2009-03-01 『ポトスライムの舟』を読む。
_ 第140回芥川賞受賞作『ポトスライムの舟』(津村記久子著)を読んでみた。なにか新しい感性の登場を期待して。
しかし,ガッカリである。この作品がなぜ芥川賞に相当するのか,わたしには理解不能である。なにも,これといって読後感を人に伝えるような話題もない。ほんとうになにもないのである。ただ,日常のよしなしごとを,だらだらと書いてあるにすぎない。考えることもない。新しい発見もない。文章もごく平凡なものだ。きらりと光るような言葉づかいも一つもない。もちろん,詩情のかけらもない。当然のことながら,感動もなにもない。ただ,ただ,平凡な日常の記述が続くのみである。
あえて言えるとしたら,「普通」ということ。しかも,やや負け組の人生を送る人びとの,ごく「普通」の生活を淡々と送っている日々を,そのまま描いただけのこと。ひょっとしたら,この「普通」のことを,ごく「普通」の文章で,力むことなく「普通」に描く才能に芥川賞が与えられたのだろうか,と思う。あるいはまた,日常性のなかに埋没したまま日々の暮らししか生活実感をもたない現代人の,ある生態を描いたことが評価されたのだろうか。ここには,政治や経済や,まして,世界の動向というものが,まるで日々のわたしたちの暮らしとまったく無縁でもあるかのごとく,「自閉」してしまっている30代前後の女性たちの「生き方」がさらけ出されている。たしかに,これが今日の日本の現実の暮らしの一部を構成していることは間違いないし,そこに触れることによって,読者であるわたしは大いに不安になってしまう。それがこの作品のねらいなのだとしたら,それはもはやなんとも空恐ろしい話になってくる。
そう思って,あまり読みたくない選考委員の「選評」を読んでみる。だれ一人として「絶賛」する委員はいないのをみて唖然としてしまった。だったら,該当者なしにすればいいものを。例によって,石原慎太郎は「無劇性の劇のくり上げ当選」と皮肉たっぷりだ。他の選考委員も同じようなことを言っている。まあ,一種のご褒美のようなものなので,大盤振る舞いをしないと純文学の低迷から脱出する道はないのかもしれない。このところ,芥川賞の受賞者は,圧倒的に若い女性が多い。これは,かなり作為的に,こういう戦略として展開しているのだ,という話も聞く。要するに本が売れるというのだ。
芥川賞にくらべたら,ことしの直木賞の受賞作となった天童荒太の『悼む人』の,ずっしりとした重い読後感をもたずにはいられない,あるいは,遅きに失したとすらいえる天童氏の名作の数々の方を高く評価したい。実力の直木賞,才能の芥川賞,と巷間に広く言われていることが事実だとしたら,ことしの芥川賞はなんだったのだろうか,とわたしは疑問に思う。単行本を買おうと思ったが,まあいいや,とりあえず内容がわかればいい,と思って掲載誌である『文藝春秋』3月号でごまかすことにした。それが正解であった,などと言ったところで,読後のむなしさは消えない。
百歩譲って,この作品が描いた生活こそが,こんにちの日本の社会の患部であり,あるいは,こういう人たちのお蔭で「勝ち組」といわれる人たちが大きな顔をしていられるのだ,ということを明るみに晒したのだ,と考えるにしても迫力がなさすぎる。もちろん,作者にそんな意図があったとも見受けられない。選考委員のだれも,そんな評価はしていない。ただ,日常の細部を描く才能を評価したい(黒井千次)という程度のことだ。それならそれで,用いることばに,きらりと光るものがほしい。それがなにもない。それでも「文学」という名にふさわしいと選考委員の人たちは考えているのだろうか。
わたしの好きな川上弘美さんですら,受賞作のことはほとんど触れることなく,選外となった作品も含めて,「揺れる」か「揺れない」かという,みずからの文学論を展開して選評を書いている。この選評そのものはまことに短い文章なのに読ませる。が,受賞作を評価しているようには見受けられない。たぶん,選考に当たって,彼女の声はとどかなかったのだろう。なぜか,悲しい。
長く記憶に残るような名作がますます減ってしまうこんにちの文学の世界はやせ衰えるばかりである。なぜなら,純文学は「売れない」のだそうな。だから,出版社も,かんたんに読める,すらすら読める,漫画的な小説を喜ぶらしい。また,読者もその方が多いというのである。
文学もまた,市場原理(経済原則)に支配されてしまったらしい。地に堕ちたものである。
2009-03-02 今福さんから嬉しいメール。
_ 今福龍太さんから嬉しいメールがとどきました。『ブラジルのホモ・ルーデンス』について議論する機会があったら,ぜひ,参加したい,と。
2月9日(月)の鼎談「現代の能面」のテープおこし原稿の手直しなどのお願いもあって,このところ今福さんとのメールのやりとりが順調です。で,鼎談の手直しもすぐにやってくださり,送信されてきたことは,すでに,このブログでも報告済み。西谷さんからも,あっという間に終わってよかったですね,というメールをもらっています。うまくいくときというのは,なにからなにまでうまくいくものです。こういうことはほんとうに珍しいのですが,ありがたいことです。
というわけで,このメールのやりとりのなかから「おまけ」がついてきました。それは,わたしの方から,『ブラジルのホモ・ルーデンス』を研究会でとりあげて議論することになって,3月は大阪で,4月は名古屋でやります。できれば,5月の東京でも連続してやる予定,とお知らせしたら,なんと,5月の東京例会にはぜひ参加したい,との返信。
大歓迎ですので,5月16日(土)の13:00〜18:00までの時間を確保しておいてください,とお願い。「はい,スケジュールを確保しました」という返信。で,あわてて,河本洋子さんに青山学院大学の会場を確保していただけるよう依頼。「わかりました。明日,手続をします」との返信。というわけでとんとん拍子に展開。
すぐに,今福さんに「場所は青山学院大学(渋谷)です。詳しくはのちほど」というメールを送信。こんどは今福さんから,こんな風に研究会を展開してくれると嬉しい,という具体的なご提案までいただきました。もう,なんの異存もありませんので,その形式で・・・と返信。いずれ,掲示板でお知らせしますので,アンテナを張っておいてください。
もう一つの「おまけ」。ことしの3月が,戸井田道三さんの生誕100周年にあたるので,なにか企画したいと考えている,というメール。微力ながら,わたしにもお手伝いさせてください。柏木さんにも協力してもらって,能面を飾って,なにか楽しいことをやりましょう,と。これにも,今福さんは大喜びで,ぜひに,と。
というようなわけで,2月9日の鼎談がきっかけで,これから今福さんとのいい関係がますますふくらんでいく予感。ありがたいことです。
いよいよ戸井田さんの本をまとめ買いをして,備えなくては・・・と胸をときめかしています。やはり,『能藝論』と『観阿弥と世阿弥』と『演技』は不可欠のようです。そして,敗戦後を生きる日本人がかかえていた「抑圧」をいかにして撥ね除けようとしたのか,そこに潜む戸井田さんの「批評性」を学びとること。そのことは,とりもなおさず,21世紀を生きる日本人として,わたしたちがかかえている「抑圧」をいかにして撥ね除けようとしているのか,そのためのみずからの「批評性」を見届けること,につながっていく。
今福さんのこの間の言説によれば,柏木さんの今回のお仕事も,現代という時代や社会に対する柏木さんの「批評性」の表出そのものだ,という。だからこそあれだけの迫力のある「オバマ」面や「ライス」面が登場するのだ,と。もはや,伝統面という範疇から大きくはみ出してしまう,あるいは,逸脱する,さらには,弾け散っていく,「外に向けて爆破していく」=エクスプロード(explode)していく以外にはない,という境地に立つものだ,と。
では,われわれスポーツ史やスポーツ文化論に携わる者として,いかなる「批評性」を身につけ,みずからの仕事のなかに反映させているというのであろうか。もはや,自責の念に耐ええない。
もって瞑すべし。
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2009-03-03 春場所が楽しみ。
_ インターネットが不通になってしまい,ネット回線に問題があるという疑いが生じ,机と本箱を動かして大騒動をした。その結果,いいこともあった。
ひとつは,不要な書類が山ほどたまっていたのを捨てることができたこと。ふたつには,もういらないだろうと思われる古い本を捨てたこと。
みっつには,もう使わないだろうと思われる古い文房具を捨てたこと。
よっつには,・・・という調子で,不要なものは「捨てる」ということができるようになったこと。
もう,残りの人生もいくらもない,と割り切ることができるようになり,これまで「捨てる」ことができない貧乏性に悩まされてきたが,ようやく決別できそうだ。やれやれ,というところ。少しはさっぱりとした環境をつくれるようになってきた。こんな決意ができるようになるのに,70年かかったのかと思うと,なんだか人生というものの不思議さを思わずにはいられない。
いつつには,これまで捜してもみつからなかった本がでてきたこと。
その一冊が,舟橋聖一の『相撲記』(講談社文芸文庫)である。相撲好きの人間なら一度は手にとった本のはず。わたしは文庫本になる前に(ということはずいぶん昔の話になるが),この本との出逢いがあって,とことん相撲にはまり込んでいった思い出がある。この本にはそれほどのインパクトがある。しかも,著者の相撲に対するそこはかとない愛情を感ずる。それがたまらなくいい。快感である。ときには,相撲のもつ「いろけ」に言及する。その文章がまた,たまらない。名文なのである。こんな文章がいつか書けるようになれたらなぁ,といまでも思う。
いま,ペラペラとめくって眺めていても,これはもう相撲に関する教養の宝庫である。どのページをめくってみても,なるほど,そうだったんだ,と納得することばかり。日本の古今東西の相撲に関する上質の情報が満載である。こんにちの相撲報道にたずさわるジャーナリストたちは,ほんの少しでいいから,このような本を読んでほしいものだ。そうすれば,テレビや新聞で眼にするような,まことに薄っぺらな報道はなくなるはずである。そして,根も葉もない力士に対する誹謗中傷も消えるはずだ。大相撲にとって,なにより大事なのは「力士」であること,このことが認識できていないジャーナリストがあまりにも多すぎる。力士がいなかったら,大相撲は成立しない。だから,いくら日本相撲協会が威張ってみたところで,横綱一人に対抗できないのである。金を稼ぐのは横綱なのだから。そして,みんな,横綱の人気にぶら下がっているのだから。ジャーナリズムといえども同じ穴の狢にすぎないのだ。
舟橋聖一といっても,もはや,知らない人の方が多いのかもしれない。手っとり早く,この文庫本の表紙カバーに書いてある「コピー」を紹介しておこう。
「生家の筋向かいに,当時全盛を極めた「友綱部屋」があり,取的が出入りし,関取と並んでチャンコ鍋をつつくという幼少年期を過ごした著者は,戦後,横綱審議委員会委員となり,視力を失う最晩年まで務めるなど,文壇きっての相撲通。土俵,仕切,行司の変遷,双葉山始め名力士の伎倆の分析など,膨大な知識と熱意で綴る。迫り来る戦火に,相撲という伝統美を死守するの心意気で書かれた異色の日本文化論」
子どもののころに,力士の肩車に乗って,銀座を散策したことがある,しかも,それが日常であった,というような経験をもつ作家,舟橋聖一のような人が,横綱審議委員会の委員を務めていた時代はほんとうによかったと思う。力士に対する愛情の深さ,相撲への理解の深さ,教養の深さ,どれひとつとってみても完璧である。
それに引き換え,いまの横綱審議委員会の委員の顔ぶれをみると情けなくなってくる。今日の新聞にも,文部科学大臣が横綱審議委員会の委員を呼んで意見を聞いた,という記事が載っていた。やくみつる,という人が文部科学大臣になにを進言したのか(読んだけれども,記憶に残らないようなどうでもいいこと,つまり,世間一般の通俗的な相撲批判),慶応大学医学部の先生が薬物(大麻など)の検査の徹底について進言したとか,まあ,わたしにしてみれば,どうでもいいことをもっともらしく話したらしい。
わたしが心配しているのは,相撲という文化がどういうものであるのか,その根本的なところがわかっていないのではないか,と不安である。いまの大相撲にとって一番大事なことは,相撲とはなにか,という基本的なことである。
相撲が国技である,というのなら,なぜ,外国人を受け入れたのか。
しかも,いまや,二人の横綱はモンゴル人である。
とうのむかしに,大相撲は国技の看板をはずしたはずである。
にもかかわらず,いまだに,大相撲は「国技」である,と横綱審議委員会委員の「先生方」はおっしゃる。時代錯誤もはなはだしい。日本に古来から伝わる伝統的な「相撲」はいつのまにやら「国際化」をはたし,いまや「SUMOU」になってしまったのだ。にもかかわらず,組織や慣習は以前のまま。力士教育も以前のまま,親方まかせ。そこから生ずる齟齬が,ここにきて目立ちはじめただけのこと。
そこから議論を始めないかぎり,大相撲の問題は永遠に迷宮入りだ。
ああ,いつのまにやら,相撲談義をはじめている。
そうだ,14日から春場所がはじまる。そんなニュースをラジオで聞いたのが頭のどこかに残っている。久しぶりに横綱朝青龍の,流暢な日本語を聞いて,もう,わたしの胸はときめきはじめているのだ。さて,気合いの入った朝青龍が春場所でどんな相撲をみせてくれるか,勝ち負けを超越したところでの,朝青龍の相撲からにじみでてくる「色気」のようなものを,わたしは心密かに期待している今日この頃である。
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2009-03-04 室内トレーニング・マシーン。
_ 今朝の新聞に,全面広告で室内トレーニング・マシーンが紹介されているのをみて,なにかが狂っとる,と直感。
「脱メタボ作戦」と大見出しをかかげ,「スリムで美しい身体に!」「健康維持と若々しさを!」という見出し文字が仰々しく躍っている。そうして,全部で12種類の室内マシーンが紹介されている。しかも,その解説は「効率よく短時間でカロリー消費」といった調子で,さらに詳しく「科学的」に解説がしてある。要するに「スポーツ科学」の粋を結集して開発されたすぐれたマシーンである,というのが売りである。
もう,ずいぶん前から,この手の広告は見慣れてきてはいる。街角のあちこちで,トレーニング・マシーンと格闘しているさまが,通りからもみえるようになっていて,別に珍しいわけでもなんでもない。みなさんメタボを恐れて,一生懸命に励んでいらっしゃる姿は見上げたものだと尊敬すらする。それはそれでいいのだ。
ここで問題にしたいことは,新聞の全面広告をしてでも採算が合うほどに,室内マシーンが一般の家庭のなかにまで入ろうとしていることだ。つまり,一般の家庭のなかにまで「スポーツ科学」の成果が取り入れられつつある,という事実に,わたしはなんだかよく説明できない不安のようなものを感じてしまうのだ。
これはいったいどういうことなのだろうか。
なにか,特別のマシーンを用いて毎日汗をかかないと,まるで「不健康」ででもあるかのようだ。そして,そう信ずる人が多数派になっている,という事実。そのことが,わたしには「不健康」にみえる。
なにも,そんなマシーンを家のなかにまで持ち込まなくても,充分にエネルギー消費ぐらいはできるのに・・・・。あるいは,食べ過ぎをコントロールすればいいのに・・・。もっともいけないのは「飲み過ぎ」のはず。飲み過ぎ,食べ過ぎをコントロールして,ちょっとだけ「歩行」運動を取り入れるだけで,メタボなんぞというものはあっという間におさらばできるのに・・・・。それができない,という人が多数派になってしまった。つまり,セルフ・コントロールができないのだ。だから,他人(トレーナーや友人)に頼ったり,器具やマシーンに頼らないとなにもできない人間がどんどん増えてきている,ということの証。それが,今日の全面広告。もはや,自分のからだすらコントロールできない人間ばかりになってきた,ということ。そういう時代なのだ。
そのことが「不安」だ。どこかから強い風が吹いてくると,みんな一斉にそれになびき,意のままに操作されてしまうからだ。朝青龍は「悪者だ」とメディアが決めつけると,みんなそうなんだ,と思ってしまう。メタボはマシーンで解消,と言われれば,これまた,ああそうなんだ,と簡単に信じてしまう。バナナが減量に効果がある,と聞けばみんなバナナに走る。世界的な経済危機だとマスコミが騒ぐと,みんな駄目になってしまうと思ってしまう。この経済危機のご時世に,ちゃんと儲かっている会社もあるのだ。ヒトラーのような独裁者が現れると,あっという間に,みんな揃って「ハイル・ヒトラー!」と叫んでしまいそうだ。そういう条件は充分にととのっている。アメリカのオバマ現象などをみていると,そんな一抹の不安がかすめていく。
もっと自分の頭で考えて,自分のからだで確かめながら,なにがよりよい生き方なのか(メタボ対策にいいのか),創意工夫が大事だ。自立することだ。ところがみんな横着になってしまって,料理をするにも「マニュアル」がなければできない人ばかり。子育てまで「マニュアル」どおりにならないとイライラする母親が増えている,と聞く。
こうなってくると,もう,世も末だと思う。困ったものだ。
でも,人間という生き物はほんとうに愚かだから,徹底的に駄目なところまで落ち込んでいかないと,ほんとうに困らないと,新しい智慧を働かせようとはしない。だから,こうなったら,大勢の人が気づくまで待つしかないのだろう。
えっ,これってどこかで聞いたことのあるセリフだぞ。あの二人の哲人が語り合った名著も『待つ しかないか』(木田元・竹内敏晴著)だって。
「バカは死ななきゃ治らない」とむかしから言う。やはり,死んでもらうしかないのだろう。ただ,そういう人間の巻き添えにだけはなりたくない。だから,まずは,創意工夫に徹するのみ。わが道を行く。
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2009-03-05 イスラエル批判を続けるホロコースト生存者の娘
_ 今朝の朝日「ひと」蘭に,「イスラエル批判を続けるホロコースト生存者の娘」=「サラ・ロイ」さんが紹介されていた。
ようやく,このような記事が新聞に掲載されてホッとした,というのが現段階での実感である。なぜか?
ひとつには,敬虔なユダヤ教徒のなかに,いまのイスラエルのやっていることに批判的なひとはいないのだろうか,という疑問がわたしのなかにくすぶっていたからだ。
もうひとつは,必ずそういうユダヤ教徒はいるはずだが,みんな口を固くとざしてしまっているのだろうか,という憶測である。
さいごのひとつは,日本のマスコミがそういうユダヤ教徒がいても取り上げようとはしなかったのではないか,という不安・不信があったからだ。
最初の疑問は,これで解けた。かなりの数の批判者はいるはずである。ただ,それを表明する方法・手段を欠いているだけなのだろう。あるいは,軽々に口にしてはならないと固く口を閉じているのだろう。それが,二番目のわたしの憶測である。少なくとも,イスラエルに住んでいる多くの敬虔なユダヤ教徒の人たちは,日々の祈りのなかで,パレスチナの人びとに敵対して暴力に走るユダヤ人が一刻も早く気づいて,みずからの暴挙を恥じるようになってほしいと願っているはずだ。そう思わないことには,アウシュヴィッツの経験はなんであったのか,とわたし自身が納得がいかない。最後の,日本のマスコミが,そういうユダヤ人の情報を取り扱うことを忌避してきたのではないか,という危惧もちょっとだけ解消した。でも,まだ,日本のマスコミには,アメリカに遠慮して,できるだけアンタッチャブルな領域に閉じこめておきたいという無意識がはたらいているのではないか,という不信は解消されたわけではない。ようやく,こういう記事を,ちょっとだけ扱いはじめた,というだけの話である。それでも,わたしはほんの少しだけ安心した。
サラ・ロイさん(54歳)は,この記事によると,以下のようである。
ホロコーストのむごさを心に刻む者たちが,なぜこんなことをできるのか。イスラエルによるパレスチナのガザ地区封鎖や攻撃を,著作で批判してきた。東大に招かれ,5日に京都,7日に東京で,パレスチナの現状などについて講演する。
米ハーバード大中東研究所の上級研究員を務め,ガザ占領の社会,経済的影響を研究する。両親はユダヤ系ポーランド人。強制収容所から生還した。戦後米国へ移る。敬虔なユダヤ教徒の家庭で,東欧ユダヤの言語,イディッシュ語を使った。
幼少から訪ねたイスラエルの友人たちは,犠牲となった同胞を「弱いからだ」となじり,「我々は二度と虐殺されない」と言った。「パレスチナ人にも,同じような論理で攻撃しているのではないか」。そんな疑問がいまの研究に向かわせた。
やはり,こういう記事を読むと,イスラエルに身を寄せて生活しているユダヤ人と,その外で生活を立てているユダヤ人との間には相当の温度差がある,ということがわかってくる。これはもはや避けられないことなのだろうか。ふたたび記事を引用しておく。
85年,調査で行ったガザ。ロバを引く老人にイスラエル兵がロバの尻へのキスを強要した。老人は従った。「占領は人を辱め,絶望させ,人間性を奪う。両親が収容所で体験した,その一端を見た気がした」。イスラエル批判は信念になった。
生き残ったおばは「安全な場所はユダヤ国家しかない」とイスラエルへ。一方両親は「ユダヤ人だけの世界では生きたくない」と考えた。二人から受け継いだのは? 「ユダヤの精神。寛容,共感,人の救済です。そして真実を見極め,発言し続けること。ユダヤであることとイスラエルを批判することは,矛盾しない」
同じ「ユダヤの精神」を引き継いでいるはずのイスラエルに住むユダヤ人は,いったいなにを考えているのか,自己矛盾を感じていないのか,アウシュヴィッツの教訓をどう受け止めているのか,わたしには理解不能である。そして,いまも,平然とパレスチナ攻撃の手をゆるめようとはしない。しかも,国際社会の腰は引けたままだ。なにが「正義」で,なにが「テロリスト」なのか,藪君(ブッシュ君のこと)の言い続けたことになんの根拠もないことは,それこそ国際社会の良識のある人ならだれでもわかる。いや,良識などは不要だ。無垢の子どもたちの方が,もっともっと深く疑問をもつはずだ。
こんな単純な論理すら通用しない国際社会という暴力装置こそが大問題ではないか。悔しいというか,もはや,情けない。人間とはなにか。他者を犠牲にしてでも自己の安寧を確保することになんの躊躇もしない・・・。そんな人間が多数を占め,国際社会の「権力」を握ってしまっている。
やはり,サラ・ロイさんのように「発言しつづける」以外には方法はないのだろうか。もっと,なにか,ありそうな気がするのだが・・・・。
そこで考える。少なくとも,「他者を犠牲にしてでも自己の安寧を確保する」こと(を「正義」という名にすり替えた藪君の論理)にたいして,スポーツ文化はどのようにかかわってきたのか,と。スポーツ批評の精神とは,こういう普遍の問題に通底するとき,初めて成立するのではないか。最近,わたしが考えつづけていることは,この一点に集約できる。「批評とはなにか」「スポーツ批評とはなにか」と問い続けながら・・・。
サラ・ロイさんの研究者としての姿勢は,まさに,「批評精神」に満ちあふれたものだ。揺るぎない確たるスタンスに支えられた研究である。こういう凛としたスタンスに立つ「スポーツ文化論」を立ち上げてみたい。いつ,その日がくるのだろうか。
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2009-03-06 「もう一つの身体」についての原稿依頼
_ 某雑誌社から,「もう一つの身体」についての原稿を書いてほしいという嬉しい手紙が届いた。
その手紙によると,大修館書店の雑誌『体育科教育』に連載していた「おしゃべりな身体」の第一回目に,わたしが書いた「もう一つの身体・・・だなんて?!」という原稿を読んで,とても興味を持ち,以後,この連載を愛読していた,という。なんともはや嬉しいことではないか。こういう編集者がやはりいたのだ。もっと早く知っていたら勇気百倍しただろうに・・・・。なぜなら,わたしのこの連載について大修館書店の編集部は,あまりいい評価をしていなかった節があるからだ。詳しいことはここには書けないが,おやおやと思うことが何回もあった。
で,この某雑誌社の編集者は,「もう一つの身体」に関することであれば,どんな内容でもいいのでお任せする,と。さてはて,あの連載が終わってもうすでに一年になろうとしている。わたしの記憶もすでに遠くなってしまっている。が,ぼんやりながらもあの連載を仕掛けたコンセプトだけは蘇ってくる。というよりは,いまでもあのイメージでの「身体論」の展開は模索している,と言ったほうがいいだろう。ただ,最近はそういう「身体論」を文章化することからは遠ざかっているだけの話だ。
こういう依頼がくるということであれば,ふたたび,この手の「身体論」を展開してみようではないか,という気になってくる。ついでに,あの連載原稿24回分の原稿のつづきを書いて,一冊の単行本にまとめておこうか,という色気まででてくる。まあ,人間というものはいい気なものである。ちょっと褒められるとすぐその気になる。それでいて,少しでもケチをつけられるとショボンと落ち込む。問題は,ここからの脱出の方法だ。が,今回,このような思いがけない「激励」の原稿依頼が飛び込んできたお蔭で,どうやら立ち直れそうな気がしてきた。
まだ原稿の締め切りには時間があるが,そろそろ,それとなく原稿の構想を練っておこうかと思案していたら,偶然というか,集合的無意識というか,おかしなことが立て続けに起きている。それは,ちょうど,「ISC・21」の研究紀要の締め切りがきて,そこに投じられた原稿の編集をはじめたら,なんと,そこには「身体論」に関する論考が山ほどあるではないか。しかも,その中には,荒川修作の身体論をとりあげ,面白い論考を展開しているものもある。おやおや,と苦笑してしまった。なぜなら,近日中に,荒川修作の作品の一つである「三鷹天命反転住宅」を会場にして,荒川修作の「身体論」を語る企画が,内々で進んでいるからだ。その打ち合わせを・・・という段階まできている。
だから,おのずから荒川修作のことが脳裏をかすめる日が多くなってきている。久しぶりにかれの「転ぶ身体」のことでも考えてみようか,とぼんやりと思い浮かべたりしながら・・・。「わたしがわたしの身体の外に飛び出す経験」と荒川は言う。つまり,わたしが「宙づり」になる経験のことだ。かれの建築のコンセプトの一つはこれだ。「転ぶ」というテーマ・パークとして有名な「養老天命反転地」はその代表作の一つだ。とにかく,このテーマ・パークは人が「転ぶ」ことをあちこちに仕掛けてある。できたばかりのころ,あまりに多くの人が,大人も子どもも,転びすぎたために管理者サイドはあわてて,あまりによく転ぶ場所を転ばないようにつくり直してしまった,という逸話があるほどだ。このことを,わたしは荒川修作の講演会で,直接,ご本人から聞いた。しかも,ご本人にはなんの事前の断りもなく「改悪」したそうで,「あの馬鹿たれどもが・・・」と怒り心頭に発する勢いで罵倒するのを,わたしはこの耳で聞いた。裁判をしたら完全なる「有罪」である,とまでかれは声を大にして主張していた。
つまり,「転ぶ」公園ということの意味が,一般の人びとには理解されていなかったのだ。だから,「安全管理」をごく当たり前のように考え,荒川修作の「哲学」を踏みにじってしまったのだ。このことを考えると,わたしが書きつらねた「もう一つの身体」の連載もまた,同じような運命にあったのか,ということが理解できないではない。
こんど依頼のあった某雑誌社の雑誌の読者は主として「小学校の先生がた」であるという。さて,困った,である。依頼してきた編集者は,当然,そのことを承知で依頼してきたはずである。だとしたら,どのように書くか,ここが問題だ。別に荒川修作を取り上げなくとも,わたしの書く「もう一つの身体」のほとんどは,やはり,世間一般の「良識」(これこそが問題なのだが)からすれば「危ない話」ばかりだ。
さあ,なにを,どのように,小学校の先生がたに語りかけるか,智慧の出しどころではある。もう,なにも遠慮することはない。いま,考えていることを精一杯,書くこと。それに尽きるだろう。そのための「智慧」と「勇気」は大いにはたらかせることが肝要だろう。
さてはて,楽しくなってきた。
まずは,こういう原稿依頼がくる時代がやってきた,ということを喜びとしたい。いい時代のはじまり,予兆として,大歓迎だ。もっともっと来い,と声を大にしたいところ。でも,いましばらくは自重しながら,与えられたチャンスを最大限に生かすこと。よし,この路線で行こう。
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2009-03-07 戸井田道三の本。
_ 戸井田道三の本が気がかりだったので,ようやく注文。昨日から今日にかけて断続的に到着。
amazonの古書を調べて発注。マーケット・プレイスのなかから選んだので,全国の古書店からばらばらに購入することになる。したがって,それぞれに340円の送料がつく。したがって,発注した本が到着するのもばらばら。とりあえず,5冊を頼んだ。『能芸論』『能面』『演技──生活のなかの表現行為』『能──神と乞食の芸術』『観阿弥と世阿弥』。
で,一番早くとどいた『演技──生活のなかの表現行為』(以下『演技』)から読みはじめた。これがいけなかった。とたんに,予定していた仕事が全部ストップしてしまった。なにも手につかないのである。読まずにはいられない・・・そんな衝動に突き動かされ,どうにもならないのである。困ったことになった。
第一章 遊戯,とあるから,まあ,ここだけ読んでみようと思ったのが間違いのはじまり。遊戯を読み終わると,つづいて第二章 呪術,を読まなくてはならないように話の展開がつながっている。そのように戸井田さんは仕掛けているのである。これが終わると第三章 饗宴,へとこれまた読まなくてはならないように第二章の呪術の終わりのところで問題提起までしているのだ。という調子でとうとう泥沼に・・・。
ところが,今日,帰宅してみると『能芸論』がとどいている。初版本はすでに売り切れになっていたので(だれか知っている人たちが買ったらしい。しばらく前まではあったのを確認している),勁草書房の改訂・増補版を購入した。立派な箱に入っていて,しかも,とてもきれいなので感動。
これも,ちょっとだけ,と思って開いてしまった。これがいけなかった。夕食後,いままで首っ引きである。もちろん,あっちへ飛び,こっちへ戻り,しながらの拾い読みである。なのに,もう,どうにも止まらない。このブログを書く時間がきてしまったので,一端,中断。
まずは,戸井田道三という人の博覧強記ぶりに唖然としてしまう。しかも,じつに理路整然と論理を展開し,説得力がある。いったい,この人はどれほどの本を読み,どれほど旅をして,あちこちの民俗芸能を見て歩いたのか,ちょっと計り知れない。
たとえば,ニラメッコという遊戯があった。という書き出しからはじまって,戸井田さんが子ども時代のニラメッコの遊び方を紹介し,こんな単純な遊びもふんなに新しいものではない,と書き過去にさかのぼっていく。まずは,『嬉遊笑覧』を引き,長門本の『平家物語』のなかの「ニラメッコ」の話を紹介し,つづいて『古事記』『日本書紀』のなかの「ニラメッコ」へと展開する。当然のことながら,アメノウズメの「にらみ」(眼力)の話がでてきて,「にらむ」こと自体に演劇的意味を読みとり,その機能を解読していく。かと思うと,一転して,能面のなかの「ベシミ」という眼を剥き出しにしてにらんでいる面の話をはじめ,とどまるところを知らない。さらには,現代の不良少年たちの「ガンをつける」話,歌舞伎の「にらみ」(市川家)の話,母親が子どもを叱るときに「めッ」ということの意味,「アカンベェ」の話,「イー」といういやがらせの顔,ともはや際限がなくつづく。そして,最後に,つぎのように結ぶ。
ギリシアでは仮面をさす言葉が同時に人格という意味をもっていた。日本でもブアクやベシミをかぶることは,その人格を演技することであった。社会的必要から,それらの仮面が一定の人におしつけられ,予定の筋書が進行させられた。その必要の内容が変化したり無くなったりして後もなお,子供のニラメッコのなかに伝承して,社会的態度の訓練がかさねられていたのである。
という調子で,いくつもの「遊び」の話が展開する。最後には,「遊び」はこんにちの意味とは違って,「神ごと遊び」を意味するのだ,と説く。その延長線上に,のちに運動競技となる「遊び」の起源についても,とても面白い説を展開していく。こうなってくると,もはや,「後で読む」などと言っている場合ではなくなってしまう。
こうして,結局は,最後まで読まなくてはならなくなってしまう。困ったものだ。ちょっと,気分転換のつもりが・・・。ミイラ取りがミイラになってしまう,その典型。
『能芸論』は,もっと強烈である。困った。だから,あとの3冊には手を出さないことにした。さっさと眼につかないところにしまった。が,こんどは眼につかないだけに,かえって,気になって仕方がない。どちらに転んでももはや駄目ということか。
ああ,嬉しい悲鳴。今夜は眠れない。覚悟あるのみ。
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2009-03-08 アートのなかのスポーツ施設
_ 4月からはじまる新連載のために,今日は一日,資料をひっくり返しながら,いろいろと構想を検討した。
「文学にみるスポーツ」という連載が,第233回で終わりとなり,それに代わって,新連載をやることになった。タイトルはまだ決まってはいないのだが,ちょっと古い図像をてがかりにして「スポーツ施設」の原風景を紹介してみよう,ということになっている。タイトルも内容も「一任」という不思議な依頼のされ方であったが,わたしとしては最高の扱いを受けた,と感謝しているところ。ここまで信用されたら,なにがなんでもいい連載をしてやろうと思う。
そのための作業に今日は専念。まずは,これまでに買い集めてあったスポーツに関する美術全集(英語,ドイツ語文献がほとんど,ときにイタリア語の文献も)と美術展が開催されたときの「カタログ」(図録)集も買い集めてあるので,それらをはじからめくって,どの程度の図像があるのか手応えを確かめる。予想どおり,あるわあるわ,ほとんど際限なくある。これなら何年やってもネタは尽きない。
企画の内容は,A4サイズの1ページに,スポーツ施設に関する図像と,その解説文(900字)で構成するアート・ページ。カラー・ページが用意されている。図像は原則として1枚。場合によっては小さくして2〜3枚載せることも可。このやり方なら,どんな素材でも,いかようにも扱えるので,とても助かる。
そこで,連載のタイトル名を考える。「スポーツ施設の原風景」「アートにみるスポーツ施設」「絵画のなかのスポーツ施設」「スポーツ施設の図像学」「スポーツ施設・ア・ラ・カ・ル・ト」などなど,いくつも湧いてくる。掲載誌が『月刊体育施設』なので,それにちなんでのネーミングとなる。わたしは,担当編集者に「この際,雑誌のサイズもA4にして,内容も刷新するというのだから,思い切って雑誌名も『月刊スポーツ施設』にしたらいかがですか」とかなり本気で持ちかけてみたが,これは受け入れられなかった。もう,いまどき『体育施設』ではないだろう。やはり,どう考えてみたって『スポーツ施設』とすべきである。そうすれば,若者も手にとって眺めてくれるだろうが,『体育施設』では見向きもしない。そういうセンスを受け入れるだけのキャパシティはまだないようである。やはり,日本の官公庁を相手に発行してきた雑誌だけに,言い古された(官庁用語になじんできている)名前を捨てることはできないようだ。
わたしとしては「絵画のなかのスポーツ施設」というのが,まあ,いいのかなぁ,と考えている。
つぎの難関は,この図像をデジカメで撮影して,パソコンに取り込み,そのなかから連載用の図像をとり出して,雑誌社に送信する,という手続を身につけなくてはならない。これまで横着をして,すべてこの手のことは,他人まかせにしてきた。が,今回はそうはいくまい。時間ぎりぎりまで追い込まれることが当たり前になっているので,深夜遅くなっても「エイヤッ」と決めて送信できるようにしておかなくてはなるまい。
そこで,仕方なしに,マニュアルをとり出してきて,最初から一つずつ書いてあるとおりに手順を追う。まずは,ソフトのインストールをする。そうすると,あとは嘘のように,言われたとおりのことをしていけばいいだけのこと。むかしのソフト(かれこれ20年前)と比べたら,なんと,わかりやすくて便利にできていることか。これならできる,と自信をえて,つぎつぎとハードル(わたしにとっては立派なハードル)をクリアして,なんとか,自分のniftyのアドレスからyahooのアドレスに送信。瞬時にして着信しているではないか。いまごろ・・・と笑われそうだが,初体験はいくつになっても感動するものである。
よし,これでもうあとは怖いものはない。第一回目の図像を決めて,解説文を書けばそれでよし。早速,明日にでも,それをやってしまおう。そうすれば,重くのしかかっていたプレッシャーの一つから解放される。こうして一つひとつハードルをクリアしていけば,桜の花の咲くころには,すべてのハードルをクリアしているはずである。
繰り返すが,掲載誌は『月刊体育施設』。これまでの「文学にみるスポーツ」は奇数月の隔月連載であったが,こんどの「絵画にみるスポーツ施設」(仮)は4月からなので,偶数月の隔月連載となる。見て楽しいページになるよう,これから工夫してみよう。ますは仕掛ける人間が「面白い」と思えるものをやること,これが第一優先。しかし,その「面白い」が普遍性をもつかどうかは別問題。たぶん,わたしの独断と偏見にもとづく「面白い」になってしまうだろう。でも,めげずに「突き進むこと」とみずからを励ます。でないと,やってはいけない。
みなさんも,どこかで目にしたら,ご意見などお聞かせください。よろしくお願いいたします。
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2009-03-09 「絵画のなかのスポーツ施設」
_ いよいよ締切り日がやってきたので,今日で決着をつける。
4月から『月刊体育施設』ではじまる新連載のとおしタイトルを「絵画のなかのスポーツ施設」とすることにした。いろいろと迷ったが,最後は「エイッ,ヤッ」と,例の「力の一撃」で決める。とくにこれといった根拠はない。なんとなく「これだよなぁ」という感覚だけを頼りに。
その第一回目の絵を探す。まあ,材料に事欠くことはないが,初回というのはやはり特別だ。どこから口火を切るかというのは大事である。なぜなら,読者をつかむことができるだけの,なんらかのメッセージ性やインパクトが求められるからだ。最初に面白いと思ってもらえれば,あとは,どんどん引っ張っていくことができる。しかし,最初につまずいてしまうと,なかなか立ち直れないものだ。だから,どうしてもナーバスになってしまう。が,これもまた悩んでみても仕方がないので,「エイッ,ヤッ」で決める。こちらもまた,なんとなく「こんなところだよなぁ」という感覚だけを頼りに。
だから,企まずして企みが透けてみえてしまう怖さもともなう。が,そんなことを恐れていてはなにもできない。ありのままの自分の感覚をさらけ出して,ご機嫌をうかがうしかない。それで駄目なら「ごめんなさい」と謝るだけの話。
で,選び出したのが,1879年にドイツの画家によって描かれた油絵『体育の授業』。だから,第一回目のタイトルは「1879年・ドイツの学校の運動場」とつけた。写真をここに載せることができれば,もっと話が早いのだが,そのテクニックがわたしにはない。いずれ,教えてもらうことにして,概要だけを紹介しておこう。
ドイツの田舎の丘の上の小学校の運動場の情景を描いたもの。猫の額ほどしかない運動場で,小学校3年生くらいの男の子20人が10人ずつ横列に並んで,先生(スーツ姿でカンカン帽を被っている)の手拍子に合わせて,歩行訓練をしている。子供たちがカチカチに緊張して足を上げて行進する姿がとてもうまく描かれている。同じ学年と思われる女の子たちが,運動場の端でじっと見ている。また,通りがかった農夫が二人,立ち話をしながら,この様子に見入っている。若い子供連れのお母さんもじっと眺めている。だから,なおさら,子供たちは緊張しているのかもしれない。
しかし,よくよくこの絵を眺めていると,当時のドイツの農村にあっては,とても珍しい授業だったのではないか,という雰囲気が伝わってくる。1879年といえば,日本の明治10年前後のことである。日本の学校教育がはじまったばかりで,田舎では寺子屋が学校の代替をしていた時代である。まだ,盛んに「運動場」の広さをどのようにして決めるか,という議論が展開していたころのことである。このころに,ドイツの田舎の小学校には,猫の額ほどの広さしかないとはいうものの,立派な「運動場」が設えられていたということに注目したい。
しかも,そこで行われている授業は,隊列行進の授業である。しかも,絵のなかには,鉄棒,平均台,水平棒,登攀棒,などの施設が描かれている。いわゆる汎愛主義の教育やヤーンによって開発された体操器具が,運動場の端にみえる。それらの器具の上に,女の子たちが座ったり,凭れかかったりしながら,男の子たちの「行進訓練」を眺めているのである。子供たちにとっても珍しい授業であったことが,だんだんとわかってくる。
1879年といえば,ドイツも近代国民国家としての体裁を整え,ヨーロッパ列強の仲間入りをはたし,植民地獲得競争に参入しつつあった時代である。すでに,熾烈な経済競争の段階に入っていて,その緊張感がそこはかとなく戦争が近いと予感させるに充分な雰囲気を漂わせていた時代である。だから,なんのことはない,この絵は,来るべき戦争に備えて,軍事訓練のための「予備教育」がなされていることを,みごとに写し取っているのである。画家の意図は明らかにそこにある。
もう一点,この絵を眺めていて気づいたことがある。油絵とはいえ,徹底したリアリズム(写実主義)に貫かれた,ありのままを写し取ることに全力が注がれている点である。1879年といえば,もうすでに,写真が普及しはじめていたころである。しかし,カラー写真が登場するのはもっともっと後のことである。だから,この油絵は,カラー写真の代わりをしている,と考えてよいということだ。つまり,事実を写し取るための記念写真の代替と言ってよいだろう。
ということは,この連載のポイントの一つは,写真に写し出される前の段階の「スポーツ施設」を絵画のなかに探ってみることにある,と。やはり,絵画資料が重要なのである。だから,この連載のとおしタイトルが「絵画のなかのスポーツ施設」でなくてはならないのである。
ところが,この絵につける「解説文」の文字数はわずかに「900字」のみ。だから,ここに書いてあることの,ほんのわずかなことしか書けない。その欲求不満をこうして発散させているのかもしれない。もう一つは,わたし自身のメモランダムとして記述しておきたいという願望もある。まあ,これからも連載の裏番組として,ここに書かせてもらうことにしよう。
ついでに,いま,閃いたこと。近代スポーツは写真というメディアによって急速に普及して行ったこと,とりわけ,初期の近代スポーツと写真というメディアは切っても切れない関係にあること・・・,そのごもありとあらゆる「メディア」に支えられてこんにちにいたっていること・・・など。これは一つのテーマになりそうだ。今日のブログの「おまけ」。
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2009-03-10 研究所紀要の書名を考える。
_ 「ISC・21」(「21世紀スポーツ文化研究所」)の『紀要』の書名タイトルを新しくしようと考えている。そこで,みなさんに相談です。
これまでは,『IPHIGENEIA』(日本体育大学大学院スポーツ文化・社会科学系稲垣研究室紀要)として発行してきたが,わたしの定年退職にともない自然消滅。これを,「ISC・21」が引き継いで,<ISC・21>版『IPHIGENEIA』として発行すべく,原稿集めをしてきた。そして,予想をはるかに超える人たちが賛同してくれて,たくさんの原稿が集まった。いま,その初校ゲラの校正に入っているところ。
出版社は叢文社。利益を超越して協力したいとの申し入れがあり,それに縋ることにした。当初は,手作り版も覚悟していたが,予想を超える大勢の人に執筆してもらえたので,それならば立派な本にして世に問うことにしよう,と考えました。
巻頭を飾るのは,この間の鼎談「現代の能面」。柏木裕美さんが文藝春秋画廊で行った能面展「飛天──天人・天女が舞う」のオープニング・セレモニーの一つとして開催されたトークショウ。西谷修,今福龍太の両氏にわたしが加わっての鼎談。まことにスリリングな内容となり,この紀要の創刊を飾るにはもったいないほど。
これに加えて,18人の人が玉稿を寄せてくれた。原著論文,研究報告,研究ノート,書評,エッセイ,など,じつに多彩。いずれも力作ばかり。ご祝儀原稿とはとても思えない,じつに内容の濃いものばかりである。ほんとうに,ありがたい限りである。
こうなってくると単なる「紀要」では終わらせたくない。できれば,市販への道は開けないものか,と検討に入る。わたしの構想を叢文社さんは即座に受け入れてくれて,OK。市販は望むところだという。ならば,本気で考えようということになり,本の大きさ,体裁,書名,デザイン,などの検討に入る。そこで出てきたのが書名の変更である。
本屋さんに並んだときに『IPHIGENEIA』では,いささかパンチが足りない。たぶん,理解してもらえない。内容も想像できない。これではまずかろうというので,新しい書名を考える。
そこで浮かんできたのが『暴力とスポーツ』。これは,じつは「ISC・21」を立ち上げるときから考えていた,もっとも主要な研究テーマなのだ。つまり,21世紀のスポーツ文化を考えるためのもっとも重要な視点の一つが,この「暴力とスポーツ」だ,とかねがね考えていたのだ。だから,わたしとしてはなんの躊躇もなく,よし,これで行こう,ということになった。しかし,この書名変更の構想はまだ,だれにも相談していない。少なくとも,いつもお世話になっている名古屋・大阪の研究会の世話人の人たちには了解をえておく必要があろう,とメールを送信したばかりである。これから,どのように考えるか,返信メールがとどくところ。
もう少しだけ,ここで述べておけば,この書名は『暴力とスポーツ』でなくてはならない,ということ。これが『スポーツと暴力』であってはならない,ということ。この違い,わかっていただけるだろうか。
『スポーツと暴力』としてしまうと,スポーツの現場で起こる「暴力」だけが日の目を浴びることになる。つまり,もっとも通俗的なスポーツにともなう「暴力」が,その研究対象となってしまう。それにたいして『暴力とスポーツ』ということになれば,「暴力」が上位概念として存在し,そのもとでの「スポーツ」がどのような「暴力装置」として機能しているか,ということが研究のテーマとなる。つまり,「スポーツ」を大きく包み込む,人類に普遍的な「暴力」の問題を視野に入れた研究のパースペクティブが浮かび上がったくる。
たとえば,こうだ。ジャック・デリダが『法の力』で展開した「法/権利」(Recht)の誕生にともなう「力の一撃」や「暴力のエコノミー」などとリンクする「暴力とスポーツ」が大きなテーマとなる。あるいは,ベンヤミンが『暴力批判論』で展開した自然法や実定法のなかにみる「暴力とスポーツ」の問題,つまり,それらが「倫理的諸関係」の問題としてクローズ・アップされるときの「暴力とスポーツ」の問題である。
これらの問題については,いつかまた,このブログのなかで私見を展開してみたいと思う。今日のところは,このような根源的で普遍的な「暴力」と「スポーツ」との関係性こそを問うこと,それが「21世紀スポーツ文化研究所」の最大の課題である,ということを指摘するにとどめたい。
さて,研究所紀要の書名を『暴力とスポーツ』にしようと考えた経緯は以上である。みなさんはどのようにお考えか,忌憚のないご意見を寄せてください。楽しみにしています。
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2009-03-12 お騒がせしました。『暴力とスポーツ』について。
_ ひとりで考えているうちに,わたしの「夢」(あるいは「願望」)だけが暴走してしまったようです。お騒がせしました。
今回は,このブログでの「つっこみ」と個人的なメールと合わせて全部で7名の方たちから,とても思いやりのあるご意見をいただきました。ありがとうございました。あらためて,感謝とお侘びを申しあげます。
やや「暴力」的に,みなさんのご意見を最大公約数的に集約をしますと,「原稿を集めてしまってからのタイトル変更には違和感がある」というものでした。落ち着いてよくよく考えてみれば,そのとおりである,ということは明白です。たぶん,わたし自身が「投稿者」のひとりであっても,同じ意見を述べただろうと思います。したがって,今回は,研究所紀要のタイトル変更を撤回します。そして,初心にかえって,当初の編集方針のとおりに刊行したいと思います。
すなわち,原稿依頼の折に提示しましたように,<ISC・21>版『IPHIGENEIA』創刊号,です。このタイトルで,今回は刊行したいと思います。
それから,『暴力とスポーツ』というタイトルで市販する,という考え方そのものは反対ではない,というご意見でもみなさん一致していました。したがって,この「夢」は捨てないで,次回に向けて,慎重に検討を重ねた上で実現をみたいと考えています。そして,そのためには「創刊号」で徹底的に,ここで考えている「暴力」とはなにか,という議論を展開しておくことが重要だろうと考えています。そういうことも含めて,「ISC・21」巡回月例会でも連続して議論をしていきたいと考えています。
さらに,「市販する」ということについても,もう少し丁寧に書いておくべきだったと反省しています。「市販する」ということになれば,どうしても,「単行本」というイメージがついてまわるのは当然だと思います。が,わたしの頭のなかでは,「研究紀要」である以上は,いろいろの原稿が集まってくるわけですので,どこまでいっても基本的には「雑誌」でした。ですから,雑誌名が『暴力とスポーツ』になるだけの話,と単純に考えていました。そこに大きな「スレ違い」が生じてしまったようです。これも,大いに反省しなければ・・・と思っています。このことについても,これから少しずつ議論を重ねていきたいと思っています。
ついでに,単行本の企画については,もっと,すっきりした編集方針を立てて,実現化をめざしたいと考えています。が,そのためには「内圧」が高まらないかぎり実現は不可能ですので,その「内圧」を高めるための仕掛けをいろいろ考えているところです。みなさんもいいアイディアがありましたら教えてください。
もう一つ,ついでに。じつは,前々から『ウェブ・マガジン』の可能性を探っています。これこそ文字どおり「雑誌」ですので,どんな内容になってもいいわけです。問題は,執筆者です。書きたいという人が輩出してこないと,どうにもなりません。それと同時に,柔軟な発想をもった編集者が必要です。そして,雑誌の編集者こそ,まず,なによりも「若い」ということが不可欠です。時代の変化を敏感に感じ取り,それを「雑誌」のなかに反映させることのできる「若い感性」がどうしても必要です。なので,こればかりは,わたしには不可能です。だれかに委ねるしかありません。これも,できるだけ早く実現させたい,と「熱望」しています。
大分,横道にそれてしまいましたが,「夢」のある話ですので,お許しください。
それともう一つ。こういう議論を,もっと恒常的にできないものか,というのが以前からのわたしの構想のなかにあって,その選択肢の一つが「掲示板」の設定でした。が,この「掲示板」がほとんど麻痺してしまっています。本の紹介やら,読後の感想やら,研究上のアイディアなり,新聞を読んで腹が立ったり・・・等々,なんでもいいので,いま,この瞬間に閃いたことをみなさんと共有したり,議論したりできるようになりたいなぁ,と念じています。子供たちが「自閉」している,という評論家諸氏のご意見をよく耳目にしますが,わたしはそうは考えていません。むしろ,「自閉」してしまっているのは「大人」の方であって,大人が「閉じてしまう」から,子供もまねして「閉じて」いるだけの話です。そして,その方がずっと「楽でいい」からです。つまり,わたしたち自身もまた,その当事者そのものである,ということです。もう少し「開かれた」時空間をお互いに共有できないものか,というのがわたしの「願望」です。
「ISC・21」がホームページを立ち上げ,お互いの情報交換の場として活用してもらえたら,一番,助かるのはわたし自身です。ひとりではとても得られない情報がいながらにして集まってくるのですから。だから,このブログも,かなりのこだわりをもって書き続けています。
「突っ込み」はもちろん大歓迎。それだけでは物足りなかったら「掲示板」を活用してください。最近,個人的なメールで意見や質問が多くくるようになっていますが,それはわたしの歓迎するところではありません。できるだけ「開かれた場」で,みんなで意見を交換したい,そういう思いです。
というようなわけで,「ISC・21」の紀要・創刊号は,初心にかえって刊行したいと考えています。もっとも,この結論は,こんどの大阪例会で,みなさんのご意見を集約して出したいと思っています。
とりあえず,お騒がせしたお侘びかたがた現段階でのご報告まで。これからも忌憚のないご意見を聞かせてください。お願いします。それが「内圧」を高めていく,もっとも手っとり早い方法ではないか,と考えるからです。よろしくお願いいたします。
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2009-03-13 ああ,確定申告。
_ ことしは税理士さんに助けてもらって,ようやく確定申告を済ませた。でも,なんともはや納得のいかない税の制度ではある。
以前から,早く退職した友人たちから,退職した年はまことにみじめな思いをするから覚悟をしておいた方がいいぞ,と言われていましたが,その実感が湧かなかった。しかし,この一年,そして,今回の確定申告で,しみじみと「みじめな」思いをさせられることになりました。
その理由は,税制というシステムについてのあまりの無知による,そのひとことです。ずっと長い間,給料生活をしてきたので,すべて,事務的に源泉徴収されてきました。たまに入る原稿料などは微々たるものでしたので,その分だけ,別途,確定申告として手続をすればよかったわけです。しかも,その方法はきわめて形式的で,マニュアルどおりに書くしか方法がないわけですので,その繰り返しをつづけてきたにすぎません。だから,ほんとうの意味での税制のシステムがどうなっているのかは知りませんでした。また,知ろうともしませんでした。
が,まあ,こんなことを書くと笑われてしまいそうですが,定年後も,現役時代と同じ税金を払わなければならないのです。ほんのわずかばかりの年金で暮らさなければならなくなっているのに,税金だけは,過去の最高の額を払わなければならない,という次第です。固定資産税も都道府県税も市町村税も,すべて,現役最後の年の実績にもとづいて税額が計算されているのです。だから,年金のほとんどは税金でもっていかれてしまう,というわけです。わずかしかなかった貯金もあっという間に消えていってしまいます。まあ,そんな恨みつらみを税理士さんにぶっつけたら,笑顔でやさしく諭すように税制というもののシステムについて教えてくれました。
まあ,なんともはや,世に税金なるものの恐ろしきや。どうあがいてみても逃げ道はない,とのこと。でも,目一杯,必要経費なるものを見積もって計算してくれたようで,最初の概算よりはいくらか安くなってはいましたが・・・。
まあ,すべてはわたしの無知にはじまることですので,あまり述べたくはないのですが,こんごのというか,これからの一年のためにも,自分を叱責する意味で書いておこうと思います。
税理士さんの言うには,鷺沼の事務所の性格を明確にして,きちんとした「事業届」を提出すること,そして,あらゆる領収書を保存しておくこと,それらの領収書の一覧を作成して,内容をメモしておくこと,そうすれば,たぶん,来年からは税金を払わなくてもよくなるはず,とのこと。なぜなら,事業で稼ぐ金よりも必要経費の方が多くなるだろうから,と。つまり,大阪,名古屋と巡回している研究会は立派な必要経費だというのです。なるほど,だから,ある人が言うには,鷺沼の事務所を「会社」にしておきなさい,その手続をしておきなさい,そうすればほとんどが必要経費になりますよ,と。このことばが,当時のわたしの耳には遠くに聞こえていて,自分のこととは聞こえていなかったのです。無知というか,鈍感というか,世の中のことをなにも知らない,情けない人間であったというわけです。なんともはや,取り繕いようもない始末。
この教訓を生かして,さっそく,税理士さんにお願いをして,事業届を出してもらうことにしました。まだ,会社ではありませんが,個人事業として「研究・教育活動」を行う,という内容の届になるそうです。こうなったら,本気で事業を開始しなくてはなりません。もっとも,この一年も,かなりまじめに事業を展開してきたわけですが,なにせ,ひとり相撲をとっていたにすぎない,税理士さんに言わせると「単なる趣味」としてしか税務上は扱えないのだそうです。届を出しておけば,かなりのものが必要経費となるそうです。そして,そのためには領収書が必要だ,というわけです。
さあ,明日から,もらえる領収書はみんなもらっておいて,きちんと管理するようにしなくちゃ・・・・。これからは恥も外聞もなく,領収書をください,と大きな声で言えるようにならなくてはなりません。もし,これから,そういうわたしの姿をみても笑わないでください。わずかばかりの,ほんとうに泣きたくなるほど,わずかばかりの年金しかもらえない人間からも,搾り取るようにして税金をとるのが,いまの税制なのですから。だとしたら,その税制にのっとって,立派に必要経費を記録すること,それで対抗する以外に方法はない,と税理士さんが教えてくれました。
こういうことを,もっと,若いときに教えてくれればよかったのに・・・。あるいは,もっと真剣に,調べておくべきだった・・・と。ちょっとした原稿を一つ書くくらいの時間があれば,この程度の税制の初歩くらいは,いとも簡単に理解できたはず。まだ,若いみなさんは,いまから税制の初歩的な知識は勉強しておいた方がいいですよ。あるいは,だれか税務に詳しい友人に教えてもらうこと。授業料を払ってでも教えてもらうことをお薦めします。
税制に目覚めた「遅れてやってきた青年」の情けない繰り言。
トホホホホ・・・・・。
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2009-03-15 文学雑誌が元気で困る。
_ 小説が好きで,内緒で読み続けていることは,身近な人たちはよく知っているとおり。で,今月の文学雑誌には困った。
毎月,中旬になると『週刊読書人』の最後のページの下蘭に,四つの文学雑誌が並んで広告を出す。『すばる』『文学界』『新潮』『群像』の4誌。これを眺めていたら,今月は「えらいこっちゃ」という内容が並んでいる。これでは,本屋に行って,立ち読みで済ますわけにもいかない,と困り果てている。
まず,『すばる』。ここでは,特集「群島の時代」が組まれていて,今福龍太「群島・世界論」特別編,巽孝之「この不思議な群島で」,宮内勝典「群島語」,とある。これは明らかに,昨年11月に今福さんが出した『ブラジルのホモ・ルーデンス』と同時刊行であった(じつは,同時に3冊を刊行している)岩波の『群島・世界論』に共鳴・共振しての企画であることは明白である。やはり,必読の特集と言わねばなるまい。しかも,この号には,対談バルタバス(騎馬スペクタクル「ジンガロ」主宰)×中沢新一,というのも載っている。サーカスに関心をもっている人間としては,やはり,見過ごすことはできない。
つぎなる『文学界』。特集・倉橋由美子の魔力(没後4年・デビュー半世紀)が組まれていて,座談・加藤典洋×関川夏央×川上未映子「『大江と村上』の間を生きた孤高の作家」とある。倉橋由美子などといってみたところで,いまの若い人たちには「なんのこっちゃ」という話かもしれない。しかし,60年安保,70年安保,といういま考えてみれば,なんと純粋に国家のことを真剣に考え,行動した学生さんたち(自分自身も含めて)がいたことか,という思い出とともに浮かんでくる名前の一人がこの「倉橋由美子」なのである。ここではあえて倉橋由美子のディテールについて語ることはやめておくが,われわれ世代の純粋無垢な青年たちにとっては忘れることのできない「存在」であったのだ。その「存在」は,あの当時の「吉本隆明」にも匹敵するほどのビッグ・ネームだった。その倉橋由美子をこの3人がどのように語るのか,とりわけ,川上未映子がどのように語るのか,「先端」がチクチクするような話を展開しているのだろうか,と想像力をかき立てる。魅力的である。
しかも,同じ号のなかに,辺見庸の「『生首』より」という連作詩が掲載されているという。これもまた,いまのわたしとしては読まなくてはならない,大事な作家である。これまでに辺見庸が書いてきた,きわめて「批評性」の高いエッセイなどにつよく惹かれている以上,見過ごすことはできない。どんなことがあっても「手抜き」をしない作家である。それだけにこの人のものは必読に値する。
『新潮』はどうか。この雑誌には,なんと,わたしの大好きな山田詠美ちゃんが「学問」(完結編150枚,著者最大の主題<性>が結実した新・代表作の終幕)を完結させている。もう,これは理屈抜きのファンダムそのものだ。他人になっといわれようとも,わたしは山田詠美ちゃんが好きだ。この丸裸の,なにものにも構えない,あるがままの作家が好きだ。これは理屈ではない。ただ,単に,フィーリングが合うというだけのこと。
最後の『群像』は,まだ馴染みの浅い,若い作家の最新作が並んでいる。なかでも,天安門以後に「個人」を撮る,世界的映画監督が激変する中国の現代を語る「ジャ・ジャンクー」(聞き手・藤井省三),はなにがなんでも読んでおかなくては・・・と思う。ジャ・ジャンクー監督の最新の映画『四川のうた』も見たいし・・・。もう一つの目玉は,武田将明の群像新人文学賞受賞第一作「タナトスからの脱出(エクソダス)──現代小説の死と倫理」である。若い才能のある書き手が,受賞第一作にどのような作品を提示するか,わたしにはとても興味がある。なぜなら,受賞がほんものであったかどうか,その試金石でもあるからだ。作家としての実力が問われる。きびしい関門ではあるが,ここを通過すれば,その作家はもはやゆるぎない地位を確保することになる。さて,この作品はいかに。
とまあ,こんな調子で,小説大好き人間にとっては,時間がいくらあっても足りないのである。かなりのものは,本屋の立ち読みで消化しているのであるが,今回のこの四誌の内容の充実ぶり・・・,いや,偶然とはいか,わたし好みの凝縮した内容がいっぱい詰まったこれらの四つの文学誌は目が離せない。
「えらいことにとちょとなりにけりやがな」。
でも,これは嬉しい悲鳴。矢でも鉄砲でも降ってこいッ,だ。明日は本屋に走ろう。
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2009-03-16 彼岸桜がいまにも咲きそう。
_ 鷺沼の事務所に行く途中に,むかしながらの植木屋さんがあって,そこの庭の彼岸桜がいまにも咲きそう。いつ,開花するか,楽しみ。
鷺沼のあたりは,むかしから植木屋さんが多かったようで,駅の看板に「植木屋めぐり」の案内がでている。コースも書いてあるので,いつか,巡り歩いてみたいなぁ,と思っている。桜が咲いたら,この近くに名所もあると聞いているので,このコースを歩きながら,桜めぐりをしてみようと密かに考えている。
「ISC・21」の事務所の近くの植木屋さんの庭には,四季折々に花が咲く木があちこちに植えてあって,いまは,木蓮(白)が綺麗に咲いている。毎日,とても楽しみである。そこの彼岸桜が,いま,蕾ではあるが大きくふくらんで,真っ赤になっている。もう,いつ,開花しても不思議ではないのに,まだ,咲かない。
この彼岸桜のすぐとなりに河津さくらの木が1本あって,これが長い間,楽しませてくれた。わたしの記憶しているかぎりでは,2月の上旬には開花して,ずっと長く咲いたままで,みごとであった。ほぼ,一カ月,咲いていた。後半は,葉っぱも開いてきて,花と葉が一緒になって,競い合うように存在をアピールしていた。最近,ようやく花が散って,いまは立派な葉桜になっている。河津さくらが,こんなに長い間,花を維持しているとは知らなかった。ということは,本場の河津(伊豆半島)の桜も長く咲いているのだろう。だとしたら,1月の中旬くらいに,新聞に掲載されていたので,それからほぼ一カ月は咲いていたはず。わたしは,桜というものはせいぜい2〜3日が見ごろだと勝手に思い込んでいたので(吉野桜は,いつも咲いたと思ったらあっという間に散っていくので),河津さくらも同じだと思い込んでいた。こんなに長く咲くのであれば,来年は,伊豆半島の本場の河津さくらを見に行きたいものだと思う。
さて,期待の彼岸桜は,明日にも咲くのだろうか。蕾の大きさからすれば,相当に大きな花が咲きそう。さすがに植木屋さんだけあって,手入れがいいのだろう。蕾の赤さといい,大きさといい,これまで見て知っている彼岸桜とは,ケタが違う。さてはて,どんな花を見せてくれるのか,まことに楽しみではある。
今日の東京はとても暖かかったし,これからしばらくは高温がつづく,と天気予報は言っている。今日のような高温がつづけば,彼岸桜も開花するだろう。それにもまして,吉野桜のつぼみも気になる。同じ,植木屋さんの庭の角に大きな立派な吉野桜がある。こちらは,昨年,満開のときに,いまの事務所に荷物を運びこんだので,とてもよく覚えている。この桜もみごと。ことしはどんな花を咲かせてくれるのか。じっくりと鑑賞してみたいと思う。
近くに寄って,蕾の大きさを確認してみたが,まだまだ,固い。でも,こころなしかいくらか大きくなっているようにも思う。電車の中から見える桜並木は,遠くからだからだろうか,いくらか赤みを帯びてきているように見える。目の錯覚かなぁ,と思いながら毎日,確認してみるのだが,やはり,赤みを帯びてみえる。たぶん,全体で見れば,もう,少しずつ蕾がふくらみつつあるのだろう。
ことしの開花は例年よりは少し早いと聞いている。これまで東京都内の桜の名所も見てまわったことがなかったが,ことしは何カ所か決めて,見てまわろうかと思っている。皇居の北側にある千鳥ヶ淵の桜は,他人にはいいよと言って薦めるけれども自分では行ったことがない。これは恥ずかしいことなので,ことしはなんとか機会をみつけて行ってみたいと思う。ついでに,あちこち,桜めぐりもしてみたい。
そんな余裕のある生活を長い間,夢見てきたが,いまだに果たせないでいる。ことしあたりは,一大決心をして,実行すべし。と,自分に言い聞かせる。はたして,実行できるものやら。いや,しなければならない。でなければ永遠にできない。よし,ことしは桜だ!
となれば,いまから,仕事を片づけておかなくては・・・・。こういう動機で仕事を前倒しにしてさばく,などというのはおしゃれでいいですねぇ。そうあるべく,これから取りかかろう。楽しい夢をみるためにも。
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2009-03-17 ミシュランのガイドブック。
_ フランスのタイヤ・メーカーのミシュランが,こんどは旅行案内『ギド・ベール(緑のガイド)』日本編を刊行した。
こんどはと書いたのは,すばらく前に,東京のレストランをランクづけする旅行案内書を刊行して,かなりの反響があったからだ。とりわけ,日本料理をどんな基準でランクづけしたのか,それがわからないというところに批判が集中していたように思う。わたしも,その議論の経過をみながら,同じことを思っていた。なぜなら,フランス人の味覚で押し通した(完結した)のか,それとも日本人の評判も加味されているのか,という点が曖昧だったからだ。
今回は,日本各地の観光地を三つ星で格付けした,というのである。ミシュランが自前で格付けするのは勝手だが,はたして,なにを基準にしてこれを決めたのか。一応の基準はあるようだが,われわれ日本人の感覚とはずいぶんとズレがあることは間違いない。
たとえば,東京に限定してみても,以下のとおりである。
上野が三つ星,銀座は二つ星,国立西洋美術館は一つ星,という具合である。この三者の間の違いは,われわれ日本人には理解しがたいものがある。フランス人は,この三つを,どのように差異化したのだろうか。その内実を知りたいものだ。
まあ,そんなことは多少,どうでもいい。一番大事なことは,世界のホテルの格付けで,一定の権威が評価されているミシュランが,日本の観光地を「格付け」するということの,なんともいいようのない傲慢さに,わたしは許しがたい違和感をもつ。ホテルくらいのレベルであれは,まあ,なんとなく格付けをすることも理解できる。施設・設備,サービス,利便性,などかなり客観的な比較ができる。それと比べたら,この間のレストランの格付けは,大いに首を傾げたものである。そして,こんどの観光地だ。ことここにいたっては,もはや,理解不能である。しかも,あまりにも「不遜」ではないか。
何回も言うが,フランス人の感覚で観光地を格付けするという発想が,なにか,いやなものを感じてしまう。いつから,世界の中心はフランスになってしまったのか。いつから,旅行に関してはミシュランが中心になってしまったのか。時刻表を刊行しているくらいまでは,まことに微笑ましいと思っていたが,とうとう「観光地」の格付けまでするようになったとは。しかも,遠い,東洋の観光地まで。ものの見方,感じ方,価値観,思想,宗教,風俗・習慣,とうとうに至るまでまるで違うではないか。そこに,「ミシュラン基準」を押しつけてくる,この「厚かましさ」。そう,ユーロセントリズムの押しつけ。
たった一つの価値観で,世界を評価して平気でいられる,そこになんの矛盾も感じない人たちがいる,しかも,この人たちが世界を牛耳っている,この事実。ミシュランの「格付け」はまさにその典型例の一つ。もっと言ってしまえば,キリスト教文化圏の価値観による「世界制覇」。
いま,流行りの「グローバリゼーション」ということばの裏側には,こういう諸矛盾が隠されている。言ってしまえば,経済力,軍事力の強い国や地域の価値観や文化による「世界制覇」。ただ,これだけ。ある日,静かな郊外の森に,ブルドーザーがやってきて,一気に地ならしをして,宅地造成をしてうまうようなもの。
その尖兵の一つとして,わたしの眼には,ミシュランの「格付け」が写る。こうしてなし崩し的に,ミシュラン基準による観光地の「格付け」が行われていく。ちなみに,一つ星をつけられた,名古屋,札幌,福岡,鹿児島,などの人びとはなんと思うだろうか。
こんなことに目くじら立てることもないではないか,と諫める人もいるだろう。もっと大人になったら,と慰めてくれる人もいるだろう。しかし,そうではないのだ。スポーツのルールの策定の仕方は,これとほとんど同じなのだ。これまでの歴史を振り返ってみれば,そのことは歴然としている。日本人選手が活躍すると,すぐに,ルール改正(改悪というべき)がなされる。水泳競技の「潜水泳法」(古川選手による世界新記録),スキーのジャンプ(日の丸飛行隊の活躍),体操競技,女子バレー,などなど。スポーツのルール基準はすべてヨーロッパ。オリンピックの約束事もすべてヨーロッパ発。
そして,いま,また,「グローバリゼーション」という名のもとに,文化の再編,再統合が行われようとしている。だからこそ,ミシュランの今回の観光地の「格付け」に関しては「ほっといてくれ」というのがホンネである。そこまでやるのであれば,だれか,日本発のフランスの観光地「格付け」本を発行して,世界に売り出したらどうだろう。誇り高きフランス人のプライドは著しく傷つけられることだろう。
わたしがいいたのは,グローバル化してはいけない文化も存在する,ということ。そういう文化にまで,勝手に土足で乗り込んでくることは許せない,ということ。「グローバリゼーション」は諸刃の剣であるということ。文化の違いについては「アンタッチャブル」にすべきだということ。
ああ,愚痴っぽくなってしまった。この辺でおしまい。
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2009-03-18 『エーコとサッカー』を読む。
_ ピーター・P.トリフォナス著,富山太佳夫訳『エーコとサッカー』,解説・今福龍太,岩波書店,2004年,を読む。
以前から気になっていた本にようやく手が伸びる。トリフォナスという人がどういう人か知らないが,エーコを取り上げて論ずるくらいだから,記号論に強い関心をもった人ではあるのだろう。富山太佳夫の訳だから,こなれていて読みやすい。エーコの記号論とサッカー論をクロスさせて解読するとこういうものになるのか,という点ではとてもわかりやすい。エーコの「サッカー批評」の仕掛けを知るにはとてもいい入門書になっている。しかし,どこか物足りない。満足感が足りないのだ。
その主たる原因は,今福さんの「解説」にある。この「解説」がよすぎるのだ。どの一行たりともおろそかにはできない濃密なメッセージ性がこめられた今福さんの名文を読んでしまうと,主役であるはずのトリフォナスの文章が,いともかんたんにどこかにすっ飛んでしまう。それほどの迫力がある。とにかく気合いが入っている。恐ろしいほどに・・・。
こんどの20日に合評会をやることになっている『ブラジルのホモ・ルーデンス』のなかにも,この本の紹介があり,エーコのサッカー批評のエキスに触れた部分がある。そこでも,じつに手際よくエーコのサッカー批評を論じている。その頭があって,さらに,この「解説」を読むと,もはや,この人(今福さん)の脳細胞というのはどういうでき方をしているのだろうか,と訝ってしまう。
この本には「おまけ」がついていて,今福さんによる「読書案内」が最後に掲載されている。エーコの著作からはじめて,エーコの「サッカー」に触れた論考(エッセイ:試論)の紹介もていねいになされている。しかも,これらは英文で読むことができるので,関心のある読者は挑戦してみてほしい,とある。エーコが記号論を語るときのような固い表現ではなく,とても平易な文体なので,楽しく読めるとのこと。なんだか,つられて読んでみようかという気にさせてくれる。
この「読書案内」がまた秀逸で,サッカーの「批評」のレベルをクリアしていると今福さんが判断される本が何冊もとりあげられていて,もし,サッカーを少し本気で語ろうと思うのであれば,必読である,という。情けないかな,わたしは失格である。5月に予定されている東京例会での合評会までには全部読んでおこうと覚悟を決める。でないと,折角,今福さんにきていただいても失礼になろう。これらの本は,amazonをとおして,すでに入手済。あとは,気合いを入れて読み切るのみ。
この「読書案内」の最後の文章が,いかにも,今福さんらしい。一瞬,「アッ」と声を出してしまった。ひととおり,本の紹介を終えたところで,「これらの本が,エーコの議論が孕む根源的な主題を究めてゆくために,それぞれ汲み尽くせぬ霊感を与えてくれるだろう」と結ぶ。
なるほど,今福さんは「霊感」をえて,この濃密な文章を書いているのだ。膨大な読書量と深い思索に裏打ちされた論理の構築の背景には,理性などを軽々と超越してしまう「霊感」の力をえて,まったく異次元の世界を飛翔して到達する,不思議な鑑賞の世界があるのだ。ひょっとしたら,今福さんは,文章を書きながら,あらぬ世界からわき上がってくるインスピレーションから力をもらって,自分でも思いもよらない思考の世界へと誘われているのかもしれない。となると,それはもう,快感以外のなにものでもない。あるいは,恍惚の世界に身もこころも委ねているのかもしれない。でなければ,今福さんが書いているような,この世のものとは思えない文体は生まれてこないだろう。それほどに自由闊達であるのみならず,ものごとの本質に迫っていく,その腑分けのひらめき(まさに「霊感」そのもの)の凄まじさは出現してこないだろう。
これから5月16日まで,今福ワールド(これこそを「ワンダーランド」と呼ぶべきか)に分け入っていくことにしよう。
そのさきに,わたしが夢見る「スポーツ批評」の地平が広がっているに違いない。その地平に立つことを夢見て・・・・。
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2009-03-19 戸井田道三著『観阿弥と世阿弥』を読む。
_ 戸井田道三著『観阿弥と世阿弥』,同時代ライブラリー(岩波書店)・206,を読む。
2月9日の柏木さんの能面展のときの鼎談で,今福さんが話された戸井田道三のことがずっと気になっている。あの直後に,まず,『演技』を読んだ。これが,まずは度胆を抜かれる,とんでもない本だった。まさか,こういう展開の本だとは夢にも思わなかったからだ。まさに,これまでわたしが被ってきた「能面」をひっぱがされて,コッパミジンに粉砕されてしまったような体験だった。そして,いまは,その剥き出しになってしまったわたし自身の「生の顔」とどうやって折り合いをつけていけばいいのだろうか,と本気で考えている。そういう衝撃的な本だった。
かんたんに言ってしまえば,いま,こうやってブログを書いている行為そのものが,すでにして立派な「演技」なのだ,と戸井田道三は言う。そして,そのことすら気づかないまま,ありのままの自分だ,などと自分では嘯いていたりするけれども,他者はそうは思っていないよ,そこに大いなるズレが生ずるのだ,そこからすべてははじまりのだ・・・・と。あっ,いけない。この論理はウンベルト・エーコの記号論的思考の影響をもろに受けてしまっている。昨日の『エーコとサッカー』の読後の残像がまだ強烈に残っている。
で,そのあと,『能芸論』を読みはじめた。この本も強烈で,すぐにトリコになってしまった。が,幸か不幸か,別の原稿を書かなくてはならないタイミングだったので,この本はひとまずお預けにした。この本は一気に読んでしまいたい。そのための時間を確保してからとりかかりたい,と大事にしまってある。それでも,ちょっとでも時間の間が空いたときには手にして読みはじめている。いつのまにか,大分,読んでしまっている。そのつど,電撃が走るような体験をともなう。会館である。今福さんを小学生のときから惹きつけ,中学・高校と通いつづけ,大学生になると理論武装して議論を仕掛けると,それに対して「漫談」と称して,いつも半日は付き合ってくれた,という。そして,こんにちの今福さんの「不思議なものの見方・考え方」と「霊感」の重要な部分が形成されていく(本人談)。
いずれ,この『能芸論』については,真っ正面から論じてみたいと思う。どこまで論ずることが可能なのかはともかくとして・・・。
で,今夜は『観阿弥と世阿弥』である。この本は,じつは,息抜きのつもりで読みはじめたのである。それが間違いのもとだった。今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』の再読を終え,『エーコとサッカー』も2度ほど読み直し,わたしの頭のなかに「うなり音」が響きはじめたので,少しだけフェイントをかけて,異質の刺激を与えて興奮を鎮静化させる必要があると考え,この本に手を出した。動機は簡単。観阿弥のことも世阿弥のこともいくらかの予備知識がある。だから,その予備知識に対して,戸井田道三はいかなる異質の情報を加えてくれるだろうか,という程度の軽い気持ちでこの本を読みはじめた。
それが間違いのもとだった。そんじょそこいらの「観阿弥・世阿弥論」ではなかった。この本は,歴史研究者のためのお手本のような本である。人物史研究というものは,こういうふうにやるんですよ,それでなかったらほとんど意味はないですよ,とわたしに教えてくれる。もちろん,戸井田道三はそんなことはひとことも言わない。ただ,ひたすら,ご自分の疑念に対する答えを,ご自分にもっとも納得のいく物語を紡いでいく。その方法が,じつにみごとというほかはない。
たとえば,こうだ。観阿弥や世阿弥の事跡をひとつずつとりあげて説明していくことに,わたし(戸井田)はなんの興味もない。観阿弥や世阿弥が,かれらの生きた時代とどのように闘い,どのように道を切り開いていったのか,その悩み苦しんだと思われる軌跡を明らかにしたいのだ,と。そして,真っ先に取り上げるのが『太平記』である。『太平記』という本の内容についての学会の批判(嘘っぱちばかりの羅列である,などの批判)は百も承知の上で,それでもなお,この時代を知るにはこの本が最高のテクストであることを説明していく。その手法がまことに説得力があるのである。つまり,『太平記』を最初に書いた人(のちに何人かの人によって何回も改竄されている)は卑賤の出の人で,裏社会に生きる情報の運び屋さんなのだ,だから,人の噂や流言蜚語もいっぱい混じっている,だから,こんにちの歴史家の目からすれば嘘ばっかりだ,ということになる。しかし,同時代に生きた人びとにとっては,それが事実であるかどうかすらわからないまま,そういう情報にもとづいてみずからの生き方を選択していく以外にはないのだ。だから,『太平記』の時代を生きた人びとが,どのような情報のなかで,なにと闘い,来るべき未知なる世界を生き抜こうとしたのか,を知るにはこの『太平記』は絶好のテクストなのだ,と戸井田道三は主張する。
そして,観阿弥と世阿弥もまた『太平記』のなかに描かれた時代の波に晒されながら,必死に生きる道を探し求めていたのだ,と。しかも,『太平記』を最初に書いたといわれる卑賤の出の人物と,猿楽を生業として自立する観阿弥とは同じ卑賤の出として,各地を渡り歩く「移動民」同士の共有の情報を持ち合わせていたに違いない,と断言する。だからこそ,『太平記』は観阿弥や世阿弥を語る場合には必携のテクストなのだ,と説得されてしまう。わたしはこの戸井田道三の主張に深く同意する。
こうしてお膳立てをした上で,まずは,観阿弥が「なにと闘ったのか」という問いを立てて,その答えを探し求める。もう,こうなったらあとには引けない。最後まで読み切るしかない。そうして,つぎつぎに,みずからの疑念を解明していく。まるで謎解きである。こういう歴史の見方・考え方・謎解きの仕方,説明の仕方を,戸井田道三は今福少年に語って聞かせていたのである。だから,今福少年は,もう病み付きになって,ひとりで戸井田道三の家に質問を準備して押しかける。
せめて,高校時代でよいから,日本史の授業をこのように展開してくれたら,人びとの歴史の見方・考え方も相当に変わるだろうに・・・,そして,もっともっと歴史の主体として自覚的に日々の行動をするようになるだろうに・・・,といまはもどらないみずからの青春の日々をふりかえる。今福さんがうらやましい・・・。
というような次第で,この『観阿弥と世阿弥』はわたしにとっては,いまさらながらの歴史研究法のお手本ともいうべきありがたい本である。この本もまた,何回も引っ張りだして読むことになりそうだ。
今福さんによれば,ことしが戸井田道三の生誕100年だそうだ。なにか,記念になるようなイベントをやりたい,とのこと。わたしも,ぜひ,協力させてください,と申し込んである。とても心強い,と今福さんの返事。さて,いつ,どのような形で具体化するか,いまから楽しみ。でも,それまでに戸井田道三の本をおおよそのものは読んでおかなくてはなるまい。でも,こういう読書はたまらない。至福のときである。
ああ,また,今夜も眠れない。嬉しい不眠。至福の不眠。
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2009-03-22 『スポーツ学の冒険』をいただく。
_ 3月20日(金)の「ISC・21」大阪例会のあとの懇親会で,思いがけないサプライズ・イベントがあった。
今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』の合評会ということもあって,かなり熱の籠もった内容のある議論のあとのアルコールで,みなさんの気持ちも高揚したころに,突然のセレモニーがはじまった。
新刊本の授与式を行う,というのである。ほう,だれが,だれに授与するのかなぁ,と眺めていたら,話の様子がどうもわたしの方に向かってくる。変だなぁと思って聞いていたら,となりに座っていた藤井君がわたしの膝をつつく。「立て」と言っている。まだ,半信半疑のままわたしは立ち上がる。そうしたら,わたしの古稀を祝う記念出版だから受け取ってくれ,という。「いや,古稀はもうすぎたよ」「いやいや,まだ古稀のうちです,3月26日までは」という会話があって,わたしに献本する本だから受け取ってほしい,とのこと。
タイトルをみたら『スポーツ学の冒険』──スポーツを読み解く「知」とは,黎明書房。編著者は,船井廣則,松本芳明,三井悦子,竹谷和之の4名。執筆者はこの4人をふくめて全部で18名。こんなに大勢の人が健筆をふるってくれ,わたしのための本を刊行してくれた。しかも,この忙しい時期に。いま,大学に勤務している人は大変である。しかも,50歳前後の年齢の人たちにとってはまるで日々,地獄のような毎日である。そのことをふだんから聞いている。なのに,よくも,こんな企画を立てて,執筆まで持ち込んだものだ・・・と感心してしまう。
人間はその気になればできる。その気になるまでに「負けて」しまったら駄目だ。「やるぞ」という気になることがなによりも大切だ。いよいよ,この人たちが「やる気」になってくれた,とわたしはこのとき実感した。「よし,これでいい」と。原則として,東京・名古屋・大阪の3都を結んで,「月例会」と称する研究会を開催するようになって,ようやく3年がすぎようとしている。この日の月例会が「第29回」。やはり,地道な努力を積み上げることが大事だ,としみじみ思う。月例会を積み上げてきてよかった,とこころの底から実感した。そして,これからももっと頑張ろうという勇気をいただいた。
たぶん,古稀を祝って,という文言の意味するところは「古稀だらか引退せよ」ではなくて「古稀をスタート地点にせよ」というメッセージにある,と勝手に受け止めている。昨年のいまごろにも,大勢の人たちが,わたしの定年退職を祝ってくれた。そのときも,「これからこそ頑張れ」という激励をいただいた。その折には西谷修,今福龍太のお二人も参加してくださり,身にあまる光栄だった。同時に,書道具一式をペレゼントしていただいた。あっという間の一年である。まだ,色紙の一枚も書けないでいる。情けない。この4月からはもっと余裕を確保して,筆遊びができるようになしなくては・・・とも焦る。
しかし,この歳になって,こんなに充実した仲間にめぐまれ,多くの刺激をいただけることはなんとも幸せなことである。日本人であるから,八百万の神々に感謝。そして,ご先祖さまにも感謝。
そして,この本を献本していただいた以上は,長年あたためている企画『スポーツ学とはなにか』を書かなくてはなるまい。いま,ようやくこの「スポーツ学」ということばに賛否両論が飛び交いはじめて,これから議論が沸騰することは間違いない。そして,はやくも,びわこ成蹊スポーツ大学では『スポーツ学のすすめ』なるテキストを作成して,すでに,必修科目として授業科目に取り入れている。かと思えば,どこぞの大学のように,教授会で『スポーツ学概論』を授業科目として承認したにもかかわらず,テキストの素案を委員会で作成して提示したら,こんどはそれを否決して,別の名前の授業科目に変更までしてしまった,という話も聞く。あるいはまた,順天堂大学では「国際スポーツ学学会」の設立準備委員会を組織して,そのためのシンポジウムまで行うという情報も入っている。
こういう情況のなかでの,この『スポーツ学の冒険』の刊行である。まことにタイムリーという他はない。おそらく,多くの読者をえて,多くの議論を巻き起こすに違いない。そういう追い風が吹きはじめた,このタイミングを見逃すことはない。その意味でも,この本の刊行はわたしにとっては「救いの神」以外のなにものでもない。なにからなにまで,みんなでお膳立てをしてくれている。
「いい風が吹きはじめている」。このことを肝に銘じて,この4月からの新しいスタートに臨むこととしよう。
ほんとうに,執筆者のみなさん,ありがとうございました。
こころからお礼を申しあげます。
そして,最後に,この本は「よきことを聞く」という絵文字を刷り込んだ「手拭い」(日本の伝統様式のもの)にくるまれていたことも申し添えておく。こういう気配りが心憎い。そこはかとなく暖かいものがわたしのからだの中に流れ込んでくる。からだ中の細胞がざわざわと騒ぎはじめ,一斉に活性化する。とても心地よい。この気配りにも感謝。
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2009-03-23 「してみてよきにつくべし」世阿弥。
_ 戸井田道三の『観阿弥と世阿弥』をようやく最後まで読み切った。途中で何回も考えることが多く,頓挫していた。
たとえば,「幽玄」と「ものまね」,「夢幻能」と「現在能」,「離見の見」,「皮肉骨事」,「体用事」,などなど。それらの中の一つが「してみてよきにつくべし」という世阿弥のことば。
このことばは,世阿弥の次男の元能が書いた『申楽談儀』のなかにでてくるという。世阿弥と長男の元雅との間でなされたやりとりを,次男の元能が書き記したもの。
いまも能の名作の一つとして人気のある,元雅の作である「隅田川」の演出をめぐって元雅と世阿弥の間で,意見の違いがあった,というのである。それは,子を失った母親が,いまは亡き子の亡霊と対面する場面の演出をめぐって,元雅は子どもの亡霊を舞台に出した方がいいという意見に対して,世阿弥は,子どもの亡霊を出さないで,見えない亡霊を見る意識を対象化して見せるべきだ,という意見の対立である。元雅が,それではできない,と言ったのに対し,世阿弥は「してみてよきにつくべし」と言ったというのである。
世阿弥は元雅の考え方を否定しているわけではない。やってみていい方をとればいい,と言っているにすぎない。しかし,このことばの含みもつ奥行きの深さというべきか,どちらでもいいよ,と言いつつ,どちらがいいかはやってみればわかるよ,と諭しているのである。つまり,自分でやってみて「どちらがいいか」を確認しながら,能の演出というものは作り上げていくものだよ,という基本的な考え方を教えているのである。
戸井田道三によれば,以下のようである。
能は徳川時代に武家の式楽として固定化してしまうが,世阿弥のころは,自由に演出をこころみ,「してみてよきに」つくことが当然だったのだ。「離見の見」が舞台の技法にとどまるものでなかったように,演出もまた,ただ舞台で能をつくるだけではなかった。能をつくりとともにそれはひとつの歴史をつくることであったのだ。
もともとは「神と乞食の芸能」(戸井田道三)であったものが,武家の式楽として固定化した結果がこんにちわれわれが眼にする能の姿なのだ。しかし,「神と乞食の芸能」であった時代には,もっとのびのびと自由闊達に演出を試み,千変万化しながら,「してみてよきにつく」ことを積み上げ,淘汰されていたはずの芸能である。しかし,固定化した時点で,もはや,能は能ではなくなってしまった,世阿弥の言う「能の生命線」が死んでしまった,ということなのであろう。
その点で狂言には,まだ,その伝統が残っている。だから,つぎつぎに新しい趣向をこらした演出が登場して,若い世代にも人気である。あえて言ってしまえば,狂言は「開かれた芸能」を維持しており,能は「閉じた芸能」となりはててしまった,ということだろう。
戸井田道三は,最後のところでつぎのように結ぶ。
われわれ現在を生きるものも,生きることによってのほか,伝統を生かすことはできず,それが歴史をつくることにほかならない。身に習いおぼえて芸の主になるという主体性と,「離見の見」という客観主義とを,「してみてよきにつく」という柔軟な行為のうちに結合して生きた世阿弥の生きかたを継承することもまた伝統を生かすことにほかなるまい。
われわれは,いま,21世紀の科学と経済の論理が最優先される時代に生きていて,二項対立的に,あるいは,階層秩序的二項対立の考え方に慣れきってしまっている。だから,どちらかが正しくで,その反対は間違いである,と最初から決めつけてしまう習慣が身についてしまっている。しかし,そのような考え方から生まれる矛盾が次第に大きな影となって現れるにつけ,もうひとつ別の視点を,あるいは,もっと柔軟な価値観をとりもどす必要を痛感せざるをえない。
「してみてよきにつくべし」という柔軟性に富んだ世阿弥のことばは,現代を生きるわれわれにも立派に通用する。いろいろと試行錯誤しながら,自分の生き方をさぐり,その人なりの主体的な歴史への参加がはじまるのだろう。なにはともあれ,まずは「やってみること」だろう。なにもしないで,考えてばかりいたり,理屈ばかりを捏ねていてもはじまるまい。
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2009-03-24 <ISC・21>版『IPHIGENEIA』の最終チェック。
_ <ISC・21>の研究紀要の最終段階のチェックを,昨日・今日の二日間にわたって行った。大満足。
昨年4月に正式に立ち上げた「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の研究紀要を発行しようと思い立ち,<ISC・21>版『IPHIGENEIA』の原稿をお願いしたところ,じつに多くの方々からご寄稿いただき,感謝に耐えません。すでに,読ませていただいてはいましたが,最終チェックということで,一つひとつの玉稿を読ませていただきながら,途中で何回も涙がでそうになって困りました。不思議なもので,原稿の内容よりも,書いている人の思い入れのようなものがわたしのこころに浸透してきて,もっぱら,そこでの交信にふるえていました。
『IPHIGENEIA』(日本体育大学大学院体育科学研究科スポーツ文化・社会科学系稲垣研究室紀要)は第8号まで刊行し,わたしの定年退職とともに廃刊となりました。このまま捨ておくにはもったいないと考えていましたが,できれば,なんらかの形で継続したいものだと念じていました。が,昨年の秋口になって,そうだ,これを<ISC・21>版ということにして,リニューアルし,続号を出せばいいと閃きました。
そこで,早速,ホーム・ページの「掲示板」をとおして呼びかけ,お願いをすることにしました。そうしたら,予想外に多くの人たちから玉稿をお寄せいただけることになり,感動しました。それでも「手を挙げるのはだれでもできる」「問題は,どれだけの原稿が寄せられるか,だ」と自分に言い聞かせていました。ところが,「手を挙げた」方,全員が原稿を書いてくださいました。こんなことはありえない,とわが眼を疑うほどでした。単独の論考だけでも16編,それにトーク・ショウの3人が加わり,合計19人の方々がこの企画に参加してくださったことになります。まことにありがたいことです。
ちょっとだけ,内容に踏み込んでみますと以下のとおりです。
トップに掲載させていただいたのは,鼎談「現代の能面」です。これは,柏木裕美さんの能面展(銀座・文藝春秋画廊)のオープニング・セレモニーのひとつとして企画された「トーク・ショウ」です。わたしの立場からすれば,まことにありがたいことに,西谷修,今福龍太の両氏にわたしが加わっての鼎談となりました。もう,すでに何回ものシンポジウムを経験してきた3人ですので,呼吸も抜群。なんの打ち合わせもなしに,いきなりぶっつけ本番でした。それだからこその,お互いになにが起こるかわからない新鮮な気分で話が展開しました。わたしを除くお二人のお話は,いつものことながら,感動につぐ感動でした。いつも,その場に立ち合わせていただけるわたしはほんとうに幸せだと思います。それだけでも大満足なのに,そのあとの原稿の整理の段階でも,お二人の手の加え方,訂正・加筆のされ方を身近に体験することができ,そのつど,とてもいい勉強になりました。なるほど,トークのあとの原稿の手入れの仕方はこのようにしてやるのか,ということが手にとるようにわかるからです。そして,2度,3度とゲラのやりとりをしているうちに,見違えるほどの素晴らしい内容に変身していく,その過程がまた感動そのものでした。とてもいい読物がトップを飾ってくれることになりました。
これにつづいて,16人の方々の原著論文,研究報告,研究ノート,エッセイ,書評,などなど。ただでさえ大学に勤務される方々の,いまどきの尋常でない多忙さを知っているだけに,その寸暇を削っての論考はさぞや大変だっただろうと推測するに余りあるものがあります。ほんとうにありがとうございました。感謝あるのみです。
よくよく考えてみれば,最近,出版されたばかりの『スポーツ学の冒険』(黎明書房刊)と並行しながらの労作であった,ということです。こんなことが裏番組で進行しているとは夢にも知らず,勝手なお願いをしていた,という次第です。知らなかったからお願いができたとはいえ,いまから考えると冷や汗ものです。ほんとうになんとお礼を言ったらいいのか,ことばもありません。
でも,こうして多くの方々の論考が本という形態で世にでてくることを考えると,逆に無理を押してでも,やってよかったと思わざるをえません。みんな忙しくて大変だから,というところに同調していたら,この二つの企画は生まれませんでした。でも,困難を克服してこそ,なるものがなる,と考えることの重要性をいまさらながら教えてもらいました。
むかしから,貧乏なときに貯金できない者は一生貯金はできない,といいます。この俚諺のとおり,忙しいときに仕事ができない人は一生仕事はできない,と読み替えることができます。かつて,恩師の岸野雄三先生が「忙しい人ほど仕事が早い」と言われたことを思い出します。いまごろになって,ようやく,そのことの意味がわかってきました。
これに意を強くして,みんなに声をかけて,どんどん単行本の企画をもちかけてみることにしよう。やる気になる人だけが生き残る時代なのかもしれません。まずは,ことを起こすこと。そして,念じつづけること。あとは,亀の歩みでいい。前に向かって歩みつづけること。そのうち,いつかは,その夢が叶うことだろう,と。
<ISC・21>版『IPHIGENEIA』の編集の最終段階で,いろいろのことを考えることができました。この教訓をこんごに生かしていきたいと思います。こんごともよろしくお願いいたします。
感謝の気持ちをこめて,つぎなるお願いまで。
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2009-03-25 太極拳の基本の基本。
_ 札幌から瀧元君がやってくるということで,久しぶりに李老師のレッスンを受けることができました。
今日のレッスンでは太極拳の基本のなかの基本を,しっかりと教えてくださいました。
その一つは「立方」(あるいは,最初の立位の姿勢)。李老師から指導を受けるときに,いつも最初の挨拶から始まって,途中の表演まではいわゆる「面授」の形をとります。つまり,真っ正面から向かい合うわけです。その最初の向かい合った立ち姿が,いくら真似をしてもそうはならないので,不思議に思っていました。どこか違うのです。なぜか,李老師の立ち姿は,ぐっと,こちらに迫ってくるような威圧感があるのです。しかも,肩の力は抜けていて,両腕もぶらりとしています。なのに,どこかに力が漲っているのを感じます。まあ,言ってしまえば,立つだけのことですから,だれにもできるはずです。しかし,このかんたんな立つという姿勢そのものがどこか違うわけです。
たとえば,こうです。李老師が両足を揃えて立った瞬間から,姿勢だけではなく,顔も変わってしまいます。それは,まるで,別人のようです。姿勢は,肩の力が抜けることによって,両腕が下に下がっていくように見え,それと反対に顔の位置が上に上がっていくように見えます。つまり,ふだんの李老師よりも2〜3センチ,背が高くなったように感じます。のみならず,顔は一段とハンサムになってしまいます。とてもすっきりした,世俗の人ではない,まったくの迷いのない名人の顔になります。それでいて,悠揚として迫ってくるものを感じます。
このように立つにはこうするのです,と言って事細かに説明をして,何回もやってみせてくれたわけです。こんなことは3年間,レッスンを受けてきて,初めてのことでした。瀧元君がそれを何回も繰り返してやっているのをみていたら,いつのまにか,瀧元君の脚が震えはじめています。そして,「脚にきますねぇ」と李老師に尋ねています。「そうです」と,さも当たり前のような返事。これはえらいことになってきたと思いながら,わたしも必死で何回も練習をする。だんだんとそれらしくはなってくるのですが,やはり,最終的には李老師のそれとはまったく違う。さてはて,いったいどういうことなのか,と頭をかかえてしまう。とりあえず,とてもよく似た姿勢にはなります。けれども,どこか基本的なところが違う。
二つ目は,足の運び方。片足を前に踏み出して,その足に全体重を乗せて,後ろ足を引きつけて前に送り出す,ただ,それだけの話。ところが,たったこれだけなのに,李老師の足の運び方はどこか違う。こんな簡単な動作はだれにでもできます。なのに,まったく違うのです。これもまた悠揚として迫らざるなにものかが,たった後ろ足を引きつけて前に送り出す,これだけの動作のなかに籠められている,というわけです。じつに,ゆったりとした動きであり,軽そうにみえて重々しい,それでいて一分の隙もない,まことに味のある動作になっています。
これをことばに置き換えると,「股関節をゆるめる」「片足にしっかり体重を乗せてバランスをとり,安定させる」「お尻を巻き込みながら足を送り出す」ということになる。これらの一つひとつの動作が,李老師のそれとわたしのやるのとではまったく異なるのです。それはそれはまったく似て非なるものとしか言いようがありません。
しかも,困ったことに,この二つができれば太極拳の半分は習得したも同然だ,と仰る。それほどに大事なことなのだ,と。まさに,太極拳の基本の基本である。
さあ,困った。でも,李老師のお手本のイメージだけはあるので,あとは,ひたすら,そのイメージに近づけるための稽古あるのみ。
それにしても,久しぶりに李老師のレッスンを受けることができ,嬉しいかぎりである。また,明日から頑張ろう。
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2009-03-26 「神が降りてきた」イチロー。
_ やはり,「神が降りてきた」のだったか。いかにも,イチロー君らしいコメント。
必ず打ちはじめるときがくると思っていたら,なんと,ファイナルだった。あれだけ打撃不振が伝えられながら,優勝戦だけで4安打。いわゆる固め打ちである。そして,もっとも大事な延長線の10回,ツー・アウト,2,3塁でバッター・ボックスへ。しかも,みずからの姿を客観視し,実況中継をしながらボックスに立ったという。「ここで一本出れば,イチローは一躍ヒーローになるでしょう」と自分でアナウンサーになったつもりで語りかけたというから,やはり,只者ではない。こんな大事な場面で,これほどまでに冷静でいられるというのは,普通の神経ではない。いつでも,自分自身を客観視し,冷静の分析できる眼を持っている。これは,世阿弥が言うところの「離見の見」である。世阿弥が最晩年に到達した境地である。
「イチローは駄目ですねぇ」とかなり大勢の人から声をかけられた。しかし,わたしは「全然,そうは思っていませんよ」と答えるにとどめた。気持ちの上では,ああいう男は一番いい場面でヒーローになる,そういうものなのだ,と思っていた。いま,考えるともっと大きな声で予言しておけばよかった,と残念で仕方がない。もって生まれたものが違う,ということがある。天性の才能だけでは人間は大成しない。もちろん,努力が必要だ。それだけではない。その人についている運勢のようなものが,根本的に違う。気がついたらそうなっていた,というようないつのまにやらそうなってしまう,そういう流れのなかにいる人たちがいる。イチロー君もそういう人種のなかのひとりだ。
考えてみれば,イチロー君の打撃不振という実績が,相手投手にとっては当然勝負だ,と判断させる材料になっていたことも不思議な巡り合わせではある。今日の新聞では,ペンチは「きわどいボールを投げて,敬遠でもいい」というサインを送ったという。しかし,投手には伝わらなかった。お蔭で,イチロー君は勝負してもらえたというわけである。こういうのも運勢の強さのひとつだと思う。
さて,このような「評論」をやるつもりではなかった。そうではなくて,WBCという,なんとも奇妙なイベントに日本国民がこぞって一喜一憂しているこの現実をどう考えるか,そのことに触れたかった。イチロー君の話は,まくらのつもり。
これからが本題。
ひとつは,選手はいったいどこに所属しているのか,という問題。たとえば,一試合での松坂の投球数は,あらかじめアメリカの所属チームから上限が決められていた,という。日本のチームに所属して試合をするのに,アメリカのプロ野球チームの拘束を受けなくてはならない,ということの不思議。松坂投手は完全なる商品であって,そのため,商品を管理しているチームが,日本に貸し出している,仮の商品でしかない,ということ。なぜ,原監督の采配のもとで,自由に使うことができないのか。そういう選手がなぜナショナル・チームに所属するのか。もはや,国別対抗ということになんの根拠もない。アメリカのプロ野球に完全にコントロールされたイベントでしかない。
もうひとつは,このイベントの予選の組み合わせの仕方もまた,アメリカ方式で行われている。もっと言ってしまえば,この大会そのものを管理・運営しているのがアメリカのプロ野球リーグだ。だから,自分たちだけの論理ですべてを決定している。賞金の分け方もそうだ。細かい数字が新聞にも掲載されていたが,まことに不思議な配分になっている。優勝した日本チームですら,ほんのわずかしか貰えない,と書いてある。しかも,日本の企業から膨大な資金援助を受けているにもかかわらず・・・・。要するに,宝くじと同じ原理で,胴元がたくさんもらえるようになっている。しかも,アメリカ・チームはベストを組んでいないという現実。もう,茶番もいいところである。だれかが儲かるように仕組んだ茶番である。それをごまかすためにいろいろと複雑な仕掛けをこらしていて,メディアまで誑かされている。その誑かされたメディアの情報に,多くの大衆が乗せられてしまう。そして,読売新聞の社説によれば,日本国民に勇気を与えたWBC,という見出しが躍っている。
わたしは個人的には,韓国に勝ってほしかった。あの接戦を制して,勝ってほしかった。まさか,あそこでイチロー君が打たせてもらえるとは思ってもいなかったから。でも,運命の神さまはいたずらが好きだから,こんな結果になってしまった。そして,イチロー君が,やはり,ヒーローになるように仕組まれていた。しかし,韓国が勝っていたら,おそらく,これからの日韓関係は数段よくなることは間違いない。たとえば,わたしが韓国を訪問しても,とても居心地がよくなるだろう。しかし,この結果によって,どことなく要心しなくてはいけない,と身構えざるをえない。
勝ったり負けたりするものがスポーツなのだ。だから,あまりに一方的に勝ってしまってはいけない。ときには,ポロリと負けるのもスポーツの醍醐味ではないか。しかも,それが国際平和に貢献するとなれば,なおさらのことである。
ああ,なんだか,著しく逸脱したことを書きはじめている。こんなことを書くつもりではなかったのに・・・・。だから,文章というものは恐ろしい。根も葉もないことを,いつのまにやら書きはじめているのだから。
でも,これだけは書いておこう。今回の結果をみて,日本の野球は世界一だなどとは,夢思ってはならない,ということ。言ってしまえば,どこの国も,ほんとうに最強メンバーを組んではいないのだから。日本で言えば,松井も上原も参加していないように,他のどの国も,アメリカのプロ野球チームに遠慮して,有力選手がたくさんはずされているのである。その典型的な例がアメリカ・チームだ。いわゆる「ドリーム・チーム」を組んではいないのだから。
なのに,こんどの勝利は日本国民を元気づけた,と読売新聞は書く。そして,メディアによる意識操作が行われる。その結果,日本の大多数の国民が間違った方向に舵をとることになる。これが怖いのである。しかも,いま,ここに書いたようなことをうっかりしゃべると「袋叩き」に会ってしまう。そういう威力をもっているということ。
恐ろしや,恐ろしや。クワバラ,クワバラ。これにて打ち止め。
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2009-03-27 <ISC・21>版『IPHIGENEIA』の最終チェック。
_ <ISC・21>版『IPHIGENEIA』創刊号が,ようやくわたしの手を離れました。
今日,叢文社の佐藤さんと最終的なチェックを済ませ,いよいよ印刷所の手にわたることになりました。表紙も,新しいデザインのものが出来上がり,とてもいい感じのものになります。いまのところ,4月20日刊行の予定です。もう少し早くできれば,4月名古屋例会に間に合うのですが,それは少し無理なようです。まあ,5月東京例会の折に手渡ししようと思っています。なお,お急ぎの方はご連絡ください。出来上がり次第,発送できるよう手配します。
これまでの『IPHIGENEIA』のような大型本ではなくて,小型化し,縦書きにしました。大きさも,中味もすっかり様変わりして,<ISC・21>ヴァージョンであることを強調することにしました。寄稿者は全部で16名,鼎談の3名を入れて,全部で19名が名前を連ねることになりました。約300ページもある立派なものになります。
巻頭を飾るのが,鼎談「現代の能面」です。2月9日に銀座・文藝春秋画廊で,今福龍太,西谷修の両氏にわたしが加わって行った鼎談です。いつも以上にスリリングな内容になっています。やはり,このお二人の話される内容は,どこに,どんな風に展開していくのか,まったく予断を許しません。今回も,わたしの想像もしなかった内容になっています。
もっとも,今回の能面展は,柏木さんがオバマ大統領を能面にしてしまう,というとんでもない大冒険がメインになっていますので,今福,西谷の両氏がこれまでになく挑発されたようです。しかも,柏木さんの挑戦を絶賛しているのですから,やはり,天才同士はなんの説明も不要で,きちんと理解できるようです。ひとり,わたしだけが取り残されて,右往左往しているありさまです。内容については,できあがったものでご確認ください。
寄稿された内容も,原著論文から研究報告,研究ノート,エッセイ,書評とバラエティに富んでいます。それぞれに力作ばかりです。内容に踏み込むことはここではしないことにします。あとは,手にとって楽しんでみてください。
なお,この号は創刊号となりますが,通号では第9号となります。また,大学の研究室紀要としてのこれまでのものとは違って,私設の研究所の紀要ですので販売ができます。いまのところ,一冊2000円で販売の予定です。もちろん,大きな書店には並ぶ予定。購入希望の方は,わたしの方にご連絡ください。いずれ,正式な情報は,掲示板に出しますので,そちらでご確認ください。
新しい研究所を立ち上げて,あっという間の一年間が過ぎ去ろうとしています。初めて事務所の部屋を見に行ったとき,満開だった鷺沼駅の桜がちらほらと咲きはじめています。この桜が満開になると,きっと,昨年のことがもっとリアルに思い出されることでしょう。
4月からは,気持ちを一新させて,また,新しい試みにチャレンジしたいと考えています。みなさんからのご支援・ご鞭撻をお願いいたします。
それでは今夜はこれにて。
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2009-03-28 天童荒太著『包帯クラブ』を読む。
_ 天童荒太著『包帯クラブ』(ちくまプリマー新書)を読む。
予定していた原稿が,意外にあっさりと書けてしまったので,ご褒美に小説を読むことにした。このところ,かなり根をつめた仕事がつづいているので,できるだけあっさりと読めるものをと考えたが,見つからなかったので,手元にあったこの本を読むことにした。『悼む人』で直木賞を受賞したばかりの,いま,絶好調の作家である。この本の帯によると「この物語を今すぐ若い人に届けなければと,『悼む人』を中断して書いた。どんな傷も公平に扱う点で『悼む人』の姉妹編です」とある。これを読んで,ちょっとだけいやな予感があったが,どちらかといえば短編なので読んでみることにした。
書名が『包帯クラブ』とあったので,頭から「リスト・カット」を主題とした小説かなと思っていたら,そうではなかった。身もこころも傷つきやすい高校生たちが集まって,傷ついた経験をもつ場所やものに包帯を巻くことによって,傷ついたこころやからだを癒そうという物語。その集団の名前が「包帯クラブ」。このクラブを結成することによって起こるさまざまな悲喜劇を描いた作品。『悼む人』を読んだ人間にはとてもわかりやすい筋立てになっている。まさに,姉妹編。
テンポよく読めるので,快適なのであるが,ところどころで詰まってしまって,考え込んでしまうところがある。たぶん,わたしなどの世代からは理解不能の部分なのだろう,と思う。それは,「傷つきやすさ」と「落ち込みやすさ」であり,そこから「立ち上がる力の不足」である。われわれの世代とはいえ,青春時代はいまの若者たちと同じように傷つき,落ち込むこともしばしばあった。問題は,そこからの脱出の「方法」であり,「力」が,いまの若者たちとは違う,ということであるらしい。
笑われてしまうかもしれないが,わたしなども高校生になるころまでは,ずいぶんと傷つき,落ち込むことが多かった。三日も四日も,だれとも口をきかないことがあったり,「落ち込み」を隠すためにわざと明るくふるまったりしたこともある。なにせ,小学校3年生までは,教室で声がでなくなる,不思議な子どもだった。国語の教科書を,みんなの前で大きな声を出して読む,ということができなかった。算数の足し算の問題を,先生に指名されても,声に出して答えることができなかった。答えは頭のなかにあるのに・・・・。なぜ,このようなことになったのか,わたしには記憶がない。でも,気づいたときにはそうなっていた。そのトラウマのようなものは,いまでも残っている。だから,それを隠すために,必要以上の努力をしているのは間違いない。だれも信じてはくれないでしょうが・・・・。
こういうことを一つひとつ言挙げしていけば,際限なく,数えられそうな気がする。つまり,相当に,ズタズタに傷ついた経験がある,ということである。なのに,どうして,こんにちがあるのか。
その理由については,また,いつか機会をみて書いてみたいと思う。なぜなら,書きはじめたらあまりにも長くなることは必定だから。でも,この理由の内容こそが,われわれ世代の青春時代と,こんにちの若者たちをとりまく環境(すべての点で)が,まったく異なっているのだと思う。その違いを思い浮かべながら,この小説を読んでいると,「それは違うだろう」と独り言をつぶやくことが多くなる。このあたりのことを埋め合わせてくれるような描写があると,もっともっと説得力のある小説になる,と思うのだが・・・。
この感想は,『悼む人』を読んだときと同じものだ。どこかが違ってしまった。それをひとことで表現するとしたら,「社会の力」が変わってしまった,ということになろうか。むかしのような地域共同体の縛りがきつかった時代と,こんにちのような,地域共同体の縛りが極端に弱くなってしまって,ほとんど「空気」のようになってしまって,抵抗しようにも抵抗する相手も見えなくなってしまった時代との違いなのだろう,とわたしは考える。
だから,人と人との関係についての「免疫力」が育たなくなっているのではないか,と。
さて,このさきを考えはじめると,エンドレスになってしまいそう・・・。だから,今夜はこの当たりで止めにしておこう。みなさんも考えてみてほしい。たぶん,『悼む人』や,この『包帯クラブ』を読むと,そんなことを考えはじめるのではないか,というわけ。閑話休題。
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2009-03-29 白鵬が全勝優勝を飾る。
_ ショックで立ち直れない。
この見出しで,われながら面白い文章が書けている,と気分をよくしていたら,最後の最後のところでキーのミス・タッチ一つで,全部の文章が消えてしまった。茫然自失。
今日のブログは,これでおしまい。
明日,もう一度,書いてみようという気力があったら書くことにする。
ミス・タッチをした自分自身に腹を立てている。コンチクショー!
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2009-03-30 白鵬が全勝優勝を飾る。
_ やはり,昨日の飛んで消えてしまったブログに未練が残り,再度,挑戦することにした。
白鵬が,先場所の悔しさをバネにして稽古を積み,万全のからだをつくって場所に臨んだ。案の定,連日,磐石の相撲を展開し,15戦全勝で10回目の優勝を飾った。立派なものである。いよいよ白鵬の全盛時代の幕開けと言っていいだろう。当分は敵なしの実力と貫祿を身につけた。あとはこころの管理をきちんとできるかどうかにかかる。でも,白鵬ならできる,と大いに期待を寄せている。
この人は,新弟子のときから,ほとんど期待されていなかったという。からだが細くて,力もあまりなかった,そうだ。しかし,かれ自身は稽古を積んで強くなりたい一心で日本にやってきた。かれの父親はモンゴルでは知らぬ人とていないモンゴル相撲の横綱を張った人だ。母親は女医さん。まあ,相撲の遺伝子と賢さの遺伝子の両方を受け継いでいるかにみえる。これまでのインタビューに対する応対をみるかぎり,とても慎重だし,余分なことはいっさい言わない。
それよりなにより,我慢強い,という印象を受ける。大関に昇進するときも,横綱に昇進するときも,一度待ったをかけらり,足踏みを余儀なくされた。そして,そのつど,猛烈に稽古をして,一皮剥けたように強くなり,みごとにクリアしてきた。
今場所もそうだ。先場所の優勝決定戦での「負け相撲」が,今場所の優勝の肥やしになっている。千秋楽の相撲が明らかにそれを物語っている。朝青龍の得意の「左」をあっさりと封じ込み,自分得意の「右」をこじ入れて,すぐにかいなを返した。これで勝負あった,である。朝青龍の上体はのけぞってしまった。この瞬間に,朝青龍はすでに勝負を捨てていた。あとは,ずるずると後退するのみ。先場所の「お礼返し」のような相撲になった。
この相撲を今朝の朝日新聞は「覇気なき朝青」という見出しで囃し立てている。記事の内容をみても,やはり,朝青龍たたきに徹している。しかし,これは間違いなのである。相撲というものは,何回もとっている相手とあれば,ある型になったらどうにもならない,ということをお互いに熟知しているものなのである。先場所の優勝決定戦の白鵬がそうだった。朝青龍にふかぶかと得意の「左」を差された段階で,白鵬はすでに棒立ちになっていた。あとは,防戦これあるのみで,ずるずると後退し,土俵を割った。あの相撲も「覇気なき白鵬」ということになる。しかし,新聞はそうは書かなかった。なぜか? このあたりに,相撲の記事を書く記者や担当デスクの無意識が見え隠れする。
例の「善玉」「悪玉」の二項対立の図式である。その意味では,まことに好対照の力士ではある。朝青龍はみるからに「やんちゃ坊主」そのものである。それに対して白鵬は「優等生」という扱いを受けやすいタイプである。もともと,そういう素質ももっている。記事を書く側とすれば,キャラクターを鮮明にしてしまった方が書きやすい。また,読んで面白いものになる。だから,あっという間にメディアはこの二項対立を採用してしまった。いま,はやりの「勝ち組」「負け組」と同じ図式である。それでなんとなく納得したような錯覚をいだいて,安心してししまう。しかし,このワナに嵌まってはならない。むしろ大事なのは,このような納得のさせ方をして,一件落着,というメディアの体質こそ問われなくてはなるまい。
力士にはいろいろの個性をもった,不思議な人がたくさんいる。いま現役で活躍している力士を一人ひとり思い浮かべてみても,みんな違った個性をもっている。そして,自分なりの方法で,自分の土俵を演出している。過去の力士を思い出してみても,ほんとうに面白い。つまり,力士というものは,自分の「型」を見いだして,それをわがものとしないことには大成しないのである。無理して「優等生」ぶってみても,あるいは逆に「悪」ぶってみても,所詮,それは偽物にすぎない。一皮も二皮も剥けていって,最後に現れる,その人のもって生まれた素質が開花したとき,ほんとうに個性的な力士が誕生し,実力を発揮することになる。
これは,ある意味では,どこの世界でも通用する話である。ただ,力士という仕事は,たった独り,衆人監視のもとで,しかも,丸裸で相撲をとるというものだ。だから,すべてが丸見えとなっているだけが,他の世界とはいささか事情が違う。力士は土俵の上がすべてである。土俵の上では隠すべきなにものも存在しない。みんなに観られているのだから。
それゆえに,と言っていいだろう。観ている人,全員が評論家になりうる。だから,言いたい放題である。単なる相撲ファンが,勝手に評論することは自由だ。それもまた相撲を楽しむ一つの方法だから。野球ファンと同様,ファン同士が侃々諤々の議論をすればいい。しかし,こちらが望みもしないのに,勝手な議論をふっかけられるのは困りものだ。しかも,まことに稚拙な評論を聞かされるのはたまらない。かといって,そういう相手に限って,こちらの言うことに耳をかさない。一方的である。
新聞の評論も,じつは,一方的なのだ。ただ,読まされるだけの一方通行なのだ。読み手には,どれだけの広がりがあるのか,しっかりと意識して書いてもらいたいものだ。それが,まことに稚拙な,つまり,相撲というものがどういう文化であるのかをきちんと理解しないまま,報道をする。世間の善良なる市民は,みんな,新聞が言っていることにかなりの「信」をおいている。そうして「世論」というものが形成されてしまう。
朝青龍バッシングはこうして形成された,かなり悪質なものだ,とわたしは考えている。メディアによる「暴力」である。
なぜ,こうなってしまうのか,とかつてのスポーツ記者だった人に聞いたことがある。その答えは以下のようなものであった。
かつては,相撲なら相撲,野球なら野球の「番記者」と呼ばれる特化されたスペシャリストがいた。そして,相撲ならなんでも聞いてくれ,というくらいに相撲という文化については熟知していて,その上で記事を書いていた。だから,とても的確に,信頼のできる記事が書けた,という。しかし,近年では,経費節減のおりから,スポーツ種目に特化した「番記者」という存在がなくなってしまったそうだ。その結果,相撲も野球も陸上競技も,全部ひっくるめて「スポーツ」担当記者になってしまった。だから,その意味では,まったくの素人さんが記事を書いているに等しい,と。
これが,現代日本のメディアが流すスポーツ情報の実態であるとすれば,なんと恐ろしいことか。これでは力士たちはたまったものではない。野球選手も同じだ。もう,勝手なことを書かれっぱなし,ということになりかねない。メディアの「暴力」と,それに対する読者の側の対応の仕方との間に,あまりにも大きなギャップがありすぎる。
ひょっとしたら,若者たちの新聞離れの理由の一つは,このあたりにもあるのかもしれない。新聞は信用できない,と。
と,ここまで書いてきたが,昨日のブログとは似ても似つかない内容になっている。昨夜のことが,今朝になると,もう,すっかり様変わりしてしまっている。わたし自身の記憶すら,一夜にして,このくらい変化してしまうのだ。人の言うこともそんなものかも知れない。いったい,情報とはいかなるものか,とわれとわが胸に手を当ててしまう。
このブログもなにを言ってんのか,と一笑に付されてしまっても仕方がないのかもしれない。書いている本人は大まじめなつもりなのだが・・・・。ああ,どこまでつづく泥濘(ぬかるみ)ぞ。
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