Diary


2009-04-01 アメリカという国の不思議さ。

_ アメリカという国はまことに不思議な国である。考えれば考えるほど不思議な国である。

振り返ってみれば,アメリカには3回ほどでかけ,そんなに長い期間ではないか滞在したことがある。いずれも海外学術研究という科学研究費をもらってでかけたものなので,そのつど,調査・研究を主眼にしてアメリカの大学のスタッフとの共同研究であった。長いときは3カ月,短くても1カ月の滞在だった。そのつど,びっくりするような体験が何回もあった。文化の違いとはいえ,そのあまりの違いに唖然としたことも少なくない。しかし,いわゆる表面的にはとても居心地のいいものであった。つまり,深入りしないで,おざなりの付き合いをするだけなら,とても紳士的で,自由で,快適なのである。しかし,一歩,かれらの生活の内部に踏み込むと,なかなかどうして一筋縄ではいかないことが多くなる。

何日か前,渋谷の本屋で,偶然,目に飛び込んできた水村美苗の『私小説fron left to right』と『日本語が亡びるとき』の2冊を購入して,読みはじめた。久しぶりに「買ってくれ」と声をかけられた本である。ときおり起こるわたしに起こる特異現象である。こういうときはなにかが起きる。これまでの例がそれを証明している。

まずは,『私小説』を読む。12歳でアメリカに家族とともに移住し,20年間の滞在を終えて帰国してくる女性の話である。もちろん,モデルは著者自身。アメリカという国になじめず,英語という言語にも抵抗があり,友達もなかなかできない,内気な少女が,日本からもっていった日本文学全集に没頭していく孤独な姿が描かれている。しかも,日本初のバイリンガル小説で,横書きである。本のつくりそのものもいろいろと新しい工夫がしてあり,この小説から受け取るものは少なくない。

この小説をとおして,わたしが感じ取ったものは,アメリカの孤独であり,独りひとりが孤立していて,いわゆる思いやりのこもったコミュニケーションが欠落しているために起こる悲劇の実態がみごとに浮き彫りにされていて,なんとも無限地獄のような日常である。わたしの少ないアメリカ滞在の経験と照らし合わせてみても,納得のいくことばかりである。なにか理解不能な人間集団であり,行動様式なのである。

これらは,オーストリアのウィーン(10カ月),ドイツのケルン(6カ月)などに滞在したときの経験とはまったく異質なものである。この違いをどのように説明したらいいのか,とてもむつかしい。が,いつか,きちんと整理しておきたいとは思っている。そのためには相当に長い文章を書く必要がある。こんなブログで処理できる問題ではないので,ここでは深入りはしないでおく。

いずれにしても,この『私小説』は,これまでに読んできた文学のどのパターンにも当てはまらない,まったく新しい文学のジャンルを切り開くものと言っていいだろう。そのだれも試みたことのない文学の新しい可能性にチャレンジしている,そののっぴきならない著者の姿勢が,強くわたしのこころを打つ。ぎりぎりのエッジに立ちながら,自己をみつめ,つねに危うさのなかでかろうじてバランスをとっていくしかない究極の「存在」を通過することによって見えてくる新しい地平から,この小説は語られる。

この小説が,なんと,『日本語が亡びるとき』の露払いになった,とのちに著者が語っている。つまり,『私小説』を書いているときには自覚していなかった大事なことを,無意識のうちに書き続けていた,というのである。「認識というものはずっとのちになって突然,その正体を現すことがある」と著者は『日本語が亡びるとき』のなかで告白している。

しばらくは水村美苗にとらわれの身となりそう・・・・。

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2009-04-02 漱石の読み方。

_ 水村美苗の『日本語が亡びるとき』英語の世紀の中で(筑摩書房)を,やらなくてはならない仕事が山ほどあるのに,時間を盗んで読んでいる。

『続明暗』を書いて作家デビューした人だけあって,漱石の読みは抜群である。ありがたいことにわたしの好きな『三四郎』を,彼女も漱石の作品のなかでは一番好きだ,という。そして,この本の読解をとおして,日本語というものがどのようにして成立してきたのか,日本語成立の特殊な事情について,とても説得力のある語り方をしてくれる。素材が『三四郎』なので,わたしにもわかりやすい。

彼女の創案になる「普遍語」と「現地語」と「国語」という三つの概念装置を設定した上で,日本語という言語の特殊な成立事情を,詳細に語っているのだが,それをここで紹介するつもりはない。そうではなくて,この『三四郎』というテクストをとおして,ここまで漱石が生きていた時代の日本語とそれを用いる日本人について読み解くことが可能なのか,と驚かされたので,そのあたりのことを書いておきたいと思う。

じつは,わたしも「文学にみるスポーツ」という連載のなかで,漱石の『三四郎』をテクストとして取り上げ,当然のことながら,スポーツ関連の描写を分析したことがある。よく知られているように,山場は「運動会」の描写にあるのだが,その情景描写をとおして,当時の人びとのものの見方・考え方・感じ方が,じつによく伝わってくる。この時代の人びとにとって「運動会」という新しい風俗がどのように受け止められ,どのようにして浸透していったのか,ということを考えるには最高のテクストである,とわたしは考えていたし,いまも,そう考えている。

そして,水村美苗さんの手法にかかると,もっとみごとに『三四郎』のなかに描かれている人びとの情感や喜怒哀楽というものが読み解かれていく。それはもはや二の句が告げないほどの精緻さである。作家が作家の心理まで読み切り,その上で,作品の構成や仕掛けに秘められた秘密を解き明かし,そこから浮かび上がる,もう一つの情景というものを読み解いていく。ここまでの読解力は真似できないまでも,それに近い手法を借りて,作品の背景になっている時代や社会を読み解くことは可能であろう,とわたしは考える。その意味で,水村美苗の方法は,スポーツ史研究にとってもきわめて有効な方法だと思う。

かつて,わたしがまだ院生だったころ,ある研究会で,ある小説を取り上げて発表したことがある。そのねらいは,当時のアカデミックな体育史研究ではすくい上げることのできない,いや,完全に欠落してしまう,時代や社会と,人びとの情感や喜怒哀楽を読み解こうとしたのである。しかし,その研究会を主宰していたN氏からこっぴどく叱られてしまった,という苦い経験がある。アカデミックな研究に小説なんぞを持ち込むとはなにごとだ,と。小説などになんの資料的価値はない,と。

この一件にいたるまでにも,さまざまな伏線があったのだが,この一件を契機にわたしはこの研究会から身を引いた。それからあとは,まったく独りっきりで,孤独な研究者もどきの生活を送ることになった。その反動もあってか,わたしはもっともっと小説世界のなかにのめり込んで行った。そして,歴史を理解するには,同時代を描いた小説は最高のテクストとなりうる,という確信をもつにいたった。それがあったので,「文学にみるスポーツ」の連載を頼まれたときには欣喜雀躍して喜んだものである。233回もの長期連載ができたのも,そういう下地があったからこそだと思う。しかも,その連載を重ねるにしたがって,ますます,小説の資料的価値がみえてきていたので,取り組む姿勢も変化してきていた。

だから,今回の水村美苗さんの漱石解釈に触れて,その上質な,しびれるような眼力に羨望のまなざしを投げかけつつ,そうだ,そうだ,と一つひとつうなづくばかりだった。しかも,説得力を超えて快感そのものであった。こういうレベルに到達できたら,小説を読む楽しみはもはや大麻に誘われる麻薬患者のそれにも匹敵する,至福のときをわがものとすることができるだろう。この人の,まだ読んでいない作品もひととおり目をとおしておきたい,という衝動が止みがたく渦巻きはじめている。

すぐに感化されてしまう,この性格はなんとかならないものか,と自省しつつ喜んでもいるのだから始末が悪い。でも,こればかりはどうにもならないのだから,あきらめるしかない・・・か。このごに及んで・・・。

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2009-04-03 真理には二つある,という話。

_ 真理と呼ばれるものには二つのものがある,と水村美苗は書く。

このところ時間をみつけて読み継いでいる水村美苗の『日本語が亡びるとき』のなかの一節である。わたしは,ここでもまた虚を突かれた。そして,しみじみと考えてしまった。

彼女は,つぎのように言う。

・・・この世には二つの種類の<真理>がある。別の言葉に置き換えられる<真理>と,別の言葉には置き換えられない<真理>である。別の言葉に置き換えられる<真理>は,教科書に置き換えられる<真理>であり,そのような<真理>は<テキストブック>でこと足りる。ところが,もう一つの<真理>は別の言葉に置き換えることができない。それは,<真理>がその<真理>を記す言葉そのものに依存しているからである。その<真理>に到達するには,いつも,そこへと戻って読み返さねばならない<テキスト>がある。

このあとに,具体的な例を挙げて,<テキストブック>と<テキスト>の違いを説明していく。そして,最後のところで,自然科学のような研究の成果は<テキストブック>でこと足りるが,漱石の『三四郎』のような小説は<テキスト>以外のなにものでもない,と説く。つまり,自然科学の導き出す法則のようなものは,条件が同じであれば,つねに同じ結果に到達することを保証するという意味で,どの言葉で置き換えようとも同じ<真理>を伝えることができる。しかし,漱石の『三四郎』のような文学にあっては,いかなる言葉をもってしても,同じ意味内容を伝えることはできない,という意味で<テキスト>だ,というのである。

別の言い方をすれば,自然科学の法則は,いかなる外国語で書かれようとも,同じ<真理>を伝えることができるが,文学にあっては厳密な意味での「翻訳」は不可能である,という意味で一つの独立した<真理>なのだ,と。

そして,さらに別のところでは,追い打ちをかけるかのように,つぎのように言う。

漱石の小説は,いくら頑張っても,いかなる言語をもってしても,ほとんど翻訳は不可能なのだ,と。だから,漱石の小説を翻訳する人はいまだに現れないのだそうである。しかし,日本語の堪能な外国人からは,漱石の小説は絶賛されているそうである。にもかかわらず,漱石は国際的にはほとんど評価されてはいない,と。それに引き換え,比較的翻訳がしやすい日本の作家の小説がつぎつぎに翻訳されて,国際的な評価を受けているが,この作家の作品がいかに文学としては低俗であるか,ということの証明以外のなにものでもない,と辛辣である。作家の固有名詞はあげてはいないが,わたしにも思い当たる某作家の名が思い当たる。しかも,その作家は,つぎのノーベル賞候補だとまで噂されている,と聞く。

となると,文学としての生命線でもある<テキスト>からもっとも遠く離れた,言ってしまえば低俗な日本語作品でなければ翻訳も不可能であるし,国際的な評価も受けることはない,ということになる。このことの意味するところは重大である。

その作家は,この間も,イスラエルが授与するナントカ賞を受賞し,「卵と壁」の話をして,大きな話題となった人である。この人の作品の裏側に隠されたきわめて危険な企みを読み取ることは,日本人のふつうの読み手ですら不可能なのだから,ましてや外国の読者に読解できるはずもない。しかし,その仕掛けの危うさを,東大教授で文学批評家の小森陽一氏は,一冊の本『村上春樹論』(平凡社新書)のなかで,完膚無きまでに解き明かしている。

この作家が意図的・計画的にみずからの文学をとおしてそれを仕掛けているとしたら,なんと恐ろしいことであろうか。それどころが,まったく無意識のうらに,それをやっているとしたら,もっと恐ろしい。

問題が横道にそれてしまった。

水村美苗の主張を敷衍しておけば,こうした<テキスト>性の低い文学が,日本文学の代表であるかのようにさまざまな言葉に翻訳され,世界の多くの人びとに読まれることによって,まったく別の評価が生まれるところに,「日本語が亡びる」という危機が表出している,ということになる。

さてはて,この水村の主張をどのように受け止めるか,これは読者の自由である。それにしても,考えさせられることの多い本である。

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2009-04-04 鷺沼の駅前の桜が8分咲き。

_ 鷺沼駅前の桜が8分咲き。夜の灯にとてもきれいに映えていました。が,さきほどから降り始めた雨でどうなるか心配。

このところ,よほどのことがないかぎり,毎日,鷺沼の事務所に通っています。つい,2〜3日前に,ようやくちらほらだった桜が,この暖気で一気に開花をはじめました。桜の木というのは,お互いにとなりの木と相談しながら開花のタイミングをはかっているのではないか,とそんなことを思いながらとおり過ぎました。

思い起こせば,ちょうど去年の3日のことでした。土砂降りの雨の日に初めて鷺沼の駅に降り立ち,不動産屋さんの案内でいまの事務所の部屋を見にいきました。それまでにいくつもの部屋の情報をもらっていましたが,部屋の大きさと部屋代との折り合いがつかず,ずっと見送っていました。が,鷺沼の部屋は大きさが手頃で,部屋代もなんとか頑張れば・・・という値段だったので,期待が大きかった。到着して,部屋に入ってみたら,想像以上に感じがよかったので「即決」して,賃貸の手続に入りました。

あれから,もう,一年が経過。あっという間で,ほんとうに夢のようです。でも,この部屋を事務所として確保したお蔭で,いろいろの人が尋ねてきてくれるようになりました。それまで,大学の研究室にも尋ねてくれなかったような人たちが,ふらりとやってきてくれます。やはり,無理をしてでも事務所をもってよかった,としみじみ思っています。それまでの大学生活とはまるで違う世界ではありますが,まことに自由で,わがまま放題に時間が使えることが,なんとも贅沢のかぎりです。

本もそれまでよりも多く読めるようになり,久しぶりにボケかかっていた脳細胞も活性化しはじめています。新しい発見がつぎつぎにあって,こんなに楽しい毎日でいいのだろうか,と思うほどです。これからますます眺めがよくなってくることが予見できて,毎日,どきどきしています。

問題はこの事務所の維持費。これをどうやって捻出していくか,ことしの課題はこれです。あちこち積極的に挨拶まわりをして,仕事をまわしてもらえるように,慣れない「営業」活動をはじめようと思っています。まずは「ISC・21」のリーフレットを作成して,それを配って歩くことから・・・。そんなこと,これまでやったこともないので,はたしてできるものやら心もとないかぎりですが・・・・。背に腹は代えられぬという覚悟が必要なようです。

まあ,これからもシコシコと努力を積み上げていこうと思っていますので,どうぞ,よろしくお願いいたします。

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2009-04-05 「あしたのジョー復活」

_ かつて熱烈なファンを獲得したボクシング漫画「あしたのジョー」が復活するという。

4月10日号の『週刊読書人』のトップ見出しに「あしたのジョー復活」と赤字が躍っている。しかも,福島泰樹と小松美彦対談を載せ,1面から2面の全面をつかって報じている。読んでみると,『週刊現代』(講談社)で,連載を開始するという。なぜ,いま,『週刊現代』が? という疑問が脳裏をよぎる。大きく『週刊現代』の表紙も載っているので,それをみると,表紙見出しに「WBC原の蹉跌」「斎藤佑樹巨人熱望」などとある。なんだか,『週刊現代』がスポーツ雑誌に変身してしまったみたいな印象である。明日にでも書店でめくって確認してみたいと思う。

しかし,それにしても,なぜ?

『あしたのジョー』はとうのむかしに単行本となって,いまも,書店に並んでいる。読もうと思えば全巻を一気に読むこともできる。なのに,なぜ,週刊誌に連載なのか。

「あしたのジョー」の連載が『少年マガジン』で始まったのが1967年だという。東京オリンピックが終わって(1964年),まもないころであった,という記憶はおぼろげながらわたしにもある。時折,なにかの拍子に読むこともあったが,これはいけない,読むと「はまってしまう」という危機感があって,あえて忌避していたことを思い出す。それほどに,当時の若者たちのハートを打った名作である。

わたしの記憶では,60年安保,70年安保を闘った,いわゆる全共闘世代の必読漫画だった。若者たちが(わたしは若者たちの仲間入りをするには,少しばかり歳を取りすぎていた),日本の行く末を憂い,救国の情をみなぎらせて,国会議事堂を取り囲み,「石合戦」に全力をあげていた時代の若者たちのハートを打った「根性物語」が,はたして,いまの若者たちのハートをとらえることができるのだろうか。いまの若者たちとは,ものの見方も考え方も,そしてものの貧しさもこころの豊さも,まるで別世界に生きていた若者たちの「価値観」が,はたして,「現代」に通用するのか。わたしにははなはだ疑問である。

そのころの若者たちも,もはや,還暦を迎えている。まさか,この人たちに向けてのリバイバルでもあるまい。いま,『週刊現代』を買って読む世代というのは,どういう人たちなのだろう。それすら,わたしにはわからない。たぶん,いまの若者たちのほとんどは週刊誌などは読まない。もっと,別の雑誌を読んでいるはずである。だとしたら,ますます,わからなくなる。

でも,福島・小松対談を読むと,このお二人はとても楽観的なのである。しかも,いまの時代こそ読まれるべき漫画だという。なるほど,「読まれるべき」かどうかということになれば,「現代」に欠落してしまった「価値観」を少しでもいいから復活させたい,という願望としては理解できないでもない。

それよりも,この二人の対談で面白かったのは,小松美彦氏が,つぎのように熱く語る部分だ。引いておこう。

私の解釈では,『あしたのジョー』は疎外革命論批判なんです。つまり,来るべき未来にも,帰るべき過去にも,美しく絶対的な状態などはなく,おっしゃったように,腐りきったこの現実の中で,現実自体を自分たちそれぞれの速度と立場で変革していくしかない。自分自身をも変革していくその過程こそがユートピアであり,自由に他ならない。このことを矢吹丈の物語は描き続けたんだと思います。

この価値観に反応する若者が,「現代」の日本の社会のなかにどれだけいるのだろうか,とわたしは首を傾げてしまう。それほどに,わたしは悲観的である。わたしに言わせれば,新人類の,そのまた新新人類たちの「価値観」とはまるで無縁の世界ではないか,と思うからだ。場合によっては,もっともっと遠いところに行ってしまったのではないかとさえ思う。

しかし,考えようによっては,あまりに遠くへ行ってしまえば,地球の水平線が丸みを帯びているように,西と東に向かって出発した旅人たちは,いつの日にか真っ正面から「出会う」ことになる。そういう「奇跡」のような「出会い」を,『週刊現代』の編集者たちは期待しているのだろうか。だとしたら,これはまた,面白い企画といえそうでもある。

さてはて,この企画がどのような結末を迎えるのか,コンテンポラリーな「スポーツ文化論」としても,無視できないなにものかを含んでいる。しばらくはアンテナを張って,その動向を見守ることにしよう。

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2009-04-06 「校閲」という仕事について。

_ ほぼ1年前に企画書を書いて,なんとか単行本にこぎつけようとしている本の大詰めの仕事にとりかかっている。

もう何回も校正を重ねているのだが,ここにきて「校閲」の手が入った。これが最終段階のチェックだそうである。この「校閲」という仕事がまたなんとすさまじいことか,いささかあきれるほどの厳密さなのである。やはり,大手の老舗の出版社ともなると,間違った内容の本を出すわけにはいかないのだろう。それにしてもびっくり仰天である。

以前から,新潮社の「校閲」はきびしい,という話は聞いていたし,『新潮45』なる雑誌に原稿を書いたときに,そのきびしい「校閲」を体験したこともある。オリンピックがらみの原稿だったが,内容の事実関係の一つひとつがきっちりとチェックされていて,ここまでやるのか,と驚いた。たとえば,フィギュア・スケートが競技化への道をたどりはじめたのは,16世紀のオランダに逃亡していたイギリス王家の人びとだった,ということをドイツ語文献を頼りにして書いたら「八方手をつくしたが,この事実関係を確認することはできない」とコメントが入っていた。仕方がないので,ドイツ語文献を紹介したら,かなり時間が経過してから,ようやく事実関係を確認することができた,感謝する,という手紙がとどいた。掲載雑誌はとっくのむかしに刊行されたあとのことである。

それにしては『週刊新潮』はそのかぎりではないのか,時折,根拠のはっきりしない情報を流して,物議をかもしだしているから面白い。

いま,取り組んでいる単行本の「校閲」は平凡社なのだが,わたしの書いた脚注の内容まで,全部,チェックしてある。つい,うっかりおぼろげな記憶を頼りに原稿を書いてしまうことがある。そうすると,これこれの出典によるとこうだが・・・というコメントがついている。あわてて,それ以外の文献にも当たってみると,校閲者の指摘が正しいのである。参りました,と書き込んでお侘びする以外にない。それにしても,ありがたいことである。本文の内容についても,すべて,事実関係がチェックされている。いったい全体,校閲という仕事をしている人たちというのはどういう人たちなんだろうか,と不思議である。できることなら,一度,会ってみたいと思う。担当編集者とはなんども打ち合わせをしたり,確認をしたり,と何回も会って相談をしながら仕事を進めていくが,校正や校閲をやっている人たちとはまるで接点がない。だから,ますます興味が湧いてくる。

ずっと以前に,平凡社の社屋を尋ねたことがあって,その当時の平凡社の地下には膨大な文献を収納した図書館があることを知り,驚いたことがある。なるほど,こういう図書館を抱え込んでいるからこそ,厳密な「校閲」が可能となるのであろう。と思っていたら,別の出版社(たとえば,講談社)の編集者は,わからないことがあったらすぐに国会図書館に走るのだ,ということを言っていたことも思い出す。

みんなそれぞれにすごいものである。さすがにプロだなぁ,と思う。その点,書き手というのは意外と呑気なもので,自分が書こうとしている内容の面白さには神経質になるが,それ以外のところでは間が抜けていることが多いらしい。誤字・脱字などというのはざらにある話だそうである。もっとも有名な話では,山岡荘八の書く原稿はだれも読めなかったそうである。ただ,ひとりだけ,奥さんだけが判読できたらしく,彼女が清書しないと出版社には原稿を渡すことはできなかった,という。

われわれの書く原稿などはたいしたものではないが,それでも若いころは,誤字・脱字がないように,当時は手書きだったので必要以上に神経を使った記憶がある。いまは,ワープロなる道具を用いて書くので,パソコンがチェックを入れてくれる。なんともはや,ありがたい時代になったものではある。しかし,それでもいく通りにも表記できる漢字などは,どの漢字にするかは,かなりのこだわりが必要になってくる。

それにしても,きちんとした「校閲」をしてくれる出版社はありがたいかぎりである。こういうところで仕事ができるようにならなくてはいけないなぁ,と今回はしみじみと思った次第。

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2009-04-10 今福龍太著『身体としての書物』がとどく。

_ この3日間ほど,どたばたとしていてこのブログをお休みしてしまいました。その間に,今福さんから近著『身体としての書物』(東京外国語大学出版会)がとどいていました。

今日,ようやく少しだけ時間がとれたので,まず,最初の当たり具合を探る愉悦に浸りました。どのページを開いても刺激的な言説が飛び込んできて,あっという間に時間だけがすぎていました。そんな楽しみを存分に味わわせてもらえる本に出会って嬉しいやら,困るやら,複雑です。

まずは書名をみて,びっくり。『身体としての書物』。まず,書物を身体としてとらえる,そういう発想がわたしにはなかった。だから,いきなり意表を突かれる。えっ,どういうことなの? しばらくは書名とニラメッコでした。それからおもむろに表紙帯に書いてあるキャッチ・コピーに目を移す。そこには,つぎのようにあります。

ポルヘス,ジャベス,ベンヤミン,グリッサンらの独創的なテクストを読み解きながら開示される,「書物」という理念と感触をめぐる新たな身体哲学。書物はたえず世界へと生成する!

「書物」という理念と感触・・・・ここでわたしの目は釘付けになる。そうか,わたしはこれまで「書物」を理念でしか読んでこなかった。それだけではなくて,「感触」まで拡大して,つまり,人間の五感のすべてを総動員させて「書物」と接しなさい,と今福さんは言う。そこに「新たな身体哲学」の誕生をみる,というわけでしょう。

表紙裏の帯コピーは,「あとがき」より,という抜粋が引いてある。

現代の情報リテラシーと呼ばれてきたものも,私はいま一度本質的に問い直さなければならない,と強く感じている。もちろんそれは電子メディアを捨ててノスタルジックな紙とインクにただ還ることではない。書物というものの身体性を人間の知性にあらためて接触する,あらたな世紀の未知なる流儀を,わたしたちが発見しなければならないと確信するからである。

今福さんは,ここでも,「書物というものの身体性」を「人間の知性」に接触させる,そういう「未知なる流儀」を「発見しなければならない」とおっしゃる。では,いったい,「書物というものの身体性」とはなにか,とわたしの頭のなかは大運動会がはじまる。あれかこれか,いや違う,こっちの方のこれか,それも違う,あっちの方のそのまたあっちの方かもしれない・・・などというゲームをやっているうちに,わけがわからなくなってくる。でも,このゲームは,本文を読む前のウォーミング・アップとしては絶対に欠かすことはできない。そうしないと,わたしの頭は痙攣を起こしてしまいかねない。

こうして,やおら,「目次」を眺め,それもたっぷりと時間をかけてひたすら「眺める」のである。ここでもいろいろの予測を立ててみる。もちろん,自分勝手に,ああかな,こうかな,などと自由に思考を遊ばせる。それから中のページをめくりはじめる。

前から後ろへ,後ろから前へ,何回も行ったり来たりして,拾い読みである。これがまたなんとも楽しいのである。今福さんが言われる「感触」とはこういうこともあっていいのではないか,と自己弁護しながら・・・。そうすると不思議な世界が広がってくる。それは書物が発する「理念」とは違うなにかなのだ。それは,あえて言ってしまえば,こういう感触を楽しんでいると,今福さんがこの「書物」にこめた思い入れというか,今福さんの体臭というか,肌合いのようなものがそこはかとなく伝わってくる。たとえば,不思議な写真が目に飛び込んでくる。あれっ,と思って眺めていると,二重露出をして撮影したものや,どこかの鏡に写っているものと実物とが重なっていたり,反射光と被写体とのコラボレーションであったり,という具合である。その典型的な例が,表紙の写真である。これらは,なんと今福さんがみずから撮影した写真なのである。このあたりからして,すでに,この「書物」は理念からはみ出して,「感触」の世界に誘ってくれる。なるほど,今福さんのおっしゃる「書物の身体性」の一端がここにも露出しているではないか。

と,こんなことが,当たりを探る楽しみのなかから,おぼろげながら浮かび上がってくる。そこはかとなく嬉しい。

そして,そんな遊びをしている間に,あるページのところを行ったり来たりしはじめる。無意識のうちに手がそのページのあたりを「行きつ戻りつ」(土佐弁)しはじめる。そして,いつのまにか夢中になって読みはじめている。そこはなにあろう,井上有一の「書」に関する今福さんの読解の部分である。しかも,その読解を,なんとベンヤミンの「模倣の能力について」という論考を手がかりにして展開している。鳥肌が立つ。なぜなら,わたしの大好きな書家・井上有一を,このような視点から読み解く,今福さんの「流儀」の発見に立ち合っている,と直観したからである。電撃が走る。頭のてっぺんから雷光を直接浴びてしまったような,しびれを伴って身体を駆け抜けていく。ああ,この本を体験してしまった,と実感した。

今福さんは,井上有一の「書」を語るにあたって,ベンヤミンを縦糸に,ロジェ・カイヨワや宮沢賢治を横糸にして,新しい図柄を織り出そうと試みる。その手法にもまた,今福さん独特の「流儀」をみる。

最後に,わたしの「身体」を打った今福さんの文章を,一つのサンプルとしてここに引いておきたいと思います。

井上有一という書家ほど,「ことば」のミメーシスの運動に激しく体当たりすることで,この不可能性に立ち向かおうとした人物もほかにいませんでした。有一の書は,ひとことで言えば,書く手による,言語記号としての文字への叛乱行為です。文字を書きつづける運動性のなかに,幼年時代のベンヤミンのとらえたページの文字にだらりとかぶさる蜘蛛の巣を想像し直す道を見つけようとしていた。有一にあって,芸術と生活は必ずしも分離されていない,相互に折り重ねられた営みでした。だとしたら,「なめとこ山の熊」の全文模写をはじめたのは,かれが死を直覚したからだとも言えるかもしれません。ひたすら文字を書きつづける模倣的な営みによって,かれはみずからの生を終えようとしていたのでしょうか。そして字を書くミメティックな運動性を介して,有一の手と打ち震える指先は,生涯の最後に野生の動物的リアリティに触れようとしていたのではないでしょうか。

わたしの全身を打った極めの一撃は「生涯の最後に野生の動物的リアリティに触れようとしていたのでは・・・」に尽きる。もう一度繰り返します。「野生の動物的リアリティ」・・・・。このひとことから,わたしはこれまで何回も今福さんとともに参加させていただいたシンポジウムの折々に,熱く語られた今福さんの言説の数々を,いまごろになって鮮明に思い浮かべています。今福さんが,わたし個人に向けて,必死にメッセージを送りつづけてくださったことは,このひとことに尽きる,と。

この本を送ってくださった封書の宛て名書きは,今福さんの毛筆によるもので,体温がじかに伝わってくるような温かみのある文字でした。毛筆で書かれる文字こそまさに「身体性」そのものである,ということを通信手段の実践をとおして,これまたわたしに語りかけてくださっている・・・・。ありがたいことこの上もない・・・・と感謝あるのみ。

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2009-04-11 久しぶりに太極拳の稽古。

_ 気持ちが追い込まれていると,太極拳の稽古ができなくなる。時間はつくればいくらでもあるのに・・・・。

今日は,ほんとうに久しぶりに太極拳の稽古をした。ようやく,大きな山場を越えて,いくらか平坦路にさしかかってきたせいか,気持ちの上でずいぶんと楽になる。でも,太極拳の稽古をするには,相当にの気持ちの切り換えが必要だ。オーバーに言えば,ひとり稽古のときは,エイヤッ,と気合いを入れないとできない。

みずからに気合いを入れて稽古をはじめる。やはり,からだが喜んでいるのがわかる。気持ちはすぐに負けてしまうのに,からだは嘘を言わない。素直に喜びを露にする。こころはなにかと理屈をつけては逃げたがる。嘘つきである。自分自身に対してまでも嘘をつく。からだは動きはじめたら,もう,素直に喜ぶ。心配していた手のまわりの感じももとどおり。ありがたい。このあたりから気持ちも乗ってくる。やはり,からだが先だ。こころはあとからついてくる。坐禅でも,まずは,黙って坐れ,と教える。余分なことは考えるな,と。ただ,ひたすら坐っていればおのずからその先は開けてくる,と。

今日の気温は日中は24℃,湿度は40%。やや,暑いくらいだが,風はさらっとしている。太極拳をやるには最高。すぐに背中を汗が流れる。これまで溜まっていた余分な水分が細胞からしみ出ていくのが,なんとなくわかる。細胞自体も喜んでいる。その喜びは,その部分の細胞が「ポッと熱くなる」ことでわかる。背中でいうと,腰から徐々に上に上がっていく。その移動がわかる。快感である。自分のからだと対話をしているような気分。太股の筋肉などは,点から点へと移動するように「熱くなるポイント」がわかる。そして,これでもう完璧に準備OKというサインまでくれる。やはり,稽古は積むものだ。

24式の稽古の方はまだまだ下手くそなので,自分で「目線を優先させて,それにからだがついていくように」とか,「ここで股関節をゆるめる」とか,「手の平の力を抜いて」とか,一つひとつ言い聞かせながらやる。それに答えるようにからだが自然に動いてくれると嬉しい。だんだんとそうなりつつある。そのうちに,なにも考えないでからだが勝手に動くようになる,らしい。老師がそういうのだから間違いはないであろう。老師の動きをみているとそう思う。まるで,この世の人の動きではない。からだが嬉しくて嬉しくて仕方なくなって動いている,ということが見ていてわかる。

さあ,これからもう一段ギアを入れ換えて,本気で稽古に励もうと思う。このさきにどういう「からだ」が待っているのか,なんだか予測できるように思うから,元気もでてくる。これからは,とくに暖かくなるから,からだの怪我の方はあまり心配しなくてもすむ。だから,もっと安心だ。

と,ことばで書くのは簡単なんだが・・・・。ここでも「こころ」は嘘をついているのかもしれない。「こころ」はお調子ものだから,乗せるとすぐにいい方に嘘をつく。沈んでくると逃げる方に嘘をつく。つまり,「合理化」をする。なにかと理屈をつけては「逃げる」のだ。だから,「こころ」は合理化の名人である。からだは理性とはまったく無縁のところで,勝手に反応する。だから,正直なのだ。からだに嘘はつけない理由だ。

ということで,今夜はこれでおしまい。

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2009-04-12 『ミニマ・グラシア』が気になって。

_ 昨日も今日も,なにもしないで,ひたすら『身体としての書物』をめくっている。ひたすら,めくっている。

最初からとおして読むのではなく,ただ,ひたすら拾い読みを楽しんでいる。あっちへ飛び,こっちへ戻りという具合に。これがなんともいえない快感となって跳ね返ってくるのだから,この本は「すごい」と思う。もちろん,わたしの勝手な,一方的な評価ではあるが。

そんなことをして楽しんでいたら,突如として,「あっ」と気づくことがあった。ああ,この本は以前,今福さんから送ってもらった『ミニマ・グラシア』──歴史と希求(岩波書店)とリンクしている,と。あわてて,こちらの本をとりだしてきて,同じようにして,あっちをめくり,こっちをめくりしてページの間の自由気ままな放浪を楽しむ。

そこに入る前に,じつは,表紙の帯や表紙カバーの折り返しのなかに書かれているキャッチ・コピーに目が釘付けになる。以前も同じようなことがあった。が,こんどはいささか内容が違う。『身体としての書物』との連関のなかで,このコピーがまた別の色彩を帯びてわたしのなかに入ってくる。しかも,以前とは違った強度をともなって。

たとえば,以下のようなコピーからさまざまな連想が浮かんでくる。

私は,自分にとっておそらくもっとも倫理的な態度のもとに書き継がれてテクストを収めた本書で,自らの意思や欲望の饒舌な氾濫が沈黙とぶつかり合う真空のような領域にまで降りていった。私は重力が真空と触れ合うこの認識の狭い境域で,歴史を反歴史の水際から語ろうとしたのである。

ひとつは,「もっとも倫理的な態度」とはどういうことか。ここでいう倫理とは学校でいう倫理・道徳とも,医の倫理とも違う,別の意味であるはずだ。言ってしまえば,みずからが信じてやまない思想・哲学に照らし合わせて「もっとも倫理的な態度」を貫くことを意味しているはずだ。だとすれば,これこそが「批評」のよって立つ基盤となる。おそらく『ブラジルのホモ・ルーデンス』──サッカー批評原論,の立場も同じだ。わたしたちは,いかに「倫理的態度」というものを避けているか,あるいは,軽視しているかして,安易な「評論」(コメント)に流れて行ってしまう。その方がどれだけ楽なことか。

もうひとつは,「自らの意思や欲望の饒舌な氾濫」が「沈黙とぶつかり合う真空のような領域」にまで降りていく,ということはどういうことなのか。われわれは現代という時代・社会のなかに生をうけている以上,どうしても「意思や欲望の氾濫」のなかに身を委ねざるをえない。思考もまたこの現実と無縁ではない。言ってみれば,世俗の思考を,限りなく世俗から切り離しながら,世俗の淵まで「降りて」いくと,そのさきには「沈黙とぶつかり合う真空のような領域」が待ち受けている,と今福さんは言う。仮に,世俗が地球であり,生命が躍動する場であるとすれば,「沈黙」や「真空」のような「領域」とは,神が想定される宇宙であり,死の世界,と読み解くことができる。つまり,世俗と神,地球と宇宙,生と死,というものの境界領域であり,そここそが「歴史」と「反歴史」の「水際」(汀・渚)ということになろう。

ここまで「降りて」いくことによって,初めて,一歩もあとには引けない,ぎりぎりの「エッジ」に立つ思考が展開する,ここに「批評」の立ち位置が存在する,と今福さんは考えているのだろう。「インスクライブ」とはこういうことを意味しているのだ。

こんな発想がつぎからつぎへと湧きだしてくる。こうした発想を前提にして,ページの渉猟がはじまる。それはそれは楽しいこと限りなしなのだ。至福のときそのものだ。これこそが,今福さんのおっしゃる「ミニマ・グラシア」(最小限の恩寵)そのものでもあるのだ。こういう「出会い」を無限に開いてくれるかぎり,もう,なにもかも忘れて夢中になって「ページめくり」遊びがつづく。

最後に,表紙カバーの折り込みの内側にあるコピーを紹介しておこう。

生きることが,他のなにものかに集約されることであってはならない──。全体調和の歴史を打破するための支えはどこにあるのか。権力者の歴史的時空を切り裂いて溢れだそうとする未発の世界の尖端で,時は,身体は,そして記憶はいかなる像を結ぼうとしているのだろうか。

こういう文章に接すると,またまた,戸井田道三の『能芸論』を思い出してしまう。戸井田さんが声を大にして書き残した決めゼリフ「人びとを抑圧するような能面を人びとの顔から引っぱがし,コッパミジンに粉砕したい」と。まさに,1948年の敗戦後の荒廃した日本の情況に直面しながらの戸井田さんの絶叫のように聞こえる。

まだまだ書きたいことはあるのだが,持ち時間がきてしまった。今夜はこの辺で。お休みなさい。

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2009-04-13 「へたうま」ということについて。

_ 中学時代の同級生から,珍しく電話が入ってきて,「へたうま」ということについて意見を聞かせてくれ,という。

そのかれは,長い間,デザイナーの仕事をしていたが,大きな病気をしてから引退して,いまは,野鳥の絵を描いている。同好の士が集まって,年に一回は銀座の画廊で「仲間展」をやっている。その仲間たちの間で,「へたうま」ということが話題になり,自分とは意見が違っていたので,お前の意見はどうか,という次第。

もとより,アートの世界で頑張っている人に意見を述べるほどの考えがあるわけではないが,親しい友人なので,わたしの頭に浮かんでくることについて話をした。しかし,どうも電話というものが苦手なので,うまく伝わったかどうかは心もとない。そこで,もう一度,頭のなかを整理してみたいと思い立ち,このブログを書くことにした。

その友人の言うには,「へたうま」というものはない,「へた」なものはへた,「うまい」ものはうまい,と考えている。だから,世間でいう「へたうま」というのは「うまい」ということ以外のなにものでもない,という。しかし,その仲間の人たちの言うには,二通りあって,ひとつは,「本当はうまいのだけれども,わざとへたに描くこと」を言うというもの,もうひとつは「本当はへただけれども,うまく見えてしまうこと」を言うというものである。この二つの意見が主流で,わたしの友人の意見である「へたうま」は「うまい」の別の表現である,というのは少数意見だというのである。

この話を聞きながら,わたしの頭のなかには,武者小路実篤の書画や井上有一の書や良寛さんの「天上大風」の書,などが去来していた。だから,わたしは即座に友人の意見に賛成した。

もうひとつ,わたしの頭のなかに浮かんでいたことは,プロの歌手が「からおけ」に行って歌うといい点数がとれない,という話(これはほとんどプロ級の歌手から聞いた話)。細川たかしなどはまったく点数がでないそうである。なぜなら,音程が微妙にはずれているので,機械で測定すると「へた」の部類に分類されてしまうという。しかし,多くの人のこころを打つ歌手であることは説明の余地もない。

どうも,「へたうま」というのはわれわれ俗人の言うことであって,本当のプロのアーティストたちは「へたうま」などということは考えてもいないのではないか,とわたしは思う。武者小路実篤の色紙に描かれる書画は,わたしの中学時代の印象では「へた」だと思っていた。しかし,いつ見ても飽かないのである。そして,見慣れるにつれて「味わい」がわかってくるのである。さらに後年になって,あの書画はだれにも真似はできない,そういう境地に立つ書画なのだ,ということを知る。つまりは,武者小路実篤は,いつも一心不乱にあの書画を描いているのである。だから,そのハートのようなものがあの書画をとおして伝わってくるのだ。技巧が「うまい」か「へた」かではないのである。少なくともかれの書については「うまい」とは思えない。しかし,書家に言わせると,あの書は書けません,という。つまり,武者小路実篤という人のこころとからだの総和が,あの人の目と手をとおして表出してくるのであって,そこに一点の曇りもない。そのとき,そのときの瞬間の手の震えに目が応答し(快感をともないつつ),つぎの筆使いが無意識のうちに決まっていく。それが武者小路実篤の書である,といまのわたしは考える。

良寛さんの「天上大風」という書は,わたしの中学時代の教科書に載っていたのでよく覚えているが,この書もまた,最初に見たときは「子どものような書だ」とわたしは思った。しかし,何回も眺めているうちに,なんとなく「心地よい」のである。そして,ついには書道の時間に真似をしてみる。書けないのである。まったく手の届かない,とんでもない書であることを知る。のちに,高校時代に日展の常連の入選作家だった書道の先生の授業のときに,この「天上大風」という書の由来を聞いて,びっくり仰天した記憶がある。そして,良寛さんの書がどれほどのものか,という先生の解説を聞きながら良寛さんの傑作と言われる書をみせていただいた。どの書も,全部,自由奔放なのである。なにものにもとらわれない,そのときどきのこころとからだの赴くままに,目と手に遊ばせている。なにより驚いたのは,良寛さんの書いた「般若心経」の写経である。一つひとつの文字をみると,けして「うまい」とは言えない。あっちを向き,こっちを向き,一つひとつの文字が自己主張をしているような,なんとも,へんてこな字なのである。しかし,驚くべきことに,この写経は2回繰り返されて書かれている。そして,最初の写経のはじまりの文字と,2回目の写経のはじまりの文字とを比べてみると,ほとんど寸分の違いもないのである。つまり,一回目の写経と二回目の写経との間に,こころもからだもなんの変化も起きてはいないのである。まさに「明鏡止水」の境地に到達したところでの書である,ということがわかる。まさに「無心」そのものなのである。それがわかってから,もう一度,「天上大風」という書をみる。じっとみる。もう,なんとも言えない澄みきった風がそこに吹いているではないか。つまり,良寛さんのこころとからだと風が一体化したところでしか不可能と思われる書なのである。しかし,この書は,素人さんがみたら(名前を伏せて),「へただ」と言うだろう。ところが書のなんたるものかがわかる人にとっては,とんでもない「傑作中の傑作」となる。

もっとわかりやすいのは,井上有一の書だろう。極端にいえば,もう,これ以上に壊れた書はないだろう,と言われるほどに壊れている。たとえば,「龍」という文字を書いた書がある。太い筆で,にゅるにゅるとのたくっているだけで文字の体をなしていない。しかも,大半の部分は紙からはみ出してしまっている。こんな書ならだれでも書けると思うだろう。しかし,そうはいかない。この「龍」という作品をよくよく眺めていると,だんだんに「龍」にみえてきてしまうのだ。井上有一は,もはや「龍」という文字を書こうとはしていない。「龍」そのものを描いているのである。かれの頭のなかでは,文字としての「龍」と,架空の動物である「龍」とが一体化してしまい,そこにかれのからだが同調して,かれの書が誕生する。それはもはや井上有一でしか不可能な世界の表出である。かれの書いた本を読むと,子どもたちが運動場で飛び回って遊んでいる姿が「書」にみえてきた,という。そして,それをそのまま筆写したという。

こういう人たちの書を,もし,「へたうま」というのであれば,わたしは即座に「それは違う」「うまいのだ」と言うだろう。もう,書にしろ,絵画にしろ,その世界を突き抜けてしまった人たちにとっては「うまい」とか「へか」とかはどうでもいいのである。それぞれのアーティストの心象風景がそのままほとばしりでる(あるいは,溢れ出る),それだけのことなのである。それがいいか悪いかなどは考えてもいない。ただ,ひたすら,こんこんと湧き出てくる泉水のように,それをありのまま(イメージのまま),無心になって目と手が反応し,「表現」しているだけの話なのである。

このことは,わたしのような,だれも考えないようなことを考えつづけ,それを文章にしようなどということが,止められない人間にとっても同じことだ。そのように反応してしまうのだから仕方がない。

結論。「へたうま」などということはありえない。「へた」と「うまい」と分けることすら不要である。どこまで深く沈潜し,「真空」のような世界と接触(交信)するか,あるいは,せざるをえないか,そこから得られる「なにか」(etwas)を表出すること,ただ,それだけ。

いつのまにやら生意気なことを書いている。

だれだ,こんなことをわたしに言わせる(書かせる)奴は。

だれかがわたしの背中を押している。

これには抗うことすらできない,絶対的ななにかが。

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2009-04-14 『ブラジルのホモ・ルーデンス』に触れる。

_ 『身体としての書物』を読んでいたら,こんどは『ブラジルのホモ・ルーデンス』が気になってきて,眺めまわしている。

今福さんの本は,まずは,「身体」として受け止めなくてはならない,としみじみと思う。となれば,まず最初に目に飛び込んでくる表紙に注目しなければなるまい。初めて手にとったときも「おやっ?」と思ったのであるが,そのときは,「サッカーの本だから下半身の写真だなぁ」と思い,それにしてもこの雑踏のなかに佇む人たちの下半身を表紙にするのは,なにか企みがあってのことだろう,と考えた。が,今回,もう一度,こんどはしっかりと目をこらして眺めてみる。この写真を撮った人は,扉によれば,森山大道(ブラジル・サンパウロ)とあるだけで,写真の説明はどこにもない。なにかを待っている人もいれば,歩いている人もいる。サッカー場の入り口で入場を待つ人びとの群れなのかな,と考える。しかし,なぜか,ここに写っている人びとは,どうみても女性ばかりである。だとしたら,わたしの予測は間違いだ。では,カメラマンはどういう女性たちの下半身を撮り,それを「サッカー批評原論」というサブ・タイトルのつく批評本の表紙に用いようと今福さんは考えたのだろうか。この謎解きをしなくてはなるまい。

サッカーと「足」の関係,そして,人間の「下半身」のもつ意味,などについてはこの本の30ページ以後に,かなりのこだわりを含みつつ,詳細な言説がつづく。とりわけ目を引くのは,山口昌男の書いた「足からみた世界」という論考に,今福さんがかなりの思い入れを籠めていることだ。そして,つぎのように言う。

山口は,アフリカやインドネシアの部族社会における足の文化的象徴性,サーカスにおけるフリークスの芸,バスター・キートンの身振り,日本の民俗芸能における足を踏む「○○(へんばい)」と呼ばれる独特のポーズ,歌舞伎の身体所作といったさまざまな事例を引きながら,足という身体器官が,秩序に対する混沌,構造に対するエントロピー,論理に対するエロス,文化に対する自然を象徴し,そのことによって人間文化の制度のなかで抑圧され・差別されつつも,よりトータルな宇宙的全体性に人間が到達するための潜在的な媒体となってきたことを説得的に示した。

と述べた上で,今福さんは自説を展開する。そのさわりの部分は以下のようである。

私の言葉で言えば,足は人間社会の歴史を通じて生じた無数の制度的「分節」のプロセスを,始まりに向けて「リセット」することのできる,ほとんど唯一の身体器官である。文化の分節化(アーティキュレーション)の動きとは,いわば人間社会をより複雑かつ合理的・体系的に機能させようとする多くの日常制度をつくり出してきた原動力であるが,そうして生まれた言語や法律,管理機構や教育制度といったものは,分節化になじまないさまざまな人間的能力(足,感情,本能といったもの)を過小評価し,あるいは抑圧するかたちで働くことになった。だが逆に言えば,近代的分節の過程を邁進した社会は,その構造的な欠陥を「更新」しうる「リセット」の機能を,どこかに置き忘れてきてしまったのである。

ここまで読み込んでみると,なるほど,男性の下半身ではなくて女性の下半身を表紙にもってきたことの意味がみえてくる。本文のなかで,今福さんはひとこともそのことには触れていないが,近代社会のなかで,もっとも抑圧され,差別されてきたのは紛れもなく女性の下半身そのものだったのである。そして,ついには,近代社会が機能不全にまで陥りつつあるいまこそ,女性の復権が叫ばれ,もっとも抑圧されてきた女性の下半身の解放こそが求められる時代に到達した,とわたしは考える。つまり,女性の下半身こそが制度や秩序に対してもっとも直截的な氾濫の糸口となりうるのだ,と。近代という時代の根源に横たわり,人びとを抑圧しつづけた「理性」という名の仮面を,人びとの顔から引っぱがし,コッパミジンに粉砕したい,そして,そのあとに浮かび上がってくる人びとの顔を,こころをときめかして待っている,と戸井田道三なら言ったかもしれない。

そのための表象として,表紙カバーの写真は,なにがなんでも女性の下半身でなくてはならなかったのだ,とわたしは考える。この雑踏のなかに屯している女性たちの下半身の隠喩は,まだまだ他にもありそうだ。だれか,わたしとは違う,別の隠喩を読み取った人がいたら教えてほしい。

表紙の「身体」を考えるだけで,今夜は時間がきてしまった。わたしがこのブログを書く時間は1時間と決めている。いま,わたしの中にうごめいているこの本の「感触」については,またの機会にゆずることにする。とりあえず,今夜はここまで。お休み。

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2009-04-15 IOCの評価委員のやるべき仕事。

_ 今日の朝刊に,IOCの評価委員会のメンバーが来日。明日から4日間,東京都の説明と,会場予定地の視察をするという。

そして,この評価委員会の作成する調査結果報告書が,最終決定の投票行動に大きな影響をおよぼす,という。だから,開催の名乗りをあげている都市(シカゴ,東京,リオデジャネイロ,マドリードの4都市)は必死になってプレゼンテーションを行い,会場予定地のすぐれていくことをアピールする。それだけではない。目立たないところでの,必死の接待とお土産攻勢である。これが馬鹿にならない金額に達していることは,すでに周知の事実である。

08年のオリンピック招致に失敗した大阪府の話も,わたしは直接,一部の関係者(担当者)から聞いた。というのは,わたしも大阪にオリンピックを招致するためのイベントの一つであった「民族スポーツ・フェスティバル」なるプログラムに3年間,つづけて参加した経験をもっていて,その担当者たちから失敗した理由なるものを聞かされていたからである。かれらの多くが語っていたのは,表向きの理由もさることながら,裏交渉が下手だった,というもので,そこには愚痴が半分入っていたとしても,ホンネに聞こえた。裏交渉とはなにか。いわずもがなのことである。

このIOCの評価委員会の調査書なるものは,いくつかのチェック項目が統一されていて,それらの一つひとつに「点数」をつけ,その理由を記入するようになっている。この調査書が基本資料としてIOC委員に配布され,最後は投票で決まる。だから,投票権をもっているIODC委員をどれだけ多く説得するか,という「裏交渉」なるものが密かに展開されることになる。そこに,摩訶不思議な仕掛けが用意されていることは,想像に難くない。しかし,これらはすべて闇(藪)のなかの話。

だから,このシステムに,わたしは大きな疑問をいだいている。そこには二つの「暴力」装置が隠されているからだ。一つは,このようなシステムを考案して,決定した人たちのもつ「暴力」であり,もう一つは,このようなシステムを維持していこうとする人たちのもつ「暴力」である。これらが「暴力」装置として機能するときには,必ず,そこに「倫理的な諸関係」(さまざまな憶測や疑惑)が生まれるからだ。それを承知で,いまも,それをつづけていること,そのことの矛盾を投票権をもつ委員たちが知らないはずはない。でも,みんな「頬被り」をして「知らぬ勘兵衛」を決め込んでいる。この厚顔無恥なる人びとに,オリンピック招致の決定権が握られているのである。

わたしは,この情況から脱出するために,つぎのように提案したい。IOCの評価委員会は,各都市の準備情況を厳密に調査して,その都市がオリンピックを開催するだけの準備が整っているかどうか,だけを報告書にまとめればいい。つまり,合否だけを決めればいい。要するに,無事にオリンピックを開催する能力をもっているかどうかだけをチェックすればいい。あとは,オリンピック開催能力をもつと判断された都市の間で「抽選」をすればいい。

そうすれば,「倫理的な諸関係」が発生する心配はない。

のみならず,途上国の都市にあっても,基本的要件を満たせば,オリンピック招致に手を挙げることができるようになる。現行のシステムでは,まず,半永久的に不可能である。だから,いつも,文明先進国の都市の間での招致合戦でしかなくなってしまう。途上国はここでも排除・抑圧されることになる。もう,そろそろこの悪循環から脱出するための決心と工夫が必要ではないか。

とまあ,こんなところ。

それにしても東京都民はほんとうにオリンピック招致を望んでいるのだろうか。相変わらず,賛成は少ない,とも聞いている。なんだか,石原君の悪政の隠れ蓑に使われているのではないか,とわたしなどは勘繰ってしまう。

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2009-04-16 李自力著『日中太極拳交流史』刊行。

_ 少し遅れていた李自力老師の『日中太極拳交流史』(叢文社)が刊行され,今日,わたしの手元にとどきました。

ちょっと遅すぎるなぁ,といらいらしていましたが,ようやく今日,李さんと出版社の佐藤さんが事務所に現れ,本をとどけてくれました。李さんにお願いをして,サインをしてもらい,ありがたく頂戴しました。

この本には,わたしなりに思い入れがあり,できたてのホヤホヤの本を手にして,感慨無量なるものがありました。李さんもよく頑張りましたが,わたしも負けずに応援をしました。なんとしても,単行本にして世に送り出したいという強い願いがあり,そこに送達するまでに長い道程がありました。でも,李さんもよく頑張って,よくぞここまできたなぁ,と感心しています。やはり,太極拳の名手としてこんにちの地位を築いた人だけあって,これまでにいくつもの困難なハードルがありましたが,黙って耐え忍びながら,それらのハードルを一つずつクリアして,ここまでたどりつくことができました。文武両道に秀でる人というのは,そんなには多くないと思いますが,李さんはそれをもみごとにクリアする,素晴らしい人であるということが,この本の刊行によって実証されました。

考えてみれば,ここに到達するまでに,わたしは随分と李さんに難しい注文をいくつか出しました。それらについて,なに一つ,愚痴をこぼすこともなく,ただ黙ってそれをクリアすることに専念していました。この人はいったい何者だろうか,とすら思っていました。なぜなら,わたしが了解している李自力という人物とは,とても考えられないような次元の事態がしばしば起こっていても,かれは平然としているわけです。そして,少しも騒がず,なんとかなります,と平然としています。大丈夫かなぁ,とわたしが心配していても,どうということもありません。なのに,事態はいつのまにやら平穏に収まっているから不思議です。この人の懐の深さはちょっと推測しかねてしまいます。

今日は,とても,李さんの気持ちが開いていたというべきか,これまでに聞いたこともない話をたくさんしてくれました。

たとえば,陸上競技は得意で,こどものころから大活躍をしたことがあるとか。知る人は知っていてくれると思いますが,李さんは,こどものとき(12歳)から太極拳のプロとして生活していた人です。ですから,ふつうの子どもたちのように学校生活を送っていません。でも,プロとしての活動をしながら,地元の中学(昆明第一中学校)に通います。ですから,太極拳のプロとして同級生たちは認めています。が,駆けっこになると,中学の陸上部の選手たちに負けてはいなかったとのこと。とくに,短距離のリレーや幅跳び,そして110mハードル(この種目はとくに好きだったとのこと),3000mも得意種目だった・・・・とか,つぎからつぎへといろいろの話がでてきます。これまで随分長い付き合いだったのに,こういう話は,今日が初めてでした。要するに,スポーツ万能の選手だったということが,今日,初めてわかりました。のみならず,勉強の方もとてもよくできたらしく,自分のことは棚に上げておいて,なにも語らないのですが,同級生の思い出話を聞きながら,そのことがよくわかりました。同級生の多くが,いい大学に進学して,いまも立派になっているけれども,李さんも負けてはいなかったことが節々にでてきます。いまや,中国全体でいえば,李さんがダントツに有名人になっているわけですので,それも当然かと思います。

自分の好きな道,得意な道を,早く見つけられた人は幸せだと思います。李さんはその典型的な例の一人だろうと想像しています。いや,いまでは,まぎれもなくそういう人である,とわたしは確信しています。

こういう大変な人と出会えたことが,わたしの大事な財産です。これから,この人とどのようなお付き合いができるかなぁ,と楽しみにしているところです。

李さん,今日はほんとうにおめでとうございます。お酒が呑める人であれば,一緒に乾杯したいところですが・・・・,残念。

でも,かならず出版記念パーティをわたしの事務所でやりましょうね。そして,もっともっと,いろいろのお話を聞かせてください。楽しみにしています。

李さん,いや,李老師,今回の出版,おめでとうございます。

こうなったら,つぎの著作に進みましょうね。楽しみにしています。

李老師,まずは,おめでとうございました。

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2009-04-19 3回目の合評会を終えて。

_ 昨日(18日)の4月名古屋月例会で,今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』の合評会も,3回目を迎えた。

さすがに,3回目ともなると議論もなかなか深くなってきて,楽しいこと限りなしだ。と同時に,しっかり読んで準備してきた人とそうでない人との議論のレベルの差も歴然としてきて,これまたきびしいものだなぁ,と思った。このようにして議論が進化していくことを目の当たりにするのも,こういう研究会の醍醐味の一つと言うべきだろう。そして,勉強することの本当の意味が,みんなの共通理解となることを祈るのみだ。

ここに書き留めておきたい議論はいくつもあるが,そのうちの強烈な印象を残した議論の一部を,いまになって多少の補足をしながら紹介してみると,以下のとおりである。

プレゼンテーターが,今福の議論のうち重要なことは「水際」の問題こそが中核をなしている,と指摘したのに対して,フロアからは,「水際」の議論はあくまでも周縁の議論であって中核にはならない,という反論があった。しかし,こんなレベルで議論が壊されてしまっては困るので,わたしとしては,あえてフロアの反論に対して異議申し立てをすることになった。今福さんのいう「水際」中核論は,プレゼンテーターの指摘したとおりである,と。なぜなら,「水際」は「みぎわ」であり,今福さんの言う「汀」(なぎさ=みぎわ)と同義であるからだ。今福さんの『スポーツの汀』(紀伊国屋書店,1997年)という本は,まさに,スポーツの「汀」(「水際」)にこそスポーツの本質的な問題が潜んでいることを洗い出している。このことを想起すれば,今福さんが「水際」(「汀」)を議論の中核に据えていることは明らかであろう。もっと追加しておけば,『ミニマ・グラシア』(岩波書店,2008年刊)もまた,まったく同じ視座に立つ論考である。ミニマ・グラシアとは「最小限の恩寵」であり,ここでの今福さんのスタンスも「恩寵」の中核にではなくて,「恩寵」の周縁,すなわち「最小限」にこそ論考の「中核」をセットすべきであることを主張している。ことのついでに,もっと言っておけば,今福さんの初期の著書である『荒野のロマネスク』(岩波現代文庫)もまた,アカデミズムのモノグラフ主義(原著論文主義)に対する徹底したアゲインストであることは,みごとというほかはない。

今福さんの議論は,サッカーを批評する場合でも,理性を擁護するのではなくて,人間の野生の側に立って,人間のもつあらゆる感覚を総動員する「身体性」を擁護する方向に向かう。それが,今福さんの議論の「中核」になっていることは繰り返すまでもない。

こういうところをきちんと押さえておかないと,このテクストの,それこそ「中核」に位置づくテーマである「陶酔論」を,ツボをはずさないで読解することはほとんど不可能に近い。なぜなら,「陶酔」=「エクスタシー」の問題こそ,形而上学的な哲学のテーマとしては周縁に位置づけられるもの,すなわち「水際」(「汀」)のテーマでしかない。しかし,今福さんは,その「水際」(「汀」)こそが「中核」となるテーマだと主張してはばからない。ついでに触れておけば,このエクスタシーの問題を今福さんはW.ベンヤミンの『陶酔論』を援用しながら展開していくが,わたしならジョルジュ・バタイユの思想・哲学の中核となる概念「エクスターズ」を援用するだろう。で,このバタイユの思想・哲学こそが,形而上学に対して徹底的にアゲインストする姿勢を貫いたものであることを想起してみれば,ここからも「水際」の思考が「中核」になっていることがわかってくる。

いささか「水際」中核論にこだわりすぎたかもしれない。しかし,今福さんの論考を理解するためには,この問題は避けてとおるわけにはいかないので,あえて,ここに書きつけることにした。

その他の議論は,また,いずれ。

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2009-04-22 もう一度「水際」の話。

_ 今福さんの発想の原点は「水際」にあるということについて,もう一度,確認しておきたい。

「水際」を「みずぎわ」と読むか,「みぎわ」と読むか,いずれにしても「汀」も「渚」も「なぎさ」と「みぎわ」の両方の読みがあって,ここが今福さんの発想の原点になっていることについては,すでに,このブログで述べたとおりである。

こんなことを考えていたら,そういえば『ミニマ・グラシア』の帯にも「水際」から考えようとした,というコピーがあることを思い出した。しかも,このコピーについては,その後,さらに考えを深めていってそこから得られたものをみずからの思考の糧とすべく,3種類の図式に描いて比較考察したものがノートに残っている。その図式をここに書き表すことができれば手っとり早いのであるが,その方法を知らないので,語りことばで可能なところまで説明してみたいと思う。

そこで,まずは,その手がかりとなった表紙・帯の「コピー」を引用しておこう。

私は,自分にとっておそらくもっとも倫理的な態度のもとに書き継がれたテクストを収めた本書で,自らの意思や欲望の饒舌な氾濫が沈黙とぶつかり合う真空のような領域にまで降りていった。私は重力が真空と触れ合うこの認識の狭い領域で,歴史を反歴史の水際から語ろうとしたのである。

このコピーの意味するところについての簡単な解説も,すでに,このブログのなかで書いているので,それらを省略してまっすぐに「中核」の問題に入っていこうと思う。

「降りていった」とあるので,「真空のような領域」は下の方にあるものと考えよう。そうなると,「自らの意思や欲望の饒舌な氾濫」は上の方にあるということになる。しかも,この上の方にあると思われる「饒舌な氾濫」とは,「意思や欲望」の渦巻く世俗の世界,すなわち,わたしたちの日常生活の場を意味することは言うまでもないだろう。だとすれば,日常生活の場は「意思や欲望の饒舌な氾濫」の場であって,そこから下の方に「降りて」いくと「沈黙」とぶつかり合う「真空のような領域」がある,ということになる。このイメージはわたしのことばに置き換えれば,世俗の喧騒を離れ坐禅に打ち込むと次第に「意思や欲望の饒舌な氾濫」が消えていき,やがて「沈黙」と向き合うことになる。もっとも,この「沈黙」とぶつかり合うまでには無意識が騒ぎだし,わけのわからない理不尽な妄想にとらわれることも起こる。ここをなんとか無事に通過したさきに「沈黙」が待ち受けている。この「沈黙」と向き合ったとき,わたしの場合には「無」という世界が存在することを知る。それは,今福さんのことばでいえば「真空のような領域」とほとんど同じであろうと,わたしは考える。

ここまで「降りて」いってものごとを考える,この態度こそ今福さんの言う「自分にとっておそらくもっとも倫理的な態度」ではないか,とわたしは考える。「倫理的な態度」とは,こういうことなのだ,とわたしは固く信じている。だから,わたしはそんなに簡単に「倫理」ということばを使えない。「倫理」ということばを用いるときには相当の覚悟が必要なのだ。

こうしたことを,まずは,前提とした上で,後半のセンテンスをもう一度読んでみる。

私は重力が真空と触れ合うこの認識の狭い領域で,歴史を反歴史の水際から語ろうとしたのである。

「重力と真空と触れ合う」とは,さきのわたしのことばに置き直せば,世俗と無の世界とが触れ合うと同義となり,「この認識の狭い領域」とは,まさに,世俗と無の世界との「水際」(「汀」「渚」)のことである,とわたしは考える。そして,その上で,さらに「歴史を反歴史の水際から語ろう」としている今福さんの態度が浮かび上がってくる。この態度こそ,もっとも「倫理的な態度」であり,「反歴史の水際」に立って「歴史」を語ろうとすることの重大な決意表明をそこに読み取ることができる。

もっと言ってしまえば,「歴史」の「中心」に立って「歴史」を批判すること自体が論理矛盾であることを思えば,「反歴史の水際」に立つ以外に,「歴史」を批評することは不可能ということになる。だからこそ,今福さんにとっては「水際」に立つことこそが議論の「中核」をなしているのである。

ここまでで,このブログでわたしが語ろうと思ったことのおおまかなスケッチは終わりである。しかし,この「コピー」に触発されてわたしが考えたことがらは,もっともっと遠大なものである。そのキー概念的なことだけを書き記しておけば,以下のようである。

「水際」とは,重力と真空,すなわち,重力をこの世の「三次元の世界」ととらえ,真空を宇宙の「四次元世界」ととらえ,その「水際」とする考えから生まれる大きなコスモロジー的な発想が一つ可能となること。というような具合に,重力と真空を,他のことばに置き換えてみる。たとえば,「地球と宇宙」「文明と自然」「理性と野生」「歴史と反歴史」「文明化社会と未開社会」という具合に。そして,そこでの「中核」となる発想は,これら両者の「水際」に立つことである。

なぜ,わたしがこのようなことを考えるのか。それは,おそらくは今福さんの発想の原点に「二項対立」を超克するための新たな思考方法を模索する,というきわめて重大な問題意識がある,とわたしが考えるからだ。つまり,ヨーロッパ近代の生み出した「二項対立」の思考パターンが破綻をきたし,そこからの出口が見つからないまま,こんにちの混迷した社会が現出していることは周知のとおりである。そこから脱出すること。すなわち,ヨーロッパ近代の論理から「離脱」し,「移動」すること。21世紀スポーツ文化を考えるための拠点は,今福さんのいう「水際」(「汀」「渚」)に立ち,水中と陸地の淡いに身をゆだねつつ,あらたな思考を立ち上げることにある,と考える。

わたしが「正義」で,お前は「テロリスト」だ,というような単純な二項対立の思考パターンが,いかに不毛なものであることか。

スポーツのルールを,この「水際」と名づけられる認識の地平にまで「降りて」いって,可能なかぎり「倫理」的に考えてみたいと「希求」する。

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2009-04-24 ベンヤミンがバタイユに託した最終稿。

_ 今福さんの『身体としての書物』を,時間をみつけては読み継いでいる。この本もまた,わたしの脳細胞を,とことんまでかき回してくれる恐ろしい本である。

その中から一つの話題を提供したい。

それは,ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」という草稿をめぐる逸話である。

ベンヤミンはこの「1900年頃のベルリンの幼年時代」という草稿にはことのほか思い入れが強く,ことあるごとに推敲を重ね,推敲するごとに友人たちにその草稿を委託してきたのだという。なぜなら,ベンヤミンは,いつ,ナチスに捕らえられて処刑されてしまうかわからないという不安の逃亡生活を送っていたからである。

パリに逃れていたベンヤミンは,パリでも危険を感ずるようになり,ついに,スペイン経由でアメリカに亡命する計画を立てる。その直前の,1940年6月,ベンヤミンは,仲良くしていたジョルジュ・バタイユに「1900年頃のベルリンの幼年時代」の最終稿を委託する。その直後に,スペイン国境でベンヤミンは自死する。したがって,この最終稿は,ある意味でベンヤミンの遺書と言ってよいだろう。

これを受け取ったバタイユは,その当時,パリの国立図書館の館長をつとめていた。そのバタイユが,ベンヤミンの最終稿を図書館のなかに隠し,だれにも口外することなく,そのまま死んでしまう。したがって,そのような最終稿があったということすら,だれも知らないでいた。ところが,1981年になって,パリの国立図書館で偶然発見される。ベンヤミンの死後,40年以上も経過している。

なぜ,バタイユはベンヤミンの最終稿を図書館のなかに隠したのだろうか。ここからは今福さんの解釈である。

バタイユは,ベンヤミンの草稿(最終稿)があることを,まるで忘れてしまったかのようにして,だれにも告げることなく死んでいく方法を意図的に選んだのではないか,と。なぜなら,ベンヤミンの最終稿があるということになれば,その草稿がどのような取り扱いを受けるかわかったものではないからだ。だから,だれにも知られることなく,図書館の片隅に隠したままにしておけば,もっとも安全で,しかも,いつかは,だれかによって「発見」されるだろう。それが,つぎの世代にベンヤミンの草稿を伝えていく,もっとも確実な方法である,とバタイユは考えたのだろう,と。もし,この推測が当たっているとしたら,バタイユという人もまた,なんとすごいことを考える人なのだろうと思う。

こうして「発見」されたベンヤミンの最終稿は,日本でもすぐに紹介された。野村修訳の『暴力批判論』の最後のところに,この最終稿が収められている。しかし,残念なことに「抄訳」である。その後,『ベンヤミン・コレクション3』(浅井健二郎編訳,ちくま学芸文庫,1997年)で「全訳」として紹介されているが,最終稿とそれ以前の草稿とが,詳細に訳し分けられていて,読解するにはかなりの忍耐力を要するという。

今福さんの希望は,この「1900年頃のベルリンの幼年時代」の最終稿を一冊の単行本として,定本として翻訳してほしい,というものである。ドイツでは,2006年に,手軽な文庫本として刊行されているという。ベンヤミンのきわめて難解といわれる哲学を,この本ほどわかりやすく説いたものはほかにはないのだろう。わたしも以前に読んでいるが,そのいくつかはいまも記憶に残っている。

このような経緯を知ると,また,読みたくなってくる。また,読まなくてはならないだろう。そういう意欲をかき立ててくれるのが,今福さんの『身体としての書物』という本なのである。

今回は,ベンヤミンを取り上げたが(ベンヤミンだけで4章にわたって記述されている),その他にも,宮沢賢治やボルヘスや,そして,わたしの好きな井上有一の書が取り上げられている。なんともはや,魅力的な「書物」ではある。ここまでで,時間切れ。

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2009-04-25 スポーツ中継で気になることば。

_ 今日の朝日の「声」蘭に「スポーツ中継で気になることば」という投書が載っている。この人の感性を大切にしたい。

短いから全文,転記しておこう。

「サムライ」「なでしこ」などはともかくスポーツ中継で気になるのは,メジャーリーグに行った日本人選手を取り上げるとき,「日本人対決」とあおることだ。

選手たちは,日本人選手との対決を楽しみに海外に渡ったわけではない。われわれだって,そんなことを楽しみしているとは思えない。

さらに野球やサッカーで決勝点を挙げるとアナウンサーが「この男がやってくれた」と絶叫する。女性の場合「この女がやってくれました」とは言わない。この気色悪い一体感は何なのだろう。

というものだ。さて,みなさんはどのようにこの投書を読むのだろう。この投書を書いた人は愛知県春日井市の64歳の女性である。

この投書の決めことばは「この気色悪い一体感」にある。しかし,「気色悪い」と思っているのは,おそらく間違いなく,わたしも含めて少数派なのだろうと思う。多くの人びとは「心地よい」と感じているのだろう。だから,アナウンサーは,ことばを選んでこういうことばを絶叫する。そうすれば,視聴率を稼げると考えているからだ。もし,アナウンサーが無意識のうちにこられのことばを絶叫しているとしたら,これはこれでまた大きな問題が内包されている,と言わねばなるまい。

このご時世に,つまりは,21世紀を生きるわれわれに向かって,「サムライ」ジャパンなどということばをわざわざ創り出して,マスコミに垂れ流すことの意味はなにか。その答えは簡単だろう。そう,その「だれかさん」なのである。そして,多くの人びとは無批判にそのことばを受け止め,無意識のうちに「快感」を感じているとしたら,それこそ「だれかさん」の思うツボである。

「なでしこ」も同様である。第一,女子サッカーの選手たちが「なでしこ」では国際大会では勝てない。にもかかわらず,「なでしこ」とネーミングするにはそれなりに理由のあることだ。そう,その「だれかさん」が企んでいるのだ。

この二つのことばは,逆に考えてみれば,こんにちの男性,女性の姿の「裏返し」にもみえてくる。つまり,男性があまりに「弱く」なり,女性があまりに「強く」なってしまったからだ。町中を歩いていても,つくづくそう思う。駅の混雑のなかを歩いていて,ぶつかりそうになって避けるのは「男性」の方が多い。女性の多くは「まっすぐに」突き進んでいく。とりわけ,中年以後の女性はたくましい。わたしなどは,数メートル先から,それとなくお通りになる「道」を空けている。若いサラリーマン風の男性も,かなり早めに「道」を空けているのを見かけ,ああ,やっぱり,とひとりほくそ笑む。

世の男性諸氏は,社会でも,おそらくは家庭でも,とてもひ弱くなってしまったように見受ける。だから,ここはなんとしても「サムライ」ジャパンでなくてはならないのだ。このことばと同時に,たぶん,アメリカ人たちの多くは,ああ,やはり,日本人はまだ「サムライ」精神を温存しているのだ,と素直に納得してしまうだろう。こうして「大いなる勘違い」が継承されていくことになる。

こうして,事実ではない認識が先行していく。しかし,このような認識が繰り返し反復されると,こんどは動かしがたい固定観念となって人びとの間に浸透していくことになる。じつは,このことの方が何倍も恐ろしいし,取り返しがつかない。

それに比べたら「日本人対決」などは子供騙しにすぎない。こんなのは罪がない。なんとでも言ってくれ,である。しかし,このことばに多くの日本人が心地よく反応しているとしたら,それはまた,なんと日本人は幼稚なのだろうかと思ってしまう。たかが野球ではないか,そんなに目くじらを立てなさんな,と仰るかもしれない。しかし,たかが野球の裏には「されど野球」ということばが隠されている。だから,さきほどの「だれかさん」は「たかが野球」だよ,と嘯きつつ「されど野球」を密かに計算しているに違いない。

問題は,こんな単純な仕掛けに,多くの日本人が乗せられてしまう,という事実だ。なぜなら,この単純で幼稚な精神構造こそが,選挙の折りの戦術として大いに利用されているからだ。だから,いつまで経っても,日本の政治は変わらない。情けなくなってくる。

ここまでで,時間切れ。ここから先はみなさんでお考えください。お休みなさい。

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2009-04-26 「具体の思考」について。

_ 今福さんの『身体としての書物』をようやく読み終えた。あちこちでひっかかり,途中下車をし,一息入れてはまた列車に乗るということの連続だった。

それほどに考えることの多いテクストであった。また,このテクストそのものが「読みとばす」ことを拒否しており,文字どおり「身体」で触れながら「書物」と戯れることを求めている。だから,自然にそうなってしまう。一つのところに立ちどまって,あれかな,これかな,いやいやこっちだろう,などとさまざまな想像をふくらましながら,よろめきながら,ゆっくりと歩を進める,それほどの内容に満ち満ちている。

そのうちの一つを紹介してみよう。

それは「具体の思考」というものである。これは,終章で取り上げられているエドゥアール・グリッサンの『全−世界論』(恒川邦夫訳,みすず書房)に収めされている「世界の本」というエッセイのなかに展開されているエッセンスであす。グリッサンは,よく知られているように,カリブ海のマルティニック島出身の黒人詩人である。わたしは,この人のことについては,今福さんの『クレオール主義』という著作で初めて知りましたが,それ以来,とても気になっている存在でした。このグリッサンが「世界の本」というエッセイのなかで「具体の思考」という考え方を提示している,というわけです。当然のことながら,「クレオール」的スタンスからの「思考」の方法であることは明らかです。

まずは,引用されているグリッサンの文章を紹介しておきましょう。

田舎人の読解,モルヌ=ルージュ風に開かれた小屋を,あるいは炉端,火,遠隔の地に埋もれた暖炉を,あるいはゆったりと沈む太陽を背景にバオバブの木陰で長時間なされる寄合談義を,人々が一人になる,あるいは,急遽決断して集まるすべての場所を夢みる人々の読解,夕暮れに飛び立つギリシアの梟のように,あるいは,どんなに蛭にたかられても身動きしないマダガスカルの水牛のように,重厚かつ真剣に自らの言葉を考える人々の読解。

これに対して,今福さんは,つぎのように解説をします。

ここでは,単なる比喩ではないマルティニック島の日常の風景から,五感を通じて何かを受け止めてきた「具体の思考」の痕跡が示されています。大学などで教えられる言語的な概念で思考するやり方とは異なり,具体の思考は,土地や自然物にたいする感情や意識,身体感覚をたよりに物事を精緻に分類し,それらの関係性を考えていく。この,水や火や風やバオバブや梟や水牛といった具体物に寄り添ってとこなわれる具体の思考が直観する世界を,グリッサンはまさに「不変数」と捉え,そこであらためて書物と出会い直す契機を探ろうとしています。

以上でお膳立ては終わりです。ここからが,わたしのアナロジーです。

わたしの育った少年時代,すなわち,第二次世界大戦に負けて,食べ物も着るものもまことに不足していた時代の生活は,およそ書物というものとはまったく無縁のものでした。第一に,教科書すら戦前の教科書を不適切の表現のところを墨で塗りつぶす作業をして,それから用いるという始末です。国語の教科書などは,ほとんど読むところはありません。それから,しばらくしてから,16折にした,印刷所から直接送りとどけられた新聞のようなものを,丁寧に切ってページが開けるようにして,大切に使っていました。が,紙が悪いのですぐにボロボロに破れてしまいます。戦災で焼け出されていますから,本も一冊もありません。小学校の6年生になったころに(敗戦後3年ほど経過して),ようやく学校の中に図書室が設けられましたが,わずかしかない本は奪い合いでした。ですから,ほとんど本というものを読んだ経験がありません。中学生になって,図書室に吉川英治の『三国志』が並んでいて,これを順番待ちして,ようやく本らしいものを読むようになりました。ですから,小学校の4年間はまったく本のない生活でした。その代わりに,自然がテクストであり,先生でした。

ですから,今福さんが強調する「具体の思考」は,わたしの少年時代の「思考」がそのまま描かれていると直観しました。むかしのわたしの身体の記憶として,それこそがベースになっていることを懐かしく思い出しています。しかも,グリッサンはこれこそが「不変数」であって,ここから書物と出会い直す契機を探ろう,というわけです。これはとてもわたしにとってはありがたいことであって,またまた,新たなわたしの「ベース」を構築することができる,と喜んでいる次第です。

ここからさきのことをもう少し書きたいところですが,時間切れ。

ではまた,次回まで。

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2009-04-30 朝青龍バッシングが再びはじまる。

_ 29日に,東京・国技館で横綱審議委員会のけいこ総見が行われ,けいこ後に朝青龍が内館牧子委員に駆け寄って挨拶をした,という報道が流れた。

30日の朝日には,スポーツ蘭の「ハーフタイム」で写真入りで,つぎのように報じている。

内館委員は病気療養から復帰し,約8カ月ぶりの参加。横綱はけいこ終了直後,土俵下の内館委員に駆け寄り,顔を近づけ「心配しました。大丈夫ですか」と話しかけた。その場は笑顔で握手を交わした内館委員だが,報道陣には「秀吉のような人たらしね」。体調を気遣った横綱の言動は,朝青龍批判の急先鋒には通じなかったようだ。

とあり,朝青龍に握手してもらって笑顔満面の内館委員の顔写真と,そのとなりの委員の拍手する手が写っている。どうみても嬉しくて仕方がない,という顔である。その直後の報道陣のインタヴューには「人たらし」と吐き捨てた,というのである。

朝青龍はたしかに直情型の人間で,「秀吉のような」という表現は当たっている。怒るときには本気で怒るし,嬉しいときには子どものように喜ぶし,勝負にでるときには勝負師の顔になる。だから,朝青龍は本気で「大丈夫ですか」と声をかけたのだ。そのあと,二人は顔を寄せ合って小声でふたことみこと囁きあった,という。にもかかわらず,内館委員のこの態度の豹変ぶりである。ならば,握手を拒否すべきではないか。朝青龍の性格を知っているなら,そうすべきだった。ましてや,モンゴル人の文化や習慣からすれば,握手をすれば,その時点から「友達」である。見知らぬ旅人がゲル(移動式住居)を訪ねてきたら,まず,飲食でもてなし,宿を提供するのがマナーであり,長年の放牧生活から生まれた文化である。つまり,頼られたらなにをおいても歓迎するのが,モンゴル人の生き方なのである。そんなことも内館委員ともあろう人が知らないはずはない。それを,もののみごとに「裏切った」のである。

朝青龍のこころの奥底に,また,一つ,深い不信の念が埋め込まれたのではないかとわたしは心配する。日本人は信用ならない,と。表と裏は別人,と。しかも,横綱審議委員が公の場でとった態度である。どちらが品格がないのか,問うまでもない。情けない。恥ずかしい。

もう,触れるのもいやだが,しばらく前の「週刊朝日」に内館委員の書いた,これ以上のものはないと思われるほどのあからさまな朝青龍批判は,わたしの目には「ゼノフォビア」以外のなにものでもない,と写った。徹底した外国人排除の思想である。ならば,外国人を横綱にしなければいい。にもかかわらず,みずから推薦したのはなぜか。しかも,いまや,外国人力士なしには日本の大相撲は成り立たないのだ。第一に,両横綱はモンゴル人だ。三役以上の役力士の半分以上が外国人だ。もはや,大相撲のどこに「国技」のかけらが残っているというのか。言うなれば,日本の大相撲はとっくのむかしに外国人に乗っ取られてしまっているのが現状なのだ。曙,武蔵丸,小錦のころから,もはや,国技はどこかに影をひそめてしまったというべきであろう。

横綱の品格を言うのであれば,では,前理事長の北の湖が横綱時代になんといわれていたのか,そして,現理事長の三重の海時代にどうだったのか,考えてみればいい。わたしの大好きな千代の富士ですら,叩けばほこりのでるからだだ。そういうことは多くの人が知っている。でも,それらをすべて忘れて,土俵の上での取り組みの素晴らしさに酔ったものだ。

土俵の上でガッツ・ポーズをとることは外国人としては,ごくごく当たり前のことだ。そして,いまや日本人の若者たちにとってもなんの違和感もない。かつて,朝青龍の親方である朝潮が大関だったころには,小さくガッツ・ポーズをとっていたのをわたしは記憶している。気合いが入って,ようやく手に入れた白星であればこそのガッツ・ポーズではないか。

睨み付けるのがよくないというのであれば,千代の富士の立場はなくなる。かれの現役時代の眼光の鋭さは,それだけでも見るに値するものだった。わたしは大好きだった。憧れさえもった。

今回のこの報道をよくよく読んでみると,朝日新聞の記者は内館委員寄りの姿勢であることがよくわかる。最後の一文「体調を気遣った横綱の言動は,朝青龍批判の急先鋒には通じなかったようだ」とは,なにごとか。これだけの「気遣い」をしたことを評価する姿勢はみじんもみられない。これもまた,情けない話だ。もっと,平等の立場に立って,いいものはいい,悪いものは悪いという姿勢で記事を書く度量はないのか。とすれば,朝日の記者もまた「ゼノフォビア」の視線を抜け出してはいない,ということになる。報道という名の「偏見」は困る。世論を形成してしまう,恐るべき「暴力」なのだから。

と思っていたら,今日の朝日の夕刊の「素粒子」蘭で,同じ論調であることが露顕してしまっている。こうなると,デスクを含めた朝日新聞社全体の体質というしかないことになる。短いから引いておこう。

_ ぶつぶつ 1500勝達成の

月見草が輝く。得意技ぼやき。

_ おやおや 朝青龍が総見で内館

委員に握手。秘技人たらし。

_ 野村監督の「ぼやき」はすでに認知されており,本人も承知の上。しかし,「人たらし」は今日が初見参。しかも,「上から目線」のなにものでもない。内館委員のことばを,そのまま,朝日の「素粒子」担当者が使う,この不見識。記者の知性を問いたい。いくら,この蘭は,皮肉やギャグが前提になっているとはいえ,これではまるで犯罪者扱いではないか。わたしが朝青龍なら,朝日の運動部の記者を稽古場から追い出してしまうだろう。不見識なことを平気で書いてしまうような記者に,稽古を見せる必要はない。かえって迷惑だ。取材という名の「暴力」に,わたしもかつて経験したことがあるので,なおさらである。

ああ,またまた,憤ってしまった。

やはり,朝青龍擁護論という本を書くべきか。

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