Diary


2009-09-04 『近代スポーツのミッションは終わったか』がとどく。

_ 待望の『近代スポーツのミッションは終わったか』(平凡社)の見本刷りがとどいた。感慨無量である。

今福龍太,西谷修の両氏との共著。こういうビッグな人たちとの共著なだけに,これまでに経験したことのないそこはかとない喜びが沸き上がってくる。なんとも嬉しいことである。

振り返ってみれば,2003年の秋,札幌大学でのシンポジウムを皮切りに,3人で4回ものシンポジウムを積み重ね,ようやくこんにちを迎えたわけである。一冊の本ができあがるまでには,さまざまな紆余曲折があり,じつに多くの人びとの支援があって初めて可能なのだ,としみじみ思う。時間だけでも丸7年を要している。それを思うと,もう二度とこのような本をなすことは不可能だろうとも思う。その意味でも,この本はわたしにとってはまことに記念すべき出版というべきだろう。

「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)を立ち上げて1年半。この研究所にとっても,まことに嬉しい出版である。本のタイトルとなった『近代スポーツのミッションは終わったか』は,このまま「ISC・21」が問い続けるべき研究課題の一つでもある。その思いを籠めて,わたしが書名タイトルの原案を提示させてもらった。今福さんも西谷さんも快く賛成してくださり,すんなりと決まった。サブタイトルとなった「身体・メディア・世界」は,この本のキー・コンセプトをそのまま列記しただけである。しかし,この三つのキー・コンセプトをてがかりにして,われわれ3人は海と陸地の汀に立ち,打ち寄せる波のように何回も何回も「近代スポーツのミッション」とはいったいなにであったのか,執拗に問い続けたことも事実である。

「あとがき」にも書かせてもらったことではあるが,この本をまとめることによって,ようやく21世紀スポーツ文化論を語るためのスタート地点に立つことができた,とわたしは確信している。問題は,むしろ,これからである。近代スポーツを論ずるための「土俵」ができあがったのだから,これからどのような相撲をとるのか,ひとえにこの一点にかかっている。かくなる上は,すぐれた力士を輩出させ,手に汗握るような熱戦を繰り広げるのみだ。わたしもまたその力士のひとりとして,からだを鍛え,スタミナを蓄え,技を磨いていかなくてはならない。できることなら,これからますます心技体のバランスをととのえ,もっともっと円熟した相撲道をきわめてみたいものである。

今夜はこの本を胸に抱いたまま眠りたい。そして,この本の内容に導かれるようにして,楽しい「夢」をみることにしよう。

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2009-09-05 玄ゆう宗久著『ベラボーな生活』を読む。

_ 玄ゆう宗久(「ゆう」はにんべんに有)さんのエッセイ集である『ベラボーな生活』禅道場の「非常識」な日々(朝日文庫)を楽しみました。

芥川賞作家でもあり,臨済宗のお坊さんでもある玄ゆう宗久さんのエッセイは,いまのわたしにはぴったりくるものが多いので,ちょっと時間があると探してきて読んでしまいます。わたしの育った寺は曹洞宗でしたので,同じ禅寺でも臨済宗の「禅」についての考え方や作法とは若干違うなぁなどと思いめぐらしながら読むのは,いまのわたしにとってはとても楽しいことの一つです。なるほど,なるほど,などと独り言を言いながら楽しんでいます。もう一つの楽しみは,やはり,なんといっても文章の運びの上手さを堪能するところにあります。起承転結のうまさは,やはり,プロだけあってうまいものです。こんな風にエッセイが書けるようになれたらいいなぁ,とわたしにとっては垂涎の的というところ。いかにも禅僧らしい,肩肘はらない,脱力の具合がここちいい。

とても気楽に書いているようにみえて,じつは,相当に深いところにまで踏み込んでいることに,あるとき突然気づく・・・これがまた快感でもあります。たとえば,黄檗宗(禅宗3派の一つ)のように精進料理を商売として食べさせることが世間に広く知られるようになった結果というべきでしょうか,お寺では肉食を断ち,お酒も飲まない,ということになっていると思われがちですが,これは佛教が形骸化した結果の産物にすぎない,ということをさらりと玄ゆう宗久さんは書き流しています。

たしかに,お釈迦さんは,毎日,托鉢をしてその日の食料を調達しては修行に励んでいました。ほとんど生涯にわたって托鉢をして暮らしていました。托鉢をするということは,世俗の人びとが食べているものを分けてもらうことですので,食べ物はすべて世俗の人たちと同じものでした。つまり,いただいたものはなんでも食べる,ということです。ですから,肉はだめとか,魚はだめとか,貝類はだめだとかは,お釈迦さんはいっさい言ってはいません。むしろ,逆に,修行道場で日々きびしい修行に励んでいる修行僧にあっては,定期的に肉食をすべしとすすめているほどです。奇人変人扱いされがちな一休さんもまた,おれはお釈迦さんの教えを忠実に守り,実行しているだけだ,と断言しています。たとえば,大阪の魚市場のみんなのみている前で焼き魚を食べてみせ,「いま,引導をわたしてやった」と嘯いたという話が伝わっています。

玄ゆう宗久さんは,こんな泥くさい話はいっさいもちだすことなく,もっとさらりと上品に,禅道場の「非常識」を紹介しています。読んでいて痛快そのもの。なんだか玄ゆう宗久さんが修行したという天龍寺の道場に入門したくなってくるほどです。いまからでも遅くない,とわたしのこころの奥底でささやいている声が聞こえてきます。

ついでといってはなんですが,禅佛教の専門用語の多くが,こんにちのスポーツの世界で用いられていることは意外に気づかれていません。柔道や剣道では当たり前のように用いている「道場」ということばそのものが,お釈迦さんのはじめた祇園精舎の修行「道場」からきているのも,その一つです。また,「形」や「型」などもやはり禅道場からの転用です。

そんな視点からこの本を読む楽しみもある,というにとどめておきたいと思います。一服の清涼剤としてお薦めです。

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2009-09-06 山田詠美著『学問』を読む。

_ エイミーこと山田詠美の『学問』が面白い。エイミーの久々の傑作。彼女でなければ書けないエイミー・ワールド満開の作品。

名古屋での三日間が濃密だっただけに,その反動というべきか,わたしの頭はまったく異質の刺激を欲しがっている。その欲望に逆らってはいけない。これはわたしの長年のポリシー。思考筋(脳細胞の筋肉のこと・わたしの造語)にも緊張と弛緩が必要なのは,スポーツマンであればだれでも知っている。しかも,ただ単に弛緩させればいいというのではなくて,異質の刺激を注入することが肝腎だ。たとえば,大胸筋の疲労を取り除くには,ただ単に弛緩させておけばいいというものではないことは,スポーツマンならだれでも知っているとおりだ。大胸筋に別種の軽い刺激を与えた方がはるかに早く疲労がとれる。それと同じだ。

そのための特効薬が,わたしにとってはエイミーちゃんの小説を読むことだ。これももうわたしの長年の慣習行動(ブルデュー)となりつつある。といいつつ,エイミーちゃんの小説を読むことを正当化する。なぜなら,エイミーちゃんの小説を読むという慣習行動については,いささか後ろめたさをともなうからだ。かつて,エイミーちゃんは『跪いてわたしの足をお舐め』というSMクラブの女王さまを主人公にした小説で衝撃的なデビューをした。そのときから,エイミーちゃんを読むという行為そのものが,わたしのなかには密やかな「後ろめたさ」がともなうようになってしまっている。なにもそこまで考えなくてもいいのに・・・。エイミーちゃんの名誉のためにも断っておくが,彼女の小説は世間でいうところの卑猥な内容を含んでいるが,それでいて,あるいは,それだからこそ,まことにすばらしく奥が深いのだ。それは,まことに「哲学的」ですらある。

こんどの『学問』という作品もそうだ。「私ねぇ,欲望の愛弟子なの」という,このたったひとことを書き残すために,エイミーちゃんはこの小説を書いたといってもいい。「欲望の愛弟子」とは,また,よくも言ったものだ。「欲望」というものを学ぶ「学問」にたいして「私」はこれほどまでに忠実なのである。しかも,ここでいう「欲望」とは「性の欲望」,すなわち「性欲」のことだ。

小学校2年生の女の子が鉄棒にまたがって坐ったとき,おしっこをもらしたかと,はっとする体験をする。しかし,おしっこをもらしたわけではない。では,あのときの感覚はなんであったのか,というところからはじまって,少しずつ股間に仕掛けられた謎解きがはじまる。この謎解きのためにさまざまな創意工夫をしながら,少女は少しずつ成長していく。あるとき,ざぶとんを股間にはさんで芋虫遊びをする。すると不思議な快感が全身をかけめぐる。これはいったいなにごとかと驚く。こうして彼女の「学問」は次第に深みをましていく。

小学校2年生から高校2年生にいたるまでの成長過程をとおして,この少女とその仲間たち(男の子も)の「イタ・セクス・アリス」が描かれる。こどもから少女へ,そして女性へと成長するにしたがって,ますます複雑に分節化していく「性」の仕組みと機能を,ここまで微細に,あるいは精緻に描ききった作品を知らない。この年齢にして初めて知った女性の「性」の不可思議さ,これはまさに「学問」の名に値する。

エイミーちゃんが,あえて,この作品に「学問」という名を与えたことの意味はここにある,と言っていいだろう。ヒトが人になるための,もっとも重要な「学問」を,近代のアカデミズムは忌避してきた。その証拠に,この分野を専門とする「学問」が存在しない。存在するのは,まったく異なる科学的なパラダイムによって専門分化した「学問」でしかない。しかし,それらの「学問」をかき集めたところで,メスが女の子になり,その女の子が「性」にめざめ,そのなんたるかもわからないまま,なかば「怯え」ながらも,魅了されていく,そして,さまざまに揺れ動きながら「初体験」をするまでのひとりの女性の「性と生」を学ぶための「学問」にはなりえない。その意味で,エイミーちゃんは科学万能時代を生きる現代という時代への痛烈な批判を,この「学問」というタイトル(ネーミング)に籠めているといってよいだろう。

なぜ,このことに,わたしがこれほどこだわるのか。この問題はそっくりそのまま「スポーツ科学」に当てはまるからだ。つまり,「スポーツ科学」はスポーツマンやトップ・アスリートにとってまことに重要な貢献はしているものの,けして「充分」とは言えないからだ。ひとりの生きる人間にとって「スポーツとはなにか」という問いには答えてくれない。ましてや,幼児が児童になり,少年/少女となり,やがて青年(男女)へと成長していく,悩み多き生身の人間の側に立つ「スポーツとはなにか」という問いにたいして,あまりにも条件つきの応答しかなしえていない。だから,わたしはそれらを超克するための新しい学問としての「スポーツ学」を提唱しているのだ。

エイミーちゃん,ありがとう,とこころから感謝したい。そんな気持ちで一杯である。

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2009-09-08 「国際社会」というトリックについて。

_ 女性のズボン姿は「わいせつ罪」に相当するとして,スーダンで罰金刑判決がでた,という記事が今日(8日・朝日)の夕刊にでていた。しかも,その小見出しに「国際社会が反発」とある。

短い記事だから,全文,引用しておこう。

スーダンの首都ハルツームで,ズボンをはいていたという理由で女性が「わいせつ罪」容疑で逮捕,起訴される事件があり,ハルツームの裁判所は7日,この女性に罰金500スーダンポンド(約2万円)の支払いを命じた。AP通信などが報じた。通常,わいせつ罪にはむち打ち刑が適用されるが,「非人道的だ」として国際社会の反発が強まり,裁判所の判断が注目されていた。

女性は元国連職員で地元紙記者のルブナ・フセインさん=写真,ロイター。フセインさんは罰金の支払いを拒否し,収監された。フセインさんは7月3日,ハルツームのレストランでズボンをはいて食事中に知り合いの女性12人とともに警察に逮捕された。イスラム法に基づくスーダン刑法では,女性の脚線が明らかになるズボン着用はわいせつ罪にあたり,40回以下のむち打ち刑が科せられる。

逮捕された13人のうち10人は,逮捕後に各10回のむち打ち刑を受けたが,フセインさんは裁判で争うことにし,わいせつ罪やむち打ち刑の問題を国際社会に訴えていた。

以上である。

考えたいのは「国際社会」ということ。朝日新聞は小見出しに「国際社会が反発」と書いたくらいだから,みずからの立場を国際社会の側におき,スーダンの「わいせつ罪」は不当であると判断しているとみてよいだろう。この場合の「国際社会」とはいったいなにか。

簡単に言ってしまえば,ヨーロッパの文明先進国を中心とした文化や価値観を是とする社会,ということだろう。こうした人びとのものの見方や考え方が唯一「正しい」とされ,いつのまにか一人歩きをはじめる。ついには,グローバル・スタンダードとなって,これに反するものはことごとく抑圧・排除・隠蔽されることになる。その頂点に立つものが「9・11」以後のアメリカの「正義」であり,「テロとの戦い」となる。しかも,その行為こそが「God bless America」の名のもとに正当化されてしまう。

言ってしまえば,アメリカを中心にして形成されつつある「国際社会」ですら,女性がズボンを着用するようになったのは,そんなに古い話ではない。シュテファン・ツヴァイクの『昨日の世界』にも記録されているように,第一次世界大戦前までは,女性が自転車に乗っている姿をみると,農民たちは石を投げつけた,という。わたしの調べたかぎりでも,女性がズボンをはくようになったのは自転車が普及して,女性たちもこれに乗るようになってからである。その自転車が一般の乗り物となるのは1888年のダンロップ博士による「空気入りチューブ」の開発以後のことである。1900年前後にロンドンに留学していた夏目漱石が,下宿のおばさんにすすめられて自転車の練習に苦戦した話は『自転車日記』のなかに描かれている。それによれば,このころになってようやく上流社会のお嬢さんたちが自転車で「遠乗り」にでることが流行の最先端であった,という。

ヨーロッパ先進国ですら,女性が自転車に乗って(つまりは,ズボンを着用して)いてもさして問題にならなくなるのは第一次世界大戦後のことだという。つまり,1920年代に入ってようやく女性のズボン着用が定着した,という歴史的事実がある。

地球上のさまざまな宗教的・文化的バック・グラウンドを色濃く反映した「法律」をもっている国では,まだまだ女性たちのズボン着用に大きな抵抗を示していることも事実だ。

フセインさんが,みずから率先してスーダンの国内問題を国際社会に投げかけることそのことは,なんの問題もない。こういう人が現れることによって,内部の内圧が高まり,スーダンの新しいものの見方や考え方が立ち上がっていくことは間違いない。しかし,「わいせつ罪」や「むち打ち刑」が「非人道的だ」という根拠はどこにあるのか。いま,国際社会の一員と名乗っている国々だって,つい,この間まで,まことに「非人道的」なことがまかりとおっていたのである。

もっと言ってしまえば,こんにちでは,まったく別種の「非人道的」なことが国際社会ではまかりとおっているではないか。テロ撲滅作戦のためなら一般市民の命が犠牲になってもいい,とだれが認めているのか。これこそが「非人道的」と言わずしてほかになにがあるのか。だれが考えたってオカシイ。しかし,国際社会はそれを認めている。

こういう国際社会のものの見方や考え方が,そのままグローバル・スタンダードとなり,新たな「暴力装置」として機能しはじめている。空恐ろしいことがいま着々と進展している。日本もまた,その一員となって,片棒かつぎに余念がないのだ。困ったものだ。

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2009-09-10 福岡伸一『世界は分けてもわからない』を読む。

_ 締め切りが過ぎてしまった仕事をかかえながら,それでも面白い本は読み始めると止まらない。困ったものである。

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)もそのうちの一冊。いつか時間があったら読もうと思って買い込んである本は山ほどあって,その日,その時の気分で手がのびていく本は異なる。久しぶりに福岡伸一の本に手がのびた。以前,読んだ『生物と無生物のあいだ』という目が覚めるようなインパクトが急によみがえってきて,『動的平衡』という本を押し退けて,『世界は分けてもわからない』の方に目が動く。

予想どおりの,いや,予想をはるかに上回る衝撃的な本であった。まず,タイトルからして刺激的である。『世界は分けてもわからない』のだとしたら,科学はいったいなにをめざしているというのだろう。しかも,著者は立派な分子生物学者だ。その著者が「世界は分けてもわからない」というのだから,いったいどういうことなのかと気がかりになる。ここに反応してしまう以上,あとは読むしかない。

この本の具体的な内容についての論評はここではしないことにしよう。それよりも,この本をとおして著者福岡伸一が投げつけてくる強烈なメッセージのいくつかを拾いながら,感想をのべておくことにする。

まず,とてつもなく大きな帯に躍る文字が,わたしの目をひく。「顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!?」「科学者たちはなぜ見誤るのか?」「生命に部分はあるか?」「ヒトの眼が切り取った『部分』は人工的なものであり,ヒトの認識が見出した『関係』の多くは妄想でしかない。」「私たちは見ようと思うものしか見ることができない。」などなど。

これらのキャッチ・コピーの一つひとつにわたしは激しく反応してしまう。なぜなら,スポーツ史やスポーツ文化論という分野でものごとを考えてきた人間であるわたしもまた,ほとんど同じような地平にぶちあたって,考えつづけているからである。たとえば,「顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!?」は,「資料をのぞいていても歴史の本質は見えてこない!?」と同義に見えてくる。スポーツの歴史を考えるとはどういうことなのか。近代歴史学の方法論は,資料を収集し,吟味し,整理・分類し,読解し・・・という具合の手続きを経て,歴史を再構成することにある。しかし,この方法論に終始する近代歴史学の致命傷は,資料のないところには歴史はない,という大きな落とし穴が待っているということだ。しかも,こんにちのわたしたちが手にすることのできる資料のほとんどは,よほどの恩寵にでも出会わないかぎり,支配権力にとって都合のいいものばかりである。支配権力にとって都合の悪い資料は,ほとんど焼き捨てられてしまうか,どこかに隠蔽されてしまっているからである。だとすれば,資料実証主義という方法に立脚するかぎり,そこから生まれてくる歴史の再構成は,どんなにあがいたところで支配権力にとって都合のいいものでしかない。わたしの所属しているスポーツ史学会とて,やはり,一つの支配権力として機能している。研究者としてこのことに気づいているか,いないか,その間にはとてつもなく大きな断絶がある。いまも,わたしはこの亀裂の前で頭を抱え込んでいる。だから,福岡さんの指摘するように「顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!?」というコピーにいたく反応してしまう。

以下,まったく同じように,「科学者たちはなぜ見誤るのか?」⇒「歴史家たちはなぜ見誤るのか?」,「生命に部分はあるか?」⇒「歴史に部分はあるか?」,「ヒトの眼が切り取った『部分』は人工的なものであり,ヒトの認識が見出した『関係』の多くは妄想でしかない」はこのまま歴史学に当てはめることができる。「私たちは見ようと思うものしか見ることができない」にいたっては,もはや反論の余地がない。なぜならば,歴史研究の隠しようのない「ドグマ」性は,自分の見たくないものには蓋をしてしまうという人間の「ドグマ」性と表裏の関係にあることを示しているから。詳しくは,そのことに分け入って詳細な論考を展開した『西洋が西洋について見ないでいること』(P.ルジャンドル,以文社)を参照されたい。

こんなことを考えながら,この本を読み始めてみると,もっともっと驚くべき科学者の陥りやすい隘路についての論考が展開されている。そして,この本の最後のところで著者は,つぎのように告白する。

この世界のあらゆる要素は,互いに連関し,すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び,部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。

そして,この世界のあらゆる因子は,互いに他を律し,あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには,ある瞬間だけを捉えてみると,供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き,次の瞬間を見ると,原因と結果は逆転している。あるいは,また別の平衡を求めて動いている。つまり,この世界には,ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。

世界は分けないことにはわからない。しかし,世界は分けてもわからないのである。

ここまで言われてしまうと,では,わたしたちはなにを,どのようにすればいいのか,と路頭に迷ってしまう。しかし,著者は達観している。だから,「あとがき」に相当する最後のところで,つぎのように明言している。

分けてもわからないと知りつつ,今日もなお私は世界を分けようとしている。それは世界を認識することの契機がその往還にしかないからである。

と。おみごと。

こうなったら,つぎは『動的平衡』に向かうしかないか。

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2009-09-11 竹内敏晴先生のご冥福を祈る。

_ 竹内敏晴さんが,9月7日にあの世に旅立たれたことを,10日の朝日の夕刊で知った。唖然としてしまってことばがない。

このブログでも書いたように,8月29日には三鷹で舞台公演があり,車椅子ではあったがご挨拶をされた。公演後にはロビーで,大勢のお弟子さんや関係者に囲まれて,一人ひとりことばを交わされ,丁寧に握手をされていた。わたしもその中のひとりとして,お話をさせていただき,握手をしていただいた。そのときのわたしのことばは「名古屋でのワークショップは延期されたと承知していますので,必ず,実施していただけるものと楽しみにお待ちしています」というものだった。竹内さんは,ちょっと「困ったなぁ」というお顔をされたが,にっこり笑って「ウンウン」とうなづいてくださった。「これはお約束です」と念を押したことばが最後となった。

あれからまだ10日を経ずして,旅立たれることになろうとは・・・。夢にも思っていなかった。残念の極みである。

「先生と呼び合うのはあまり趣味ではありません。お互いに人間として生きているのですから,○○さん,と呼び合いましょう」と,最初にお会いしたときに言われたことばがいまも鮮明によみがえってくる。以後,とても畏れ多いことながら,わたしたちは勇気を奮い起こして「竹内さん」と呼ばせていただいた。「稲垣さんの話は面白いですねぇ」と持ち上げられ,すっかり調子に乗って,言わずもがなのことをしゃべりすぎたのではないか,と冷や汗が流れる。でも,いつも,竹内さんはニコニコ笑顔を絶やすことなく,わたしたちと同じ地平におりてきてくださり,ともに思考を交わしながら,より真なるものを模索する道へとともに歩んでくださった。

思い返せば,少なくとも3回は,長時間にわたってわたしたちにお付き合いくださり,「対話」をしてくださった。この「対話」という形式もまた竹内さんのご提案だった。わたしたちはご講演をお願いしたのだが,竹内さんは講演はなにがなんだかわけもわからないまま一方的に話すだけで,楽しくありません,お互いに考えていることをぶっつけ合って,ひとりで思考する限界を突き破っていけるような「場」をつくった方がずっと楽しいではないですか,と仰り「対話」へと導いてくださった。その上で,わたしたちの話にも,じっと耳を傾けてくださり,しかも率直なご意見を述べてくださった。その真摯で率直な物言いと思考の積み重ねの大切さを,率先垂範してくださった。ありがたいことである。

この3回にわたる竹内さんとの「トーク」をまとめて本にしようという企画は以前からあって,すでに,テープおこしも終わり,一回目の原稿の推敲も終わり,いよいよ本格的な「編集」の段階に入ろうとする矢先に,竹内さんの訃報に触れることになった。早くから竹内さんとのブリッジをかけてくださった三井悦子さんのご努力で,これから編集作業も佳境に入ろうかというときだっただけに,返す返すも竹内さんの訃報は残念で仕方がない。弔い合戦などということばは好きではないが,竹内さんを追悼する意味も込めて,みんなで力を合わせてこれから少しでもいい本に仕立て上げるべく努力したいと思う。

昨夜は,竹内さんの書かれた本を洗いざらい集めてきて机の上に積み,それぞれの本から受けた啓示のようなものを思い返しながら,ひとりでご冥福をお祈りさせていただいた。いまさらながら,竹内さんの書かれた本から,これほどまでの影響を受けていたのかとわが眼を疑ったほどである。そして,竹内さんの思考の深みには,優れた先人たちが探し求めてきた思想・哲学の「普遍」につながるテーマが流れていることも,しみじみと思い起こされるのであった。また,そこにつながるお仕事であったからこそ,ご高齢をみじんも感じさせない,みずみずしい情熱をみなぎらせることができたのだろう,としみじみと思い起こされるのである。

それは,わたしたちの合言葉でいえば,「じかに触れる」経験の重要さであった。「じか」とは,いったい,いかなる時空間に開かれるものを意味するのか,と竹内さんは「からだとことば」のレッスンをとおして問いかける。抽象的な思想や哲学のことばではなく,からだとことばをとおして,きわめて具体的な「経験」として確認しようとされる。そこに立ち合っている人全員が,なるほど,いまのことば掛けは「じか」に触れている,と確認することができたし,いまのことば掛けは「じか」に触れることなく「とおり過ぎて」しまったよね,と納得することができた。まごうことなき事実を「現前化」させる名手でもあった。それは長年の試行錯誤と創意工夫を積み重ねてこられた粋というべきであろう。

竹内さんの「じか」の経験のレッスンをとおして,わたしは,ジョルジュ・バタイユの「エクスターズ」と連なる,と直感したし,それは同時に,西田幾多郎の「純粋経験」や「行為的直観」そのものだ,ということがひらめいた。この話をしはじめると際限がなくなってしまうので,ほどほどにしておくが,最近では,今福龍太氏のいう「ミニマ・グラシア」もまた生身の人間の「魂と魂の触れ合い」という点で,やはり,竹内さんの「じか」に通底するものをわたしは感じている。

これからまだまだ「竹内さんを囲む会」を開催して,もっともっと本音をむき出しにした「トーク」をさせていただけるものと,わたしはあまりに楽観的でありすぎた。一期一会とはよくいったもので,その瞬間,瞬間に命をかけるくらいの覚悟がないと,大切なことがつぎつぎと目の前をとおりすぎていってしまう。すべて自業自得なのだが・・・・。

竹内さん,どうか安らかにお休みください。そして,ときおり,気が向いたときには,ちょっとだけ,わたしたちのことも思い出してやってください。それだけで,きっと,わたしたちは勇気百倍して,非力ながらも頑張っていけるに違いありません。

こころからご冥福をお祈り申しあげます。

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2009-09-12 川上未映子の『ヘヴン』を読む。

_ こころの置き所がなく,落ち着かない。集中力もない。こういうときは小説に限る。というわけで,川上未映子の『ヘヴン』に手を出す。

この本も買い置きの一冊。『群像』の8月号に一挙掲載されたときに話題となり,気になっていた作品。単行本になったときに購入しておいたもの。

ちょうど読み終えたところに『週刊読書人』の最新号がとどいた。その巻頭を飾る特集が「川上未映子の世界」とあり,インタビュー記事が2面にわたって展開されている。こちらも早速,読んでみた。

インタビューアーの栗原裕一郎もまた,この作品を絶賛していて,その前提でインタビューが繰り出される。だから,作者の川上未映子も余裕で,楽しそうに応答している。記事そのものは面白かったが,インタビューアーの栗原氏の読解とわたしのそれとは,微妙にスレ違っていて,それはそれで考えるところがあった。

いまどきの中学生の「いじめ」の問題を小説としてどのように描くかは,作家の,ある意味では生命線を問われるテーマであるだろう。その点で,評価はもっとさまざまにでてきていいと思うのだが,文芸評論家という人たちの意見は総じて「ベタほめ」である。わたしの違和感は,こんなに「ベタほめ」してしまっていいのだろうか,というものだ。

たしかに,作品の構成の仕方といい,そのなかに盛り込まれた仕掛けといい,いじめられる側の主人公の描き方といい,なるほど,こういう展開にしたのかという上手さがある。しかし,ところどころに,しかもこの作品の生命線に触れる重要な部分に,こういう描写をしてしまっていいのだろうか,という違和感がわたしには残った。

たとえば,いじめる側の論理をとうとうと述べる「百瀬」という優等生の取り扱いである。こういうキャラクターが,この作品にはどうしても必要であるし,その効果は抜群であることもよくわかる。しかし,「百瀬」の展開するいじめを合理化する根拠(哲学,と栗原氏はいう)をこんな風に提示してしまっていいのだろうか,というのがわたしの違和感である。あまりに無責任な「百瀬」の発言を「言いっぱなし」にして終わらせていること。つまり,いじめられる方が悪い,と断言させて,そのあとのフォローがまったくないこと。しかも,栗原氏はインタビューのなかで「百瀬が意外と隠れキャラというか,ファン人気が高そうな感じがしたんですが」というツッコミにたいして,作者は「超格好いい,みたいな感想が多かった(笑い)。読んでいて,心強くなるという人もいましたね」と応じている。もちろん,もっと突っ込んだ話になっていけば,インタビューアーや作者の考えも違ってくるのだろうけれども・・・。それにしても,この対談では,意外に軽くあしらわれていて,これでいいのか,とわたしなどはムキになる。

川上未映子が哲学好きで,哲学者の永井均教授の聴講生となって通っていることも,わたしはなにかで読んだことがある。百瀬の発言は,どう解釈してみても,ある特定の立場の哲学的主張の代弁となっている。しかも,あまりに上手に書けてしまっているので,驚くほどの説得力をもってしまっている。ここは,もう少し中学生らしく,ロジックの危うさを感じさせながら,しどろもどろに屁理屈を言っているように描けなかったものだろうか。そうすれば,百瀬の発言そのものはかなり問題のところなのだ,と読者は見きわめることができるだろう。しかし,あまりにうまく書いてしまっているので「超格好いい」というような感想が多くでてきてしまう。これでは,作者は百瀬の発言を支持しているのだ,と勘違いしてしまう恐れがなきにしもあらず・・・と心配になってくる。

というような具合で,こういう部分があちこちに散見される。たぶん,作者は意図的にそのように仕掛けてあるのだと思う。まあ,いってみれば確信犯のようなもので,そのギリギリのところをついている,というべきか。

それにしても,なかなかの作品ではある。前半の,なんともかったるい書き出しが,徐々に異様さを発揮し,後半に入ると,前半に仕掛けた罠が一気に作動しはじめ,はらはらドキドキさせられる。

『わたくし率 イン 歯−,または世界』という強烈なデビュー作の印象がいまも残っていて,わたしのなかでは芥川賞作品となった『乳と卵』の方が評価は低い。それに比べたら,こんどの第三作は素晴らしい。しかも,全作品ともすべて主題が違う。文体も違う。これを作者は意図的にやっているという。作家としての可能性を広げたいから,と。この姿勢には全面的に拍手を送りたい。

第四作としてどのような作品が登場するのか,いまから楽しみにしたい。

_ 註記:『ヘブン』を身体論のサイドから読むと,もう一つ,面白い視点がみえてくる。小中学校の「いじめ」の構造には「身体」が必要不可欠なアイテムとなっていることを,この作品もみごとに教えてくれる。こちらサイドからの論評もいつかやってみたいところ。

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2009-09-13 阪神,ようやく3位に浮上。

_ ヤクルトがここにきて調子を狂わせ,連敗してくれたお蔭で,ようやくにして阪神が3位に浮上した。なんだか,自民党と民主党の関係に似ている。

阪神が急に強くなってわけではない。ヤクルトが戦力ダウンしただけのことだ。だから,手放しで喜ぶことはできない。投手陣はここにきて少しずつ安定してきたが,それでも安藤と福原は相変わらずだ。調子がいいかと思うと突然くずれる。かつての藪と同じだ。この二人が安定して,せめて6回を投げきってゲームをつくってくれれば,見とおしは断然明るくなるのだが・・・。

打線もいま一つだ。金本が打つと新井が駄目。新井が調子をあげてくると金本が駄目の繰り返し。鳥谷が3番にすわってなんとかその役割をはたしてくれているので,少し安心。1番から5番までのクリーンナップがそろって調子をあげてくれれば,投手陣も楽になるのだが・・・。

3位浮上をきっかけにして,チームに弾みがつくことを祈ろう。いまのままの投打の調子では,CSを戦うにはいま一つ戦力不足。中日には,まず,勝てないだろう。巨人は,ひとつ打線を狂わせておけば,なんとかなりそうだ。となれば,中日に勝てるチームに仕上げていくことが肝腎だ。そのためには,中日の投手陣を打ちくずすことのできるしつこい打線に変身することが先決。赤星,平野,鳥谷,金本,新井,ブラゼル,関本,らが足並みを揃えること。そして,投手陣は,下柳,能見,岩田の3本に,安藤,福原が加わり,だれが先発してもOKという布陣が整えば,終盤は任せておけという磐石の体制ができている。

監督が変わるということは,プロ野球のチームにとっても大変なことなのだ,ということが今シーズンの阪神をみていてよくわかった。ここにきて,ようやく真弓イズムが浸透したというべきか,チームがそれなりの体裁をととのえてきた。やや遅きに失した感がなきにしもあらずだが,ここからでもいい,戦う阪神のスタイルを明確にしてほしいものだ。そろそろ「大化け」して,CSでは奇跡を起こしてほしいものだ。絶好調ともいうべき巨人を徹底的に叩いて,セ・リーグの代表権を獲得すべし。

などと,調子のいい夢をみてしまう。阪神ファンというものはこれほどに単純きわまりないのだ。ほんの少しだけでも「夢」を与えてくれる,もう,それだけで随喜の涙を流すのだから・・・・。

さてはて,これから終盤の残り試合をどのように戦ってくれるか,楽しみに応援することにしよう。今夜はいい夢がみられそうだ。そして,明日からはまじめに仕事に取り組もう。

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2009-09-14 玄ゆう宗久著,現代語訳『般若心経』を読む。

_ またまた,玄ゆう宗久さんにはまっています。現代語訳『般若心経』(ちくま新書)を今日だけで2回も読んでしまいました。

ほとんど病気です。芥川賞作家ならではの文章のよさもさることながら,やはり,臨済宗の禅僧として天龍寺専門道場で本格的な修行をし,相当のレベルの「禅定」を経験したという裏づけ(ご本人はひとこともそのことに触れていません)が,行間からにじみでてくる,それがいいのだろうと想像しています。しびれました。これからも何回も読むことになるだろうこと間違いなしです。

いわゆる『般若心経』の現代語訳や解説本は,もう,掃いて捨てるほど,世の中に出回っています。しかも,わたしは若いころから『般若心経』の読解には惹きつけられるものがあって,ずいぶん多くの現代語訳や解説本を読んできました。数えたことはありませんが,たぶん,50冊はゆうに越えていると思います。その結果,『般若心経』という経典は,いかなる解釈も読解も可能なのだ,その人,その時の,鏡に映るものを写し取ることしかできないのだ,という境地になっていました。ですから,そろそろ自分訳を試みてみようかな,と思っていたところです。

しかし,いやいや,そんなわけにはいきません。それはあまりに甘かった。玄ゆう宗久さんの,この現代語訳に出会って,完膚なきまでに打ちのめされてしまいました。お前がわかったと思っていることは,理性で辻褄合わせをしただけのことではないか。そういう理解の仕方こそ,徹底的に「無」に帰さなくてはいけない,と『般若心経』は説いているのだ,と。「般若波羅密」を徹底的に実践すること,そして,そのさきに開けてくる「普遍的真理」に到達すること,そのとき,たんなる呪文としか聞こえていなかった「ギャーテーギャーテーハラソウギャーテーボジソーワカ」という文言が初めて「真言」として聞こえてくるようになる,と。理性で理解する「理知」の世界からいかにして離脱し,もっと自由でなにものにも拘束されないのびのびとした世界に移動していくのか,そのための方法を説いた経典こそが『般若心経』なのだ,と玄ゆう宗久さんは力説します。

その説得力に参りました。頭で考えることなんてたかが知れている。頭で考えれば考えるほど,自己中心主義になる。脳細胞というのはそのようにできている。だから,いまはやりの「脳科学」が明らかにしつつあることがらの活用の仕方を,一つ間違えてしまうと,もはや取り返しのつかないことになる(と,これは,わたしの理解)。むしろ,いろいろの束縛のなかに閉じこめられてしまっている現代人の「脳」を,「無」の世界に解き放ってやること,そのとき,「脳」ははじめて自由奔放に活動をはじめる。このことを,玄ゆう宗久さんは,理性に頼らないで,「いのちの全体性」の中にみずからの身をゆだねなさい,と説く。

はじまりも終わりもない,連綿とつづく「いのち」の連鎖と合一・合体すること,それを説いたのが『般若心経』なのだ,とようやくわたしにも納得できるようになりました。ありがたいことです。

西田幾多郎がといた「一即多」「多即一」の世界や,ニーチェのといた「永遠回帰」「永劫回帰」,バタイユの「エクスターズ」とも通底する世界が,『般若心経』のなかに説かれている,というわけです。こういう世界が透けてみえてきたとき,わたしの全身の細胞の一つひとつが,にわかに蠢きはじめ,それまでのわたしの身体が,まったく別の次元の身体に移行していくことを感じます。世界が変わる,そんな実感です。

ちょうど,わたしが50歳になるとき,確率二分の一であなたはガンだ,とお医者さんから言われたときと,とてもよく似ています。そのときは,自分のやりたいこと,やり残したことを,片っ端からノートに書き出し,それに優先順位をつけて,やれるところまでやって死ぬ,という覚悟をしました。そして,こころのなかでは「ガンと仲良しになろう」「仲良しになればガンもいじめたりはしないだろう」と思うことにしました。そのときから,思い出したら,いつでも,どこでも,『般若心経』を唱えることにしました。もちろん,ケロッと忘れることはつねのこと。それでもいい,と。こころに浮かんできたら・・・という程度に。「念ずればそれでよし」と,こどものころ尊敬していた伯父さん(禅僧)から聞いたことがあります。いちいち拝む必要はない,と。気持ちをそこに向けるだけでいい,と。

これだけで,相当に気持ちが楽になり,からだも緊張が解けたことを記憶しています。今回のは,もう少し深いところから,あるいは,微細なところから弾けたような感じです。言ってしまえば「快感」であり,「陶酔」であり,「恍惚」です。「スコン」となにかが抜けていった感じといえばいいでしょうか。

理性に頼らないで,「般若波羅密」を行ずること,このことを玄ゆう宗久さんに教えていただきました。わたしは曹洞宗ではありますが,臨済宗も同じ宗門なのですから。

「般若波羅密」については,もう少しかみ砕いて自分のことばで語れるようになったら,このブログに書いてみたいと思います。早く知りたい人はどうぞ,このテクストを読んでみてください。じつにわかりやすく説いてくれます。お薦めです。

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2009-09-18 竹内敏晴さんの悼み方。

_ 9月16日の朝日・夕刊に「祝祭としての生命探求」──竹内敏晴氏を悼む,という見出しで見田宗介(社会学者)氏の追悼文が掲載された。

90年10月の東京・新宿での「レッスンをする竹内敏晴さん」という大きな写真入りの記事。見田さんといえば一世を風靡した社会学者としてその名がとどろいた時代があった。わたしもそのころ,ひとりのファンとして見田さんの書く本を追っかけていた。そして,大きな影響を受けたことも間違いない。しかし,例の東大教養学部の「中沢新一人事事件」以来,一気に信頼を失墜し,第一線からは身を引いていた。

その見田さんが,こういう形で新聞紙上に登場するということに,わたしは少なからず違和感をおぼえた。というよりも,朝日新聞社が,こういう形で見田さんに追悼文を依頼したことが,わたしにはなんとも腑に落ちないことであった。見田さん以外にも,竹内敏晴さんの追悼文を書くにふさわしい人はいくらでもいるはずなのに・・・。朝日新聞社のアンテナの低さが露呈したということか。まあ,それはともかくとして,朝日新聞社が竹内敏晴さんの追悼記事を,これだけ大きく取り上げてくれたことには素直に感謝したい。

さて,見田さんの追悼文は,いかにも見田さんらしい書き方をしていて,なるほど,見田さんの眼からみると竹内敏晴さんという人物はこんなふうに見えていたんだ,ということがよく伝わってくる。

「わたしが竹内と集中して関わったのは一年間だけなのだけれども,この短い時日の間にも,人間が<真実>である時にその身体の動きがどのように鮮烈なものでありうるかということの,生涯忘れることのできないシーンのいくつかと立ち会うことがあった」。

この文章からも明らかなように,見田さんは,あくまでも観察者としての姿勢をくずしていない。おそらく,一年間,竹内レッスンのいくつかを「見学」して,そのときの印象をこのように語っているのであろう。しかし,竹内さんのことだから,間違いなく,「見学ではなくて,いっしょにレッスンを楽しみませんか」と誘ったはずである。にもかかわらず,見田さんは「見学者」を貫いたのだろう。「生涯忘れることのできないシーンのいくつかと立ち会うことがあった」というディスクリプションがなによりの証拠である。もし,かりに,レッスンの内側に立って,いっしょにレッスンをとおして竹内敏晴さんと「じか」に触れ合う体験をしていたら,もっともっと生々しいインスクリプションになったはずである。そして,そのスタンスからの,もっともっと深い魂の底の方からでてくる心情を吐露した追悼文を書くことになったのではないか,とわたしは勝手に想像する。

見田さんの追悼文は,あくまでも外部観察者としての姿勢で一貫している。それはそれで,見田さんらしい鋭い観察をとおしての竹内分析を展開していて,素晴らしい記述になっている。しかも,見田さんの観察した竹内レッスンが,写真の日付(90年10月)と一致しているとすれば,すでに20年も前の話である。竹内レッスンは,つねに進化しつづけるところにその真骨頂がある,とわたしは受け止めていた。事実,竹内さんもそのように語っておられた。とどまってしまったらおしまいですよ,と。これで完成などということはありえない,とも。だから,竹内さんはつねに考え,創意工夫を加え,一期一会のような瞬間と「出逢う」(Begegnung)ための,あらゆる可能性を探ることに全力をあげておられた。

竹内レッスンとは一つの生命体だったのだ,とわたしは考えている。その生命体と合体しないことには,竹内レッスンのなんたるかを感じ取ることはできないはずだ。外部に表出したその表象だけを観察して(参与観察?),それをみずからの(アカデミックな)「物差し」ではかって記述したところで,それはいったいなにを意味するというのだろう。

見田さんはあくまでも「評論家」という立場をはなれることはなかったのだろう。だから,まことに評論家風の追悼文を書かれたのであった。それは,どう考えても「批評家」のそれとは違ったものとならざるをえない,ということだ。人それぞれに追悼の仕方はあっていいのだとは思う。しかし,批評家として竹内敏晴さんと向き合いたい,触れ合いたい,と願望していた者にとっては,やはり,大きな違和感を抱かざるをえないのだ。ましてや,その書き手が見田宗介さんという,かつての大御所であってみれば,なおさらのことである。

その見田さんを起用した朝日新聞社のデスクの考え方はいったい奈辺にありや,と思わざるをえないのである。

繰り返しになるが,それでもなお,このようにして竹内敏晴さんについて考えるきっかけを,より深く考えるきっかけを与えてくれた見田宗介さんと朝日新聞社には感謝している。わたしはわたしのやり方で,竹内敏晴さんを追悼する会をもちたいと,ようやく重い腰を持ち上げようとしている。そして,なんらかの形で竹内敏晴さんのご遺志を引き継いでいきたいものと念じている。

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2009-09-20 オリンピック招致運動雑感。

_ 建築家の安藤忠雄さんが,オリンピック招致運動について語った記事を読んだ。9月19日(土)の朝日・朝刊で。

紙面の半分以上を使った大きなインタビュー記事である。オピニオン・異議あり,という蘭が取り上げた記者の記名記事である。見出しに大きく「東京五輪」盛り上がらないなんて,とある。小見出しには,この国に目標を。環境に配慮した大会で,子どもの目を輝かせたい,とある。安藤忠雄さんは,招致委員会の理事でもある。

なぜ,安藤忠雄さんがオリンピック招致に肩入れするのか,その理由が知りたかった。読んでみたら意外だった。ほとんど,これといった内容がないのである。この国が一致団結するための目標が欲しい,それがオリンピック開催だ,という。そうして,子どもたちの目を輝かせたい,という。これだけだ。「東京五輪」が盛り上がらない理由についての説明もほとんどない。つまり,わからないのである。あるいは,深く考えようとはしていないのだ。盛り上げるための秘策もない,ということでもあろう。

「盛り上がり」に欠ける,とは以前から言われていたことである。東京都民はオリンピックを招致するくらいなら,もっとやって欲しいことがあるのだ。だから,無関心を装うだけのことなのに。もはや,オリンピックを東京でやる必要はない,と都民の多くは考えている。これは,ある意味で「正解」である。

安藤忠雄さんには悪いけれども,いま,日本が一致団結して取り組まなければならないことは「東京五輪」ではないだろう。そして,「子どもたちの目を輝かせる」ものもオリンピックではないだろう。いまの日本人にとって,もっと早急に取り組まなければならないテーマは,ほかにいくらでもある。そのことを識者は,なぜ,もっと語ろうとはしないのだろうか。最近の不思議現象の一つだ。この問題については,いつか,真っ正面から論じてみたいので,ここではひとまずおくことにする。

「盛り上がり」を欠く都市にオリンピックがくるわけがない。いくら環境だ,運営能力だ,アクセスの利便性だ,といったところでそれは第二次的な条件だ。なにより必要なことは,開催都市の「盛り上がり」だろう。市民が横を向いているような都市にオリンピックをもってきても仕方がないことは自明のことだ。

そう思っていたら,今日(20日)の朝日・朝刊に,「4都市報告・16年五輪招致」で,リオデジャネイロが取り上げられていた。その見出しは「若者に夢」高まる期待,となっている。記事を読んでみて驚いた。市民の支持率が84.5%もある,という。スペインのマドリードは,84.9%だという。それに比べ,東京は55.5%で,4都市中,最低だ。ここで勝負あったと判断すべきだろう。東京都知事の石原君はともかくとして,安藤さんまでが,盲目的に五輪招致に走るとは・・・。

第三者的に,しかも,オリンピック・ムーブメントの理念からすれば,リオデジャネイロで開催されるのが,もっとも穏当なところであろう。南米大陸で初のオリンピックなのだから。五輪のマークの意味するところを忘れてはいけない。これでもしも,アメリカのシカゴか,東京に決まるなどということがあったら,オリンピックもこれでおしまい,とわたしは引導を渡したい。IOC委員の判断力が問われるところである。その意味では,10月2日の採決が楽しみではある。

リオデジャネイロは,治安に問題がある,と言われている。しかし,リオのカーニバルには世界中の人たちが集まってくる。もし,ほんとうに治安に問題があるなら,観光客も集まらないだろう。国内問題での治安と,国際問題での治安とを混同してはいけない。リオの人たちは,そんなことはきちんとわきまえている。わかっていないのは,ヨーロッパの文明先進国の人びとだ。ブラジルは,中国に比べたらはるかに開かれた国である。その証拠に世界各国からの移民が集まってできた多民族国家であることを忘れてはならない。治安に問題なし,と判断して,FIFAは14年のサッカーW杯の開催をリオと決定している。その流れでいけば,オリンピック開催になんの問題もないはず。

来年はリオデジャネイロに行ってみようと思っている。だから,なおのこと,オリンピックはリオに決まって欲しい。IOC委員たちの理性ある判断を祈るのみである。そういうことであれば,もうしばらくはオリンピックの行く末を見守ってみようと思う。

もう少し書きたいことがあるが,時間切れ。残念。

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2009-09-21 辺見庸『しのびよる破局』を読む。

_ このところ根をつめて仕事をしてきたので,ご褒美に,久しぶりの辺見庸の『しのびよる破局』を読む。

何年か前に講演中に脳出血で倒れたというニュースが流れたときに,とても大きな衝撃が走ったことを昨日のことのように記憶している。が,その後,どんな様子なのかということは知らないままに今日まできてしまった。この本を読んで,その後のことも少しわかってきた。

脳出血は相当に重かったようで,後遺症も重く,リハビリ(本人はこのことばが嫌いで「自主トレ」と呼んでいる)に励んだがほとんど回復しないまま,右半身がぐにゃりと力なくねじれてしまった,という。それでも「自主トレ」に励まないと,どんどん運動機能が低下してしまうので,毎日,少しずつ頑張っている,ということを淡々と記述している。階段の昇り降りと10メートルを歩くことを日課としながら,日々,わが身と向き合っていると,世の中のことがこれまでとはまた違ってみえてくる,というその実体験を語る。

じつは,脳出血の後遺症だけではなく,ガンも発症していて(場所については語らない),転移までしている,という。だから,定期的に病院で検査を受けることが義務づけられている,とか。

こうした自分自身のからだに「しのびよる破局」を感じとりながら,じつは,現代社会そのもののとんでもない深いところの,だれにもみえない闇のなかで,恐るべき「破局」がひたひたと浸食をはじめていることに,これはもうほとんど怒りにも似た「警鐘」を鳴らしている,というのがこの本を読んだわたしの感想である。

たとえば,わたしたちの身体はいつのまにか,インターネットの端末と化してしまっていて,みずから思考することを放棄してしまったかのように,ただただ,メディアの流す情報に機械的に反応するだけのものと堕している,と吐き捨てるように書く。とはいえ,かれの身体は右半身はまったくマヒしてしまっているので,左手で携帯電話に打ち込んで(とても時間がかかる),ある分量がたまると,それをパソコンに送信して編集する,という気の遠くなるような作業を日々行っている。

つまり現代人の身体は,もはや,ヴァーチャルな世界に完全に乗っ取られてしまっている,というのである。その結果として,もはやリアルな「生体」としての反応もマヒしてしまって,情感をもった人と人とのコミュニケーションすらとれなくなってしまった,と慨嘆する。こうした「破局」現象が,この10数年の間に,人びとの間に蔓延し,それがすでに常態化してしまっていて,そのことの異常さすらほとんどの人が気づいていない,と指摘する。つまり,無気力のまま,異様な事態が進展しているにもかかわらず,だれも気づかないでいる,あるいは,気づかないふりをしている,というのだ。

派遣社員がつぎつぎに首を切られていくというのに,労働者を守るための労働組合すら,みてみぬふりをしている,という。それは,まさに,資本家に加担していることとまったく変わらない,と。いつから労働者と資本家は手を結んで,派遣社員をいじめにかかったのか,と問い詰める。こういう,とんでもないことが白昼堂々と進展しているにもかかわらず,メディアも世間も,無関心,いや,このことの異常さにすら気づいていない,あるいは,平気で見過ごしている,この「人間としての恥辱」をすらどこかに置き忘れてきてしまった,と辺見さんは嘆く。

この現象と,秋葉原事件とは無縁ではない,と断言する。そして,だれもが犯人になりうるし,同時に被害者となりうる,そういう情況がひたひたと浸潤してきていることに気づいていない。まるで他人事のように傍観している,この感覚マヒこそ恐るべき病状だ,と。

こうした情況を生み出した「資本主義」とはいったいなんであったのか,という根源的な問いに向かう。つまり,人間の内面までをもマヒさせてしまう仕組みを,資本主義のなかに抱え込んでいるのだ,と。資本主義のいったいなにが,人間の内面までをも食い荒らすのか,と。こうして,辺見さんの洞察はどんどん深いところに入り込んでいく。

それと同じ手法で,「民主主義」の形骸化を問題にする。もはや,期待されていた民主主義は地球上のどこにも機能してはいない,と。

こうした「しのびよる破局」については,かなり多くの人びとが,じつは,うすうすと気づいているのだ。しかし,そうした「破局」にたいして立ち上がろうとはしない。ただ,傍観しているのみ・・・。ここに,現代日本の恐るべき病根がある・・・と。

辺見さんは,この,救いがたい現代社会の「破局」と自分のからだの「破局」とをシニカルに比較しながら,自分の寿命の方がさきにつきてしまって,社会の「破局」を見届けることができないのが残念だ,と本気で考える。

いまや「健常者」なる者はどこにも存在せず,大なり少なり,みんな障害をかかえた人間ばかりになりはててしまった,と辺見さんは嘆く。しかも,そのことに気づいてもいない,と。アル中がアル中に向かってふるえる指をさして「お前はアル中だ」という,それをみていたもう一人のアル中がふるえる指で「お前らはアル中だ」と言っているのと同じで,他人事のように笑ってはいられない。

恐ろしい本を読んでしまった。しばらくは安眠もできない。わたし自身のなかにも,かなり以前から,なにかとてつもない地殻変動が起きている,という予感めいたものがあって,ずっと考えていた。そのことを,あまりにリアルに分析してみせつけられてしまい,茫然自失である。ここまでリアルに問題を劈開されると,こんどは考えることを忌避したくなる。困ったものではある。

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2009-09-22 加藤周一亡きあとの日本の「知性」は?

_ 加藤周一さんが亡くなられ,日本を代表する「知性」の一角がくずれてしまった,と強く思う。

この加藤周一のあとを埋める人がだれになるのか,わたしは大いに注目している。医学から文学まで,思想・哲学・歴史から宗教はもとより,科学から芸術,そして国際関係(政治・経済・外交,など)にいたるまで,まことに守備範囲がひろく,しかも,世界的な視野でものごとを考え,ひとつの見識を提示しつづけた人をわたしは知らない。なにか困ったことがあると,加藤周一ならなんというだろうか,とここをひとつの拠点にして考える習慣がいつのまにか身についてしまっている。この姿勢はまだまだ当分,わたしのなかから消えることはあるまい。

しかし,その加藤周一さんが亡くなられたとなると,つぎなる加藤周一がだれなのかと見回してみる。これだけのスケールの大きさをもった論客はちょっと見当たらない。それほどにこの人の存在は大きかったということなのだろう。

でも,よくよく見回してみると,加藤周一の後継者になりそうな候補者はなんにんかはいる。その名前をここに挙げるのは,あまりにも礼を失することにもなるので割愛するが,わたしの頭のなかには間違いなくいる。いずれ,これらの人たちのなかから,後継者となる人が現れることは間違いないだろうと,これもまたわたしの確信にすぎないが・・・・。

_ 加藤周一には比べるべくもないが,ひところの大江健三郎の書くことに(とりわけ,エッセイ),わたしはかなり肩入れしたことがある。世代的に近いということもあって,まずは,小説の虜になった。新刊がでるとまっさきに書店に駆けつけて買ってきてむさぼるように読んだ。それが,ある時代から,かれの小説が面白くなくなってしまった。どうしたんだろうと思っていたら,「小説の時代は終わった」というようなことを言い出して,もう,小説は書かない,と宣言した。スランプだったのだろうか。と同時に,エッセイの説得力も急落した。ノーベル文学賞受賞は,それからしばらくしてからのことであった。わたしには意外だった。

でもまあ,一時期,好きだった作家がノーベル文学賞を受賞するということは,めでたいことではあった。そのご威光のお蔭といっては大変失礼な話ではあるが,ふたたび,メディアは大江さんに光を当てるようになる。しかし,わたしの眼を釘付けにするような文章にお目にかかることはなくなってしまった。

今日の朝日新聞・朝刊に,「定義集」がかなり大きなスペースをとって掲載されている。これは,月に1回くらいのペースで大江さんが担当しているコラム(それにしては大きいが)である。今回は,「文化は危機に直面する技術」という定義が見出しにおどっている。このアフォリズムは,山口昌男さんの近著『学問の春──<知と遊び>の10講義』(平凡社新書)から引いたものである。たまたま,わたしは別の必要があって,山口昌男さんのこのご著書は,でてすぐに読んでいた。だから,なおのこととしかいいようがないが,大江さん,どうしちゃったの?という疑問を抱かざるをえなかった。

結論から述べておけば,「文化は危機に直面する技術」という「定義」についてなにも語ってはいないのである。ただ,山口さんの本からの引用だけでこと足れりとしている。しかも,その引用文は以下のとおり。

「今日比較研究をやっていく場合に一番重要な課題は何かというと,文化は,普通そうは考えられてないけれども,危機,クライシスに直面する技術であるということね。」

これだけだ。これでは意味をなしていない。

大きなスペースの前半は,ひたすらバッハの音楽を語り,武満徹さんとの交遊関係を語り,息子さんの光さんのことを語り・・・という具合に,ほとんどは自分の過去の思い出を語っているにすぎない。後半に入って,山口さんの本を取り上げてもなお,自分の思い出話がつづく。そして,とってつけたように,さきの引用文がくっついているだけ。

で,最後に苦し紛れに,危機についての私見がほんの9行,とってつけたように述べられているにすぎない。

かつては,粘着力のある,読者をぐいぐい惹きつけていく文章を書いた人だけに,これはどうしたことか,と首をひねるしかない。しかも,こういう文章をそのまま掲載してしまう朝日新聞はなにを考えているのか,と矛先はこちらに向かう。はっきり言って「無責任」である。大江さんの名誉にかけても,ご忠告を申しあげるべきではなかったのか。

山口昌男さんは,札幌大学学長時代に,「文化学会」を組織して『危機と文化』という学会誌を出している。山口さんにとっては,きわめて重要な定義であり,アフォリズムであるはずの「文化は危機に直面する技術」について,大江さんがひとことの解説もしない,ということの不自然さは歴然としている。

もう時間がないが,山口昌男,大江健三郎,武満徹,磯崎新と4人の名前をならべれば,この人たちがどういう連帯の仕方をしたかは,知る人ぞ知る話なのである。以下は省略。

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2009-09-25 今福龍太氏のお話の届き方。

_ 昨夜,ある企業が主催する「遊び」工学研究会なるものに参加させてもらった。今福龍太氏がきてお話をされるというので。

あらかじめいただいた情報によれば,今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』を読んでくることが前提になっていた。だから,わたしも,すでに何回目になるかはわからないけれども,再度,眼をとおして記憶を新たにして参加した。胸をときめかせながら。

なぜなら,「遊び」とはなにか,「遊び」の根源にあるものはなにか,というテーマについて,今福さんはどのような応答のされ方をするのだろうか,ということを知りたかったからである。

わたしとしては考えるべきヒントをたくさんいただいて大満足であった。こういうときに役立つのは,今福さんの本をまじめにたくさん読んできたこと,そして,今福さんの思考の根っこにあるものはなにかと熟考したこと,さらに,そこから自分なりの発想をいくつか立ち上げるという努力をしてきたこと,などだ。だから,今福さんが,時間の関係もあって,いくつかの重要な話題について,軽やかなステップを踏みながら,ポイントだけを指摘されるときにも「あの話だな」と楽しくフォローすることができた。やはり地道な努力は役立つものである。

講演が終わって5分間の休憩をはさんで,ディスカッションに入った。わたしは「遊び」工学研究会のメンバーの人たちが,今福さんとどのようなディスカッションをされるのか,これも楽しみにしてきた。場合によっては,わたしもディスカッションの輪のなかに入れてもらえるかもしれない・・・と。しかし,予想とはかなり違う展開があって,これはこれでとても勉強になった。なるほど,今福さんのお話を,たとえば,こういう受け止め方をされるのか,という典型的な例に出会うことができたからだ。

今福さんのお話のなかの一つに,「時間論」があった。『ブラジルのホモ・ルーデンス』のなかでも重要な位置を占める論考である。しかも,テクストには書かれていなかった「時間」についての新しい論考の紹介であった。その骨格は以下のとおり。時間には,「クロノス」と「カイロス」の二つの種類がある。「クロノス」というのは,近代の時計が刻む,きわめて機械的な時間のことを意味する。つまり,科学的に計測可能な時間であり,不可逆的な時間である。それに対して「カイロス」は,あえて翻訳すれば「チャンス」や「機会」となる。だから,この時間は計測不可能であり,どこにも存在する時間である。言ってみれば,「創発的な時間」であり,「内的な時間」であり,「永遠」(「永劫」)などを意味する。この「カイロス」からは「快楽的な時間」を創りつづけることができる。

このように考えると,ことばの本来の意味での「遊び」は「クロノス」のなかでは成立しえない性質のものであって,もっぱら「カイロス」のなかでこそ生き生きと展開するものだ,と言っていいでしょう。サッカーという近代スポーツもまた,もともとは「カイロス」のなかで展開されていた「遊び」であったものが,近代的時間,すなわち「クロノス」にからめ捕られてしまったことによって(勝利至上主義のもとでの「時間」),本来の「遊び」の精神はどこかに消え失せてしまった。もはや,それは「サッカー」とは呼べないものへと変化してしまった。しかし,「ブラジルのサッカー」には・・・という具合に今福さんの話は展開した。

ディスカッションに入ったとき,冒頭から,この「時間論」をめぐって不思議なやりとりがはじまった。その論者の主張は,基本的に,「クロノス」にからめ捕られた「遊び」があってもいいのではないか,アメリカン・フットボールはまさに「クロノス」との闘いであって,そこにこのゲームの醍醐味がある,というもの。今福さんは,もう少し具体的に説明してほしい,と逆に質問をする。論者は,自分のイメージを語ろうとするのだが,どうもうまく伝わらない。お二人の間でなんどかやりとりがされているうちに,今福さんがもってきてみせてくれた「離島のパッサージュ」という映像についても,「行ったことのない者にとってはなんの感興もわかない」という発言がとびだし,にわかに「映像論」に進展。そして,ヴァーチャル・リアリティの問題に入り込み,話がややこしくなってしまった。そこで,わたしは話を単純にしようと考え,論者にたいして質問をさせてもらった。「あなたにとってのアメリカン・フットボールは,スタジアムで直接見るのと,テレビで,つまりヴァーチャル・リアリティとして見るのとでは,なにか違いがありますか」と。答えは「どちらも同じです。そこに流れているクロノスとの闘いは変わりません」と。これを受けて,今福さんは,他者から「与えられる」ヴァーチャル・リアリティとみずから「選らびとる」リアル・リアリティとの違いを,かなり懇切丁寧に説明された。実際の「木登り」の経験や「うなり声」などと,ヴァーチャル・リアリティとの違いを取り上げて。けれども,どこまで行っても平行線のままであった。

もっとも,このディスカッションも,わたしの「受け止め方」であって,別の人はまた違う「受け止め方」をしているかもしれない。そのことはお断りしておく必要があろう。その意味では,わたしの「独断と偏向」が紛れ込んでいないとは保証できないところ。

それを前提にしても,なおかつ,こんな風に議論が交わらないということの背景にはいったいなにがあるのだろうか,と考えてしまった。

ひょっとしたら,「クロノス」にからめ捕られたゲームのなかにこそ,新しい時代を生きる人たちの「遊び」の快楽が生まれつつあるのだろうか,と。ものごころついたときには,すでに,電子化されたゲーム機器に囲まれていて,長じてはパソコンと「遊ぶ」ことになんの違和感もない,つまり,ヴァーチャル・リアリティの方が圧倒的に身近な「遊び」である,と(現に論者はそのようなことを語っていたように記憶する)。

でも,こんなことは今福さんの思考のなかにはとっくのむかしに折り込み済みである。にもかかわらず,今福さんが丁寧に「遊び」が立ち現れる「原遊戯」の問題を語りつづけたことが,わたしには印象的であった。「遊びは文化に先立つ」というホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の仮説をも紹介しながら・・・。それでもすれ違ってしまう。

そこには,もっと深い理由が存在するのだろうか。

というようなことを考えながら,ある原稿を書く必要性があって,読みかけになっていた『呪われた部分・有用性の限界』(ジョルジュ・バタイユ著,ちくま学芸文庫)を読んでいたら,この問題を考えるためのヒントになりそうな,とても刺激的なことが書いてあった。

これは長くなりそうなので,明日,とりあげることにしよう。

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2009-09-26 『呪われた部分・有用性の限界』からのヒント

_ 昨日のブログのつづき。つまり,議論が噛み合わないことの理由はなにか,ということのヒント探し。その1.

ジョルジュ・バタイユの未完の著作『呪われた部分/有用性の限界』(ちくま学芸文庫)の235ページに,「本書を動かしている精神の原則と方法」という見出しタイトルで,まことに魅力的なバタイユの論考が展開されている。その前に,いろいろの前提があってこの部分の言説が導き出されることは当然である。そして,それらについての説明がほんとうは必要なのだが,それだけでこのブログが終わってしまうので,それらについては割愛させてもらう。あとで,補っておいてほしい。

ということで,いきなり議論の中核部分に突入することにする。バタイユは二つの異なる認識方法があると指摘した上で,それをつぎのように区別している。

「ひとつは認識した事物の全体を,古典的な科学のもとで描き出す方法である。もうひとつはこれとは著しく異なる方法であり,第一の世界では知られておらず,第二の世界における鍛練で獲得した経験でなければ認識できないカテゴリー,たとえば<笑いたくなるもの>のようなカテゴリーを使うものである。」

こんにちの世界でいえば,最先端科学によって明らかにされつつある認識の世界と,「聖なるもの」(笑いと供儀)を解きあかそうとする人類学的な認識の世界との違い,と言ってもよいだろう。バタイユは,たとえば,メキシコ・アステカ文明のなかで展開された「聖なるもの」の儀礼の分析をとおして到達する認識の世界をイメージさせながら,この二つの認識の違いを際立たせていく。そして,つぎのように提案する。

「わたしはいま,この二つの対立した認識の種類に名前をつけようと思う。客観的な認識と交感的な認識である。わたしは自分のうちで,最大限の明確さでこの二つの認識を区別した。そしてこの違いがあるという単純な事実に基づいて,わたしはこの二つの認識の間に,それまで存在しなかった接合部を確立し始めた。」

ここでバタイユがいう「客観的な認識」は「科学的な認識」に,そして「交感的な認識」が「人類学的な認識」に対応する,と考えてよいだろう。そして,この二つの認識の間に「それまで存在しなかった接合部を確立し始めた」と述べた上で,さらに,その「接合部」の存在理由について論考を展開している。その上で,「交感的な認識は客観的な認識の次元の外部にあり,しかもこの原則が解決しようとする要請の外部にある。このため,二つの次元で同時に回答が示されるような接合部を作り出すことが必要になる。この原則は,客観的な認識の言葉で表現された問いに交感的な認識の条件のもとで回答する。この二つの次元が対応することは可能であると想定されているので,そこから得られた答えを,客観的な認識の言葉に翻訳することが必要だった。笑いを説明する試みを完遂することが必要だったのである。」(240ページ)

このあたりのことが,一昨日の研究会での議論の「スレ違い」を生んだのだろうか,とわたしはひとりで考えている。しかし,今福さんが,繰り返し繰り返し,懇切丁寧に説明した言説は,ここでいう「客観的な認識の言葉に翻訳」されていた,とわたしは思うのだが・・・。

それとは別に,バタイユのいう「交感的な認識」という表現は,バタイユに慣れている人にとってはなんの抵抗もなく理解できてしまうところだが,不慣れな向きには不可解そのものだろう。バタイユ自身もそのことを十分に認識しているようで,わざわざ「交感的な認識の原則」という小見出しをつけた詳論を展開している。そのうちのいくつかの謎めいた文章を引用しておくと,以下のとおりである。

○この書物で採用している方法の基礎となるのは,なによりも笑い,涙,エロティシズムによる認識である。

○笑いは認識の行為である。

○わたしが笑うと,事柄の性格がみずからを裸にする。わたしは事柄の性格を知り,事柄の性格は自己をあらわにする。わたしを笑わせるのは,事柄の根底なのだ。

○笑いは内側から認識することはできない。生きられた経験とともに,笑いの存在理由を考察するような笑いの「現象学」など想像することもできない。

○わたしは,生きた経験だけからではなく,供犠,戦争,祝祭の経済,笑いのように,外部から与えられた事実だけから出発するが,それは偶然ではない。

というような言説がつづく。最後に,つぎの文章を引いて終わりにしよう。

「交感的な認識は,ほんらいの意味では,客観的なものではない。推論に基づいた認識と同じように,交感的な認識では,主体は客体によって働きかけられて,変容する。ただし,推論に基づいた認識は,この変容から出発して,孤立した対象について考えようとする。これに対して交感的な認識は,客体の認識であると同時に,この変容についての認識でもある。

ここでは主体と客体を分離することはできない。孤立した点としての対象ではなく,交流の場をみいだすべきなのだ。たしかにわたしたちは,うけとった働きかけを外部に向けて投影することはできる。これは正当な操作だ。しかし主体の変容は,交感の場の投影とはまったく区別できないものになる。」

このあとも延々と「交感的な認識」についてのバタイユの,一種独特の論考が展開している。しかも,それらはすべて「非−知」のレベルから導き出されるバタイユの真骨頂ともいうべき,きわめて魅力的な論考である。補っておいてくだされば幸いである。

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2009-09-27 朝青龍,24回目の優勝。

_ 朝青龍が優勝した。場所前の調子はけしてよくなかった(怪我もあったし)のに,優勝決定戦で白鵬を破っての優勝。立派。

結果的には,ことしの初場所の再現となった。2番とも素晴らしい相撲だった。やはり,相撲は立ち合いにある,としみじみ思った。立ち合いでいかにして先手をとるか,ここがすべて。

本割では,白鵬が,これ以上にいい立ち合いはない,という理想的な立ち合いをみせ,一気に土俵際まで押し込んで(すでに,このとき朝青龍は土俵を割っていた)おいてからの上手投げ。絵に描いたように決まった。朝青龍の重心が高かったこともあって,なおさら,白鵬の立ち合いの重心の低さといい,当たる角度といい,申し分のなさが光った。しかし,この本割での圧勝に,じつは落とし穴があった。白鵬は,この圧勝で優勝決定戦も勝てる,と確信したように思う。見ていた人も多くの人は,そう思ったに違いない。しかし,そうは問屋が卸さない。

初場所のときもそうだった。朝青龍は,すぐに頭を切り換えた。どうやって左の前まわしをとるか,そのためには低い姿勢で潜り込むしかない,と。決定戦の立ち合いは,よくみると(何回もリピートしてくれたのでわかったこと),朝青龍は右手で相手ののどを突き上げている。そうして,ややのけぞったところで,さっと左の前みつを上手ながら引いた。これで勝負あり,である。しかし,そこからの攻防もみごとだった。朝青龍が,すぐに左から出し投げを打って,相手の体勢をくずし,さらに右の前みつも引いて頭をつける。しかし,白鵬は,なんとしても右四つに組止めようとして必死に体勢を建て直そうとする。一瞬,右四つになりかけた。その瞬間,右からの下手投げからすくい投げへと,体勢がくずれながらもからだを寄せていく。白鵬のからだがもんどり打って転がる。そのからだの上を一回転させて朝青龍も転がっていく。勝負がついた瞬間,まだ,からだが土俵の上に転がっているときに,朝青龍は小さくこぶしをにぎりガッツ・ポーズ。そして,土俵を降りるときに,こんどは両手を高々と挙げてガッツ・ポーズ。解説者(もと北の富士)はすかさず「あれをやらなければいいんだが・・・」とコメントをつける。でもすぐに「無意識のうちにああなってしまうんだろうけど・・・」とフォローする。

いっとき自信をなくしかけた朝青龍だったが,これでみごとな復活である。今場所はなんといっても「集中力」がとぎれることなく,最後まで持続した。ここに朝青龍の「成長」をみる。夜10時のサンデー・スポーツにゲスト出演した朝青龍の表情をみていて,「大人の顔になったなぁ」と思った。ちょうど千秋楽が29歳の誕生日だという。ついこの間までは,「やんちゃ坊主」の顔が前面にでていたが,今夜の顔は立派な大人の顔だった。話し方も落ち着いて,なかなかの貫祿である。やはり,苦労を乗り越えてきた人の貫祿である。

双葉山を尊敬し,目標としている白鵬の今場所の相撲もまたみごとであった。かれの下半身の粘り強さは双葉山のそれと似ている。そして,心なしか体型も細身で,しかも,柔らかい体質もよく似ている。白鵬が,決定戦で負けた悔しさをバネにして,さらに強くなっていくことを期待したい。タイプのまったく違う両横綱のつばぜり合いこそ,多くの相撲ファンの望むところだ。

来場所も大いに土俵を沸かせてほしい。楽しみである。

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2009-09-28 横綱審議委員に外国人の登用を。

_ 横綱審議委員会の委員に外国人委員を加えることを提案したい。外国人委員の人数は,幕内力士に占める外国人力士の人数に比例させる。

今日の朝日新聞の大相撲がどのように報じられるか楽しみだった。なぜなら,またまたピンぼけの記事がでるのではないか,という期待があったからだ。その期待どおり,「朝青がむしゃらV」「また土俵でガッツポーズ」という見出しが躍り,にんまりと笑ってしまった。朝日の相撲担当記者は,昨日の優勝決定戦の朝青龍の相撲を「がむしゃら」と受け止めたのだ。これこそド素人の相撲の見方でしかない。がむしゃらどころか,まことに理詰めの,朝青龍が勝つとしたらあのパターンしかない,という完璧な「頭脳相撲」だったことがどうしてわからないのだろうか。少しでもいいから,相撲がわかる人に意見を聞いてみればいいのに・・・。もし,「がむしゃら」に映ったとしたら,朝青龍の鬼気迫る「気迫」と「集中力」の合わせワザの表出が,ト素人にはそうみえただけの話。しかも,この差が,いまの白鵬との違いを如実に表してもいるのだ。本割と決定戦の相撲のもつ意味の違いを知るべしである。

つぎは「また土俵でガッツポーズ」と報じたこと。おまけに,28日に開かれる横綱審議委員会で「再び批判がでる可能性もある」と書き加えている。はたして,その結果はどうだったのか。明日の新聞が楽しみ。

それはそうとして,横綱審議委員会の委員の構成メンバーはこれでいいのか,という問題について私見を述べておきたい。結論は,冒頭に述べたとおり。理由は,三つある。一つは,今場所の幕内力士は,全部で38人。そのうち平幕が31人,小結以上の役力士が11人。さらに,その内訳をみると,三役以上の力士のうち5人,平幕力士のうち10人が外国籍の力士である。大関以上でいえば,7人中4人が外国人力士である。しかも,両横綱は2人とも外国人力士だ。この現実を日本相撲協会の理事長をはじめ各理事はどのように受け止めているのだろうか。そして,ついでに横綱審議委員会の委員にも聞いてみたい。しかも,当分の間は日本人から横綱が生まれるとは考えられない。いまや外国人力士なしには大相撲は成り立たないところにきているのだ。二つめは,以上のように,もはや,大相撲は「国技」ではないこと。いまや,立派に「国際化」をはたし,そのお蔭で興行が成り立っている。これからますます外国人力士は増え続けるだろう,とわたしはみている。三つ目は,裁判員制度を見習って,外国人の良識を取り込む必要があること。そうして,これまでとは違った,「国際化」した大相撲の新しい時代を切り開くための制度改革に着手すべきではないか,とわたしは考える。なぜなら,ひところ,あれほど注目を集めた「ハワイ出身力士」が,その後,パタリといなくなってしまったという事実の背景をよく考えてみるといい。武蔵丸も曙も,相撲界に残ることはできないまま,排除されてしまった,その理由がどこにあったのか。ハワイの人たちはみんな知っているから,もはや,だれも力士になろうとは考えない。最初に道を開いた高見山に憧れて日本にやってきた武蔵丸と曙だったではないか。なのに・・・・。

もっともっと理由を挙げていってもいいが,もはや,これで充分であろう。わたしは大まじめで,横綱審議委員会に外国人委員の導入を提案したい。いまの委員さんたちは,この話を聞いたら眼をまわしてひっくり返ってしまうかも・・・。まだ,「横綱としての品格に欠ける」というのなら,「気迫」も「集中力」も欠いたまま土俵に上がる日本人力士の,気の抜けたマナーのどこに「品格」があるというのか,委員諸氏にお尋ねしたい。

歴史に残る大勝負を制して,その抑えがたい感情の爆発をそのまま表出したにすぎない「ガッツポーズ」が許されない大相撲に,いまの子どもたちはなんの関心も示さないだろうに・・・。そういうことが遠因となって,才能のある力士志望者が激減している,ということにも気づかないなんて・・・。「国際化」した大相撲に「ガッツポーズ」OK,という時代が,もう,すぐそこにきているというのに・・・。

今回の朝青龍の「ガッツポーズ」はまことに美しいものだった。わたしは感動した。多くの相撲ファンも同感だったはず。あの爽やかな笑顔は,何回みてもいいし,金にもなる。しかも,生涯にわたって記憶に残るものだった。わたしは死ぬまで忘れはしない。そして,思い出すたびに,朝青龍というすばらしい大横綱がいたことに大きな喜びを感ずることだろう。

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2009-09-29 大江健三郎さん,大丈夫かなぁ。

_ 22日のブログで「加藤周一亡きあとの日本の知性」という雑感を書いた。その後半のところで,大江健三郎さんの「定義集」(朝日新聞・文化蘭)を取り上げた。

その趣旨は,山口昌男さんの近著『学問の春,<知と遊び>の10講義』(平凡社新書)から「文化は危機に直面する技術である」という「定義」を取り上げたエッセイであるにもかかわらず,その内容についてはなにも解説しないで,この定義とはまったく関係のない文章で埋められているが,いったい,どうしてしまったのだろう,というものだ。その後,ある編集者とこの話をしたら,「大江さん,もう,だいぶ前からちょっとオカシイんですよね」ということばが返ってきて,逆にわたしの方が驚いてしまったことがある。そうなんだ,すでに周知のことなんだ,と。

ところがである。この朝日新聞の「定義集」に書いた「文化は危機に直面する技術である」というエッセイは,もっともっと基本的なところで,とんでもないミスを大江さんが犯していることがわかった。

大江さんは山口昌男さんの『学問の春』を通読することなく(読んだとしても,たぶん,拾い読み程度で)あのエッセイを書いたに違いない,という確証がみつかり,わたしの方が驚いてしまった。「文化は危機に直面する技術である」という定義は,山口昌男さんのオリジナルではなくて,ウンベルト・エーコのことばである,と山口さん自身が『学問の春』のなかで明言しているのだ。同書の175ページに以下のような記述がでてくる。

「(ある国際会議の場で)ウンベルト・エーコが発言して,こういうことを言った。文化の創造性というのは元々,危機を排除するのではなく危機に直面する技術であると。」

つまり,ウンベルト・エーコの発言を山口さんが紹介したもの,それが「文化は危機に直面する技術である」というものだったのだ。このことにはひとことも触れないまま,山口昌男さんのアイディアとして紹介してしまったのだ。こういう,引用のきわめて初歩的でミス,しかも,致命的な,さらには,もっとも基本的なミスを朝日新聞という大きなメディアをとおして犯してしまったのだ。

のみならず,朝日新聞もまた「校閲」という手順を手抜きしてしまったのだ。もちろん,ノーベル文学賞を受賞するような作家に全面的な信をおいていることは,よくわかる。読者だって,その前提で読んでいる。だからこそ,このミスはただごとでは済まされまい。いったい,どのようにして釈明をするのだろうか。大江さんも,朝日新聞社も。

あのコラムの前半,いや,大半は大江さんの個人的な「経験」を語っている内容なので「校閲」のしようもないし,たとえ,大江さんの記憶違いであっても,さして問題にはならない。しかし,山口昌男さんが,この本のなかで,こういうことを言っているとして,そのキー・ワードを抜き出した部分に間違いがあったとなると,ことは単純ではない。

この本をまとめられた石塚さんご夫妻は,このコラムをどのように読まれたのだろうか。お二人とも人格者だから,にんまり笑って,見過ごしていらっしゃるのだろう,と勝手にわたしは想像しているのだが・・・・。

「大江さん,大丈夫かなぁ・・・」とわたしは,いつまでも独り言をつぶやきながら,なんともはや暗い気分に沈んでいく。わたし自身もまた,同じミスを犯すのではないか,という不安に襲われつつ・・・。加齢とともにその可能性は高くなる。だから,ことのほか,みずからへの戒めとして,このことの「危機」を肝に銘ずるべし,と言い聞かせるしかない。この「技術」もまた「文化」の創造性には不可欠のものだ,と。

以上は,かつての熱烈な大江ファンからの,失意の告発である。まことに残念なことではあるが・・・・。

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