その前に藤井会長さんと会って昼食をともにする。このところじっくりと話をする時間がもてずにいる。今回もちょいのまのデート。また,会おうと約束。

その足で,わたしは郷里の豊橋へ。弟のところに宿泊。ここでも宴会。やはり,朝の4時まで。

23日はお墓参りをして,帰路につく。

明日から,また,もとの日常にもどる。

やらねばならぬことが山ほどある。

さて,どこから手をつけるか。思案のしどころ。

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2010-03-25 マイケル・ジャクソン,再考。

_ 『嗜み』(文藝春秋)という季刊雑誌がリニューアルして,新装創刊号が発売になった。新聞に大きな広告が載って,びっくり。

この雑誌が,わたしの「スポーツ評論家」としてのデビューとなったことは,以前のブログで書いた。内容は,マイケル・ジャクソンの「This

is IT」(DVD)を「評論」したものだ。この企画は,「クロス・カルチュラル・デヴュー」という形式をとっていて,一つの作品を二人の論者で「評論」する。マイケル・ジャクソンの作品の,わたしのお相手となってくれた人は,なんと香山リカさん。身にあまる光栄。

その香山さんの評論が,いかにも精神科医らしく,やさしい思いやりのある文章になっている。読んでいて心地よい。見出しは,「贖罪」をするべきは,マイケル? それとも私たち? というもの。美容整形,チンパンジーへの偏愛,二度の離婚,少年たちへの性的虐待疑惑,などのスキャンダルが先行し,世の中からは白い目でみられるうちに,次第に孤独に追い込まれていった結果が今回の結末であった,という部分は否めない。とした上で,このDVD作品をみるかぎり,一般に流布していたイメージを共有してきた自分が恥ずかしい,と香山さんはいう。そして,「ごめんなさい,マイケル。あなたは不世出の人だったんだ」と述べる。でも,もう遅い,とも。そして,「贖罪のために私たちは未来永劫,この作品を見続けなくてはならない。そんな”煉獄”なら,そう悪くないかもしれないが。」と落ちまでつけて結んでいる。

わたしも同じような印象をもっていたので,この香山さんの文章にはこころから納得である。そして,思い出すのは,朝青龍。「不世出の人」は,どうも現代社会では悲劇に追い込まれてしまうようだ,と。それも,メディアがそのようにしてしまう。メディアの編集する情報が,注目されればいい,売れればいい,という経済原則に支配されてしまっているために,真実を伝えることからかけ離れてしまう。つまり,スキャンダラスな部分だけが一人歩きをしている。それを受け取る一般市民はそのまま信じてしまう。そうして,「不世出の人」は「孤独」に陥る。そして,ますます,奇行や暴力の周辺へとさまよい歩くことになる。

マイケル・ジャクソンの,このDVDをみていて,しみじみ思うのは,じつに多くのスタッフがこの制作にかかわり,みんなが全力で取り組んでいる,その情熱である。そのエネルギーの根源にあるものは,みんなマイケルが大好きだ,ということ。そういうスタッフに向かって,マイケルもまた,じつにきめ細かな感謝の気持ちを,そのつど,そのつど,まめに表明し,伝えている。その思いやるこころのすばらしさに感動する。でなければ,マイケルを中心とした人を感動させる作品はできあがらない,ということは少し冷静に考えればわかること。だが,わたしをふくめて,スキャンダラスな情報に目を奪われ,誤解していく。

このパターンは,朝青龍のそれに,ぴったりと重なる。「不世出の人」のまわりには,また,人一倍多くの落とし穴も待ち構えている。その罠に対しても無防備。それが「不世出の人」の共通点でもある。自由奔放で,やりたいことはなにがなんでもやる,わがままで一本気。そして,高い理想に向かって一直線。メディアも鵜の目鷹の目で身辺を見張りつづけ,ほんのちょっとしたスキャンダラスなネタを,針小棒大に取り上げ,「売れる情報」に仕立て上げる。有名税だ,という人もいるが,そんな悠長な話で終わるようなら結構な話である。場合によっては,なんでもない情報が歪曲されて垂れ流され,一生を棒にふらなければならないことも起こる。

このことに国家をかけて神経質になっているのが中国だ。もう,ずっと以前から情報の国家管理がなされていることは周知のとおり。それが,ついに,グーグルの主張との決裂となった。中国政府にとっては,情報を公開されては困る事情がある,ということだ。つまり,情報の流れ方によっては,中国政府が転覆してしまう可能性がある,ということだ。そういう片鱗を,ときおり見せてきたことは,わたしたちも知っている。そのつど,中国政府はあわてて対応してきている。だから,都合の悪い情報については国家が「検閲」しなくてはならない事情がある。

もちろん,これはこれで大問題ではある。しかし,では,報道の自由の名のもとに,経済原則に支配され「編集」された情報が「垂れ流し」にされている,もう一つの現状にも大いに問題がある。つまり,「経済原則」に飲み込まれないだけの「良識」という歯止めが必要だ。いまのメディアにそれは期待できない。

「不世出の人」を,平均的人間像と同じレベルで評価してはならない。そんなことはわかりきっているのに,承知して,たたき落とす力学がはたらく。そんな現代という時代を,そこにはたらいている「狂気」を,しっかりと見なおす必要があろう。

マイケル・ジャクソンを「追放」したわれわれは,素直に「贖罪」をになうべきだろう。同時に,朝青龍に対しても。香山さんにならえば,「ごめんなさい,朝青龍。あなたは不正出の人だったんだ」と。たぶん,何年かのちには,みんな,こんな感想をもつようになるのでは・・・・?

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2010-03-26 6回目の寅年誕生日と沖縄の基地問題。

_ 今日は6回目の寅年誕生日。そして,阪神タイガースは白星発進。しかし,沖縄県民の願いである基地の「県外移設」は詐欺まがい。なんとも複雑な思い。

年齢が嵩んでいくのは少しも嬉しくはないが,でもまあ,誕生日を,よくもまあここまで元気に生きてきたね,と自分を褒めてやる日と位置づければ,なんとなくめでたくもある。そして,その日にプロ野球セ・リーグ開幕第一線で,阪神タイガースが白星発進。これはもう,盲目的に「めでたい」。しかも,桜井がホームランを打っている。8番バッターに大砲を据えていることしの阪神は打線が面白そう。かつて優勝した年の阪神は,いつも打線が活躍した。前半リードされても,2,3点なら,後半にひっくり返してくれると信じてピッチャーは頑張った。打線が元気だと,ピッチャーも粘って投げてくれる。投打がかみ合うのだ。ことしは,そんな年になりそう。なんてったって,6回目の寅年なんだから。

せっかく,ここまでわたしの誕生日のお膳立てをしてくれているのに,鳩山君だけが,どうもトンチンカンなことをやっている。昨秋の選挙で,普天間基地の「県外移設」をスローガンにかかげ,沖縄県民の票をかっさらって,劇的な政権交代を実現したというのに,連日の新聞報道をみるかぎり,詐欺も同然。しかも,沖縄では全島をあげて大小さまざまな「市民集会」を開いて,小学生までが壇上に立って,涙ながらに「政府は約束を守れ」と訴えている,というのに本土の新聞もテレビもそっぽを向いて知らぬ顔。いつものこととはいえ,今回くらいは取り上げたらどうか,と腹が立ってくる。メディアの沖縄無視はこれまでどおりだから,自民党に飼い馴らされたメディアのドンたち以下,いまどきの新聞記者の姿勢がここに露骨にでている,と批判の目をもっともっと鋭くしていくことが求められる。それ以上にもっと困ったことは,政権交代を支えた本土の国民の意識までが,沖縄の基地問題に対して,これまでと少しも変わっていない,無自覚・無批判のままであることだ。なんという能天気な国民であることよ。

鳩山君は,嘘でもいい,普天間の代替基地を「富士山麓に」とでも言ってみたらどうだ。そうすれば,本土に住むすべての国民の意識に「普天間問題」が明確に刻印されることになるだろう。そうして,たった一度でもいい,アメリカと真向から意見の交換をしてみたらどうだ。そうして,もののみごとに木っ端微塵に打ちのめされたらどうか。そのとき,初めて,日米安全保障条約の「不平等性」が歴然とするだろう。そこまで持ち込んで,国民全体でこの「普天間問題」を考える機会をつくるべきだろう。そうでないかぎり,沖縄はいつまでたっても,本土の「捨て石」でしかない。いやいや,そのことさえ考えてみたこともない能天気な国民が圧倒的大多数なのだ。その人たちの安穏な生活の陰に,沖縄の人たちの苦渋の生活がある,ということを知らしめることが先決ではないか。

鳩山君の言う「政権交代」とはそういうことではなかったのか。自民党政権がひた隠しにしてきた沖縄問題を,国民全員の問題として明るみに出し,正々堂々たる議論を巻き起こし,国民の総意で,基地問題解決に向かっていくこと,それを「約束」したのではなかったのか。いま,貴君がやっていることは,ちょっとだけフェイントをかけてみただけのことで,気がついてみたらもとの木阿弥だった,これをニッポン国ではいにしえから「詐欺」という。この一連の流れをみているだけでも,貴君が「母上」からいただいたお金のことは「知らなかった」という詭弁も,やはり「ウソ」だ,といわざるをえない。いやいや,ほんとうに「知らなかった」としたら,そのことの方がもっともっと恐ろしい。金額のケタが違う。

まあ,せっかくの誕生日だ。あまり深追いをするのはやめにしておこう。でも,最後にひとことだけ。こんないい加減なことをニッポン国の総理大臣として,いつまでもやっていてもらっては困ります。5月末には必ず「責任」をとってください。沖縄県民の前で丸坊主になって土下座をして謝ってください。

ああ,誕生日祝いの酒を飲みすぎたか。悪酔いをしている。もっとも,悪酔いでもしないことには,こんなことは書けない。そんな自分が情けない。ふだんから,もっと正論が吐けるようになりたいものではある。来年の誕生日には,もっと,のどかな,桜の開花の話でも書けるようになっていたいものだ。ごくふつうの日本の国民として。そのためには,この一年をどのように生きるべきか。わたしにできることはなにか。ああ,頭が痛い。やはり,酒の飲み過ぎだ。

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2010-03-27 スポーツの「判定」をめぐって。

_ ことしの5月に開催される日本記号学会(神戸大学)で「スポーツの『判定』をめぐって」というセッションを設けて議論してくださるという。

そこに,なぜか,わたしを呼んでくださる,という。ありがたいこと限りなし。で,そのための抄録用原稿を提出しなくてはならない。ごく簡単な1200字程度のものなのだが,やはり緊張する。他流試合ということもあるが,なんといったって「記号学」を研究している人たちが対象である。つまり,基本的には哲学・思想の人たちだ。スポーツの世界での常識的な話だけでは終われない。やはり,一つや二つは議論のポイントを提示しておかなくては意味がない。

たしか,日本記号学会は山口昌男さんのお声掛かりでできた学会だったと記憶している。いま,山口さんは病魔と闘っていらっしゃる,とかなり身近な人から伺っている。山口さんといえば,思い出すことがいくつもある。因縁浅からぬ関係をもたせていただいた。一つは,2年ほど前,今福龍太さんが主催された「レヴィ・ストロースを語る会」に車椅子でこられ,やや言語に困難がみられたが,あれこれ想い出を語ってくださった。このときは,川田順造さんもこられて鼎談の形式で話をされた。かつての「山口節」とまではいかなかったが,今福さんの誘導で,いくつか重要なお話をなさった。これが公の場に立たれた最後だったかもしれない。もう一つは,山口さんがまだ東京外大のアジア・アフリカ言語研究所の所長さんだったころ,科学研究費の大型プロジェクトを組まれ,その研究員の一人に加えていただいたことだ。わたしがまだ40歳代の前半だった記憶があるので,もう,いまから30年ほど前の話。このころの山口さんはテニスに熱中しておられて,ご自分の仲間うちでは負けたことがない,と豪語されていた。実際にテニスをプレイしていらっしゃる姿も拝見させていただいたこともある。ダブルスでは,もっぱら前衛に立たれ,相手の打球にとびついて叩くことに,みずからの役割を見いだしていらっしゃるようにお見受けした。

あっ,いけない。ここは山口昌男さんの想い出を語るところではなかった。そう,山口さんが立ち上げられた日本記号学会でのセッションの話にもどそう。テーマは「スポーツの『判定』をめぐって」。

スポーツの「判定」は大きく分けると4つくらいのグループになる。一つは,柔道などの格闘技のように,審判が優劣を「判定」するもの,二つには,体操競技やフィギュア・スケートのような採点競技。それぞれの判定基準にもとづいて「点数化」するもの。三つには,陸上競技のように時間・距離・高さを計測するもの。四つには,サッカーなどのようなボール・ゲームがルールどおりにプレイされているかどうかを判定するもの。まだ,この他にも変わったものがあるかもしれない。だいたい,この四つくらいのグループで,それぞれの「判定」がどのように行われているのかを考えていけばいいのだろう,といまのところ考えている。

この視点とは別に,もう一つの重要な視点がある,と考えている。それは,古代のスポーツの判定と近代のスポーツの判定と,現代のスポーツの判定とではその「性格」が大きく変化している,ということだ。簡単にまとめておけば,古代の判定は「神判」(神の目による判定),近代のそれは「審判」(人の目による判定),現代のそれは「ハイテク判」(機械の目による判定)ということになろうか。詳しいことは,また,機会をみて書くことにして,この視点に立つことの重要さについてだけ,ここでは述べておこうと思う。

古代の判定は,たとえば,古代オリンピアの祭典競技がそうであったように,ゼウス神が優勝者を選別する,と考えられていた。もちろん,競技の場には「ヘラノディカイ」と呼ばれる「審判」が立ち合っているのだが,この人は神官で,もっぱらゼウス神の立場をまっとうするものと信じられていた。そういう絶対的な権限がゆだねられていたし,選手たちにも信じられていた。だから,古代オリンピアでは各競技種目の「優勝者」が決まればいいのであって,第二位以下は決めない。不要なのである。そして,なによりも,選手も観衆も,「優勝者」になれるのはゼウス神に「愛でられし者」だと信じていた,そういうコスモロジーのもとで生きていた,という点が重要であるということ。一足飛びに近代の判定に入ると,ニーチェを引き合いにだすまでもなく,「神は死んだ」ので,神に代わって人間が「判定」のヘゲモニーを握ることになる。人間の「理性」に過剰な「信」が置かれ,「神判定」に代わって「審判」が登場することになる。このときの審判は,レフェリー,ジャッジ,アンパイアー,などの呼称で区別されるように,微妙にその役割が違う。この点についての詳細も,また,別の機会に。ここでは,人間の目に絶大なる「信」が置かれることになる,という点が重要である。したがって,観衆の「目」というものが徐々に審判に圧力をかけるようになってくる。より厳密に,より精確(正確)に,「正しい」判定が要求されるようになる。その必然的な結果が,現代の判定。すなわち,ハイテクノロジーを駆使した判定。もはや,人間の「目」では判定不可能なのものを可能とする世界の登場である。たとえば,1000分の1秒の「差」は,人間の目では判定できない。光センサーを用いた「機械」の性能に,人間の目は「乗っ取られた」と言ってよい。このことが,いったい,なにを意味しているのか,わたしたちは考えなくてはならないところに立っている。つまり,「スポーツ」とはなにか,と。そういう根源的な問いを発することを忘れたまま,わたしたちは,ただひたすら「優劣の判定」にのみこだわりつづける。1000分の1秒差「判定」(その「差異」)に,はたして,いかなる意味があるのか。そのことを忘れてしまったわたしたち現代人の「理性」は,もはや「狂気」と化してしまっているのではないか,と西谷修なら言うだろう(『理性の探求』)。

まあ,こんなような具合なので,わたしとしては,後者の「判定」をめぐる問題について,日本記号学会の先生方のご意見を伺えれば嬉しいなぁ,と考えている次第。楽しいセッションになってくれれば・・・と祈るばかり。これでまた一つ,楽しみが増えた。幸せである。

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2010-03-28 「神判」ということについて。

_ 昨日のブログで,スポーツにおける<判定>のなかの「神判」のことに触れた。今日はこのことについて少し深く考えてみたいと思う。

昨日書いたように「神判」とは,もじどおり「神」の眼による判定である。しかし,実際には神が競技場にやってくるわけではないので,人間が代行することになる。しかし,この神の代行をする人間は,神と同等に扱われなくてはならない。つまり,神と同じように信じられていなければならない。こんにちの,わたしたちのコスモロジーでは考えにくいことではあるが,古代の人びとにとってはなんの不自然もなかったようだ。

たとえば,よく知られている古代オリンピア祭。こんにちの,いわゆる近代オリンピック競技の原型となった祭典競技である。主神はゼウス神。こんにちのことばに置き換えれば,主神は主審である。だから,すべての競技の<判定>はゼウス神によってくだされた(と信じられていた)。それをヘラノディカイという役割を付与された神官が執り行った。

古代ギリシアは多神教の世界だったので,ゼウス神以外にもたくさんの神々がいた。日本の八百万の神ほどではないにしても,けして負けてはいない。だから,古代オリンピアの祭典競技の場にも,多くの神々が集まってきた(と考えられていた)。選手やその応援者たちは,競技が行われる前日には,まず,ゼウス神に犠牲を捧げ(牛が最高の犠牲獣),つづいてランニングの選手であれば,ランニングの神様であるアキレウス神にも犠牲を捧げて祈る。こうして,すくなくとも優勝を狙い,その可能性の高い選手たちはみんな神々に犠牲を捧げて祈ることが当たり前のことになっていた。だから,ゼウス神の神殿の前の広場は,連日連夜,犠牲を捧げ,解体して焼き肉にして,支援者たちにふるまったという。ゼウスの神殿の周辺は「血だらけ」だったという。

これまでの研究によれば,ゼウス神に牛を犠牲として捧げる,すなわち,「供犠」は,ゼウス神を喜ばせ,支援者たちを喜ばせることが目的だった,と考えられてきた。しかし,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』などによれば,「供犠」は,人間の家畜として飼育されていた牛を,もう一度,自然界(動物の世界)に送り返すこと,つまり,神々の世界に送り返すことが,その本来の目的であったという。すなわち,もともと動物の世界にいるべきはずの牛を,人間の都合で飼育してしまい,事物(ショーズ)と化してしまったことに対する贖罪の意識から,殺すことによって事物の縛りから解放し,「聖なる」存在にもどすこと,そのための「儀礼」であり,「呪術」であった,ということになる。古代オリンピア祭を支えていた人びとのコスモロジーは,依然として,動物の世界に片足残したままのものであった。だから,古代オリンピアの祭典競技という祝祭空間もまた,神々が支配する「場」であると固く信じられていた。

自分が出場する競技に勝てるかどうかは,ひとえに,神々のご加護にかかっている(と信じて疑わなかった)。だから,当時の選手たちにとっては,神々に生贄を捧げて,ひたすら祈ることが重要であって,トレーニングするという考え方はまったくなかった。勝つか負けるかは,神さまのご意志のまま,と信じて疑わなかった。早く走ることのできる足も,神さまからのいただきもの。明日の競技で,神さまが乗り移ってくれないかぎり勝つことはできない,と固く信じていたのである。

このようなコスモロジーのもとで生きている人びとにとっては,勝負の<判定>は,完全に神の世界に属することであった。これが,わたしのいう「神判」の意味である。

スポーツもまだ,紀元前5世紀ころの古代ギリシア人にとっては,完全なる「神ごと」であり,神々と交信し,神々と共振・共鳴する,「神遊び」であった。このころのスポーツはまだ「神遊び」だったのである。このことはしっかりと銘記しておくべし,である。

だから,この時代の古代オリンピアの祭典競技は,オリンピアの神々が棲んでいる「聖域」の内側で行われていた,という。それが徐々に時代が下るにしたがって,競技場が聖域から半分ほど外に移り,さらに下ると,完全に聖域の外にでてしまった,という。このことがなにを意味していたかは,もはや,説明するまでもないだろう。

このような「神判」が,やがて「審判」に移行していく。このことの意味もまた重大である。この問題についても,いつか,考えてみたいものではある。が,ブログで書くにはいささかテーマが大きすぎるやに思う。でも,概略ぐらいは書いてみたいものである。乞う,ご期待!

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2010-03-29 「神判」から「審判」へ

_ 神の<判定>から人間の<判定>へ。すなわち,「神判」から「審判」へ。この大テーマをブログで書くことは可能か。まずは,挑戦。

昨日,「神判」ということについて,スポーツ史的視点からの解説を試みてみた。が,一番肝腎な,もともとの意味について触れることを忘れてしまった。ので,今日は,そこから。

手元の国語辞典を引いてみると,「神意をうけてする裁判」とあり,「盟神探湯(くかたち)はその一種」とある。さらに,その「くかたち」を引いてみると「探湯」「誓湯」という表記もあるとし,「神明裁判の一」「古代,裁判上,真偽正邪を裁くのに,神に誓って手で熱湯を探らせたこと」「正しい者はただれず,邪(よこしま)な者はただれるとする」とある。

これがもともとの意味。これと同じような考え方は,地球上のどの地域にもあって,古代ギリシアでは亀の甲羅を焼いて,そこにできる「ひび割れ」の様子をみて「真偽」「正邪」の判断をくだした,という。これも立派な「神判」である。

古代ローマのコロッセウムで繰り広げられた有名な「人対野獣」の闘いや,「人対人」の決闘なども,その根底には「神判」の考え方が流れている。映画にもなった「クォ・ヴァディス」のクライマックス・シーンの一つは,皇帝ネロの指示により,主人公が「猛牛」と素手で闘う場面だった。そして,勇猛に闘った主人公はみごと牛を組み伏せてしまい,最後は牛の首の骨を折って勝利する。その結果は,捕らわれの身から無罪釈放である。

これも,みごとな「神判」であるが,しかし,半分は皇帝ネロの権力による「審判」でもあった。つまり,「神判」に反する<判定>を,古代ローマの皇帝はくだす権力をもっていたのだ。とりわけ,皇帝ネロはそれを濫用したことで知られる。つまり,「審判」の登場である。コロッセウムのスペクタクル(「見せ物」)として繰り広げられた残虐な競技の主催者は,歴代の皇帝だった。だから,この主催者に<判定>に関する最終決定権が与えられていた。ときには,観衆が皇帝の<判定>に猛然と抗議をして,その<判定>を覆すこともあったという。こうなってくると,もはや「神判」の領域から完全に離脱して,人間の「眼」による<判定>,すなわち「審判」の領域に移行した,と判断していいだろう。

皇帝ネロといえば,数多くの奇行で知られるが,スポーツ史的にはこんな話も伝わっている。ネロの皇帝在位は54年から68年(紀元1世紀の中頃)であるから,ちょうどそのころ,ネロは古代オリンピアの戦車競技に出場する。もちろん,ネロが優勝する。それは当然である。もし,ネロを負かすようなことがあったら,命の保証はない。だから,ネロよりも前を走ることは許されない。しかし,先頭を走っていたネロの戦車はカーブを曲がり損ねて転倒してしまう。そこで,後続の選手たちはどうしたか。全員が皇帝ネロにならって転倒したのである。そして,立ち上がったネロを見届けてから立ち上がり,そのあとを追ったという。

こうなると,古代オリンピアの祭典競技も地に堕ちたものである。「聖なる」競技もへったくれもあったものではない。もちろん,「神判」などというコスモロジーはとっくのむかしに消えてしまっている。この時代には,すでに,プロの競技選手が現れて,賞金稼ぎを生業とする者が,ギリシアの各地で開催される祭典競技を渡り歩いていたという。こうして,スポーツ競技は「神」の領域から「人間」の領域へと移り,神聖なる競技もついに「世俗化」してしまう。

これ以後のスポーツ競技の<判定>は,すべて世俗の「審判」によって執り行われることになる。はじめは,皇帝のような権力者であり,そのレベルが徐々に下がっていく。そして,<判定>の基準も「主催者」が決定し,執行していく。つまり,「人間」とはいえ,独裁者の権限の中に封じ籠められたままであった。その時代は,ヨーロッパでいえばフランス革命のころまでつづく。日本でいえば,明治維新まで。つまり,国民主権が明確になってくるまでは,競技の<判定>は,ある特定の階層に委ねられたままであった。

つまり,明治以後の近代国民国家の全貌が明確になるにしたがって,スポーツ競技の「公正なる」<判定>への志向が明確になってくる。いわゆる近代の法治国家としての歩みと,近代スポーツ競技の「ルール」の明確化は,ほぼその歩をともにしている,といっていいだろう。では,そのことによって,問題は解決したのだろうか。じつは,ここには,思いもかけない大きな落とし穴が待ち受けていたのである。その到達点の前に,わたしたちは,いま,立たされている。おそらく,200年前の人間のだれもが想像だにしなかった「現実」がいま,わたしたちの前に繰り広げられているのである。もちろん,<判定>をめぐって。

この問題は,こんごの課題としておこう。明日,他の仕事がうまく運ぶようであれば,挑戦することに。ではまた。

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2010-03-30 「審判」から「ハイテク判定」へ。

_ スポーツにおける<判定>は,近代に入ってから「審判」の手にゆだねられるようになり,次第により高度な「公正さ」が求められることになった。

このこと自体はなんの問題もないし,ごくごく当然のこととして,大いに歓迎された。しかし,どこかでその「公正さ」をめぐって「ボタンのかけ違い」(松田道雄)のようなことが起こった。それを「理性」への過信と呼ぶこともできるだろう。あるいは,「理性」に対する「万能信仰」(西谷修)というように言うこともできるだろう。

わかりやすく説明してみよう。少し古い陸上競技の,100mのゴール付近の写真を思い浮かべてみてほしい。そこには,ゴール・ラインに面して,何人もの審判がストップ・ウォッチを片手に,下から上に一列になって階段状の鉄骨の椅子に坐っている姿をみることができるだろう。8コースのレースであれば,8人の審判員が坐っている。そして,各コースごとに計時する審判員が決まっていて,一人ずつストップ・ウォッチで時間を計り,それを持ち寄って着順を決めていた。ここでは,審判員全員がストップ・ウォッチで計時する能力は等しいものという「信」が前提となっている。しかし,人間のすることである。多少の誤差は想定内のこととして了解されていた。しかし,ときとして,着順とストップ・ウォッチの時間と一致しないことが起こった。そのつど,審判が集まって協議をして,問題解決をはかってきた。しかし,競技力が高度になってくると,0.1秒差の間に何人もの選手が一度になだれ込んでくることも珍しくなくなってくる。そこで登場したのが,ハイテクノロジーである。光センサーによって,選手たちの「胸」がゴール・ラインに達する瞬間をとらえ,計測することが可能となった。その結果,最初は,100分の1秒を,そして,いまでは,1000分の1秒の差を<判定>することがハイテクノロジーを利用することによって可能となった。こうして,着順の厳密な「差」を明確にすることかできるようになったのである。まさに科学万能,それを支えた「理性」の勝利とでもいうように。

じつは,ここに大きな「落とし穴」が待っていた。100分の1秒の差を,人間の眼は<判定>できない。ましてや,1000分の1秒の差は,まったく不可能だ。しかし,この差を計測して,金メダルと銀メダルの区別をしているのが,現状である。その違いが人間の眼にはまったく見えないというのに・・・。これを計測して,区別することの意味は,いったい,どこにあるのだろうか。わたしには,まったく理解不能である。「同着」ではいけないのか。金メダルが二人ではいけないのか。

この科学万能信仰になんの疑問もいだかない人びとが圧倒的多数を占めている,というのが現状であろう。つまり,「理性」の到達した「公正さ」に大満足しているかのように・・・。しかし,このときの「理性」とはなにか。人間の存在を無視した「理性」とはなにか。しかも,この「理性」のお蔭で,多くの人びとが一喜一憂している。狂喜乱舞する人たちすらいる。1000分の1秒差に。そればかりではない。1000分の1秒差が,選手の商品価値をも決定づけることになる。しかも,その連鎖反応は測り知れない。そうして,新たな「現実」がつくられていく。人間の眼で確認することのできないミクロの世界によって,人間の「現実」が構築されていく。

そこに立ち現れる人間は,もちろん,「生きもの」としてのそれではない。しかも,それはバタイユの言う「オブジェ」でもないし,「事物」(ショーズ)でもない。

この1000分の1秒差を是認し,なんの疑問もいだかない,わたしたちとは,いったいいかなる存在者というべきか。このような「現実」を生きるということは,いったいなにを意味しているのだろうか。こうして,ついには,人間とはなにか,スポーツとはなにか,という根源的な問いに立ち合わざるをえなくなる。

西谷修は『理性の探求』という著書をとおして,いまや「狂気」と化してしまった「理性」の問題を,現代のさまざまな事象のなかに見届けつつ,それを超克するための方途を提示する。それがP.ルジャンドルの思想と共振・共鳴しながら提示される「生きものの要請に答える理性」だ。

スポーツにおける<判定>もまた,その多くが「狂気」への道をまっしぐらに突き進んでいるように見受けられる。もって瞑すべしである。

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