2009-10-01 バタイユの読み直しにとりかかる。
_ 「竹内敏晴さんを囲む会」で,竹内さんと語り合った話を原稿にしてくれたので,それを読み返してみたら,バタイユの本をもう一度しっかりと読み直さなくてはいけない,と反省。
三井悦子さんのお骨折りで,「竹内敏晴さんを囲む会」は全部で4回開催している。いずれのときも,長時間にわたって,わたしたちにお付き合いをくださり,至福のときをすごさせていただいた。竹内さんは,どんなときでも「上からの目線」でものをいうことは,けしてなかった。いつも,わたしたちと「同じ目線」でお話をされた。一つの道を苦労して築き上げてこられた方の生きる姿勢や包容力というものは,わたしのような凡人とはまるで違う世界だ。お会いするたびに,いつも,ありがたいことだと思っていた。なぜなら,いつもお話を伺うつもりでいるのに,気がつくといつのまにかわたしがしゃべりつづけている,しかも,すっかり気をよくして生意気なことまでとうとうとしゃべりつづけているのである。しかも,それを,じっと耳を傾けるようにして聞いてくださり,さらに議論を深めていく方向に舵取りをしてくださるのである。
今回,そんな原稿を読み返しながら,冷や汗たらたら,である。とりわけ,わたしが,さも知ったような顔をして,ジョルジュ・バタイユの「エクスターズ」や「非−知」について語っているくだりなどは,もう,どこかに隠れたくなる。しかも,時間の経過とともに,バタイユ理解の浅さが恥ずかしくなってしまう。にもかかわらず,竹内さんは,一緒に考えよう,という姿勢をくずさず,できるだけ具体的な例を取り上げながら,「エクスターズ」の実態に迫ろうとされる。そして,そのつど,わたしはまるで挑発されているとでも勘違いしたかのように,饒舌になっていく。いま,読み返すと,恥ずかしいことばかりである。
それどころか,この程度の内容では,本にして読んでもらうには,あまりにお粗末であり,「読物」には遠く及ばない。もっともっとすっきりした文章に推敲しなくてはならない。そのためには,バタイユ理解をもっと深めておかなくてはならない。
この他にも理由があって,このところ時間があるとバタイユの本をめくっている。とりわけ,『呪われた部分/有用性の限界』が刺激的だ。バタイユの基本的な概念の一つである「蕩尽」とか「消尽」が導き出されてくる原点ともいうべきものに「ポトラッチ」や「贈与」(マルセル・モース)の問題がある。こちらの問題意識が明確になってきているせいか,どこを読んでも,ハラハラドキドキしてしまう。
同時に,西谷修さんが『非−知』のなかで展開しているバタイユ解釈がまた,じつに魅力的である。こうなったら,もっともっと,という具合にめくる本の数はいやましに増してくる。湯浅博雄さんの『バタイユ 消尽』(講談社学術文庫)もまことにありがたい本の一つである。
竹内敏晴さんを追悼するための本に手抜きは禁物である。バタイユ理解の確証をとりつけて,少しでもいい本にしなくてはなるまい。でも,久しぶりに新たな発見もたくさんあって,この作業は楽しい。いつも,こんな気分で本が読めたらいいのに・・・。といいつつ,寸暇を惜しんで,バタイユ本に取り組んでいる。
今日の発見の一つは,「自己の贈与」。この問題を「ポトラッチ」と重ね合わせて考えると,不思議な世界がひろがってくる。今福さんのいう「勝利至上主義」にからめ捕られることのない「スポーツの可能性」を開く,一つの道筋がちらりとみえてくる。さて,どこまで追い詰めることができることやら・・・。でも,この作業はやめられない。とにかく,行けるところまでは行ってみたいものだ。未知なる道に歩を進めることの愉悦をこそ。
2009-10-02 「おみあげ」=「おみやげ」と「自己の贈与」
_ 昨日のポトラッチのつづき。究極のポトラッチは「自己の贈与」だとマルセル・モースは言う。
そこで,はたと思い出すのは,日本語の「おみやげ」ということば。もともとは「おみあげ」(「御身上げ」)ということばであって,もともとの意味は,文字どおり「自分の身を差し上げる」「差し出す」「プレゼントする」というものであった。つまり,マルセル・モースの言うところの「自己の贈与」である。これぞ究極のポトラッチだ,と。
対立する部族間の族長が,相手の部族に「みずからのからだごとの贈与」をしてしまったら,そこには「対立」「抗争」という図式は消えてしまう。しかし,そんな「贈与」を受け取った部族は,相手部族にたいして,とんでもない「借り」をつくってしまうことになる。だから,相手の族長を送り返さなくてはならなくなる。しかし,ただ,返すだけではすまされない。そこで,こんどは自分自身を「おみあげ」として差し出すだけではなく,妻なり,子どもなりも一緒に「おみあげ」として連れていく。
こうして,ポトラッチの「贈与」の中身は限りなく増大していく。そうなると,どういうことが起こるのか。かつてあった「対立」「抗争」などとはまったく逆の「信頼」「親和」が進展していくことになる。
このことだけを取り上げて考えると,こんにちのわたしたちからみれば,まことに不思議なことが行われていたのだ,ということになろう。しかし,日本の戦国時代には,「人質」として自分の息子や娘を,対立する陣営に差し出すということはごく普通に行われていたことである。もっと踏み込んだものが「政略結婚」である。徳川家康はそのために妻妾を何十人とかかえ,つぎつぎに子どもを生ませ,その子どもたちを全国の大名のところに「差し出し」て,平和を維持しようとしたことはよく知られているとおりである。この手法は,こんにちでも立派に生きている。
麻生太郎君は,吉田茂と麻生コンツェルンとの間で取り交わされた,一種の「政略結婚」の結果の産物だし,ゴッド・マザーがいまも実権を握っている鳩山由紀夫君もまた,鳩山一郎と・・・という図式をもっている。まあ,いまの政財界の大物たちは,ある意味でみんな同類なので,みんな結束して「仲良しクラブ」を結成している。
こんな話をするつもりではなかった。ついつい脱線してしまう。貧乏人のひがみそのもの。もう少し,まともな話にもどそう。
たとえば,わたしの育った田舎の村祭では,村人からの寄付金の額と名前を神社の参道にでかでかと貼り出したものである。そして,金持ちは金持ち相応の寄付をしないと,獅子舞や神輿がその家に押しかけて「暴れ回る」。場合によっては,建物そのものが大きく破損することも稀ではなかった。なにせ,神輿が「暴れる」のだから始末が悪い。神輿は「神さま」そのものなのだから。神さまの逆鱗に触れたのでは仕方がない。そうなっては困るので,金持ちは金持ちなりに一年がかりで金を貯めて,村祭のときに「寄付」をする。その額が多いと,やはり,獅子舞や神輿が押しかけていって,こんどは念入りに「寿ぎ」を行う。それに対してまた,酒肴をもって「おもてなし」をする。こうして,規模は小さいながらも「消尽」が行われていたのである。いまはどうなっているのか,一度,確認してみたいところである。
同じように,新築の家は「建てまい」(上棟式)の日には,お金と餅を屋根の上からばらまいて,不特定多数の村人への「ポトラッチ」を行っていた。結婚式のときも,その家にいけば,袋に入ったお菓子がもらえた。敗戦直後の,わたしの子ども時代に「お菓子」がもらえるということは,もう,最高の贅沢であった。だから,村中の子どもたちが集まった。かなりの散財になったはずである。これもまた一種の「ポトラッチ」であり,「贈与」であり,「消尽」である。
その延長線上に,旅行みやげ,という慣行が成立しているのである。だから,「おみやげ」にはそれなりの意味がある。現代人が言うところの,たんなる「儀礼」ではない。むかしながらの,意味のある「儀礼」なのだ。こうすることが,「平和」を保つための人類の智慧でもあるのだ。
こういうことが,じつは,「贈与経済」の原理を形成しているのだ。『近代スポーツのミッションは終わったか』のインターリュードのところで,今福さんが「身体の贈与経済」という文章を書いているのだが,こういう人類学でいう背景をみとどけていないと,あの文章は理解不能であろう。すでに,多くの人に,今福さんの意図がわからない,と問われている。しかし,今福さんにしてみれば,そんなことは「常識」なのである。われわれが不勉強なだけの話。
で,ついでに言っておけば,この「贈与経済」の根本的な原理について,ジョルジュ・バタイユが『呪われた部分・有用性の限界』(ちくま学芸文庫)のなかで,徹底的に議論を展開している。この「贈与経済」は,いうまでもないことではあるが,こんにちの「資本主義経済」とはまったく逆の論理によって支えられている。つまり,「資本主義経済」が冨を蓄積することを「善」となし,それを資本として投資して,さらなる冨を「拡大再生産」することをめざす。その行き着くさきに待っているものは,資本と資本の衝突による「戦争」である。それに対して,「贈与経済」は冨を他者に分け与え(ポトラッチ),蓄えた冨を徹底的に「消尽」していくことを「善」となし,つねに,ゼロ(○)からの出直しをする。ここには「戦争」が起こる理由がなくなる。つまり,「平和」が待っている。
戦争を起こして無駄な,無意味な「消尽」(この場合には,単に冨だけではなくて,人間の命をも含む)を繰り返す「資本主義経済」よりも,祝祭のようにして蓄えた冨をみんなで「消尽」することの方が,人命も含めてはるかに「損失」は少ない,とバタイユは主張する。
今福さんのいう「身体の贈与経済」の背景には,当然のことながら,このような意図が隠されている。このトーンは,第三章にも引き継がれていて,リンギスの『異邦の身体』の議論とも共振している。そして,ついには「普遍経済」の議論にまで踏み込んでいく。
やはり,バタイユを読まないといけない。竹内敏晴さんのお話も,やはり,バタイユを読まないと深いところまでの理解は不能である。と,しみじみ思う。
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2009-10-03 リオに決定。
_ 2016年のオリンピック夏期大会がブラジルのリオデジャネイロに決まった。もっとも良識のある決定というべきか。
ずっと前のブログに「リオに決定なら,オリンピックもいくらか寿命が延びるだろう」と書いた。南米大陸初のオリンピック開催。これに勝るアピールは他のどの開催都市にもなかった。「環境」などはスポーツがやるべきこととはほど遠い。なにかトンチンカンな主張というべきか。リオを除く他の都市も同じようなものだ。大同小異。リオの主張だけが唯一,正当性があった。これにIOC委員の多くが反応した。まだまだ捨てたものではない。
リオに決定は,こんごのオリンピック・ムーブメントにも大きな影響をもつことになろう。なぜなら,これを機に,途上国都市からのオリンピック開催立候補が激増する,と考えられるからだ。また,そうあるべきだ。ヨーロッパと北アメリカがたらい回しで開催し,そのいいわけのようにして,それ以外の都市での開催を「認める」という姿勢がこれまで一貫している。ヨーロッパで30回,北米で12回,アジアで5回,オセアニアで2回。この数字をみれば明らかだ。この数字をみれば,南米大陸でのオリンピック開催は,もはや必然というべきだろう。
その意味で,まず,一回目の投票でシカゴが落ち,二回目で東京が落ち,最後にマドリードが落ちるという順序には大きな意味がある,と思う。IOC委員の判断力に,わたし自身はこれまで大きな疑問をいだいていたが,今回のIOC委員の投票行動をみていて,なかなかしたたかではないか,と感じた。もはや,人脈よりもカネよりも,説得力のある「招致理由」が優先される,と。
だから,IOCがリオに決定したことは,ほんとうにいい意志決定をしたと思う。リオの人びとは,なにより「スポーツを楽しむ」ということの本質を知っている。ブラジル式のサッカーをみれば一目瞭然だ。最近のドゥンガ監督率いるナショナル・チームは,勝つためのサッカーに傾いているが,国内のサッカー・チームの戦い方は,以前として勝敗よりは「楽しいサッカー」が最優先される。そうでないと選手も観客も満足しない。勝利至上主義にからめ捕られないサッカーが行われている数少ない国のひとつだ。そういう国(都市)でオリンピックを開催することは,ブラジル人のスポーツの楽しみ方を世界の人びとに,とりわけ,勝つことにしか意味を見いだせない人びとに知らしめる意味でも,きわめて重要だ。
今回は「リオに決定」すれば正解。それ以外の都市に決まれば,オリンピック・ムーブメントに未来はない,と公言してきた。そのとおりになった。こうなったら,リオが,これまでのオリンピック開催とはまったく違った,新しいスタイルをどこまで打ち出すことができるか,楽しみである。わたしの期待は,徹底したブラジル人のコスモロジーをオリンピック開催にむけて展開すること,この一点にある。「神はブラジル人だ」と信じている人びとの開催するオリンピックが,どのようなものになるのか,期待したい。
北京がそうであったように,ヨーロッパ近代の「規範」にしばられることなく,みずからの生み出したブラジル固有の文化的バックグラウンドをフルに生かし,バナキュラーな精神をふんだんに盛り込んだオリンピックを演出してほしい。そうして,スポーツという文化が含みもつ多様性・多義性・多面性を,もう一度,存分に取り戻してほしい。「神はブラジル人」なんだから。
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2009-10-04 <時間の秩序>から解き放たれた独特の時間
_ 湯浅博雄さんの『バタイユ 消尽』(講談社学術文庫)を読んでいたら,バタイユの時間論についての魅力的な論考に出会った。
今福さんが『ブラジルのホモ・ルーデンス』のなかで「時間論」という一章を設けて,サッカーと「時間」との関係性について,こだわりの論考を展開している。たとえば,リードしているチームは,残り時間が少なくなってくると守備固めに入り,ひたすらボールを長くキープするために,攻撃に背を向けて,仲間同士でボールの受け渡しをしながら「時間」を消費することに専念しはじめる。そして,なんとか逃げ切って勝利をわがものとする。このドキドキ感が堪らない,という人が多くなっていることに,強い違和感と異議申し立てを表明している。なぜなら,ブラジルのホモ・ルーデンスたちは,勝利を度外視してまでも,ひたすらお互いの攻防のテンションを上げていき,あらゆる秘術をピッチの上で表現し合うことに重要な意味を見いだしており,それこそがサッカーの本質であり,醍醐味である,と今福さんは考えているからである。
紙数の関係で,それ以上の踏み込んだ論考は展開されていないが,今福さんの思想の背景にはもっともっと深い企みが秘められている,とわたしは考えつづけてきている。この間の,「遊び」工学研究会での講演でも,最後のところで,「時間」の問題に触れられた。「時間」には「クロノス」と「カイロス」の二つの種類がある。「クロノス」は,秒・分で刻まれるいわゆる物理的な時間のことで,測定可能な時間を意味し,「カイロス」は,たとえば遊びに熱中していて忘我没入しているときの時間のことで,計測不可能な時間を意味する。つまり,遊びはカイロスの時間のなかでのみ成立するものであって,クロノスに管理され,乗っ取られてしまった,ただ消費するだけの遊びはもはや遊びではない。だから,真のホモ・ルーデンスにとって重要なことは「カイロス」の時間を取り戻すことだ。「カイロス」を復権させることだ。
と,このときも時間切れで,ここまでで話は終わりになった。しかし,今福さんのいいたいことはもっとある,とわたしは考えていた。そんなことを考えつづけているときに,湯浅博雄さんの,この本に何気なく手が伸びてページをめくっていたら,<時間の秩序>から解き放たれた独特な時間,という小見出しが眼に飛び込んできた。すでに,何回も読んだ本なのに,問題意識が低いときにはなにも感ずることもなく,記憶にも残っていない。しかし,今回は,強烈であった。まさに,今福さんの言わんとする「カイロス」のことである。湯浅さんは,つぎのように述べている。
たとえばそれは,原初の人々が,貴重な<冨>である生産物を神々に捧げつつ破壊する<供儀>に,そしてそれに伴う<祝祭>に没入している時間である。またそれは,神秘家たちが「心の奥で,すべての知性的な操作を止め,言いようのない光と内的に結合する」ために,十字架上で苦悶するイエスのパッションを我がことのように追体験する時間である。さらには,それは,私たちが深く<恋愛>関係に惹き込まれている時間,リルケの表現によれば「私が<愛する存在>のうちに,自分自身の広がりを見る」ような時間であり,また私たちが文学や思想や芸術に全存在を揺り動かされ,心底から魅惑されて深く参入している時間である。たとえばプルーストの『失われた時を求めて』の語り手である<私>がヴェルデュラン邸の音楽会で,ヴァントゥイユの七重奏曲に聴き入っている時間だ。
という具合である。これが,すなわち,今福さんのいう「カイロス」の時間なのである。こういう時間をサッカーから奪ってはいけない,突如としてピッチの上に神が降臨するようなスーパー・プレイに立ち合う瞬間こそがサッカーの醍醐味なのだから,と今福さんは主張したいのだ。その背景には,この「カイロス」の時間を徹底して排除・隠蔽したヨーロッパ近代の理性中心主義がある,とこれはわたしの捕捉である。前近代までは,おそらくは「カイロス」の時間が主役を演じてきたはずであり,それにとって代わって「クロノス」が主役として躍り出てきたのがヨーロッパ近代という時代なのだ。その到達点が現代の科学中心主義であり,「クロノス」的な時間が支配的になり,「カイロス」の時間はますます排除されてしまった。その結果,もともとルードゥスであったはずのサッカーまでもが,「クロノス」に乗っ取られてしまって,形骸化してしまった。人間の感性はますます枯渇してしまい,ロボット化していく。そのためには,「カイロス」の時間の復権が必要であり,サッカーにルードゥスを取り戻すこと。
バタイユのことばに置き換えれば,<総体としての人間>の復権が,いま,喫緊の課題である,ということになろうか。このテーマについては,また,機会を改めることにしたい。時間オーバー。
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2009-10-05 ファシズム的心性の始原。
_ バタイユの「同質性」と「異質性」の論考について解説する湯浅博雄さんの文章のなかに,つぎのようなくだりがあり,びっくりして考え込んでしまった。
出典は,湯浅博雄著『バタイユ 消尽』(講談社学術文庫・96ページ以降)である。バタイユの「ファシズムの心理構造」(1933年)の論考をとりあげて,その独自性を解説する湯浅さんの文章が,そっくりそのまま,古い体質のままの体育会系クラブに当てはまる・・・とひらめいてしまったのである。
ちょうど,100ページに,そのきっかけとなる文章が登場するので,それを引用してみよう。
軍事指揮官の「光輝ある」性格は,どうして構成されるのか。兵士の大多数は下層の民衆に属す。だがこの「卑しい」民衆が軍隊に組織され,制服をまとうと,奇妙な変化を起こす。軍隊は規律,階層性により,また制服,隊列行進など拍子と律動に満ちた動き,幾何学的規則性によって,乱雑さ,混沌を矯正し,目的意識に服させる。指揮官の命令に服することが,無秩序から秩序への「快い」変化と感じられる。軍隊の首長は一方で戦闘という荒々しさを体現する者であり,他方でこうした秩序・規律・目的意識への変化を命じる者だ。この命令は兵士たちを,その「卑しさ」としては<否定する>力を持つ命令である。彼らの貧困,穢れ,乱雑,荒々しさ,非合理な危うさは,この命令によって否定され,秩序と目的へと「再生させ」られる。つまり軍隊内部では,<同質的なもの>へと変えられる。
この文章を読みながら,そのむかし高校ラグビーでその名を馳せた某監督の言説を思い出していた。某監督とは,直接,お会いしてかなり長い時間,数回にわたってお話を聞かせてもらったことがある。大学を卒業して初めて赴任した高校が荒れに荒れていて,授業もままならぬほどの荒れようだった,という。そこで,早速,その高校の名うての悪と目される高校生グループに声をかけて,ラグビーをやらないか,と誘う。最初はまったく相手にされなかったそうだが,顔をみるたびに声をかけて,ラグビーの醍醐味を語ってきかせたそうだ。そうしたら,ひとり,ふたりと「やってみようか」という生徒が現れた。そうして,いつのまにか悪グループを主体とするラグビー部が誕生し,猛練習がはじまった。悪がきたちがいったんはっきりとした目的意識をもつと,驚くほどの力を発揮するのだそうだ。そのための仕掛けの話を思い出していた。
さきの引用文に,某監督の話をそのまま重書きするようにして,リライトすると以下のようになろうか。
監督の「光輝ある」性格は,どうして構成されるのか。ラグビー部員たちの大多数は悪がきに属す。だがこの「卑しい」悪がきがラグビー・チームに組織され,ユニフォームをまとうと,奇妙な変化を起こす。チームは規律,階層性により,またユニフォーム,激しいタックルやスクラム,そして幾何学的な美しいパスまわしによって,乱雑さ,混沌を矯正し,目的意識に服させる。監督の命令に服すことが,無秩序から秩序への「快い」変化と感じられる。チームの監督は一方で闘将という荒々しさを体現する者であり,他方でこうした秩序・規律・目的意識への変化を命じる者だ。この命令はラグビー部員たちを,その「卑しさ」としては<否定する>力を持つ命令である。彼らの貧困,苛立ち,暴力,乱雑,不良,荒々しさ,非合理な危うさは,この命令によって否定され,秩序と目的へと「再生させ」られる。つまりチーム内部では,<同質的なもの>へと変えられる。
なんともまあ,みごとに重なってしまうことか,書きながら驚いてしまう。スポーツ集団における「同質性」の萌芽,そして「異質性」への排除のメカニズムが,じつにわかりやすくみえてくることか。
さらに,湯浅さんの文章はつぎのように展開していく。
軍隊首長の特性は,「栄光ある戦争」を体現し,かつ「否定力を持つ命令」を体現していることだ。自分の状態を否定され,甦った兵士大衆は,自分自身であることを喜んで止め,心的,感情的には指揮官のものとなる。首長の一部分,手足のようになる。強い情愛の絆によって結ばれる。この心的絆は,個々人の最初期の<情愛の対象>との関係である同一化に近い。兵士大衆はある意味で「子供」の心的段階へと<退行>しており,首長の<父のごとき人格>を<超自我>として,心のある箇所に建立している。こうして兵士大衆は首長の下す命令を「自分が自分に与える命令」と受け取り,首長の使命と栄光を自分自身の栄光と感じる。
この文章もまた,さきほどと同じ手法でリライトが可能である。某監督と高校生たちの関係はまさにここに述べられていることが,そのまま当てはまる。このあまりの類似性に,いまさらながら驚きを禁じ得ない。
じつは,ここまでが,わたしがほんとうに言いたいことの前提である。つまり,外堀埋めの完了である。ここからが,いよいよ本丸攻めに入るところ。しかし,残念ながら,時間切れ。あとは,ご想像にお任せする。たぶん,わかっていただけるものと確信する。もし,どうしても知りたいという人は,このテクストの100ページ以後を読んでほしい。このさきに,これまたとんでもない思考の展開が待っている。だから,ほんとうはブログで取り扱えるテーマではないのだ。そのためのきっかけだけでも・・・,と考えた次第。お許しのほどを。
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2009-10-06 フーリガンと欲望の次元。
_ 昨夜のテクストを今日も読み継いでいる。P.192に,「欲望の次元」という小見出しで,つぎのようなバタイユの考えを紹介している。
それが,またわたしの想像力を激しく掻き立てて,これはひょっとしたら「フーリガン問題」を考えるための重要なヒントになるのではなかろうか,と思ったりしている。まず,その導入部分を引用しておこう。
かつて人間(ヒト)がまだ<動物性>に沈潜していたときには,性的欲求はまさに「生の必要」にほかならず,自然の法則に忠実に従い,それ以外の規範(禁止)には制約されていなかった。ところが人間的な性はむしろ逆に自然の法則には逆らい,抵抗し,それ以外の人為的=文化的な規範によって制約されるようになる。すると人間的な性は,もちろん有機体の内的生命活動から生じる力に基づいてはいるけれども,もう生の必要という水準だけに位置しているのではない。
つまり人間の性は,もう<欲求>というレヴェルにとどまることはない。ある新しい<意味>を持つ。バタイユはほぼ次のような比喩を用いている。(文化以前の)自然的な河は滔々と流れており,ときどき大量に増水するとすぐに原野に溢れ出し,また元の流れに戻る。ところがその河に柵を立てて堰止めるようになると,水嵩が増えた場合,奔流となって柵をのり超え,氾濫する力になる。この「柵」というのが,嫌悪感や怖れというかたちで現れる心的な抵抗のことである。
これが,まずは前段となっている文章。あるいは,伏線というべきか。ヒトが動物性のなかにどっぷりと浸かっていた時代の「性的欲求」は,自然なままの河のように滔々と流れ,増水したらそのまま原野に溢れていくだけのものにすぎない。しかし,人間となってからの「性」は人為的=文化的な規範によって制約されるようになる。つまり,自然のままの河に「柵」が立てられ,多少,増水しても堰止められてしまう。しかし,それを超えるほどの増水になると,こんどは一気に柵をのり超えて「氾濫する力」となる,というのだ。このバタイユの比喩はとてもわかりやすい。
これが伏線になっていて,つぎには一気に「欲望の次元」へと議論を展開させる。これがまたとても刺激的である。わたしは,このくだりを読みながら,「フーリガン問題」を考えるためのヒントが隠されている,とひらめいたのである。その文章を引いてみよう。
一時的に貯えられ,留保されたエネルギー,抑制され,禁じられたエネルギーは,そうやって即座の放出(緊張を解消し,快を得る放出)を制止されたことで,すなわち直接的な享受を妨げられ,後に延ばされることで,その激しさを倍増し,真に<荒々しい力>となる。柵をのり超え,氾濫する力となるのだ。つまりなにかしら制約づけられ,禁じられることを敢えて破り,侵すという意味を帯びる。嫌悪感や嘔吐感,怖れや羞恥心があるにもかかわらず,それを強いてのり超えるという暴力性,侵犯性の意味を持つようになる。これは<欲望>desireの次元と言える。
さて,この一文をどのように受け止めるか,それは人によってさまざまであろう。わたしの読解は以下のとおり。
ヒトが動物性にゆだねられていた時代の「性」は「欲求の次元」に収まっていたが,その動物的な「性の欲求」を,淫らなもの,嫌らしいものとして逆らい,抵抗し,人為的=文化的な規範によって制約を加えることによって人間としての「性」のあり方を新たな文化として確保した。そこに大きな負荷がかかっていることを人間は忘れ,いつしかそれが日常化し,世俗化していく。しかし,もともと自然のものであった「性」を,その自然なあり方を否定することによって,文化の領域に封じ込めてしまったのである。そのときの「否定の論理」による歪みが,あるとき「亡霊」となって噴出することは,ジャック・デリダを待つまでもなくありうることだ。それが,バタイユの比喩による「氾濫する力」である。つまり,「自然の性」を否定して新たに獲得した「文化としての性」をもう一度否定することによって新たに登場するのが「性の欲望」の次元だというのである。
このテクストの論考は,さらに,つぎのように展開する。
<欲求>は基本的に自然の法則にのみ忠実に従い,それ以外の規範=禁止も制約づけも知らない。それとは異なり,<欲望>はひとたび文化的な規範や制約づけを経験した人間が,それを強いてのり超え,敗るという力動性である。いったん嫌悪され,禁じられ,遠ざけられたものを,欲望は再び連れ戻そうとする。人間的な性は,すなわち<エロティシズム>は,こうした<欲望>の次元に位置している。エロティシズム的な欲望は,怖れや嫌悪を当然なものとして内包している。それに近づいてはならない。触れてはならないと退ける感情が強く抵抗するにもかかわらず,それをのり超え敢えて侵す。そのとき初めて欲望は真に高まり,強くなって,人間のみが知る喜びや不安への道を開く(『エロティシズムの歴史』)。
ことここに至って,わたしの「ひらめき」は確信に到達する。「フーリガン問題」を考えるための,たしかな一つの突破口がここにはある,と。
以上で今夜は終わり。
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2009-10-08 祭祀儀礼は「否定」の「否定」。
_ バタイユの『宗教の理論』(ちくま学芸文庫,湯浅博雄訳)を読んでいたら,祭祀儀礼の起源についての,とても明解な説明論理に出くわした。
そのむかし,青木保さんの『文化の否定性』(岩波書店)という本を読んで,なるほど,文化というものは「自然」を「否定」するところからはじまるのだ,ということがわかり,なぜか急に見晴らしがよくなったことを覚えている。バタイユは,その「文化」を「否定」するところに祭祀儀礼の起源があるのではないか,という仮説を提示する。この仮説は,これまでのどの仮説よりもわたしには得心できるものであった。それどころか,またまたわたしの考えを急展開させ,まったく新たな知の地平を切り開いてくれそうな予感で,いまは一杯である。つまりは,スポーツ史やスポーツ文化論のこれまでの理論仮説をおおはばに飛び出して,まったく新しい論陣を張る上できわめて有効な理論仮説を提供してくれることにもつながっていく。もっと大きくは,人間とはなにか,人間の存在を脅かす根源にあるものの仮説を,根底からひっくり返すような,破壊力満点の理論仮説の提示である。それは,いってしまえば,すでによく知られているバタイユの「非−知」についての理解の問題でもあるのだが・・・。
その大筋は以下のようである。
ヒトが人間になるときに行ったことは,「自然」からの離脱と移行であった。そのためには長い時間を必要としたのだが,そのアウト・ラインをたどればつぎのようになろうか。狩猟・採集の時代は,まだ,ヒトは「動物性」のなかにどっぴりと浸っていたという。しかし,やがて,狩猟・採集に役立つ「道具」を用いはじめることによって,ヒトから人間への進化がはじまる(この他にもいろいろの仮説・ことばの発明,死者を弔う,性の秘匿,など・があるが,ここでは省略)。この段階では,まだ,動物との類縁関係(ヒトは動物と区別できない近しい関係)はきわめて濃厚であった,と考えられている。つまり,まだヒトの段階にあった。
ヒトが人間になるための,つぎの大きな変化は,牧畜と農耕のはじまりであるという。換言すれば,動物の家畜化と穀類の栽培である。このとき,ヒトは人間への第一歩を踏み出したというのである。つまり,狩猟時代の「自然」の動物を「家畜」化することによって,自己所有化を果たす。また,採集時代の「自然」の穀物を「栽培」することによって,やはり自己所有化を果たす。つまり,ヒトから人間への離脱と移行は,「自然」のままの動物性から「文化」をもつ人間性への離脱と移行を意味すると同時に,「自然」のままの動物や穀物までも人間の意のままにできる「文化」として自己所有化を果たす。
このとき,人間は「自然」を「否定」して「文化」を獲得すると同時に,みずからの「自然」と同時に,動物や穀物の「自然」を「否定」したことに対する畏怖の念をいだく。この畏怖の念が高まってくると,人間はそれを解消するための方法を考える。そのための一つの方法が,「文化」となった家畜や穀物をもともとの「自然」にもどしてやる,というものである。しかし,全部をもどすのではなくて,家畜や穀物の一部を,形式的に「自然」にもどすことを行う。つまり,「自然」を「否定」することによって獲得した「文化」を,もう一度「否定」して「自然」にもどすという「儀礼」を行う(家畜となった動物を「自然」にもどすということは,家畜ではなくすること,すなわち,神に供物として捧げること,供犠を行うこと,つまりは「殺す」ということ)。この説明も長くなるので割愛。これが「否定」の「否定」によって誕生する「祭祀儀礼」だというのである。
ここで注目しておきたいことは,人間はみずから「自然」を「否定」して,ヒトから人間へと変身を果たすのであるが,しかし,どこまでいっても人間のなかにやどる「自然」を完全に「否定」することはできないということだ。この「内なる自然」という時限爆弾を,つねに抱え込んだ存在として,以後,宿命づけられた歴史を刻むことになる。また,同時に,人間は,みずからをとりまくあらゆる環境世界をも「否定」しつづけ,つぎつぎに「文化」の領域を拡大していく。しかし,ここでも「否定」した「自然」からの,思いもかけない反撃(デリダのいう「亡霊」)に怯えつづけることになる。
人間は「自然」を「否定」することによって新たに獲得した「文化」を,一方では存分に「享受」しつつも,他方ではその「文化」(=「否定」した「自然」)に「怯える」という両義性のなかに投げ出される。そして,この「怯え」を解消する方法として「祭祀儀礼」がはじまり,やがては「宗教」へと進展していく。だから,人間は,いかに科学的知を蓄積しようとも安心立命することはできないのだ。どこまでいっても人間の「内なる自然」に怯えざるをえないのだから。このアンビヴァレンスを抱え込んだことが,ヒトから人間へと離脱し移行したことの宿命なのだ。
もっともっと説明が必要なのだが,まだ未熟なために未完のままで終わる。ただ,ひとことだけ。この視点を取り込むことによって,わたしの頭のなかはコペルニクス的転回をはじめた,ということ。これから少しずつ,その一端を,このブログで展開できれば,と考えている。とりあえず,今夜はここまで。
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2009-10-09 欲望の本質的次元。
_ 湯浅博雄の『バタイユ 消尽』(講談社学術文庫)の292ページに「欲望の本質的次元」という小見出しのついて文章について考えてみたい。
まずは,考える対象となる文章を引用しておく。
・・・・欲望の本質はひとたび文化的な規範や法を経験した人間(法に従って生き始めた人間)が,それを犯し,破るという力動性(ダイナミズム)である。なにかしら禁じられ,制約づけられたことを強いてのり超え,破るという暴力性,侵犯性の意味をおびている。いったん嫌悪され,怖れられたもの(狂暴な力と感受されたもの)を,欲望は再び連れ戻そうとする。それに近づいてはならない,触れてはならないと遠ざける嫌悪感,嘔吐感,恐怖,羞恥心などが心的に抵抗するにもかかわらず,それをのり超え,敢えて侵犯する。そのとき初めて欲望は真に高まり,人間だけが知るある深い喜びへの道を開く。
この引用文にいたる前段では,欲求の問題が取り上げられている。ここでは,欲求は,動物性の次元,つまり,本能的な自然的所与として持ち合わせているもの,と考えられている。たとえば,睡眠欲,食欲,性欲,などのことを欲求ととらえている。それに対して,欲望は,動物性から離脱し,人間性へと移動したことによって,自然のままの欲求とは別個に,文化的に形成されたものとして位置づけられている。
したがって,欲望の本質的次元は,欲求のそれとは異なる。引用文では,きわめて端的に,欲望の本質は,文化的に形成されたルールを犯し,破るという力動性(ダイナミズム)だ,と言い切っている。じつにわかりやすい。だから,なにかをやってはいけない,と言われるとやりたくなる,これが欲望だ。その禁止がきびしくなればなるほど,その禁を破るという欲望のレベルが高くなってくる。
しかし,よくよく考えてみると,欲望の構造は,昨日のブログに書いた「祭祀儀礼は否定の否定」と同じ構造であることに気づく。祭祀儀礼を「祝祭」と置き換えてみると,もっとわかりやすくなってくる。祭祀儀礼が,たとえば,家畜化した羊を自然に戻すために供犠として「殺す」,あるいは,栽培植物にしたイネを自然に戻すために神に供物として捧げる。そのあと,この供物をいただく直会(神との共食)が行われる。やがて,祝祭へと進展していく。ここで展開されることは,人間性から動物性への回帰である。ここでは,いかなる禁止も存在しない。自然のままである。この自然に回帰したいという衝動が,ここでいう欲望だ。
話は一気に飛躍するが,フーリガン問題を考えるヒントの一つ,しかも,きわめて重要なヒントがここにはある,とわたしは考える。近代社会が構築した法秩序を徹底して破るという暴力性の根底にあるものが,ここでいう「欲望」ではないか,と。だとすれば,否定の否定をとおして,もう一度,自然に戻りたい,動物性を取り戻したいという,きわめて根源的な生の衝動に依拠したものだ,ということになる。この仮説は無視できないものを含んでいる,とわたしは考える。
もう一つは,モンゴルの馬の「聖性」の問題も,この否定の否定の構造をもっているように,わたしは考えるのだが,はたしてどうだろうか。
このように考えていくと,この否定の否定の論理は,これまでの近代歴史学的な発想(つまりは,「有用性」にもとづく説明=合理化)とは,まったくことなる説明論理の地平を開くことになる。だとしたら,これまでのスポーツ史研究では「常識」とされてきたものの見方・考え方そのものが怪しくなってくる。
とまあ,まだまだ,粗削りではあるが,こんなことを考えはじめている。この道はちょっと面白くなりそうだ。もう少し,追い込んでみることにしたい。
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2009-10-10 嬉しい情報・書評がでた。
_ 9月10日配本となっていた『近代スポーツのミッションは終わったか』身体・メディア・世界(共著,平凡社)の書評が『週刊読書人』に載った。
昨日(10月9日)の金曜日発行の『週刊読書人』に掲載されたということは,配本になってすぐに『週刊読書人』から書評者に依頼が行って,読んで,書いて,すぐに掲載という最短の手続だったことがわかる。ありがたいことである。
書評をしてくれたのは,有元健さん。とても好意的な書評になっていて,ありがたいことだ。しかも,本気で,体重をかけて書いてくれている。見出しは,合理的身体の「外」へ,20/21世紀の身体文化を問う,というもの。有元さんの肩書をみると「ロンドン大学ゴールドスミス校社会学部博士課程在学・身体文化論専攻」とある。一瞬,若い人かな,と思ったがすぐにサッカー関連の著書があることを思い出し,調べてみたらそうだった。たとえば,『サッカーの詩学と政治学』(共著,人文書院,2005)や,『W杯サッカーの熱狂と遺産──2002日韓ワールドカップを巡って』(共著,世界思想社,2003)など,スポーツに関する著書が多い。さらに調べてみたら,毛利嘉孝さんとの共著もあり,その系列の人であることもわかった。だとしたら,今福さんとも,どこかでつながっているはず。なぜなら,毛利さんとは,今福さんを囲む会があったときに,お会いしたことがあり,穏やかな紳士という印象が残っている。有元さんは1969年生まれというから,けして若くはない。中堅どころの脂の乗り切っている研究者だ。
書評の内容については,『週刊読書人』の本文で確認していただくことにするが,サッカーがらみの,とても気のきいた洒脱な文章になっている。今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』のなかの「陶酔論」を引き合いに出したりしながら,3人の対話での今福さんの位置取りと舞台まわしの役割の面白さを強調している。しかも,そこに本書を読み解く一つの重要な鍵が隠されている,と。
欲をいえば,今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』の冒頭にある「サッカー批評とは,世界批評である」という,きわめて刺激的な投げかけを受け止めて,この本のキー・ワードの一つになっている「世界」論(とくに,西谷さんが熱く語ってくれている)について,もう少し触れてくれるとありがたかった。もっとも,あのスペースにそこまでは触れる余裕はなかったこともよくわかる。だから,これはもうないものねだりに等しいものではあるが・・・。
さて,この速さで『週刊読書人』が反応してくれたということは,他の新聞などにも取り上げてもらえるのではないか,とついつい欲がでてくる。ぜひ,そうあって欲しいと願っているところ。あとは,神頼み。いやいや,わたしの場合には『般若心経』頼みだ。かくして,にわかに信心が篤くなる(笑い)。
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2009-10-11 カイロスとクロノスの話。
_ しばらく前のブログで,今福さんのお話のなかに「カイロス」の話がでてきたことを書いた。遊びの時間は「カイロス」である,と。
このカイロスのことが気になったので,少し調べてみた。不勉強をさらけ出すようでいささか恥ずかしいのだが,岩波の『哲学・思想事典』のなかに,「カイロスとタナトス」という見出しがあって,きちんと説明されているのだ。詳しい,専門的な解説はともかくとして,わたしの関心事に関連することだけを紹介しておくと以下のようである。
カイロスとクロノス。ギリシア語:kairos/kronos, 英語:kairos/chronos. カイロスは「宿命あるいは神意によって配剤された人間に決断的応答を要求する決定的時点」とあり,クロノスは「通時的経過においてみられた定量的時間」とある。なんともはや,わかったようなわからないような,不思議な説明がしてある。カイロスの説明の最後のところの「決定的時点」というところが理解をさまたげる関門になっている。しかし,よくよく考えてみると,「時間」ではなくて「時点」とある。それに対して,クロノスの方は「定量的時間」とある。ということは,カイロスの方はクロノス的な時間からみれば,あるピン・ポイントとなるような瞬間のような時間であり,計測不能の時間,あるいは,瞬間にして永遠となるような時間のことを言っているように思う。クロノスの方は,時計で計測できるような,秒・分・時間といった機械的な時間を意味していることがわかる。
で,同じ事典のなかに,つぎのような説明もなされているので,理解を深めるためにも引いておくことにしよう。
アリストテレスによれば「カイロスは時間(クロノス)の中の好機」といい,ヒポクラテスによれば「経る時(クロノス)の中に好機(カイロス)は含まれるが,好機には長い時間(クロノス)は含まれない」とある。この「好機」がカイロスだと言ってくれるととてもわかりやすくなる。
これで,今福さんが,「遊び」の時間はクロノスではなくてカイロスである,と言われたことも納得である。つまり,「遊び」の時間は「好機」なのである。今福さんのことばに置き換えると,快楽的な時間を創りつづける創発的な時間であり,内的な時間であり,永遠の時間,ということになる。だから,「遊び」は,クロノスの時間から解き放たれたところで成立するものであるし,その「遊び」はポイエーシス的なものとなる。つまり,遊んでいるつもりが遊ばされている,そういう「遊び」が展開する時間,それがカイロスである,と。
このことと,湯浅博雄さんの『バタイユ 消尽』のなかで(81ページ),バタイユの「内的体験」を説明していることとが,わたしの頭のなかでつながった。つまり,<私の存在>がもっとも激しく問い直されるのはどういうとき(時間)であるのか,と湯浅さんは問いを立てる。そして,バタイユの見方では,「私を(私の手にするすべての力やエネルギーを)激しく濫費する瞬間」だ,という答えを提示する。つまり,エクスターズする瞬間だ,と。したがって,この瞬間は,クロノスではありえない。まさに,カイロスでなくてはならない。
さらに,湯浅さんは,つぎのように書きつけている。
たとえばそれは,原初の人々が,貴重な<冨>である生産物を神々に捧げつつ破壊する<供犠>に,そしてそれに伴う<祝祭>に没入している時間である。
さて,ここからさきは,また別の話の展開になっていくのだが,とりあえず,ここでは,これこそが「カイロス」の原点であることだけを確認するにとどめよう。ついでに言っておけば,ニーチェのいう「永遠回帰」もまた「カイロス」そのもである。
今福さんの言われる「遊び」の時間はカイロスである,ということの意味がこれでだいぶはっきりしてくる。それに引き換え,近代スポーツはクロノスに絡め捕られてしまった,ということ。
今夜はこの辺りで。お休みなさい。
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2009-10-12 「世界はパロディ的である」バタイユ。
_ バタイユの初期のテクストとしても注目されている『太陽肛門』(1927年)の冒頭のところで「世界はパロディ的である」と書いた。
この解釈についてはいろいろあるようだが,湯浅博雄さんの解釈によれば,以下のようである。主要な部分を引用しておく。
おそらく,あらゆる事物や事象は,私たちが日常的にそれらに接し,ふつうに見たり,考えたり,語ったりしているときは,もともとそういうものとして,つまり<それ自身>として存在していると思えるけれども,実はけっして<それ自身>として存在しているのではない,ということだろう。<それ自身>として定まった本来的同一性をいつも欠いており,<それ自身>のパロディになっている,ということだ。「パロディ」という語は,一般的には「(原作の)滑稽な作り替え」,「(真面目なことの)滑稽なまね,物まね」という意味だが,ここではその意味も含みつつ,模擬,模像,擬態という意味合いで用いられている。
湯浅さんは懇切丁寧に説明をしてくれているが,「世界で起こっていることはパロディみたいなもので,ほんとうのことなどありはしない」「いかにもほんとうのようにみえていることも,みんなパロディみたいなものだ」というほどの意味である。バタイユは,こんな平板なものいいでは満足できなかったので,アフォリズム的な表現を援用して,端的に「世界はパロディ的である」と言い切ったわけだ。だから,強烈な印象を残す。
わたしたちが日常的に見たり聞いたりすることがらも,さも,それが真実であり,ほんとうのできごとであったかのように受け止められているが,そうではない,とバタイユは言うのである。芥川龍之介の『藪の中』のようなものだ,と。つまり,三者三様の「真実」があるということ。だから,「真実」はどこまでいっても「藪の中」というわけである。
この間の,オリンピック招致の決定にいたるまでの一連のできごともまた,その「真実」は「藪の中」である。それぞれに,それぞれの憶測がなされているが,「真実」は「藪の中」。石原君などは,言わなくてもいいことまで「腹立ち」まぎれに言ってしまって,リオから厳重な抗議をされ,「真意が伝わらなかったようだ」などと釈明をしたりしている。しかし,案外,あれが石原君にとっては「真実」だったのでは・・・とかえって勘繰られてしまう。まさに「世界」は「パロディ的」なのである。
いささか脱線してしまったが,バタイユが言いたかったことは,「世界」もそうだが,「人間」もまた同じようなものだ,ということだ。つまり,「人間はパロディ的である」と。一人の人間のなかには,何人もの人間が同居していて,それらの人間がそのときどきの情況に応じて登場し,それなりの演技をしているにすぎない,と。真面目人間からグータラ人間まで,あるいは,たんなる酔っぱらい以上に,ふつうにしていてタガがはずれてしまったような,恍惚人間にいたるまで,ありとあらゆる人間が同居しているのだ,と。ただ,生きている環境との関係で,現代文明社会に生きている人間は,ひたすら理性的人間を演じさせられているにすぎないのであって,人間の内なる「自然」である本能的人間の側面はひたすら抑圧・隠蔽・排除されているにすぎないのだ,と。だから,人間は理性と本能との二つの極の間を揺れ動きながら生きるしかないのだ,ということになろうか。こうなったら,もう,どんな生き方をしようと「パロディ的」であるしかない。
人間がそのような生き方しかできなくなってしまった,その根源を以下のように説明する。
ヒトから人間になるときに,ヒトの「動物性」を否定することによって人間への第一歩を踏み出した。そして,「人間性」の獲得に全力を傾けた。そのとき,ヒトのもっていた「動物性」を禁忌としたり,禁止したりして,最終的には「法律」によって制度化して排除する,という方法をとった。そのため,ヒトの「動物性」は人間の「内なる自然」(たとえば,本能)として,理性の力によって人間の奥深くの闇のなかに閉じこめられてしまった。しかし,いかに文明化した社会に生きていようと,人間の「内なる自然」が消滅してしまったわけではない。だから,あるとき,突然,「亡霊」のように立ち現れる。つまり,あらゆる「禁」を侵犯して,あふれ出てきてしまうのである。しかも,そのときの「快感」をけっして忘れてはいない。こうして,「禁」を侵犯することの魅力は「欲望」となって温存される。しかし,「欲望」がそのまま表出したのでは困るので,そうならないように絶えず理性の力で抑え込んでおくことが必要である。
バタイユは,こういうことを念頭におきながら(じつは,もっともっと深い意味があるのだが,ここでは割愛),「世界はパロディ的である」と書いたのだとわたしは考えている。そして,その本音は「人間はパロディ的である」というところにあったのではないか。それは『太陽肛門』を読んでみれば一目瞭然である。同じ路線に,『眼球譚』(1928年)も位置づく。
今夜はここまで。
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2009-10-13 竹内敏晴さんの「じか」とスレ違う。
_ 竹内さんが,「じか」は語れない,経験するものでしかないから,と言われたことを思い出している。
で,それはバタイユの「エクスターズ」ととてもよく似ているように思う,とわたしは発言したように記憶する。でも,バタイユの「エクスターズ」は「わたし」が無くなってしまうでしょ,「じか」はどこまで行っても「わたし」は消えない,限りなく薄くなるけれども・・・と竹内さんは言われたように思う。このことが気になっているので,このところバタイユをとことん読み直している。そこで,やはり,とても役に立つのが湯浅博雄さんの『バタイユ 消尽』というテクストである。このテクストの273ページにつぎのような文章がでてくる。
開かれたものの次元は非限定なまま流動するなにかであり,<知識>としては知られない。つまり主体がそれを相対化して認識するということはありえない部分を含んでいる。通常私たちが語り,互いにやり取りしている言語によって名づけることはできず,言い表せないなにかがある。それは<表象すること>の不可能な部分を内包しており,ただある好運に恵まれた瞬間にかろうじて<生きられる>だけだ。名づけようのないまま経験されるだけである。それも,真に経験されるとは言えない仕方でのみ経験されるだけなのだ。「ある好運に恵まれた瞬間に」と書いたけれども,その好運とは世間でそう思われていることとは逆転しており,いわば「諸世界の底」(『有罪者』)が剥き出しになる瞬間,「物たちの不可能な底」(『内的体験』)が露出する瞬間である。
この文章を読みながら,竹内さんの「じか」が浮かんだり,消えたりしている。そして,どこかクロスするところはないものかと考えているうちに,なんとなく「スレ違って」しまうのだ。どこかが違うのだ,と。でも,それを言説化することができない。もっとも,言説化でなくて当たり前の話ではあるのだが・・・。「じか」も「エクスターズ」も「経験」するものであって,ことばで表現できるものではないのだから・・・。でも,なんとか言の端に乗せてみたい,と試みる。バタイユが「内的体験」を語ることはできない,と言いつつ,あれだけ大部の本を書いたように・・・。ただし,『内的体験』を読んでみればすぐわかるように,けして論理的にその「体験」が語られることはなく,アフォリズムの手法を徹底して用いながら,断片的な詩文を書きつらねていく。そうしてバタイユは頭にひらめいたことを書きつけてはみるのだが,書くはじから気に入らない,というか満足できない,言い足りない,もっと別の表現を・・・,と終わることのない思考の運動を連鎖させていく。そうして,おぼろげながら,そこになにかが立ち上がる,その総体が「エクスターズ」という「経験」なのだ。
たぶん,「スレ違い」の根源にあるものは,つぎのようなことではないかといまは考える。バタイユの「エクスターズ」の次元が,「諸世界の底」が剥き出しになる瞬間,あるいは,「物たちの不可能な底」が露出する瞬間に開かれる経験であるのに対して,竹内さんの「じか」の次元は,Ich−Du,あるいは,Ich−Esの関係性のなかで開かれる経験なのではないか,ということ。それでもなお,「ある好運に恵まれた瞬間に」起こる経験である,という点では共通しているように思う。つまり,クロノスの時間に開かれるのではなく,カイロスの「時点」で露呈してくる経験,という点で。
ここからさきは,マルティン・ブーバーの思想・哲学をどう読み切るかにかかってこよう。だから,いまの段階では,この問題を言い切る自信がない。どなたか,ご教授願いたい。
こんな議論が,こんどの17日(土)の「竹内敏晴追悼シンポジウム」で展開することができればなぁ・・・と本気で考えている。でも,竹内さんのお蔭で,わたしのなかのバタイユ理解に大変革が起きている。あとの残り時間をフルに使って,少しでもバタイユ理解を深めていって,シンポジウムに備えたいと思う。
久しぶりに至福の時を送っている。竹内さんに感謝。
でも,ほんとうは「じか」に竹内さんと,このような議論をしてみたかった。後悔,さきに立たず。こんごは,課題を先送りしてはいけない・・・とこころに戒めを。反省することばかり。でも,こうして<わたし>の<外>は少しずつ開かれてくるのだが・・・。そんなことの繰り返し,それが人生。
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2009-10-15 古代オリンピックをバタイユ的に解釈すると。
_ 古代オリンピック競技は,ゼウス神を祀る祭典競技として,祝祭として行われていた。これを,バタイユ的に解釈すると・・・・。
紀元前776年にはじまったとされる古代オリンピック競技は,残された記録から類推するだけでも,相当に不思議な世界を現出していたことがわかる。まず,第一に,古代オリンピック競技は祭祀儀礼の一環として,祝祭的な時空間のなかで行われた,ということだ。だから,開会式(初日)には,飾りたてた雄牛を先頭にして選手・役員がそろって,オリンピアの聖域を行進し,雄牛をゼウス神殿の前で供犠として捧げ,その血を祭壇に塗りたくり,肉を焼いて,みんなで食べた。つまり,共食儀礼を行っているのである。なぜ,このようなことが,古代オリンピックが滅亡するまで,ほほ1200年間もの長きにわたって行われていたのであろうか。これまでの説明では,ゼウスはギリシア多神教の頂点に立つ全能の神さまなので,まず,オリンピアの聖域の中心に位置するゼウスの神殿の前で,雄牛を捧げ,無事にオリンピアの祭典競技が終わることを祈願したのだ,という。まずは,ゼウス神を喜ばせて,神々のご加護がえられるように,当時のもっとも貴重な「財産」である雄牛を供犠として捧げたのだ,つまり,祭祀儀礼を行ったのだ,ということになっている。
しかし,バタイユに言わせれば(なにも発言はしていないのだが,以下は,わたしのバタイユ解釈にもとづく)そうではない。もし,そのような解釈がなされるようになったとしても,それはかなり時代が下って,合理的な歴史解釈が行われるようになってからのことだ,と。つまりは,近代的な解釈ではないか,と。それ以前は,そうではなかったはずだ,とバタイユなら言うだろう。
おそらく,古代オリンピック競技がはじまるはるか以前から,雄牛を犠牲にして神にささげる儀礼は行われていたはずだ。その,最初の発端となった考え方は,家畜化した牛を,もう一度,本来の野性の動物に送り帰すことにあったのだ,と。人間は,野性の牛を飼い馴らして家畜化することに成功した。本来が,自然の真っ只中にあって,あらゆる動物たちと同じように,野性のなかで生きているべき存在であった。人間もまたそうであった。しかし,人間は一足さきに,動物とたもとを分かって,ヒトから人間へと進化をはたした。この詳細については,ここでは省略する。が,人間はみずから,動物性から離脱して,人間性へと移行したことについて,自然に対してある種の負い目を負っていた。だから,人間がまずは,定期的に本来の動物性を取り戻すための祭祀を行う必要を感じていた。そのために,わざわざ祝祭のための時空間を設定して,文字どおり,野性に帰る,動物性を取り戻すための酒池肉林を展開したのだ,と。こうして,人間は,定期的に,野性の荒々しさを取り戻し,つまり,先祖返りをすることによって生命力を賦活させようと考えたのだ,と。
これと同じように,本来,自然のままの動物であった牛を人間が家畜化してしまったことによって,牛の動物性が制御され,野性から遠ざかってしまう。だから,牛もまた,定期的に,自然存在に送り帰す必要があると,原初の人間たちは考えた。その送り帰すための儀礼として「供犠」が行われるようになったのだ,と。だから,雄牛の「供犠」は,ゼウス神に捧げることが最初だったのではない,ということだ。
こうした一種の慣習行動が,古代ギリシアの各地で行われていたはずで,それが,オリンピアの祭典競技の祭祀の一部として継承されたのだ,ということになろうか。一説によれば,古代オリンピアの祭典競技のはじまりは,葬送儀礼にあったという。だとすれば,牛の供犠の意味はさらに拡大され,深い意味を帯びてくる。
だから,雄牛の供犠は,ゼウス神の信仰体系が成立する以前からの,古代ギリシア人たちの祈りの形態のひとつであった,ということだ。
こうして,この祭祀儀礼にともなう供犠をとおして,人間は「死」と真っ正面から向き合い,そこから生まれる「聖なるもの」の経験,あるいは,「至高体験」をすることになる。そして,この体験が,少しずつ整備されていって,ゼウス神の信仰体系が整っていくことになる。そのとき,それ以前から行われていた雄牛の供犠という儀礼が吸収された,と。
ヒトはみずからの動物性を「否定」することによって人間となり,牛は人間によって自然から遠ざけられ,牛本来の野性を「否定」されることによって家畜化された。しかし,供犠は,もう一度,野性をとりもどすための儀礼として,本来の動物性のもとに送り帰すことを意味している。そして,このことを仕掛ける人間もまた,動物性を取り戻そうとする。つまり,供犠は,「否定の否定」の上に成立するひとつの文化装置なのだ。
この点を明らかにしたことが,バタイユの功績の一つとして,もっと注目されてもいい,とわたしは考えるのだが・・・・。
ところで,古代オリンピック競技では,選手たちは「全裸」で競技を行った。つまり,「裸体競技」だったのである。なぜ,一糸まとわぬ,すっぽんぽんのはだかで競技を行ったのか,これはいまだに定説がない。しかし,バタイユの仮説を用いると,意外にするりと説明できてしまう,とわたしは考えるのだが・・・。
今夜はここまで。いずれまたの機会に。
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2009-10-16 「火」になる,というレッスン。
_ 竹内さんが,「火」になる,というレッスンのことを話してくださったことがある。ご自分が「火」になってしまって,もとに戻れなくなって困った,というお話である。
それは,もう,ほとんどバタイユのいう「エクスターズ」と変わらない地平の経験ではないか,とわたしは考え,そのような考えを述べたことがある。しかし,竹内さんは,「それは違う経験だと思う」「なぜなら,バタイユのエクスターズは主体がなくなってしまうでしょ。わたしの<火>は,どこまでいっても<わたし>という主体は消えない。<火>になってしまった自分をしっかりと観察する<わたし>がいる。だから,違うと思うんですよ」と仰ったように記憶する。これも,わたしの記憶だから,ひょっとしたら違う言い方をされたかもしれない。でも,わたしのなかでは,このように記憶されている。
このときのお話と,マルティン・ブーバーの『我と汝』の著書に書かれている,Ich−Du,Ich−Esの関係について熱っぽく語られた竹内さんのお考えとが,わたしのなかではつながっている。なるほど,どこまでいってもIchという主体があって,そのIchと「他者」(DuとEs)の関係性をどのように築いていくのかが重要なのだ,と竹内さんはお考えになっていらっしゃるんだな,と。
たしかに,バタイユのいうようにエクスターズしてしまったら,そこには,もはや,レッスンは成立しなくなってしまうだろう。レッスンである以上は,きちんとした理性がはたらき,しっかりとした意識のもとでの状況認識がなければ,それは不可能だろう。
「じか」に触れる経験もまた,そういう地平での「できごと」と考えるべきことなのだろう。現代社会を生きるわたしたちは,いつのまにやら自己を守るために幾重にもバリアを張りめぐらせて,安全地帯に逃げ込んだつもりでいる。しかし,それがあまりに嵩じてしまうと,こんどは「他者」との関係がうまく保てなくなってしまう。わたしたちは,個人差はあるものの,大なり小なり「関係障害」というものに陥っている。そういう人たちが年々,増えつづけている,と竹内さんは仰る。
この人たちに必要なことは,みずから張りめぐらせたバリアを一つひとつ,取り外してあげることだ,という。それらを取り外していくと,次第に,生まれたときからの,本来の自己を取り戻してくる。そして,ついには,あるがままの自然の自己にたどりつく。その地平に広がっているのが,竹内さんの仰る「じか」という「時空間」であり,「経験」なのであろう。それを,わたしは,西田幾多郎のいう「場所」というようには考えられないだろうか,とお尋ねしたことがある。ここでも,いとも簡単に,「それは違うと思う」と否定された。そのときの印象では,竹内さんは西田幾多郎はお好きではないな,というものだった。あの世代の人たちには,西田幾多郎アレルギーとでもいうべきものをお持ちの方が多い。もちろん,ブーバーの思想・哲学と西田幾多郎のそれとは相容れないものが多々あるから,当然といえば当然のことなのだが・・・・。
Ichを拠点にして,他者との関係性をどこまでもさぐる実践と思考を深めていかれた竹内さんのお仕事を,わたしは,もう一度,はなから考え直さないといけない,と最近,しみじみと考えている。そして,バタイユの思想・哲学との位置関係をきちんとさせておかなくては・・・と。
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2009-10-18 「竹内敏晴さんを偲ぶ会」に出席。
_ 東京・賢治の学校(立川・鳥山敏子)で「竹内敏晴さんを偲ぶ会」が開催された。秋晴れの好天にめぐまれ,竹内さんに思いを馳せるには絶好の日和となった。
午前9時30分からはじまって,第一部が終わったら午後2時近くになっていた。まず,参加者全員による「献花」にはじまり,竹内さんにゆかりの方々の「竹内さん,ありがとう」というスピーチがあった。しかし,こんなに延々とスピーチがつづくとは思っていなかったので,いささか,意表をつかれた思い。でもお蔭で,わたしの知らなかった竹内さんのいろいろの側面が紹介されて,なるほどなぁ,と納得することが多くあった。
たとえば,冒頭にお話された一高時代の弓術部後輩の方のお話のなかに,『正法眼蔵』を愛読されていた竹内さんのご紹介があり,やはりそうだったんだ,とこころの底から納得。なぜなら,「竹内さんを囲む会」(全部で4回開催)のディスカッションのなかで,時折,意外なところで道元さんの話題が登場し,竹内さんが熱っぽく語られることがあったからだ。禅寺で育ったわたしとしては,とても嬉しくて,不十分な理解ながらも必死で応答させていただいた。『正法眼蔵』の内容はきわめて難解で,わたしには手に負えないところが多かったので,それをわざわざ『般若心経』読解におきかえて,お話をさせていただいたりもした。
それと,一高時代に,竹内さんは,すでに,一種独特の存在だったらしく,周囲の寮生たちからも特別扱いをされていた,というお話が印象的だった。孤高の人とでもいうべきか。竹内さんの生涯にわたる存在感の重さの片鱗のようなものが,すでに,一高時代にめばえていたということだろう。配布された「略年譜」によれば,一高の自治寮委員長をされていた,というのも確たる根拠の一つといっていいだろう。このころから,「深く考える人」だったこと,しかも,ふつうの人が考えないことを深く考える人だったことも透けて見えてくる。思考と実践をとおして,つねに新しい自己に「気づく」こと,この姿勢は生涯にわたって変わらなかった。その情熱はどこから湧いてくるのか・・・ということを,他の方々のお話を聞きながらも,ずーっと考えていた。
もう一点,強く印象に残ったことは,「演劇」というもののもつ迫力はとてつもないものだ,ということだった。だから,演劇の人たちも凄い。演出家というお仕事がどういうものなのか,わたしは知らない。しかし,今日の演劇関係者のお話をとおして,おぼろげながら,あるイメージだけは浮かんできた。それはもう,まるで戦場のような「結界」とでもいうべき時空間のなかで,丁々発止と闘いながら,一つの演劇をつくり上げ,俳優さんたちは与えられた役を「生ききる」ことに全力をあげる。これは,バタイユ的にいえば,「全体的経験」ということになろうか。一人の生きる人間として,全体重をかけて,あるいは,存在のすべてを賭けて,瞬間,瞬間に勝負をかけていく。こういう,ある意味での修羅場をくぐり抜けていく経験の蓄積が,人を徹底的に鍛え上げ,磨き上げていくのだろう。竹内さんの存在感の重さは,こうして形成されたものなのだろう。
このことを考えると,わたしの通ってきた道がいかに安易であり,いい加減な人間関係のなかでごまかしつづけてきたことか,と慙愧の念にかられる。教育現場がみるも無残に頽廃し,大学もすでに崩壊寸前に追い込まれているのも,わたしを含めて,いい加減な人と人との関係性でこと足れり,としてきた長年のつけがたまっただけのことだ。われわれ教育という場で仕事をしている人間はもっともっと反省しなくてはいけない・・・・と今日一日,考えていた。
竹内さんは,こうした現状をしっかりと見据えた上で,「ことばとからだのレッスン」を構築すべく全力を傾けられた。それも,終わりのない,永遠の試行錯誤のように。構築しては壊し,さらに工夫を加えては新たに構築し,を繰り返す。つねに,みずからに問いを投げかけながら,その答えを見つけるべく工夫を重ねる。その一方で,思想・哲学の理論武装にも余念がない。マルチン・ブーバー,メルロ・ポンティ,ハイデガー,ニーチェ,魯迅,道元・・・・と。わたしの小さなアンテナにひっかかる思想・哲学者の名前ですら,ここまではすぐにでてくる。この他にも,じつに多くの思想遍歴をしていることは,木田元さんとの対談集『待つしかない,か』を読めばわかる。
竹内敏晴という人間を構成している,わたしにとっての未知なる部分が明らかになるにつれ,この人の大きさがますます大きくなってくる。こういう人と,ほんの一瞬とはいえ,出会えたことを,こころから感謝したい。
_ 昨日(17日)の「ISC・21」東京例会での「竹内敏晴追悼シンポジウム」では,「じか」に触れる経験とはなにか,というテーマで議論をした。この議論をとおして浮かび上がってきたいくつかの新たな課題について考えるヒントも,今日の「偲ぶ会」をとおして発見することができた。
当分の間,竹内敏晴さんのことが頭のなかを駆けめぐることになるだろう。それもまた竹内さんからのプレゼント。快くお受けして,考え,気づくことに身をゆだねることにしよう。
「はい,息を吸ってぇ・・・・,止めてぇ・・・,はい,吐いて・・・」という竹内さんの声が聞こえてくる。
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2009-10-20 「笑顔の人」
_ いつも笑顔でニコニコしている人が,わたしは好きだ。だから,わたしの前にいるときだけでもいい,笑顔でいてほしいと思う。
もう,記憶も定かではないが,むかし読んだだれかの本のなかに,つぎのような話が書いてあった。わたしはとても気に入ったので,いまも覚えている。
一人の人間のなかには2〜30人の人が住んでいる,という。そのなかにはいい人から悪い人までひととおりそろっている。そして,そのときそのときの相手次第で,そのなかのだれが表出してくるかは,自分でもわからない。でも,気持ちとしては,いつもいい人でいたい,と願い,努力もする。だから,できるだけ笑顔を絶やさないようにつとめる。心構えのしっかりした人であれば,かなりうまくいく。しかし,相手の人が,わたしの前にきたときにどんな顔をするかは,わたしにはわからない。それでも,わたしの前にいるときだけでもいいから笑顔でいてほしい。だから,わたしは笑顔で接するよう努力する。
このような笑顔をつくる人は,ほんとうの自分を隠していることになるのだろうか。ならば問おう。「ほんとうの自分」とはどういうものなのか,と。わたしには「ほんとうの自分」というものは皆目わからない。自分ではこういう人間だと思って長年の友達に話すと,いやいやお前はそんな人間ではないよ,と言われる。親子,兄弟でも,まるでみる眼は違う。そのたびに,どれほど愕然としたことか。つまり,自己評価と他者評価とはつねに食い違っているのだ。ということは,どちらの評価も正しいし,同時に,間違っている。つまり,「ほんとうの自分」というものはわからない,ということだ。だからこそ,こうありたいと願う人間を「演ずる」しか方法はないのだ。その結果が,「笑顔の人」であって,どこが悪いというのだろう。
バタイユは「世界はパロディ的である」と書いた(『太陽肛門』)。ということは,「人間はパロディ的である」と言っていいだろう。バタイユに言わせれば,ヒトが人間になった段階で,自然を否定して文化を立ち上げた。同時に,みずからの自然をも否定し,ヒトではない人間を「演ずる」ことになったのだ,と。その罪のつぐないの一つが供犠である。供犠とは,否定した自然をもういちど自然にもどすための儀礼であり,人間が考え出した新たな文化装置なのだ,と。しかし,この供犠の本来の意味もいつのまにやら忘れてしまい,家畜の多産と五穀豊穣の儀礼へとすり替えれらていく。近代社会は,この儀礼すら,たんなる迷信であるとして,またまた否定してしまった。かくして,人間は,自然に対して否定を繰り返し,本来の自分というものを見失ってしまった(あるいは,見て見ぬふりをするようになり,それがいつのまにやら常態となってしまった)。いうならば,人間はみずからに嘘をつきつづけて,とうとう,本来の自分を見失ってしまったのだ。これが,文化的産物としての人間の成れの果てだ。
日本人が,なにかというと笑顔をつくるのは,生き延びていく上でそれが一番効果的であると多くの人が気づいているからだ,とわたしは考える。だから,わたしは,日本人の笑顔は「文化の問題だ」と,ある研究会で発言した。しかし,その場の反応は芳しくなかった。気をつよく持って,きちんと説明しようとも思ったが,止めた。その代わりに笑顔で誤魔化した。これはかなりの確信犯である。しかし,その場の多くの人は,わたしのことを不思議なことを言う人だと思ったかもしれないが,ほんの数人の人たちは素直に納得してくれたのではないか,と思っている。あるいは,深く考えに沈んだ人もいたのではないか,とも思う。
わたしが考える「笑顔の人」には,これだけの背景がある,ということだけはここではっきりと記しておこう。
だから,わたしは,これからも「笑顔の人」でありたいと願うし,わたしの前に現れる人もまた「笑顔の人」であってほしいと願う。そして,この「笑顔」を入り口にして,さらに,親密な人間関係へと歩を進めることができれば,と考える。
カメさんが甲羅乾しをしながら,心地よさそうに眼を細めているような,そんな笑顔が,いつも浮かんでいるようでいられたら・・・・,と願う。
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2009-10-25 宮部みゆき著『名もなき毒』を読む。
_ ちょっと一息入れようと思って,久しぶりに宮部みゆきの『名もなき毒』(光文社)に手をのばす。ところがである。宮部ワールドに惹きつけられてしまった。
このところ,竹内敏晴さんがらみの追悼シンポジウムや「偲ぶ会」などがあって,しかも,バタイユ的スタンスから竹内敏晴さんのお仕事と思想を考え直してみようと思い立ち,かつてない重いテーマの真っ只中に身をおき,長い時間をすごしてきた。お蔭で,わたしなりに納得のできる竹内敏晴像が浮かび上がってきたので,少しだけ安らぎをおぼえている次第。もちろん,奥の深い竹内敏晴さんのお考えや実践のすべてがみえてきたわけではない。それでも,ここがポイントだな,という程度の確信が得られたので,かなり満足している。細部については,こんごも時間をかけて詰めていくことが,わたしの仕事でもある。
というわけで,一区切りついた,という安堵感もあって,このあたりで一息入れてもいいのかなと考えた。そのとき,偶然にも,目の前に宮部みゆき著『名もなき毒』という推理小説が置いてあった。でも,一瞬だけ,躊躇した。なぜなら,宮部みゆきの小説は,読み始めたら病みつきになるということを知っていたから。以前,藤沢周平の小説にとりつかれてしまったことがあり,とうとう,およそ手にすることのできる作品を全部読むことになってしまった。それと似た感覚がわたしのなかにはあって,宮部作品は「鬼門」の一つであった。
でもまあ,目の前にあることだし,ちょっとだけ・・・という軽い気持ちで読み始めたのが間違いのはじまりだった。どうしても片づけなくてはならない日常の雑事以外の,すべての時間を宮部みゆきに奪われることになってしまった。そして,まるまる二日間(460ページに及ぶ長編),宮部ワールドにどっぷりと浸り込むことになった。
そして,強烈な「快感」が,からだを縦横に駆け抜けていった。なんだろう,この「快感」は。
推理小説なので,ストーリーを書くという野暮なことはしない。書いておきたいことは,宮部みゆきの人間をみる確かな眼,その洞察力の鋭さ,そして,登場人物たちのキャラクターを描き出す筆力のみごとさ,読者のこころの奥底まで染み入ってきて感動をさそう文章力とストーリー展開のリズムのよさ・・・その背景には,彼女のみごとな思想・哲学を読み取ることができる。この作品は,第41回吉川英治文学賞を受賞したもので,その名に恥じない立派な作品となっている。とりわけ,後半は,感動のあまり涙まで誘うみごとさである。
ぜひ,ご一読を。
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2009-10-26 神を信じない,ということの意味(バタイユ)。
_ わたしは神を信じない,という人はいまの時代にあっては少なくない,と思う。しかし,その根拠を聞いてみると,釈然としないことが多い。
神は居るか居ないかと聞かれたら,「居る」という方に賭ける,と明言したのはパスカルである(『パンセ』)。なぜなら,「居る」という方に賭けておけば,確率二分の一で,居ないかもしれないし居るかもしれないからだ。この方が人生は楽しくなる,希望がもてる,とパスカルは言っている。厳密にいえば,数学者らしく,もっともっと深い確率論を展開しているのだが・・・。
神が存在するかどうかと,神を信ずるかどうか,とは必ずしも同一問題として論ずるべきではないだろう。つまり,存在しないと考える人は信ずることもできないわけであるけれども,存在すると考える人のなかには,存在するけれども信じないという人と,存在するから信ずるという人とに分かれていく可能性があるからだ。でも,いずれにしても,一部ではあるが,神の表裏のような関係にはある。
「わたしは神を信じない」ということの根拠を,バタイユほど明解に言説化した人をわたしは知らない。バタイユは以下のように,じつに簡単明瞭に述べている。
「私は神を信じない,というのも私を信じないからである。神を信じるとは,私(自我)を信じることだ。神とは私(自我)に与えられた一つの保証にしか過ぎない。もしわれわれが<私>を絶対へと位置づけてしまっているのでないならば,われわれはそれを笑うのだが・・・」(『有罪者』)
こうして,バタイユは徹底して「笑う」経験を生き抜いた,という。そして,たとえば,『笑い死ぬ,死ぬことを笑う』というタイトルの本の構想まで立てていた,というのである(『宗教の理論』,P.186,訳者改題)。
こういうものを読んでいると,やはりバタイユという人にとっては,キリスト教信仰というものがつねに頭のなかにうごめいていて,そこでの「神」と「わたし」との関係がどこまでもついて回っている,ということがよくわかる。しかし,わたしのような佛教者にとっては,一神教のような「神」は考えられない。それとは無関係に,「八百万の神」ならよくわかる。もう,どこにもかしこにも「神さま」は居る。その「神さま」をすべて信ずるかどうかは別として,「神さま」は居る。あえて告白しておけば,まさに神仏混淆のような関係性のなかで,佛教的に都合のいい「神さま」は信ずることにしている。だから,そこでの<わたし>は半分信じて,半分は信じていない。まことに曖昧な<わたし>が存在していることになる。だから,坐禅をしても,限りなく「無私」の状態をめざすことはできるのだが,完全なる「無私」にはなれない。修行が足りない。
さて,ここからが問題である。バタイユにとっての「生」とは,「動物性」と「人間性」とを併せ持った,あるいは,主体と客体の区別のない「内在性」と主客の区別のはっきりとした「二元性」とに引き裂かれた,不可能性のなかで「宙づり」となったものであったように,わたしはいま考えている。そして,こうした「全体性」をつねに視野に入れて「生」の問題をこれほど深く,広く考えた人もいなかったのではないか,と。もう少しだけ踏み込んでおけば,バタイユほど,ヒトが人間になるときに犯した「原罪」をとことん追求し,いかにしてその「原罪」を覆い隠し,人間としての「生」を合理化し,正当化することから発生する「諸矛盾」を明らかにした人はいなかったのではないか,と。
このバタイユが踏み込んだ<非−知>の地平にまで接近していって,そこから「スポーツとはなにか」「スポーツする人間とはなにか」「スポーツの歴史とはなにを語ることなのか」「スポーツ文化論とはなにを明らかにすることなのか」等々について考えてみたい,とつよく思う。こんにちの「学問」=「科学」(Wissenschaft)の<外>に飛び出していって,まったく新たな「スポーツ学」を構築してみたいものだ,としみじみ思う。これは叶わぬ夢なのだろうか。いやいや,どんなことがあっても実現させたい,わたしの夢なのだ。
バタイユは「動物性」のレベルにみずからの身をおくことによって,「自我」を放棄し,「神を信じない」と宣言し,「笑い死ぬ」ことをめざした。わたしにはそれだけの覚悟も<非−知>の経験もないが,佛教でいう「禅定」に接近することによって,神もなにも存在しない「無」の境地からの「眺望」をめざすことは可能であろう。そこから見えてくる「スポーツ」の「学」とは,いかなるものになるのだろうか。この夢だけは放棄したくない。
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2009-10-27 『修証義』のこと。
_ 道元が書いた『正法眼蔵』の精髄を抜き出して,曹洞宗の檀信徒にわかりやすく説いた「宗意書」が,この『修証義』である。
今朝の明け方,珍しく亡くなった両親が夢枕に立った。まず,最初に母が現れ,4〜5m先に立って,ニコニコ笑っている。いかにも嬉しくて仕方がないという顔だ。10歳下の弟が母のお腹のなかにいたころの,まだ,若々しいころの顔だ。「どうしたの?」と声をかけてみたら,「なんでもなーい」とこどものように答えて,一段と嬉しそうに笑っている。そばに近づこうとしたら,来なくていい,と手で遮る。こんどは首を傾げて笑っている。なにゆえに母はあんなに嬉しそうなのだろうなぁ,と考えたところで記憶がなくなっている。
一度,深い眠りに入ってから,こんどは父の夢をみた。父は,すでに老境に入っていて,わたしと一緒に散歩に行こう,と言って玄関で靴を履こうとしている。ところが,なぜか,靴のひものセットの仕方が気にいらないから直せ,という。まるで子どものように駄々をこねている。生前はまるでそんな人ではなく,およそ他人さまに迷惑をかけることは恥だといわぬばかりの,謹厳実直の人だった。その父が4〜5歳の子どものように駄々をこねている。なだめすかして,靴を履かせて,手をつないで散歩にでる。歩き方は,もう,晩年のそれであった。ものの10mも歩くと呼吸が上がり,立ち止まって息を整えて,また,おもむろに歩きはじめる。つないだ手のぬくもりが伝わってくるなぁ,と思ったところでこの夢は終わっている。
なんで,こんな夢をみたのかなぁ,と思いながら事務所にきて,いつものようにコーヒーをいれて飲んでいたら,机の上に,たまたま置いてあった『修証義』の冊子が眼に入る。その瞬間,父が呼んでいる,と直観した。父は禅寺を守りながら,教員生活を送った。だから,毎朝,父は『般若心経』を御本尊さまに唱えてから朝食をとり,出勤していった。時折,時間に余裕があると,この『修証義』を読み上げていた。だから,わたしの耳には『般若心経』も『修証義』もものごころがついたころから,馴染みのあるものだ。そういうこともあってか,わたしは,ふと思い出すと,こころのなかで『般若心経』を唱えることにしている。こちらは短いから,いつのまにか全文を記憶していた。しかし,『修証義』は長い。だから,断片的にしか記憶には残っていない。
父が呼んでいる,と直観したすぐあとに,母のあの嬉しそうな笑顔がよみがえる。ちょっとだけ不思議な思いを抱きながら,『修証義』を開いて読みはじめる。
この宗意書は,5章31節からなる。その第1章総序の冒頭はつぎのような書き出しになっている。
生(しょう)を明(あき)らめ死を明(あき)らむるは仏家(ぶっけ)一大事(いちだいじ)の因縁なり,生死(しょうじ)の中に仏(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし,但(ただ)生死(しょうじ)即ち涅槃(ねはん)と心得て,生死(しょうじ)として厭(いと)うべきもなく,涅槃(ねはん)として欣(ねご)うべきもなし,是時(このとき)初めて生死(しょうじ)を離(はな)るる分(ぶん)あり 唯(ただ)一大事(いちだいじ)因縁(いんねん)と究尽(ぐうじん)すべし。
これを読みながら,バタイユの『宗教の理論』のなかに書かれていることを思い出していた。バタイユもまた,同じように,人間の存在を生死の問題として重視する。そこから,宗教の原イメージともいうべき「死」に向き合う原初の人間を語りはじめる。そして,ひたすら「死」に向き合う人間のいだく「畏れ」に光を当てる。この「死」=「畏れ」との折り合いのつけ方が,ヒトを人間に仕立てあげていく原動力になったのだ,と。それは,姿・形こそ違えども,いまも本質的には変わらない,と。
いま,この『修証義』の冒頭の書き出しを読んでみて,道元とバタイユでは,その視点がまるで違うことに気づく。「生死」の問題を明らかにすることは,仏家にとっては「一大事」であり,「因縁」だ,と説きつつ,ただちに「生死の中に仏あれば生死なし」とたたみこむ。つまり,「生死」の中に「仏」がいるのだと考えれば,世俗の「生死」は消えてなくなってしまう,のだと。もっと言ってしまえば,いつ生まれようと,いつ死のうと,それは「仏」次第なのだ,と説く。だからこそ「仏家一大事の因縁なり」と説く。そこの踏ん切り(ジャンプ)がつくかどうか,そのためにこそ修行が必要だ,ということになろうか。
もっとも,『デリダから道元へ』という本を書いた人(森本和夫)もいる。以前に読んで,とても感動したことを記憶している。だから,当然のことながら,バタイユもまた道元とは通底しているのだ,と考えていた。しかし,それはちょっと違うよ,と言ってくれたバタイユ研究者の友人がいる。そのことの意味が,どうしても納得できないまま,考えつづけていた。
その解決の糸口になるヒントを,この『修証義』の冒頭の書き出しが与えてくれた。これから,もう少し,本格的に追求してみようと思う。それこそ「究尽すべし」である。
どうやら,両親は,わたしの「迷い」を「救済」するために夢枕に立ったのでは・・・と考えたりしている。「念ずれば通ずる」と仏教ではいう。わざわざ手を合わせたり,拝んだりする必要はない。大事なのは,そういう形式ではなく,こころのなかの「念」だ,と教える。わたしの,最近の「念」が両親にとどいたのだ,と考えることにしよう。
このブログを書いて,なにかひとつ通過したなぁ,としみじみ思う。この感じもまた久しぶりである。もっともっと『修証義』を読み込め,という啓示なのだろう。『正法眼蔵』は難解だから,まず,こちらから行け,と。
丈夫なからだに生み,育ててくれた両親には,ほんとうに感謝あるのみと思っていたが,ここにきて,こういう道案内までしてくれるとは・・・。ありがたいこと,この上なし,である。
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2009-10-28 マルセル・モースの『贈与論』について。
_ バタイユの『宗教の理論』を読んだら,マルセル・モースの『贈与論』を読まなくてはいけない,ということがわかってきた。
竹内敏晴さんからいただいた宿題「バタイユ論」に,それなりに結論をだすべく一連のバタイユ本を読んでいる。これまで敬遠していた『宗教の理論』にも勇気を出して読んでみたら,一度に世界観が変わってしまうほどの衝撃をうけ,まったく次元の違う知の地平にとび出すという経験をした。その一部については,すでに,このブログでも書いたとおりである。そして,同時に,まったく新しい知の地平に立ったところで,マルセル・モースの『贈与論』を読まなくてはいけない,と痛切に感じた。
じつは,マルセル・モースの『贈与論』については,かなり以前に,ある必要性があって,一度,読んだことがある。しかし,その当時の問題意識のレベルで理解したことは,ポトラッチという世にも不思議な「贈与」の方法が,世界の各地に伝承されている,という程度のものにすぎなかった。今回,バタイユの『宗教の理論』を通過してから読み始めたマルセル・モースの『贈与論』は,これまたまったく新しいイメージを帯びて,わたしのなかに入りつつある。
そこから浮かび上がりつつある「ポトラッチ」は,たんなる「贈与」の一形式ではなくて,物々交換や貨幣経済が成立する以前の,いわゆる「贈与経済」の根幹をなすものであり,普遍経済のなかにきわめて重要な位置づけがなされるべきものであるということ,と同時に,ヒトが人間になるための一連の営みの必然的結果として生み出された「供犠」の一形式でもある,ということだ。これまた,わたしにとっては,きわめて衝撃的な新しい知の地平の展開をもたらすことになった。
いまは,まだ,読んでいる途中でもあるので,これ以上踏み込んでの感想をここで述べることは不適切でもあろう。したがって,ここでは,ポトラッチの一つの事例を紹介するにとどめたいと思う。
以下の引用は,テクストのP.99〜100にかけて記述されているものである。
ポトラッチの中には,所有する物のすべてを消費し,何も残してはならないとういものもある。誰が一番裕福で,最も激しく消費するかを競うのである。対抗と競争の原理があらゆるものの根底に潜んでいる。結社やクランにおける個人の政治的地位を始め,あらゆる種類の地位は,戦争,運不運,相続,同盟,結婚によるのと同じように,「財産の戦い」と言われるものによって獲得される。あらゆるものは「冨の戦い」であると考えられている。自分の子供の結婚や結社の地位は,交換され返却されるポトラッチを通じてのみ取り決められる。また,それらの地位は,戦争,賭け事,格闘技で失われるように,ポトラッチにおいても失われることがある。いくつかの事例によると,ポトラッチにおいては,お返しを貰うのを望んでいると思われないために,贈与や返礼をせずに,ひたすらに物を破壊するのである。彼らはギンダラ(キャンドル・フィッシュ)の油や鯨油の樽をそっくり燃やしたり,家屋や数千枚の毛布を焼き払い,競争相手を「負かす」ために高価な銅器具を壊したり,水中に投げ込んだりする。このようにして自分や家族の社会的地位を高める。それゆえ膨大な冨が常に消費され,譲渡され,そこに法と経済の体系が存在する。こういう譲渡を交換,交易あるいは売却と呼ぶこともできるだろう。しかしこういう交易は,礼節や気前よさに満ちた高貴なものである。したがって,これが違う気持ちで目の前の利益を求めて行われると,厳しい軽蔑の的となる。
以上のような記述が,つぎからつぎへと展開する。この本を読み終わったころには,わたしの思考はどのように変化するのだろうか,といまから楽しみである。
取り急ぎ,今夜のところはここまで。
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2009-10-29 「スポーツが退屈気味なのは」(朝日・夕刊)
_ 今日の朝日の夕刊・文化蘭に「スポーツが退屈気味なのは」という見出しの,編集委員・四ノ原恒憲さんの記事がでていました。
ありがたいことに,『近代スポーツのミッションは終わったか』を読んでの感想を,きわめて好意的に書いてくれています。ありがたいことです。欲をいえば,こんなレベルで読まれてしまうのか,といういささか忸怩たるものを感じないわけではありません。でも,これが朝日の編集委員という立場の人の読み方なのだ,ということがよくわかり,とても勉強になりました。こういう感想に触れると,やはり,これからもっともっとほんとうの意味での「スポーツ批評」を展開していかなくてはいけないなぁ,としみじみ思います。
10月9日(金)の『週刊読書人』での書評につづいて,第二弾というところ。共同通信社が,書評依頼をしている,という情報も入ってきていますので,これがでると第三弾ということになります。共同通信で書評をしてもらえると,全国の地方紙に掲載してもらえますので,とてもありがたいことです。なんとか,ボツにならないように祈るのみです。
あと,期待しているのは,読売,毎日,日経の3社。こればっかりは相手が決めることですので,なんともいいようがありませんが・・・。でも,なんとなく取り上げてくれそうな予感・・・。わたしの予感はちかごろとてもよく当たるので,大丈夫,と自分に言い聞かせています。
『近代スポーツのミッションは終わったか』をテクストにして,神戸市外国語大学の集中講義をやることにしています。そのための弾み車としても,たくさんの書評がでることを期待している次第。集中講義の日程は,12月16日(水)から18日(金)までの三日間。いつもにもまして気合が入ります。その翌日(19日)には,「ISC・21」12月神戸月例会の開催を予定しています。そのうち,竹谷さんから情報が流れると思いますので,そちらを注目していてください。
それでは,つぎつぎに書評がでることを期待して,今夜はこれで。
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2009-10-30 『タバコ狩り』を読む。
_ TASC(タバコ研究センター)から本が2冊とどいた。その中の1冊がこれ。なにげなく読みはじめたが,どんどん引きこまれてしまった。
著者は室井尚(横浜国立大学教授)。平凡社新書。ことしの6月にでたばかり。TASCからとどいたのは,たぶん,『談』をとおしてのお付き合いがあるからだと思う。それにしても,なぜ,このわたしに『タバコ狩り』なのだろうか,と訝りながら読みはじめた。が,すぐに,その謎は解けた。わたしが考えていることと,この室井さんが考えていることとは,パラレルだ,ということだ。
つまり,たかが「タバコ」の話にすぎないけれども,どっこい「愛煙家」が世の中から排除される構造は,まさに,現代社会の,あるいは,世界の「縮図」そのものだ,という点にある。「嫌煙家」は正義,「愛煙家」はテロリスト,という構図にピタリとはまること。即ち,ヨーロッパ中世の教会権力が「魔女狩り」に走ったことと同じことが,いま,「科学」の「明証性」という「暴力」を背景にしてWHOという健康権力が「タバコ狩り」に走っている,と。しかも,このままの流れでは,2010年には日本全国完全禁煙になってしまう可能性がある,という。
WHOが,健康に関するグローバル・スタンダードを「科学」の名のもとに,世界のすみずみまで浸透させようとしている。その一つが「魔女狩り」ならぬ「タバコ狩り」だというわけである。しかも,タバコの有害性にかんする科学的根拠がきわめていい加減なものでしかない,ということを一つひとつ具体的な論文をとりあげて,解きほぐしていく。まことに抑制のきいた,おだやかな語り口で,じゅんじゅんとWHOが繰り出すタバコの害に関する科学的根拠の「大嘘」の構造を洗い出し,明らかにしていく。説得力満点である。
しかも,著者にいわせると,世界中の「タバコ狩り」に勢いをつけのが「9・11」以後の「テロとの戦い」であったという。まるで,WHOの主張がゆいいつ「正義」であって,「愛煙家」の主張はたばこ産業のまわしもの,すなわち「テロリスト」と同じだ,と。この関係をもっとみごとな論法で展開していく。読んでいて心地よい。
しかも,最後の章では,いよいよ著者の本領発揮で,こうした「タバコ狩り」の過ちを,歴史と哲学を援用して,みごとに話の落ちをつけている。ニーチェやフロイトが言っていることに耳を傾けろ,と。これ以上の詳しいことはここでは省略する。ぜひ,本を読んで確認していただきたい。
ただ,とても気に入った文章がありますので,そこだけ,紹介しておきたいとおもいます。
・・・確かに,あらゆる文明はそれ自体が人間の深い病の表現であると言えますし,結局のところ理想的な文明システムなどというものはいつの時代にも存在しません。われわれが求めるべきなのは,完全なるシステムなどではなく,動物的な衝動に揺り動かされる人間の内なる「自然」と,全く人間のコントロールを受け付けない外的な「自然」との中間に中途半端にぶら下がっているだけの「決定的に不完全なシステム」としての文明の中で,いかにして自由に考え,自立して生き抜いていくことができるのかということなのです。
ここまで読み進んだとき,ああ,この人は信頼できる,とおもいました。おそらく,ほんとうはここからさらに突っ込んだ「文明論」「人間論」を展開したいところなのでしょうが,そこをさらりと交わしているあたりに,この著者の余裕とふところの深さを感じました。著者紹介をみると,『哲学問題としてのテクノロジー』(講談社),『情報宇宙論』(岩波書店)という著書がありますので,こちらも読んでみようかと思っています。
わたし自身は,元「愛煙家」,40歳前後のころに不純な動機からたばこを止めて,もう30年が経過しています。ですが,いわゆる「嫌煙家」ではありません。「受動喫煙」という不思議なことば使いに,ずーっと疑問をいだいていた人間です。「受動喫煙」による「煙害」をいうのであれば,自動車の廃棄ガスの方がはるかに「有害」である,と信じています。肺ガンとの因果関係をいうのであれば,タバコよりは廃棄ガスやその他の煙の方がはるかに大きい(桁違いに大きい)と考えています。現に,そういう根拠を提示した本を読んだこともあります。わたしは,そちらの意見を支持する者です。いま,その本の名前が思い出せないのが残念。
最後に言っておきたいことは,スポーツにおける「グローバル・スタンダード」の含みもつ「暴力性」については,ほとんどの人がなんの疑問もなく受け入れていますが,じつは,タバコどころではない,とてつもない構造をもっていることです。その一端は,『近代スポーツのミッションは終わったか』(平凡社)という本のなかでも展開されていますので,ご参照ください。そこでの主張と,この『タバコ狩り』がシンクロしていること,このことを知っているTASCの担当者が,わたし宛にこの本を送ってくれたのだろう,と感謝している次第。
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2009-10-31 『「不良」長寿のすすめ』を読む。
_ なんとなく気になったので,TASCから送られてきたもう一冊の本『「不良」長寿のすすめ』──「まじめ」は寿命を縮める(奥村康著,宝島新書)も読んでみた。おもしろかった。
なにがおもしろかったかといえば,世界的な免疫学者である著者が,医学的根拠を提示した健康神話のほとんどは間違いだ,と言っていることだ。たとえば,昨日の肺ガンとタバコの関係についても,まったく同じことを言っている。タバコと肺ガンの因果関係については,ほんとうのことはほとんどなにもわかってはいないのであって,だれか権威のある人(たとえば,WHO)が勝手に断定しているだけの話である,と断言している。そして,肺ガンで亡くなられた筑紫哲也さんの談話「タバコが肺ガンの原因であるとは思っていない。タバコは肺ガンになる引き金にはなったかもしれないが,主たる原因はニュース23を長年にわたって担当してきたことによるストレスだと思う」を紹介しながら,この談話の免疫学的な正当性を明らかにしている。
なぜ,間違った医学的根拠が巷に流布するのか,ということの説明もおもしろかった。最初は,著名な医学者が論文のなかで,AとBとの間にはこれこれの因果関係があるのではないかと「推定」される,と書く。これを,だれかが引用する。そして,それをまた引用する。つまり,電話ゲームと同じで,いつのまにか「推定」される,が消えてしまって「因果関係がある」だけが残り,それが誤った「定説」として受け止められ,一人歩きをはじめる。そして,気がついたときには,もはや,止めようのない燎原の火のごとく大勢の人を納得させてしまう。こうなるともはやいくら訂正を出しても手遅れなのだそうだ。しかも,この誤った「定説」を利用して,金儲けをしようとする健康産業があまたと存在することも,追い風となって,いつのまにか世間全体がそれを「鵜呑み」にすることになる。こういう恐るべき「暴力」装置が,ここかしこに待ち受けている,と教えてくれる。
わたしには,50歳のときに大きな病気をして,死線をさまよう,という経験がある。それ以前から,職業上,健康の保持増進ということについては大いに関心があって,その手の本はずいぶんと読んできていた。が,その大病後は,一段と熱心に健康法に関する本を読んだ。そして,かなり医学の領域まで踏み込んで,勉強もした。しかし,その手の本を読めば読むほど,巷に流布している健康神話のほとんどは信用できない,ということに気づいた。そして,還暦をすぎたころからは,健康にかかわる本を無視することにした。だから,最近は,まったく見向きもしないできた。ただ,姪疫学の本はおもしろそうだったので,こちらはかなり読んだ。目からうろこが落ちるような,日進月歩の研究成果がつぎつぎに登場して,驚きの連続であった。が,それも,もういいや,と思うようになっていた。
そこに,こんどのこの本である。しかし,この本はおもしろかった。
とりわけ,結論を述べた部分がおもしろかった。「まじめ」な人間は長生きできない。だから,不良になって,やりたいことをやれ。食べたいものを食べろ。太ってもいい。そして,腹の底から笑える機会を多くもて。笑うのも立派な運動である。そうすれば免疫力が高まり,長生きができる,と。
昨日の「タバコ狩り」と同じ構造をもっているものの一つとして「メタボ狩り」を,この著者は指摘している。「メタボ」のどこが健康に悪いのか,これまたなんの根拠もないのだそうだ。むしろ,最近の統計によれば,むしろ太り気味の人たちの方が丈夫で長生きする,と。その証拠には,年々,メタボの人が増え続けているにもかかわらず,平均寿命もまた着実に伸びている,と。とりわけ,晩年はメタボの方が免疫力は高い,と。
というような話が満載されていて,この本はおもしろかった。
最後に,わたしがびっくりした医学の「戒め」を抜き書きしておこう。出典は,医師の教科書『ドクターズルール425』(南江堂)。
「病院は危険の場所である。賢明な方法で,しかもできるだけ短期間利用しなさい」
「可能ならすべての薬を中止せよ。不可能なら,できるだけ多くの薬を中止せよ」
「薬の数が増えれば副作用の可能性はネズミ算的に増える」
「4種類以上の薬を飲んでいる患者は医学知識の及ばぬ危険な領域にいる」
「高齢者のほとんどは薬を中止すると体調がよくなる」
TASCの担当者の方,ありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。
_ 「
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